#134 Extension of a Man

ダニー・ハサウェイのミュージシャンとしてのキャリアは、カーティス・メイフィールドが設立した
カートム・レコードにおけるソングライター・プロデューサーとしての立場から始まります。
ダニー自身もカートムでシングルを一枚レコーディングしており、その後アトランティックの
子レーベルであるアトコと契約し、1stアルバムにも収録された「The Ghetto」(69年)で
シングルデビューする事となります。

ロバータ・フラックとの共作「Roberta Flack & Donny Hathaway」(72年、#129ご参照)、
と前回取り上げたそれに先立つ自身のライヴアルバム「Live」の大ヒットによって、
ダニーの名はニューソウルにおける急先鋒の一人として世間に知られる所となります。
そのダニーが満を持して発表した4thアルバムが「Extension of a Man」(73年)であり、
上はオープニングナンバー「I Love the Lord; He Heard My Cry」と2曲目の
「Someday We’ll All Be Free」。クレジット上は別の曲ですが、メドレーとなって
いるので実質一つの曲として捉えるのが適当でしょう。
いきなり荘厳な、本アルバムが大作であるのを感じさせる始まり方です。従来の作品とは
カラーが明らかに異なり、良い意味で期待を裏切ってくれています。5:32からが
次曲「Someday We’ll All Be Free」ですが、その前辺りからエレピやハープ(竪琴の方)の
音で雰囲気がガラッと変わりメローな本曲へと移っていきます。アコースティックギターの
音色の美しさも見事で(コーネル・デュプリーかデヴィッド・スピノザのどちらか)、
更にホーンとストリングスが見事な彩を添えて非常に贅沢な作りです。勿論それに相応しい、
言い換えれば負けていない楽曲であるからこそこれだけのアレンジが映えるのです。

「Flying Easy」と「Valdez in the Country」は共にリズミックでクロスオーヴァースタイルの曲。
前者は過去にインストゥルメンタルで録音した事のある楽曲でしたが、本作で歌詞を付け改めて録音した
との事。エレピが印象的ですが、前回ダニーが使用していたのはウーリッツァーと述べましたけれども、
本作ではフェンダー社のローズピアノを採用しています。これぞ ”エレピ” といったお馴染みの音色です。

アル・クーパーの曲であるスローナンバー「I Love You More Than You’ll Ever Know」。
ダニーの切ないヴォーカルが映えており、バックの演奏も秀逸。コーネル・デュプリーのヴォリューム奏法
(ピッキング時はギターの音量をゼロにし、その後上げていく事で独特の効果を出す)が素晴らしい。

珍しく(?)正統派的ソウルナンバーの「Come Little Children」。のっけからシャウトするのはダニーと
してはレアなヴォーカルスタイルです。鼻にかかってくぐもった様な歌い方が特徴ですが、スティーヴィー・
ワンダーと確かに酷似しています。前々回、スティーヴィーがダニーを参考にしたと述べましたが、
お互いにインスパイアされていたのではないかな?と私は思っています、声質が似てますからね。

本作でもっとも親しみやすく、そしてシングルカットされた「Love, Love, Love」。オリジナルでは
ないものの、女性コーラスの入れ方などを聴くとマーヴィン・ゲイの「ホワッツ・ゴーイン・オン」や
「マーシー・マーシー・ミー」が元イメージであるのかなとも推察されますが、いずれも名曲である事に
間違いはありません。ラルフ・マクドナルドのパーカッション、ウィリー・ウィークスのベースが
素晴らしい事この上ない。

「The Slums」は一転してヘヴィーなファンクナンバー。デュプリーのギター、ウィークスのベースは
彼らの真骨頂とも言えるプレイです。タイトルがひたすら掛け声で繰り返されるだけで(あと後ろで
人の声が聴こえますがスラムの喧騒を表したのでしょう)、基本的にはインストゥルメンタル。
しかし歌詞は無くとも黒人差別・貧困問題などを提起しているように聴こえるからこれが不思議。
伝える手段は必ずしも言葉だけではないという事でしょうか。

ラグタイムやヴォードヴィル風の軽快なナンバー「Magdalena」は本作では異色の楽曲ですが、
これがアクセント、良い意味で箸休め的な存在になっています。マグダレーナはヨーロッパ系の
女性名なので、やはり欧州ヴォードヴィルショーのイメージなのかな?と思われます。

エンディングナンバー「I Know It’s You」。ラストを飾るに相応しいエモーショナルな
楽曲であり、ダニーの歌唱も同様です。全然話は変わりますが、出だしにおけるピアノのフレーズが
吉田美奈子さんの名曲「時よ」(78年)の歌い出し ” 秘かに会った … ” とそっくりなのですが、
こういうのはパクリとは言いません、「リスペクト」「オマージュ」というやつです。
パクリというのは・・・・・あぶねえ … 言いそうになった・・・・・・・

先述の通り、本作はそれまでの作品とは方向性が違います。半分近くがカヴァーなので、
歌詞にストーリー性があるとかは当然無いのですが、所謂トータルコンセプトアルバムを
意識して創ったのではないかと思えるのです。フー「トミー」やピンク・フロイド「狂気」
などが有名ですが、そこまではいかなくとも壮大なオープニング曲や個々の楽曲の配置、
そして先ほどは楽曲毎の歌詞に繋がりは無いと言いましたが、各曲名及びアルバムタイトル
(直訳すれば ”人間性の拡張” )などが意味深く、顕著なのはオープニングが ” 主よ愛しています:
主は私の嘆きを聞いた ” で始まりエンディングが ” 主よ御助けを ” ですので、
そこに何かしらのダニーによる思い(想い)を感じざるを得ません。デビュー作からキリスト教的
感覚があったのは間違いない事なのですが、しかし本作では更にそれを推し進めた、
明らかにそれまでとは異なる、並々ならぬダニーの本作に対する意気込みが伺い知れるのです。
しかしながら、作者の作品に対する入れ込みようと商業的成功が必ずしも比例しないのは
世の常であり、本作はポップス69位・R&B18位と、ロバータとのアルバムや「Live」と
比べてお世辞にもヒットと呼べるものではありませんでした。
そして結果的に、ダニーの生前における最後のオリジナルアルバムとなります。

ダニーは作品が世に認められ始めた頃、一方で精神疾患(躁鬱病とも統合失調症とも言われる)に
悩まされるようになり、そしてそれにより周囲と軋轢を生み始め、やがては盟友である
ロバータとも一時袂を分かつことになってしまい、しばらく表舞台から姿を消します。
その様な状況でありながらも音楽をやめる事は出来ず、その時期も場末のライヴハウスなどで
演奏は続けていたと言われています。かつては全米TOP10ヒットを飛ばしたミュージシャンが、
わずかその数年後にはうら寂れたクラブで歌っているというのは、なかなかに悲壮感が漂いつつも、
まるで伝記映画的展開とも取れるのですが、その後ダニーはどうなるのか?
続きは次回にて。

#133 Live

ダニー・ハサウェイは45年シカゴ生まれ。その後セントルイスで少年期を過ごします。
ゴスペルシンガーであった祖母の影響から3歳でピアノを始める事に。やがて奨学金を得て
名門ハワード大学へ入学し、ロバータ・フラックとも同校で出会う事となるのですが、
#129で既述なのでその辺は割愛。67年、卒業を目前にして中退しプロの道へ進みます。

話は唐突に変わりますが、ライヴアルバムの決定盤は?と問われれば、リスナーによって
百人百様なので決められる訳がありません・・・・・・・・あ、これでは話が終わってしまう …
オールマン・ブラザーズ・バンドの「フィルモア・イースト」だ、いや!ディープ・パープルの
武道館ライヴだ、ナニ言ってんだ!アレサ・フランクリンのフィルモア・ウェスト以外は
認めねえ!! … 等々、洋楽ファンが泥酔して談義するとこんな感じでしょう・・・
どれか一枚など端から無理なのは決まってますが、少なくとも本作は決定盤の一つとして良いでしょう。
ダニー・ハサウェイ「Live」(72年)。A面がL.A. 、B面がN.Y. のライヴハウスで行われた
演奏を収録した本作は、絶頂期のダニーを見事なまでに切り取った名盤です。
全曲素晴らしい演奏である事は言うまでもないのですが、やはり本作を名盤たらしめているのは
この演奏に他なりません、それは「What’s Going On」。マーヴィン・ゲイによるこの不朽の名曲、
数えきれない程のカヴァーがありますが、オリジナルと肩を並べられる価値があるのは
本テイクのみです。原曲よりもジャズ的でフリーなフィーリングでもって演奏される本曲、
ダニーの歌、バンドの演奏、そして聴衆のリアクションまでも(これ、ライヴ盤では重要です)、
その全てが渾然一体となって歴史的な名演へと昇華せしめているのです。4:15辺りからの
ダニーによるエレピのプレイ、四分の四拍子に三拍子フレーズ(一拍半)を織り交ぜたこのプレイは
カビが生えている、と言って良い程に使い古されているフレーズですが、この時はダニーを含め、
この場にいた全員に ”何か” が降りていたのでしょうか?異常なテンションです。
フレーズの終わり頃で聴けるダニーの感極まった掛け声でそれがわかります。
本曲程ではないにしても、私も二度だけこれに近い感覚を味わった事があります。どちらもプロでは
ありますが、失礼を承知で言うと決して世間一般に知られているミュージシャン達ではありませんでしたし、大きなホールやライヴハウスでもありません。しかし音楽の神か悪魔かはわかりませんが、
異常なテンションに包まれているのを感じました。
名演というものは、今日もどこか場末のライヴハウスで生まれているのかもしれません。

1stに収録されていた「The Ghetto」。ライヴならではのインストゥルメンタルを強調した演奏。
ダニーのプレイにおいて、エレクトリックピアノが重要な位置を占めていますが、彼が使用していのは
ウーリッツァー。エレピと言えばフェンダー社のローズピアノが有名ですが、ウーリッツァーは
それに次ぐエレピの代表格。正直キーボードに疎い私はあまり違いが判らないので、
言われてみれば音色は違うな、くらいのもです。自分の理解としてはローズはリチャード・ティー、
ダニーの音色がウーリッツァー、と認識しています(キーボードに詳しい人、ツッコミはご勘弁 … )。

A-③の「Hey Girl」。デビュー時からダニーの作品に関わっているフィル・アップチャーチの
ギターが印象的です。やはりインストゥルメンタルに比重が置かれているのは他曲と同様で、
後半のダニーのプレイが活き活きとしています。彼は超絶技巧のキーボーディストという訳では
ありませんが、楽器の歌わせ方が見事です。エリック・クラプトン回#8にて、歌心があるプレイは
やはりシンガーである事に起因しているのではないか、と書いたことがありますが、ダニーも
同様ではないかと思っています。もっともジェフ・ベックのように歌がヘタでもギターを歌わせる
事が出来るプレイヤーもいますが・・・・・謝れ!ジェフに全力で謝れ!!━(# ゚Д゚)━・・・・・

A面ラストはブレイクのきっかけとなった「You’ve Got a Friend」。涙を飲んでこれは割愛。
B-①「Little Ghetto Boy」。「The Ghetto」同様に黒人の貧困を取り上げており、かなり悲惨な
内容ですが最後は ”希望を持って少しでも変わるんだぞ、ゲットーのおチビちゃん!” とポジティブに
締めています。「What’s Going On」と同じくウィリー・ウィークスのベースが非常に印象的。

B-②の「We’re Still Friends」はダニーのエモーショナルな歌が堪能できるスローナンバー。
B面(N.Y. 録音)はギタリストが違います。一人は言わずと知れたコーネル・デュプリー、
もう一人がマイク・ハワードというプレイヤー。右チャンネルがデュプリー、左がハワードで、
ソロはデュプリーによるもの。ダニーのエモーショナルなヴォーカルへの ”絡み” が素晴らしい。
余談ですが、裏ジャケットはN.Y. でのライヴにおけるスナップを使用していますが、
デュプリーのギターのボディ部分は暗くて見えず、ネックから先が何とか確認出来る程度ですが、
ヘッドの形状からしてフェンダー テレキャスターと思われます。彼はテレキャスの使い手として
有名であり、音色からしてもフェンダー系のシングルコイルの音なので間違いないでしょう。
前回も触れた通りデュプリーはキング・カーティスのバンドにいましたが、
その時はギブソン(フルアコ)を使っていたようです(65~66年頃)。N.Y. での録音は
71年10月ですが、70年前後がギブソンからテレキャスへの切り替え時期だったのかもしれません。
やはりそれにはジミ・ヘンドリックスの影響があったのかな?と推察も出来ますが・・・

何と次の曲はジョン・レノンの「Jealous Guy」です。ジョンのソロキャリアにおける代表作
「イマジン」に収録されているナンバー(でもイマジンが一番
か?というと私は決して
そうは思わないんですがね・・・・・・ 一言余計だ!! ( ゚Д゚)┌┛Σ( ゚∀゚)!!!)。
「イマジン」の発売は71年9月、つまりリリースほやほやのアルバムからシングルカットされた
訳でもない本曲を取り上げたのです。後世でこそジョンの重要な曲と位置付けられていますが、
やはりダニーの選曲眼には感服させられます。本演奏においてはマイク・ハワードが
オブリガード(歌の合いの手)を弾いています。

エンディングは1stアルバムのタイトルチューン「Voices Inside」。14分弱という長尺の
演奏は当然インストゥルメンタルのパートがフィーチャーされていて、というよりも原曲自体が
コーラスとダニーの掛け声の様なものだけであり、歌らしい歌は元々無いのですけれども。
ダニーのエレピ、ハワード、次いでデュプリーのギター、そしてウィークスのベースと
ソロプレイが回されていきます。百聞は一聴にしかず、とにかく素晴らしい。
本曲でのソロはありませんが、ドラムとパーカッションも秀逸です。さっきは触れ忘れましたが、
「The Ghetto」におけるリズムソロも見事。ドラムはフレッド・ホワイト、
アース・ウィンド・アンド・ファイアーの初期メンバーであり、本作のレコーディング時は若干16歳。
派手さはありませんが、竹を割ったようなスネアの音色とグルーヴが素晴らしい。

本アルバムは72年2月の発売、「Roberta Flack & Donny Hathaway」が5月、そして
シングルヒット「Where Is the Love」が6月と、ロバータとの共演によるブレイクの
直前にリリースされた訳です。率直に言うと、本作のヒットは(ダニー単独の名義では唯一の
ゴールドディスク)「Where Is the Love」が世間に認知された故の事かもしれず、つまり
これだけの傑作でも、以前であれば広く世に知られる事もなく埋もれてしまった可能性もあるのです。
しかしながら、私は運命論とか全く信じない人間ですが、ダニーとロバータ両人による、
この時期の異常とも言える作品のパワーが、所謂 ”ツキ” の様なものを呼び寄せ、
ヒットしたのではないかと思えてならないのです。

#132 Donny Hathaway

ピーター・バラカンさんが以前ラジオで、ダニー・ハサウェイとスティーヴィー・ワンダーは
歌唱スタイルが似ていると常々思っていたが、ある日スティーヴィーのコメントの中で
ダニーの歌い方を真似た、の様な内容を読んで納得がいったと語っていました。
確かに二人の歌い方には似たところがあります。若き日のスティーヴィー(二十歳前後)が
自身のスタイルを確立する上でお手本にしたのがダニー・ハサウェイだったのです。

2ndアルバム「Donny Hathaway」(71年)。自身の名を冠した本作はプロデューサーに
ジェリー・ウェクスラーとアリフ・マーディンの二人、アトランティックレコードの要人達が
名を連ねています。1stは決してセールス的に成功したアルバムではありませんでしたが、
それでもこの会社の力の入れ様からして、いかにダニーを買っていたかがわかります。
オープニングナンバー「Giving Up」はヴァン・マッコイの作。「ハッスル」が余りにも
有名すぎてディスコの立役者、という印象ばかりが先走ってしまいますが、「ハッスル」以前は
ブラックミュージック界を作曲・プロデュースによって裏方で支えていた人です。
今回調べていて初めて知ったのですが、実はダニーと共通点が多いのです。幼いころ聖歌隊で
歌っていた(もっともこれは黒人シンガーでは珍しくないのですが)、ハワード大学に入学して
どちらも中退、そして亡くなったのも同じ79年です(ただの偶然ですけどね・・・)。
胸が締め付けられる程切ないのダニーの歌、サックスソロは師匠的存在であったキング・カーティス。

本作において最も知名度のある曲がA-②「A Song for You」でしょう。奇才(鬼才)レオン・ラッセル
による余りにも有名なナンバー。有名すぎるので詳しくは割愛しますが、全てのヴァージョンを聴いた
訳ではないのですが(200人以上にカヴァーされているので聴けるはずありません・・・)、
本曲の解釈として最も秀逸なテイクの一つと言って間違いないでしょう。

A-③「Little Girl」は ” 5人目のビートルズ ” として知られるビリー・プレストンの楽曲
(もっともこの言い方はビートルズとの活動以外を認めていない様でプレストンにとって非礼なのですが)。
オルガンはプレストンかと思いきやダニー本人、チャック・レイニーのベースも印象的です。

「He Ain’t Heavy, He’s My Brother(兄弟の誓い)」は英国バンド ホリーズで有名な曲ですが、
ダニーの手に掛かるとダニーの曲となってしまいます。「ふられた気持」「ミスティ」なども
そのオリジナリティー溢れた解釈は、どうしてこういう発想が生まれるんだろうと感服する限りです。
ダニーもロバータ・フラックも他人の曲を絶妙かつ、目からウロコ的にアレンジする天才ですが、
これはジャズメンの発想でしょう。オリジナルを書いて自身のそれが売れるのは勿論、他人にもカヴァーされ
印税がガバガバ入った方が儲かるのは明らかなのですが、それにはあまり興味がなかったのでしょうか?

「I Believe in Music」はカントリーシンガー マック・デイヴィスの曲。カントリーもダニーに
かかればソウルになる、と思いきや、原曲からしてかなり黒っぽいものでした。不勉強で
マック・デイヴィスに関しては全く知識が無いので他の曲も同様なのかはわかりませんが、
かなりソウルフルな歌い方をする人であり、コーラスもゴスペル風のもの。
ダニー版もそれを踏襲していて、つまり本曲はオリジナルのテイストを尊重しているのです。
ダニーはいたずらに奇抜なアレンジをしている訳ではなかったという事です。

エンディングナンバー「Put Your Hand in the Hand」。カナダ人ソングライター ジーン・マクレランに
よる本曲は、同じくカナダのバンド オーシャンにより全米2位まで昇った曲(ちなみにトップを阻んだのは
スリー・ドッグ・ナイトの「ジョイ・トゥ・ザ・ワールド」)。ゴスペルテイストのカントリー、とでも
形容出来る本曲は、ダニーの手によって見事なゴスペルソングに仕立て上げられています。

先述した事ですが、如何にアトランティックによるダニーへの期待が大きかったかが伺い知れます。
既に挙げたキング・カーティスやチャック・レイニーの他にも、ギターにコーネル・デュプリー
(昔キング・カーティスバンドにいた関係かも?ちなみにその当時にはジミヘンも在籍。#43ご参照)、
ドラムはブッカー・T &The MG’sでの活躍が有名なアル・ジャクソン。ブラックミュージック特集
第1回目のアル・グリーン「Let’s Stay Together」も彼によるプレイですが(#101ご参照)、
無駄な音を排した究極のシンプル、とも言えるドラミングは現在でも賞賛され続けています。
本作はポップスチャートでは89位と前作同様に奮わなかったのですが、R&Bでは6位に
チャートインし、黒人層への支持を着実に得つつありました。
そしてロバータ回へと繋がるのですが、その辺りはまた次回にて。

#131 Everything Is Everything

前回まで続けてきたロバータ・フラック回は決してまだ終わっていないのですが、
一度中断して、というよりも、この人についてはロバータと同時進行で語らなければならぬ事を
思い知りました。言うまでもなくダニー・ハサウェイです。
出自・生い立ち・音楽的バックグラウンドなどはロバータ同様においおい触れていきます
(それだけでブログ一回分でも足りない位なので・・・)。

ダニーのデビューアルバムである「Everything Is Everything」(70年7月)。
名盤であることは言わずもがなですが、いち早くニューソウルの幕開けを告げたエポックメーキングな
作品です。マーヴィン・ゲイ「ホワッツ・ゴーイン・オン」(71年5月)やカーティス・メイフィールド
「スーパーフライ」(72年7月)といった、同じくニューソウルの金字塔である作品の中でも
先陣を切ったアルバムであり、更に言えば本作から既にダニーのエッセンスが凝縮・完成されています。
オープニングナンバー「Voices Inside (Everything Is Everything)」。副題がアルバムタイトルで
ある本曲は、のっけから尋常ではないテンション感が漂っています。端的に言えば、ポップソングに
別れを告げたという事で尽ると思います。スティーヴィー・ワンダー回でもたびたびその名が挙がった
モータウンの創始者 ベリー・ゴーディが目指した分かり易いソウルミュージックとは違う方向に
向かっていったという理解で概ね良いと私は思っています(違う!という意見もあるのはごもっとも…)。
そのテンションを醸し出している一因はイントロのギターにありますが、これはダニーの作品と
深く関わる事となるフィル・アップチャーチによるプレイ。ちなみに本曲の作曲者(共作)でもあります。

A-②「Je Vous Aime (I Love You)」。曲名は副題をおフランス語にしたものです。彼の奥さんに
捧げた曲で、そして二人の間に生まれた女の子が母親と同じ名前を与えられ、やがてシンガーとなる
レイラ・ハサウェイです。

A-③の「I Believe to My Soul」はレイ・チャールズの楽曲。レイの洗礼を受けていない
黒人ミュージシャンはいないのではないかと思いますが、聖歌隊で歌ってきたダニーにとって、
レイの歌は自身の血となり肉となったものでしょう。

傑作ぞろいの本作にあって、ベストトラックは?と問われれば本曲かな(もう一つありますが)、
と私が思うA-④「Misty」。言わずと知れたジャズピアニスト エロール・ガーナーによる
スタンダードの大定番。図らずもロバータ回にて(#128ご参照)「ミスティ」には触れました。
彼女がブレイクするきっかけとなった映画「恐怖のメロディ」にて、ストーカーが執拗にリクエストを
繰り返す曲として使われています。ですが別に「ミスティ」は怖い曲ではありません。
” 貴方が傍にいると、私は霧に包まれてしまうのよ ” という、小っ恥ずかしくなる程のラブソングです。
原曲はスローのバラード、たまにアップテンポで演るジャズメンもいますが、本曲の様なソウル・ゴスペル
スタイルで演っているのは他に思い当たりません。「Roberta Flack &Donny Hathaway」における
「ふられた気持」の大胆なアレンジも見事でしたが、本曲も勝るとも劣らぬ秀逸なもの。
一聴しただけでは「ミスティ」と気づかないのも同様です。

B-①「Thank You Master (For My Soul)」。B面はA面に比べると長尺の曲となっていますが
(6~7分)、エモーショナルなダニーの歌、文句の付けようもないアレンジ、そして一部の隙も
見当たらない演奏と、私の陳腐な文章では語れません(なので、唯唯聴いてください)。

ダニーにとってその後重要なナンバーとなるB-②「The Ghetto」。タイトル通り、黒人への差別・
貧困などを取り上げた曲です。歌詞に関して興味がある人は各自で調べてください。
意味は判らなくとも、この黒っぽいフィーリングだけでノックアウトされます。

私は神も仏も信じない不信心者ですが、神性を纏った音楽、救いの曲とはこの様なナンバーのことを
言うのではないかと思っています、エンディングナンバー「To Be Young, Gifted and Black」。
「ミスティ」と並ぶ本作の、というよりもダニーのキャリアにおけるベストトラックでは・・・

チャートアクションだけを取ればポップス73位・R&B33位とお世辞にもヒットとは言えませんが、
先に述べた通り、新しいソウルミュージックの到来を告げた大傑作であります。
ロバータ・フラックは勿論の事、マーヴィン・ゲイ、カーティス・メイフィールド、
スティーヴィー・ワンダーなどの新時代におけるソウルの担い手達に多大なインスピレーションを与え
(勿論ダニーも、先輩であるロバータ・マーヴィン・
カーティス達から沢山吸収した結果ですが)、
70年代ニューソウルにおける傑作群の先駆けとなった名盤が本作であるのです。

#130 Killing Me Softly

前回のつづき。ロバータ・フラック「Killing Me Softly with His Song(やさしく歌って)」は
彼女のオリジナルではなく、飛行機で偶然耳にしたことが発端となりカヴァーしたというのは
前回述べました。実は彼女、「Killing Me・・・」というタイトルには眉をしかめたと語っています。
この場合におけるkillは当然 ”人を殺める” ではなく、”悩殺する・魅了する” の様な意だそうです。
つまり ”彼の歌は私を優しくメロメロにしてくれちゃうのよ・・・” くらいの意味なのでしょうが、
やはりそれでもkillという単語にはネイティヴであっても抵抗を感じるようです。
メロディ(歌)は殆ど同じなのに、これだけ印象が変わるというのはやはり楽曲はアレンジに因るところが
大きいのだと改めて認識させられます。先ず以て楽器の編成が違うというのは当たり前ですが、
一か所決定的に異なる部分があります。歌の最後 ” with his song ~ ” のパートが原曲では
マイナーコードである所をロバータはメジャーに変えました。聴き比べてみると確かに印象が
ガラッと異なります。具体的には主メロであるC(五度)の歌にメジャー三度であるAをコーラスで
重ねています(この部分はFコード)。不思議な事にメジャーであるのに不気味さの様なものを感じます。
ロリ・リーバーマンのオリジナル版は思いの丈をストレートに歌ったのに対して、ロバータ版は
女性の情念、愛憎入り乱れた様な感情を感じてしまうのは私だけでしょうか。
ちなみにベースはここでもロン・カーター。ロンのプレイがあるからこその曲とも言えます。

シングル「やさしく歌って」は通算で5週全米1位となり、本曲を含むアルバム「Killing Me Softly
(やさしく歌って)」は米だけで200万枚以上を売り上げこれも大ヒットとなります。
細かい所ですが、楽曲のタイトルには「… with His Song」が付き、アルバムにはそれがありません。
邦題ではどちらも「やさしく歌って」です。上はA-②の「Jesse」、ジャニス・イアンの曲。
ジャニス・イアンはロバータによる本曲のカヴァーにて、この時再度脚光を浴びたと言われています。

A-③「No Tears (In the End)」。「Where Is the Love」と同様ラルフ・マクドナルドによる楽曲。
ロバータとしては珍しい部類の正統派(?)ソウルナンバー。ワウをかけたエリック・ゲイルの
ギターがたまらない。ロバータはシャウトなどしない歌唱スタイルですが、後半の盛り上げ方は
実に見事です。叫ぶだけが盛り上げる術ではないという事です(シャウトが悪い訳ではないですよ … )。

A-④「I’m the Girl」。淡々かつ朗々と歌い上げるロバータとチェロの組み合わせが美しい。

ジーン(ユージン)・マクダニエルズ作のB-①「River」。ロバータはデビュー作からマクダニエルズの
楽曲を好んで取り上げています。黒っぽいフィーリングは同じアフリカンアメリカン同士だからこそ
醸し出せるのでしょうか。

B-②の「Conversation Love」。デビューから70年代のロバータ黄金期をベーシストとして、
またアレンジ・ソングライティング面で支えたテリー・プラメリのペンによる曲。
この時代における、如何にもニューソウル然とした楽曲。やはり弦と管のアレンジが見事です。

B-③「When You Smile」はこれまたラルフ・マクドナルドのペンによる曲。ラグタイムの様な
オールドアメリカンミュージック風の楽曲と演奏は、ロバータとしては珍しく陽気なもの。

エンディングナンバー「Suzanne」。数々のミュージシャンによって歌われているレナード・コーエン作の
曲ですが、ロバータが取り上げるとやはりロバータワールドになります。10分近くに渡る長尺の曲で、
特に山場があるという訳でもなく淡々と進んでいくのですが、テンション感を保ちながら全く飽きる事なく
聴かせてくれます。後半のストリングスとロバータによるスキャットは、静かな嵐とでも形容すれば
よいのでしょうか、抑制を効かせながらもストーリー性を持った素晴らしいアレンジです。

本作はダブルプラチナ(200万枚以上)を獲得し、彼女にとってセールス的に最も奮ったアルバムです。
ロバータ・フラックと言えば「やさしく歌って」、とされる程に彼女の代名詞的作品となりました
(日本ではコーヒーのテレビCMによって特に)。勿論名盤である事に私も異論はありませんが、
あまりにも本曲・本作が有名になり過ぎて、それ以前及び以降の素晴らしい傑作群が世間の耳に
触れづらくなってしまっているのも事実だと思います。「やさしく歌って」を聴けばロバータ・フラックを
理解したつもりになってしまうという弊害をもたらしてしまうのです(何しろ私も昔はそうでした・・・)。
もっともこれはロバータに限った事ではないのですけれども・・・・・・
でもこれは、ちょっと捻くれた私だけの見方だと、どうか読み流してください ………………

ディスコグラフィーだけを参照すれば、ここまでの作品全てがプラチナ・ゴールドディスクを獲得し、
順風満帆なミュージシャンとしてのキャリアを重ねたように錯覚してしまいますが、37年生まれの
ロバータがデビュー作を出したのは69年なので、この時点で32歳。既述ですがブレイクするのは
72年の事なのでこの時既に35歳。名門ハワード大学の大学院まで進みながら、父親の急死によって
大学を辞めざるを得なくなった事も既に触れましたが、やはりミュージシャンの道を諦めきれず、
週末にはナイトクラブなどで演奏していたそうです。ヘンリーのレストランという店で演奏していた
頃にはラムゼイ・ルイスや映画監督のウディ・アレンなどが常連だったとのこと。
そしてやがて評判が広まり、以前書いたようにある人物が推薦しアトランティックのオーディションへと
こぎ着ける事が出来たのです。アレサ・フランクリンやディオンヌ・ワーウィック、そしてダイアナ・ロスの
ように、60年代から若くして成功した黒人女性シンガーとは一線を画すものがあると言えます
(音楽的な優劣ではなく・・・)。要するにロバータ・フラックとは確固たる才能を持ちながら、
なかなかその芽は出なかったのだが、決して諦めることなく地道に活動を続け、やがて自身の道を
切り開いた努力の人だということです。努力をした人が全て報われるとは限りませんが、
努力無しの成功もまたあり得ないのではないかと思うのです。

 

#129 Killing Me Softly with His Song

ロバータ・フラック回の初めから当たり前のようにその名があがっている人がいます。
言わずと知れたダニー・ハサウェイなのですが、皆がダニーについて言わずとも
知れているという訳ではないでしょうから、ここで彼について触れておくべきでしょう。
勿論本気で書くと収拾が付かなくなるので、あくまでロバータにまつわる事柄のみを。

45年生まれであるダニー・ハサウェイは37年のロバータとは八歳も違うわけですが、
二人の出会いはハワード大学であったとされています。その歳の差からして当然に
ダニーが入学した18歳時にロバータは二十代半ばなので、彼女はその時既に大学院に
進んでいたでしょう(大学院の研究生・助手のような立場だったかも)。
前回述べましたがロバータは15歳で大学に入学した程の秀才、そしてダニーも神童とされる程の
才能を発揮していたと言われていますので、お互いがその音楽的才能に興味を持ち合ったとしても
不思議ではありません。ただしダニーは卒業を待たず、中退してプロデビューしてしまいました。
デビュー作「First Take」からロバータの音楽制作にダニーは関わっています。上の
「Our Ages or Our Hearts」を含む二曲において作曲に参加していました。
そして71年のデュエット「You’ve Got a Friend」、翌年における「Where Is the Love」の
大ヒットについては前回既述の事です。

ここからは前回の続き、72年の名盤「Roberta Flack & Donny Hathaway」についてです。
上はオープニングナンバーである「I (Who Have Nothing)」。原曲はイタリアの楽曲ですが、
それをエルヴィス・プレスリーにおける数多の名曲や「スタンド・バイ・ミー」などで
有名なジェリー・リーバー&マイク・ストーラーが英語詩を付け、ベン・E・キングが
63年にレコーディング。さすがイタリアだけあってカンツォーネ風の劇的な曲調です。
トム・ジョーンズ版もよく知られるところ。
少しでも興味があれば上のタイトルの部分をコピペしてユーチューブで聴いてみてください。
ベン・E・キングやトム・ジョーンズ版が見事なのは勿論ですが、ロバータ&ダニー版の
アレンジには目からウロコ的なものを感じざるを得ません。
全曲取り上げたいのですが長くなるので涙をのんで曲を絞ります。ちなみに2曲目は既述である
ところの「You’ve Got a Friend」。

ロバータとダニー(他一名)による共作「Be Real Black for Me」。地味ながらもゴスペル
フィーリングを醸し出し、心に染み入るソウルナンバー。本作からアリフ・マーディンが
プロデューサーとして参加(前作迄においてもアレンジャーとしてクレジットされている)。
出しゃばり過ぎない絶妙なホーン&ストリングスアレンジはマーディンならではのもの。
エリック・ゲイル(g)、チャック・レイニー(b)、そしてバーナード・パーディ(ds)の
超一流リズムセクション。弾きまくるだけが楽器ではないんだなあ、と改めて考えさせてくれる
見事な演奏。

私にとって、シングルヒット「Where Is the Love」と双璧をなす本作のベストトラックである
「You’ve Lost That Lovin’ Feelin’(ふられた気持)」。ライチャス・ブラザーズの
全米No.1ヒットであり、私の世代ではホール&オーツ版の方で馴染みがある名曲(#57ご参照)。
ブルーアイドソウルの名曲を本家黒人ソウルシンガーがカヴァーするというのが興味深い所ですが、
本曲についてはとにかくアレンジの妙という一点に尽きます(勿論、歌と演奏も見事です)。
予備知識なしで聴くと、サビでタイトルが歌われる箇所までは「ふられた気持」だと全く
気づきませんでした。この様な解釈があるのかとまたまた目からウロコの楽曲です。
もっとも目にウロコがある人は見たことないですが ……… <○> <○>・・・・・・(((((゚Å゚;)))))
ジャズ界では「ジャズに名曲なし、あるのは名演のみ」などという言葉があるようですけれども、
それも少しわかるかな?というカヴァーです(「ふられた気持」は名曲ですよ!)。

https://youtu.be/HQjBJTIvH_M
B面トップのスタンダードナンバー「For All We Know」。ダニーによる独唱である本曲は、
中盤からのフルート&ストリングスアレンジと共に、彼のあまりにも素晴らしいヴォーカルが
エモーショナルであるという一言に尽きます。

「Where Is the Love」と共にラルフ・マクドナルドのペンによる楽曲である
「When Love Has Grown」。恋を歌った内容や曲調と共に、「Where Is the Love」と
対をなす楽曲なのかも?と思うのは私だけ?二人のデュエットはやはり見事です。

聖歌である「Come Ye Disconsolate」。ダニーの父親は牧師であったと昔何かで
読んだことがあります。であれば当然慣れ親しんだ楽曲でしょう。

ようやく今回のテーマである「Killing Me Softly with His Song(やさしく歌って)」です。
ロバータの代表曲にて、40代半ば以上の日本人ならネスカフェのTVコマーシャルで
絶対に聴いている楽曲。ただしそれはロバータのヴァージョンではなくCM用に歌詞が
変えられ、シンガーも別の人。『ネスカフェ~、ネスカフェ~、エクセラ~』という
歌詞でしたので、子供のころは当然ネスカフェコーヒーの為に書かれたCMソングと思ってました。

本曲もロバータのオリジナルではありません。ロリ・リーバーマンという白人女性フォークシンガーの
録音が初出です。ロリ版はヒットしませんでしたが、ロバータは飛行機の中でたまたま本曲を
耳にします。すぐさまこの曲について調べ、クインシー・ジョーンズへ電話してから彼の家へ行き、
「やさしく歌って」という曲を作ったチャールズ・フォックスに会いたいのだけれど
どうしたらイイ?と頼み込み、その二日後には会えたとか。
その後まもなく、ロバータは本曲をバンドとリハーサルしてみますが、その時は録音しませんでした。
72年9月、ロバータはギリシャでマーヴィン・ゲイのオープニングアクトを務めていました。
マーヴィンから ”新しい曲はないかい?” と問われ、「Killing Me Softly … 」という温めている
曲はあるのだけれど … と言うと、マーヴィンは ”それ演りなよ!” と即答しました。
そのプレイはギリシャの聴衆を熱狂させ、マーヴィンはというとロバータの下に駆け寄り、
”いいか!レコーディングするまでその曲は人前で演るな!!” と言い放ったとか。
(マーヴィンのお墨付きをもらった?)73年1月にリリースされたロバータの「やさしく歌って」は、
全米No.1ヒットとなり先述したようにロバータにとって代表曲の一つとなります。

またまた長くなってしまいましたので、次に跨ぎます。次回は本曲にまつわるあれやこれやの続きと、
本曲が収録された ”アルバムとしての”「やさしく歌って」についてです。

#128 Where Is the Love

ロバータ・フラックは37年生まれ(39年説も有)、ディオンヌ・ワーウィックが40年生まれ、
アレサ・フランクリンが42年という順番です。
ディオンヌ同様音楽一家に生まれ、9歳の時からピアノに興味を持ち始めました。
ワシントンD.C. にある名門ハワード大学へ15歳で入学します。これは登録されている中では
最も若い入学者だったそうです。大学に入った後、その専攻をピアノから声楽に移していきました。
19歳で卒業し大学院へ進学するのですが、父親の突然の死によって、音楽及び英語教師の
職に就く事を余儀なくされました。

話の時系列は飛び飛びになりますが、前回の続きである3rdアルバム「Quiet Fire」(71年)より
「Will You Love Me Tomorrow」。米ガールグループ シュレルズによる60年のNo.1ヒット。
言わずと知れたキャロル・キングと(当時の夫)ジェリー・ゴフィンのペンによる名曲。
前回と同じ事を書いて誠に芸が無いのですが、ロバータの手にかかると何でもロバータ色に
染まってしまいます。

ビージーズによる67年のTOP20ヒット「To Love Somebody」。私の初聴はジャニス・ジョプリン版
でした。ジャニスは見事なまでのソウル風アレンジですが、原曲の方はというと如何にもこの時代らしい
ポップ&サイケなアレンジでした。ビージーズも60年代後半は時代の色に染まっていたんですね。
ロバータ版はロバータワールドとしか言いようがありません。リチャード・ティーのオルガン、
バーナード・パーディによるブラシワーク(ドラム)、どちらもただただ素晴らしいの一言。
ずっと後になってからの評価ですが、評論家によっては3rdがロバータのベストとするほどの傑作。
ただしリアルタイムで全然売れなかったのは1st・2ndと同様です。

「Quiet Fire」のリリースは71年11月ですが、それより半年ほど前の5月に一枚のシングルが
出ています、それがロバータ・フラック&ダニー・ハサウェイ「You’ve Got a Friend」。
今更説明不要な程の超有名曲ですが、キャロル・キングの作にて自身の超特大ヒット「つづれおり」に
収録されており、
それをジェームス・テイラーがシングルとしてリリースし、全米No.1ヒットと
なったのはあまりにも有名。

実はロバータ&ダニー版もテイラーと同日発売でした、テイラー版の陰にかくれてしまってはいますが、
ポップス29位・R&B8位と、ロバータとダニー両方にとって初の全米TOP40ヒットでした。
ドラム教室のブログらしく(当然みんな忘れてますよね!(*゚▽゚) … )ドラムの話。この頃における
ロバータの作品ではバーナード・パーディやグラディ・テイトがプレイしていましたが、本セッションでは
マハビシュヌ・オーケストラなどで知られる元祖超絶技巧ドラマー ビリー・コブハムが叩いています。
怒涛のような高速かつ複雑・難解なプレイのイメージがあるコブハムですが、歌ものを演っても
やはり超一流です。エンディングに近づくにつれ音数が増える所が彼らしいとも言えるでしょうか。

前回、69年のデビュー作「First Take」がチャートで首位となるのは72年になってから、
という事は既に述べました。これにはある映画が関係しています、その映画とはクリント・イーストウッド
初監督作『Play Misty for Me(恐怖のメロディ)』。71年11月封切の本映画において、
「The First Time Ever I Saw Your Face(愛は面影の中に)」が使用されたのです。
私は映画オンチなので当然観たことはないのですが、その内容をググってみました。
イーストウッド扮するDJの番組へ執拗に「ミスティ」(エロール・ガーナー作の超有名
ジャズスタンダード)をリクエストするリスナーがいました。イーストウッドはある女性と一夜限りの
関係を持ちますが、実はその女性がリスナーだったのです。それから徐々に女性の行動が
エスカレートして行き、結末はと言うと・・・・・言いませんけど・・・・・・・
まだストーカーという言葉・概念さえ無い時代の映画ですが、なかなかに背筋が寒くなる内容です。
・・・・・・ |ω・`)チラッ・・・・・・・・・・・(((((゚Å゚;)))))
イーストウッドがロバータを起用したキッカケを調べてみましたが判りませんでした。スマッシュヒットの
「You’ve Got a Friend」で知ったのか(時期的にはぎりぎりかな?)、はたまたそれ以外でか?
イーストウッドはジャズの偉人 チャーリー・パーカーの伝記的映画『バード』(88年)を
製作したりもしていますので、音楽にもかなり造詣が深い人だと思われます。
いずれにしろ映画のヒットと共に「愛は面影の中に」もチャートをあれよあれよと駆け上がって
全米No.1ヒットとなり、1stアルバム「First Take」も200万枚近くを売り上げ1位となります。
イーストウッドは使用料として2,000ドルを支払ったそうです(360円時代だから70万円位?)。
それが高いのか安いのかピンとはきませんが、以降も二人は良好な関係を続けていることから
当時としては十分な額だったのでしょう。83年のダーティハリーではエンディングテーマを担当しています。
「愛は面影の中に」は72年における年間シングルチャートの1位となり、翌年のグラミー賞にて
レコード・オブ・ジ・イヤーを獲得します。

72年5月、一枚のアルバムをリリースします。それが「Roberta Flack & Donny Hathaway」。
マーヴィン・ゲイ「ホワッツ・ゴーイン・オン」、スティーヴィー・ワンダー「インナーヴィジョンズ」、
カーティス・メイフィールド「スーパーフライ」などと並ぶ、ニューソウルにおける名盤です。
録音は71年5月から10月となっていますので、決して「愛は面影の中に」のヒットを受けて、
急かされながら創ったものではないでしょう。
本作からのシングル「Where Is the Love」はポップス5位・R&B1位と大ヒットを記録します。
その後、数多くのミュージシャンによってカヴァーされ続けている不朽の名曲の一つです。
ちなみにパーカッショニスト ラルフ・マクドナルドのペンによる楽曲。彼にはソングライターとしての
一面もあり、本曲やグローヴァー・ワシントン・ジュニア「Just the Two of Us」などが有名。
勿論ロバータの作品にはパーカッションでも参加しています。

またまただいぶ長くなってしまいました。本作及びそれ以降については次回にて。

#127 Roberta Flack

前回までのディオンヌ・ワーウィック回でもその名があがりましたが、ディオンヌと同世代の
黒人女性シンガーの中で、ロバータ・フラックは絶対に外せない人です。
アレサ・フランクリンは圧倒的なまでにパワフルでソウルフルであり、ディオンヌは
アレサと比べればソフィスティケートされ、良い意味での白人志向とも呼べるスタイルでした。
そしてロバータは、パワフルな歌を持ち合わせながら、非常にアカデミックでもあり、
どんな楽曲を取り上げてもロバータ・フラックの世界に染め上げてしまうシンガーでした。

上の「The First Time Ever I Saw Your Face(愛は面影の中に)」と同曲が収録された
デビューアルバム「First Take」(69年)は、彼女のディスコグラフィーを参考にする限りでは
どちらも全米1位を記録しています。デビュー作とそこからのシングルがいきなりNo.1ヒットと
なるとは初めから順風満帆のキャリアであったと思ってしまいますが、よく見るとそのチャート
アクションは72年においてとなっています。数年かけてじわじわとヒットする作品は決して
他に無い訳ではありませんが、ロバータの場合はどうであったのでしょうか。

ロバータの出自や音楽的バックボーンなどは追い追い触れていきますが、デビューのきっかけは
ワシントンのレストランやナイトクラブで演奏している彼女を観たある人物が、アトランティック
レコードのオーディションをセッティングしてあげた事でした。
69年初頭、伝えられるところによるとわずか10時間でデビュー作のレコーディングを終えたと
されています。ロバータ曰くそのセッションは ”とても素朴かつ美しいアプローチ” であったとの事。
「First Take」は全くコマーシャリズムとはかけ離れていると言って良いほどに、質が高くて
濃密な音楽性を持った作品です。ジャズ・R&B・フォーク・ゴスペル・ラテン等、様々なジャンルの
ごった煮の様なアルバムですが、全てがロバータ色に染まっており、とても新人のデビュー作とは
思えない程に、神々しいほどの傑作です。あまりに神々し過ぎて気楽に聴くのが憚られるほどです
(これって褒め言葉かな?・・・・・)。ちなみに本作ではロン・カーターが参加しています。

ロバータは自身で曲を書く事は極めて少ないです。その代わりに先述の通りどんな楽曲でも
自分のカラーに染め上げることが出来るミュージシャンです。上は2ndアルバム「Chapter Two」の
オープニングナンバー「Reverend Lee」。黒っぽさがプンプン匂い立つナンバーです。

フィフス・ディメンション「ビートでジャンプ」などで知られるジミー・ウェップ作の
「Do What You Gotta Do」。ロバータよりもさらに先達である黒人女性シンガー ニーナ・シモン達に
よってレコーディングされていたナンバー。タイトルは ”やるっきゃないよ” の様な意だそうです。

B面のオープニング「Gone Away」。ダニー・ハサウェイやカーティス・メイフィールドといった
当時におけるニューソウルの旗手達による名曲です。ギターはエリック・ゲイル。ジャズ・フュージョン、
AORからポップスまで、ありとあらゆるジャンルを弾きこなす達人ですが、その根っこにはブルースが
あるのが本曲のプレイでありありとわかります。

ミュージカルで有名な「The impossible dream(見果てぬ夢)」。ロバータ色に染められたとしか
言いようが無いアレンジであり、ただただ素晴らしいの一言。

今回は「愛は面影の中に」が世に認められる辺りまで書こうかと思っていたのですが、ムリそうです …
次回は3rdアルバムの発売から、ロバータがブレイクする時期くらい迄でしょうか?
予め言っときます、スティーヴィー・ワンダーは10回に渡りましたが、ロバータもかなり
長くなりそうです。忙しい人はちゃっちゃと読み飛ばして頂いても結構です・・・・・・
でも少しは読んで欲しいかな  … ・・・・・・・ |ω・`)チラ

#126 Dionne Warwick

70年代に入るとディオンヌ・ワーウィックはそれまで所属していたセプター・レコードから
ワーナーへ移籍します。移籍当初はバート・バカラック&ハル・デヴィッドのペンによる楽曲を
レコーディングしていましたが、やがてバカラック達とも袂を分かちました。
その後70年代末までの約十年間、ディオンヌは不遇の時代を過ごす事となります。

その不遇の時代における唯一のヒットが上の「Then Came You」(74年)。スピナーズとの
共演による本曲は全米No.1ヒットとなります。プロデュースはスピナーズ、
スタイリスティックス等を手掛けたフィラデルフィア・ソウルの立役者であるトム・ベル。

79年、アリスタ・レコードへ移籍しアルバム「Dionne」をリリース。これがミリオンセラーを
記録しディオンヌ復活と相成ります。バリー・マニロウ、アイザック・ヘイズといった多彩な
ソングライター陣を迎え、ディスコ・ポップバラード・ブラックコンテンポラリーと、
この時代における粋を集めた様な音楽性が受け入れられたことがヒットの要因かと。
上はアイザック・ヘイズによる「Déjà Vu」。印象的なベースはウィル・リーのプレイです。

https://youtu.be/3Mh9E8TschY
翌80年には基本的に前作の音楽性を踏襲した「No Night So Long」をリリース。前作ほどの
ヒットとはなりませんでしたが、ブラコン路線に活路を見出したのかな?という流れです。
もっともこの当時はディオンヌに限らず黒人シンガーの多くがこの様な方向性へ向かっていましたから。
上は本作に収録の「Reaching for the Sky」。ディズニーアニメの主題歌で有名な
ピーボ・ブライソンの作です。

82年にはバリー・マン、トム・ベル、デヴィッド・フォスター、そしてスティーヴィー・ワンダーと、
全てが本作用の書き下ろしではありませんが、豪華ソングライター陣の楽曲から成る
「Friends in Love」をリリース。演奏陣もスティーブ・ガッド、ジェフ・ポーカロやスティーブ・
ルカサー達TOTOの面々、そしてスティーヴィーと贅沢三昧のラインナップです。
お世辞にもヒットしたとは言えませんが個人的には良いアルバムだと思っています。
同年にもう一枚アルバムを出します、それがヒット作「Heartbreaker」。バリー・ロビン・モーリスの
ギブ三兄弟、つまりビージーズの全面協力による本作は、当然の如くディオンヌ✕ビージーズという点で
話題にならない訳がありませんでした。上はシングルヒットしたタイトル曲。
語弊のある言い方かもしれませんが、良くも悪くもビージーズです(ビージーズ嫌いな訳じゃないですよ)。
流石に82年であったのでディスコ調の楽曲はありませんが、ソフト&ポップ路線の作品になっています。
もしあと5年早かったら、ディオンヌ版『サタデーナイト・フィーバー』が出来ていたかもしれません
(それはそれで興味がありますけど・・・)。

本作で唯一ギブ三兄弟によらないカヴァー曲「Our Day Will Come」。ルビー&ザ・ロマンティックス
による63年のNo.1ヒットである本曲は、フランキー・ヴァリをはじめとして数多くのヴァージョンが
存在します。ドラムはスティーブ・ガッド、キーボードは複数人クレジットされていますが、
このエレピはたぶんリチャード・ティーでしょう。

85年の大ヒット曲「That’s What Friends Are For(愛のハーモニー)」に関しては#124
スティーヴィー・ワンダー回で言及しましたので詳細は割愛しますが、本曲が収録された
同年のアルバム「Friends」にて、再びバート・バカラックの楽曲を歌う様になります。
これ以降ヒット作と呼べるものはありませんが、現在においてもその活動を続けています。

年初のアル・グリーン回(#101)にて、現役で活動している黒人シンガーの一人としてディオンヌの
名を挙げました。ティナ・ターナーや昨年惜しくも他界したアレサ・フランクリンが
躍動感溢れるパワフルなスタイルだとすれば、ディオンヌは洗練されたアカデミックなフィーリングが
持ち味だったと言えるでしょう(勿論ディオンヌにソウルスピリットが無いとか、アレサとティナが
野暮ったいとかいう意味ではありません)。ロバータ・フラックはジャズ寄りの面がありましたので、
更にスタイルが異なります。全員聴き比べてみるのもこれまた御一興。
前回も触れた60年代におけるバカラックのコメントである ”彼女は途方もなく強い面と、ソフトに歌った時はとても優美な一面も持ち合わせている” という言葉に全てが集約されている様な気がします。
これは全くの私見ですが、ディオンヌ・ワーウィックというシンガーは、我々日本人の感覚で
言う所の、古き良き昭和のシンガー・歌い手というフィーリングに近いのではないかと思っています。
過度にリズミックあるいはエキサイティングな所は無く、朗々と、切々と、しかし時には
エモーショナルに歌い上げるその歌唱スタイルは、私たちの日本語でいう ”歌手・歌い手” という
呼び名がとても良く当てはまるシンガーではないのでしょうか。

#125 Alfie

スティーヴィー・ワンダー回の最後の方にてディオンヌ・ワーウィックの名があがりましたが、
ふと考えてみるとこれ程の大物シンガーについて、そのキャリアや音楽的バックグラウンド等について
意外にもちゃんとした知識を持ち合わせていない事に気付きました。折角ですからこの機会にて、
ディオンヌについて取り上げてみようかと思います。ただし本気で彼女の全キャリアについて
述べると大変な事になるので、あくまでざっくりと、今回と次回だけですが・・・

音楽一家に育ち、自身もその道に進むべくハートフォード大学音楽学部に進学し、在学中から
セッションシンガーとして活動を始めました。転機が訪れたのは62年、ベン・E・キングも
在籍したことで知られるコーラスグループ ザ・ドリフターズのセッションにおいて。
ディオンヌを語る上で欠かせない人物、アメリカを代表するソングライター バート・バカラックの
目に留まりました。バカラックまで語るととんでもないことになるので今回はあくまでディオンヌに
まつわる事柄だけ。バカラックはタイム誌において ”彼女は途方もなく強い面と、ソフトに歌った時は
とても優美な一面も持ち合わせている” とディオンヌについて語っています。
同年秋にバカラック作の「Don’t Make Me Over」でレコードデビュー。ポップスチャート21位・
R&B5位という順調な滑り出しを見せます。
最初のブレイクが翌年における上の「Anyone Who Had a Heart」。初の全米TOP10ヒットと
なり一躍スターダムの仲間入りを果たします。ちなみにこの曲は翌64年、60年代から70年代初頭に
かけてイギリスにおいて絶大な人気を誇った女性シンガー シラ・ブラックのヴァージョンが
100万枚近いセールスを記録し、そちらの方が有名になってしまいました。
64年には初期における彼女の代表曲とも言える「Walk On By」が大ヒット(ポップス6位・
R&B1位)。バカラックによる代表曲の一つとされる本曲は、余りにも多くのシンガーに
カヴァーされていますのでそれらは割愛。

ディオンヌにとって最初のゴールドディスクが言わずと知れた「I Say a Little Prayer」(67年)。
更に言うまでもなくアレサ・フランクリンのヴァージョンも大ヒットを記録する訳ですが、
リリースはディオンヌが9ヵ月程先でした。
”粘り気” の様なものがあるパワフルなアレサ版に対して、ディオンヌ版はアカデミックで洗練された
感があります、聴き比べもまたご一興。当然本曲も数限りないカヴァーが存在します。
上は翌68年のこれまた全米TOP10ヒットである「Do You Know the Way to San Jose
(サン・ホセへの道)」。バカラックは当時かなりボサノヴァに傾倒していたとも言われており、
ほぼ同世代であるボサノヴァの創始者 アントニオ・カルロス・ジョビンをかなり意識していた
のではないでしょうか。北米・南米と海を隔ててはいましたが両人とも大作曲家であるのは同様です。
ラテンフィール(二拍子)の曲ですが、ディオンヌはどんなタイプの曲でも歌いこなしてしまっています。

https://youtu.be/cW2fLeD5Pow
バカラックの代表曲として挙げられるものの一つとして「Alfie」は鉄板ですが、数えるのがイヤに
なるほど数多くのレコーディングが存在するスタンダードナンバーです。ですが、誰のヴァージョンが
最もポピュラリティーがあるかと問われれば、ディオンヌ版であると言って差し支えないのでは。
本曲について述べると本が一冊書けるのではないかという位に色々あるのですが、三行・・・・・
ではムリですが、なるべく簡潔に。
パラマウントピクチャーズより同名映画の音楽を依頼されていたバカラックとコンビを組んでいた
作詞家 ハル・デヴィッドは、当初その仕事に乗り気ではありませんでした。しかしラフカットを
観せてもらったりしているうちにイメージが湧き本曲が出来上がります。
バカラック達はディオンヌに歌わせるのが良いと考えていましたが、パラマウント側は先にも
触れた、当時イギリスで人気のあったシラ・ブラックを推していました。
色々とあったのですが、65年秋にバカラックが渡英しアビーロードスタジオでレコーディングが
行われました。ちなみにシラ版のプロデュースはジョージ・マーティン。シラは当時マーティンの
秘蔵っ子であったそうです。
シラ版は英でこそヒットしたものの、イギリスのみの映画プロモーション用だったものなので、
正式なテーマ曲という扱いではありませんでした。サウンドトラックに収められたのは、
その後夫婦デュオ ソニー&シェールとして人気を博すシェールのヴァージョンとなります。
ディオンヌは66年のアルバム「Here Where There Is Love」にて既に本曲を収録していましたが、
同アルバムからのシングルカット曲のB面に収められ、その時はあまりヒットしませんでした。
しかし一部のディスクジョッキー達がB面である「アルフィー」をラジオで推す事で世に広まり始め、
決定的だったのが67年4月に行われたアカデミー賞のテレビ中継におけるディオンヌの生歌でした。
それから本シングルはチャートを駆け上がりポップス15位・R&B5位を記録します。
本曲の40以上あるヴァージョンの中でもディオンヌのものが決定版とされています。人によって
感じ方は様々ではあると思いますが、やはりバカラックの楽曲を最も豊かに歌い上げる事が
出来るシンガーの一人がディオンヌに他ならないということではないのでしょうか。