#220 Madman Across the Water

エルトン・ジョンが71年に発表したアルバム「Madman Across the Water」は、
後年になって「Tiny Dancer」が評価されるようになり、それが収録された作品として
再び注目を浴びるようになっていきましたが、それまでは比較的印象の薄い作品でした。
全米最高位8位、翌年にはゴールドディスクを獲得するなど決してヒットしなかったという訳では
ないのですが、やはりヒットシングルが無いと人々の印象に残らないようです。
翌年にリリースされる「ホンキー・シャトー」以降の、No.1ヒットを連発するような
快進撃の直前であり、人々の記憶としてはそれらの間に埋没してしまったのでしょう。

米ではセールス的に満足のいくものでありましたが、本国イギリスにおける評価は最高位41位と
それまでの作品と比べると散々なものでした。
エルトンの音楽が英国人気質に合わないなどということは絶対にありえない事なので、
やはりアメリカでの高セールスは、派手なパフォーマンスが大いに要因としてありそうです。
上はA-③「Razor Face」とA-④タイトルトラック。

本作でディー・マレイ(b)とナイジェル・オルソン(ds)は演奏においては一曲しか参加していません。
これはプロデューサーであるガス・ダッジョンが、この時点ではまだ二人の力量に不安を
感じており、レコーディング陣はスタジオミュージシャンを中心に構成されています。
あのライヴアルバムにおける鉄壁の演奏を聴けば、そんな心配は無用だったと思うのですが・・・
ちなみに本作からイギリスが誇る名パーカッショニスト レイ・クーパーが参加しています。
その後におけるエルトンの名盤群にて数多の名演奏を残すことは周知の事実です。
上二つの動画はB-①「Indian Sunset」B-②「Holiday Inn」のスタジオライブにおける模様。
BBCのプログラムにおけるものらしく、71年とありますが実際は72年4月のようです。
「Holiday Inn」を聴いていると、以前にも書きましたがカントリー&ウェスタンとブリティッシュ
トラッドフォークなどは根っこが同じものなのだとあらためて思わされます。

本作に収録されている9曲は既に書かれ、また演奏もされていたものだそうで、これはつまり
ブレイク後におけるエルトンとバーニーが時間的余裕の無さからストックに頼るしかなかったという事。
もっとも両名とも、それぞれ作曲家・作詞家のオーディション時には、山ほどの譜面・原稿を
携えて音楽出版社を訪れたというますから、そのストックは膨大なものだったのでしょう・・・
ちなみに ” Madman Across the Water ” とは、バーニーが17歳の時に人々が時の大統領
リチャード・ニクソンを指して言っていた言葉だそうです。狂人が海or河を渡る、とは
どの様な意になるのか?・・・・・
B-③「
Rotten Peaches」はカントリー&ゴスペルといった感じでしょうか。B-④
「All the Nasties」はもっとゴスペルチックなナンバー。エルトンのアメリカンミュージックへの
傾倒ぶりがうかがえます。
トライデントスタジオにおける録音は本作にて一旦区切りがなされ、次作である
「ホンキー・シャトー」からはかの有名なフランスの古城を改装したスタジオで数多の名作が
産み出されることとなるのですが、その辺りはまた次回以降にて。

#219 Levon

以前に言った事と後年になってからのそれが食い違うというのはままあることです。
都合が変わって(悪くなって)以前のそれとは異なる事実や事情を語る、または記憶が薄れてその当時と
整合性が取れない事を言ってしまう、あるいはその当時において錯誤があった場合などもあるでしょう。
いったい何が本当なのか?というよりも真実は必ずしも一つだけなのか?
マンガの主人公によるキメ台詞のように世の中はいかないものなのでは?

エルトン・ジョン4作目のスタジオアルバム「Madman Across the Water」(71年)からの
1stシングルである「Levon」はアルバムと同月の11月にリリースされます。
当時のチャートアクションは全米24位と「Your Song」には及ばないものの、
まずまずのスマッシュヒットといったものでした。
ちなみにウィキではゴールドディスクとありますが、RIAAで認定されたのは
18年4月の事なので比較的最近の事です。#216の「Tiny Dancer」回でも触れましたが、
これは「Tiny Dancer」がトリプルプラチナに認定されたのと同月です。
おそらく映画「ロケットマン」の影響かと思われますが(公開は翌19年5月)、
映画製作の発表がこの頃で、エルトン人気が再燃したのかな?と・・・・・

「Tiny Dancer」同様にポール・バックマスターのストリングスアレンジが見事である本曲は、
” Levon ” という架空の人物を含めた親子三代について書かれた物語です。
ですが、歌詞の考察は別の方達がされているのでここでは特に触れません。
「Tiny Dancer」と同様に静かな導入部から、徐々に壮大さを増していく構成は
ぐうの音も出ないほどに素晴らしく、アレンジ・演奏も秀逸ですがエルトンの歌が
本当にシビれるくらいに見事です。特に最後(三回目)のサビ(以下の部分)における歌唱は絶品。
And he shall be Levon

And he shall be a good man
And he shall be Levon
In tradition with the family plan
And he shall be Levon
And he shall be a good man
He shall be Levon
” And he shall be a good man ” の節における” a good man ” が二回目より三回目の
方がほんのちょっとですけれども荒々しくなっているように聴こえるのがミソ。
” 彼(Levon)は立派な人間になるんだ・いい人間になるのだ ” の部分にこんな力を込めて
歌うのは、勿論 ” 彼がそうなった・そうなって欲しい ” などという、字面通りの表現でない事は
言うまでもないでしょう …………………

” Levon ” という名前はアメリカのロックバンドであるザ・バンドのドラマー リヴォン・ヘルム
(Levon Helm)から取ったと、以前は言われていたそうです。実際にザ・バンドはエルトンと
作詞家 バーニー・トーピンのお気に入りであったらしく、長い間そう思われてきました。
余談ですが、ザ・バンドを好む辺りからエルトンのカントリーミュージック志向が伺えます。
ところが、13年になって歌詞を書いた当人であるバーニーが ” リヴォン・ヘルムとは関係ない ” と
語ったとか・・・・・?(´ヘ`;)
タイトルはリヴォン・ヘルムから取ったとの言はプロデューサー ガス・ダッジョンによるもの
らしいので、ダッジョンの勘違いという可能性もないではありませんが、この時期にエルトンや
バーニーと密接に関わっていた事などから考えると、何らかの根拠はあったのでは?と考えます。
人間の記憶は曖昧なので、40年近い年月を経てバーニーのそれがあやふやになってしまった、
なにか別の事柄と記憶がすり替わってしまった、たしかにリヴォン・ヘルムの事が頭になかった訳ではなく、
当時ダッジョンにそれとなく話したことは話したが、実は” Levon ” に込められたものには
もっと別に大きな意味があった等々、
推測するときりがありません …………………

一年も経っていない事柄でさえ、あの時自分は何を考えてあのような言動を取ったのだろう?
なんてことはざらにあります ………………… えっ!ワタシだけ?!(*゚▽゚)・・・・・

真実はいつもひとつ!… とは限らないのです☆(*•ω•*)☆…… オマエのはただのボケだからな (´∀` ) 

#218 Tiny Dancer_4

エルトン・ジョン「Tiny Dancer」に関するその4。今回で最後です。
緊張と痴漢 … もとい、緊張と弛緩が本曲における重要なファクターであることは前回述べました。
(失礼 (*•ω•*) … 予測変換で上に来たものでつい・・・・・・・ 前回最後のくだらねぇ話は
このネタの為の伏線か? つうかそれが一番上に来るってオマエ普段PCでナニやってんの ……  (´∀` ) )

甘美であることこの上ないAメロから、転調によって一転してテンション感が高まるBメロ。
そしてそれが解放され
クライマックスであるサビへと流れていきます。
特にBメロからサビへつながる ” When I say softly, slowly ” の部分は永いこと本曲を
聴いてはいますがいまだに鳥肌が立ちます。

前回ストリングスは本曲の肝ではない、の様な旨を書きましたが、やはりそれが素晴らしい効果を
あげていることに間違いはありません

2番のAメロ・Bメロでは、1番にはなかったストリングスによってまた異なる彩を添えています。
ちなみにエルトンの歌は1番と2番で
ほとんど変わりはなく、この繰り返しをアレンジの変化によって
活きたものへと昇華せしめることに成功しています。
繰り返しといえば、スローテンポであるこの曲は ” AABCABC ” という構成によって
6分12秒という長尺です。

オープニング曲に据えたことからして当然エルトン達も本曲の出来に自信があってそうしたのでしょうが、
シングルはラジオでかかりやすい
3分程度のものを、まだまだそういったご時世においてシングル曲としては
不向きだったのでしょう。発売時の不振はそういった事情もあったのかもしれません。

演奏もこれまた見事です。特にギターは3本で録音されており、エレキ・スティールギター・アコギが
それぞれ素晴らし効果をあげています。エレキは初期からエルトンに携わっていたカレブ・クエイ。
フェンダー ストラトキャスターによるものと思われるその音色は透明感を醸し出し、
B. J. コールの(おそらくは)ペダルスティールがレイドバックフィーリングを与えています。
ちなみにベースとドラムはディー・マレーとナイジェル・オルソンではなく、彼らは本曲においては
コーラスにて参加しています。

下の動画は70年における本曲のリハーサルの模様と銘打たれていますが、本曲の制作背景からすると
70年中にこの様なリハーサルが行われたとは考えられず、ましてや本曲のモデルとなったマキシン・
フェイベルマン(映っている女性がマキシン)が同席しているという事は、おそらくは少なくとも
71年以降に、本曲が出来上がった過程を語ったドキュメンタリー的なTVプログラムの一部分だと
思われます。映像・音質も良好ですからね、もし当時のホームビデオ(8mm)などでは
もっと質の悪いものでしょう。

「Tiny Dancer」という曲は、楽曲そのものが稀にみるほどの傑作であり、さらに完璧な歌と演奏、
そしてこの上ないアレンジがなされた、ポップミュージック全体においても奇跡的な完成度を
誇るものであり、であるからして発売時には不振に終わったものの、永い時をかけて人々を
魅了していったのです。良いものが必ずしも世間に認められるとは限りません。残念ながら、
素晴らしいものであるのにも関わらず、不遇に終わってしまった作者や作品もジャンルを問わず
いっぱいあります(その逆もあるんですけれどね、なんでこんなに売れるんだろう?ってのが … )。
18年に英ガーディアン紙がエルトン・ジョン名曲ランキングという企画でそれらを選出しました。
このような企画は多々ありますが、私はほとんど取るに足らないものと思っています。
しかし本ランキングは的を得ているな、と頷けるものでした。「ユアソング」や
「キャンドル・イン・ザ・ウインド」が一・二位になりそうな気がしますが(別にこの曲たちも
素晴らしい曲ですよ)、ランキングの1位は「Tiny Dancer」でした。ちなみに2位が
「ロケットマン」で「ユアソング」は4位、「キャンドル・イン・ザ・ウインド」は11位です。
一般投票で選出されたものではなく、同紙が独自に選んだものですから、あくまで(おそらく数人の)
主観と言ってしまえばそれまでですが、マスコミの中でもやはり的確な耳を持った識者はいるようです。

以上四回にわたって「Tiny Dancer」について書きました。この様な駄文ながら、ほんのわずかでも
本曲の魅力を伝えられたならば幸いです。
もしも無人島へ行かなければならない事となったなら。先ず第一には水と食料、暖を取ったりする為の
油や薪、衣類、そして外敵から身を守る防具などが絶対に必要なものです。しかしながら、
人はパンのみにて生くるものに非ずという言葉もあります。衣食住が満たされたら次は生活に潤いを
求めるのが人というものです。その際に、音楽が好きであったならばこの曲は、
無人島へ持って行く曲として間違いなく十二分に価値のあるものです。ぜひ聴いてください。
あっ、でもレコードやCDならプレイヤーが、MP3とかの配信データなら携帯プレイヤーも
必要になりますよね (*•ω•*) ・・・・・・・いい加減にせい!君とはやっとれんわ  (´∀` ) ……

#217 Tiny Dancer_3

緊張と弛緩。スポーツ・トレーニングの分野ではフィジカル面及びメンタル面のいずれにおいても
重要な概念であるそうですが、これらは創作物においても非常に大事な要素と言えます。
ただただ幸せなだけのラブストーリーなどは ( `д´) ケッ!とムカツクだけですし、
終始のべつまくなくお化けやチェーンソーを持った殺人鬼が襲い掛かってくるホラーサスペンスなどでは
恐怖も半減してしまいます。恋愛ものは困難を乗り越えた末に結ばれるからこそヨカッタヨカッタ ( ;∀;) となる訳ですし、背後に気配を感じて振り返るとそこに恐怖の対象はおらず、気のせいか?ε-(´∀`*) ホッ、と胸を撫で下ろして前を向くとそこに異形の者が立っていた … ギャ────∑(゚Д゚; )────ァァッ!!
という方が怖さも倍増するのです。

平たく言えば ” メリハリ ” ということになるのですが、音楽にもこれは当てはまります。
ソロプレイヤーのアドリブなどでは特に顕著であり、最初から最後までひたすら速く弾きまくるような
プレイは、スゴイな~とは思いますが、音楽的に優れているか、人の心に訴えかけるものがあるかと
いうと ” ??? ” です。やはり優れたアドリブプレイヤーは緩急の付け方が見事であり、
音数の多いプレイを続けた次の展開で、ギターで言えば ” キュイーン ” とチョーキング一発で
それまでのテンション感を開放する。ベタではありますがこれが人の心を揺さぶるのです。
これは勿論演奏面だけではなく、楽曲の構成においても同じことが言えます。

エルトン・ジョンの楽曲「Tiny Dancer」において、” 緊張・ハリ ” の部分が所謂Bメロ、
上の動画で言えば2:13からの ” But oh how it feels so real ” から始まるパートで
あることは衆目の一致するところであり、突然転調する本部分がテンション感を与えています。
いきなりBメロの話から始まってしまいましたが本曲の構成は、
①ピアノと歌のみのAメロ
②繰り返しのAメロ(リズムセクション入る、厳密には①の終わり頃から)(1:14~)
③先述したBメロ(2:13~)
④ ” Hold me closer tiny dancer ~ ” のサビ(2:33~)
が1番で、2番は基本的に②③④になります。
エルトンの歌とピアノは言うまでもないことですが、演奏陣・コーラスそしてストリングスと、
本曲は素晴らしい要素ばかりがこれでもかと詰め込まれ、それでいてそれぞれが干渉して互いを
スポイルするような事が全くないという、ポップミュージックにおいて稀有な出来上がりと
なっている楽曲です。このような曲、私は他に思いつくのはたった数曲です。
その中でも特に際立った効果をあげているのがストリングス。2:46辺りから入るそれは、
勿論ポール・バックマスターによるもの。
本ストリングスアレンジがこの名曲を更なる高みへと押し上げていることは言うまでもありません。
しかしながら、それでもあえて書きますが、ではこのオーケストラが無ければ本曲は本曲足り得ないのか?
というと必ずしもそうではありません。
先ずは次の動画をご覧(お聴き)ください。

https://youtu.be/–A-8qUQZXw
80年、セントラルパークにおけるコンサートでの演奏。ギター2本にベース・ドラムという編成ですが、
まぎれもなく「Tiny Dancer」です
(当たり前だ … )。原曲を知っている故に、ストリングスなどを
脳内で補完してしまう、というのもあるかとは思いますが、
スタジオ盤とアレンジが違えども、
全くもって紛う方なき、異論の無いほどに「Tiny Dancer」なのです。前回あげた ” Old Grey
Whistle Test ”
におけるエルトンのソロ演奏についても同じ事が言えます。
これはつまり、本曲はそれだけで完成しているという事。演奏はオーケストラ共々素晴らしいことに
間違いないのですが、やはりそれらは副次的なものであり、曲そのものが究極的に
完成され尽くしているのです。例えれば、何の化粧をしなくともすっぴんで十分に美しい女の子の様に。
勿論メイクをしても
さらに美しさに磨きがかかります。でも、たまにいますよね、すごい美人だな~と
思っていたら、メイクを落とすと ” アレッ? ” っていう女性 … 
そうではなく素材が完璧なのです
(謝れ!全国の女性に謝れ!! (゚Д゚#) !!・・・全国の女性がそうなのか??? (´∀` ) … )。

それにしてもこのセントラルパークのライヴにおけるエルトンの歌は素晴らしい。序盤でわかる通り、
決して喉の調子が良い様子では
ないのですが、曲が始まればそれがどうした!!
男性的な(性的嗜好は別ですよ・・・余計な事を ……… )ヴォーカルと、サビでのファルセットも
見事に出ています。シンガーとしてのエルトンの醍醐味が味わえるものです。

三回で収めようと思っていましたがムリみたいです・・・ですので次回、パート4へ。

余談ですが私 … 弛緩を永らく ” ちかん ” と読んでいました。本来は ” しかん ” なのだそうですが、
誤読が一般化して現在は ” ちかん ” でも可、
と辞書にはあります・・・
ちなみに ” おまわりさん!このヒトです!! ” というのは痴 ……… いい加減にしろ!ヘ(。。ヘ)☆ヽ(゚Д゚#) …

#216 Tiny Dancer_2

エルトン・ジョンが71年に発表したアルバムが「Madman Across the Water」。
「Tiny Dancer」は本作のオープニングナンバーとして収録されています。
前回でも少し触れましたが、本作からの第二弾シングルとしてリリースされます。
しかし当時のチャートアクションは全米41位と、お世辞にもヒットと呼べるものでは
ありませんでした。
しかし現在ウィキペディアを見ると、RIAA(全米レコード協会)で3×プラチナに認定、
つまり300万枚以上売れていることになります。これ如何に?
上は本曲のオフィシャルPV。スマートフォンを持っている人物が登場しているあたりから
わかる通り、だいぶ後年、というか最近になって作られたものでしょう。
個人的にはお世辞にも出来の良い映像とは思いません……… あっ、余計な事を!Σ(•̀ω•́ノ)ノ

結論から言ってしまうと、発売当初はさほど話題にならなかったにも関わらず、時間を経るにつれて
評価され売れ続けてきたという事です。
RIAAのサイトにて本曲の認定履歴を検索すると(みなさんはこんなことをしてるヒマが
ありますか?!(*´∀` ) … )、ゴールド(50万枚)が05年5月、プラチナ(100万枚)が11年8月、
そしてトリプルプラチナが18年4月となっています。
ちなみに本国イギリスでは60万枚のプラチナ、オーストラリアでも50万弱のセールスを
記録しています。

基本的には本曲が持つ魅力・素晴らしさが世に浸透していった結果だと私は思っていますが、
世間的には本曲が巷に知られるきっかけとなったのがある一本の映画によってとされています。
00年に公開された「あの頃ペニー・レインと」。生粋の映画オンチである私もその名前くらいは
聞いたことがあります。その邦題からロックミュージックに何かしらの関係がある
ストーリーなのだろうという想像もできます(もっとも原題は違いますが … )。
上は本曲が効果的に使われる部分。険悪な雰囲気に陥ったツアー中のバンドが、
本曲によってまた一体となる、という場面だそうです。

本曲は所謂 ” 詞先 ” と呼ばれる歌詞が先に出来上がり、曲は後から書かれたもの。
もっともエルトン&バーニーに関してはほとんどが詞先だったらしいです。
70年夏に渡米し、西海岸のツアーでブレイクする直前の頃を思いバーニーが書いたと
言われています。
有名な話ですが、歌詞に出てくる ” L.A. レディー ” とは後にバーニーの妻となる女性である
マキシン・フェイベルマンの事。L.A. に着き、新天地で見たもの・感じた事が歌詞中に
ちりばめられています。” seamstress for the band(バンドの衣装係)” という歌詞が
出てきますが、これももろに彼女を指しています。エルトンの衣装をコーディネートしたり、
お針子さんとして衣装に細工をしたりしていた現地の女性だったのです。
ちいさなダンサーとは歌詞中に出てくる砂の上で踊るバレリーナの事であり、
それもマキシンを表しているのは言わずもがなです。
要はこの歌詞、バーニーの ” のろけ ” であり、出会った頃を回想して創ったものです。
ですから本歌詞には社会へのメッセージ性であるとか、非常に高度で難解な宗教観であるとか、
そういうものは一切含まれていません。非常に単純なラブソングなのです。
私はポップミュージックにおいて、歌詞に重きは置かないのですが(作詞家には失礼ですが … )
本曲はこの歌詞で全く良いと思っています。名曲の歌詞に必ずしも深い意味が潜在していなければ
ならないなどということは決してありません。
以前にも書きましたがバーニーは感覚で書く人であり、意味はあまり無いことが多いらしいです。
「Take Me to the Pilot」などがその最たるものであることは既述です(#210ご参照)。

Blue jean babyブルー・ジーン・ベイビー)
L.A. lady(LAのお嬢さん)
seamstress for the band(バンドの衣装係)
Pretty eyed(可愛い目をした)
pirate smile(いたずらっぽい笑顔)

ただ単に言葉の羅列ですが、美しくかつ心地よい響きです。音韻学などの見地から研究すれば
ひょっとして何か人間の耳にとって、良い響きとして聴こえる秘密があるのかもしれません。
エルトンはバーニーから歌詞を受け取ってすぐに曲を付けたと言われています。
出来上がった
曲を聴いたバーニーは、これほどまでに自分のイメージ通りの曲を
付けられるものなのかと
驚嘆し、あらためてエルトンの才能に感服したそうです。
もちろんそれは一緒に過ごした 
L.A. 時代、そしてバーニーとマキシンをよく知る
エルトンだからこそだったのでしょうが。
上の動画はBBCのTV番組である ” Old Grey Whistle Test ” でのもの。
前にも書いた記憶があるのですが、それが第何回だったか忘れちゃったのでもう一回書きます
(200回以上書いているから仕方ないですよね (*•ω•*)・・・・・・・・・・・
・・・・・ホント、誰も読んでないのに200回以上も・・・・・。 ゚(゚´Д`゚)゚。)
英音楽出版界のオフィスがひしめく界隈にあるホテルで働くベルボーイやドアマンといった、
言い方は悪いがお世辞にも音楽的素養があるとは言えない彼らに、ソングライターは
出来上がった曲を聴かせ、彼らが一度聴いただけでそれを口ずさめる事が出来たらその曲は
売れる、とされていたそうです。つまりそういう人たちでも覚えやすいフレーズ、
キャッチーなメロディであるかどうかが判定できるテストだという訳です。
ちなみに今日のホテルマンは若い人もいっぱいいると思うのですが、この頃のイギリスでは
みな白髪まじりの年寄ばっかりだったのでしょうか?・・・・・

マキシンは出来上がったばかりの本曲をトライデントスタジオにて、傍らにエルトンそして
バーニーというシチュエーションで聴き、鳥肌が立ったと回顧しています。
名曲が誕生した瞬間に立ち会うことが出来た、非常に幸福な女性です。
70年の夏にL.A. にて出会い、翌年、つまり本曲が誕生した71年にバーニーとマキシンは
結婚する訳ですが、二人の邂逅から結ばれるまでを見事に切り取った歌詞が、
この様な稀代の名曲に乗せられるというのは、ある意味世界中で最も恵まれた女性の一人で
あったのかもしれません。
もっともその五年後の76年に二人は離婚するんですけどね …………( ̄▽ ̄;)・・・

#215 Tiny Dancer

” もし​無人島に本を一冊持っていくなら? ” という問いかけがあります。
” ​いや、ふつうそこは水と食料だろ! ” とは言わずに。あくまで読書好きに
今まで最も感銘を受けた一冊は?というたとえであることは言わずもがなです。
これを音楽に置き換えて、” ​無人島にシングル盤を一枚持っていくなら? ”と
問われた場合、私には悩む二枚があります。
一枚はビーチボーイズ「God Only Knows」。言わずと知れた稀代の名曲です。
これと甲乙付け難い程に、私のなかでポップミュージックにおいて燦然と輝く楽曲があります。
その一曲こそが今回のテーマです。
もっとも私なら水と食料を持って行きますがね、当然ですよね? (´・ω・`)
・・・・・・・・・・・・・だからそういう意味じゃねえって … (´∀` ) 

エルトン・ジョンを語るうえで欠かせない人物としてプロデューサー ガス・ダッジョンの名は
既述ですが、正確にはダッジョンと共にもう一人の名を挙げなければ言葉足らずになります。
ポール・バックマスター。チェロ奏者であり、アレンジャー・指揮者としても超一流の彼は、
ダッジョンと共に2ndアルバムから参加。それ以前にデヴィッド・ボウイの
「スペイス・オディティ」に参加し、その名を知られる所となったのもダッジョンと同様です。
エルトンの初期作品における一連の素晴らしいストリングスアレンジは彼の功績です。
前回取り上げた「フレンズ」のインストゥルメンタルパートは彼による部分が大きく、
実質エルトンとバックマスターの共作、と言っても過言ではない程です。
エルトンの作品でますます世に知られることとなり、エルトン曰く他のミュージシャンに
” つまみ取られるようになった ” と語っています。そのインタビューとはローリングストーンズ誌に
おけるもので、” 彼はその功績ほど評価されていない、彼によってポップミュージックでも
ストリングスが感傷的になることもなく、恐ろしくなることもなく使えるという事が証明された ”
という旨を述べています。” 恐ろしくなる ” というのがどういう意味・ニュアンスを指すのか、
原文に当たってみないといまいちわかりかねますが。
(もっとも原文読んでもわかんねえか! (´∀` ) …)
ちなみにジョン・レノンのアルバム「イマジン」における「How Do You Sleep」のアレンジも
バックマスターによるものとの事。

エルトン・ジョン4作目のオリジナルアルバムとなる「Madman Across the Water」は
71年11月にリリースされました。本作の録音時期は同年2月と8月に分かれており、
本作からの第一弾シングルである「Levon」は2月の録音、そして第二弾となる
「Tiny Dancer」が8月のものです。

前置きが長くなりました。私が無人島に持っていきたいシングル、つまり人生で最も感銘を受けた
楽曲、それがビーチボーイズ「God Only Knows」と、今回から取り上げるテーマである
エルトン・ジョン「Tiny Dancer」に他ならないのです。
前置きだけで随分書いてしまいましたので本曲については次回以降から、という事で。

あっ、(´・ω・`) でも私ならやっぱり水としょ… >>>>>シツコイ!ヽ( ・∀・)ノ┌┛Σ(ノ;`Д´)ノ

#214 Friends

エルトン・ジョンの成功への軌跡は時系列がややこしいです。これまで何回かに渡って
書いてきましたが、アルバム「Elton John」以降の流れをここで一度整理してみます。
・70年 4月 2ndアルバム「Elton John」リリース(3rdも本作発売前には録り終えている)
・70年 8月 米プロモーションツアーにおけるL.A. 公演で注目を浴びる
・70年 9月 サウンドトラック「Friends」をレコーディング
・70年10月 3rdアルバム「Tumbleweed Connection」リリース
・70年10月 米ツアーの好評を受け「Your Song」をシングルカット
・70年11月 N.Y. でライヴアルバム「17-11-70」を収録
・71年 1月 前年末からチャートを駆け上がってきた「Your Song」が米8位/英7位の最高位に
だいたいこの様な流れですが、さて問題です。この中で今まで触れていない事柄が一つあります。
それはどれでしょう?正解した方には「時間の無駄」というものが与えられますよ (´・ω・`)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・だったらやらせんな (´∀` ) ……

エルトン・ジョンの三作目となるオリジナルアルバムは映画「フレンズ~ポールとミシェル」の
サウンドトラックとして制作されました。
多忙の中をぬって創られた本作は、作詞家 バーニー・トーピンは映画の脚本を斜め読みしただけで
歌詞を書かされ、また録音環境も悪かったらしく、当のエルトンは本作を気に入っていないとの事。
本作が彼の70年代におけるその他名盤群と同列に並ぶクオリティーだとは私も思いません。
しかし悪く言えば ” やっつけ仕事 ” となってしまった状況においてさえ、これだけの素晴らしい
楽曲を創れてしまうという事が、いかにこの時期の創作力が凄まじかったかを裏返して証明しているのです。
上はタイトルトラックである「Friends」。「Your Song」ほどではありませんでしたが、
全米34位のスマッシュヒットとなります。ちなみに英では全く売れなかったとか。

何回か書きましたけれども、私は筋金入りの映画オンチです。当然本映画も観ていません ( ・`ω・´)キリッ
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・威張るな …………… (´∀` )
「小さな恋のメロディ」続編の様な扱いをされていたらしいですが(勿論観た事はありません)、
内容は結構エグイものだったとか・・・
上はA-②「Honey Roll」とA-⑥「Can I Put You On」。後者は「17-11-70」にて
既に披露されていました。

サントラという性質上、インストゥルメンタルのパートが多くなっています。丸々インストの
曲あるいは歌のパートが通常より少ないものなど。上はそんな一曲A-④「Seasons」。

先述の通り、やっつけ仕事であったために本来は3rdアルバムに収録するつもりだった楽曲も
使用したそうです。また映画にそぐわないからとボツになったトラックもあったり、
これも既述ですが録音時の悪条件などがあってエルトン自身は気に入っておらず、
廃盤となって以降単独CD化はされませんでした。90年代になってからアルバム未収録曲集に
ようやく本作の曲たちは収録され、久方ぶりに陽の目を見る事が出来たのです。

#213 17-11-70

世の中に定着したイメージが実態とかけ離れているというのはよくある事です。
「素顔のままで」「オネスティ」といった曲の印象が強すぎて、バラードシンガーという
イメージが拭えなかったビリー・ジョエルが、実際はR&Rをこよなく好み、その歌詞も
恋愛ものより厭世観や物語的世界を紡いでいた、というのは以前に書きました。
ちなみに「オネスティ」が本国アメリカではそれほど知られておらず、日本や一部のヨーロッパで
のみ人気があるというのも既述です(#191ご参照)。

エルトン・ジョンも同様に「Your Song」「キャンドル・イン・ザ・ウインド」といった
楽曲の知名度が先行し過ぎて、メロディアスな曲ばかり創る、そして歌うミュージシャンであると
いった偏った印象があります。
もちろんそれらのバラードもエルトンの一面である事は否定しませんが、それはエルトンの音楽性の
中のほんの一部分に過ぎません。
#210にてエルトンの人気は、70年のアメリカツアーにおいて火が点いた事は述べましたが、
その雰囲気を存分に味わえるのが翌71年にリリースしたライヴアルバム「17-11-70」であり、
上はオープニング曲である「Bad Side of the Moon」。

本作はN.Y.のFM局のプログラム用に録音されたものなので、厳密には先に述べたコンサートツアーの
それではないのですが、聴衆を入れたスタジオライヴであり、その緊張感や熱気、また米ツアーの
好評とそれを受けてシングルカットされた「Your Song」がチャートを駆け上がっている最中であって、
上り調子であったエルトンのテンション感も相まって素晴らしいパフォーマンスとなっています。

それを支えているのがバックの面々。前からエルトンを語るうえで欠かせない人物たちがいるという事を
述べてきました。作詞家であるバーニー・トーピン、プロデューサー ガス・ダッジョン、
そしてエルトンバンドのメンバーたちです。特にディー・マレー(b)とナイジェル・オルソン(ds)は
エルトンの黄金期を支えた重要人物です。
本ライヴはエルトン、ディー、ナイジェルによるトリオ演奏です。トリオとは思えない、否、
トリオだからこそのプレイなのかもしれません。重厚かつテンション感に溢れた演奏は、
アメリカで火が点いたことも納得出来る素晴らしいパフォーマンスです。
上は言わずと知れたローリングストーンズの「Honky Tonk Women」。エルトンが筋金入りの
ロックンローラーであることを証明する一曲です。

余談ですが、#186にてビリー・ジョエルの「ニューヨーク物語(Turnstiles)」(76年)は当初
エルトンバンドのメンバーを迎えて録音されたが、ビリーがどうしてもそれに納得せず、
結局ビリーのバンドで録り直したという事に触れました。
音楽というのは不思議なもので、個々のミュージシャンは卓越していても、それで良いものが
仕上がるとは限りません。即興を主とするジャズなどは別ですが、ロックの様な音楽は巧い面子が
揃ったから良い、とはならないのです。
おそらくはディーやナイジェルの演奏の ” 鉄壁さ ” がビリーの望むそれとは違っていたのでしょう。
ビリーはもっと粗削りな音を欲していたのだと思います。
この様に幸福な袂の分かち方も時にはあるのです。
ちなみに本作のタイトルが録音日である70年11月17日に由来する事は言うまでもありません。

#212 Burn Down the Mission

エルトン・ジョンの成功に携わった人間として作詞家のバーニー・トーピンの名は既に挙げましたが、
プロデューサー ガス・ダッジョンも同様である事は言うまでもありません。

バーニーと同じく、その経歴まで言及するときりがないので、それは割愛します。
ググればデヴィッド・ボウイなどの仕事が出てくることでしょう。
上はB-③「Amoreena」。本曲にてディー・マレイ(b)及びナイジェル・オルソン(ds)が
初めて参加します。

3rdアルバム「Tumbleweed Connection(エルトン・ジョン3)」において、カントリー色が
強いことは既述ですが、それは時代背景もあったのだと考えられます。
エリック・クラプトンがアメリカに渡ってデラニー&ボニーのツアーに同行し、その後
デレク・アンド・ザ・ドミノスを結成したのも、ビートルズ解散後にジョージ・ハリスンが
「オール・シングス・マスト・パス」をリリースしたのもこの時期です。
エルトンがホテルのラウンジピアニストをしていた頃に、好んでカントリー&ウェスタンを演奏していた
という事は既述ですが、70年頃にイギリス勢ミュージシャンの内でカントリー志向があったのも事実です。
クラプトンはクリーム時代の激しいインタープレイに嫌気が差し、もっと歌心にあふれたサザンロック、
スワンプロックに傾倒していき(#10ご参照)、ジョージもビートルズとは違う音楽的方向性を
米南部の音楽に見出しました。
そもそもカントリーミュージックとは、はるか昔に米南部に住み着いたイギリスおよびアイルランド人に
よる音楽がルーツと言われており(この辺りは ” ヒルビリー ” で検索すると出てきます)、
そこにはブリティッシュないしアイリッシュトラッドフォークの血が流れているとも言えるのです。
ある意味、それは原点回帰と呼べるものではなかったのでしょうか。

本作にて、私がベストトラックだと思うのが上の「Burn Down the Mission」。
静かな導入部から、やがて劇的なパートへと移行していく楽曲構成は、その後におけるエルトンの
十八番と呼ぶべきスタイルとなりました。
エルトンの楽曲、バーニーの歌詞、ダッジョンのアレンジ、そして鉄壁な演奏。
これは73年の歴史的名盤「グッバイ・イエロー・ブリック・ロード」へとつながる系譜の萌芽です。

#211 Tumbleweed Connection

エルトン・ジョンの三枚目となるアルバム「Tumbleweed Connection」は70年10月30日に
リリースされました。時系列がややこしいのですが、アメリカツアーの成功を受けてシングルカット
された「Your Song」が10月26日です。その数週間後には英米共にヒットチャートの上位に昇ります。
前回述べた通り、米ツアーが8月から始まったのですから、いくら急いでもそれから創ったのでは
間に合いません。当然すでにレコーディングはなされていたものでした。ベーシックトラックの
多くは2ndと同時に録られており、つまりこれはエルトンのストックがどれだけ膨大にあったか、
という事を物語っています。上はオープニング曲である「Ballad of a Well-Known Gun」。

2ndアルバムの成功後、エルトンの内向的な性格に徐々に変化が見られるようになりました。
ステージにおいて特にそれが顕著であり、そのステージ衣装はどんどん派手になっていきました。
シルクハット、ベルベットのマント、星をちりばめたシルバーのロングブーツを身に着け、
パフォーマンスと言えば、ピアノの椅子をけ飛ばす、ジェリー・リー・ルイス張りに鍵盤の上で
逆立ち
など。過激なものになっていきました。
本国DJMレーベルのスタッフは送られてくるその様子に驚きましたが、ただ一人、宣伝部長だけは
エルトンの中に潜むエンターテイナーとしての素質を予見していたらしく、特に驚かなかったそうです。

エルトンは十代の頃にジェリー・リー・ルイスやリトル・リチャードといったロックンローラーに
憧れていました。ピアノを叩きつける様に弾きながらシャウトするスタイルは彼らへのリスペクトであり、
言わば当然のことだったのでしょう。

オープニングナンバーを聴けばわかる通り、本作はカントリー色が強いです。アメリカでの成功を受けて
米マーケットを意識した結果だとする向きがあるのですが、先述した通りアメリカツアーの前に
録られたものであるからして、それはちょっと考えにくいでしょう。
以前に書きましたが、ホテルのラウンジピアニストをしていた頃にもよくカントリー&ウェスタンを
演奏していたそうなので、エルトンの嗜好に基づくものだったのではないでしょうか。