#210 Take Me to the Pilot

1stアルバムがお世辞にも商業的成功を収めたとは言えなかったエルトン・ジョンですが、
DJMレーベルはエルトンの才能を買っており、米におけるプロモーションツアーが実行されます。
70年8月、その皮切りとなるL.A.でのライヴは、音楽関係者やプレス関係者がたくさん招待されました。
しかし実はエルトン、かなりの神経質かつ癇癪持ちで、そのプレッシャーから公演前には相当ナーバスに
なっていたそうです。
米における初ステージにおいて、最初の二曲を聴衆はあまり聴いておらず、業を煮やしたエルトンは
三曲目で、” 僕のステージが好きになれないなら、R&Rでもどうだろう?その方がお望みらしいから ”
とキレました。その怒りをぶつけた悪魔のような激しいプレイに、一転して聴衆は魅了されました。
あくる日の音楽誌面でその模様は絶賛され、海を隔てた大陸において、エルトンはスターダムへ
登りつめるきっかけをつかんだのです。

エルトンを語る上で、欠かせない人物が数名いますが、もちろんその一人は作詞家である
バーニー・トーピンです。
バーニーのプロフィールまで触れるとかなりの文章量になってしまうため割愛しますが、
英音楽誌に掲載された募集広告によって引き合わされた二人は、たちまち意気投合し、
やがて数々の名曲を創り出すソングライターチームとなります。
上は2ndアルバムにおいて、おそらく二番目によく知られる曲である「Take Me to the Pilot」。
ただし本曲の歌詞は和訳を読んでも意味がわかりません。というよりも、ネイティヴでさえ
理解不能だそうです。
バーニーはフィーリングで詩を書くタイプらしく、本曲はその典型だそうです。
歌詞はわかりませんが、私は本曲が2ndアルバムにおけるベストトラックではないかと思っています。
その後におけるエルトンの音楽性が萌芽した最初のナンバーではないでしょうか。

エルトンが本国では芽が出ずに、アメリカに渡ってから成功した。という事は以前から読んだことが
ありましたが、どのような詳細だったのかは今回調べてみて初めてわかりました。

余談ですが、まだ売れる前のエルトンがビーチボーイズのブライアン・ウィルソンに会いに行った。
という話も読んだことがあります。エルトンはブライアンを尊敬しており、アメリカに行った際は
ぜひとも会ってみたいと、かねてからの希望が叶ったのです。それがこの米公演の際だったのでしょう。
もっともこの頃のブライアンは麻薬とアルコール、そしてノイローゼによって最悪の状態で、
有名な話ですが、自室のピアノの下に砂場を作り、そこに一日中引きこもっていた時期です。
エルトンの歌と演奏を聴いたブライアンは ” 君はそのスタイルを貫くべきだよ ” の様な意の発言を
したと言われています。
天才同士、相通じるものがあったのでしょう。
それから30年後、二人は同じステージに立ちます。
01年に行われたブライアン・ウィルソン トリビュートコンサートにて、「Wouldn’t It Be Nice」を
デュエットしています。

#209 Your Song

昔の洋楽好きには結構有名な話しですけれども、エルトン・ジョンはひょっとしたら
キング・クリムゾンのヴォーカリストになっていたかもしれませんでした。
クリムゾンの2ndアルバム「ポセイドンのめざめ」において、当時まだ無名でセッションミュージシャンを
していたエルトンが歌う予定であったとか(契約金まで既にもらっていたらしい)。
ところがロバート・フリップはエルトンの歌を聴いて首を縦に振らず、その話しはお流れに・・・
クリムゾンは
#15~#17で書いていますのでよろしければ。
ちなみに「ポセイドンのめざめ」という邦題は誤訳から生まれたもので、原題 ” In The Wake Of Poseidon ” の Wake を目覚めと捉えてしまった為だそうです。この場合の Wake は後を追う事、
の様な意味だそうで、実際は ” ポセイドンの跡を追って ” という意になるそうです。
興味の無い人にはどうでもイイ話ですけどね・・・・・・・・・・・・・

上では無名でセッションミュージシャンをしていた、と書きましたが、エルトンの1stは69年6月、
「ポセイドンのめざめ」のレコーディングは70年1~4月(発売は5月)となっていますので、
ソロデビュー後もやれる仕事はなんでもこなし、なんなら他のバンドでシンガーとしてでも …
といった具合だったのでしょうか。もっともデビューアルバムをリリースしたDJMレーベルとは
専属契約を結んだ、とあるので少し矛盾する気もしますが・・・
はれてクリムゾンのヴォーカリストと ” ならなかった ” 
エルトンは70年4月に2ndアルバムを
リリースします。という事は2ndのレコーディングをしながら、クリムゾンのオーディションも
受けていたという事になり、この辺り当時の事情がますます分からなくなってきます。

その辺はさておき、その2ndアルバムこそがエルトンを一躍スターダムへと押し上げた
「Elton John(僕の歌は君の歌)」です。
その邦題が示す通り、オープニングナンバーである「Your Song(僕の歌は君の歌)」が
ブレイクのきっかけとなった曲であり(実際にはその直前に予兆はあったんですけどその辺りは
次回以降で)、全米8位を記録した本曲によってエルトンの名は世間に周知される所となりました。
あまりにも有名過ぎる曲であるので、ここでは詳しくは触れません。いろんな人が本曲について
述べているサイトがあるので、興味がある方はそちらをご参照のほど。

個人的にはバラードとしては「Your Song」よりもこちらの方が好みです、「Border Song」。

ゴスペルスタイルである本曲は、2年後にアレサ・フランクリンによってカヴァーされます。

エルトンのプロとしてのキャリアはホテルのラウンジピアニストから始まります。
母の再婚相手の勧めでオーディションを受け採用されます。しかし酔っぱらった客はろくに
演奏など聞いておらず、灰皿を投げつけられる時もあったとか・・・・・
そのホテルではよくカントリー&ウェスタンを演奏していたそうです。それが影響しているのか
どうか、エルトンのアルバムにはカントリースタイルの曲が結構あります。
上はそんな一曲である「No Shoes Strings on Louise」。
その後友人らとR&Bのバンド『ブルーソロジー』を結成し、活動を始めます。
しかし注目は端正な顔立ちのメインヴォーカリストに集まり、エルトンはキーボードの
後に隠れてコーラスを取っていたくらいだったそうです。内気な性格で自身のルックスに
コンプレックス(小太りで、かつ既に頭髪が薄くなり始めていた)を抱いていた為、
積極的にフロントへ出ることはなかったそうです。この頃はまだ・・・・・・・

#208 Skyline Pigeon

昔はエルトン・ジョンという名前を本名だと思っていました。
情報が無い時代なので致し方なかったのですが、インターネット時代になって
わかるようになりました。ちなみにビリー・ジョエルやスティーヴィー・ワンダーも
本名だと思っていました・・・
エルトンの本名はレジナルド・ケネス・ドワイト。ソロデビュー前はレジ・ドワイトと
名乗っていたそうです。
勝手な思い込みなのですが、イイとこのお坊ちゃまで、英才教育を受けて育ち、王立音楽院へ
入学したエリートなのだろうと思っていました。
実際は、決して貧しい訳ではなかったようですが、それほど上流階級の出身ではなかったのです。
父親はイギリス空軍の軍人で、エルトンが生まれた頃の階級は大尉、つまり下士官クラスだったので
それなりの地位にはいたのですが、言ってみれば一公務員であるので、金持ちという程では
ありませんでした。一家は公営住宅に住んでいたそうです。
そのステージネームは、バンドメンバーなどの身内にエルトン、及びジョンという名前の人間達がいて、
それぞれから取ったもの、だそうです。意外に安直な付け方ですね・・・

デビューアルバム「Empty Sky」の中で最もよく知られているのが上の「Skyline Pigeon」でしょう。
もっとも知られているのはオリジナルバージョンではなく、こちらの方ですが …

73年のシングル「Daniel」のB面に収録するために再録された上のテイクが圧倒的に有名で、
ベスト盤などにも収録されているはずです(私もこちらしか聴いた事がありませんでした)。
楽曲はどちらも「Skyline Pigeon」に違いはありません(当たり前だ (´・ω・`)・・・)。
しかしアレンジ、演奏、そして何より歌唱でもってガラリと変わってしまいます。
勿論オリジナルが悪いとは決して言いません。メロディは殆どこの時点で完成されており、
73年版でもほぼそのまま踏襲されています。
やはり最も大きな違いはなんと言ってもエルトンの歌でしょう。デビュー時のそれはまだ線が細く
(初々しいとも言えますが)、73年版になって、圧倒的にヴォーカリストとして成長した姿を
改めて確認する事ができます。力強く、時に大人の色気(この場合は ” 男性的 ” という意味で
 … )
を感じさせる歌いっぷりは、デビューから数年経って完成されたものでした。

#207 Empty Sky

前回まで9か月間に渡ってビリー・ジョエルを取り上げてきました。
今回からはエルトン・ジョンを取り上げます。斬新な試みですね …………………
…………………………………………………………… 誰か!ツッコんで!!(´;ω;`)

毎度の如く、生い立ち、少年(?)期における音楽的背景などはおいおい。

「Your Song(僕の歌は君の歌)」が、エルトン初期の作品としてあまりにも有名な為、
デビューアルバム「Empty Sky(エルトン・ジョンの肖像)」(69年)は忘れ去られがちです。
私も中学生の時分になけなしの金をはたいて買った ” ロック名盤ガイド ” 的な本で
一応その存在を知ってはいましたが、白状しますと今回が初聴です。
結論から言いますと、この時点ですでにエルトン・ジョンです・・・・・・・・
オマエは何を言っているんだ?当たり前だろ、頭オカシイのか (´∀` ) ……
などとはゆめゆめ思わぬように(オカシかったりして (´・ω・`) ・・・・・)

時系列は遡りますが、エルトンのデビューは上のシングル「I’ve Been Loving You」によってです。
68年3月1日にリリースされた本シングルによってエルトン・ジョンのキャリアは始まったと言えます。
ちょっとまて!その前にバンドでの活動があったろ!というツッコミはごもっとも。
それはまたおいおい・・・

アルバム「Empty Sky」をウィキでググると、全米において6位というチャートアクションに
なっていますが、これは「Your Song」以降の成功を受けて75年に初めて米で発売された時のもの。
69年の時点ではアメリカにおいてはリリースすらされませんでした。
本国でもまったく鳴かず飛ばずだったそうですが、DJや評論家の受けは決して悪くなかったそうです。
プレス連中というのは決して信用の出来る人種ではありませんが、やはりしっかりとした耳を
持っている人間はいつの時代でもちゃんといるようです。
ちなみに日本では、69年時に一応発売された、と語られているブログを散見しました。
これが事実かどうかは確認できませんが、いずれにしろすぐ廃盤になったとか・・・・・

当時、英における販売実績は二千枚との事。それでも無名の新人としては悪いものでは
なかったそうです。
勿論その後におけるエルトンのセールス枚数とは天と地の差ですが・・・・・・・・

#206 Billy Joel

前回までビリー・ジョエルが83年にリリースしたアルバム「イノセント・マン」について、
というより、いつからやってたんだっけ?(´∀` ) ていうくらいに、長い間ビリーの事を
書き続けてきましたが、今回で終わりです(去年の6月からでした … )。

個人的には「イノセント・マン」でビリー・ジョエルは終わっています。・・・・・・・・・・
あっ、いきなりこんな事書いても、訳がわからない人には通じないし、世のビリーファンを
敵に回す事になるかもしれませんが ………… (#゚Д゚) ナニイッテンダ! ゴルァ・・・・(((((゚Å゚;)))))
あくまで私見ですよ、し・け・ん♡ ☆(ゝω・)v

85年にリリースした、新曲2曲を含む二枚組ベスト盤もバカ売れし、世の中はこの人と
フィル・コリンズと、あと数名のミュージシャンで回っているんではないかと思うくらいに
時代の趨勢を支配してと言えるほどでした。
その後において、オリジナルアルバムとしては「The Bridge」(86年)、
「Storm Front」(89年)、「River of Dreams」(93年)をリリースして、
いずれも大ヒットしたのは間違いないのですが、これが自分的にはまったくピンと
響かなかったのです。
どうしてか?と問われても答えようがありません、そうとしか思えなかったのですから。
これが当時はそう感じたけど、歳取った今聴き直してみたら印象が違った、というのであれば
十代から二十代前半の自分には理解出来なかった。という解釈もあるのですが、
五十歳になった現在でもこの感想は変わりません。
「ザ・ブリッジ」以降のビリーは迷走してしまった、というのが私個人の考えです。
その迷走振りが感じられるものを以下に数曲。

「ザ・ブリッジ」のオープニングナンバーである「Running on Ice」。何かに似ているな?
と思う人がいるかもしれません。そう、ポリス(スティング)です。
「ゴースト・イン・ザ・マシーン」か「シンクロニシティー」にこんな感じの曲が
入ってたんじゃね?と、思えるほどに。

クラプトン(クリーム)か? と思ってしまう「Shades of Grey」は
「リヴァー・オブ・ドリームス」に収録された楽曲。
これ辺りは完全にクリームを狙ったんじゃないかな?と私は思っています。
冒頭のドラムフィルイン、ギターの音色辺りが特に。
でもこの二曲、結構きらいではないんですけどね・・・・・・・

本人曰く創作意欲が尽きてしまったとか、エルトン・ジョンに励まされて
00年代以降一緒にツアーに出るようになった話とかは、いろいろな所で散見出来ますので
そちらをどうぞ(あっ、” 散見 ” 自体があちこちでという意味があるので、これは重複した
表現でした、馬から落ちて落馬、的な・・・・・)。

中学に上がった時から洋楽を聴き始めた際に、大流行りしていた「イノセント・マン」に
魅せられ、85年の二枚組ベストで過去の名曲に触れる事でさらにビリーの虜となった
洋楽ファンは多かったんではないでしょうか。勿論私もその一人です。
40年余りに渡り洋楽に親しんできた中でも、もっとも思入れのあるミュージシャンの
一人について長らく書き連ねてきました。
最後に総括しようかと思いましたが、それだけであと四~五回になってしまいますので
止めておきますが、本当にザックリまとめると、ビリージョエルというミュージシャンは、
バラードシンガーのイメージが強いけれども、実はロックンローラーの側面がかなりあり、
またその歌詞においても、「素顔のままで」の様な甘ったるいラブソングなどは稀有であり、
「イタリアンレストランにて」に代表されるストーリーテラー的なものや、「マイアミ2017」など
悲観的な内容を淡々と、またアイロニカルに描く事を得意とした人でした。

ヒマな人 …… もとい、時間に余裕がある方は#174から本回迄におけるビリー・ジョエル特集に
少しでもお目通し頂ければ幸いです。・・・・・・・・あっ、でも、時間のムダだった!
オレの時間返しやがれ!!(#`Д´)o とか言われても当方では責任を負いかねます。
あくまで自己責任のほど・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

#205 Leave a Tender Moment Alone

上はビリー・ジョエルによる83年の大ヒット曲「Uptown Girl」。
あまりにも有名な本曲はフランキー・ヴァリ・アンド・フォー・シーズンズにインスパイアされ創ったもの。
ビリーとヴァリの声質・歌唱スタイルが似ているという訳では決してありませんが、
そのスピリットという点においては間違いなく踏襲しています。

「Careless Talk」はサム・クック、「Christie Lee」はリトル・リチャードと
ジェリー・リー・ルイスといった、R&R黎明期のシンガーへのオマージュ。
ビリーは決して美声ではなく、また声域も広いという訳ではありませんが、
どんなスタイルの音楽でも自分の歌として唄いこなしてしまうという意味では、
卓越したシンガーの一人である事に間違いはありません。

秀逸な曲ばかりの集まりであるアルバム「An Innocent Man」ですが、本作における
ベストトラックは「Uptown Girl」でも「The Longest Time」でもなく、
個人的には本曲ではないかと思っています。
それがB-④に収録された「Leave a Tender Moment Alone」。
スモーキー・ロビンソンをリスペクトした本曲は、” Tender Moment ” というタイトルが
まさしくふさわしい極上の一曲。
全然余談ですが、私は ” 最上のひと時を残して彼女(彼)は去ってしまった ” といった
意味だと思っていました。ジャズスタンダードで有名なマル・ウォルドロンがビリー・ホリデイに
対して創った「left alone」に引っ張られてそう解釈してしまっていたのですが、
意味は全然違っていて、” 女の子といい雰囲気になると、いつもおどけてしまう~そのまま、
甘いひと時をキープしておけよ ” という意味合いになるようです。
好きな娘の前ではついついふざけてしまう、それを自身で戒めた内容の歌詞。
私も耳がイタイ言葉です・・・・・・
しかしながらですね、よほどのイケメンや金持ちでもない限り、世の中の普通の男子は、
笑いを取る事くらいでしか!、女の子の気を引くことが出来ないんですよ!!
( ゚Д ゚#) なっ!みんな!!そうだろ!!!・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・なに力説してんだ。あと男子ってナンだ?オマエ五十だろ (´∀` ) ……

エンディングナンバーである「Keeping the Faith」。本作はビリーが影響を受け、
慣れ親しんだアメリカンミュージックに対して敬意を表した内容でありましたが、
本曲では ” 古いものが必ずしも良いものとは限らない。そして明日はそれほど悪いものでもない ”
という、本作で演った音楽をひっくり返すような事を歌っています。
そして確かな事は ” 信念を貫く!” という、ビリーらしいと言えば、らしいと言える歌です。

以前に「ニューヨーク52番街」のある回では、個人的に「52番街」がビリーのアルバム中で
最も白眉と述べましたが(黄金期の五枚はどれも僅差ですけれども)、聴くときによっては
本作が最高傑作かな?と思う時もあります。
本作は決してただの懐古趣味に終わっている訳ではなく、エンディングナンバーで
歌われている通りに、ベクトルが未来へ向かっている、それが本作を更に高みへと
押し上げているように私は思うのです。

#204 Tell Her About It

80年代前半に所謂 ” モータウンビート ” のちょっとしたリバイバルがあった、という事は
以前にも何回か書きました。
ホール&オーツ「マンイーター」、スティーヴィー・ワンダー「パートタイム・ラヴァー」、
そしてフィル・コリンズによる「恋はあせらず」のカヴァーなどがよく知られています。
さらに言えば、その少し前からイギリス勢の中でもアンテナの鋭いミュージシャン達によって、
このリバイバルは始まっていたと言えます。
デイヴ・エドモンズとニック・ロウを中心とし、アルバム一枚のみを残して解散したロックパイルによる
「ハート」(80年)(#86ご参照)、ポール・ウェラー(#55)率いるザ・ジャムが
解散間際に放った
全英No.1ヒット「悪意という名の街」(82年)などが既にありました。

この曲もそんな所謂 ” モータウンビートリバイバル ” の真っただ中にリリースされ、見事に全米No.1と
なりました。言わずと知れたビリー・ジョエルによる「Tell Her About It」(83年)。
「あの娘にアタック」という邦題から、恋するあの娘へ告白するんだ!くらいの内容かと長い間
思っていましたが、実は語り部は第三者であり、しかも当の男女は既にステディな関係である。
” 彼女へ(ちゃんと)伝えなよ ” という、自分は過去にそれで過ちを犯したので、その教訓から、
オマエは付き合っている彼女へ大事な事をきちんと話せよ、というアドバイスをするものです。
邦題の付け方ももう少し考えてもらいたいものでした・・・・・
PVは言うまでもなく、エド・サリヴァンショーを模したもので、エドはそっくりさん。
ビリーは B.J. and the Affordables(お手頃価格なバンド)として登場し、後に控える
大物コメディアンの為に場を ” あっためる ” 役割だったのですが、完全に場を食ってしまった形で、
スタジオ以外でも視聴者たちや、なぜかソ連の宇宙飛行士までもノリノリとなります。
ちなみに大物コメディアンは踊る熊と絡む、という設定で、はたしてその後は?……… というオチ。

#203 The Longest Time

前回、さらにはそれ以前にもビリーと元妻 エリザベスの親族との間にトラブルが生じた事は
既に触れてきましたが、ここで具体的に書いてみます。

エリザベスとの離婚後においても、弁護士である彼女の実兄及び義弟がマネージャーとして
ビリーのマネージメントに引き続き就いていました。
簡単に言えば使い込みをしていたという事なのですが、驚くべきはその金額。80年代のおよそ十年間で
3000万ドル(当時のドル円が200円程度だったので日本円で60億円)という巨額なものでした。
元々金に疎く、さらにはあまりにも多忙であったビリーの目が届かないのをイイ事に、
その金を投資につぎ込んでいたそうで、さらにその投資の失敗を穴埋めするためにまた使い込むという、
典型的なパターンでした。
80年代の後半になってさすがにおかしいと思ったビリーは調査チームを雇って調べ上げた所、
上記の様な使い込みが発覚しました。その後はお決まりの泥沼法廷闘争となり、結果的にはビリー側の勝訴
(当たり前だ)。しかし被告側が破産して全額回収する事は出来ませんでした。
後にビリー本人も愚かであったと振り返っているそうです。

上は言わずと知れた「The Longest Time」。アルバム「An Innocent Man」(83年)のA-③に
収められた本曲は、今ではごく当たり前に聴くことが出来るアカペラスタイルの楽曲ですけれども、
80年代、特にその前半において、アカペラなど全く注目されていませんでした。90年代から
ヴォーカルグループが陽の目を見るようになり、それ以降はポップミュージックの一ジャンルとして
定着しましたが、70~80年代においては完全に過去の廃れた音楽として扱われていました。
しかしビリーにとってはその少年時代、N.Y. の街角で当たり前の様に歌われていた、慣れ親しんだ
ストリートミュージックだったので、何の奇のてらいもなく取り上げる事が出来たのでしょう。
さりげなく創ったような楽曲が(アルバムの全素材を六週間で書き上げた事は前回で既述)、
素晴らしい楽曲、そして素晴らしい歌唱になる所がこの時期におけるビリーの音楽的テンションの
高さを物語っています。
余談ですが、それを考えると80年に「オン・ザ・ストリートコーナー」をリリースした山下達郎さんが
いかにすごかったのかを改めて思い知らされます。達郎さん曰く、「ライド・オン・タイム」が
ヒットした今しかこんなアルバムは創らせてもらえない、とその時は創ってしまったそうです。
ちなみにオンストはその3までリリースされています。

こちらも有名な「This Night」。ベートーヴェンの曲をモチーフにした事がよく知られていますが、
父親のルーツがドイツ系という事もあり、クラシックで取り上げるとしたならばやはり
ベートーヴェンだったのかな? とか勝手に推測したりします。
ちなみにその歌詩は、その時期に短期間付き合ったスーパーモデル エル・マクファーソンについて
書かれたものだそうです。

次回以降も「An Innocent Man」について。

 

#202 An Innocent Man

『心機一転』を辞書で引くと ” ある事をきっかけとして新たな気持ちや態度で事に臨むこと ” とあります。
当然この ” ある事 ” が必ずしも良い出来事とは限りません。近しい者の死、失業、そして勿論離婚など …

最初の妻であるエリザベスとの離婚直後に制作されたアルバム「An Innocent Man」(83年)。
「ストレンジャー」による大ブレイク後としては初めての独身状態となり、一流モデルたちとデートを
したりして(ヤルことはちゃんとヤッている)、ビリー曰く ” もう一度ティーンエージャーの気持ちに
戻った様だった ” と語っています。
それらが影響したのか、「An Innocent Man」は彼が十代の頃に影響をうけた音楽に対して
敬意を表した内容となりました。
上はオープニングナンバーである「Easy Money」。一聴瞭然ですが、実際にジェームス・ブラウンと
ウィルソン・ピケットへのオマージュと記されています。
これほどまでにソウルフルなビリーはそれまでに聴く事はありませんでしたので、それまでのリスナーは
あっけにとられたことでしょう。
私はリアルタイムで丁度この頃から洋楽を聴き始めたのですが、何が黒人音楽とか、白人テイストだとか
あまりよくわからなかったので、当時は何気なく聴いていましたけれども・・・・・

ビリーは後に、多分六週間以内で全ての素材を書き上げたんじゃないか、と語っています。
これだけの傑作群をそのような短期間で創ることが出来たとは驚きですが、出来る時はそのような
ものなのでしょう。
タイトル曲はドリフターズそしてベン・E・キングへ捧げたものであり、過去につらい思いをして
恋する心を閉ざした女性に対して、恋する事そして人を信じる気持ちを取り戻させてみせる、
という男性の歌。どちらかと言えばビリーがエリザベス(一家)からかなりひどい事をされたのですが
(後に裁判沙汰となる程の)、ひょっとして男女の立場を入れ替えて暗喩的に創ったのかも・・・・・

#201 The Nylon Curtain

今回の記事をアップするのが12月21日であり、クリスマスの直近回です。
昨年は番外編のクリスマスソング特集などやりましたが(#149)、もうネタはないと思っていた所、
これは狙った訳でも何でもなく偶然この回になりました。
上はビリー・ジョエル唯一のクリスマスソングと言える「She’s Right on Time」。
82年におけるアルバム「The Nylon Curtain」のB面トップを飾る本曲は、
自分にとって最高のタイミングで現れてくれる彼女を称えた内容。別れと再会を歌っていますが、
本作の中では珍しく基本的にポジティブな歌詞です。でもビリーの事だからウラの意味が・・・・・

” ふたりには別々の部屋が必要なんだ ” という内容の「A Room of Our Own」。男女が、
というよりも人間がその関係を保っていくためにはある程度の節度を持った距離が必要である。
至極まともな事実です。でも結局は妻 エリザベスと離婚するのですが・・・・・

エリザベスとの離婚後においても、彼女の実兄と義弟はそのままビリーのスタッフとして
就いていたそうです。これが後に大問題へとなるのですが、それはいずれまた・・・・・
上は本作で最も地味な曲ですが、結構な佳曲である「Surprises」。

アルバムラストの「Where’s the Orchestra?」。幕が降りた舞台での虚無感、
とでもいった感じでしょうか。メッセージ性の強い作品であった「ナイロンカーテン」でしたが、
とどのつまりはただのエンターテインメント、ただの演目に過ぎない。
いかにもビリーらしい自虐的な最後です。「アレンタウン」のリフレインが流れてアルバムは幕を閉じます。

「ナイロンカーテン」はゴールドディスクにこそなりましたが(最終的にはダブルプラチナ)、
プラチナ以上が当たり前であった当時のビリー・ジョエルとしては決してヒットとは呼べない
結果に終わりました。
私は本アルバムが失敗作とは微塵も思いません。「ストレンジャー」~「イノセントマン」までの
五作中では評価が低いのは事実ですが、そのクオリティーにおいて劣っているとは全く思いません。
これがあと10年遅く世に出ていたならば、結果は少し違ったものになったかもしれません。
82年という、米も日も浮かれていた時代において、世間には受け入れられなかったのです。
90年代であったならひょっとして・・・・・ タラレバは意味がないですけどね。