#54 Cupid & Psyche 85

前回のカルチャー・クラブが大ブレークしていたほぼ同時期に、同じくイギリスにてデビューし、
非常に高い音楽性でもって注目されていたバンドがいました。それが今回のテーマである
スクリッティ・ポリッティです。

 

 

 


結成は77年ですが、リーダーであるグリーン・ガートサイド(vo、g)の病気療養その他の
事情によりデビューアルバムのリリースは82年となります。
1stアルバム「Songs to Remember」はファンや評論家筋からは、代表作とされる2ndよりも
音楽的には優れていると評される作品です。2ndの様なサウンド的インパクトはありませんが、
グリーンなりに消化したと思われる独自のソウル、ファンク、スカ等の音楽が、前面に押し出され
過ぎない程度の実験的ニューウェイヴ色にて彩られた作品です。プログレ・カンタベリー色が
仄かに香るのは、#48にて取り上げたソフト・マシーンのロバート・ワイアットが参加している
事に起因するのではないかと私は思っています。
1stはラフ・トレードというレーベルからリリースされました。初期のヴァージンの様に先進的な
ミュージシャンを見出していた会社でしたが、この1stは全英12位と、ラフ・トレードとしては
画期的とも言えるヒットを記録しました。

1stから2ndアルバムの間にもグリーンは病気療養のため一時帰郷します。元々は共産主義に傾倒し、
(バンド名はそれに由来するそうです、私はよく知りませんが)、パンクロックにのめり込んで
音楽を始めたらしいのですが、一度目の療養の際にパンクに対する興味はすっかり失い、代わりに
聴き込んでいったのはソウル・ファンクといったブラックミュージックでした。二度目の療養時には
初めて姉(妹)の持っていた(それまで肉親の音楽趣味を知らなかったのか?)ブラックミュージック
を耳にしたとの事。またN.Y.で旋風を巻き起こしつつあったヒップホップにも影響を受けます。
83年にグリーンはヴァージンと契約します。悪い言い方をすれば、ラフ・トレードのプロモーション
には限界があるとして見限ったとも言えるでしょう(当然この後しばらく揉める事となります。
仕方ないことですが…)。ヴァージンは前回取り上げたカルチャークラブ辺りから、急激に
メジャー化していく途上でしたので、お互いのニーズが上手く合ったのかもしれません。
そして米ではワーナーからのリリースとなります。

本作を検索すると枕詞のように大物プロデューサー アリフ・マーディンが関わった事が出てきます。
トム・ダウドなどと共にアトランティック/ワ-ナーを大レコード会社へとのし上げた立役者。彼が
イギリスの弱小レーベルからアルバムを1枚出しただけのグリーンと何故関わることになったのか?
結論から言うと、グリーンが渡米してから知り合ったボブ・ラスト(本バンドのマネージャーとなります)
という人物がカギを握っていました。オリジナルメンバーとは袂を分かち、1st製作中に知り合った
米国人デヴィッド・ギャムソン(key)を頼って渡米して、そこで新ドラマー フレッド・マーを
加えて新生スクリッティ・ポリッティが誕生します。当初はラフ・トレードとの法的イザコザが残って
いた為シングルの発売も思うようになりませんでしたが、そのトラブルを解決して、ワ-ナーと
つないでくれたのもボブ・ラストだったようです。

本作についてはとにかくサウンドが画期的でした。私もデジタル機材やレコーディング技術などには
疎いので上っ面の知識しかありませんが、フェアライトや発売間もないヤマハDX-7といった
デジタルシンセサイザーの効果的な使用、サンプリングやシーケンサーと言った当時における
最先端の技術、及び80年代に一世を風靡したゲートリバーブを駆使しての
エフェクト処理、
といった点がよく語られます。これは実際その通りで、当時ウチのお世辞にも
ハイスペックとは
言えなかったステレオで聴いた時にも、音が他とは全く違う、別次元だ、と
思ったのを記憶しています。
これについてはD・ギャムソンの功績が大きかったようです。
またポール・ジャクソン Jr.(g)やスティーヴ・フェローン(ds)といった第一線で活躍する
名うてのセッションプレイヤーの起用なども話題となりました。さらにあまり取り上げられない
事なのですが、超有名ベーシストであるウィル・リー(A-③)とマーカス・ミラー(A-⑤)の
二人も参加しています。少なくともクレジットを見る限りではそうなっているのです。

アルバムリリース(85年)の前年、本作に収録される事となる「Wood Beez」「Absolute」「Hypnotize」が先ずシングルとして発売されました。これらはアルバムヴァージョンとは違う
アレンジで、オッサン世代には懐かしの”12インチシングル”として発売されたと記憶しています
(多分…)。アルバム発売直前に先行してリリースされた1stシングルが先にあげた
「The Word Girl」。英では最高位6位と彼ら最大のヒットとなりました。
米では2ndシングル「Perfect Way」が最もチャートアクションの良かった楽曲です。先述した
マーカス・ミラーの参加がきっかけとなったのか、”帝王”マイルス・デイヴィスが自身の
アルバム「TUTU」(86年)で本曲を取り上げています。マーカスは当時マイルスの”腹心”でした。
これらの経緯があってか、3rdアルバム「Provision」(88年)では本格的なマーカス・ミラーの参加、
さらになんとマイルスが一曲ではありますがトランペットを吹いています。

本バンドは当時、スタイル・カウンシルなどと共に、とかく”おしゃれなポップス”として扱われていた
様な記憶があります。私はリアルタイム時、中~高校生でしかも田舎住みだったのでわかりません
でしたが、今になって私より少し上の年齢で、東京に住んでいたであろう方のブログなどを読むと、
当時の”オシャレスポット”(オッサン達懐かしの『プールバー』とか…)でそれらの音楽がよく
かかっていて、バブリーな男連中がこれまたバブリーなワンレン・ボディコンのオネエチャン達を、
それらの場所で口説いていた、との事。ですが、スタイル・カウンシルは実は英での階級闘争などを
隠喩的に歌っていたり、スクリッティ・ポリッティはこれまた哲学的で難解な歌詞であったりと、
とても女性を口説くのに適した曲ではなかったと知ったのは、ずっと後になってからだった…
との記事も見受けられました。言葉がわからなくて良かった、という事も時にはあるようです・・・
また本作は米では最高位50位と今一つ奮いませんでしたが、本国を含めたヨーロッパや
その他の地域(勿論日本を含む)では高い評価を得て、またその業界や玄人筋から絶賛されました。
比較的最近の事ですが、エルトン・ジョンが自身のラジオ「ロケット・アワー」15年10月放送にて、
本作を”the best produced electronic album of the 1980s” と評しているそうです。
”エレクトリック・アルバム”というのがこの場合はどの様な意味なのか、おそらくアコースティックの
反対、つまり80年代におけるエレクトリック・デジタル的な機材ないし技術を駆使したアルバムの
中で最も優れたもの、といったくらいの意味でしょうか。

しかし、本作と同様に高音質でサウンドインパクトがあった作品が他に無い訳ではなかったと思います。
やはり本質的な部分、つまり音楽性の高さがその評価の元になっているのは言わずもがなです。私が
ベストトラックと思っているのが次にご紹介する「Wood Beez (Pray Like Aretha Franklin)」。

副題の”Pray Like Aretha Franklin”は、勿論アレサの名唱でも御馴染のバート・バカラック作
「I Say a Little Prayer」にちなんだもの。今で言うオマージュソングといったところでしょうか。
言うまでもなくアレサと深く関わっていたA・マーディンがいた事が大きく影響しているでしょう。
ただ単に音が良くて、煌びやかなサウンドで持て囃された、というだけではない、少し変わった
スタイルではありますが、その根っこにはブラックミュージックの精神を宿した、グリーン流の
ブルーアイドソウルであったのではないか、と私は思うのです。

#53 Colour by Numbers

前回まで取り上げていた、プリンスやカーズといったアメリカ勢がヒットチャートの上位を
賑わせていた時期、勿論イギリス勢も黙ってはいませんでした。この時期、第2次
ブリティッシュインベンションと呼ばれた英国の、特に若手のミュージシャン達が
アメリカで(つまり世界で)人気の猛威をふるっていました。第1次は言うまでもなく
64年を皮切りとしたビートルズやストーンズをはじめとするイギリス勢の世界進出。
そして第2次というのは、80年代前半に興ったニューロマンティックとも呼ばれるジャンルの
ミュージシャン達。デュラン・デュラン、スパンダー・バレエ、ウルトラヴォックスといった
ファッショナブルで非常に見栄えのする人達でした。おい!!あのバンドが抜けてるだろう!
と、オッサン世代はすぐにお気付きのはず。その通り、今回のテーマはカルチャー・クラブです。

 

 

 


ボーイ・ジョージを中心とした白人3人、黒人1人から成るバンド(全員英国人)。82年に
ヴァージン・レコードよりレコードデビュー。このヴァージン・レコードというのが非常に
重要な意味を持っていると私は思います。その後、大メジャーレーベルへとのし上がっていく
会社ですが、ヴァージンの興りはマイク・オールドフィールドなどの非常に先進的な
ミュージシャンを見出した所から始まりました。ヴァージンやオールドフィールドについては
必ず別の機会にて。

バンドははじめにデモテープをEMIへ持っていきますが契約には至りませんでした。しかし、
そのデモを聴いたヴァージンが彼らと契約。英はヴァージン、米ではエピックレコードにて
レコードデビューする運びとなりました。これは当時ヴァージンが米での拠点を持ってなかった為。
1stアルバム「Kissing to Be Clever」(82年)は全英5位・全米14位を記録。きっかけは
当アルバムからの3rdシングル「Do You Really Want to Hurt Me(君は完璧さ)」の大ヒット。
全英1位・全米2位のビッグヒットとなり、一躍スターダムへ昇りつめます。
1stの音楽性はサンバ・カリプソ・サルサ・レゲエ、果てはアルゼンチンタンゴやスパニッシュまで、
といった多種多様なワールドミュージックの要素を盛り込んだダンサンブルポップス、と呼べるもの。
そもそもカルチャー・クラブというネーミングは、アイルランド系でゲイであるB・ジョージ、
英国黒人であるマイキー・クレイグ(b)、ユダヤ系のジョン・モス(ds)、そして
アングロサクソン
であるロイ・ヘイ(g)、といった面子に因るもの。この場合のカルチャーは「多民族・多人種の
文化、ひいては多文化主義」、といった意味合いでしょうか。

しかし、1stには既にその後の音楽性、というかB・ジョージの根っこにある要素だと私は思って
いますが、ソウル・R&Bといったブラックミュージックの匂いが漂っています。
今回かなり、英文のウェブページなども
拙い英語力でもって漁ってみたのですが、B・ジョージの
音楽的ルーツに関する情報は得られませんでした。どうしても、彼についてはゲイであること、
それに基づく”超個性的”なファッション、そして80年代後半からの麻薬所持をはじめとする
犯罪沙汰に関する情報等が先に立ってしまっているようです。
それらの事の陰になって見過ごされてしまっていると思うのですが、彼が非常に優秀なシンガー、
特にイギリスにおけるブラックミュージックをリスペクトしたシンガーの中において、類稀なる
実力を持った人であるという事です。

それが開花したのが、2ndアルバムで彼らの代表作でもある83年発表の「Colour by Numbers」。
全世界で1000万枚以上売り上げた本作にて彼らは時代の寵児となりました。特に本作からの
1stシングル「Karma Chameleon(カーマは気まぐれ)」は全英・全米を含む世界12か国で
No.1ヒットを記録しました。

ブルースハープの使用、ギターの音色にややカントリー&ウェスタンっぽさ、が感じられ、
全米市場を意識したのかな、と思わせる曲であり、結果的に大成功を収めます。ちなみに上記の
PVは間違いなくアメリカを意識して作られました。設定は19世紀のアメリカ。ミシシッピ川を
汽船で行き来する道中を描いたもの。もっともどう見てもリオのカーニヴァル的なオネエチャン達が
出てきてますので、その辺の設定は滅茶苦… もとい、ワールドワイドですが・・・
1stでも参加していましたが、本作では女性シンガー ヘレン・テリーの存在感が更に増しています。
声を聴いただけでは間違いなく黒人女性と思ってしまいますが、彼女は英国白人女性です。
本作にてヘレンをよりフィーチャーしたのは明らかに”黒っぽさ”を狙っての事かと私は思っています。
ゴスペル的ナンバーのA-⑤「That’s the Way」にて、それは特に成功しています。

時系列は前後しますが、彼らのブラックミュージックリスペクトが最も表れたナンバーが、
「君は完璧さ」のヒット後にリリースされたシングル「Time (Clock of the Heart)」。
全英3位・全米2位と前シングルに続き大ヒットとなった本曲は、私が思うに彼らの真骨頂である
ソウル色が明らかに、そして初めて前面に押し出されたナンバーだと思っています。

ちなみに全米で1位を阻んだのは映画「フラッシュ・ダンス」主題歌であるアイリーン・キャラの
「ホワット・ア・フィーリング」。また本曲は英盤では基本的にアルバム未収録でしたが、
当時は日本盤のみ「Colour by Numbers」にボーナストラックとして収録されていました。

はじめにEMIへ持ち込んだデモテープの内容が1stの内容だったか、もしくは既に2ndの音楽性を
示していたのか分からないので何とも言えませんが、#36の記事にて述べた通り、イギリス人には
無いものねだりとでも言うのか、実は強いブラックミュージックへの傾倒があります。仮にこのデモ
にてその片鱗があったとすれば、ヴァージンによる先見の明の勝利、と呼べるものでしょう。
逆にEMIは金の卵を逃したといったところでしょうか。もっとも1stの内容であっても非凡
ならざる音楽性でしたが。

彼らについて語られる時、B・ジョージの外見等の属性ばかりが取り上げられ、また先述した
ニューロマンティックと呼ばれる当時の流行りの中で売れたこともあって、一時期栄華を極めた
アイドルバンドの一つ、と後年になって見なされてしまっている部分があります。しかし
その音楽性は先に述べた通り、当時における最先端のエレクトリックポップやワールドミュージック
などの要素を取り入れながらも、その根底にはソウル・R&Bといったブラックミュージックが
しっかりと根差しており、確固とした高い音楽性を有していたバンドでありました。
私は彼らを、イギリスにおける優れたブルーアイドソウルのバンドの一つだと思っています。
35年経った今聴いても、それは全く色あせていないのです。

#52 Heatbeat City

前回までのプリンス回にて、84年の年間シングルチャート1位はプリンスの「When Doves Cry
(ビートに抱かれて)」と述べました。私の様な洋楽好きのオッサン世代には改めて語る必要は
ないかもしれませんが、全米でもヒットチャートと呼ばれるものは一つだけではなく、
主だったものは三つ、ビルボード・ラジオ&レコード・キャッシュボックスでした。
順位の算出基準に違いがある為当然順位は異なります。「ビートに抱かれて」が1位だったのは
ビルボードであり、ちなみにラジオ&レコードではヴァン・ヘイレンの「ジャンプ」でした。
ベストヒットUSAにて採用していたチャートはラジオ&レコード。これはFMのリクエスト回数を
元にしている為、レコードセールスその他を総合的に算出基準としていたビルボードとはかなり異なる
チャートアクションになっていました。ついでに言うとキャッシュボックスは西海岸寄りの
チャート付けだったそうです。
アルバムチャートの方を見てみると、ビルボードでは言うまでもなく83・84年共にマイケル・
ジャクソンの「スリラー」(82年12月発売だった為)でしたが、ラジオ&レコードにおける
84年年間アルバムチャートの1位は意外とも言える作品でした。
それが今回のテーマ、ボストン出身のバンド、カーズの5thアルバムである「
Heatbeat City」。

 

 

 


リック・オケイセック(vo、g)を中心とし、78年に1stアルバム「The Cars(錯乱のドライブ/
カーズ登場)」にてデビュー。600万枚の大ヒットとなり注目を浴びます。続く2ndアルバム
「Candy-O(キャンディ・オーに捧ぐ)」もヒットし、初めから順調なスタートを切りました。
その音楽性はアメリカンR&Rにクールなニューウェイヴ・テクノ色を混ぜたもの、とでも
表現すれば良いでしょうか。シンプルなR&Rに、エリオット・イーストンの比較的ハードな
ギターが乗り、そこにテクノポップが加味された独特なサウンドでした。

FMのリクエスト回数は人気の先行指数、レコードセールスは遅行指数とでも呼べるでしょうか。
またマイケルの「スリラー」を引き合いに出すのも何ですが、レコードは引き続いて売れていた
84年において、ラジオ&レコードの方では既にチャートの上位から姿を消し、代わって
伸びてきたのは前回まで取り上げていたプリンスの「パープル・レイン」やカーズの本作でした。

MTVが台頭し始めたこの時期に、実に魅力的なビデオクリップを制作したのもヒットの大きな
要因でしょう。同年から創設されたMTVビデオミュージックアワードの第1回にて、マイケルや
シンディ・ローパーなどの他ノミネートを抑え、上記のシングル曲「You Might Think」の
プロモーションビデオは見事に最優秀ビデオ賞を受賞しました。

本作からの第3弾シングルであり、彼らにとって最大のシングルヒットとなった「Drive」。
本作の、というよりも彼らの全作品中におけるベストトラックと私は思っています。
浮遊感のあるカーズ独特のスローナンバー。”彼ららしく”ただの甘ったるいラブソングとは
なっていません。歌詞の解釈はかなり人によりけりですが、”Who’s gonna drive you home
tonight(今夜は誰がきみを家に送るんだろう…)”という一節はかなり意味深です。

翌85年には新曲を含むベスト盤をリリース。こちらも大ヒットし、この頃が全盛期であったでしょう。

決して米ポップミュージック界におけるメインストリームな存在というバンドではありませんでした。
かといって超個性的な音楽を演り、一部のコアでマニアックなファンだけから好かれた、という訳でも
ない。本流・主流からは少し離れた所に居ながら一定の支持を集めていた、決して貶める言葉ではない
良い意味での、”B級バンド”という表現がぴったりはまる様な存在だった気がします。

88年にバンドは解散。00年に中心メンバーであったベンジャミン・オール(vo、b)が亡くなった事に
より、オリジナルメンバーで再結成を果たすことはなくなってしまいました。しかし10年には
ベンジャミン以外のメンバーにて活動を再開。11年には24年振りとなる新作をリリースしました。

ニューウェイヴやテクノポップといった音楽の要素が決して普遍性を持ったものではないため、
35年余り経った現在では、勿論新しい波でもなく、そのテクノロジー(シンセやエレドラの音色等)
などは古臭く感じるものでしょう。リアルタイムで聴いていた私などはノスタルジーが先に立って
しまい客観的に聴くことが困難な面があります。30代以下の若い世代の方たちには彼らの
音楽がどのように聴こえるのか、ちょっと興味があります。古臭い・つまらないと一蹴されるか、
逆に一周回って新鮮に感じたりするのか…。ただし一つだけ言えるのが、カーズというバンドは
その時代の流行りに乗っただけではなかった、という事。ニューウェイヴ・テクノといった要素は
表層に過ぎず、彼らの本質は他のアメリカンロックとは一線を画する、どこか冷めた、その歌詞など
を含めた彼らなりの(イギリス人とはまた違った)皮肉・ペーソスを漂わせた音楽性にあったのでは
ないかと私は思っています。先述の「You Might Think」や81年のシングルヒット「Shake it up」
といった一聴するとポップでキャッチーなR&Rと、これも先にあげた「Drive」の様なスローナンバー
にも、そのいずれにおいても奥底には同じ様な”クールさ・憂い”があって、人々は意識的か無意識にか、
彼らに他とは違う魅力を感じ取ったのではないか、と私は思っています。そしてそれは時代に
左右されない彼ら独自の音楽性であるので、若い方の中にはその音楽に魅かれる人達もいるのでは
ないでしょうか。もっともただのオッサンの妄想、と言われてしまえばそれまでなのですけど・・・

#51 Around the World in a Day

「パープル・レイン」のビッグセールスにより、プリンスは自らのレーベルである”ペイズリー・パーク・
レコード”を設立します。これでこれまで所属していたワーナー・ブラザーズにあれこれ言われずに
自身の望む作品が創れる、と思ったのでしょうか、彼はとんでもないものを創ってしまいました。
勿論自身のレーベルとは言ってもワーナー傘下であることは変わりないのですが、それでもワーナーからの
”横やり”はかなり少なくなったそうです。前作の超大ヒットによって、天下の大レコード会社ワーナーも
プリンスには一目置くというか、慮った対応をしなければならない状況だったようです。
前作からわずか10ヶ月余りで新作「Around the World in a Day」をリリースします。

 

 

 


”続・パープル・レイン”を作れば再度のメガヒットは間違いなかったでしょう。しかし彼の様な天才肌に
とっては全くとまでは言いませんが、そのような事にはあまり関心が無かった、というか無くなって
しまったのかもしれません。出来上がった新作は世間の期待を(良い意味で)裏切るものでした。

80年代版「サージェント・ペパーズ」とでも呼ぶべき本作。私はリアルタイムだったので断言出来ますが、
当時、ファッション等の他分野では違ったかもしれませんが、少なくともロック・ポップス界において、
60年代後半におけるサイケデリックのリバイバルブームなどはありませんでした。
プリンスの新作がまさかこの様な内容とは…、皆があっけにとられたのです。
”パープル・レイン第2弾”を作っていたならば、評論家達はまた”前作に引き続き売れ先に走った…”とか、
”天才プリンスと言えど商業戦略には抗えなかった”などとこき下ろしていたでしょう。
前回の記事にて、少なくとも日本の評論家筋が前作に漂うサイケデリック臭には触れていなかったと
断言できると大見得を切りました。その根拠は、皆が本作の内容に驚愕し、そして絶賛したのです。
もしも「パープル・レイン」に本作の予兆を感じ、その事を発言ないし文章化していたとすれば、
鬼の首を取ったように”それ見た事か!俺はこれを予言していたぜ!!”と自画自賛していたことでしょうが、
当時の記憶でも、また今回かなりネット上で検索してみてもそれらは見受けられませんでした。
売れっ子は批判するもの、という様なスタンスのロックミュージック売文家達も、流石にこれは見事と
認めざるを得なかったのです。

今調べてみると、むしろ海外での評価の方が様々だったようです。日本の評論家は一般ウケしそうにない
作品を作った方が高評価するきらいがあるようですが、欧米ではコマーシャリズムも大事な要素と
捉えているのかもしれません。
またプロモーションにもあまり力を入れず、1stシングル「Raspberry Beret」がシングルカット
されたのもアルバムリリースより1ヶ月後でした。そもそも前作から1年も経ていないのに新作を
出すということは営業戦略上好ましい事ではありません。前作をきっちり売り切って、あれ程の
メガヒットであれば、シングルも出せるだけ出して、きっちり収益を回収したうえで、その後に
次作の制作及び販売促進に取り掛かるのが通常です。
80年代のプリンスは楽曲やアイデアが湧き出てきてしょうがない様な状態だったのでしょう。
異常とも言えるハイペースでアルバムをリリースしていきます。「Parade」(86年)、
「Sign o’ the Times」(87年)と従来の音楽性から別方向へ向かった様な作品へと
変容を遂げていきます。
本作のエンディングナンバー「Temptation」は、「Parade」の音楽性を既に表していました。
R&R、R&B、ブルースといったルーツ的なアメリカンミュージックから、フリージャズや
アヴァンギャルドミュージックといった要素までを含んだ8分超のこの曲は、その後の布石の様な
ものだったのかもしれません。

以前の記事#2にて、ビーチ・ボーイズの「ペット・サウンズ」を取り上げましたが、その中で
評論家の萩原健太さんによる”これはロックではなく、その時点におけるブライアン・ウィルソン
なりのアメリカンミュージックの集大成では…”、といった言葉について触れました。
全くの私見ですが、この時期のプリンスは60年代半ば~後半におけるブライアンに少し相通じる
様な気がします。「ペット・サウンズ」~「スマイル」にて既存のロック・ポップスといった
カテゴリーには収まり切らなくなってしまったブライアンの溢れ出てくる創作意欲。80年代半ば~
後半においてのプリンスもこれに近い感覚だったのではないかと私は勝手に思っています。
90年代以降は必ずしも順風満帆といったミュージシャン活動ではなくなったようです。
詳しくはウィキ等をご参照ください。

亡くなる前年のグラミー賞にて、プレゼンターとして壇上に立った彼は、『アルバムって覚えてる?』
というスピーチを残しました。00年代からダウンロードそしてストリーミングへと、音楽の購入の
仕方が劇的に変わり、楽曲単位で買うことが出来るようになったため、アルバムを丸ごと購入せずに
聴きたい曲だけを買えるようになりました。これの功罪については特に言及しません。ただ、
60年代半ばから、「ペット・サウンズ」や「サージェントペパーズ」をはじめとして、
アルバムがただ単にシングルないしは出来の良い楽曲の寄せ集めでなく、それらが同一のアルバムに
収録された事、さらにはその曲順やジャケットデザインまでを含めて意味を持たせた先達たちの功績
(勿論プリンス自身を含めた)を忘れて欲しくない(幾分皮肉も混じっていたかもしれませんが…)、
という思いから先のスピーチに至ったのではないでしょうか。

以上で3回に渡ったプリンス回は終わりです。それで、これからしばらくは今回取り上げたプリンスが
全盛期であった時代でもある80年代の音楽を中心に書いていきたいと思います。
テレコ(ラジカセ)・FM雑誌・カセットレーベル・エアチェック、そしてLPレコード等々…。
私を含めた40代後半から60歳位までのオッサン世代にとっては生唾ゴックンものの記事を
書いていきます、乞うご期待・・・ あっ、念の為言っときますが、生唾ゴックンものといっても
エッチなやつじゃないですよ… わかっとるわ!!! ━━(゚Д゚#)━━(…とでも突っ込んどいて下さい…)

#50 When Doves Cry

クラシック音楽については全く無知な私ですが、ラヴェル作「ボレロ」には何故か興味を
魅かれます。一定のリズムと、これまた決まったメロディ
の繰り返し、これらを徐々に
楽器の構成を変えながら、リズムも同じものながら段々と勢いを増し、やがてエンディングへ。
ほとんど展開しないこの様な楽曲はクラシック音楽では珍しいものだそうです。
今回のテーマ、プリンスが84年にリリースしたアルバム「Purple Rain(パープル・レイン)」に
収録されている「When Doves Cry(ビートに抱かれて)」、私はこれをポップミュージックに
おける「ボレロ」であり、またその類の楽曲で最も成功したものだと思っています。

 

 

 


今更説明不要な程、プリンスの代表作にして最も商業的に成功した作品。意外と忘れ去られて
いるかもしれませんが、同名映画のサウンドトラックであります。そう、映画だったんですよ。

リアルタイムで体験した私の記憶では、所謂『評論家筋』からは、”プリンスも売れ線に走った”とか
”内容的には前作「1999」の方が優れている”といった辛口の批評が結構あったような気がします。
売れたものに対してはケチを付けるもんだという強迫観念があるのかどうか預かり知りませんが、
30数年経った今聴いても、全く売れ線などとは思いません。むしろこの内容でよくぞ当時で
1500万枚と
いうセールスを上げたものだと感心するほどです。具体的にはコマーシャルな
楽曲と、一般ウケしそうにないものが玉石混交(この例えもあまり適切ではないかな、どちらが
玉とか石とかでもありません)になっています。

唯一難点を挙げるとすればエンディングのタイトル曲が”プリンスとしてはやや凡庸”であるかな、
という気もします(※あくまで個人の感想です←これ書いときゃ何でも許されるんでしょ(´・ω・`))。
コマーシャルな方の楽曲、売れ先と評していた輩はこれらの楽曲を良く思ってなかったのでしょうか。
「Let’s Go Crazy」「I Would Die 4 U」「Baby I’m A Star」及びタイトル曲がそれに
当たるかと思われます。いずれも素晴らしい楽曲であり、タイトル曲に関しても先ほど少しケチを
付けた様な形になりましたが、曲のエンディングではやはりプリンスらしい、一筋縄では終わらない
”良い意味でのクドイ締め方”となっています。
では一般ウケしなさそうな方について。A-②「Take Me With U」は本作では中庸な部類の
楽曲でしょう(ただし大変重要なナンバーです、後述します)。A-③「The Beautiful Ones」は
テクノポップ臭を漂わせながらのスローナンバー。メロディックなバラードとは一線を画するもので、
特に後半の気が触れたかの様なヴォーカルは圧巻(これが苦手、という人もいるでしょうが…)。
A-④「Computer Blue」。冒頭にて、バンドメンバーであるウェンディとリサによる大変妖しく、
また悩ましい様なレズビアンかつSMチックな会話から始まります。楽曲自体は3rdアルバム以降の
テクノ的R&Rと呼べるもの。ところがどっこい、二部構成になっており、途中からサンタナ張りの
ギターソロをフューチャーしたパートへと変わります(当初は三部構成だったらしいです)。そして
A-⑤「Darling Nikki」はプリンスの真骨頂である、粘っこいエロティシズムに満ちた楽曲。
歌詞も大変に性的なものを連想させる(というかそのものズバリ)という事で物議を醸しました。
すくなくともA-③~⑤はお世辞にも売れ線とは言えません。そして極め付けが今回のテーマ、
B-①に収録され第一弾シングルとなった「When Doves Cry(ビートに抱かれて)」。

普通の楽曲にあるようなAメロ→Bメロ→サビといった展開ではなく、基本的にAメロだけという
ものなのですが、この一定のパートを手を変え品を変え、エンディングの大円団へと終結させる、
当時としてはとんでもなくアヴァンギャルドな楽曲です。この曲の様に、展開せずに一定のリズム・
フレーズを繰り返すものはある種の高揚感をもたらします。決してこの曲がポピュラーミュージック
において初という訳ではありません。以前の記事のキング・クリムゾン回である#16~#17にて
述べましたが、「太陽と戦慄」「レッド」及び再結成後の「ディシプリン」の中で既にそれは
行われていました。またトーキング・ヘッズ80年リリースの「リメイン・イン・ライト」では
『リズム』(アフリカンやファンクといった)が大変重要なファクターとなり、80年代の
ポップスシーンを変えてしまうほどのエポックメイキングな作品となりました。ちなみに
「ディシプリン」「リメイン・イン・ライト」共にエイドリアン・ブリューが関わっているのは
偶然でも何でもありませんが、これについてはまたの機会に。

よくこんな曲を(こんな曲って…)1stシングルに持ってきたものだと後から思いました。
売るためなら「Let’s Go Crazy」や「Baby I’m A Star」の様な快活なノリの良いジャンプ
ナンバーを初めに持ってきて良さそうなものです。
ジミ・ヘンドリックス張りのギターイントロに始まり、続いて呪術師の唸りの様な奇怪な声。
基本的伴奏はドラムマシンによるビートとシンセのリフのみ、その上でプリンス一人による
メインのヴォーカル、及びオーヴァーダビングでのコーラスやオブリガード的フレーズ。また
他の伴奏(と言ってもシンセとギター位)も徐々に加わりテンション感が上がっていきます。
ただしオフィシャルPVだと後半がカットされている為是非ともアルバム版をお勧めします。

この曲に関しては、同じく彼の全米No.1シングル「Kiss」(86年)と共にベースが
入っていないという点がよく語られます。ベースが無いということは、低音部が抜け
音のトーンバランスが悪くなるという事です。基本的に人が心地よく感じるのは
低~中~高音まで全てバランスよく鳴っている音です。またベースは楽曲において、
基本的にはルートや5度の音などを鳴らして音楽的にも安定させる役割を持ちます。
(勿論そんなベタな演奏だけじゃない、というお声もあるでしょう、あくまで基本…)
英語版のウィキにありましたが、当初は普通にベースが入っていたそうです。しかし
バックヴォーカルのジル・ジョーンズとの会話がきっかけとなり、このまま(ベースが
普通に入ったテイク)では型にはまりすぎている(conventional)、として
ベースレスのテイクを採用したそうです。この事による不安定感、言い換えれば
浮遊感とも呼べるものと、先述した繰り返しから生まれる高揚感により、この楽曲は
唯一無二のものとなったのです。初めに聴いた時は「何だこの曲は…」と大抵の人は
思うでしょう。小林克也さんですらそう思ったそうです。しかし何度か聴いている
うちにこの曲が持つ魔力の様なものに憑りつかれていくのです。
本曲は84年のシングル年間チャートで1位を獲得。先に述べましたが、この様な
”ループミュージック”とでも呼ぶべきものはポップミュージックにおいては決してこれが
初めてではありませんでしたが、商業的に大成功したものとしては初と言えるでしょう。

ロック・ポップスを聴き始めてから1年ちょっとのリアルタイム時には当然判りませんでしたが、
本作にはサイケデリックな雰囲気が漂っています。「Take Me With U」「Darling Nikki」に
おいて特に顕著です。私の記憶では当時において、この点について指摘した評論家・ライター
(勿論日本の)は皆無です。当然現在のネット時代ではありませんし、中学生としてはその手の
ラジオや雑誌によく目・耳を通していた方だとは思いますが、それでも彼らの全ての発言や
文章を把握出来た訳では当然ありません。でも皆無だったと言える根拠があります。それに
ついては次回述べます。ただウィキにはその要素に当時から触れていた評論家もいたとの記述が
ありますが根拠は分かりません。誰のどこにおける発言・記述か、といったものを一応探して
みましたが出てきませんでした。あったとしても海外においてだったと思われます。

今回も長くなってしまいました。後年においても本作について語られる時、プリンスのキャリアに
おいて最も成功した、そしてポップ志向の強い作品という評価がなされてしまうようですが、
決してそれだけではないという事だけは言いたかったのであります。
次もプリンス回です(多分…最後…だと思う……)。

#49 1999

#43~#47でジミ・ヘンドリックス、#40にてサンタナを取り上げましたが、両者のDNAとでも
呼ぶべきものを受け継いでいたギタリストがいたと私は思っています。それはプリンスです。
(゚Д゚)ハァ?そうかあ? プリンスがギター上手いのは知ってるけど、他にもっといるんじゃね?
と、声があがるのはもっともです。あくまで私見ですし、プリンスはギタリストとしてだけでなく
トータルなミュージシャンとして評価すべきというのもごもっともです。これは話の枕的なもの…

 

 

 


16年に惜しくも亡くなってしまいましたが、たぐいまれなる才能を持ったミュージシャンで
あった事は衆目の一致するところです。ジャズ・ピアニストの父、シンガーの母の下に生まれ、
当然の様に幼少より音楽に親しみます。作曲・編曲の才能は勿論のこと、いわゆるマルチ・
プレイヤーでもあります。ピアノとギターを弾きこなすプレイヤーというのは割といますが、
彼はドラムまで叩きます。それが少し叩ける、といった程度のものではなく本職顔負けのプレイです。
1stアルバム「For You」(78年)は楽曲作りから演奏まで全てを一人でこなしていますが、
エンディング曲「I’m Yours」を聴けばそのドラミングの実力がわかります。
79年、2nd「Prince(愛のペガサス)」をリリース。
シングル「I Wanna Be Your Lover」が
ポップスチャートで全米11位(R&Bでは1位)のヒットを記録し、世間にその名を知らしめます。
初期のプリンスの音楽性を具体的に述べると、当時流行のディスコ、あるいはもう少し”濃ゆい”
ジェームス・ブラウン的な(声質は全く違いますが)ファンクの16ビート。及びこれまた当時、
巷で流行っていたフュージョン(クロスオーヴァー)的なソフト&メローな楽曲(例えば
アル・ジャロウの様な)。そしてハードなロックチューン。と、大まかに分類できます。
その後も「Dirty Mind」(80年)、「Controversy(戦慄の貴公子)」(81年)と
スマッシュ・ヒットを続けます。

そのギターに関して言えば、ジミ・ヘンドリックスの影響が語られます。確かにジミ張りの
ステージアクト(ギターを生殖器に見立てたパフォーマンス等)を行っていたようですが、
しかしリードギターのプレイスタイルとしてはサンタナに近かったと良く言われます。叙情的、
言い換えれば分かり易く感情に訴えかけるフレージングが特徴でした。しかしプリンスのギターの
真骨頂はステージアクトや激しいギターソロではなくリズムギター、ファンキーな16ビートの
カッティングにあると私は思っています(じゃあ枕の話はなんだったんだよ、とは思わずに・・・)。
そしてギタースタイルと同様に、初期プリンスの音楽性における肝は16ビートのファンクに
あると
言えるでしょう。そこに両親からの影響であるジャズや、当時のディスコやAORを含んだ
”プリンス流ファンク”とでも呼ぶべき音楽性が主軸になっていたと思います。

先述した「I Wanna Be Your Lover」が初期の曲では最も親しみやすいでしょう。もっとも
これだけ聴くとクインシー・ジョーンズ(つまりマイケル・ジャクソン)かよ! と、思って
しまうかもしれませんが、「オフ・ザ・ウォール」とほとんど同時期のリリースなので、決して
パクリではないでしょう。彼のファンクはもっと多様性がありました(クインシー=マイケルが
一本調子だった、とか言う意味ではありません)。ちなみにその2ndアルバム
 には、
後にチャカ・カーンのカヴァーで大ヒットすることとなる「I Feel for You」が収録されています。

ギターの話に戻りますと、彼は70年代に日本のモリダイラ楽器が製造したブランドである
”H.S.Anderson”のテレキャスターモデル(MAD CAT)をデビュー時から愛用しており、
初期によく聴くことが出来る気持ちのいい16ビートのカッティングは同器によるものの
ようです。ちなみに先の「I Wanna Be Your Lover」のビデオクリップではレスポールを
弾く姿が出てきますが、多分レコーディングではテレキャスあるいはシングルコイルのギターを
使っていたと思われます。余談ですがH.S.Andersonは所謂”ジャパン・ヴィンテージ”として
現在でも高く評価され、根強い人気を誇っています。

82年、アルバム「1999」をリリース。遂にブレイクを迎えます。全米で400万枚のセールス、
「Little Red Corvette」「Delirious」がTOP10ヒットとなるなど、この頃になって
ようやく世間がその音楽性に気付き始めたといったところだったのでしょうか。
前作・前々作から、つまり80年以降は時代の影響もあって、ニューウェイヴ・テクノポップと
いった要素が強くなっていったのはプリンスも同様でした。シンセサイザーの音色などは
今から聴くと”安っぽい”と思われるかもしれませんが(でもリアルタイムのオジサン世代は
これを”未来の音だ”と感じていたんですよ)、当時における最先端のテクノロジーを貪欲に
取り入れていました。やがて流行などはお構いなし、といった唯我独尊的な音楽性へと
変容していった人ですが、この頃まではある意味”柔軟”な姿勢だったようです。
タイトル曲は世紀末を歌った曲(本当の世紀末は2000年らしいですけど)。サウンドは
80年代風テクノ味ソウルミュージックとでも呼ぶべき快活な曲調ですが、歌詞は世界の終末に
ついて書かれています。”2000年にはパーティは終わってしまう。だから今夜1999年みたいに
パーティするんだ” の様な歌詞で、解釈は人それぞれのようですが、幕末の”ええじゃないか”
みたいな雰囲気を歌っているのかもしれません。

このようにして、着々と成功への足元を固めてきたプリンスですが、これはまだほんの序章と
呼べるものでした。次回は勿論次作である「パープル・レイン」についてです。
しかし2018年の冒頭に「1999」って、なんだよ!狙って書きやがったか!ヽ(`Д´#)ノ
とか、思わないでください。本当に以前から予定していたこの回がたまたま年初に来ただけです
(あっ、でも、ちょっとオイシイかな、とか思わなかった訳では…)。今年もよろしくノシ

#48 Summer of Love

#31から続けてきました、60年代後半から70年頃にかけてエポックメイキングと
なったロックを取り上げてきたテーマは前回をもって終了しましたが、今回はそのオマケ編。
”サマー・オブ・ラブ”と呼ばれる67年夏にサンフランシスコを中心に起こったムーヴメントが
ありました。現在から振り返るとかなり極端な文化的・政治的主張や価値観であったりして、
賛同出来るか否かは人それぞれですので、ここではそれについては触れず、ロックミュージックに
おける同ムーヴメントに影響を与えた、またはそれに感化されて作られた音楽を軽く見ていきます。
季節的にまったく真逆ですが、どうぞ全然気にしないでください。
え、クリスマス? ナニそれ? たべられるモノ???(´・ω・`)???


スコット・マッケンジー「San Francisco」。超ベタなとこですが、そのものずばりのタイトル、

同ムーヴメントの象徴とされる楽曲。お次はリリースこそ65年12月と若干遡りますが、ウェストコーストに
おけるフォーク・ロックの象徴的楽曲 ママス&パパス「California Dreamin’(夢のカリフォルニア)」。
ちなみに先のスコット・マッケンジー「San Francisco」はジョン・フィリップスの作。

2曲続けてベタベタなとこから始まりましたが、これまた超ベタなやつ。というより今回はほとんど
ベタなのしかありません。”シスコサウンド”の象徴的存在であったジェファーソン・エアプレイン
「Somebody To Love(あなただけを)」。

#31で触れましたが、ロックにおいて最初のサイケデリックナンバーとされる(勿論人によって諸説あり)
バーズの「Eight Miles High(霧の8マイル)」。

https://youtu.be/yoSwOrytf_M
こちらは#2で書きましたが、名盤「ペット・サウンズ」の後、世界一有名な未完のアルバム「スマイル」に
収録されるはずだった(本作の各トラックは、この曲をはじめその後の作品にてバラバラに採用されて
いますが)ビーチ・ボーイズ「HEROES AND VILLAINS(英雄と悪漢)」。「スマイル」が04年に
ブライアン・ウィルソン名義で日の目を見ることも#2の記事にて述べた通り。

続いてはイギリス勢。67年と言えばビートルズ「サージェント・ペパーズ」ですが、ここではその前作
「リボルバー」より
ビートルズ初のサイケデリックナンバーとされるTomorrow Never Knows」。
https://youtu.be/Ah2ckzXgrx4
#25から#28にてピンク・フロイドは取り上げましたが、プログレッシヴロックの雄とされるフロイドも
デビュー当初はサイケデリックロックバンドの急先鋒でした。ロンドンにおけるアンダーグラウンドシーンの
中心地であった伝説的存在であるUFOクラブにて、ライティングを駆使した独自のステージを繰り広げて
いました。ここではデビュー作「夜明けの口笛吹き」より「Astronomy Domine(天の支配)」。

エリック・クラプトンは#8~#12で書きましたが、伝説的ロックトリオであるクリームも時代の影響を
受けてサイケ色からは逃れられませんでした。デビュー曲「I Feel Free」。曲自体は真面目に作ったのか
どうか疑わしいような曲ですが、クラプトンのギターソロだけはとにかく素晴らしいの一言。

お次はムーディー・ブルース。ピンク・フロイドやプロコル・ハルムと共に、プログレの黎明期を
支えた存在。言うまでもなく「Nights In White Satin(サテンの夜)」。

最後は”カンタベリー・ロック”の礎を築いたソフト・マシーン。ハットフィールド・アンド・ザ・ノース、
ナショナル・ヘルスなどにより、イギリス南東部のカンタベリーをその中心地として、後にフュージョン
(クロスオーヴァー)とは一線を画する独自のジャズロックを創り上げました。80年代、日本において
この様なジャンルはまったくと言って良い程見向きもされませんでしたが、90年代以降徐々に
認知度が上がってきたようです。オシャレでポップ(軽佻浮薄とも言う)な80年代にはこれに限らず、
少しマニアックなジャンルを聴いているだけで、「ネクラ」とか「オタク」とか言われたものですが、
オタクという呼称が必ずしも蔑称ではなくなってきた様に、ロックに限らずマニアックなものが
認められるようになってきたのは、オジサンからすると大変良い時代になったものです。今の30代
以下の方たちは、物心ついた時から基本的にずっと不景気の世の中で育ったと思いますが、逆にバブル
世代以前の連中(私も含めた)よりもよほど文化的アンテナが鋭いのではないかと思っています。
ゆめゆめ”最近の若いもんは…”などと言っては失礼です。むしろ”まったく最近のオッサンは…”と
いう言葉こそこれからは使われるべきでは・・・。

https://youtu.be/x7y_pA-L2ww
以上駆け足で見てきましたが、先に述べた通り今回は前回まで続いてきたテーマのオマケ編、
もしくは補完編とでもいうものでした。あ、そうそう、別に全然大したことではないのですが、
今年の記事はこれにて最後です。別に年が変わるのにあまり意味はないので。それでは、またノシ

#47 The Cry of Love

69年8月に開催されたウッドストック・フェスティバルにて、ジミ・ヘンドリックスは
大トリを務めます。その事実が当時、ジミの人気が如何ほどであったかの何よりの
証明でしょう。もっとも悪天候等の為、大幅にプログラムが遅れてしまい(予定の翌朝)、
ジミのステージが始まる前に帰ってしまった人が多かったというのも有名な話です。
同年12/31から1/1にかけてフィルモアイーストにて公演。この模様を収録したのが
前回の記事でも述べたアルバム「バンド・オブ・ジプシーズ」です。当初はスタジオ盤を
目論んでいたのが、思う様な出来にならず、苦肉の策としてライヴ盤をリリースしたとの事。
バンド・オブ・ジプシーズはメンバー間の不和、及びジミがますますドラッグに依存するように
なっていった事などから短命に終わります。
ベースのビリー・コックスはそのままに、ジミは再びドラムにミッチ・ミッチェルを
イギリスより呼び寄せ新バンドを結成。『クライ・オブ・ラヴ・ツアー』と称して
アメリカツアーに出ます。7~8月にハワイのマウイ島及びホノルルでのステージをもって
当ツアーは終幕。そのままイギリスのワイト島を皮切りにヨーロッパツアーに向かいます。
70年9月18日、ロンドンのホテルにてジミ・ヘンドリックスは亡くなります。享年27歳。
大量のアルコールと睡眠薬を摂取し、睡眠中におう吐物を詰まらせての窒息死でした。
ジャニス・ジョプリン同様にその死については、ゴシップ誌などによって無い事無い事
書き立てられ、トンデモ話にまで発展したりするのですがくだらないので当然省きます。

 

 

 


ジミの死後も続々とアルバムがリリースされますが、よほどのマニアでなければ訳が分からなく
なる様な乱売ぶりです。エンジニア エディ・クレイマー、ジミの遺族(後に財団を設立)、
敏腕(悪徳?)マネージャー マイク・ジェフリー、プロデューサー アラン・ダグラスなどが
様々な形で関わり、ライヴ及びスタジオ録音の未発表音源が作品化されたのは周知の通りです。
ここでは取りあえず主要なものだけ。71年3月「The Cry of Love」 4枚目のスタジオ盤と
なるはずだった作品。ジミが設立し、その死の直前に完成したN.Y.のエレクトリックレディ
スタジオにてほとんどのトラックが収録されています。オープニングナンバー「Freedom」は
ジミの新境地を感じる事が出来る楽曲で、もし亡くならなければその後のジミの方向性は
この様な音楽だったのではなかったかと。バラード「Angel」は亡き母を夢に見たときに
インスパイアされて作った曲。97年に本作は他アルバムに既収録の楽曲と共に再編集され
「First Rays Of The New Rising Sun」としてリリース。現在はこちらで聴くのが容易。
ライヴ盤と言えば「バンド・オブ・ジプシーズ」を除くと、私のリアルタイム(80年代)では
ワイト島か「Hendrix in the West」でした。今でも押入のダンボール箱を漁ればLPレコードが
出てくるはずです(プレーヤーが無いから聴けないですけど・・・)。本盤で有名なのは
「Johnny B. Goode」と「Sgt. Pepper’s」でしょう。「Johnny B. Goode」は70年5月
バークレイ・センターでの演奏。バックのプレイとイマイチ合ってなかったりするのですが、
その勢い・パワーは素晴らしいの一言。「Sgt. Pepper’s」は言わずと知れたビートルズナンバー。
幻に終ったマイルス・デイヴィスとの共演作、及びそこでポール・マッカートニーへ参加を
依頼していた事については前回の記事で触れましたが、ジミとポールはお互いを尊敬し合って
いました。イギリスでジミの噂が広まり始めた頃からポールは頻繁にそのステージを観に行って
いたそうです。ジミのモンタレー・ポップ・フェスティバルへの出演にポールの後押しが
あった事は有名ですが、ママス&パパスのジョン・フィリップスからモンタレー出演を打診された
ポールでしたが、レコーディングで多忙の為それは断り、「その代わり今イギリスで凄い奴がいる、
そいつを押すよ、ジミ・ヘンドリックスだ」と言うと、フィリップスは「誰それ?」という
反応だったとの事。モンタレー以前のアメリカにおけるジミの知名度とはそういうものだったそうです。

アメリカのローリング・ストーン誌が03年に”歴史上最も偉大な100人のギタリスト”という企画を
行いました。ジミはその第1位に選出。11年の改訂版でも同じく。余談ですが2位はクラプトンかと
思いきや、デュアン・オールマン。3位がB.B.キングでクラプトンは4位、だったと思います…
この選出基準が良いか悪いかは人それぞれでしょう。そもそも順位を付ける事に意味があるのか
どうかも。しかしジミ・ヘンドリックスという存在がその死後数十年を経過した世でも、大変な
影響力を与えて続けている事の証にはなるかと思います。

ジミヘンって良く名前聞くけど何が凄いの?と、尋ねられたらどう答えるでしょう。一言や三行で
語りつくす事は不可能です。だからと言って「ジミのプレイには他者には無い魂があるのさ」とか、
テキトーな言葉で済ますのも、曲がりなりにも音楽に関わっている者の端くれとしてミジンコ並みの
自尊心が許しません。既述のものもありますが列挙してみます。
①最も特徴があるのはインプロヴィゼイション(即興演奏)であるのは言わずもがなでしょう。
ブルースをルーツとするのは他のロックギタリスト達と同様ですが、インド音楽・スパニッシュ・
ジャズetc…と、全く躊躇なく貪欲に様々なスタイルの音楽を取り入れ、それを自分なりに
消化しそれらのフレーズ、及び常人では考えも付かない、または考えたとしてもそれまでの音楽的
常識ではプレイするのは気が引けるような大胆なフレーズでも気後れすることなくプレイ出来た事。
これは紙一重です、凡人がやれば駄演になるところを天才が演ると名演になるのでしょう。
②そのプレイと同じ位に特徴的だったのはエフェクターを始めとした機材の扱い方です。
ファズ・ワウペダル・オクタヴィア等のエフェクター類を駆使し、独自のサウンドを作り上げ、
後のロックギターの道筋を示したと言えます。現在では当たり前の様に思われていますが、瞬時にして
音色を180度切り替えて
場面場面にて変化をつけるような演奏は、60年代末にジミやジェフ・ベック
などに
よって行われてから広まった事であり、それまではこれ程までに頻繁かつ大胆なトーン・
コントロールはなされませんでした。そしてそれは他の楽器では基本的には不可能なことです
(エレキギター以外ではシンセサイザーくらいでしょうか)。また#29でも触れましたが、
ストラトキャスターというそれまで全く人気の無かった楽器を、トレモロアームをはじめとして、
こんな使い方があったのか!と製作した側をも驚愕させるような可能性を見い出させました。
③ノイズでさえ音楽にしてしまった。②と少し被るかもしれませんが、フィードバック奏法など
プレイによるもの、及び録音技術を駆使した特殊効果的なものまで併せて、意図的さらには
自然偶発的なものまで含んでノイズをも音楽の一部として取り込んでしまった。
④ステージアクト。モンタレーでのステージが何よりも良い例ですが、暴力的な、またはセクシャルな
パフォーマンスが当時のオーディエンスの度肝を抜いた。
⑤私はまったく疎いのですが、当時のロックにおける
ファッションリーダー的役割も担っていた様です。
モンタレーやウッドストックでのステージ衣装を典型として、様々なフォトで見る事が出来る衣装・
アクセサリー・ヘアスタイルなどは斬新で当時の若者達に強い影響を与えたそうです。

上の全てがジミによって初めて、という訳では決してないですし、以前の記事でも書きましたが
当時のロックギタリスト達の中でジミが技術的に最も優れていたという事でもありませんでした。
しかし60年代後期から70年にかけて、ロックミュージックにおける音楽性の転換期に、これらの
革新性を全て持ち合わせ、なおかつ商業的に成功した稀有なミュージシャンだったのでは
ないでしょうか。それを可能にしたのは何より”わかり易かった”、言い換えれば感情の根源に
訴えかけてくるフレーズやトーンだったというのが大きいでしょう。ポピュラーミュージックに
おいてはある意味最も重要な事です。いくら革新的・音楽的に充実した内容ではあっても、
一部の玄人にしか理解してもらえない、というものでは成立しません。
ビートルズが3分のR&R・ポップソングをより深遠なロックへと深化させ、マイルス・デイヴィスが
ストレートアヘッドなジャズからフュージョン(クロスオーヴァー)へ、新しいジャズミュージックの
可能性を指し示し、ジミ・ヘンドリックスはエレクトリックギターという楽器の新たな可能性を
見い出させたのです。”ポピュラーミュージック維新”とも言えたこの時代のエポックメイキングな
ミュージシャンの一人であり、それがいまだに神格化される理由でしょう。

ジミはその死の直前に、ロンドンにあるチャス・チャンドラーの家を訪ねています。チャスが
ジミの下を去った後も、ジミはチャスに戻ってきて欲しいと頼んでいたそうなのですけれども、
先述のマイク・ジェフリーとソリが合わず、その時は断ったそうなのですが、ジミがチャスの
子供に会うという名目で来訪した時には、また一緒にやろうと約束したとのこと。それが
ジミが亡くなる前々日の事だったそうです。「ロックの歴史を追いかける」というサイトにて
チャスのインタビューが載っており、亡くなる前日の大変貴重な写真も掲載されています(コチラ)。
当サイトは他にも非常に興味深いロックにまつわるブログが掲載されています(私もちょくちょく
読ませて頂いております)。
一時期は調子に乗ってしまい袂を分かつようになってしまいましたが、やはり自分を育てて
くれた、兄貴分のような存在のチャスを頼りにしていたようです。またノエル・レディングにも
また一緒に演ろうと持ち掛けていた、という関係者の証言もあり、破天荒な言動が取り上げられる
事の多いジミでしたが、実は人間くさい、寂しがり屋の一面もあったというのが少し微笑ましいです。

以上をもって5回に渡ったジミ・ヘンドリックス編は終了です。まだまだ書きたいエピソード、
例えばエリック・クラプトンとの友情など、いくらでもあるのですが、それはまたの機会に。

 

#46 Electric Ladyland

一応現在ではそれなりに洋楽に関する知識はある方だと自負しておりますが、
ジミ・ヘンドリックスを聴き始めたのは、洋楽ロックを聴き始めてまだ2~3年の
中学生の時分だったと記憶しています。まだ洋楽に対する”免疫力”の弱かった当時の私には
そのアルバムの、多くの外国人女性達が裸で床に座り込み、又は横たわりながら不敵な笑みを
浮かべるジャケットデザインは大変なインパクトがありました。決してカマトトぶる訳では
ありません。ヌードもそれまで見たことが無いなどというつもりはありませんし、性への
目覚めも既に済んでいました(威張って言うことじゃないな・・・)。しかしそのジャケットは
リビドーを刺激するというより、とにかく妖しげで何だか怖い、という印象でした。
そのアルバムとは今回のテーマである3rdアルバム「Electric Ladyland」です。
ちなみにそのジャケットは英国版(日本版も)仕様で、米国版はジミの顔写真を加工したもの。
ジミはそのヌードジャケットを嫌っていたと言われており、現在では本作のジャケットは米国版の
それに統一されています。ピーター・バラカンさんも当時はこのジャケットが嫌で本作を
買わなかったと仰っています。”免疫力”の弱かった私もジャケットの印象に引きずられ、音楽自体も
何か禍々しい、聴いてはいけないものを聴いてしまったような気がした記憶があります。しかし
その1~2年後にはもっともっとディープな音楽を聴きあさるようになり、すっかり免疫力のついた
私はその中身も普通に聴けるようになりました。あっ、一応念の為言っときますけど、
決して女性の裸は散々見慣れたから、とかそういう事ではないですからね!………
ほほほ、本当です! し、信じて下さい ゜。(゜Д゜;)≡(;゜Д゜)・。゜・・・・・

 

 

 


68年10月発表の二枚組アルバムである本作は、初の全米1位、全英でも6位と大ヒット。
前2作よりもセッション色が濃くなった本作、豪華なゲストミュージシャンも目立ちます。
本作において、特に重要なナンバーは「Voodoo Chile(ヴードゥー・チャイル)」と
ボブ・ディラン作の「All Along the Watchtower」でしょう。オリジナルを見事なまでの
大胆なアレンジでカヴァーし、ディラン本人からも称賛されたこのナンバーはシングルカットされ
全米20位まで昇りつめています。ちなみにジミのシングルでは全米で最もチャートアクションが
良かったシングル。20位というとそれ程のヒットでは?…と、思われる方もおられるかも
しれませんが、シングルに重きを置いた商業戦略を取らなかった事、及びジミが黒人であった事、
つまり当時はまだ一部を除いた黒人ミュージシャンは(R&Bの専門局等を除いて)ラジオ・
TVでは
オンエアさせない、という風潮がまだまだ残っていた事から鑑みると十分なヒットでした。もっとも
ジミは”ロック”として白人寄りの扱いでしたので、オンエアされていた方と言えるでしょうが。
「ヴードゥー・チャイル」は長尺のスタジオライヴ版と、スライトリターンの2テイクを共に収録。
長尺版ではスティーヴ・ウィンウッドとジェファーソン・エアプレインのジャック・キャサディが
参加。曲中にて聴こえる拍手と歓声はスタジオに居合わせたスタッフのものだそうです。
スライトリターンはジミの代表曲の一つになっています。ジミを敬愛して止まなかった
スティーヴィー・レイ・ヴォーンによるカヴァーでも有名です。
長尺版においてはJ・キャサディがベースを弾いていますが、これはノエル・レディングが怒って
スタジオを出て行ってしまった為。当時の関係者の証言によると、スタジオはジミが連れてくる
人で溢れかえっていて、それはセッションではなくパーティーの様だったとの事です。増長した
ジミの振る舞いにノエルやプロデューサー チャス・チャンドラーの不満は増加していきました。
大勢の取り巻き連中をスタジオへ連れてきて、とりとめのない演奏の様な事をして過ごし、挙句が
一曲も仕上がらないといった日々が続き、とうとうチャスはジミのマネージメント・プロデュースを
降りてしまいます。本作はセッション色が強くなり、多額の費用・膨大な時間を費やしたアルバムと
説明されますが、実はかじ取り役であるチャスが途中で降板し、まとめ役がいなくなった結果、
無駄に時間及びスタジオ代がかさんだという側面もあるようです。

やがてエクスペリエンスは解散。ジミは軍隊時代に同僚だったビリー・コックス(b)、及び
バディ・マイルス(ds)とバンド・オブ・ジプシーズを結成し、70年3月に生前としては最後の
アルバムとなる同名の「Band Of Gypsys」を発表します。これには前回の記事で書きました
PPXレーベルとの契約消化の絡みもあったのですが詳しくは割愛。ウィキ等でご参照の程。

結構有名な話ですが、ジャズトランぺッター”帝王”マイルス・デイヴィスがジミの才能に惚れ込み、
ラブコールを送っていたと言われています。これには異説もあり、確かにジミの事を気に入っては
いた様だがマイルスはそれ程でもなかった、とする人もいます。真相は判りませんが事実と
されているのは以下の事です。①二人には交流があり少なくともマイルスの家で音合わせはしていた
②69年10月にジミがポール・マッカートニーに”今度マイルス達とアルバムを制作するのでベースを
担当してくれないか”という旨の電報を打っている(実現はせず)③この当時マイルスは常々共演した
ギタリストに対して「ジミの様に弾け」と語っていたこと④ジミの葬儀にマイルスが参列している事
(マイルスは本人がインタビューで語っているが、葬儀に出席するのが嫌いだったにも関わらず)。
60年代後半からマイルスは従来のジャズとは異なるエレクトリックジャズ・フュージョンへ傾倒
していきます。モードジャズ(詳しくはウィキ等で。ザックリと言えば素材の楽曲のコード進行等は
お構いなしに、最低限の約束〔音階〕さえ守れば自由にアドリブ〔即興演奏〕していいよ、みたいな)の
先駆者であるマイルスにしてみればジミのプレイは自分の望むそれに大変合致したプレイヤーだった
ようです。正規の音楽教育など受けていないジミは、先述した音合わせの際にマイルスがピアノで
弾いたコードが何であるのかは判らなかったが、その音の中でプレイすればいいんだね、と延々ソロを
弾き続けマイルスを満足させたと言われています。マイルスから見れば旧態依然としたジャズ界、つまり
エレクトリックはダメ、ロックのリズムなどもっての外、という凝り固まった考えに終始し世間から
見放されていくジャズより、音楽理論や技術的には劣っていても、エネルギッシュでグルーヴ感に
溢れたロックの方が、そのファッションなども含めて魅力的に感じたのでしょう。

ジミは譜面を殆ど読めなかったと言われているのは先述した通りですが、当時のロックミュージシャンには
特別珍しいことではありません。ブルースをルーツとするその音楽性から必然的にマイナーペンタトニック
スケールに基づくフレージングが主となり、少ない音・和音でもって、力を注ぐべきベクトルは如何に
その中に感情表現を込められるか、というものでした。それは理論など知らなくても出来、プロアマ問わず
多くのブルース及びロックミュージシャンがそうでした。
ジミもブルースがそのルーツであり、必然的にマイナーペンタが主になるのは同様なのですが、それだけでは
満足出来なかったのでしょう。インド音楽等の東洋的音階からスパニッシュ(フラメンコ)まで、独自に
そのフレージングに取り込んでいきました。譜面の読めなかったジミがこれらを取り入れる事が出来たのは、
それらを聴き取り又再現できる、ひとえにその耳の良さがあったからと言われています。この事から、
ジミヘンは一度も練習したことがないフレーズでも本番で弾けたとか、ひどいのになると初めてギターを
手にした日から既に弾けた、などというトンデモ話が昔は飛び交っていたものですが、絶対にそれはないと
断言出来ます。当たり前ながら練習してない事はいかに天才であっても出来ないのです。出来たように
聴こえても、それはそれまでの積み重ねが有機的に組み合わさって新しいフレーズの様に聴こえたのです。
アドリブで出てくるのはそれまで練習してきた、指・手足に染み込んだフレーズ達なのです。優れた
アドリブプレイヤーとはそのフレーズの”引き出し”を数多くストックし、そこから瞬時に思った(感じた)
フレーズを取り出せる様になる、という鍛錬をしてきた人達です。ジミの場合は音楽教育を受けなかった故に
かえって既存の音楽的常識に縛られず、自由にフレーズを作り上げることが出来、そうしてため込んだ
”引き出し”から天才的なセンスで時にオーソドックス、時に誰も考えつかない様な良い意味での横紙破り的な
シンプルかつ大胆なフレージングを展開する事が出来たギタリストであったのではないでしょうか。

だいぶ長くなってしましました。これでも書きたい事のほんの一部だけなのですが、あまり長いとただでさえ
少ない読者の方がさらに少なくなってしまうので 。゜ (´;ω;`)゜。… 今回はこの位で・・・
勿論次回はウッドストックへの出演から、その突然すぎる死までについて書くつもりです。それではまた。

 

 

#45 Axis: Bold As Love

前作からわずか半年あまりでリリースされたジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンスの
2ndアルバム「Axis: Bold As Love」。一般的な評価としては衝撃的なデビュー作、
重厚な2枚組である3rdより、良く言えばメロディック・親しみやすいと言われ、
悪く言えばインパクトに欠ける・軽い・緩いとされています。評価はそれぞれですが、
着目すべきは先述の通り短期間にて、しかもレコーディングに専念出来ていた訳でもなく
(むしろモンタレー以降あちこち引っ張りだことなりました)、それでありながら
これだけの完成度を誇るアルバムを完成させた事でしょう。
時間的余裕が無かったからと言って、決しておざなりな制作となった訳ではなく、むしろ
気が付かないところで手が掛けられていたりします。前作同様に、当時としては先進的な
レコーディングテクニックが用いられており、事実、本作の収録曲は一部を除いて、
コンサートで披露されることがまれだったという事実があります。その真意は分かりませんが、
ライブでは再現が難しいという理由があったからではないかとの見方もあります。
その制作に関しては、プロデューサー チャス・チャンドラーや、エンジニア エディ・クレイマー
の力が大きかったようです。また、多忙の中で作られたことにより、かえってジミのナチュラルな
面が引き出された、と見る向きもあります。そのギタープレイはもとより、ジミのシンガー及び
ソングライターとしての優れた側面が結果的に前面に押し出された、という評価もなされます。

 

 

 


オープニングナンバー「EXP(放送局EXP)」は架空の放送局という設定での、フィードバック等の
サウンドエフェクトやステレオにおける左右の定位を変化させる”パンニング”などの当時としては
斬新なレコーディングテクニックを駆使したサイケデリックナンバー。それに続く「Up from the Skies」
はポップでサイケな曲。ジミが有名にしたといっても過言ではないエフェクター”ワウ・ペダル”が
実に効果的に使われています。冒頭の2曲と、映画「イージーライダー」でも使用されたA面ラストの
「If 6 Was 9」を聴く限りは、ジャケットデザイン通りの摩訶不思議でサイケデリックなサウンドですが、
これら以外の楽曲は”意外と”普通です(決して凡庸という意味ではなく)。

本作で最も知名度がある楽曲は言うまでもなく「Little Wing」でしょう。正統派R&B風バラードである
本曲は、偉大なる先達たちの影響を受けて作られたと言われますが、特にカーティス・メイフィールドを
意識して作られたのではないかとされています。コメントでもカーティスへの尊敬の念が語られており、
実際ジミは63年にカーティス・メイフィールド&ザ・インプレッションズの前座を務めています。
正統派の楽曲でありながら、サウンド面では非常に画期的なトライアルがなされており、今では当たり前で
ある、ストラトキャスターのハーフトーン(2つのピックアップのミックス)が用いられています。
当時のストラトにはピックアップセレクターにハーフトーンの位置など無く(そんな使い方は想定して
いなかった)、ガムテープでフロントとセンターの中間に固定してレコーディングに臨んだとのことです。
また後半のソロにおける独特の”ゆらぎ”の様なサウンドは、ハモンドオルガンで有名なレスリースピーカー
(回転スピーカー)によるもの。これはエディ・クレイマーのアイデアと言われています。余談ですが、
私昔はレスリースピーカーとはスピーカーユニット(コーン紙の部分)が鳴門の渦潮みたいにぐるぐる回るのだと思ってました。実際はキャビネット・ボックス内にローターがあって、それが回転してあの様な効果を
もたらすものだと知ったのはだいぶ後の大人になってからでした・・・バカですね。(´・ω・`)
またタイトル曲においても同様の試みが、こちらは電気的にレスリー同様の音程・音量・音質のゆらぎを
作り出す、当時としては最先端のエフェクターであったフェイザーが使用されています。後半のソロで
用いられていますが、ギターでばかり語られていますけどドラムにもかかっています。70年代に入ると
ボンゾやカーマイン・アピスなどがドラムソロなどでこの様なサウンドエフェクトを使用しましたが、
私が知る限りドラムにフェイザー・フランジャー等のエフェクトをかけたのは本曲が初めてでは
ないかと思います。もしもこれより前に使っていたのを知っている、という方は教えてください。

「Wait Until Tomorrow」は堪らないほどのシャープなカッティングが印象的な曲。型破りな
フレージングやサウンドエフェクトなどで語られる事の多いジミですが、この様な基本的な
テクニックからして一流です。それもそのはず、アメリカでの下積み時代にはアイズレー・ブラザーズ
などのバックで嫌というほどこうしたリズムギターを演ってきたのですから。本人はそれが退屈で、
つい派手なソロを取ってしまって、バンマスから怒られたりしたそうですが・・・
「Castles Made of Sand(砂のお城)」は「The Wind Cries Mary」同様の、
ジミとしては
ナチュラルでナイーヴなナンバー。テープの逆回転によるエフェクトが必要だったかどうかは
人によって意見が分かれるところですが、この当時はそういう時代だったのでしょう。

本作も全英5位・全米3位の大ヒット、ますます多忙を極めます。68年初頭からヨーロッパで公演、
2月にはアメリカへ舞い戻り、カルフォルニアから始まるアメリカツアーとなります。5月には
マイアミ・ポップ・フェスティバルへ出演。後年になって当フェスの演奏は音源化されます。また、
あまり知られていない事かもしれませんが、この殺人的スケジュールの合間を縫って、ジミは
エクスペリエンスバンドとは別の仕事もこなしています。実はアメリカ下積み時代の後期に、
ジミはPPXレーベルという会社と3年の契約をしてしまいます。
仕事もそれ程なかったので
軽い気持ちでサインしてしまったようなのですが、これが後にジミへの負担の一つとなります。
アメリカツアー中の当該レコーディングもその契約を消化するためでした。それらの音源は
様々な形でジミの死後に、次から次へと未発表音源として出回る事になるのは周知の通りです。
またこの頃からジミの内面に変化が生じます。エキセントリックなステージパフォーマンスなどより、
自分のルーツであるブルースなどをじっくり聴かせるライヴにしたいと思うようになっていった様なの
ですが、聴衆が求めるのは相変わらずモンタレーのようなギターの破壊や派手なステージアクトでした。

また仲間内においても不穏な空気が流れ始めます。有名なところではベースのノエル・レディングとの
確執ですが、育ての親であるチャスとの関係もおかしくなっていったそうです。簡単に言うと
スーパースターになっていったジミが増長してチャスのいう事を聞かなくなっていったそうです。
このような不協和音が流れる中、バンドは次作の制作へと取り掛かりますがその辺りはまた次回にて。