#130 Killing Me Softly

前回のつづき。ロバータ・フラック「Killing Me Softly with His Song(やさしく歌って)」は
彼女のオリジナルではなく、飛行機で偶然耳にしたことが発端となりカヴァーしたというのは
前回述べました。実は彼女、「Killing Me・・・」というタイトルには眉をしかめたと語っています。
この場合におけるkillは当然 ”人を殺める” ではなく、”悩殺する・魅了する” の様な意だそうです。
つまり ”彼の歌は私を優しくメロメロにしてくれちゃうのよ・・・” くらいの意味なのでしょうが、
やはりそれでもkillという単語にはネイティヴであっても抵抗を感じるようです。
メロディ(歌)は殆ど同じなのに、これだけ印象が変わるというのはやはり楽曲はアレンジに因るところが
大きいのだと改めて認識させられます。先ず以て楽器の編成が違うというのは当たり前ですが、
一か所決定的に異なる部分があります。歌の最後 ” with his song ~ ” のパートが原曲では
マイナーコードである所をロバータはメジャーに変えました。聴き比べてみると確かに印象が
ガラッと異なります。具体的には主メロであるC(五度)の歌にメジャー三度であるAをコーラスで
重ねています(この部分はFコード)。不思議な事にメジャーであるのに不気味さの様なものを感じます。
ロリ・リーバーマンのオリジナル版は思いの丈をストレートに歌ったのに対して、ロバータ版は
女性の情念、愛憎入り乱れた様な感情を感じてしまうのは私だけでしょうか。
ちなみにベースはここでもロン・カーター。ロンのプレイがあるからこその曲とも言えます。

シングル「やさしく歌って」は通算で5週全米1位となり、本曲を含むアルバム「Killing Me Softly
(やさしく歌って)」は米だけで200万枚以上を売り上げこれも大ヒットとなります。
細かい所ですが、楽曲のタイトルには「… with His Song」が付き、アルバムにはそれがありません。
邦題ではどちらも「やさしく歌って」です。上はA-②の「Jesse」、ジャニス・イアンの曲。
ジャニス・イアンはロバータによる本曲のカヴァーにて、この時再度脚光を浴びたと言われています。

A-③「No Tears (In the End)」。「Where Is the Love」と同様ラルフ・マクドナルドによる楽曲。
ロバータとしては珍しい部類の正統派(?)ソウルナンバー。ワウをかけたエリック・ゲイルの
ギターがたまらない。ロバータはシャウトなどしない歌唱スタイルですが、後半の盛り上げ方は
実に見事です。叫ぶだけが盛り上げる術ではないという事です(シャウトが悪い訳ではないですよ … )。

A-④「I’m the Girl」。淡々かつ朗々と歌い上げるロバータとチェロの組み合わせが美しい。

ジーン(ユージン)・マクダニエルズ作のB-①「River」。ロバータはデビュー作からマクダニエルズの
楽曲を好んで取り上げています。黒っぽいフィーリングは同じアフリカンアメリカン同士だからこそ
醸し出せるのでしょうか。

B-②の「Conversation Love」。デビューから70年代のロバータ黄金期をベーシストとして、
またアレンジ・ソングライティング面で支えたテリー・プラメリのペンによる曲。
この時代における、如何にもニューソウル然とした楽曲。やはり弦と管のアレンジが見事です。

B-③「When You Smile」はこれまたラルフ・マクドナルドのペンによる曲。ラグタイムの様な
オールドアメリカンミュージック風の楽曲と演奏は、ロバータとしては珍しく陽気なもの。

エンディングナンバー「Suzanne」。数々のミュージシャンによって歌われているレナード・コーエン作の
曲ですが、ロバータが取り上げるとやはりロバータワールドになります。10分近くに渡る長尺の曲で、
特に山場があるという訳でもなく淡々と進んでいくのですが、テンション感を保ちながら全く飽きる事なく
聴かせてくれます。後半のストリングスとロバータによるスキャットは、静かな嵐とでも形容すれば
よいのでしょうか、抑制を効かせながらもストーリー性を持った素晴らしいアレンジです。

本作はダブルプラチナ(200万枚以上)を獲得し、彼女にとってセールス的に最も奮ったアルバムです。
ロバータ・フラックと言えば「やさしく歌って」、とされる程に彼女の代名詞的作品となりました
(日本ではコーヒーのテレビCMによって特に)。勿論名盤である事に私も異論はありませんが、
あまりにも本曲・本作が有名になり過ぎて、それ以前及び以降の素晴らしい傑作群が世間の耳に
触れづらくなってしまっているのも事実だと思います。「やさしく歌って」を聴けばロバータ・フラックを
理解したつもりになってしまうという弊害をもたらしてしまうのです(何しろ私も昔はそうでした・・・)。
もっともこれはロバータに限った事ではないのですけれども・・・・・・
でもこれは、ちょっと捻くれた私だけの見方だと、どうか読み流してください ………………

ディスコグラフィーだけを参照すれば、ここまでの作品全てがプラチナ・ゴールドディスクを獲得し、
順風満帆なミュージシャンとしてのキャリアを重ねたように錯覚してしまいますが、37年生まれの
ロバータがデビュー作を出したのは69年なので、この時点で32歳。既述ですがブレイクするのは
72年の事なのでこの時既に35歳。名門ハワード大学の大学院まで進みながら、父親の急死によって
大学を辞めざるを得なくなった事も既に触れましたが、やはりミュージシャンの道を諦めきれず、
週末にはナイトクラブなどで演奏していたそうです。ヘンリーのレストランという店で演奏していた
頃にはラムゼイ・ルイスや映画監督のウディ・アレンなどが常連だったとのこと。
そしてやがて評判が広まり、以前書いたようにある人物が推薦しアトランティックのオーディションへと
こぎ着ける事が出来たのです。アレサ・フランクリンやディオンヌ・ワーウィック、そしてダイアナ・ロスの
ように、60年代から若くして成功した黒人女性シンガーとは一線を画すものがあると言えます
(音楽的な優劣ではなく・・・)。要するにロバータ・フラックとは確固たる才能を持ちながら、
なかなかその芽は出なかったのだが、決して諦めることなく地道に活動を続け、やがて自身の道を
切り開いた努力の人だということです。努力をした人が全て報われるとは限りませんが、
努力無しの成功もまたあり得ないのではないかと思うのです。

 

#129 Killing Me Softly with His Song

ロバータ・フラック回の初めから当たり前のようにその名があがっている人がいます。
言わずと知れたダニー・ハサウェイなのですが、皆がダニーについて言わずとも
知れているという訳ではないでしょうから、ここで彼について触れておくべきでしょう。
勿論本気で書くと収拾が付かなくなるので、あくまでロバータにまつわる事柄のみを。

45年生まれであるダニー・ハサウェイは37年のロバータとは八歳も違うわけですが、
二人の出会いはハワード大学であったとされています。その歳の差からして当然に
ダニーが入学した18歳時にロバータは二十代半ばなので、彼女はその時既に大学院に
進んでいたでしょう(大学院の研究生・助手のような立場だったかも)。
前回述べましたがロバータは15歳で大学に入学した程の秀才、そしてダニーも神童とされる程の
才能を発揮していたと言われていますので、お互いがその音楽的才能に興味を持ち合ったとしても
不思議ではありません。ただしダニーは卒業を待たず、中退してプロデビューしてしまいました。
デビュー作「First Take」からロバータの音楽制作にダニーは関わっています。上の
「Our Ages or Our Hearts」を含む二曲において作曲に参加していました。
そして71年のデュエット「You’ve Got a Friend」、翌年における「Where Is the Love」の
大ヒットについては前回既述の事です。

ここからは前回の続き、72年の名盤「Roberta Flack & Donny Hathaway」についてです。
上はオープニングナンバーである「I (Who Have Nothing)」。原曲はイタリアの楽曲ですが、
それをエルヴィス・プレスリーにおける数多の名曲や「スタンド・バイ・ミー」などで
有名なジェリー・リーバー&マイク・ストーラーが英語詩を付け、ベン・E・キングが
63年にレコーディング。さすがイタリアだけあってカンツォーネ風の劇的な曲調です。
トム・ジョーンズ版もよく知られるところ。
少しでも興味があれば上のタイトルの部分をコピペしてユーチューブで聴いてみてください。
ベン・E・キングやトム・ジョーンズ版が見事なのは勿論ですが、ロバータ&ダニー版の
アレンジには目からウロコ的なものを感じざるを得ません。
全曲取り上げたいのですが長くなるので涙をのんで曲を絞ります。ちなみに2曲目は既述である
ところの「You’ve Got a Friend」。

ロバータとダニー(他一名)による共作「Be Real Black for Me」。地味ながらもゴスペル
フィーリングを醸し出し、心に染み入るソウルナンバー。本作からアリフ・マーディンが
プロデューサーとして参加(前作迄においてもアレンジャーとしてクレジットされている)。
出しゃばり過ぎない絶妙なホーン&ストリングスアレンジはマーディンならではのもの。
エリック・ゲイル(g)、チャック・レイニー(b)、そしてバーナード・パーディ(ds)の
超一流リズムセクション。弾きまくるだけが楽器ではないんだなあ、と改めて考えさせてくれる
見事な演奏。

私にとって、シングルヒット「Where Is the Love」と双璧をなす本作のベストトラックである
「You’ve Lost That Lovin’ Feelin’(ふられた気持)」。ライチャス・ブラザーズの
全米No.1ヒットであり、私の世代ではホール&オーツ版の方で馴染みがある名曲(#57ご参照)。
ブルーアイドソウルの名曲を本家黒人ソウルシンガーがカヴァーするというのが興味深い所ですが、
本曲についてはとにかくアレンジの妙という一点に尽きます(勿論、歌と演奏も見事です)。
予備知識なしで聴くと、サビでタイトルが歌われる箇所までは「ふられた気持」だと全く
気づきませんでした。この様な解釈があるのかとまたまた目からウロコの楽曲です。
もっとも目にウロコがある人は見たことないですが ……… <○> <○>・・・・・・(((((゚Å゚;)))))
ジャズ界では「ジャズに名曲なし、あるのは名演のみ」などという言葉があるようですけれども、
それも少しわかるかな?というカヴァーです(「ふられた気持」は名曲ですよ!)。

https://youtu.be/HQjBJTIvH_M
B面トップのスタンダードナンバー「For All We Know」。ダニーによる独唱である本曲は、
中盤からのフルート&ストリングスアレンジと共に、彼のあまりにも素晴らしいヴォーカルが
エモーショナルであるという一言に尽きます。

「Where Is the Love」と共にラルフ・マクドナルドのペンによる楽曲である
「When Love Has Grown」。恋を歌った内容や曲調と共に、「Where Is the Love」と
対をなす楽曲なのかも?と思うのは私だけ?二人のデュエットはやはり見事です。

聖歌である「Come Ye Disconsolate」。ダニーの父親は牧師であったと昔何かで
読んだことがあります。であれば当然慣れ親しんだ楽曲でしょう。

ようやく今回のテーマである「Killing Me Softly with His Song(やさしく歌って)」です。
ロバータの代表曲にて、40代半ば以上の日本人ならネスカフェのTVコマーシャルで
絶対に聴いている楽曲。ただしそれはロバータのヴァージョンではなくCM用に歌詞が
変えられ、シンガーも別の人。『ネスカフェ~、ネスカフェ~、エクセラ~』という
歌詞でしたので、子供のころは当然ネスカフェコーヒーの為に書かれたCMソングと思ってました。

本曲もロバータのオリジナルではありません。ロリ・リーバーマンという白人女性フォークシンガーの
録音が初出です。ロリ版はヒットしませんでしたが、ロバータは飛行機の中でたまたま本曲を
耳にします。すぐさまこの曲について調べ、クインシー・ジョーンズへ電話してから彼の家へ行き、
「やさしく歌って」という曲を作ったチャールズ・フォックスに会いたいのだけれど
どうしたらイイ?と頼み込み、その二日後には会えたとか。
その後まもなく、ロバータは本曲をバンドとリハーサルしてみますが、その時は録音しませんでした。
72年9月、ロバータはギリシャでマーヴィン・ゲイのオープニングアクトを務めていました。
マーヴィンから ”新しい曲はないかい?” と問われ、「Killing Me Softly … 」という温めている
曲はあるのだけれど … と言うと、マーヴィンは ”それ演りなよ!” と即答しました。
そのプレイはギリシャの聴衆を熱狂させ、マーヴィンはというとロバータの下に駆け寄り、
”いいか!レコーディングするまでその曲は人前で演るな!!” と言い放ったとか。
(マーヴィンのお墨付きをもらった?)73年1月にリリースされたロバータの「やさしく歌って」は、
全米No.1ヒットとなり先述したようにロバータにとって代表曲の一つとなります。

またまた長くなってしまいましたので、次に跨ぎます。次回は本曲にまつわるあれやこれやの続きと、
本曲が収録された ”アルバムとしての”「やさしく歌って」についてです。

#128 Where Is the Love

ロバータ・フラックは37年生まれ(39年説も有)、ディオンヌ・ワーウィックが40年生まれ、
アレサ・フランクリンが42年という順番です。
ディオンヌ同様音楽一家に生まれ、9歳の時からピアノに興味を持ち始めました。
ワシントンD.C. にある名門ハワード大学へ15歳で入学します。これは登録されている中では
最も若い入学者だったそうです。大学に入った後、その専攻をピアノから声楽に移していきました。
19歳で卒業し大学院へ進学するのですが、父親の突然の死によって、音楽及び英語教師の
職に就く事を余儀なくされました。

話の時系列は飛び飛びになりますが、前回の続きである3rdアルバム「Quiet Fire」(71年)より
「Will You Love Me Tomorrow」。米ガールグループ シュレルズによる60年のNo.1ヒット。
言わずと知れたキャロル・キングと(当時の夫)ジェリー・ゴフィンのペンによる名曲。
前回と同じ事を書いて誠に芸が無いのですが、ロバータの手にかかると何でもロバータ色に
染まってしまいます。

ビージーズによる67年のTOP20ヒット「To Love Somebody」。私の初聴はジャニス・ジョプリン版
でした。ジャニスは見事なまでのソウル風アレンジですが、原曲の方はというと如何にもこの時代らしい
ポップ&サイケなアレンジでした。ビージーズも60年代後半は時代の色に染まっていたんですね。
ロバータ版はロバータワールドとしか言いようがありません。リチャード・ティーのオルガン、
バーナード・パーディによるブラシワーク(ドラム)、どちらもただただ素晴らしいの一言。
ずっと後になってからの評価ですが、評論家によっては3rdがロバータのベストとするほどの傑作。
ただしリアルタイムで全然売れなかったのは1st・2ndと同様です。

「Quiet Fire」のリリースは71年11月ですが、それより半年ほど前の5月に一枚のシングルが
出ています、それがロバータ・フラック&ダニー・ハサウェイ「You’ve Got a Friend」。
今更説明不要な程の超有名曲ですが、キャロル・キングの作にて自身の超特大ヒット「つづれおり」に
収録されており、
それをジェームス・テイラーがシングルとしてリリースし、全米No.1ヒットと
なったのはあまりにも有名。

実はロバータ&ダニー版もテイラーと同日発売でした、テイラー版の陰にかくれてしまってはいますが、
ポップス29位・R&B8位と、ロバータとダニー両方にとって初の全米TOP40ヒットでした。
ドラム教室のブログらしく(当然みんな忘れてますよね!(*゚▽゚) … )ドラムの話。この頃における
ロバータの作品ではバーナード・パーディやグラディ・テイトがプレイしていましたが、本セッションでは
マハビシュヌ・オーケストラなどで知られる元祖超絶技巧ドラマー ビリー・コブハムが叩いています。
怒涛のような高速かつ複雑・難解なプレイのイメージがあるコブハムですが、歌ものを演っても
やはり超一流です。エンディングに近づくにつれ音数が増える所が彼らしいとも言えるでしょうか。

前回、69年のデビュー作「First Take」がチャートで首位となるのは72年になってから、
という事は既に述べました。これにはある映画が関係しています、その映画とはクリント・イーストウッド
初監督作『Play Misty for Me(恐怖のメロディ)』。71年11月封切の本映画において、
「The First Time Ever I Saw Your Face(愛は面影の中に)」が使用されたのです。
私は映画オンチなので当然観たことはないのですが、その内容をググってみました。
イーストウッド扮するDJの番組へ執拗に「ミスティ」(エロール・ガーナー作の超有名
ジャズスタンダード)をリクエストするリスナーがいました。イーストウッドはある女性と一夜限りの
関係を持ちますが、実はその女性がリスナーだったのです。それから徐々に女性の行動が
エスカレートして行き、結末はと言うと・・・・・言いませんけど・・・・・・・
まだストーカーという言葉・概念さえ無い時代の映画ですが、なかなかに背筋が寒くなる内容です。
・・・・・・ |ω・`)チラッ・・・・・・・・・・・(((((゚Å゚;)))))
イーストウッドがロバータを起用したキッカケを調べてみましたが判りませんでした。スマッシュヒットの
「You’ve Got a Friend」で知ったのか(時期的にはぎりぎりかな?)、はたまたそれ以外でか?
イーストウッドはジャズの偉人 チャーリー・パーカーの伝記的映画『バード』(88年)を
製作したりもしていますので、音楽にもかなり造詣が深い人だと思われます。
いずれにしろ映画のヒットと共に「愛は面影の中に」もチャートをあれよあれよと駆け上がって
全米No.1ヒットとなり、1stアルバム「First Take」も200万枚近くを売り上げ1位となります。
イーストウッドは使用料として2,000ドルを支払ったそうです(360円時代だから70万円位?)。
それが高いのか安いのかピンとはきませんが、以降も二人は良好な関係を続けていることから
当時としては十分な額だったのでしょう。83年のダーティハリーではエンディングテーマを担当しています。
「愛は面影の中に」は72年における年間シングルチャートの1位となり、翌年のグラミー賞にて
レコード・オブ・ジ・イヤーを獲得します。

72年5月、一枚のアルバムをリリースします。それが「Roberta Flack & Donny Hathaway」。
マーヴィン・ゲイ「ホワッツ・ゴーイン・オン」、スティーヴィー・ワンダー「インナーヴィジョンズ」、
カーティス・メイフィールド「スーパーフライ」などと並ぶ、ニューソウルにおける名盤です。
録音は71年5月から10月となっていますので、決して「愛は面影の中に」のヒットを受けて、
急かされながら創ったものではないでしょう。
本作からのシングル「Where Is the Love」はポップス5位・R&B1位と大ヒットを記録します。
その後、数多くのミュージシャンによってカヴァーされ続けている不朽の名曲の一つです。
ちなみにパーカッショニスト ラルフ・マクドナルドのペンによる楽曲。彼にはソングライターとしての
一面もあり、本曲やグローヴァー・ワシントン・ジュニア「Just the Two of Us」などが有名。
勿論ロバータの作品にはパーカッションでも参加しています。

またまただいぶ長くなってしまいました。本作及びそれ以降については次回にて。

#127 Roberta Flack

前回までのディオンヌ・ワーウィック回でもその名があがりましたが、ディオンヌと同世代の
黒人女性シンガーの中で、ロバータ・フラックは絶対に外せない人です。
アレサ・フランクリンは圧倒的なまでにパワフルでソウルフルであり、ディオンヌは
アレサと比べればソフィスティケートされ、良い意味での白人志向とも呼べるスタイルでした。
そしてロバータは、パワフルな歌を持ち合わせながら、非常にアカデミックでもあり、
どんな楽曲を取り上げてもロバータ・フラックの世界に染め上げてしまうシンガーでした。

上の「The First Time Ever I Saw Your Face(愛は面影の中に)」と同曲が収録された
デビューアルバム「First Take」(69年)は、彼女のディスコグラフィーを参考にする限りでは
どちらも全米1位を記録しています。デビュー作とそこからのシングルがいきなりNo.1ヒットと
なるとは初めから順風満帆のキャリアであったと思ってしまいますが、よく見るとそのチャート
アクションは72年においてとなっています。数年かけてじわじわとヒットする作品は決して
他に無い訳ではありませんが、ロバータの場合はどうであったのでしょうか。

ロバータの出自や音楽的バックボーンなどは追い追い触れていきますが、デビューのきっかけは
ワシントンのレストランやナイトクラブで演奏している彼女を観たある人物が、アトランティック
レコードのオーディションをセッティングしてあげた事でした。
69年初頭、伝えられるところによるとわずか10時間でデビュー作のレコーディングを終えたと
されています。ロバータ曰くそのセッションは ”とても素朴かつ美しいアプローチ” であったとの事。
「First Take」は全くコマーシャリズムとはかけ離れていると言って良いほどに、質が高くて
濃密な音楽性を持った作品です。ジャズ・R&B・フォーク・ゴスペル・ラテン等、様々なジャンルの
ごった煮の様なアルバムですが、全てがロバータ色に染まっており、とても新人のデビュー作とは
思えない程に、神々しいほどの傑作です。あまりに神々し過ぎて気楽に聴くのが憚られるほどです
(これって褒め言葉かな?・・・・・)。ちなみに本作ではロン・カーターが参加しています。

ロバータは自身で曲を書く事は極めて少ないです。その代わりに先述の通りどんな楽曲でも
自分のカラーに染め上げることが出来るミュージシャンです。上は2ndアルバム「Chapter Two」の
オープニングナンバー「Reverend Lee」。黒っぽさがプンプン匂い立つナンバーです。

フィフス・ディメンション「ビートでジャンプ」などで知られるジミー・ウェップ作の
「Do What You Gotta Do」。ロバータよりもさらに先達である黒人女性シンガー ニーナ・シモン達に
よってレコーディングされていたナンバー。タイトルは ”やるっきゃないよ” の様な意だそうです。

B面のオープニング「Gone Away」。ダニー・ハサウェイやカーティス・メイフィールドといった
当時におけるニューソウルの旗手達による名曲です。ギターはエリック・ゲイル。ジャズ・フュージョン、
AORからポップスまで、ありとあらゆるジャンルを弾きこなす達人ですが、その根っこにはブルースが
あるのが本曲のプレイでありありとわかります。

ミュージカルで有名な「The impossible dream(見果てぬ夢)」。ロバータ色に染められたとしか
言いようが無いアレンジであり、ただただ素晴らしいの一言。

今回は「愛は面影の中に」が世に認められる辺りまで書こうかと思っていたのですが、ムリそうです …
次回は3rdアルバムの発売から、ロバータがブレイクする時期くらい迄でしょうか?
予め言っときます、スティーヴィー・ワンダーは10回に渡りましたが、ロバータもかなり
長くなりそうです。忙しい人はちゃっちゃと読み飛ばして頂いても結構です・・・・・・
でも少しは読んで欲しいかな  … ・・・・・・・ |ω・`)チラ

#126 Dionne Warwick

70年代に入るとディオンヌ・ワーウィックはそれまで所属していたセプター・レコードから
ワーナーへ移籍します。移籍当初はバート・バカラック&ハル・デヴィッドのペンによる楽曲を
レコーディングしていましたが、やがてバカラック達とも袂を分かちました。
その後70年代末までの約十年間、ディオンヌは不遇の時代を過ごす事となります。

その不遇の時代における唯一のヒットが上の「Then Came You」(74年)。スピナーズとの
共演による本曲は全米No.1ヒットとなります。プロデュースはスピナーズ、
スタイリスティックス等を手掛けたフィラデルフィア・ソウルの立役者であるトム・ベル。

79年、アリスタ・レコードへ移籍しアルバム「Dionne」をリリース。これがミリオンセラーを
記録しディオンヌ復活と相成ります。バリー・マニロウ、アイザック・ヘイズといった多彩な
ソングライター陣を迎え、ディスコ・ポップバラード・ブラックコンテンポラリーと、
この時代における粋を集めた様な音楽性が受け入れられたことがヒットの要因かと。
上はアイザック・ヘイズによる「Déjà Vu」。印象的なベースはウィル・リーのプレイです。

https://youtu.be/3Mh9E8TschY
翌80年には基本的に前作の音楽性を踏襲した「No Night So Long」をリリース。前作ほどの
ヒットとはなりませんでしたが、ブラコン路線に活路を見出したのかな?という流れです。
もっともこの当時はディオンヌに限らず黒人シンガーの多くがこの様な方向性へ向かっていましたから。
上は本作に収録の「Reaching for the Sky」。ディズニーアニメの主題歌で有名な
ピーボ・ブライソンの作です。

82年にはバリー・マン、トム・ベル、デヴィッド・フォスター、そしてスティーヴィー・ワンダーと、
全てが本作用の書き下ろしではありませんが、豪華ソングライター陣の楽曲から成る
「Friends in Love」をリリース。演奏陣もスティーブ・ガッド、ジェフ・ポーカロやスティーブ・
ルカサー達TOTOの面々、そしてスティーヴィーと贅沢三昧のラインナップです。
お世辞にもヒットしたとは言えませんが個人的には良いアルバムだと思っています。
同年にもう一枚アルバムを出します、それがヒット作「Heartbreaker」。バリー・ロビン・モーリスの
ギブ三兄弟、つまりビージーズの全面協力による本作は、当然の如くディオンヌ✕ビージーズという点で
話題にならない訳がありませんでした。上はシングルヒットしたタイトル曲。
語弊のある言い方かもしれませんが、良くも悪くもビージーズです(ビージーズ嫌いな訳じゃないですよ)。
流石に82年であったのでディスコ調の楽曲はありませんが、ソフト&ポップ路線の作品になっています。
もしあと5年早かったら、ディオンヌ版『サタデーナイト・フィーバー』が出来ていたかもしれません
(それはそれで興味がありますけど・・・)。

本作で唯一ギブ三兄弟によらないカヴァー曲「Our Day Will Come」。ルビー&ザ・ロマンティックス
による63年のNo.1ヒットである本曲は、フランキー・ヴァリをはじめとして数多くのヴァージョンが
存在します。ドラムはスティーブ・ガッド、キーボードは複数人クレジットされていますが、
このエレピはたぶんリチャード・ティーでしょう。

85年の大ヒット曲「That’s What Friends Are For(愛のハーモニー)」に関しては#124
スティーヴィー・ワンダー回で言及しましたので詳細は割愛しますが、本曲が収録された
同年のアルバム「Friends」にて、再びバート・バカラックの楽曲を歌う様になります。
これ以降ヒット作と呼べるものはありませんが、現在においてもその活動を続けています。

年初のアル・グリーン回(#101)にて、現役で活動している黒人シンガーの一人としてディオンヌの
名を挙げました。ティナ・ターナーや昨年惜しくも他界したアレサ・フランクリンが
躍動感溢れるパワフルなスタイルだとすれば、ディオンヌは洗練されたアカデミックなフィーリングが
持ち味だったと言えるでしょう(勿論ディオンヌにソウルスピリットが無いとか、アレサとティナが
野暮ったいとかいう意味ではありません)。ロバータ・フラックはジャズ寄りの面がありましたので、
更にスタイルが異なります。全員聴き比べてみるのもこれまた御一興。
前回も触れた60年代におけるバカラックのコメントである ”彼女は途方もなく強い面と、ソフトに歌った時はとても優美な一面も持ち合わせている” という言葉に全てが集約されている様な気がします。
これは全くの私見ですが、ディオンヌ・ワーウィックというシンガーは、我々日本人の感覚で
言う所の、古き良き昭和のシンガー・歌い手というフィーリングに近いのではないかと思っています。
過度にリズミックあるいはエキサイティングな所は無く、朗々と、切々と、しかし時には
エモーショナルに歌い上げるその歌唱スタイルは、私たちの日本語でいう ”歌手・歌い手” という
呼び名がとても良く当てはまるシンガーではないのでしょうか。

#125 Alfie

スティーヴィー・ワンダー回の最後の方にてディオンヌ・ワーウィックの名があがりましたが、
ふと考えてみるとこれ程の大物シンガーについて、そのキャリアや音楽的バックグラウンド等について
意外にもちゃんとした知識を持ち合わせていない事に気付きました。折角ですからこの機会にて、
ディオンヌについて取り上げてみようかと思います。ただし本気で彼女の全キャリアについて
述べると大変な事になるので、あくまでざっくりと、今回と次回だけですが・・・

音楽一家に育ち、自身もその道に進むべくハートフォード大学音楽学部に進学し、在学中から
セッションシンガーとして活動を始めました。転機が訪れたのは62年、ベン・E・キングも
在籍したことで知られるコーラスグループ ザ・ドリフターズのセッションにおいて。
ディオンヌを語る上で欠かせない人物、アメリカを代表するソングライター バート・バカラックの
目に留まりました。バカラックまで語るととんでもないことになるので今回はあくまでディオンヌに
まつわる事柄だけ。バカラックはタイム誌において ”彼女は途方もなく強い面と、ソフトに歌った時は
とても優美な一面も持ち合わせている” とディオンヌについて語っています。
同年秋にバカラック作の「Don’t Make Me Over」でレコードデビュー。ポップスチャート21位・
R&B5位という順調な滑り出しを見せます。
最初のブレイクが翌年における上の「Anyone Who Had a Heart」。初の全米TOP10ヒットと
なり一躍スターダムの仲間入りを果たします。ちなみにこの曲は翌64年、60年代から70年代初頭に
かけてイギリスにおいて絶大な人気を誇った女性シンガー シラ・ブラックのヴァージョンが
100万枚近いセールスを記録し、そちらの方が有名になってしまいました。
64年には初期における彼女の代表曲とも言える「Walk On By」が大ヒット(ポップス6位・
R&B1位)。バカラックによる代表曲の一つとされる本曲は、余りにも多くのシンガーに
カヴァーされていますのでそれらは割愛。

ディオンヌにとって最初のゴールドディスクが言わずと知れた「I Say a Little Prayer」(67年)。
更に言うまでもなくアレサ・フランクリンのヴァージョンも大ヒットを記録する訳ですが、
リリースはディオンヌが9ヵ月程先でした。
”粘り気” の様なものがあるパワフルなアレサ版に対して、ディオンヌ版はアカデミックで洗練された
感があります、聴き比べもまたご一興。当然本曲も数限りないカヴァーが存在します。
上は翌68年のこれまた全米TOP10ヒットである「Do You Know the Way to San Jose
(サン・ホセへの道)」。バカラックは当時かなりボサノヴァに傾倒していたとも言われており、
ほぼ同世代であるボサノヴァの創始者 アントニオ・カルロス・ジョビンをかなり意識していた
のではないでしょうか。北米・南米と海を隔ててはいましたが両人とも大作曲家であるのは同様です。
ラテンフィール(二拍子)の曲ですが、ディオンヌはどんなタイプの曲でも歌いこなしてしまっています。

https://youtu.be/cW2fLeD5Pow
バカラックの代表曲として挙げられるものの一つとして「Alfie」は鉄板ですが、数えるのがイヤに
なるほど数多くのレコーディングが存在するスタンダードナンバーです。ですが、誰のヴァージョンが
最もポピュラリティーがあるかと問われれば、ディオンヌ版であると言って差し支えないのでは。
本曲について述べると本が一冊書けるのではないかという位に色々あるのですが、三行・・・・・
ではムリですが、なるべく簡潔に。
パラマウントピクチャーズより同名映画の音楽を依頼されていたバカラックとコンビを組んでいた
作詞家 ハル・デヴィッドは、当初その仕事に乗り気ではありませんでした。しかしラフカットを
観せてもらったりしているうちにイメージが湧き本曲が出来上がります。
バカラック達はディオンヌに歌わせるのが良いと考えていましたが、パラマウント側は先にも
触れた、当時イギリスで人気のあったシラ・ブラックを推していました。
色々とあったのですが、65年秋にバカラックが渡英しアビーロードスタジオでレコーディングが
行われました。ちなみにシラ版のプロデュースはジョージ・マーティン。シラは当時マーティンの
秘蔵っ子であったそうです。
シラ版は英でこそヒットしたものの、イギリスのみの映画プロモーション用だったものなので、
正式なテーマ曲という扱いではありませんでした。サウンドトラックに収められたのは、
その後夫婦デュオ ソニー&シェールとして人気を博すシェールのヴァージョンとなります。
ディオンヌは66年のアルバム「Here Where There Is Love」にて既に本曲を収録していましたが、
同アルバムからのシングルカット曲のB面に収められ、その時はあまりヒットしませんでした。
しかし一部のディスクジョッキー達がB面である「アルフィー」をラジオで推す事で世に広まり始め、
決定的だったのが67年4月に行われたアカデミー賞のテレビ中継におけるディオンヌの生歌でした。
それから本シングルはチャートを駆け上がりポップス15位・R&B5位を記録します。
本曲の40以上あるヴァージョンの中でもディオンヌのものが決定版とされています。人によって
感じ方は様々ではあると思いますが、やはりバカラックの楽曲を最も豊かに歌い上げる事が
出来るシンガーの一人がディオンヌに他ならないということではないのでしょうか。

#124 Stevie Wonder

80年代以降のスティーヴィー・ワンダーについて、才能が枯渇してきたなどと無礼な事を
書いた輩がいますが(誰だ!ゴルァ!!━(# ゚Д゚)━・・・・・オメエだよ (´∀` ))、
確かに70年代における異常な程のクオリティーには及ばないにしても、前回のテーマである
「リボン・イン・ザ・スカイ」をはじめとして素晴らしい楽曲はまだまだあります。

「心の愛」(84年)が評論家やスティーヴィー通に評判が悪いのは前回述べた通りですが、
本曲が収録された映画のサントラ「ウーマン・イン・レッド」。やや不確かな情報ですが、
元々はディオンヌ・ワーウィックに話が来ていたものを、ディオンヌがスティーヴィーを
推した為にスティーヴィーによるアルバムとしてでリリースされた作品とされています。
本作でディオンヌがフィーチャーされているのはその様な理由です。
「ウーマン・イン・レッド」から繋がっているのかどうかは判りませんが、85年のNo.1ヒット
「That’s What Friends Are For(愛のハーモニー)」は当初スティーヴィーとディオンヌの
デュエットであったとされています。本曲は初出がロッド・スチュワート(82年)のレコーディング。
85年にチャリティーとして再び世に出る事となります。スティーヴィーの楽曲を紹介すると言って
おきながら何ですが、本曲は言わずと知れたバート・バカラックによる楽曲です。そしてヒットを
確実にする為に共演者を増やそうと提案したのもバカラックであると言われています。
そうした理由でエルトン・ジョン、そして一般的な知名度という点では他三人には及びませんが、
60年代~70年代前半においては米ソウル界でカリスマ的支持を得ていたグラディス・ナイトを
起用することとなったそうです。
甘ったるいだけのバラード、売れ線などと批判はあります。バカラックによる数多の名曲群において、
本曲が上位に入るかというと私もそれは否と断じざるを得ませんが、これだけの実力派シンガーが
一堂に会したというだけでも貴重なナンバーです。ちなみにロッド版も良いですので聴いてみてください。

「リボン・イン・ザ・スカイ」と並んで、80年代以降におけるスティーヴィーの傑作が上の
「Overjoyed」(85年)だと思います。毎度の如く一筋縄ではないコード進行なのですが、
全くそれを感じさせない歌が素晴らしい。「ホッター・ザン・ジュライ」ではやや過剰なアレンジが
感じられる所もありましたが、本曲でのストリングスは見事。これが無ければこの曲足り得なかった
のではないでしょうか。ギターは当時新進気鋭のジャズフュージョン・ギタリストとして頭角を
現しはじめていたアール・クルー。

とかく80年代に入ってからの作品は酷評される事が多いのですが、「リボン・イン・ザ・スカイ」や
「オーヴァージョイド」以外にも素晴らしい曲はまだあります。
上の「With Each Beat of My Heart」はアルバム「Characters」(87年)からの5thシングルとして
世に出ましたが、ポップスチャートではチャートインすらしませんでした。スティーヴィーの楽曲としては
全く陽の目を見ていないナンバーですが、非常に秀逸な曲だと思っています。メインからバッキングまで
全てスティーヴィーの多重録音によるもの。この様なドゥーワップスタイルのナンバーは
スティーヴィーとしては珍しい部類ですが、元々子供の時分にはデトロイトの街角で演っていた
スティーヴィーですから、原点回帰とでも言えるナンバーでしょう。80年代末から90年代にかけて、
新しい世代のソウル・R&Bシンガー達がドゥーワップ・アカペラを取り上げて一大ブームを
巻き起こす事となりますが、丁度そのブレイク前夜とも言える時期であるのも興味深いです。
日本では山下達郎さんや鈴木雅之さん(更に遡ればキングト―ンズ)が大昔から演っていたのは
言わずもがなです。

90年代以降ベスト盤は別として、映画のサントラとライヴ盤を除くとオリジナルアルバムは
「Conversation Peace」(95年」と「A Time to Love」(05年)のみで、一応現在の所は
「タイム・トゥ・ラヴ」が最新作となります。14年も前の作品ですが・・・
スティーヴィー回の一番最初の方でも書きましたが、ポップス界において最も才能に溢れた
人だと思っています。ジミ・ヘンドリックスもいますが彼は機材の扱いを含めたギター演奏に
関しては飛びぬけた天才であった人です。
スティーヴィーよりも作曲及び編曲・器楽演奏・歌といった個々の分野において秀でている
ミュージシャンは勿論いますが、全てが高い次元で完成されていて、そして70年代をはじめとした
異常とも言えるクオリティーの作品をほぼ一人で創りのけてしまった様な偉業を成し遂げた人は、
彼をおいて他にいないのではないでしょうか。彼に匹敵する才能を持った人と言えば同時期においては
エルトン・ジョン、それ以降ではプリンスくらいだったのではないかと私は思っています。

https://youtu.be/x9gXgiHSskk
最後はライヴ演奏でも上げて締めたいと思います。「キー・オブ・ライフ」回で有名曲は
取り上げなかったので、「I Wish(回想)」と「Isn’t She Lovely(可愛いアイシャ)」の
メドレーを。08~09年の欧州ツアーにおけるロンドン公演の模様、多分DVDで出ているやつです。
女性コーラス三人の真ん中がおそらくアイシャ、途中でアップになる箇所がありますが凄い美人です。
この頃はまだ声もバリバリ出ていました、数年前のコンサートの模様もユーチューブに上がっていますが、
さすがに声の衰えは如何ともし難いところです。もっともこの人は日本で言う所の人間国宝の様な
人ですから、とにかく少しでも長く現役で活動してくれれば良いのだと私は思っています。

以上で10回に渡って続けてきたスティーヴィー・ワンダー回もこれにて終了です。
まだ例えば、ドラマーであるスティーヴィーについてスポットを当てて書いてみるというのも
面白いかと思ったのですが(一応ドラム教室のブログなんですよ・・・)、それはまた別の機会にて。

#123 Ribbon in the Sky

80年代前半におけるスティーヴィー・ワンダーの活動は、チャートアクションだけを
取れば60~70年代と遜色なく輝かしいものに見えます。余りにも有名なポール・マッカートニー
とのデュエット「エボニー・アンド・アイボリー」(82年)、映画のサントラからシングルカットされた
「I Just Called to Say I Love You(心の愛)」(84年)、85年のアルバム「In Square Circle」
より「Part-Time Lover」、そしてディオンヌ・ワーウィックやエルトン・ジョン達との共演による
「That’s What Friends Are For(愛のハーモニー)」などのNo.1ヒットを連発しています。
しかしコアなリスナー、評論家連中、そして何しろスティーヴィー自身もある事に気が付き始めました。
”以前の様な、泉の如く湧き出ていた圧倒的かつ、斬新で、驚異的な楽曲・アイデアなどが
枯渇してきているのではないだろうか?” と・・・・・

82年、スティーヴィーは二枚組のベスト盤をリリースします。「Stevie Wonder’s Original Musiquarium I(ミュージックエイリアム)」。ベストアルバムではありますが、新曲が4曲も
入っているというもの。この当時はこの手のベスト盤がよく出ていた様な記憶があります。
今思いつくだけでもホール&オーツ、ビリー・ジョエル、カーズなど。新しいリスナーは勿論、
既存のファンも買えよテメエらこのヤロウ、という阿漕な … もとい商売上手な手法です・・・
上はその先行シングルであった「That Girl」。ポップスチャート4位・R&B1位と好セールスを
記録しますが、直後における「エボニー・アンド・アイボリー」の大ヒットのせいで影が薄くなって
しまっている曲です。80年代的ブラックコンテンポラリーの影響を受けながらも、スティーヴィー
らしさは失っていない、地味ではあるけれども佳曲だと思います。

84年のNo.1ヒット「心の愛」はコアなスティーヴィーフリークや評論家筋にはとかく嫌われている
楽曲ですが、皮肉にも一般的にはスティーヴィーの代表曲として認知されています。
確かに60年代後半から70年代における綺羅星の如し名曲群と比べれば聴き劣りするかもしれませんが、
私は普通に良い曲だと思っています( ”普通” ってあまり誉め言葉じゃないですね … )。
ちなみに元々は日本の兄弟デュオ ブレッド&バターの為に書かれた曲。しかしその後、先ず自分で
使うので、ブレバタにはレコーディングをペンディングする様に要請があったとの事。スティーヴィーが
リリースした後に、ブレバタは「特別な気持ちで」として発売しています。ちなみに歌詞は呉田軽穂に
よるもの。ファンにはお馴染みの事ですが、呉田軽穂とはユーミンの別名義です。

80年代に入ってから、スティーヴィーの中では焦りの様なものが芽生えてきたと言われています。
セールス及び一般的な評価としては冒頭で述べた通り全く問題無い様に思われますが、評論家や
昔ながらの耳の肥えたリスナーによる否定的なレヴュー、何といっても彼自身の中で満足のいく作品を
創っているという自身が失われていたそうです。
これはあくまで噂話のレベルですが、マイケル・ジャクソンがクインシー・ジョーンズと組んで
モータウンを離れ、「オフ・ザ・ウォール」(79年)により華々しく ”大人のマイケル” として
再デビューを飾り、その後「スリラー」で怪物的なセールスを上げ世界を席巻する訳ですが、
それによってグラミー賞も総なめする事となります。かつてはスティーヴィーが同様の立場だった訳ですが、
新しい世代に取って代わられたという気落ちが彼にあったとされています。グラミーの評価が妥当かどうか?
などの意見は昔からありますが、創り手としては評価というものに対して過敏になるのでしょう。
これは嘘か誠は判りかねますが、ある年のグラミー賞授賞式にて、スティーヴィーは会場を離れ
舞台裏(トイレ)へと逃げるように行ってしまいました。その年もマイケルの独壇場だったそうです。
それを見たクインシーが彼を追いかけ、トイレにて激励(お説教?)をかました、と言われています。
これも真意の程は定かではありませんが、この時期モータウン側からクインシーに対して
スティーヴィーのプロデュースをして欲しいと打診があったいうウワサもあります。
これはあくまで個人的な意見、マイケルファンの皆さんイイですか?あくまで私見ですよ …
ダンスやステージングアクトなどのエンターテインメントにおける力量に関してマイケルは
素晴らしいとは思いますが、シンガー・作曲家編曲家・器楽演奏者としての才能は、
比べるまでもなくスティーヴィーの圧勝だと私は思っています・・・・・・・・・・・
ε=ε=ε=ε= (#゚Д゚)( °∀ °c彡)ヽ( ・∀・)ノ┌┛・・・ だから私見だ!つってんだろ!!!(((((゚Å゚;)))))

結果としてクインシーによるスティーヴィーのアルバムというものは実現しませんでしたが、上の曲は
”クインシーのプロデュース?” と言われても全く違和感の無いもの。「ミュージックエイリアム」の
ラストに収められている「Do I Do」は当時流行のダンサンブルなファンクナンバーで、クインシー&
マイケルやシックの曲?、と言われても疑わない様な楽曲です。ですがそこはスティーヴィー、
しっかり自分の曲にしてしまっています。歌のグルーヴ感が何とも素晴らしいのが耳を引きますが、
演奏陣も見事。ソリッドなブラスセクション、長年に渡ってスティーヴィーバンドにてベースを務めた
ネイザン・ワッツのプレイが印象的です。しかし本曲で一番話題にされるのは、ジャズトランペッター
ディジー・ガレスピーの参加でしょう。チャーリー・パーカーと共にモダンジャズ・ビバップの
開祖とされるこの超大物ジャズメンがレコーディングに加わった事が第一のトピックとなりました。
本曲もシングルカットされましたが、アルバム版は10分半もある為、シングル版は縮められています。
それでも6分もありますけれども・・・

この時期のスティーヴィーについて否定的な事を書き連ねてきましたが、しかしやはりスティーヴィー・
ワンダーです。本作には珠玉の名曲が存在します、それが今回のテーマ「Ribbon in the Sky」。
「トーキング・ブック」回にて私なりの三大バラードがあり、一曲目は「You and I」。二曲目は
前回の「Lately」であると述べました。そして残る三曲目が本曲に他なりません。
この曲について ”天上的な美しさを持った曲” と形容したレビューを読んだことがあります。
これ程的確な表現は無いという程に本曲を言い表した言葉です。
「You and I」「Lately」と際立って異なるのはドラムが入っている点でしょうか。二曲と同様に
生ピ&シンセでも面白かった様な気はしますが、それはこの時点でのスティーヴィーによる判断。
また、生ギターによる調べも素晴らしい効果を演出している所も相違点ではありますが、本質的な
部分においては二曲と相通ずるものだと思っています。それは緩急の付け方、独唱を用いる事で
よりエモーショナルな歌唱を引き立たせている点、そして甘美という表現以外が見当たらない程に
劇的な構成です。緩急の付け方と劇的な構成という部分は(似たような表現だな?!とかの
ツッコミはご勘弁。語彙が乏しい・・・)、終盤におけるコードあるいはメロディの駆け上がり方に
他なりません。「You and I」は転調ではないですが歌がドラマティックに変化し、「Lately」は
二音半の転調によって見事な高揚感を演出、そして本曲では歌の二番にて半音転調、そして
二番の最後 ”Love” を繰り返す箇所でさらに半音上がる。聴き所は何といっても二回目の転調後
(2:37辺りから、勿論それまでの抑制があってこそなんですけどね)。
この三曲全てに通じるのは、佳境にてスティーヴィーの歌が最も映える音域に持って行っているという所。
勿論この様なアレンジはスティーヴィーだけに限ったものではありませんが、本三曲は
とりわけその点において見事という他に言葉がありません。

ところでスティーヴィー・ワンダー回はいつまで続くのでしょうね(´・ω・`)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・書いてんのオメエだろ (´∀` )

#122 Lately

俗に ”黒歴史” なる言い方をされる事柄があります。なかったことにしたい、あるいはなかったことに
されている過去を指す言葉の様ですが、スティーヴィー・ワンダーの作品にも当てはまるものがあります。

「Stevie Wonder’s Journey Through “The Secret Life of Plants”(シークレット・ライフ)」(79年)。前作「キー・オブ・ライフ」の大成功の後、周囲の期待を受けて発表されたのが、
”植物には意識がある” といった、悪く言えばトンデモ学説を基にしたドキュメンタリー映画の
サウンドトラックでした。結果的には映画は未公開に終わった為、映像的な詳細は分からず終いですが、
当然ストーリーものではなく、植物の一生を映像で綴る様なドキュメントフィルムであったようです。
ポップソングに限界を感じ、新たな飛躍を遂げる為にあえて実験的な試みに身を投じたのだとか、
いや一時の気の迷いだとか、諸説ありますが、この二枚組サウンドトラックの評価は決して高いものでは
ありません。前作に参加したハービー・ハンコックなどはその冒険心を称えたそうですが、
評論家によってはターンテーブルに乗せる必要の無い作品だ、などと酷評する者もいたそうです。
実は私も今回はじめて本作をちゃんと聴いたのですが、言う程駄作とは思いませんけれども、
それまでのスティーヴィーによる作品群と比較すると?・・・ といった感じでしょうか。
しかしそんな辛辣な評価を下す評論家連中でも絶賛する曲が収録されています。それが上の
「Send One Your Love」。いかにもスティーヴィーらしい高度なコードプログレッション
(ダ、ダジャレじゃないんだからね!か、勘違いしないでよね!!(๑`н´๑)・・・)による本曲は、
ベスト盤でも大概収録されている代表曲の一つです。

「シークレット・ライフ」から一年余りでリリースされたのが「Hotter than July」(80年)。
これも人によって評価は様々なのですが、”ちゃんとした” ポップミュージックとして成立しています。
上はA-②「All I Do」。60年代におけるパートナーであったクラレンス・ポールとその時代に
既に創られていた楽曲と言われています。リズムがディスコティックなのと、シンセベースが
突拍子がないのを除けば、所謂 ”モータウン時代” の楽曲として感じられないこともない曲です。

本作で有名なのはシングル曲であるレゲエ調の「Master Blaster」、「I Ain’t Gonna Stand for It」
及びマーティン・ルーサー・キングを歌った「Happy Birthday」ですが、あえて取り上げません。
上はA-③「Rocket Love」。スティーヴィーの全曲中においても全く陽の目を見ない曲です。
これをクドい、オーバープロデュースと感じるか、スティーヴィーの楽曲としては珍しい試みと取るか、
聴き手によりますけれども個人的には興味深い一曲だと思っています。

B面は「マスター・ブラスター」から始まり、クインシー・ジョーンズを意識したのかな?
と思わせる「Do Like You」。そして上は、これも全く陽の目を見ないファンクナンバー
「Cash in Your Face」です。彼の楽曲群において特に秀でたものとは思いませんが、
この時期のスティーヴィーを知るには面白い作品なのではないかと。

本作では黎明期におけるサンプリングドラムマシン『リンドラム』の使用、ディスコサウンドの
取り込み、ポップでキャッチーな楽曲などにより前作で失いかけた大衆の支持を取り戻した面と、
一部の評論家からは三部作~「キー・オブ・ライフ」にかけての様なクリエイティビティが無い、
といった相反する評価があったようです。個人的には、質の面では確かに前四作には及ばないとしても、
そこまで酷評するものでは無いと思っています。それにはある曲の存在もあるのですが・・・

本作からの3rdシングルである「Lately」。当時はポップスチャート64位、R&Bで29位とお世辞にも
ヒットシングルとは言えないものでしたが、その後数多くのミュージシャンによって取り上げられ、
今日においては名曲とされる楽曲です。#117にて個人的に ”三大バラード” があると述べましたが、
その二曲目が本曲です。
「You and I 」と同系統とされる楽曲であり、口の悪い評論家は「You and I 」等既存曲の
アイデアを使い回していると難癖をつける輩もいるようですが、ポップミュージックでそれを
言い出したらキリがありません。
生ピアノ・シンセ(シンセベース)のみ、そしてスティーヴィーによる独唱といった点も
「You and I 」同様。そして終盤における歌の盛り上げ方も同じく絶品です。
二回目の ”good-bye” を繰り返すパートからが最大の聴き所であるのは言わずもがな。
二音半転調し、スティーヴィーの歌が一番映える音域まで駆け上がっていく箇所は、
「You and I 」にしろ本曲にしろ鳥肌ものです(「You and I 」は転調ではないですが … のはず・・・)。

「レイトリー」はその後スティーヴィーのコンサートにおいて、欠かす事の出来ないナンバーとなりました。
ミュージシャンにとって、シングルヒットした曲だけが重要なものではないという顕著な例です。

#121 Songs in the Key of Life_2

76年に発表されたスティーヴィー・ワンダーの代表作「Songs in the Key of Life
(キー・オブ・ライフ)」は、当初「ファースト・フィナーレ2」と、前作のタイトルを
踏襲する考えもあったそうです。TONTOシンセのエンジニアであり、三部作の
共同プロデューサーでもあったロバート・マゴーレフとマルコム・セシルはこの当時
スティーヴィーに ”群がってきた” 様々な人物達によって引き離され(あくまで二人の弁)、
またマゴーレフ達もそれに嫌気が差した為、共同プロデュースチームは解散となり、
スティーヴィーは一人でアルバム制作をするはめとなりました。そのためであったのか、締め切りは
75年中とされていたのが大幅に遅れ、76年9月のリリースとなりました。勿論スティーヴィーの
作品にかける並々ならぬこだわりが遅れの要因になったのも言わずもがなですが。

愛娘アイシャの誕生を歌った「Isn’t She Lovely(可愛いアイシャ)」でC面は幕を開けます。
前回有名曲は取り上げないと言ったので動画は張りませんが、トリビア的な話を一つだけ。
曲中で聴こえる赤ん坊の笑い声は永らく当然アイシャのものだと思われていましたが、00年代半ばに
スティーヴィーが ”実はアイシャのものではない” とカミングアウトしました … エェェ((゚д゚; ))ェェエ
当時洋楽好きの間ではちょっとした話題になりましたが、勿論最初はアイシャの声を使おうとしたものの
上手くいかず、同時期にかかりつけの歯科医に子供が生まれたのでその子の声を録らせてもらったとの事。
今調べてみるとイントロだけ別の子であってその他はアイシャであるとか、色々な話が出回っています。
15年位前の話なので私もうろ覚えなのですが・・・
上はC面3曲目「Black Man」。タイトルからしてわかる通り人種問題について触れた歌詞。
途中で寸劇の様なパートがあるのはインナーヴィジョンズの「汚れた街」と同様。その歌詞に興味がある方は自身で調べて頂くとして、とにかく本曲のファンクグルーヴは天下一品であり、「愛するデューク」でも
聴く事が出来るブラスセクションのソリも素晴らしい。8分半に及ぶ本曲を長いと感じる向きも
ある様ですが、私は気になりません。人それぞれという事です。

D面1曲目である「Ngiculela – Es Una Historia – I Am Singing(歌を唄えば)」。ズール語、
スペイン語、そして英語にて歌われる本曲はストレートなラブソングとの事。印象的なのはシンセの
音色(ハープシコード?)ですが、実はかなり大人数によるパーカッションのパートも採用されており、
それが言語と相まって本曲のワールドワイド感を高めているのだと思われます。

ハープ(竪琴の方)による調べの上でスティーヴィーの歌(と若干のみハーモニカ)が堪能できる
「If It’s Magic」。「歌を唄えば」と共に、ともすれば本作においては小作品といった扱いを
されてしまいがちなナンバーですが、それでさえ一級品の楽曲・歌・演奏なのです。

ジャズ界の御大 ハービー・ハンコック(と言っても当時はまだ30代)が参加している「As」。
本曲は珍しくハンコックのエレピをはじめとしてベース・ドラムにおいてもゲストミュージシャンによる
演奏です。歌の合間のオブリガード(合いの手的フレーズ、フィルイン)やソロがハンコックでしょうが、
スティーヴィーの歌をスポイルする事無く、見事な効果をあげています。当然ストレートアヘッドな
ジャズミュージックからそのキャリアを開始したハンコックでしたが、やがてエレクトリックな
フュージョン、ファンク・ヒップホップと、ジャズの枠には収まりきらない音楽を展開していったのは、
スティーヴィーなどのポップス界のミュージシャンとの交流による影響もあったのでしょう。
実際本作の後、シンセをスティーヴィーから借り受けて自身のアルバムで使用したりしていたそうです。
本曲は全体に漂う黒っぽいフィーリングがたまりません。節回しを変えて歌うパートはまるでサッチモ?
また大人数に聴こえるコーラスですが、実はスティーヴィーと女性シンガーの二人によるもの。
7分強と長尺ですが全く飽きを感じさせません。

D面のトリを飾る「Another Star」。”サンタナかよ!” と思わずツッコんでしまう様なラテンフィール
溢れるイントロ。血沸き肉躍る様な曲、というのは本曲を指すもの。歌・演奏・アレンジ全てが完璧です。
ジョージ・ベンソンがギターとコーラスで参加しています。「ブリージン」が本作と同年の5月と、
若干早くリリースされジャズのアルバムとしては異例の大ヒットを記録したベンソンですが、
勿論レコーディング時はもう少し前の話。決して派手なソロなどは弾いておらず、オブリガードに
徹していてあまりフィーチャーされていませんが、自他共に結果としてそれで良いと判断されたのかも。
ブラスセクションが見事なのは言うまでもなく、パーカッション、コーラス、そして終盤のフルートソロが
秀逸です。個人的には本作のベストトラック。

EP盤B面のラストナンバー「Easy Goin’ Evening (My Mama’s Call)」。エレピ・ベース・ドラム、
そしてハープ(竪琴じゃない方)によるインストゥルメンタルである本曲は、大傑作の締めくくりとして、
何とも哀愁を漂わせながら、かつストイシズムを撒き散らしてリスナーを良い意味で翻弄させてくれる
エンディング曲です。見過ごされがちですがスティーヴィーのワイヤーブラシによるドラミングが実に
見事。そして、ハーモニカという楽器は何故これ程まで切ない音色なのでしょう…

アナログで聴けば普通はLP①→LP②→EPという順番ですが(多分その昔テープへダビングしたのも
その順、だったと思う…)、CDではLP①→EPのA面→LP②→EPのB面となっています。
再発されたCDの曲順からしても、
EP収録曲は決してオマケ的なものではなく、本作を構成する
重要な楽曲だったのだと思います。
ですからCD①は「エボニー・アイズ」で終わり、CD②の
オープニングは「可愛いアイシャ」で
始まるのがしっくりくるのです。
「アナザー・スター」で終われば大盛り上がりのうちにフィナーレを迎えられたのですが、
そうは問屋が卸さず、「Easy Goin’ Evening 」で祭りの後に過行く夏の終わりを突き付けられる様な
寂しさを味わいながら、我々は現実へと引き戻されるのです。

前回本作について、コンセプト性は無くごった煮の様な作品と言い表しました。実際に全てが
本作の為に準備された楽曲という訳ではなく、幾つかは前作以前からのストックで、場合によっては
三部作に収録されていたかもしれない曲もあるとされています。
なのですが、矛盾を承知で言いますと、やはり本作にはスティーヴィー本人は図っていなかったとしても、
統一されたカラー・雰囲気が、あの印象的なアルバムジャケットと共に存在する様な気がするのです。
もっともこれは我々リスナーによる後付けの印象、ただの刷り込みかもしれませんが・・・