#84 The Rose of England

前回も少し触れましたが、エルヴィス・コステロの初期作品群をプロデュースしたのがニック・ロウです。
コステロは79年にニック・ロウ作の「(What’s So Funny ‘Bout) Peace, Love And Understanding」
をカヴァーしています。

ニック・ロウのオリジナルはこちら。ブリンズリー・シュウォーツ による74年のシングル曲。
https://youtu.be/ZkuEBHMCOyY
両者の個性が表れており、聴き比べると興味深いものがあります。本曲は決してヒットナンバーであった
訳ではないのですが、その後も多くのミュージシャンによって取り上げられ続けています。

 

 

 


ニック・ロウのデビューは67年、つまり50年以上のキャリアを持つミュージシャンです。
バンドでの活動を経て、76年にソロでレコードデビュー。最大のヒットは79年のシングル
「Cruel to Be Kind(恋するふたり)」(全米・全英共に12位)。

コステロ回でも述べた事ですが、オールディーズのR&Rやポップス、カントリー&ウェスタンと
いったアメリカのルーツミュージックを演奏するイギリス人ミュージシャンの代表格です。
予備知識なしに一聴すると、てっきりアメリカのミュージシャンと思ってしまうでしょう。
上は84年発表の「Nick Lowe and His Cowboy Outfit」のオープニングナンバーである
「Half a Boy and Half a Man」。小気味良いR&Rですが、やはりどこかに英国臭さを
感じるのは私だけでしょうか?

ニック・ロウは自身の活動以外にも、プロデューサーとしての手腕も良く知られるところです。
先述のコステロをはじめ、英国パンクの祖であるダムド、米ロカビリー・カントリー界のカリスマ
ジョニー・キャッシュ、デビュー間もないプリテンダーズなど、そのプロデュースワークは
多岐に渡っています。

「The Rose of England」(85年)からの1stシングル「I Knew the Bride (When She Used to Rock ‘n’ Roll)」。当時は全米77位とお世辞にもヒットしたとは言えませんが、現在YOUTUBE上で
200万回超の再生回数を誇っています。時代がようやくニックの音楽性に追いついたのでは?
本曲には当時人気絶頂であったヒューイ・ルイス&ザ・ニュースが参加、というよりもこの曲に限り
ヒューイ・ルイス&ザ・ニュースの演奏及びコーラスによるもの(プロデュースもヒューイ)。

https://youtu.be/9ZZQyLK-wi4
タイトルトラックである「The Rose of England」。私が思う本作のベストトラックであり、ニックの
音楽性を最も表していると思うのが本曲です。カントリーを基調としたR&R、アメリカで言えば
サザンロック、スワンプロックに相当するのでしょうが、やはりヨーロッパ的哀愁が漂っており、
コステロにも通じる所がありますが(というよりコステロがニックを踏襲したのでしょうけど)、
この雰囲気はニック・ロウにしか出せないものです。

よくよく考えればカントリー&ウェスタン、ブルーグラスといった米白人によるアメリカンルーツと
される音楽も、元をたどればイギリス・アイルランドで根付いていたポピュラーの変化版と言えます。
アメリカでは西部劇よろしく、ウェスタン扉を押しのけてバーボンをあおりながら演るところを、
イギリス・アイルランドでは、パブでエールやスタウト(ギネスビールなど)といったビールや、
スコッチウィスキー(ヴァランタインやグレンリベット等々 いかん、飲みたくなってきた…)を
嗜みながら飲めや歌えやの宴を催す、といっただけの違いです。その根っこは同じものなのでは?

今年4月、ニックは来日公演を行いその健在ぶりを日本のファンに披露しました。セールスや
チャートアクションだけを取れば、大成功を収めたミュージシャンという訳ではありません。
しかし半世紀以上に渡り継続的な活動を続けてきたのは、コアなファンからの支持や、
同業者達から一目置かれる存在であり続けた”Musician’s Musician”としての功績に
よるものではないかと私は思うのです。

#83 Punch the Clock

直近のブルース・スプリングスティーン回にて、ブルースが70年代後期に興ったパンク
ムーヴメントに影響を与えたであろう事を書きました。ロンドンを中心としたロックンロールへの回帰、
とでも言える様な音楽的な波が一般的にそう呼ばれます。もっともこの時期にイギリスでデビューした
ミュージシャン達は皆パンク扱いされました。後になって『この人(達)ってパンクか?』というような
ケースもありましたが、流行・時代の波といったものは往々にしてそういうものでしょう。

 

 

 


エルヴィス・コステロもそのパンクムーヴメントの真っ只中にレコードデビューした一人です。
後にその音楽性の多様さ(節操のなさ?)を発揮しますが、デビュー当時はパンク調の音楽で
あったのは確かです。しかし他のパンクロッカー達と一線を画していたのは、コステロの
バックボーンにはオールディーズR&R、カントリー&ウェスタン、ジャズ等のアメリカンミュージックが
染み付いていた事。大ヒットとまでは行きませんでしたが、初期から米において比較的チャート
アクションが良かったのは、一過性に終わったパンクの流行に乗っただけではない、これらの
要因があったからなのではと思われます。

今回取り上げる80年代の作品、私がリアルタイムで聴いていた「Punch the Clock」(83年)
「Goodbye Cruel World」(84年)の二つは生粋のコステロファンにとってはあまり芳しくない
評価のものです。というよりも、コステロ自身が気に入っていない、と公言しているものです。
「Goodbye Cruel World」などは後にCDで再発された時に、コステロ自身によるライナーノーツにて、
『Congratulations! You just bought the worst album of my career.(おめでとうございます。
あなたは我々のワーストアルバムを購入しました。)』という文言が入っていた程だそうです。
自虐ネタにもほどがあるでしょうが・・・
私的にはリアルタイムで体験したというひいき目を差し引いても、決して出来の悪いアルバムだとは
今聴いても全く思いませんが、コステロ的には”売れ線”に走ってしまったのがどうにも許せなかった
らしいです。確かに80年代の日本のロック雑誌にてそのようなコメントがあったのを記憶しています。

その”売れ線”と言われた一つが上の「The Only Flame in Town」。当時飛ぶ鳥を落とす勢いだった
ホール&オーツのダリル・ホール(#56~#61ご参照)をゲストに迎えた一曲。ダリルとデュエットする
からにはやはりソウルミュージック、となったのかと推測されますが(ダリルはどんなスタイルでも
見事に歌う事が出来るシンガーですけど)、言うほど売れ線か?と思うような楽曲です。先程デュエットと
書きましたが、正確にはダリルがバッキングヴォーカルに回った、というのが正しいでしょう。コステロは
かなり個性的な声・歌唱スタイル、悪く言えばかなりアクの強い歌い方をするシンガーですが、ダリルは
それを引き立て出しゃばり過ぎず、それでいてちゃんと存在感を示しているという素晴らしいプレイを
披露しています。超一流のシンガーでなければ出来ない事です。

もう一つの”売れ線”がこれ「I Wanna Be Loved」。スクリッティ・ポリッティ(#54ご参照)の
グリーン・ガートサイドをコーラスに起用したバラード。シンセの音色が如何にも80年代を感じさせ、
またグリーンの個性的な声でもってより特色ある楽曲へと仕上がっています。ちなみに本曲はオリジナル
ではなく、シカゴのR&Bコーラスグループ「Teacher’s Edition」という、お世辞にも有名とは
言えないグループの、しかもアルバム未収録のシングルB面曲との事。コステロが本曲を知ったのは
訪日時にたまたま買ったその手のコンピレーションものに入っていたらしいです。参考までに原曲を。

ポップに歩み寄ったつもりでもチャート的にはイマイチ振るわず、コステロはアメリカに渡り
「King of America」(86年)を制作。前述した様なアメリカのルーツミュージックに傾倒した
作品となりました。また2ndアルバム以降その活動を共にしてきたバックバンド アトラクションズとの
関係もこの時期に一度断ち切っています。私生活では離婚問題などを抱え、80年代中期~後期は
コステロにとって比較的苦難の時代となっていました。

89年、コロンビアからワーナーに移籍。アルバム「Spike」をリリースし、そこからの第一弾シングルであり
ポール・マッカートニーとの共作として話題を呼んだ「Veronica」。コステロのキャリアにおいては
アメリカで最もチャートアクションが良かった曲です(全米19位)。
果たして何かが吹っ切れたのでしょうか?。90年代以降のコステロはその奇才ぶりを発揮していきます。
バート・バカラックとの共作、ジャズへの傾倒(3番目の奥さんがジャズシンガー)、さらには
インスタントラーメンの生みの親である日清食品の創業者をタイトルに冠したアルバムのリリースなど、
その創作意欲はとどまる事を知らないかのようです。

パンクムーヴメントでデビューし、果てはジャズまで。決して一筋縄で括ることが出来ないミュージシャン
ではありますが、基本的にこの人はオールディーズやカントリー&ウェスタンといったアメリカンルーツを
イギリス人的解釈で演る人だと私は思っています。それに関しては先輩であり盟友でもあるニック・ロウ、
デイヴ・エドモンズなどと同系譜のミュージシャンと言えます。
決してビッグセールスを連発したミュージシャンという訳ではありません。しかし40年に渡る根強い
ファンからの支持、また同業者であるミュージシャン達から一目置かれる存在であり続けている
エルヴィス・コステロという人は、ポップミュージック界におけるワンアンドオンリーだと思います。

#82 Born in the U.S.A.

直近のブライアン・アダムス回でブルース・スプリングスティーンについて触れましたが、
二人は昨年9月にトロントで共演しているそうです。”熱きロックンローラー”として、
また後にそれぞれの代表作となるアルバムが同時期にチャートを賑わしていた事などもあって、
とかく比較される事の多い二人だったと記憶しています。

 

 

 


アダムスの「Reckless」とチャートの首位を争ったアルバム、それは言うまでもなく
ブルース最大のヒットとなった「Born in the U.S.A.」(84年)。

全米で1500万枚、全世界では推定で3000万枚以上は売れているであろうとされている
アルバム(この位のレベルになると実数はよくわからないそうです)。85年の年間チャートにて
第1位(2位がブライアン・アダムス「Reckless」)。特筆すべきはそのロングセラーぶり。
発売月である84年6月には初登場9位、二週間後にはTOPとなりそれを7週連続保持します。
その後ビルボードTOP200に140週チャートインし続けたというモンスターアルバムです。
ちなみに84年の年間チャートでは28位、86年は16位(どんだけ息が長いんだよ!)。

サウンド的には流石のブルースも時代には抗えなかったのか、シンセサイザーが前面に押し出された
作りとなっています。問題作とされた前作「Nebraska」(82年)が基本的にアコギとハーモニカのみで
録音された非常に内省的なアルバムだったこともあってか(90年代のアンプラグドブーム以降で
あったら特に奇異に思われる事もなかったでしょうが、時代がまだそれを受け入れられるような
耳を持っていませんでした。それでもプラチナディスクだったんですからね…)、コマーシャリズムを
意識した内容です。商業音楽ですからこれは全く悪いことではありません。スタッフ・レコード会社の人々・
その他諸々ブルースの音楽に携わっている人達を食べさせていかなくてはならないのですから。
彼はその意味でのバランス感覚をしっかり持っている人なのでしょう。「ボーン・イン・ザ・U.S.A.』後の
作品もまた内省的なものへと移り変わっていきましたが、商業性と創造性・トライアル的なものを
きちんと両立させており、それは真摯で真面目な性格がそうさせていたのかもしれません。
しかしまたそれ故であったのか、鬱病に悩まされていた事も後年に語っています。

73年にアルバムデビュー、ブレイクのきっかけは3作目「Born to Run(明日なき暴走)」(75年)。
熱いロックンローラーのイメージは本作のタイトル曲に因る所が大きいでしょう。”あの声”で、青筋立てて、
汗だくになって歌われた日にゃ、こっちも拳を握られずにはいられません。個人的には決してその手の
ロックが得意という訳ではないのですが、ブルースだけは唯一の例外です。

80年、「The River」が初のアルバムチャート1位となります。1stシングル「Hungry Heart」は
初のTOP10ヒット(最高位5位)。今回初めて判ったのですが、シングル曲の「明日なき暴走」は
最高位で23位と、TOP20に入ってなかったようです(もっとヒットしていたと思ってました…)。
トリビア的な事ですが、これだけの成功を収めたブルースでも唯一得られなかったのがシングルNo.1
でした。「ボーン・イン・ザ・U.S.A.」からの第一弾シングル「Dancing in the Dark」が2位と、
惜しくも1位を阻まれてしまったのでした。84年6月から7月にかけて4週連続2位をマーク、ちなみに
1位を阻止したのはデュランデュラン「The Reflex」と、プリンス「When Doves Cry」(#50ご参照)
でした。もっともこんだけ売れりゃあ1位でも2位でも、どっちでもイイ気がしますが・・・

ブルースが日本のミュージシャン達に与えた影響も多大なものでしょう。佐野元春さんと浜田省吾さんは
その双璧と言えます。お二人が自身の口からブルースによる影響云々、というコメントは見当たらない
ようですが、80年代は”和製スプリングスティーン”と呼ばれるほど、楽曲・サウンド・歌詞それぞれの
面において、その影響を感じさせるスタイルでした。
海を渡ったイギリスでもブルースはリスペクトされました。70年代後半のパンクムーヴメントにおいて、
”怒れる若者”達の中にブルースの影響があったことは間違いありません。80年代以降はパンクのイメージは
すっかりなくなってしまいましたが、エルヴィス・コステロのロックンロール調楽曲及び歌唱スタイルには
ブルースの雰囲気が見え隠れします。コステロはブルースのトリビュートアルバムに参加、またグラミー賞の
舞台でも共演したりしています。

御年68歳(もうすぐ69歳)ですがまだまだ現役バリバリです。一昨年16年9月には自身でも最長となる
4時間越えのコンサートを行い話題となりました。元々彼はライヴが長い事で有名でしたが(最低でも
3時間以上は当たり前)、60代後半でこの体力はどこから・・・。また同年の3月にはコンサートに来た
9歳の子供が彼のライヴが長いことを知っていたため『明日学校に遅れちゃうよ。どうか、先生宛ての手紙に署名して』と”遅刻届”にサインしてくれるよう頼んだ所、ブルースはその子と校長先生の名前とそのスペルを
確認し、『この子は夜遅くまでロックン・ロールしていたんです。もし遅刻しても、許してあげてください』
と直筆で綴ってあげたそうです。ブルースの人柄が垣間見える素敵なエピソードではありませんか。

 

#81 Reckless

スティーヴィー・レイ・ヴォーン回その1にて、ブライアン・アダムスの前座としてステージに
上がったところ、メインアクトのアダムスを凌ぐプレイであったと新聞に評されていた、といった
エピソードを書きました。アダムスの名誉の為にも今回は彼を取り上げてみたいと思います。

 

 

 


59年、カナダ オンタリオ州生まれ。15歳の時にはバンクーバーでバックコーラスの仕事を
始めていました。70年代半ばにはバンドを結成した事もあったようですが、80年に自身の名を
冠したアルバムでデビュー。83年、3rdアルバム「Cuts Like a Knife」が大ヒット。本国カナダで
3プラチナ(カナダは10万枚でプラチナなので30万枚)、米でもミリオンセラーを記録します。

そのキャリアにおいて最大のヒットであり、世界にブライアン・アダムスの名を轟かせたのが84年発表の
「Reckless」。本国ではダイアモンド・ディスク(10プラチナ=100万枚)、米でも500万枚の
メガヒットを記録します。ちなみにカナダでダイアモンドを獲得した初のアルバムであり、全世界では
1200万枚のセールスを上げたと言われています。本作からの4thシングル「Heaven」は初の
全米No.1となりました。

その独特のハスキーヴォイスで、愛と青春(及びその苦悩)を歌う熱き血潮を持ったロックンローラー、
というイメージの典型だったと思います。同じく熱きロックンローラーという点では、先輩格に当たる
アメリカのブルース・スプリングスティーンがいますが、ブルースほど”個性的”な声ではなく、またルックスも良かったので、それもブレイクの一因かと。(ブルースのルックスが悪い、という意味ではありません、
決して・・・ (#゚Д゚) 謝れ!!ブルースに全力で謝れ!!! <(_ _)><(_ _)><(_ _)>・・・・・)
私の勝手なイメージですが、最もジーンズと白いTシャツが似合うミュージシャンではないでしょうか。

現在58歳、まだまだ現役バリバリです(よく考えると自分と10歳程しか違わない…10年後、こんなに
若々しくいられるでしょうか・・・)。全世界で7500万枚以上のセールスを上げ、国を代表する
ミュージシャンの一人として、カナダ勲章も授与されました。”エバーグリーン”という言葉がこれほど
よく似合うロックンローラーは他にはなかなかいないと思います。

#80 Stevie Ray Vaughan_3

ミュージシャンとして華々しい躍進を遂げているように見えたスティーヴィー・レイ・ヴォーン
でしたが、実は大きな問題を抱えていました。本ブログにおいて、これまで取り上げた多くの
ミュージシャン達がテンプレのように陥ってしまった問題でしたが、言うまでもなく
ドラッグとアルコールでした。(良い子のみんなはマネしちゃダメだぞ!☆(ゝω・)v)
80年代の急激な成功によって有頂天になってしまった為、という訳ではなく、70年代から
既に依存症の問題は始まっていたようです。彼の飲酒歴は何と6歳まで遡ります。父親の酒を
盗み飲んだところから始まったとの事。麻薬に関しては70年代の半ばから手を付けるように
なったと言われています。やがてアルコールとコカインの摂取が常態化していったそうです。
86年のヨーロッパツアーの時期が最もひどかったようで、毎日ウイスキーを約1L、コカインを
7g摂取していたとの関係者によるコメントがあります。7gのコカインというのがどれほどの
依存度を示すのかはわかりませんが(わかっちゃダメだけどね・・・)、ウイスキーの1Lと
いうのは相当重篤な状態だったというのは言うまでもないでしょう。

日本版のウィキだと3作目の「Soul to Soul」を発表後、麻薬・アルコール中毒に陥り入院、
その後は「In Step」(89年)のリリースまで活動の記述が無い為、約4年間全く活動して
いなかったかの様な印象を受けますが、英語版のウィキによるとその間の活動も記されています。
もっとも英語版のウィキが正しいという保証もありませんけれども・・・
86年9月、ドイツでの公演を終えた直後、レイ・ヴォーンは体調を崩し、死に瀕するほどの脱水症状に
苦しみます。流石にこれはやばいと思ったのか治療を受ける事となり、ロンドンの病院に入院した後、
アトランタの病院へと移る事となりました。アトランタでのリハビリは4週間程だったとの事。
ベースのトミー・シャノンがリハビリをチェックしていたそうです。
11月にリハビリから復帰したレイ・ヴォーンは、『ライヴ・アライヴ・ツアー』と銘打った
コンサートツアーの準備に取り掛かります。同月にリリースしたライヴ盤「Live Alive」の
プロモーションの為のツアーでした。本盤は85年のモントルーと86年7月のダラスとオースティンでの
演奏を収録したもの。上記はオースティン オペラハウスでのライヴ、兄のジミーも参加しています。

退院後ライヴを再開し、徐々に仕事への意欲を取り戻していったレイ・ヴォーンでしたが、酒と麻薬を
遠ざけた故のシラフでいることへの不安、妻との離婚問題などを抱えて、楽曲こそはこつこつと
書き溜めていたのですが、新作のリリースは滞ってしまいました。80年代中期から後半にかけては、
地味ではありますが、継続的にステージに立ち、シコシコと次作用の曲作りを行っていました。

しかし89年6月、離婚問題や薬物等への依存を解決したところでようやく新作の発表となります。
「In Step」=”足並みをそろえて・~と共に”の様な意。本人の言によると、ようやく「人生」
「自分自身」「音楽」と”イン・ステップ”することが出来た、といった意味合いから名付けたとの事。
待望の新作に世界中のファンは勿論大喜び、当然大ヒットとなり、更には初のグラミー賞を得ます。
本作では初期から曲作りに参加していた、同郷のドラマー・ソングライターであるドイル・ブラムホールが
大きく関わっています。ちなみに00年代にエリック・クラプトンバンドにサポートギタリストとして
参加していたドイル・ブラムホール二世は、名前からして一目瞭然の通り彼の息子です。
本作のエンディング「Riviera Paradise」と1st収録の「Lenny」をミックスした東京公演での演奏を。

90年8月26日、ウィスコンシン州で行われたコンサート終了後、移動の為に乗ったヘリコプターが墜落。
わずか35歳で帰らぬ人となってしまいました。有名な話ですが、同コンサートに出演していたエリック・
クラプトンも同乗を誘われたとの事。クラプトンは自伝でその時の事を、『霧がひどい状態で、風防を
パイロットが会場で販売していたTシャツで拭いていた、何かイヤな感じがして乗るのを断った』
の様に述べています。これはあくまで後付けの印象かもしれません、しかし人の運命というのはほんの
わずかな瞬間の選択で大きく変わってしまうのだと改めて思い知らされます。

レイ・ヴォーンのプレイスタイルは非常にオーソドックスなペンタトニックスケールに基づいたものです。
ジャズスタイルの演奏も披露していますし、勿論南部出身ですからカントリー&ウェスタンも演ります。
引き出しの広さも当然持ち合わせてはいるのですが、あくまでブルースに則った感情表現を第一義とする
スタイルでした。その意味ではクラプトンと同様だったと言えます。レイ・ヴォーンは更にもっと強い
アルバート・キングの様な感情表現(ビブラート・チョーキングなど)、ジミ・ヘンドリックスばりの
型破りかつアグレッシブなプレイを踏襲しながら、技術面では正確無比なフィンガリング・ピッキングを
行うことが出来、加えて意外と目立たないところかもしれませんが、ブラッシング・チョッピングなどの
小技も見事であって、音の飾り方が多彩で実に巧いのです。しかし何といっても、現在に至るまで彼を
信奉する人たちが絶えない一番の要因は、前回も触れたそのトーンにあります。シンガーやサックス奏者が
その歌声・ロングトーン一発で聴き手をシビれさせるように、彼のトーンにも魔性の魅力があったのです。
またトミー・シャノン(b)、クリス・レイトン(ds)の存在も忘れてはなりません。地味ではありますが
的確にレイ・ヴォーンのサポートに徹するシャノンのベース、竹を割った様にタイトなレイトンのドラム。
決して前面に出る事のなかった二人でしたが、このリズムセクションなくしてレイ・ヴォーンの名演は
生まれなかった事でしょう。『オレが!オレが!』『オレも!オレも!』といったタイプのプレイヤーで
あったなら、レイ・ヴォーンの持ち味をスポイルし、ダブルトラブルは早期に空中分解していたのでは。

亡くなる年である90年に、レイ・ヴォーンはあるアルバムをレコーディングしていました。最後に
ご紹介するのは、兄のジミー・ヴォーンと共に『ヴォーン・ブラザーズ』として、結果的に遺作と
なった「Family Style」。本作はレイ・ヴォーンの死の直前に全てを録り終えたと言われています。
私は全くの無神論者ですが、これが本当であれば何か運命的なものを感じてしまいます。
かねてよりレイ・ヴォーンはジミーとアルバムを作りたいと望んでいたそうです。心身の復調、
身の回りのゴタゴタなども片付き、ようやく念願であった兄との共作に取り掛かり、それを終えた
ところで急逝してしまうという、まるで物語のような人生であった様に思えてなりません。
本作はダブルトラブルにおける炎が出るような激しいプレイはありません。R&R、ソウル、カントリー、
ファンク、サザンロック、勿論ブルース、といった音楽そのものを楽しんで作った、(決して世間に
迎合したという意味ではない)聴きやすい作品となっています。したがって歌が重要なファクターと
なっており、シンガーとしてのレイ・ヴォーンの良さを再認識することが出来、全体的には非常に
アンサンブルを大事にした創りとなっています。これもまたレイ・ヴォーンの音楽の一つであるのです。

#79 Stevie Ray Vaughan_2

84年5月、スティーヴィー・レイ・ヴォーン&ダブル・トラブルとしての2ndアルバム
「Couldn’t Stand the Weather(テキサスハリケーン)」をリリース。発売後わずか2週間で
前作の売り上げを抜き、1ヶ月あまりで100万枚のセールスを叩き出しました。前作の成功が
決してまぐれ当たりなどではない、確固とした実力によるものとの評価を得ました。

 

 

 


基本的には前作の延長上にある作品ですが、やや新しい試みも。ジャズスタイルの演奏にトライした
「Stang’s Swang」などもあります。古いブルースのスタンダード「Tin Pan Alley」を
取り上げていますが、プロデューサーのジョン・ハモンドは本曲がレイ・ヴォーンのベストトラックと
しています。本曲はファーストテイクでOKになったとの事。録音を終えた直後、ハモンドは思わず
ブース内にいるメンバー達へ向けてマイクにて、”今までで最高の出来だ!ワンダフルだよ!!”
と言ったそうです。確かにレイ・ヴォーンの中で、フレーズ・音色共に白眉のプレイの一つです。

レイ・ヴォーンを語る上で欠かせない先達のギタリストに、言わずと知れたジミ・ヘンドリックスがいます
#43~47ご参照。もっともロックギタリストで直接的あるいは間接的にジミの影響を受けていない
人の方が少ないと思いますが…)。兄のジミー・ヴォーンや、巨匠 アルバート・キングと並んで、
多大な影響を受けたプレイヤーの一人と折に触れコメントし、そのリスペクトの程がうかがえます。
本作ではジミの代表曲の一つ「Voodoo Child」をカヴァーしています。

レイ・ヴォーンの使用ギターは、そのジミと同様にフェンダー・ストラトキャスターがメインでした。
最も有名なのは『ナンバーワン』と呼ばれたもの。
当然ストラトだけでも何本も所有していたのですが、レイ・ヴォーンの使用ギターとしては本器が
最も良く知られています。70年代前半に地元オースティンの楽器店にて、それまで使用していた
ストラトと物々交換したと言われています。本器は製造されたそのままの状態ではなく、ネックと
ボディは年式のそれぞれ異なるものを合わせており(フェンダータイプはボルトで容易に着脱出来るので
そういうものがよくあります)、ジミ・ヘンドリックスと同様にトレモロアームが上部に付いています。
ジミは左利きであったのに右利き用のギターをひっくり返して使用していたためそうなったのですが、
レイ・ヴォーンは右利きですけれどもあえてその様に加工しました。通常の下部に位置するアームでは
出来ないような独特なプレイを可能にしたと言われています。
アンプに関しては80年代初期は同じくフェンダー社のスーパーリバーブやヴァイブロバーブを使用。
同社の代表的なツインリバーブよりも小口径・小出力のアンプです。後期はオーダーメイドである
ダンブルアンプをメインとしていたようです。
圧倒的な正確無比かつアグレッシブなプレイも勿論ですが、レイ・ヴォーンの魅力は何といっても
その音色にあります。#29のデヴィッド・ギルモア回でも少し触れましたが、ストラトキャスターという
ギターは元々カントリー&ウェスタン等で使用されるのを念頭に開発されたため、太く甘い音よりも
ヌケの良い枯れた音色を狙って作られました。しかし彼のトーンはストラトらしいハリのある、
ガラスがはじける音などという表現がありますが、フェンダーらしい美しい高音とヌケの良さに、
ギブソン的なパワフルさも兼ね備えた、ズルい程にイイとこ取りしたような音色です。
多くのレイ・ヴォーンフリークが彼と同じギター・アンプ・エフェクターを入手してその音色に
トライしたようですが、殆どの人が口を揃えて言うのが”同じ音にはならない”という事。
これは当たり前と言えばそれまでなのですが、ギタリストの場合、そのトーンはプレイヤーの指から
生まれるという事です。確かイギリスのミュージシャンの間の言葉で”トーンは指から生まれる”
(The tone is in one’s finger だったかな?… 原語はちょっと怪しいかも・・・)というのが
あります。機材・セッティングだけ真似てみてもそのプレイヤーの音色と全く同じにはならないのです。

それでもレイ・ヴォーンの音色の秘密に少しでも近づきたいというのがファンの心情であるのも事実です。
よく言われるのは、とにかく太い弦を使っていたという事。ギターの弦(ゲージ)は一番細い1弦の太さで
表わされますが、通常エレキギターの弦として一般的なのは直径0.09インチ(ゼロキュー)、ジャズや
ブルースなどを好むギタリストは少し太めの0.10インチ(イチゼロ)などが使用されます。
レイ・ヴォーンは0.12やともすれば0.13などという極太のゲージを使っていたと言われています。
アコギで使われるようなゲージであり、当然弾きにくくてしょうがありません。それであれほどの
スピーディーかつ正確無比なフィンガリングを実現出来ていたのですから驚愕します。そしてそれだけ
太い弦を張っていれば当然なのですが、弦の張力によってネックが反ってしまいます。ゴメンナサイした
様な状態の所謂”順反り”になってしまい、弦と指板の距離が遠くなる、ギター用語で言う”弦高”が
高くなってしまい、これまた弾きにくさに拍車をかけてしまいます。実際レイ・ヴォーン存命中に
彼のギターを弾かせてもらったという人の話では、極度の弦高の高さに極太の弦で、とても弾けたものでは
なかったというものがあります。しかしこれにもメリットが、弦高は低い方が弾きやすいのは当然なのですが
その一方で音色のハリを失います。特にアコギではそれが顕著で、あえて弾きにくくても弦高を高くする
プレイヤーもいます。レイ・ヴォーンの場合は狙ってそうなったか、結果的だったのかはわかりませんが、
その異常な程の弦高もその独特なトーンへ起因しているのではないかと推測されます。
またピックアップが高出力のものに載せ換えられているのでは?、と存命中はよく言われたらしいのですが、
彼の死後、フェンダー社がシグネイチャーモデルを製作するために兄のジミーの了承を得て分解してみた
ところ、他社製のピックアップなどに換えられた形跡は無かったとされています。ちなみにその
レイ・ヴォーンモデル『ナンバーワン』は現在でもフェンダー社の数あるシグネイチャーモデルにおいて、
エリック・クラプトンモデルと双璧をなすロングセラーモデルとなっているそうです。
そして当然の事ながらフィンガリングやピッキング、あとは気合(?)などが全てミクスチャーされて
あのトーンが生まれたのは言うまでもありません。
またジミヘン同様、ギブソン・フライングⅤも使用することがありました。これはジミもレイ・ヴォーンも、
彼らのヒーローであったアルバート・キングからの影響と言われています。

85年7月、3年前は歓声とブーイングが入り乱れて微妙なリアクションに終わった、因縁のモントルー・
ジャズ・フェスティバルへ再び出演します。

https://youtu.be/OVnbOq8dM94
既にスーパースターとなっていたバンドは当然大歓声に迎えられてのステージとなります。個人的には
82年のステージが特に出来が悪かったなどとは思えませんので、如何に売れているから、メディアで
取り上げられているから、という属性でもって世間の評価というものが変わるのかという良い例でしょう。
レイ・ヴォーン達にしてみれば、してやったり!と、リベンジを果たしたといったところだったでしょうか。

85年9月、3rdアルバム「Soul to Soul」をリリース。こちらもプラチナディスクを獲得。
順風満帆に見えるそのミュージシャン人生でしたが、実はある問題を抱えていました。
その辺りはまた次回にて。

#78 Stevie Ray Vaughan

直近のデヴィッド・ボウイ回にて、最大のヒットアルバム「レッツ・ダンス」に関して、あえて触れなかった
人物がいます。それは今回からのテーマになる人だったからです。


       スティーヴィー・レイ・ヴォーン。80年代のロック・ブルースシーンに突如出現し、その驚愕のプレイに
よって人々の度肝を抜き、90年に不慮の事故によりわずか35歳でその生涯を閉じたスーパーギタリスト。
54年テキサス州生まれ。兄であり同じくギタリストであったジミー・ヴォーンの影響で7歳からギターを
始める。71年に高校を中退し、本格的に音楽の道を志すべくダラスからオースティンへ。上記にて
80年代に突如登場したような書き方をしましたが、厳密には70年代から活動はしていました。
勿論それは世界的に脚光を浴びたのは、という意味であって、80年代初頭までは米南部を拠点として
活動するローカルなミュージシャンであったようです。

そのキャリアにおいて転機となったのが、82年のモントルー・ジャズ・フェスティバルへの出演でした。
デヴィッド・ボウイとジャクソン・ブラウンがその演奏を観て、彼の才能に目を付けたのです。
上記の動画はそのステージの始めの方ですが、実はこの後観客からブーイングが混じり始めます。
レイ・ヴォーン率いるバンドはフェスティバルの中での『ブルース・ナイト』と銘打たれたプログラムにて
出演したのですが、彼ら以外は皆アコースティック・ブルースであったところに、いきなり激しい
エレクトリック・ブルースが始まった事に対して拒否反応を示すオーディエンスがいた為です。
本国アメリカにおいてもローカルな存在でしかなく、アルバムもリリースしていない無名のバンドが
遠いヨーロッパにおいて、無条件ですんなり受け入れられるというのは少しばかり厳しかったようです。
しかし分かる人には彼の凄さがきちんと分かっていました。ジャクソン・ブラウンは翌日バーで
行われたジャムセッションで共に演奏し、あらためてレイ・ヴォーンのプレイの素晴らしさを認識し、
ロスにある自身のスタジオを使ってレコーディングする事を勧めます。
レイ・ヴォーン達は同年11月にブラウンの勧めに応じてロスを訪れ、アルバムのレコーディングに
取り掛かります。そしてわずか3日間でアルバム1枚分の録音を終えてしまいました。
そしてそのロス滞在中にさらなるチャンスがやってきます。デヴィッド・ボウイから
翌83年1月より始まる次作のレコーディングに参加してくれないかと電話で打診を受けたのです。
これこそが前回取り上げた、ボウイ最大のヒットとなる「レッツ・ダンス」です。それは同時に
レイ・ヴォーンの名も全世界に轟かせることとなったのです。
https://youtu.be/N4d7Wp9kKjA
そのあまりにも印象的なフレージング・音色・フィーリングに、「誰じゃ!このギタリストは!!」と
騒がれ始めました。自身のバンド ダブル・トラブルにおける嵐のようなプレイが聴けるわけでは
ありませんが、そのツボを得た、ブルース・フィーリングに満ち溢れ、一発でレイ・ヴォーンその人と
分からしめるプレイは見事です。ここではセッションプレイヤーとしての責務を見事に果たしたと
言えるでしょう。一流のプレイヤーはサイドマンに徹してもやはり一流なのです。直後に始まる
ボウイのコンサートツアーにも招かれ、いったんは参加する事としたのですが、様々な原因から
そのツアーをすぐに離脱します。しかしこれがかえって幸運な結果となったのかもしれませんでした。
5月にN.Y.のボトムラインにてブライアン・アダムスのオープニングアクトとして出演し、
その素晴らしいパフォーマンスにて話題をかっさらってしまいました。ニューヨークポストなどは
ブライアン・アダムスを喰ってしまった、の様な記事を載せた程だったとの事。こうして本国アメリアでも
一介のローカルミュージシャンから、全米での人気を着実なものとする人へとなっていったのでした。

前述したジャクソン・ブラウンのスタジオにて録音されたトラックを中心に構成されたアルバムこそが、
83年6月にリリースされた、スティーヴィー・レイ・ヴォーン&ダブル・トラブルとしての記念すべき
1stアルバム「Texas Flood(テキサスフラッド~ブルースの洪水)」です。本作は当時において
全米で50万枚以上を売り上げゴールドディスクを獲得しました(現在ではダブルプラチナム
(=200万枚)に達しています)。特筆すべきはオシャレで、ポップ、かつダンサンブルな
音楽が全盛だった80年代において、その真逆を行くような”どブルース”な内容でこれだけのセールスを
記録した事です。やはり当時においても、時代の音楽に飽き足らない思いを抱いていた人たちが
決して少なくなかったという事実の現われでしょう。

アルバム発売後、プロモーションツアーとして北米、カナダ、短期間のヨーロッパツアーを行い
その名声を着実なものとしていきました。翌84年初頭からバンドは次作の制作へと取り掛かりますが
その辺りはまた次回にて。

#77 Let’s Dance

#74のミック・ジャガーとデヴィッド・ボウイによるデュエットから、ミックのソロ、そして
80年代のストーンズへとテーマは変遷しました。なので安直ですが、今回はデヴィッド・ボウイの話を。
ボウイの音楽的黄金期と言えば、やはり60年代末から70年代にかけてというのが大方の評価でしょう。
私もそれには異論はありませんが、そこから取り上げると回数もかさむ上に、一応年初から80年代を
テーマとしていますので(誰も,覚えてません…よね………。゜:(つд⊂):゜。)、前回のストーンズ同様に
80年代のボウイに限って取り上げます。

 

 

 


デヴィッド・ボウイ最大のヒットにして代表作「Let’s Dance」(83年)。ボウイフリークは
彼の最高傑作とは「ジギー・スターダスト」だ!、いや「アラジン・セイン」だ!、と
喧喧囂囂の議論になるのでしょうが、最も売れて世界中にボウイの名を広めたという意味では
代表作と言って差し支えないでしょう。私もボウイの作品において本作が白眉とは思いませんが、
リアルタイムで聴いた最初のアルバムなのである程度の思い入れはあります。

https://youtu.be/1hDbpF4Mvkw
プロデュースはナイル・ロジャース。ここ数回の記事で何度もその名が出てきていますが、それだけ
80年代は彼が作るサウンドが持て囃された、そして皆がそれを目指していたという事。本当に当時は
煌びやかでダンサンブルなサウンドならナイル、AOR・ポップスならデイヴィッド・フォスター、
と、ポップス界は数人のプロデューサーだけで回していたのではないかと思うくらい(それはいくら
なんでも大げさか・・・)数々のレコードでその名を目にする人でした。
本作からもう一曲、盟友イギー・ポップとの共作「China Girl」。

84年、アルバム「Tonight」をリリース。前作に続いて全米でミリオンセラーとなりました。意外な事に、
米でプラチナディスクを獲得したのは「Let’s Dance」及び「Tonight」の二作のみとなっています。
しかしボウイの総売上枚数は1憶数千万枚と言われており、これは北米以外、ヨーロッパ各国やその他の
地域で幅広く支持されたボウイであったからこそ。アメリカ市場だけが全てではないということを
改めて教えてくれます。本作からの1stシングル「Blue Jean」。

https://youtu.be/LTYvjrM6djo
本作も前作同様にポップな音楽性となっており、コアなボウイファンや玄人筋からは決して良い評価を
受けませんでした。それに関しては人それぞれなのでとやかく言う筋合いではありませんが、
一つ言えるのは、デヴィッド・ボウイというミュージシャンはその音楽性に関してかなりの変遷を
経てきたという事。プログレ、サイケ、コンセプチュアルかつ演劇的なロック、アメリカンソウル、
テクノ、ヨーロピアンミュージック、etc… 。何をもってボウイらしい音楽かと述べる事は、
少なくとも表面的な音楽ジャンルのみをもっては不可能であり、それは根底に流れる”ボウイイズム”の
様なものによって語られるべきだと私は思っています。

https://youtu.be/OOaqDEjxQAU
先述した”ボウイイズム”が健在であり、また「レッツ・ダンス」以降の80年代におけるボウイの
楽曲の中で私がベストトラックと思うのが上記の「Loving the Alien」。往年のボウイらしい
良い意味での仰々しさをまといながら、80’sサウンドによって彩られた快作。私見ですが
”ボウイイズム”は80年代においても全く失われていなかったと思います。もっとも当時は
そこまで考えて聴いていませんでしたが・・・。ちなみに本曲での”Alien”は異星人ではなく、
『異邦人・よそ者』の意(多分に宗教的な意味においての)。かの有名映画のせいで、
エイリアン=宇宙人、と刷り込まれてしまっていますね … 👽👽👽👽👽 (((;゚Д;゚;)))・・・
本作には他にも、ティナ・ターナーとのデュエットで話題となったタイトル曲、ビーチ・ボーイズの
カヴァー「ゴッド・オンリー・ノウズ」など、聴き所は豊富です。

誤解を恐れずあえて言うと、ミュージシャンとしてのデヴィッド・ボウイは捉えどころのない
鵺(ぬえ)の様な存在だと私は思っています。歌唱技術が超一流かと問われれば、失礼を承知で言うと
決してそうではなく。突出したメロディーメーカーかと言われれば、それも否。
しかしロック・ポップス界を見渡せば、これ程までにそれを聴いて、一発で”その人”とインパクトを
もって認識されるミュージシャンもそう多くはないと思います。音を聴いているだけでボウイが
様々な表情で、あの”独特な”振り付けで歌っているのが目に浮かぶのです。ステージパフォーマンス、
役者としての活動、それら諸々を含めてこその『デヴィッド・ボウイ』だと私は思っています。
このようなミュージシャンは他にはなかなかいなかったのではないでしょうか。

#76 Dirty Work

前回はミック・ジャガーのソロアルバムについてでしたので、このままストーンズを取り上げようかと
思いましたが、ご存知の通りローリング・ストーンズという約55年に渡る現役最古参であるバンドに
ついては、とても2~3回などでは書き切る事が不可能ですので、今回は私がリアルタイムで聴いていた
80年代の作品に絞って書いてみたいと思います。

 

 

 


初めて聴いたスタジオアルバムは「Undercover」(83年)だったと記憶しています。とにかく
ローリング・ストーンズという、ビートルズと並ぶ有名なバンドなのだから聴いてみようと、
貸レコード屋(当時は”レンタルレコード”などというこじゃれた呼び名ではありませんでした)
から借りてきて聴きました。感想は『?』といったものだったと思います。洋楽を聴き始めた
ばかりで理解出来る出来ないもあったもんじゃなかったのですが、思い描いていたストーンズ像とは
異なるように感じたのは覚えています。

最初に聴くストーンズの作品としてはあまり適当ではなかったかもしれません。もっとも当時は
右も左も分からなかったのでしょうがありませんが。本作はヒップホップ等時代の流行を大胆に
取り入れた、ストーンズとしては異色の作品とよく評されます。もっともストーンズが流行りを
全く取り入れてこなかったかというと決してそうでもなかった訳で、ディスコが流行れば
「ミス・ユー」(78年)の様な曲を作ったりしたのですが、本作はそれまでの古き良きストーンズを
好むリスナー達からは拒否反応がひと際強かったようです。個人的には好んで聴くことは現在では
確かにありませんが、さほど毛嫌いするような内容でもないと思います。2ndシングルである
A-②「She Was Hot」など彼ららしいR&Rも健在であったのに、それ以外で拒絶されてしまったのかも。

86年、アルバム「Dirty Work」をリリース。当時、日本の評論家達は高い評価をしていたと記憶して
います。前作では多少試行錯誤が過ぎてしまったかもしれないが、本作では”これぞストーンズ”という
内容に回帰したと。しかし現在ウィキなどを見てみると前作同様にあまり評価の芳しくないアルバムと
されているようです。これに関しては珍しく私も当時の日本の評論家達と同意見です。本作リリース時は
既に60~70年代のストーンズも一通り聴いて理解していたつもりでした。まさにこれこそストーンズ、
楽器の音色などこそ80年代風ですが、彼らのロックスピリットは変わっていないと感じました。
かように人の評価などは古今東西で変わるもの、あまりあてにしない方が良いというのが私の持論です。

彼ららしくない曲調といえばレゲエの「Too Rude」、ファンク調の「Back to Zero」くらいでしょうか。
また1stシングル「Harlem Shuffle」がカヴァーだったというのも彼らとしては異例ではありましたが、
基本的にはブルース・R&Bを根っこに持つ,彼ららしいタイトなR&Rに溢れた好アルバムだと思います。
この時期のミックとキースの不仲もよく言われることですが、バンドの人間関係の良し悪しが必ずしも
作品のクオリティーに反映されるものでもないでしょう。ビートルズの「アビー・ロード」(#4ご参照)の
様な例も決して少なくありません。もっともこの二人、仲が良かった時期の方が少なかったのでは・・・

時代は前後しますが82年リリースのライヴ盤「Still Life」。前年の全米ツアーを収録したものですが、
個人的にはストーンズの中で最もよく聴いたアルバムです。往年のヒット曲とオールディーズのカヴァーが
程よくミックスされた選曲で、もし『ローリング・ストーンズを聴いてみたいんだけど,何にしたらイイ?』
と、尋ねられたならば私は先ず本作を勧めます。アメリカツアーにおいて、コンサートのオープニングテーマが「A列車で行こう」というのが少し安直な気もしますがこれもご愛敬。余談ですけど「A列車で行こう」を
初めて耳にしたのは本作においてだったかもしれません。

有名な幻に終わった73年の来日公演以降、ストーンズは永いこと”日本は遠いから行かない”などと我が国に
対して冷たい態度を貫いていました。入国拒否されたという恨みもあったのかもしれませんが、80年代は
このまま永遠に来日しないのではないかと思われていたくらいです。しかし90年に初来日を果たし、
その後も計6回の来日公演を行っているので、日本も毛嫌いされることはなくなったようです。
やっぱりお金の力って偉大ですね・・・・・ ちがうがな!!! (#゚Д゚)!!!!

#75 She’s the Boss

前回、記事を書き終えようとした辺りで見知らぬ訪問者がやって来たのですが、その後気づくと
布団の上で寝ており、それらの前後の記憶が曖昧になっています… 気のせいですよね・・・

前の記事の最後でミック・ジャガーとデヴィッド・ボウイのデュエットについて取り上げましたが、
同年にミックは自身初のソロアルバムをリリースしています、それが「She’s the Boss」(85年)です。
天下のミック・ジャガーの初ソロアルバムという事で当時はかなり話題になったと記憶しています。
さすがレコーディングの面子がもの凄い。ギターにジェフ・ベック、ピート・タウンゼント、ナイル・
ロジャーズ他。ベース バーナード・エドワーズ、ビル・ラズウェル他。ドラム スティーヴ・フェローン、
トニー・トンプソン他。パーカッションには英国を代表するパーカッショニスト レイ・クーパー。
そして何とピアノ・キーボードにはジャズフュージョン界から大御所 ハービー・ハンコックと
ヤン・ハマー(ジェフ・ベック回#6ご参照)その他。これだけ贅沢な布陣を揃えられたのは、
当時において他にはボブ・ディランかポール・マッカートニーくらいしか考えられません。

オープニングナンバー「Lonely at the Top」。とっぱじめからかっとんだロック・チューンに痺れます。
リードギターはジェフ・ベック。問答無用のジェフ節といったフレーズ・音色が炸裂します。ロック界で
ジェフより速く、複雑、かつ正確に弾けるギタリストは大勢います(失礼を承知で <(_ _)>)。
しかしその音を聴いただけで”あっ!!これってジェフ・ベックじゃね?!”の様に思わせることが出来る
プレイヤーはそう多く無いのではないでしょうか。ストーンズファンとジェフ・ベックファンには既出の事
でしょうが、ジェフは74年のミック・テイラー脱退時にストーンズへ誘われています。しかし当時のジェフはフュージョン的音楽を目指しておりその時は袂を分かちました。(しつこですがジェフ・ベック回#5~7
ご参照の事、
お願いです…ちょっとでイイですから読んでください……… オネガイシマス… 。゜:(つд⊂):゜。遂に泣き落としか・・・)私見ですがジェフはこの時加入しなくて良かったと思います。多分すぐ喧嘩別れ
していたのが目に見える様ですので・・・ 実は本曲はストーンズのために作られた楽曲、なのでミックと
キース・リチャーズの共作名義。参考までにストーンズによるデモヴァージョンを、だいぶ印象が違います。

本作は全英6位・全米13位のチャートアクションを記録し、プラチナディスクを獲得。1stシングル
「Just Another Night」は全米12位のヒットとなりました。

プロデュースはビル・ラズウェルとナイル・ロジャーズ。ハービー・ハンコックが参加した事もあってか、
エレクトリックファンク、つまり後に言うヒップホップ色が強いと感じる向きもある様ですが、個人的には
さほどそれは気にならないです。この時代は皆こぞってこの手のサウンドを取り入れていたので、
本作だけ突出してヒップホップ然としている訳ではないと思います。ただ昔ながらのストーンズファンは
どうしても”ストーンズらしさ”を求めてしまったのでギャップを感じた人も少なくなかったのでしょう。
2ndシングル「Lucky in Love」は、エレクトリックファンクとミック・ジャガーらしさが見事に
融合した楽曲だと思います。もっともミックが歌えば何でもミックの音楽になってしまうのですが。
こういうシンガーはポピュラーミュージック界でも数える程しかいないような気がします。

キースはミックがソロアルバムを出す事を快く思っていなかったそうです。ストーンズの活動を第一義に
優先させるべき、と考えているキースにとってはミックの活動がそうは映らなかった様です。
ミックはその後現在まで4枚のソロアルバムを発表していますが、本作が最も好セールスを上げた
作品となっています。レコーディング時は41歳、シンガーとして最も脂の乗っていた時期に収録された、
一人の”シンガー ミック・ジャガー”を知る上では格好の一枚ではないかと思います。