#150 Marvin Gaye

『離婚伝説』などと、うまいこと言ったつもりか!とツッコミたくなるようなマーヴィン・ゲイによる
78年のアルバム「Here, My Dear」は、当初商業的にも批評家からの評価も芳しくないものでした。

『離婚伝説』という邦題が示す通り、A-②の「I Met a Little Girl」を皮切りに(元)妻アンナとの
出会いからを回想していく内容だそうです。上はオープニングのタイトル曲。

二枚組である本作の終盤に収められた「Falling in Love Again」は二番目の妻となるジャニスの
事を歌っているのだと思います(多分)。結局は彼女とも破綻するのですが・・・・・
前々回触れた、作品の収益でもってアンナとの慰謝料へ充てることになったというのは勿論本作の事。
ところが本作は先述した通り期待していた程売れませんでした。ここからマーヴィンの凋落が始まります。

ファンの間でもとかく評判の悪い81年のアルバム「In Our Lifetime」。” ゴキゲン ” かつ
” トロピカル ” なダンスビートに乗せたサウンドは従来のリスナーにも新しい層へも響かなかった
ようです。上はオープニングナンバーである「Praise」。

しかし秀逸な曲もあります。「Funk Me」はタイトなファンクナンバーで、「Far Cry」は変則的
ビートから途中でジャズに。ピアノやドラムもマーヴィン自身によるもので、あまり知られて
いない事かもしれませんが、元々はドラマーとしてモータウンへ入ったのでその実力は折り紙付きです。
リズムに対するセンスが他のシンガーとは一線を画しているのは、スティーヴィー・ワンダーと同じく
ドラマーである事に起因しているのかも。本作は07年に未収録ヴァージョンを加えて二枚組として
再発され、そちらは評判が良い様ですが私はまだ聴いてません(今回間に合いませんでした … )。
ちなみに本作がモータウンからリリースされた最後の作品。

81年当時マーヴィンは英国に滞在(逃げ出した)していたそうです。低迷していた彼をイギリス・
ヨーロッパのミュージシャンや資産家達が支えていたと言われています。やはりここでも
向こうにおけるブラックミュージック志向が伺えます。本国では見捨てられつつある過去のスターを、
海を渡った大陸で羨望の眼差しで眺めていた人たちがマーヴィンを救ったようです。
アルバム「Midnight Love」は81年10月から翌年8月にかけて、米録音もありますがベルギーや
ドイツでレコーディングされた作品です。欧州のミュージシャン達の協力を得て作られた本作から
先行シングルとして発売されたのが上の「Sexual Healing」。
人生はどこでどうなるか全くわかりません。本シングルは米でポップス3位・R&B1位、全英でも
4位という大ヒットとなり ” マーヴィン・ゲイここに復活 ” と相成ります。
CBSへ移籍した彼は「Sexual Healing」リリースの翌月にアルバム「Midnight Love」を発売。
当然アルバムも大ヒット。ポップス7位・R&B1位、英で10位というチャートアクションを記録し、
イギリスでゴールドディスク、そして本国ではトリプルプラチナ(300万枚以上)という、
結果として自身にとって最大のセールスを記録する事なりました。
翌83年初のグラミー賞を受賞し、壇上で最大級の喜びを表したそうです。

ホール&オーツやフィル・コリンズの様にチープなリズムマシンを敢えて使用した所や(#58ご参照)、
現在からするとこれまた安っぽいシンセの音色などは時代的なものなので致し方ありません。
本アルバムがマーヴィンの作品の中で上位に来るものとは個人的に決して思いませんが、
これも82年当時におけるマーヴィンの音楽だったのでしょう。上は「Third World Girl」と
「My Love Is Waiting」ですが、80年代初頭の空気感を味わえるトラックだと思います。

個人的に本作のベストトラックと思っているのが上の「’Til Tomorrow」。80年代的音色と
テクノロジーに乗せて、私的 ” マーヴィン三部作 ” の雰囲気が漂っている様な気がします。

的外れという意見を承知で書きますが、私はマーヴィン・ゲイという人をブラックミュージックにおける
エルヴィス・プレスリーではないかと思っています。サム・クックやスモーキー・ロビンソンなど、
マーヴィン以前にもソウル界に男性スターはいました。しかしあれほどセックスシンボルとして
売り出され、私生活でもタブロイドメディアを沸かせる様な生き様をした、良くも悪くも ” スター ” として
扱われた男性シンガーはマーヴィンが初めてだったと思います。
しかし70年代から時代の、特にロックミュージック側の波を吸収し、ソウル界をより深遠かつ精神的な
世界へと誘った先導役・リーダーとなり、やがて自ら破滅の道を歩んでしまいました。

https://youtu.be/XUkDALig0aI
最後に動画を一つ。モータウン25周年を記念して83年に行われたTVプログラムより。
マーヴィンは既にモータウンを離れていましたが出演し、前半の語りではブラックミュージックの
歴史をピアノを弾きながら述べています。そして始まる曲は勿論彼の代表曲「What’s Going On」です。
ちなみにこれがテレビ等の公式なメディアにおける最後の出演となったそうです。

以上でマーヴィン・ゲイ特集は終わりで、一年間続いたブラックミュージック特集も最後です。
何回か前に書きましたが、半年くらい続くかな?程度で始めた割には一年も持ってしまいました。
やれば出来るもんですね(ナニがだ?)。来年からは … はて、どうしましょう?・・・・・
来年もヨロシク ノシ

#149 A Christmas Gift for you

マーヴィン・ゲイ特集をあと一回残していますが、旬のものでクリスマスにちなんだ回を。
去年の今頃のブログでは ” クリスマス?何それオイシイの?” などとのたまわりましたが、
いくら私でもクリスマスくらいは知ってます。12月24日から25日にかけて
イエス・キリストの誕生を祝うものです。そのクリスマスにはサンタクロースという
空想上の人物がお馴染みですが、ニコラオスという人物をモデルにしたこの者は、
赤い服に白髭といった珍妙な恰好で、しかもトナカイに乗って空中を移動するという常軌を逸した
移動手段を用いて、あろうことか他人の家の煙突から不法侵入し、すやすや眠る健全な
子供たちの枕元に立ち、得体の知れない物品を靴下に忍ばせるという奇行に走ります。
またその日には七面鳥の丸焼きを食する習慣がありますが、その調理工程とは先ず
後肢に綱を掛け頭部を下にして吊るしたら、間髪を入れずに動脈を切断し絶命させ、
その後全身の羽をむしり取り・・・・・・・・・・・ヤメロ!ヽ( ・∀・)ノ┌┛Σ(ノ;`Д´)ノ
という訳で、クリスマスなのでクリスマスソングの特集したらイイんじゃね!、という
斬新な企画を思いつきました … かと言ってマ〇〇ア・キ〇リーとかはよく知りませんし、
ジョン・レノンの「Happy Xmas (War Is Over)」とかもベタ過ぎるので取り上げません
(好きな曲なんですけどね。あの日本人女性の奇妙奇天烈なコーラスが無ければ最高なんですが)。

とっぱじめはダニー・ハサウェイ。#131~135でダニーは取り上げましたが、この曲は今回の為に
あえて外していました(忘れてた訳じゃないですよ。ほ、本当です!… )。70年12月9日に
リリースされた本曲は、アフリカンアメリカンのクリスマスミュージックに関する表現の目的だったとか。
この時期ダニーは(数少ない)私生活が充実していた時期であったそうで、前向きな精神状態で
あったからこそこの様にポジティヴな楽曲が生まれたのかもしれません。しかしその後は・・・・・・・

https://youtu.be/76sh1BWCQSc
クリスマスもののアルバムと言えばこれに尽きるのではないでしょうか。「A Christmas Gift for You from Phil Spector」(63年)。残りは本作の曲だけを取り上げてれば今回は済むんじゃねえか?
と言う位にクリスマスアルバムの決定盤です。フィル・スペクターによる当時のフィレスレコードの
面子を集めて制作されたオムニバスアルバムですが、実質はクリスマスソングの名を借りた
フィル・スペクターサウンド、所謂ウォールオブサウンドの極めつけの様な作品。
フィレスの看板ミュージシャン達によって歌われるのは殆どがクリスマススタンダードですが、
楽曲はアレンジ次第というのを改めて教えてくれます。上はロネッツによる「Frosty the Snowman」。
今年他界したL.A.の第一級セッションドラマー ハル・ブレインによるプレイが素晴らしい。
ハシっているのかと思う程ですが、決してテンポは変わっておらず、前へ前へと疾走していく様な
フィーリングは見事です。これはフィルの指示なのかハルのアイデアなのか、どちらだったのか?

お次はボブ・B・ソックス&ザ・ブルー・ジーンズの「The Bells of St. Mary’s」。本作の中で
最もウォールオブサウンドがさく裂しているトラックではないでしょうか。エンディングの
フェイドアウトにおけるハルのドラミングがやはり素晴らしい。

https://youtu.be/Y6rDA2Czz0E
再びロネッツの「Sleigh Ride」。アフリカンアメリカンによるクリスマスミュージックという
コンセプトという点においては、本曲で完成されているのではないでしょうか。

https://youtu.be/ovspZNWs1Xg

上はダーレン・ラヴによる二曲「A Marshmallow World」と「Christmas (Baby Please
Come Home)」。素晴らしい歌唱。表舞台では陽の目を見なかったという彼女ですが、
これらのトラックを聴く限りでは信じられません。もっと凡庸なシンガーもどきが売れて
しまっているのがポップミュージックの常ですが、彼女に光るものを見出したフィル・スペクターは
やはり凄い人物だったのでしょう。人間性は別でしたが・・・・・・
今回はあげませんでしたが、彼女はオープニング曲の「ホワイト・クリスマス」も歌っています。

クリスマスアルバムといってフィル・スペクター以外に浮かんだのはこの作品でした、ビーチボーイズ
「The Beach Boys’ Christmas Album」(64年)。約半分がオリジナル、残りはスタンダードという
構成の本作はリリースが64年11月です。65年3月に発売された、「ペットサウンズ」への序章となる
「The Beach Boys Today!」の前作品にあたりますが、録音時期としては同じ時期で被っているものも
あり、「トゥデイ」の片鱗が垣間見える個所もある興味深い作品です。上はオープニング曲である
「Little Saint Nick」ですが、何を隠そう本曲はブライアン・ウィルソンがフィルのクリスマスアルバムにインスパイアされて作ったそうです。
フィルを敬愛し、フィルの様な音楽を目指したブライアンでしたが、はじめて会った時にくそみそに
こき下ろされふさぎ込んでしまったというエピソードはビーチボーイズ回#1をご参照。

カヴァーの中で秀逸なのはエルヴィス・プレスリーで有名な「Blue Christmas」でしょうか。
極上の楽曲、アレンジ、そしてブライアンの歌ですが、内容は「憂鬱なクリスマス」という通り
悲しいもの。ブライアンらしいと言えばそれまでですが・・・・・

本ブログは基本的に英米のロック・ポップス等を取り上げているので、ジャズはごく稀に話の
流れで触れる程度ですが、今回は番外編なのでジャンルに関係なく。
私は神も仏も全く信じていない不信心者ですが、もし歌の神様がこの世に顕現していたとするならば、
それはエラ・フィッツジェラルドに他ならないと思っています。

番外編ですからエラについての詳しい記述は避けますが、ビリー・ホリデイと並ぶ
女性ジャズシンガーの最高峰。エラもクリスマスアルバムを二枚残しています。
「Ella Wishes You a Swinging Christmas」(60年)と「Ella Fitzgerald’s Christmas」(67年)がそれですが、上は前者に収められた「Santa Claus Is Comin’ to Town」。60年と言えば
歴史に残る大名盤「Ella in Berlin」と同年です。この頃のエラの声が張りと成熟味のバランスが取れていて
最も好きです(40~50年代の初々しさも、70年代の円熟味も勿論良いのですが。要は全てイイのです!)。

本作よりもう一曲は「Let It Snow! Let It Snow! Let It Snow!」。何を歌ってもエラになります。

67年の「Ella Fitzgerald’s Christmas」は前作とは打って変わり荘厳で宗教色の濃い、ある意味で
正統派のクリスマスアルバムとなっています。上は言わずと知れた「Silent Night」ですが、
これほど慈愛に満ち、圧倒的な「Silent Night」は他に思い当たりません。エラの声も60年より少し低めで
落ち着いた感じになっています。7年の間で円熟味が醸し出されてきたのでしょう。

もっと取り上げようかと思っていましたけれども、あっという間にスペースが費やされてしまいました。
結局ダニー・ハサウェイ、フィル・スペクター、ビーチボーイズ、そしてエラ・フィッツジェラルドで
終わってしまいました。しかし音楽の素晴らしさからしてこれで十分ではないでしょうか。

という訳で番外編のクリスマスソング特集はこれにて終わりです。それではみなさん、良いお年を!!!
・・・・・・そこはメリークリスマス!!!、だろ!!!!!ヽ( ・∀・)ノ┌┛Σ(ノ;`Д´)ノ

#148 I Want You

” I Love You ” ” I Need You ” ” I Want You ” 。カビがはえる程にポピュラー音楽の歌詞や
そのタイトルに使われてきたフレーズですが、時として陳腐な言葉に聞こえてしまうものも
少なくない中において、これ程までに胸を締め付けられる様な ” I Want You ” を私は他に
知りません。76年、マーヴィン・ゲイによる「I Want You」がそれです。

オーティス・レディング回で、ソウルシンガーの真骨頂はそのライヴにて発揮されると
書きましたが、勿論マーヴィンも同様です。

74年の米オークランドにおける模様を収録した「Marvin Gaye Live!」は最も脂がのっていた
時期に録られた一枚です。前年における「Let’s Get It On」に収められた「Distant Lover」は
オーディエンスの熱狂ぶりからもこの時期のマーヴィンの人気・勢いがわかるテイク。
あまりにも素晴らしかった故か、ライヴヴァージョンとしてシングルカットされヒットしています。

「What’s Going On」、「Let’s Get It On」そして「I Want You」を私は勝手にマーヴィン三部作と
呼んでいます。精神的・思索的な「What’s Going On」から、「I Want You」は前作同様に
愛(性愛)をテーマとし、音楽的にも当時流行した(しつつあった)フィラデルフィアソウル及び
ブラックコンテンポラリーを基調としています。上はA-②「Come Live with Me Angel」ですが、
途中でムフフな女性の声が聴こえるのは前作同様 ♡♡♡(*´▽`*)♡♡♡ ・・・(ムフフって昭和だな … )

本作は元々当時モータウンに所属していたリオン・ウェアというシンガーソングライターがリリースする
予定で制作されていたアルバムでした。しかしベリー・ゴーディーの判断によりマーヴィンのアルバムとして
世に出される事になったとか。全ての楽曲にリオンの名があるのはその為であり、さらにアーサー・ロスと
いうソングライターが半分近くを共作していますが、その当時リオンとコンビを組んでいた人物であり、
彼はダイアナ・ロスの弟です。

B面の「All The Way Around」と「Since I Had You」。後者に関しては何も言うことはありません。
ただくれぐれも女性と一緒に居るときに聴くのはご注意ください。

エンディング曲「After the Dance 」。ダンスは文字通り踊りの事なのか?、はたまた・・・・・
A-③には本曲のインストが収録されています。余談ですが、十年前位だと思うのですけれど、
志村けんさんがラジオ番組をやられていて、その番組の途中に短く流れる音楽にそのインスト版が
使われていました。志村さんはかなり黒人音楽に造詣が深い方で、ヒゲダンスのテーマが
テディ・ペンダーグラスの曲を使ったものであったのは洋楽ファンには結構知られている事です。
ご自身(ドリフ全員)がプロのバンドマンであるので当然ですが(志村さんはギタリスト。ファンキーな
カッティングがユーチューブにあがっていてそれがカッコイイ!)、音楽を愛しているのが伺い知れます。
しかし、テレビなどのメディアでは一切そういう事は語らず、バカに徹している所はプロです。
中途半端な特技を ” オレこんなコトも出来るんだぜ! ” の様にひけらかすテレビタレントが
結構いるとの事ですが、本当に格好いいのは志村さんの様な姿勢だと思います。
アルバム「I Want You」もポップス4位・R&B1位と大ヒットを記録します。

もう一枚のライヴ盤「Live at the London Palladium」(77年)は二枚組。前年における
ロンドン公演を収めたもので、これもポップス3位・R&B1位とその勢いは留まらず。
テンション感なら「Marvin Gaye Live!」、完成度・洗練さなら本ライヴ盤といった所かと
私は思っていますが、どちらも素晴らしいのは言うまでもありません。
上はC面のメドレーⅡ。「What’s Going On」の収録曲からなるメドレーですが、イントロで
まずシビれます。バックミュージシャンの面子はスタジオ盤とは違いますが、鉄壁の演奏に
変わりはありません。いかにもこの時代らしいエレクトリックピアノやフルートですけれども、
今聴いても全く古臭さを感じません。
本作のD面「Got to Give It Up」のみスタジオ録音で、シングルカットされポップス・R&Bチャート
双方でNo.1となります(全英でも7位)。

前回の最後で少し触れましたが、商業的成功と比例してプライベートも充実していたのかというと、
勿論の事そうは問屋が卸しません。マーヴィンの私生活について触れているサイトは幾つもあるので、
ここで詳しくは取り上げませんが、大別すると「女性問題」「借金」そして「麻薬」で苦しみました。
17歳上の姉さん女房であるアンナ(ベリー・ゴーディーの実姉)との結婚生活は破綻を来たし、
次の若い妻とも結局は破局を迎えます。アンナとの離婚裁判で多額の慰謝料を請求され、その時点では
支払能力がなかった為に次作の収益でもってそれに充てる事に。そして結婚生活が上手くいかなかった
理由としては彼の麻薬常習が原因と言われています(勿論女性にだらしなかった、というのも・・・)。
こんな逸話があります。73年の「Diana & Marvin」は内容こそ極上の音楽ですが、制作現場は
かなり険悪だったそうです。ダイアナ・ロスという人は ” アタシがモータウンのトップスターよ!” 、
という自尊心・自負心が強い女性だった事で有名であり、対するマーヴィンも ” オレこそが
モータウンを支えているんだ!”、とプライドがありました。実際どちらの名前を先にクレジットするかで
揉めたそうであり(結局はロスが先に)、一筋縄ではいかなかった現場であったとの事。
しかしロスの機嫌を損なわせたのはそれだけではなく、マーヴィンのだらしなさもあったそうです。
録音現場にドラッグやアルコールを持ち込み、それを平気で ” 嗜む ” マーヴィンにロスは我慢が
ならなかったと伝えられています。

この様に商業的成功に反して私生活は惨憺たるものだったのですが、それは改められず70年代後半から
80年代初頭にかけてますます酷くなっていきます。ナニがヒドイかって?麻薬とセッ〇スですよ。
エリック・クラプトンの様に薬物のリハビリセンターに通ったのですけれども、クラプトンは止められましたが
(その代わり酒量が増えた)マーヴィンはダメだったそうです。ツアーをドタキャンするは、人間関係を
ブチ壊すはで、要は困ったちゃんだったのです。そして結末は最悪なものへと。
あまりのコカイン依存の為実家に身を寄せていたマーヴィンでしたが、既述の通り問題のあった
(どっちもどっちですが)父親と口論になり、激高した父親により射殺されてしまいます。
享年44歳、84年4月1日の事でした。

#147 What’s Going On

説教師(牧師とは違うらしい)であったマーヴィン・ゲイの父親が、マーヴィンの幼少期から
ひどい虐待を行っていたというのは有名な話しであり、それがマーヴィンの人格に
多大な影響を及ぼし、後の音楽や弱い(=だらしない)メンタルに波及したであろうと
いう事は多くの人が言及しています。ここではそれについて詳しくは探りませんが、
71年のアルバム「What’s Going On」における作品性に深く関わっている事は確かです。

モータウンの創業者 ベリー・ゴーディーが本曲・本作に良い顔をしなかったというのも
有名な話しです。3分間の良質なポップソングこそが大衆の支持を得る、というゴーディーの
信念からすれば当然の事でしょう。私もこの考えが一概に悪いとは決して思いません。
前々回から当たり前のようにゴーディーの名を挙げてきましたが、スティーヴィー・ワンダー回
#115~#124)で彼については言及済みですのでよろしければそちらをご参照の程。

アルバム「What’s Going On」はトータルコンセプトアルバムです。ビートルズ「サージェント・
ペパーズ」、フー「トミー」、ピンク・フロイド「狂気」などと同様にテーマ・ストーリー性を
その作品中に内包し、そしてポップミュージック史に残る大傑作である事は衆目が一致する所です。
私はポップミュージックにおいて歌詞にメッセージを込める事にあまり興味を抱かない人間なのですが、
本作に関してはその歌詞の内容を理解せずして味わうことは出来ないでしょう。
と言ってもそれに関しては解説しているサイトが幾らでもありますのでここでは最低限に。
戦争・平和・環境・家族・人種問題・貧困等の不平等・若者と大人との間における不理解・宗教、
そして勿論のこと愛について。そういった事が歌われています。

A-②「What’s Happening Brother」。前曲の流れを汲み楽曲・歌詞共に相似した内容ですが、
エンディングで不穏な空気が・・・

A-③「Flyin’ High (In the Friendly Sky)」。前二曲の ”表向き” は軽快な曲調から
一転して荘厳な楽曲に。歌詞も宗教的なものへ変容していきます。

私はともすればタイトル曲と双璧をなす本作におけるベストトラックではないかと思っています。
A-④「Save the Children」。宗教者の説法の様な語りと、朗々としたマーヴィンの歌は
勿論ですが、秀逸なのはその楽曲アレンジです。過分に重々しく宗教染みた楽曲にしてしまって
いたなら、それほど大した曲ではありませんでした。宗教音楽・ゴスペル・黒人哀歌・ソウル・
ジャズなど、新旧問わずあらゆるブラックミュージックのエッセンスを取り入れ、そして
混沌としているようでありながら音楽的に洗練されており、ポップミュージックとして
素晴らしい完成度を誇っています。オープニングから通してジェームス・ジェマーソンの
ベースが素晴らしいのは言わずもがな。後半からリズムが再び当初の16ビートへ戻り、
A面ラストの終息へと向かいます。

A-⑤「God is Love」からA-⑥「Mercy Mercy Me (The Ecology)」へ。タイトル曲を
踏襲した楽曲の内容にて、クラシックの交響曲の様な、つまり同じモチーフが形を
変えて異なる楽章を通して表れる事でトータル感、言い換えれば大作としての完成を
成し遂げています。最後は不穏な音、と同時に神が救いをもたらしたかの様なエンディングへ。
A面のみでこれだけ書いてしまいました。B面の三曲も勿論素晴らしいのですけれども
涙を飲んで割愛します。ですが一つだけ、エンディングをどう捉えるか …
これは救われたのか、はたまた・・・・・
ゴーディーの懸念は結果的には杞憂に終わりました。ポップス6位・R&Bでは1位を
記録しゴールドディスクを獲得。しかも英ではプラチナディスクに認定されます。

ニューソウルの金字塔的作品と言われる本作は、60年代後半から主に白人ミュージシャン
(特に英の)によってもたらされた、ポップミュージックの新しい動きに影響された事は
間違いありません。先述した「サージェント・ペパーズ」や「トミー」同様のコンセプチュアルな
作りは勿論、サイケ・アートロック・ジミヘンやクリームなどの即興を打ち出したヘヴィなロック・
プロコルハルム等のクラシック要素を多分に含んだもの、そしてフランク・ザッパに代表される
前衛音楽的なロック、と。表面上、決して本作では今挙げた様な音楽性を見出すことは出来ませんが、
ポップミュージック的時代が大きく変容を遂げた時期と相まった事、そしてタミーの死や
弟フランキーの戦争体験などあらゆる要素がミクスチャーされた結果、マーヴィンの中に潜んでいた
創造的精神に引火したのだと思われます。興味深いのはエンターテインメント音楽の権化の様な
(そういう売り出され方をした)マーヴィンによって、ブラックミュージックの転換点が
持たらされたという事でしょうか。黒人音楽界で同じように濃密なメッセージ色を持った作品としては
同年におけるスライ&ザ・ファミリー・ストーンの「暴動」もあります。どちらもポップミュージック史に
おいて重要な作品である事に間違いはありませんが、よりコンセプト性を持っているのは本作でしょう。

本作の大成功を受けて、マーヴィンは更にチャレンジを試みます。
映画のサウンドトラックである「Trouble Man」(72年)は圧倒的にインストゥルメンタルで
占められたアルバム。全曲マーヴィンのペンによる作品であり、その高度な音楽性は彼のソングライターと
しての実力を十二分に発揮したもの。映画がヒットしたのかどうかはわかりませんが、アルバムは
ポップス14位・R&B3位とこれまた成功を収めます。同じサントラとしてカーティス・メイフィールド
「スーパーフライ」とよく比較される作品でもあります。

73年6月、同名アルバムの先行シングルとしてリリースされた「Let’s Get It On」は「悲しいうわさ」
以来となるポップス・R&Bチャート双方でのNo.1を記録し、初のプラチナディスクを獲得。
アルバムもポップス2位・R&B1位と最高のチャートアクションに。下は次曲「Please Don’t Stay」。
昔から上二曲等のドラミングには興味を持っていましたが、恥ずかしながら今回初めて調べてみました。
ポール・ハンフリーという黒人ドラマーで、R&B・ファンク畑のプレイヤーであったとの事。
60年代はジョン・コルトレーンとも共演歴があり、偉大なるジャズギタリスト ジョー・パスの
16ビート作品にも参加しているらしいです。人によっては ” 叩き過ぎだ!、もっとシンプルに
演ってくれれば良かったのに ” と感じるかもしれませんが、個人的にはこれはこれで素晴らしい効果を
もたらしていると思っています。
ちなみに「Let’s Get It On」の意味は … ♡♡♡(*´▽`*)♡♡♡ … なもの・・・・・

「You Sure Love to Ball」。いきなり♡♡♡(*´▽`*)♡♡♡な女性の声に度肝を抜かれてしまいますが、えっ? (*゚▽゚) ナニをヌいたって …( °∀ °c彡))Д´)( °∀ °c彡))Д´)( °∀ °c彡))Д´)
タイトルの意味や本曲でアルバムのテーマが愛(性を ” 多分 ” に含んだ)であることがわかります。

エンディング曲である「Just to Keep You Satisfied」。妻アンナも共作者として加わった本曲は、
邦題「別離のささやき」というのが何とも意味深。この頃アンナとの仲は既に冷え切っていたそうであり、
繰り返される ” it’s too late ” という歌詞が全てを物語ってています。それにしても
ジェームス・ジェマーソンの
ベースはあまりにも素晴らしい。
社会的・哲学(宗教)的テーマを扱った「What’s Going On」から、本作は愛や性という根源的な
ものへシフトしました。音楽的には ソフィスティケーテッド・メローな曲調が多く、当時台頭しつつあった
フィラデルフィアソウルの影響を受けたのは間違いないでしょうが、いずれにしても素晴らしい作品です。
ちなみに同73年には、ダイアナ・ロスとのデゥエット作「Diana & Marvin」がリリースされ、
「You’re a Special Part of Me」やスタイリスティックスで有名な「You Are Everything」などの
シングルヒットを飛ばしましたが、スペースの都合上仕方なく割愛します。

商業的結果を見れば60年代後半と遜色ない、むしろそれ以上の大成功を収めていると言う事が出来、
順風満帆の様に見えるのですが、果たしてそうだったのでしょうか?続きは次回にて。

#146 Ain’t No Mountain High Enough

マーヴィン・ゲイの最初の結婚相手がモータウンの創業者 ベリー・ゴーディーの姉で
あった事はよく語られる事です。マーヴィンよりも17歳年上の姉さん女房であったアンナと
結婚した事により、マーヴィンのモータウンにおける地位は確固たるものとなります。
勿論それがなくてもゴーディーはマーヴィンのカリスマ性に着目していたのでしょうが、
だから故に妹との結婚を認めた面もあるのかもしれません。
マーヴィンは女性関係に関してかなりの ” フリーダム ” であったそうです(英語はこういう時に
便利ですね。日本語では言えば単に女にだらしない、というだけですから・・・)。
別にマーヴィンの女性問題を取り上げようという訳ではありません。しかし、彼にとって
女性というのは重要なファクターです。別に色恋沙汰だけはなく、音楽上のパートナーという
意味において。前回書き切る事が出来なかった60年代におけるマーヴィンの活動とは、
女性シンガーとの一連のデュエットに関してです。

上は67年のヒット曲である「Your Precious Love」。デュエットの相手はマーヴィンを
語る上では欠かす事が出来ないシンガー タミー・テレルです。60年代のマーヴィンについては
自身のソロとデュエットを並行して捉えなければなりません。

初めての相手は(アッチの方じゃないですよ)メアリー・ウェルズ。当時においてはマーヴィンよりも
格上であったウェルズとコンビを組まされます。上は64年にシングルカットされポップス17位・
R&B2位の大ヒットを記録した「What’s the Matter with You Baby」。本曲が収録された
同年にリリースされた二人のアルバム「Together」についても言える事ですが、全体的に
ソフィスティケートされた音楽です。ウェルズがその路線、つまり白人ウケする方向性で
モータウンから出ていた為だと思われますが、洗練されたスタイルのウェルズにマーヴィンが
追従しているような印象も受け取れます。もっともマーヴィンにしても前回述べた様に初期は
ソフトジャズ志向であったのですからそれほど違和感は感じません。本作はR&Bチャートでは
ランキング圏外でしたがポップスでは42位と健闘。やはりその洗練さからでしょうか。

お次の相方はそれまでマイナーヒットはあったものの一般的には知られていなかったキム・ウェストン。
彼女にとって最初のビッグヒットが上のマーヴィンとの「It Takes Two」(ポップス14位・R&B4位)。
64年には先駆けて二人のデュエットシングル「What Good Am I Without You」をリリースしましたが、
そちらはスマッシュヒットといった結果。かなりブルージーなナンバーでウェルズのそれとは
方向性が違います。66年における二人のアルバム「Take Two」全体に言える事ですが、力強さ・
スピード感・黒人らしい粘り気があります。それでもゴーディーの下から出た作品ですのでポップさは
失われていません。が、今度はポップスでは圏外でありながらもR&Bで24位にチャートインします。

https://youtu.be/Xz-UvQYAmbg
マーヴィンとのデュエットという点においては、先に挙げたタミー・テレルが最も知られる所です。
実はキムの次のお相手として別の女性シンガーがあてがわれていたらしいのですが、同時にタミーも
ブッキングされていたようです。それまで無名であったタミーは録音に対してかなりナーバスに
なっていて、それをマーヴィンが心をほぐしてあげていたという逸話があります。
用意された楽曲は夫婦ソングライティングチーム アシュフォード&シンプソンによる
「Ain’t No Mountain High Enough」、今回のタイトルです。
恥を忍んで白状しますと、やはり二人の掛け合いは絶妙だな、スタジオで一緒に歌ってこその
グルーヴ感・臨場感だな、などと昔は思っていましたが、だいぶ後になって二人の歌が別々に
録られたものだというのを知りました・・・・アレンジ・ディレクションが如何に大事か、ですね …
67年4月に発売された本曲はポップス19位・R&B3位の大ヒット。同年の8月のアルバム「United」も
R&Bチャートで7位と成功を収めます。
私はポップミュージックの分野において、本曲は類まれなる完成度を誇る楽曲だと思っています。
2:20程のあまりにも物足りないと言える短い楽曲ですが、素晴らしい要素が存分に詰め込まれています。よく言われるのがこの時期モータウンのお抱えバンドであったファンク・ブラザーズのベーシスト 
ジェームス・ジェマーソンのプレイ。勿論ジェマーソン以外のプレイヤーも特筆すべきものです。ジャズフュージョンの様な超絶技巧ではありませんが、それぞれが卓越したセッションプレイヤーとしていぶし銀の様な演奏が本曲の屋台骨を支えているのは言わずもがなです。楽曲に関しては一部の隙も無い創りでありますが、
特に1:30過ぎからの三番の転調へ向かうパートは何度聴いても鳥肌が立ちます。
短すぎる、でもその位の物足りなさを味あわせた方がかえって良いのかもしれません(でもやはりもう少し
味わっていたかった・・・・・)。そして言うまでもなく、マーヴィンとタミーのヴォーカルが
秀逸過ぎる事は当たり前の事。つまり、楽曲・アレンジ・演奏・歌の四拍子が全て高い次元で
完成された、数少ないナンバーの一つであるという事です。
アルバムリリースと同時にシングルカットされたのが一番上の「Your Precious Love」ですが、
これも更にポップス5位・R&B2位というビッグヒットになります。

続けて同年末にシングル化された「If I Could Build My Whole World Around You」も
ポップス10位・R&B2位とヒットを記録し勢いはとどまる所を知りません。
本作には上の様なナンバーも収録されています。フランク・シナトラと娘ナンシーのデュエットによる
No.1ヒット「Somethin’ Stupid」。快活なジャンプナンバーからメローな楽曲まで幅広く網羅した
本作は、黒人・白人問わず男女デュエットものにおける名盤の一枚です。

翌68年3月にリリースされた「Ain’t Nothing Like the Real Thing」はマーヴィンのデュエット曲と
しては初のR&BチャートNo.1となります。

続くシングル「You’re All I Need to Get By」もポップス7位・R&B1位の大ヒット。本曲も
アシュフォード&シンプソンのペンによる楽曲で、昇り詰めていくような高揚感は「Ain’t No Mountain High Enough」と共通しています。
これらを収録した同年8月のアルバム「You’re All I Need」もまたR&Bチャートで4位を記録します。

一躍スターダムへと駆け上がったタミーでしたが運命は皮肉なものです。67年に行われたある大学での
コンサートで歌い終わった瞬間にマーヴィンの腕の中へ倒れこみます。その前から片頭痛などの体の不調を
訴えていたタミーでしたが、モータウン側も、そしてタミー本人も折角上向いた来たこの時期に
休む訳にはいかぬと精密検査などは受けなかったそうです。結果的には脳腫瘍と診断が下され、
その後のタミーには複数回にわたる大手術と壮絶なリハビリが待っているのでした。
上記の曲はその合間を縫ってレコーディングされたものです。とても想像が付かない堂々した、
でありながらも20代前半という若さから弾き出されるキラキラとした歌いっぷりには感服します。
下世話な話しですが、二人の間に男女の関係があったのかと言えば、それはなかったらしいです。
マーヴィンにはその気があったと言われていますが、タミーはあくまで音楽上のパートナーと
捉えていたようです。
70年3月、タミーは急逝します。24歳という若さでした。世に知られる様になってからは実質的に
たったアルバム2枚という短い活動でしたが、だからこそ輝いていたのでないかとも思えます。

マーヴィンの落胆ぶりは相当なものだったそうで、ドラッグ・アルコールなどへのめり込む
一因になったと言われています(もっとも元々メンタルの弱い人だったというのもありますが)。
そして有名な話しではありますが、ベトナム戦争から帰還した弟のフランキーの悲惨な戦争体験を
聞くことによって様々な思いを抱きます。ポップスター・エンターテイナーとしての存在、
その音楽性、自身による音楽の社会への関わり方。その様な思索を抱くようになり、
それがポップミュージック史に残る大傑作「ホワッツ・ゴーイン・オン」の制作へと繋がる
訳ですが、その辺りは次回にて。

#145 I Heard It Through the Grapevine

前回の最後において驚愕の事実に気づいてしまった訳ですが(オメエが忘れてただけだ (´∀` ) )、
それは今年もあと五~六週しかないという事です。
年初からブラックミュージック特集を始めてこのネタで半年持てばイイかな?程度に考えていましたが、
一年経ってしまいました・・・まさしく好淫 … もとい、光陰矢の如しというやつです。
スティーヴィー・ワンダー回で、最後はスティーヴィーにしようかと予定していたという事は既述ですが、
ラストを飾るのはスティーヴィーかそれともこの人か、と考えていたミュージシャンです。
それはマーヴィン・ゲイ。モータウンのトップスターとして君臨し、70年代からは社会的・思索的な
作風へ転換しニューソウルのリーダー的存在となり、また波乱に満ちた私生活でタブロイドメディアを
沸かせ、最後は悲劇的な死を遂げてしまったソウルシンガー。駆け足になってはしまいますが、
マーヴィン・ゲイというシンガー・コンポーザー・エンターテイナーである、このソウル界における
稀代のスーパースターを取り上げ、ブラックミュージック特集の最後を締めくくりたいと思います。

マーヴィンの記念すべきデビューアルバム「The Soulful Moods of Marvin Gaye」(61年)の
オープニング曲が上の「(I’m Afraid) The Masquerade Is Over」。60年代中期以降のマーヴィンから
すると想像できませんが、デビューはコテコテのジャズでした、しかもムードジャズとでも呼ぶべきもの。
しかしこれは不思議なものでは決してなく、マーヴィンの音楽的興味はまずドゥーワップから、
そしてR&Bへ。しかし最も大きな影響を受けたのはフランク・シナトラのジャズであり、
ヴォーカルスタイルについてはナット・キング・コールなどの歌い方でした。
モータウンレコード側とは本作の方向性について衝突があったようです。モータウンはティーンエージャー
向けのR&Bを、しかしマーヴィンはアダルトなジャズを演りたいと。彼のコメントにおいて
” ダンスや腰を振るよりも、椅子に座って口ずさむように歌いたいんだ ” というものがあったそうです。
一般的に知られる(私も勿論そのイメージでした)男性的魅力・セックスアピールに溢れたその後の
マーヴィンとはすぐには結び付かないものです。しかし本作はセールス的には失敗してしまいます。

前作の反省から方向転換を迫られました。マーヴィンはそれでもR&B路線には抵抗を示していたと
言われていますが、モータウンの創業者 ベリー・ゴーディーはそれを要求しました。
納得しかねるマーヴィンでしたが、「プリーズ・ミスター・ポストマン」で知られる同社の
マーヴェレッツへマーヴィンが共作者として提供した楽曲で成功した事を受け(実はマーヴィンの
最初の成功はマーヴェレッツのヒット曲の作曲者という形でした)、その志を変えたとされています。
そうした経緯からレコーディングされたのが上の「Stubborn Kind of Fellow」(62年)です。
我々が持つ、その後のマーヴィンのイメージは本曲の様なものでしょう。歌についてはだいぶ粗い個所も
ありますが、それもワイルドな魅力と捉えることも出来ます(あばたもえくぼというやつでしょうか … )。
本曲はR&Bチャートで8位の大ヒットを記録します。ここでのマーヴィンはハスキーで力強い歌唱で、
それは成功を収めてやるという強い決意、つまりソフトジャズ路線に決別し、一般黒人層へ
訴えやすいR&Bスタイルを受け入れた始まりとなったのです。余談ですが本曲のバッキングヴォーカルには
マーサ・リーヴスが参加しており、その年の末におけるマーサ&ザ・ヴァンデラスの結成へと繋がります。

アルバムとして最初の成功を収めたのは65年の「How Sweet It Is to Be Loved by You」で、
R&Bチャートで4位の大ヒットとなります。上はそのタイトル曲。この時期モータウンお抱えの
ソングライティングチームであったホーランド=ドジャー=ホーランドのペンによる、
初期におけるマーヴィンの代表曲の一つです。本作からもう一曲「Baby Don’t You Do It」。
同じくホーランド=ドジャー=ホーランドによる本曲は、ボ・ディドリー風ジャングルビートに
乗せ、レイ・チャールズ的R&Bとして完成させました。初期はジャズ志向であったマーヴィンでは
ありますが、勿論レイを尊敬していたのは言わずもがな。

飛ぶ鳥を落とす勢いであったマーヴィンの最初における頂点が上の「I’ll Be Doggone」(65年)。
彼にとって初のR&Bチャート1位及びミリオンセラーとなった本曲は、モータウンの先輩 スモーキー・
ロビンソン他による楽曲。余談ですが、二人は同学年です(日本の4-3月とした場合)。
てっきりスモーキーの方が年上と思っていましたが、むしろマーヴィンの方が生まれは早いのでした。

「I’ll Be Doggone」が収録されたアルバム「Moods of Marvin Gaye」(66年)にはもう一曲の
R&BチャートNo.1ヒットが収められています、それが上の「Ain’t That Peculiar」。
本曲もスモーキー他のペンによるもの。

マーヴィンのポップミュージック界におけるステイタスを決定づけたのは本曲によると言って
差支えないでしょう、それは「I Heard It Through the Grapevine」(68年)。
ポップス・R&B双方のチャートでNo.1となり、さらに全英でも1位を記録。
特に英では40万枚以上を売り上げるという異例の大ヒットとなります。
モータウン所属の複数人達によってレコーディングされた本曲は、録音順ではミラクルズ、
マーヴィン、グラディス・ナイト&ピップスですが、世に出たのはピップスが先で全米2位の
大ヒットとなりました。アレンジの違いを聴き比べる事を是非お勧めしますが、
マーヴィンはミラクルズ版を踏襲したものです。エレクトリックピアノまで一緒ですが、
マーヴィン版はさらにストリングスを加えています。
白人ミュージシャン(特に英国の)がブラックミュージックに影響された楽曲を創ると、
80年代までは ” 黒っぽい ” という表現をよくしました。最近はこういう表現をあまり
聞かない気がしますね。イチャモンを付ける輩でもいるんですかね(コンコン!おや、誰か来た?… )
本曲は黒っぽいフィーリングの王道ではないかと私は思っています。本家本元達が演っているんだから
当たり前ですが、ローリング・ストーンズはもとより、ビートルズの中期「ドライブ・マイ・カー」
「タックスマン」など、ブラックミュージックに心酔した英国白人ミュージシャン達が夢中に
なったのが本曲のようなフィーリングだったのではないでしょうか。

シングルとしての本曲に先立ってリリースされた同名アルバム(発売時は別タイトル)もR&Bチャートで
2位の大ヒットとなりました。本作には既出のシングル曲も収録されています。オープニングを
飾る「You」ですが、バッキングヴォーカルにはグラディス・ナイト&ピップス参加がしています。
後の「I Want You」に繋がる様な、胸が張り裂ける程の切々としたヴォーカルです。
ちなみに「I Heard It Through the Grapevine」の邦題である「悲しいうわさ」について。
なぜブドウで噂?と、昔はナゾでしたが、ネット時代になってようやく意味がわかりました。
興味がある人は自分でググってください。

翌69年にも「Too Busy Thinking About My Baby」(ポップス4位・R&B1位)、
「That’s the Way Love Is」(ポップス7位・R&B2位)と大ヒットを連発。
マーヴィン人気ここに極まれりといった感じです。

60年代のマーヴィンについて一回で書き切ろうと思っていましたが、やはり無理なようです。
えっ?!69年までいったじゃん!と思われる方はごもっとも。しかし、わかってる人には
全然書いてない部分があるだろ!とのツッコミもごもっとも。次回はその辺について・・・

#144 The Dock of the Bay

オーティス・レディングのレコード・CDの発売元を見るとその殆どがヴォルト(Volt)とあり、
これはスタックス(Stax)の子レーベルです。サザンソウルの首都メンフィス(テネシー州)を
代表してかつては一世風靡したレコード会社ですが、オーティス回の最初で書いた事ですけれども、
オーティスはアトランティックソウルの代表格とされています。昔はこれが理解出来ませんでした。
スタックス?アトランティック?キッチリしなさい ( ゚Д゚)!! と叫びだしたくなる衝動に駆られますが
(それほどの問題じゃないだろ・・・)、ネット時代になってその謎が解けました。
スタックスはやはり米南部の一レーベルに過ぎず、その音源を全米及び世界に配給していたのが
大手アトランティックだったという訳です。今回は興味の無い人にはどうでもイイようなこの枕から …

オーティスは26歳という若さでこの世を去ります、原因は飛行機事故。67年12月10日に悪天候の
中その飛行機は飛び立ち、そして墜落してしまいました。
「ドック・オブ・ベイ」の歌詞が自身の死を予言しているとかいうオカルトめいた噂が
昔からまことしやかに一部で囁かれているのですが、これは全くナンセンスなものです。
上は翌68年1月にリリースされたシングル「(Sittin’ On) The Dock of the Bay」。
死の直前に録音された本曲は結果的にオーティス最大のヒットとなり、ポップス・R&B双方の
チャートで1位を記録、全英でも3位に入り代表曲の一つとなります。
67年6月のモントレー・ポップ・フェスティバル出演の直後オーティスは喉の不調を感じ、
それはポリープによるものでした。あまりにも激しいシャウトなどにより喉を酷使した為ですが、
手術をする事になり彼はその後の歌唱法を変えざるを得ないようになります。
「ドック・オブ・ベイ」がこの様な背景から生まれた曲であるのは有名です。発売は死後ですが、
シングル化するのは彼の意志であったと言われています。淡々と語りかけるようなスタイルの本曲に、
周囲はこれまでと違い過ぎる曲調・歌唱に戸惑いを覚えたとされていますが、オーティスは
本曲に自信を持っていたそうです。
勿論若すぎる不慮の死という事実がそのセールスを後押ししたのは否めませんし、私もこれが
オーティスのベストトラックかと問われれば決してそうではありませんけれども、
熱い歌も、淡々としたヴォーカルスタイルも、どちらもオーティスなのだと思っています。
翌2月にはアルバム「The Dock of the Bay」が発売され、ポップス4位・R&B1位・全英1位という
これまた大ヒットを収めます。

ソウルシンガーの真骨頂はライヴによってであると私は思っています。70年に有名なモントレーに
おけるステージがA面ジミヘン・B面オーティスという抱き合わせの形でリリースされゴールドディスクの
大ヒットとなりましたが、単独のライヴ盤で有名なのは生前唯一の「Live in Europe」(67年)と
68年にリリースされた「In Person at the Whisky a Go Go」でしょう。
上は「~ヨーロッパ」から言わずと知れたローリング・ストーンズの「Satisfaction」。
恥をしのんで白状しますが、その盛り上がり方からこれはロンドン公演を収録したものと
永い事思っていましたが、今回調べてみると本作は全曲67年3月のパリ公演を収録したものでした・・・
それはさておき(何が ” さておき ” だ … )、ロンドンの若者たちが米ブラックミュージックに
憧れて創った曲を、本場の黒人シンガーが本曲をレパートリーにして欧州で大歓声を浴びる、
何とも素敵な関係性ではありませんか。以前にも同じ事を書いた様な気がしますが、
政治的にアメリカとイギリス・フランスといった欧州諸国の関係が必ずしも良好ではないかも
しれませんが、ことポップミュージックの分野においては幸せな関係を築いていると思います。

「~ウィスキー・ア・ゴーゴー」は白人ミュージシャンの聖地とされていた当ライヴハウスに
黒人として初めてステージに立ったのがオーティスである事でも有名。
上は言うまでもないジェームス・ブラウンの「Papa’s Got a Brand New Bag」。
二枚のライヴ盤はリリース順は「~ヨーロッパ」の方が「~ウィスキー・ア・ゴーゴー」よりも
先ですが、収録はその逆。「~ウィスキー・ア・ゴーゴー」は66年4月、「~ヨーロッパ」は
先述の通り67年3月であり、つまり「~ヨーロッパ」はモントレーの直前です。
聴き比べると「~ヨーロッパ」の方が苦しそうな歌い方をする個所があります。この時から
喉の不調は始まっていたのかもしれません。

ボクシングでファイタータイプのボクサーというのがいます。漫画でいうと「〇〇〇の一歩」
みたいな。自分がダメージを受けてもそれを物ともせず前に出て戦う、それは決して
良いスタイルではなく、基本は ” 打たせずに打つ ” が理想なのだそうですが、人はそんな自らの
選手生命を縮めてでもその瞬間を生きる様なタイプのボクサーに思い入れします。
突拍子もない喩えですが、私はオーティスにファイタータイプのボクサーを重ねてしまいます。
声楽・ボイストレーニングには無知な私ですが、オーティスの歌唱スタイルは決してシンガー生命を
永く持続させる様なものではなかったと何かで読んだ記憶があります。しかしそれでも、
喉を潰すことも厭わずに全身全霊を振り絞って歌う彼の姿に人々は心を震わされたのだと思います。
ポリープの手術後、「ドック・オブ・ベイ」の様な路線で歌い続ける事となったのか、それとも
また激しいシャウトで聴かせることとなったのか、亡くなってしまった後の事を妄想しても
仕様もないことですが、それでもファンはそれに思いを馳せてしまうものなのです・・・・・・
それも残された者の特権ですからね。

最後に印象的な動画を一つ。66年にイギリスのテレビ番組にアニマルズのエリック・バードン達と
出演したもの。「シェイク」から途中で「ダンス天国」へ、ちょうどウィルソン・ピケット版が
大ヒットしていた頃ですから。イギリス人のブラックミュージック好きは折に触れ述べてきましたが、
黒人音楽に心酔仕切ったバードンらと共に盛り上がるその姿は観ていて清々しいです。
私は世界平和とか、人類みなナントカとかは土台無理だと思っている人間です。どうしたって
分かりあえない、利害の相反する事が先立っていがみ合う国や民族は存在します(どこの国とは
言ってませんよ・・・)。それでも少なくともポップミュージックの分野においては、
米国黒人と英国白人達がこんなにも溶け合っている姿は好ましいと思ってしまいます。

オーティス・レディングは今回で終わりです。もう11月も半ばですね ………………
アレ!!ってコトは!!今年もあと少しじゃね ( ゚Д゚)!! ・・・・・・・・・・・・・・・・

#143 Try a Little Tenderness

前回「I’ve Been Loving You Too Long(愛しすぎて)」をあげた際にさらりと述べましたが、
モントレー・ポップ・フェスティバルという67年に行われた有名なコンサートに
オーティス・レディングも出演しました。ジミ・ヘンドリックスとジャニス・ジョプリンの回でも
当コンサートについては触れました。それまで無名の存在であったジミヘンとジャニスを
一夜にしてスターダムにのし上げた伝説的なステージ。二人のパフォーマンスが聴衆の度肝を
抜いた事に間違いはないのですが、実は最もオーディエンスを熱狂させたステージは
オーティスのものであったと、コアな音楽ファンの間では語り草となっています。

https://youtu.be/xcOfz21MbMA
黒人層においては不動の人気を固めていたオーティスですが、こと一般白人リスナーの間では
まだまだその知名度は低いものでした。時代背景が全く違うので、私が経験した80年代以降では
考えられないことですが、白人層はソウルを聴くなど以ての外(一部のファンを除いて)、
という風潮だったそうです。しかしオーティスのステージはそれを見事に吹き飛ばしてしまいました。
上はその中の一曲「Try a Little Tenderness」。一聴瞭然です、このステージで熱くならない
音楽ファンなどいないでしょうから。

時系列的には少し遡りますが、66年には4thアルバム「The Soul Album」をリリース。
上はオープニング曲である「Just One More Day」。静かなギターのアルペジオから
徐々に盛りあがりを見せるスタイルはオーティス及び演奏とソングライティングを担った
スティーヴ・クロッパーの十八番と言えるでしょう。

同年10月にもアルバムを発表します。「Complete & Unbelievable: The Otis Redding
Dictionary of Soul(ソウル辞典)」のオープニング曲「Fa-Fa-Fa-Fa-Fa (Sad Song)」は
代表曲の一つであり、本曲もオーティスとクロッパーの共作です。

これも有名なやつですがビートルズ「Day Tripper」。ジョンやポールが黒人音楽に熱中していた事は
あまりにも有名ですけれども、「デイ・トリッパー」は本来「ラバー・ソウル」に
収録されるはずだったとかでないとか … ビートルズファンや洋楽通には今更なエピソードですが、
「Rubber Soul」とは紛い物のソウルミュージックという意味を含めたもの。紛い物の意味では
” plastic ” が普通だそうなのですが、プラスティックならゴム(rubber)も一緒、そして
” rubber sole(ゴム底靴)” とかけてジョンがタイトル付けしたというのは有名な話し。
英国人気質を実によく表した逸話ですが(特にジョンの)、所詮我々のソウルはなんちゃって
ソウル、という自嘲的な意味も勿論あったのでしょう。しかし、私はある意味ジョン達の何でも自分達なりの
音楽に取り込んで見せる、という自負の意味合いもあったのではないかと勝手に思っています。
古くはケルト音楽やブリティッシュトラッドフォークなど英国固有の音楽が有ることには有りますが、
北米のソウル・ブルース・カントリー、そしてそこから派生したR&Rや、中南米音楽などに
憧憬を抱いていたイギリス人ミュージシャン達は、イギリスには固有の音楽がない(これは他人の
芝生はナントカだと思いますがね … )、だからこそ他国の文化でも取り込めるものは何でも取り込もうと
いった姿勢の裏返しだったのではないかと思うのです … あれ?ビートルズ回じゃないよね?・・・
いずれにしても面白いのは、逆輸入の形で本場のオーティスがビートルズやストーンズを
カヴァーしたのは誠に興味深い事です。当然の事ながらポップスチャートを賑わせているヒット曲を
取り上げれば一般にウケが良い、という目論見があった事は否定出来ませんが、しかしオーティスや
ブッカー・T&ザ・MG’sの面々にとっては、それらイギリス勢が自分達なりに消化(昇華)した
ブリティッシュソウル・R&Bとでも呼ぶべきものに並々ならぬ関心を抱いたのではないかと
思うのです。特にMG’sは黒人・白人二人ずつの混成バンドなので余計に触発されたのでは?

67年3月には6thアルバムである「King & Queen」(カーラ・トーマスと共作名義)をリリース。
上はオープニング曲である「Knock on Wood」。R&Bチャートで5位、ポップスチャートでも
36位と初めてTOP40入りします。

オーティスは64年1月のデビューアルバムから上記の「King & Queen」まで、わずか3年あまりで
6枚のアルバムを出した事になります。ちょっと異常とも言えるペースです。それはまるで、
生き急いでいるかの様にも思えてしまいます・・・・・・・・・・続きは次回にて。

#142 Otis Blue

オーティス・レディングを語る上で欠かせないのは、その演奏及びソングライティングを務めた
ブッカー・T&ザ・MG’sの存在です。彼らについてあまり詳しく言及するときりがないので、
以降ではオーティスに関わる点のみに絞り折に触れ述べていきます。

チャートアクション的に代表作と言えば、遺作となった「The Dock of the Bay」(68年)なのですが、
オーティス及びソウルファンが彼の最高傑作と口を揃えるのが65年発表の
3rdアルバムである「Otis Blue/Otis Redding Sings Soul」です。
おそらくは最高に脂がのっていて、後に触れる事ですが喉を傷める前の状態で録音が出来た、
歌・楽曲・演奏と三拍子が揃ったソウル史に残る大傑作です。上はブッカー・T&ザ・MG’sの
ギタリスト スティーヴ・クロッパーのペンによるオープニング曲「Ole Man Trouble」。

アレサ・フランクリンの大ヒットで有名な「Respect」はオーティスのオリジナル。
裏話として、自分の曲で吹き込みも先であったのに、アレサ版が大ヒットした事に
かなりの嫉妬を抱いていたようです。しかしどちらも名唱である事に異論はないでしょう。

https://youtu.be/rI_zG2eWGE4
サム・クックのA-③「A Change Is Gonna Come」も素晴らしい事この上ないのですが
涙をのんで割愛。
上はオーティスによる代表曲の一つである「I’ve Been Loving You Too Long
(愛しすぎて)」。67年のライヴとしか動画の記述はありませんが、言うまでもなく
あまりにも有名なモントレー・ポップ・フェスティバルにおける歌唱です。
オーティスやアレサ、ロイ・オービソンにコニー・フランシスといった、
持って生まれた声・歌唱能力というものに対して、凡人は抗えないのではないかと
思わされてしまいます。私はシンガーでなくて良かった(でも器楽演奏も天賦の才が
左右するという事は30年以上楽器を演ってきてイヤという程思い知らされましたがね … )。

41年ジョージア州生まれ。六人兄弟の四番目にして長男。黒人シンガーの多くがそうである様に
幼少の頃から教会の聖歌隊で歌い始めます。10歳にて歌とドラムを習い始め、高校時代には
バンドでヴォーカルを務めます。毎週日曜日には地元のラジオ局でゴスペルを歌って6ドルを
得ていたそうです。影響を受けたのはリトル・リチャードとサム・クック。特にリトル・リチャードに
心酔しており、” リチャードがいなかったら今の自分はない ” と語っている程です。動的で
激しいシャウトはリトル・リチャードにインスパイアされたものでしょう。
15歳の時に父親が病気になり、家計を支えるために高校を辞めて建設現場・ガソリンスタンド店員、
そしてミュージシャンとして働き始めます。
陽の目を見るきっかけは58年に行われた地元のコンテストにて。15週連続でそのコンテストを
勝ち抜け5ドル(現在の価値で43ドル)を手にしました。ちなみにジョニー・ジェンキンスが
その場におり、後に彼のバンドでバッキングヴォーカル兼運転手を務めるのは前回述べた通りです。

サム・クックのナンバー「Shake」はリズミックな所謂 ” ハネる ” ナンバー。オーティスの歌は
勿論の事、アル・ジャクソンのドラムも絶品。アルは決して技巧派のドラマーではなく、
むしろどれだけ音数を減らし、その中で表現が出来るかを追求したドラマーです。
本年一発目のテーマであるアル・グリーン「Let’s Stay Together」(
#101ご参照)などは
その極地と言われています。本曲は比較的音数が多い方ですが、3連符の中に16分音符の
フレーズを入れる所などが ” 味なプレイ ” です。

本作のB面は「Shake」を皮切りに全てがカヴァー曲。テンプテーションズ「My Girl」、
これまたサム・クックの「Wonderful World」、そしてローリング・ストーンズ「Satisfaction」と
目白押しですが、なんとこの曲も取り上げています。泣く子も黙るB.B.キング「Rock Me Baby」。
ブルースを歌わせても天下一品です。ソウルもブルースも根っこは演歌と一緒だと私は思っています
(ソウル・ブルースファン、演歌ファン、どちらにも誤解を招きそうな表現かもしれませんが、
人の感情の根源を揺さぶる歌唱・演奏という点ではどちらも共通しているものがある、という意味です)。

エンディング曲はウィリアム・ベルによる61年のヒット「You Don’t Miss Your Water
(恋を大切に)」。ウィリアム・ベルはオーティスと同じスタックスレーベルの所属でした。

本作は米R&BチャートでNo.1となります(ポップスでは75位)。面白いのはイギリスでは
最高位6位でシルバーディスクを獲得します。実は本国において奮わなかったデビューアルバムから
英ではTOP40入りしており、イギリス人のブラックミュージック好きが顕著に表れています。
ソウル・R&Bにかぶれたストーンズは勿論、ジョン・レノンやポール・マッカートニー、
ピート・タウンゼント、キンクスのデイヴィズ兄弟といったブリティッシュ・インヴェイションの
面々たちは挙って、この突拍子もない天才ソウルシンガーに夢中になったと言われています。

この様に米ソウル界及び海を隔てた英国では不動の人気を固めていったオーティスでしたが、
米ポップスチャートを見ればわかる通り、白人層への浸透度はまだ十分とは言えませんでした。
60年代中期ではまだまだ白人のロック・ポップス、黒人の為のソウル・R&B・ファンクと、
音楽も訳隔てられていたのです。そんな状況に転機が訪れるのは・・・
その辺りはまた次回にて。

#141 Pain in My Heart

ブログの回数的には少し遡りますが、ロバータ・フラックやダニー・ハサウェイが在籍した
レコード会社としてアトランティック・レコードの名がたびたび挙がりました(ダニーは
子レーベルのアトコ)。50年代にはレイ・チャールズが在籍し、昨年他界したアレサ・フランクリンを
はじめとして、多くの黒人ソウルシンガーを輩出しました。ロバータやダニーは王道のソウルからは
別ベクトルのミュージシャンであったと思います。モータウンソウルやシカゴソウルなどと共に、
アトランティックソウルという言葉があるほどにソウルミュージックの一ジャンルとされている程の
レコード会社ですが、その代表格は女性なら先に挙げたアレサ、男性ならば・・・
そうです、それが今回からのテーマであるオーティス・レディングに他なりません。

以前どこかで書いた記憶があるのですが、あなたにとっての男性ソウルシンガーは?と問われれば、
私は躊躇なくオーティスを挙げます。さらにこれは私の勝手な思い込みですが、オーティスは
米国黒人層にとっての日本における演歌の様な音楽だとおもっています。実質的な活動期間は
7~8年という、決してキャリアが長かった人ではありませんが、どうしてこれほどまでに
古今東西を問わず支持されているのか、駆け足ですが私なりに書いてみます。

ロバータやダニー同様に、その生い立ちから音楽的キャリアの出発点等を時系列で触れていくと
初回がほぼそれだけで埋まってしまうので、それは折に触れ。
上の動画は最初のヒット曲「These Arms of Mine」(62年)。本国で80万枚以上を
売り上げたとされる本曲にてオーティスは世に認知されました。
本曲はオーティスがバンドメンバー兼運転手を務めていたジョニー・ジェンキンスバンドの
録音の ” たまたまついでに ” 録られたものだとされており、それがレコード会社の
お偉方の耳に留まり、レコードデビューと相成ったとされています。しかし実際はオーティスの
評判をあらかじめ聞いていて、ジェンキンスと共にオーティスのレコーディングも
予定されていたというのが実際の所だそうです。
とにかく驚愕するのは、これが20~21歳の青年による歌唱だという事です。シンガーでも
器楽演奏者でも、10代で既に完成されているミュージシャンがいない訳ではありませんが、
オーティスもその一人でしょう。

記念すべきオーティスのデビューアルバムが「Pain in My Heart」(64年)。上は
そのタイトルトラック。お世辞にも都会的・洗練されているとは言えない歌唱と演奏ですが、
米南部の雰囲気を赤裸々に表したのが、所謂 ” ディープソウル ” と言われる所以です。

サム・クックの大ヒット曲「You Send Me」。テイストが似ているとよく言われる
サムとオーティスですが、どちらも素晴らしい事に間違いありません。
ちなみに上の動画のサムネが「Pain in My Heart」のアルバムジャケットですが、
これはアポロ・シアターに初めて出演した時のスナップだそうです。シンガーというより
政治家の演説の様にも見えますね。

翌65年の2ndアルバム「The Great Otis Redding Sings Soul Ballads(ソウル・バラードを歌う)」はタイトル通り殆どをバラードで締められた作品なのですが、エンディング曲でシングルカット
された上の「Mr. Pitiful」は軽快なナンバー。カヴァーの方が多い本アルバムにおいて、
本曲はオーティスとギタリスト スティーヴ・クロッパーによるオリジナル。

もう一曲はバラードを。ジェリー・バトラーやカーティス・メイフィールドが在籍した事で知られる
インプレッションズのナンバー「For Your Precious Love」。これが20代前半の若者による歌唱とは …

「ソウル・バラードを歌う」はR&Bチャートで3位まで昇り詰め、オーティスの人気を決定的な
ものとします。ここから畳みかけるようにその快進撃が始まるのですが、その辺りは次回以降にて。