#44 Are You Experienced

#37のジャニス・ジョプリン編でも書きましたが、ジャニス、そしてジミ・ヘンドリックスを
一夜にしてスターダムへ押し上げたモンタレー・ポップ・フェスティバル。そこでのジミの
ステージアクトがどれ程衝撃的であったかは、余りにも有名で、映像化もされていますので
ここで改めて詳しくは述べませんが、昔のロックにあまり詳しくない方もおられるかと
思いますので簡単にザックリと。歯で弾く、背中で弾く、ギターを男性器に見立てて扱う、
楽器を壊す、そして伝説となった”ギターを燃やす”。これには裏話があります。イギリスでは
ピート・タウンゼント率いるフーもステージで楽器を壊す事を売りにしていたのですが、
モンタレーでは、ジミもフーも共に先にやったもの勝ちと考えていたらしく、結果的には
フーのステージが先となり(コイントスで決めたらしい)、思惑通りフーはその滅茶苦茶な
ステージで聴衆を沸かせました。「どうだジミ、後からやっても俺たちほどのインパクトは
ないぜ」と、ほくそ笑んでいたところ、ジミはステージの最後であろうことかギターに
火をつけてしまいました(その後”ちゃんと”壊します)。
( ´゚д゚)´゚д゚)´゚д゚)´゚д゚)・・・フーのメンバー達はこんな感じだったことでしょう。

 

 

 


モンタレーの前月67年5月に英で先駆けてリリースされた1stアルバム「Are You Experienced」。
全米でも8月に発売され、モンタレーでのパフォーマンスも相まって、全英2位・全米5位を記録する
大ヒットとなります。ちなみに英での1位を阻んだのはビートルズ「サージェント・ペパーズ」。
アルバムリリースとモンタレーの出演が絶妙のタイミングだったと言えます。
本作にジミのエッセンスの全てが詰め込まれているといっても過言ではないと私は思っています。
「パープル・ヘイズ」と共に♯9thコード(所謂”ジミヘンコード”)を用いた代表曲「Foxy Lady」。
ブルージーなロックナンバー「Can You See Me」「I Don’t Live Today」。サイケデリックな
「May This Be Love」「Third Stone from the Sun」及びタイトル曲。ジミとしては珍しい
アップテンポのストレートなロックチューン「Fire」。本作ではポップで親しみやすい「Remember」。
そして正統派のブルース「Red House」。只のサイケ・ヒッピームーヴメントに乗っただけの
バンドではありませんでした。ジミは勿論、ノエルとミッチも含めて確固とした技術と音楽性に
裏付けられたものでした。
ジミの音楽の根っこにあったのがブルースであることに間違いはありません。イギリスではこの時期、
ジミやクラプトンの活躍によってブルースブームが巻き起こります。しかしジミの音楽性は先述した
通りブルースだけに収まるものではありませんでした。更にジミはそのギターテクニック、機材の扱い方、
ステージアクト、ファッション、それらすべてにおいて型破りだったのです。ちなみに先述した所謂
”ジミヘンコード”(♯9thコード)について、ジミが作り出したコード、と書かれているものが
時折見受けられますが、さすがにそれはなく、ジャズやボサノヴァでは昔から使われていました。
ただロックミュージックにおいて、ジミの様にこのコードを前面に押し出し、楽曲を決定付けるような
使い方をしたのはジミが初めてと言えるでしょう。非常にテンション感、言い換えれば不安定感を
醸し出す独特の響きです。ギターで弾いた事がある方は分かるでしょうが最初は小指が難しいです…

ジミの革新性をいっぺんに述べる事は難しいので、今後何回かに渡って書いていきたいと思います。
クラプトン編でも同様の事を書きましたが、当時のロックギタリスト達の中でジミとクラプトンが
最も正確無比かつ速く複雑に演奏出来るプレイヤー、という訳ではありませんでした。勿論かなり
ハイレベルなギタリストであったことは間違いありませんが。では何故ジミはここまで伝説的な
ギタリストとして現在まで語り継がれているのでしょうか。技術的な部分で取りあえず一つだけ。
ジミはピッキングに特徴があり(黒人ギタリストに多くみられるタイプ)、教則本などでは
親指は弦と並行、人差し指は弦に垂直にして(第一関節より先は曲げますが)、上から見れば
十字を形作るように持つのが良い持ち方とされています。これに対してジミは”十字”は作らず
親指と人差し指の角度は45度位で、非常に軽く、リラックスした様に持ち、さらに弦に対して
ピックの先が上を向くように構えるスタイルでした(教科書的には弦と並行ないしは下向き)。
このスタイルの利点はアタックの強いピッキングがしやすいと言われます。勿論デメリットも
ありますが、ハリがあり、かつ太い音が出せます。ジミと言えば、当時としてはエフェクターを
多用して変化に富んだ音色を作り出していた事が良く語られますが、根本的な部分からして
良い音色を作り出す為の技術を有していたのです。デビューシングル「ヘイ・ジョー」は、
クリーントーンで演奏されておりその豊かなトーンが味わえる曲です。決してそれ程太い弦を
張っていた訳ではない様なのですが、ストラトキャスターらしい抜けの良いクリアな音色で
ありながら、尚且つ芯のしっかりとしたインパクトのあるトーンです。ご一聴ください。

シンガーは声の良し悪しが当然語られます(この場合は一般的な”声がキレイ”ということでは
なく歌うことにおいての良し悪し。ダミ声でも良いのです、ジェームス・ブラウンの様に)。
楽器も同様です。音色が悪ければどんなにテクニックがあってもダメなのです。その音色は
機材やセッティングだけではなく、当然の事ながら人間の口・指・手足から生み出される
ものなのです。ともすると忘れがちな事ですが、プレイヤーはこれを肝に銘じるべきです。

モンタレーでその話題をかっさらい、デビューアルバムも大ヒットと、成功を収めたジミ達は
活動の拠点をアメリカに移します。ここから破竹の勢いでの活躍が始まるのですが、
その辺りはまた次回にて。

#43 Purple Haze

#31から続けてきました、60年代後半~70年頃にかけてのロック史において、エポックメイキングと
なった音楽をご紹介してきた本テーマを締めくくるのは勿論この人、ジミ・ヘンドリックスです
(でも、どうせ、こんなテーマ誰も覚えてないですよね…覚え…て…ない……かな………(/д\)゜o。)

42年シアトル生まれ。母親がインディアン、父親の祖母もインディアンであって、
この事が彼の音楽性(歌詞を含め)に少なからず影響を与えたと言われます。
軍隊を除隊した後、本格的な音楽活動を始めます。リトル・リチャードのバンドに
参加していた事は有名ですが、キング・カーティスのバンドにも一時身を置いていました。
ここでジミはコーネル・デュプリーと短期間ではありますが活動を共にします。
ロック史を塗り替えるようなギタースタイルを確立したジミと、派手さは決してないがいぶし銀の様な
職人技ともいえるデュプリー。プレイスタイルもおよそ全く違うこの二人の名ギタリストに
接点があったのは意外ですが、生まれ年も同じ彼らはすぐに仲良くなり、ジミはデュプリーから
インプロビゼーション(即興演奏)を学んだと言われています。しかしジミのあまりの
”自由奔放さ”からカーティスは数ヶ月でクビにしてしまいます・・・(´Д`)。
Music web page “Cross Your Heart”さんのサイトにて、その辺りについて詳しく
書かれています(
)。特に①のページにて、ウィルソン・ピケット、
パーシー・スレッジといった当時のR&B・ソウルにおける大物シンガーのバックにて
演奏を務めている大変貴重な写真が掲載されています。興味のある方は是非一読を。

業界内ではジミのプレイは噂になる程だった様なのですが、如何せん黒人のセッションギタリスト
という立場では、R&B畑で如何に活躍しても一般的知名度には限度があります。黒人シンガーで
あってもビルボードのR&Bチャートではなく、ポップスチャートの上位に入るような人達が
いなかった訳ではありません。スティーヴィー・ワンダー、シュープリームス、ロネッツなどは
R&B・ソウルのフィールドにいながら白人層にも受け入れられました。しかし、
ジミが目指していた音楽性はおよそそれらとはかけ離れたものでした(ちなみにスティーヴィーも
60年代の自身の音楽は必ずしも望むものとイコールではありませんでした)。それどころか
既存のR&B等のブラックミュージックにもとても収まり切るものでもなかったのです。
この当時、アメリカで活動している限りはその地位に大きな変化はなかったと思われます。

そんな折、ジミの運命を変える人物との出会いがありました。全米ツアー中のアニマルズの
メンバー チャス・チャンドラーです。ジミの噂を事前に仕入れていたチャスは、
当時ジミがリーダーを務めていたバンドを観に行きます。そこで大変な衝撃を受けたチャスは
ジミへ熱心に渡英を勧めます。丁度自身のミュージシャンとしての限界を感じていたチャスは、
音楽界の裏方として生きていこうと思っていた矢先でした。当然ジミは二つ返事で了承した
訳ではありませんでした。イギリスで果たして自分の音楽が受け入れられるのかどうか、始めは
疑心暗鬼だったとの事です。今の様に海の向こうにおける音楽事情でも詳しく知る事が出来る
様な時代では当然ありません。不安がるジミでしたが、アメリカにいたジミでもその名を知る
在英のブルースギタリストがいました。言わずと知れたエリック・クラプトンです。
ヤードバーズやブルース・ブレーカーズにて既に知名度のあったクラプトンの事はジミも
一目置いていたようです。ジミはチャスにイギリスへ行ったらクラプトンに会わせてくれるか?
と尋ねます。チャスは「君のプレイを聴いたら彼の方から会いに来るよ」と言ったそうです。

チャスの目に狂いはありませんでした。ノエル・レディング(b)とミッチ・ミッチェル(ds)を
そのメンバーとし、ジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンスを結成させます。渡英した翌月の
66年10月からすぐにも活動を開始。デビューシングル「Hey Joe」は全英6位の大ヒット。
この時期、ロンドン中のミュージシャン達がこぞってジミを観に来ていたと言っても過言では
ないほどにそのプレイは衝撃を与えたそうです。以前ピート・タウンゼントがある映像の中で、
ジミについて語ったインタビューにおいて、
初めてジミの演奏を観たピートはそのショックの
あまりすぐにクラプトンへ電話をして、
「とんでもない奴が現れた、俺たちギタリストは
全員失業する。奴は宇宙人だ。」と言ったそうです。
「Hey Joe」は実はジミのオリジナルではありません。最初にレコーディングしたのは
LeavesというL.A.のバンドです。YouTubeで聴けますので興味のある方は。
所謂、Aメロ・Bメロ・サビといった一般的な楽曲の展開はせず、4小節の繰り返しという
単純な構成。コードも5つだけ。Leavesのヴァージョンと比べると一聴瞭然ですが、
ストレートなロックフィールに対し、ジミ版は妖しげ(サイケ)で、かつヘヴィーな
仕上がりとなっています。ビートが違うのと、ジミは単調なコード進行である原曲に
テンション感を与える事によって(本曲においては9th〔ナインス、9度の音〕の
混ぜ具合による)、当時としてはワンアンドオンリーな楽曲へ仕立て上げています。

ジミは自分の歌に全く自信をもっていなかったそうです。チャスはそのシンガーとしての
実力にも早くから気付き、ジミを説き伏せヴォーカルを取らせたそうです。
白人2人を従えて黒人のギタリスト&シンガーというバンド。アメリカでは
まず成功しなかった、というよりデビューすら実現出来なかったかもしれません。
イギリスにも人種差別が全くないわけではなかったでしょうが、他の事には非常に
保守的といわれる英国ですが、こと音楽に関しては ”白いのも黒いのも関係ねえ!
音楽が良ければイイんだよ!” と、特にアンテナの鋭い若年層に受け入れられました。

67年3月(米では6月)、2ndシングル「Purple Haze」をリリース。全英3位を記録。
全米では65位とスマッシュヒットと呼べる程度でしたが、徐々にアメリカでの、
つまり世界へ向けての成功の足掛かりを固めつつありました。そしてあの伝説的ステージと
なるモンタレー・ポップ・フェスティバルへの出演となる訳ですがその辺りはまた次回にて。

#42 The Live Adventures of Mike Bloomfield and Al Kooper

アルバム「スーパー・セッション」の続編・ライヴ版として企画されたのが本作
「The Live Adventures of Mike Bloomfield and Al Kooper(フィルモアの奇蹟)」。
スティーヴン・スティルスは参加出来ませんでしたので、このフィルモアウェストにおける
3日間公演はマイク・ブルームフィールドのギターの独壇場となる、予定でした…
(3日目にダウンしたのは前々回の記事で触れた通り)。その代役として駆り出された人達、
C面2曲目にカルロス・サンタナ、3曲目にエルヴィン・ビショップの演奏が収録され、
また本作に収録こそされませんでしたがスティーヴ・ミラーもそのステージに立ったそうです。

 

 

 


アル・クーパーの力量不足が語られる事の多い本作ですが、私はそうは思いません。
超絶テクニックのキーボーディストとは言いませんが、それが本作のクオリティを下げている
などということは決してありません。クーパーはプレイヤーというよりはプロデューサーの
スタンスで作品を創る人だったようで、「スーパー・セッション」「フィルモアの奇蹟」が
共に成功したのもその辺りが大きな要因の一つだったように思われます。

本作の魅力はやはり全編を通して(勿論先述した不在時の曲を除き)ブルームフィールドの
素晴らしいギタープレイにあります。そのフレーズ・音色は神がかっていると言えるほど。
この時期がプレイヤーとしてのピークであったことは間違いありません。
クラプトンが彼のプレイに嫉妬した程だというのが頷けます。同時期のクラプトンのプレイ、
つまりクリーム時代におけるそれは、良く言えばアグレッシヴ、悪く言えばブルームフィールドと
比較して”とげとげしい”部分があるのは否めなかった様な気がします。ブルースにおける
”色気”や”艶っぽさ”というものに関しては、ブルームフィールドに軍配が上がったとしか
言いようがありません。クリームにはバトルの様なインタープレイが 求められていた、
と言う面もありますが、クラプトン自身、ブルースフィーリングにおいては
ブルームフィールドには敵わない、という自覚があったのでしょう。
やがてクラプトンもそのバトルの様なインタープレイに嫌気が差し、
アメリカへその活動の拠点を移したことは以前のクラプトン編で述べた通りです。

本作の収録(公演)が68年9月、同年12月にはフィルモアイーストでもコンサート及び
収録が行われました。しかし当時は未発売に終わり、テープも長い間行方不明と
なっていましたが、後年になって再発見され、03年「Fillmore East: The Lost Concert
Tapes 12/13/68(フィルモア・イーストの奇蹟)」としてリリースされました。
ちなみに本公演ではまだ無名のジョニー・ウィンターがブルームフィールドの紹介によって
ゲスト参加する機会を得て、これを機に大手レコード会社と契約し、
その後スターダムへとのし上がっていきます。
ここではそのナンバーをご紹介。「It’s My Own Fault」。このチャンスをものにしようとする
ウィンターの血気溢れる歌とギターは素晴らしく、レコード会社間にて争奪戦が行われた
というもの頷けます。ブルームフィールドも彼としては珍しく、瞬間的にはですが非常に
スピーディかつ攻撃的なプレイが垣間見えます。やはりエネルギッシュなウィンターに
触発されたのでしょうか。しかし根本的にはブルームフィールドらしいプレイです。
一流のプレイヤー皆に言える事ですが、その時々のシチュエーションに沿いながらも自身の
オリジナリティは決して失わないというスタイルは見事です。

サンタナもジョニー・ウィンターも(参加した経緯は異なりますが)、ブルームフィールドと
関わったことにより、その後大成功を収めたのと相反して、ブルームフィールド自身は
この頃を境にその活動に陰りが出てきたというのも皮肉な話です。もっともそれは彼の
薬物依存による側面が大きいので自業自得と言えばそれまでなのですが・・・

ブルームフィールドという人は決してフロントマン向きのプレイヤーではなく、ましてや
エンターテインメント性に溢れた人とはとても言えない、まさしく”ギター職人”という
表現がピッタリな人でした。どちらかと言えば静かに(演奏が静かという意味ではなく、
プレスなどにあれこれ取材されたり、矢面に立たされないという意味で)ギターを弾いて
いたい、というタイプだったようなのですが、60年代の一連の輝かしいプレイがそれを
許さず、周りは当然の様にあのすばらしいブルースギターを求め、勿論ビジネスとしての
成功も望むわけですが、その周囲の期待や本人の葛藤などからますます薬へ逃避した様です。
ブルームフィールドの人柄を表すエピソードを一つ。デビュー当初のサンタナは非常に
”尖がっていた”そうで、「あんたをいつかつぶしてやる!」と言ってしまったそうです。
するとブルームフィールドは、決して”大人の対応”などではなく、ニッコリ笑って、
「君なら出来るかも。がんばってくれよ」と言ったそうです。サンタナはそれで虚勢を
張っていた自分がアホらしくなったとのこと。当然サンタナは憧れ半分、その才能への
嫉妬半分、といったところから出た言葉だったのは勿論の事、ブルームフィールドも
若きサンタナの才能を認めて本心から出た言葉だったのでしょう。

81年2月、マイク・ブルームフィールドはヘロインの過剰摂取により亡くなります。
駐車場で車内にて意識不明の状態で発見され、そのまま息を引き取ったとの事。享年37歳。
70年代は様々な事情から(本人のドラッグ依存を含め)表舞台に出ることも少なくなり、
作品のリリースもマイナーレーベルへ移行するなど、60年代の輝かしい活動と比べると
寂しい晩年となってしまった感は否めません。
最後にご紹介するのは「If You Love These Blues,Play’em as You Please」(76年)から。
実はこれ、米のギター専門誌による企画ものの”教則盤”。短いタイトル曲の上で本人が”このような
機会を持てて嬉しい”という旨を述べ、様々なスタイルのブルースを演奏していき、曲間では
その解説をしているようです。英語が不得意なのであまり理解できないのが残念ですが、
BBキング、ジミー・ロジャース、ジョン・リー・フッカーといった固有名詞や、「Eフラット」
「フィンガーピッキング」「ギターとピアノのデュオ」など、単語の端々は聴き取ることは出来ます。
そのエンディングナンバー「THE ALTAR SONG」。レイドバックした演奏に乗せて
ブルームフィールドが、おそらくは彼が敬愛するギタリスト等の名を連呼していくという曲。
私も全て聴き取れる訳ではありませんが、レイ・チャールズの名も出てくるので、
ギタリストのみならず、彼が尊敬する、あるいは影響を受けたミュージシャン達を
可能な限り列挙しているのではないかと思われます。当作品は本人も後年のインタビューにて
お気に入りの一枚と語っているアルバムです。
本曲をご紹介してマイク・ブルームフィールド編後編を締めたいと思います。なお本動画において、
「THE ALTAR SONG」自体は2:28辺りまで。残りの時間はUP主の方が編集した音源と
映像から成っています。ブルームフィールドへの思いが伝わる動画となっており少しほっこりします。

#41 Super Session

前回のサンタナ編で少し触れましたが、アル・クーパーとマイク・ブルームフィールドを中心とした
ライヴ盤「The Live Adventure of Mike Bloomfield and Al Kooper(フィルモアの奇蹟)」の
発端となったのが、68年5月(リリースは7月)に行われた、その名の通りセッション・ブームの
走りとなった今回のテーマ「Super Session(スーパー・セッション)」です。
多分どなたも覚えておられないと思いますが…・(ノД`;)・゚・、
#31の記事からロック史において
エポックメイキングとなった、それらの影響を及ぼしたミュージシャン達を取り上げてきました。
今回はそのテーマに沿っているかどうかは微妙ですが、その音楽の素晴らしさに免じてご容赦を。

マイク・ブルームフィールドは43年シカゴ生まれ。シカゴブルースの本場で育ったという事が
彼の音楽性に大きく寄与しているのは言うまでもない事です。白人でありながら黒人の
ブルースマンとジャムセッションを重ねることで、その技術・感性ともに磨かれて行きました。
ポール・バターフィールド・バンドへの加入が彼のキャリアの始まりであり、その直後における
ボブ・ディランの名盤「追憶のハイウェイ61」(65年)のレコーディングへの参加、
及びライブにてバックバンドを務めたことが彼の名を世へ知らしめるきっかけとなります。
バターフィールド・バンド、エレクトリック・フラッグ、モビー・グレープなどで活動し、
68年、先述したディランのバックバンドを共に務めたアル・クーパーから
セッションアルバム制作の話を持ち掛けられます。
これこそがブルースロックの金字塔となる「スーパー・セッション」の誕生へと繋がります。

 

 

 


オープニングナンバー「Albert’s Shuffle」の出だしのフレーズでまずノックアウトされます。
私が知る得る限り白人ミュージシャンによる、これ程までにブルースフィーリングに
満ち溢れた名演は本曲を含めごくわずかしかありません。ブルームフィールドは凄く
速く弾いたりするプレイスタイルではありませんが(多分やれば出来るのだけれど
あえてやらなかったのではないかと勝手に思っています)、その”歌わせ方”は
天下一品です。以前エリック・クラプトン編の最後(#12)でも少し触れましたが、
イギリスのクラプトン、アメリカのブルームフィールドと、天才的白人ブルース
ギタリストとして良く比較されたこの二人。私見ですが、ブルースフィーリングに
関してはブルームフィールドの方が上だったのではないかと思っています。
これがシカゴで生まれ育ったという事がイギリス生まれのクラプトンより
アドバンテージとして働いたのか、はたまたそんな事は関係ない天賦の才であるのか、
考察すると興味が尽きません。答えは永遠に出ないでしょうが・・・

フィーリングと言うと曖昧なのでもう少し具体的に言えば、
○所謂”コブシ”の効かせ方
(ビブラートやチョーキングのかけ方)
○ピッキングによるヴォリュームのコントロールは
勿論の事、そのニュアンス
(ピックを弦にどの様に当てるのか等)
○左手のフィンガリング
(滑らかに運指するのか、あえてスタッカート気味に
ぶつ切り的な音にするのか、等々)

”フィーリング”、言い換えればギター演奏による”歌心”というものを具体的に列挙すれば
上の様な要素ではないでしょうか、勿論これ以外のテクニックもありますし、あとは何より
プレイヤーの”ハート”と”ソウル”であることは言わずもがなです。
ちなみに念の為に記しておきますと、ブルームフィールドの演奏はA面のみ、
レコーディング2日目は参加せず(バックレたそうです…)、急遽スティーヴン・スティルスが
代役として演奏し、それらはB面に収録される事となりました。勿論スティルスの
プレイも素晴らしいものです。
「フィルモアの奇蹟」3日目にダウンしてしまい
(不眠症による)、サンタナが
参加することになったのは前回の記事で触れましたが、
ブルームフィールドという人は
メンタルが弱い人だったらしく、それがドラッグへの
逃避の原因の一つだったようです。
この辺りはクラプトンと相通じるものがあります。

今回はマイク・ブルームフィールド編前編として、2曲をご紹介して締めたいと思います。
次回は勿論「フィルモアの奇蹟」及びそれ以降についてです。
コロムビアレコードのオーディションテープより、後年になってリリースされた音源から
「 I’m A Country Boy」。若干二十歳のブルームフィールドによる演奏です。
そのブルースフィーリングは既に卓越されたものです。

https://youtu.be/O0FbBAiHfBU
もう一曲は先述の「Albert’s Shuffle」。本作の、というよりブルームフィールドの
キャリアにおけるベストプレイだと私は思っています。

#40 Abraxas

69年8月、N.Y.州のベセルで催されたウッドストック・フェスティバルはロック史に残る
大規模な野外コンサートとして、名前くらいは耳にしたことがある方も多いのでは。
結果的に約40万人の聴衆が集い、「ラブ&ピース」「音楽で社会を変えられる」と言う様な
理想とも幻想とも言えるような考えの下に当時の”ヒッピー”達が詰めかけたそうです。
いささか美化され過ぎて語られている面がかなりあるとは思うのですが、
日本においても
その時代に青春時代を過ごした現在60~70代の方たちには、遠い外国での事とは言えども、
時代を象徴する出来事として印象に残っているのではないでしょうか。
ロック・フォーク界から多数の大物ミュージシャンが参加し、悪天候やトラブルが起こる中、
後世にて語り草となるプレイも繰り広げられました。
カルロス・サンタナ率いるバンド”サンタナ”もウッドストックでのステージが注目され、
その後の大躍進へと繋がりました。

ラテンロックと言われるジャンルを切り開いたのはサンタナによってでしょう。勿論
それ以前からラテン調の楽曲はロックにおいてもありました。例えばビートルズも実はかなり
ラテン好きで、「アイ・フィール・ファイン」はアフロキューバン、「Mr.ムーンライト」
「ティル・ゼア・ウォズ・ユー」等は
ルンバのリズム、またレコードデビュー前はステージで
「ベサメ・ムーチョ」などを好んで
演奏していたそうです。
しかしサンタナほど情熱的・躍動的なラテンフィーリングをロックに取り入れたミュージシャンは
いませんでした。そしてそのフィーリング・リズムに、サンタナの情感あふれる、所謂”泣きのギター”は
見事にマッチしました。メキシコ出身という事がその音楽性に寄与しているのは言わずもがなです。

 

 

 


ウッドストックと同月発売の1stアルバム「Santana」は、同コンサートにおける
その素晴らしいプレイも相まって全米4位の大ヒットとなりました。
翌年リリースの2ndアルバム「Abraxas(天の守護神)」にて全米No.1を獲得。
シングルカットされた代表曲となる「ブラック・マジック・ウーマン」も大ヒット。
ちなみに豆知識的ですが、本曲はサンタナのオリジナルではなく、イギリスのロックバンド
フリートウッド・マックのカヴァー。70年代中期以降は「Rumours(噂)」などの
ポップ路線でのビッグセールスが良く知られるところですが、実は結成当初は
ブリティッシュブルースロックにおける急先鋒の一員でした。
続く3rdアルバム「Santana III」も全米No.1。本作では、後にジャーニーを結成する
事となるニール・ショーンがサンタナに見い出されて参加しています(若干17歳)。
4thアルバム「Caravanserai(キャラバンサライ)」はそれまでのラテンロック色は
やや影を潜め、ジャズフュージョン色が強く打ち出されていますが、そのプレイの
素晴らしさには全く変わりはありません。

時系列は前後しますが、ウッドストックでのプレイがあまりにも有名になりすぎて意外に
知られていない事ですが、実はカルロス・サンタナのレコードデビューはそれよりも前、
名盤「フィルモアの奇蹟」においてなのです。
アル・クーパー、マイク・ブルームフィールドを
中心として、68年9月にフィルモアウェストにて行われたコンサートを収録した作品。
3日間公演だった最終日にブルームフィールドが体調を崩し、急遽サンタナを含むギタリスト達が
参加しました。サンタナのプレイはC面2曲目「Sonny Boy Williamson」にて聴けます。
ラテンミュージック同様にブルースにも傾倒していたサンタナの非常にブルージーなプレイが
堪能できる、その後のサンタナバンドとはまた一味違ったサンタナを聴くことが出来ます。

80年代~90年代中期において、70年代ほどのセールスには恵まれない時代が続きましたが、
99年「Supernatural(スーパーナチュラル)」が特大のセールスを記録します。グラミー賞の
受賞など、見事な”サンタナ復活”を遂げました。その後もコンスタントに活動を続け、
今日に至ります。御年70歳。まだまだ現役バリバリなのは素晴らしい事です。

数多の素晴らしいプレイがありすぎて、どれか一曲などとは選べないところですが、あえて
チョイスするならば、本当のホントにベタですがこの曲です。「Europa(哀愁のヨーロッパ)」。
本曲においてはYAMAHA-SGが使用されています。74年よりサンタナは本器を使い始め、
ポール・リード・スミスに取って代わられるまでサンタナの愛器でした。
日本が世界に誇る名器です、その素晴らしい音色も是非ご堪能ください。

#39 Pearl

70年10月4日、滞在先のL.A.のホテルにてジャニス・ジョプリンは亡くなりました。享年27歳。
握られていた金銭や、死因がドラッグ、または睡眠薬の過剰摂取のいずれなのか、はっきりと
しなかったことから様々な憶測を呼び、ゴシップ誌に至っては暗殺説などのトンデモ話まで
飛び交い、殊更ミステリアス、というか興味本位に売文家達によって書き立てられました。
これに関しては、ジャニスの音楽性に関係のない事柄なので割愛します。
興味のある方はネット上で幾らでも転がっていますのでそちらをどうぞ。

亡くなる前月からレコーディングが開始され、結果的に遺作となった「Pearl(パール)」。
翌年1月にリリースされ全米9週連続1位という大ヒットを記録し、さらにシングルカットされた
「Me and Bobby McGee(ミー・アンド・ボビー・マギー)」もNo.1ヒットとなりました。
そのあまりにも早すぎる突然の死が話題を呼び、ビッグセールスの一因になったことは決して
否定は出来ませんが、やはり本作の内容の素晴らしさが何よりも大きいのは間違いありません。
生前のオリジナルアルバム(ビッグブラザー含めて)は4枚しかないジャニスですが、本作を
最高傑作とするのは衆目の一致するところです。同年6月より活動を開始した彼女の新バンド
”フル・ティルト・ブギー”のツボを押さえた素晴らしい演奏、オリジナルないしカヴァー楽曲の
センス、ドアーズを世に売り出したことで有名な敏腕プロデューサー ポール・A・ロスチャイルドが
プロデュースに付いた事、そして何よりジャニスの素晴らしい歌、全てが奇跡的とも言えるような
まとまりを見せた結晶としてのアルバムです。
それまでバックバンドに恵まれない、と悩んでいたジャニスが(これにはジャニスの側にも問題は
あったようですが)、”ようやく理想のバンドと巡り合えた!”、と喜々として周囲に語っていたと
伝えられているのがこのフル・ティルト・ブギー・バンド。確かなテクニックと音楽センスに基づき、
バッキングに徹するところはシンプルに徹し、場面場面のソリなどではジャニスの歌を大いに盛り上げ、
間奏のソロなどでも決してテクニックのひけらかしにならない、楽曲に沿った音楽的なプレイを
聴かせるといった、まさしく”歌モノ”のバックバンドとしてお手本のようなバンドでした。

 

 

 


オープニング曲「Move Over(ジャニスの祈り)」、先述のシングルヒットとなった
「ミー・アンド・ボビー・マギー」、その死によって歌入れが叶わず、結果的にインストゥルメンタル
ナンバーとなってしまった「Buried Alive In The Blues(生きながらブルースに葬られ)」、
それとは対照的に無伴奏による歌のみを収録した「Mercedes Benz(ベンツが欲しい)」は
あえて伴奏をかぶせずに、そのまま歌のみのテイクを採用したロスチャイルドの英断が称賛されます。

ここからは全く個人的な好みで本作をご紹介します。ジャニスの歌唱において私が白眉と思う
甲乙付けられない二曲がありますので、この際ですからどちらも取り上げます。

「Cry Baby(クライ・ベイビー)」。他の女の下へ行ってしまった男が、結局その浮気相手に
フラれ、自分のところへ戻ってきた時にかけた言葉。女性の皆さんからすると、
「ざけんじゃないわよ!ゴルァ!ヽJ(*`Д´)しノ」と言いたくなるような内容でしょう。
ごもっとも。ですからその内容についてはこれ以上言及しません… (((((゚Å゚;)))))
もう一曲は、

「A Woman Left Lonely」。ジャニスは勿論リズミックな曲も素晴らしいですが、その真価が
発揮されるのは絶唱型のバラードではないかと私は思っています。この両曲は本作、というより
全キャリアを通して、その歌唱においてベストトラックではないでしょうか。

世の中にはジャニスの歌を受け付けない人達も当然います。重い・疲れる・金切り声で叫ぶように
歌うそのスタイルがダメ、という意見も見受けられます。勿論好みは人それぞれなので致し方
ありません。私も元来、歌唱・器楽演奏ともに過多な感情表現のプレイは苦手な方で、何かと
言えばすぐシャウトするヴォーカル、ブローするサックスなどは良いと思えず、抑制が効いた
中に少ない場面ではあれど、ここぞという箇所で感情表現を聴かせる、というメリハリが付いた
プレイの方を圧倒的に良しとする方です。しかしジャニスだけは昔から別でした。
勿論ジャニスだって終始シャウトしていた訳ではないですが、その過剰とも言える感情の
こもった歌が耳にさわる、疲れる、と思った事は今まで一度もありません。何故だろう?と、
これまで長きに渡って疑問に思っていました。”テキサスでの青春期における満たされない、
疎外感・孤独感がその歌にソウルを吹き込んだのだ”とか書けば文章的には格好が付くのでしょうが、
表現をする側の人間は多かれ少なかれ、世間一般のライフスタイルを送る事が出来なかったり、
周囲から浮いていたりするものなので、ジャニスにだけ当てはまる事ではないでしょう。
不幸な生い立ち・運命などで語れば、ビリー・ホリデイ、エラ・フィッツジェラルド、エディット・ピアフ
など上には上がいます(彼女達もそれだけで名シンガーになったという訳ではないですが…)。

結論としては何故だか分からない。あえて言うなら”ジャニスだから”、となってしまいました。
(つまんない答えですね。もうちょっと気の利いた事書けないのでしょうか・・・(´Д`))

先程、その歌唱において白眉と思う二曲をご紹介しましたが、バンドのアンサンブルを
含めて、私がベストトラックとする曲をご紹介してジャニス・ジョプリン編を締めたいと思います。
「Half Moon(ハーフ・ムーン)」。本作においては地味な存在の楽曲かもしれませんが、
この素晴らしいグルーヴ感、そしてその上で水を得た魚のように歌うジャニスが印象的な曲です。
先述の通り、理想のバンドと巡り合えた、と喜んでいたジャニスが、喜々として飛び跳ねるように
歌っている姿がヴィジュアルとして浮かんでくるようなジャンプナンバー。
しかしながら、その後わずかひと月と経たずしてその早すぎる死を迎えた事を思うと余計に
感慨深いものがあります。

最後にちょっとイイ文章で締めたいと思って、無い頭をひねくりまわしてみたのですが、
自分の文才の無さを再確認するだけでした… (╥_╥); 。陳腐な言い方ですが、
ジャニスが亡くなってからもうそろそろ半世紀が経とうかという年月が過ぎています。
しかしながら、ジャニス・ジョプリンという存在は折に触れ取り上げられます。
それはロックファン達の心に生き続けているという事に他なりません。比較的若い世代の、
当然リアルタイムでジャニスを知らない(ジャニスの没年に生まれた私もそうですが)
シンガーにもジャニスに憧れてその道を志した、と言う方もいます。
今後もそういう人達は生まれ続けることでしょう、いや、是非そうであって欲しい。
このブログがそのほんの僅かな一助になることを願いながら・・・

#38 Kozmic Blues

サム・アンドリュー(g)と共にビッグ・ブラザーを離れるのと同時進行で、ジャニス・ジョプリンは
新バンドを結成します。紆余曲折があった末、サム以外はスタジオミュージシャンによって
構成された”コズミック・ブルース・バンド”(後世になって付けられた通称ですが)にて
活動を開始します。ジャニスが敬愛するソウルミュージックのスタイルを目指すべく、
ホーンセクションが大々的にフィーチャーされています。またセッションミュージシャン
ばかりとあって演奏技術もビッグ・ブラザーより格段に秀でています。
このバンドは結成当初、その評判があまり芳しくなかったそうです。ホーンの導入等が
取って付けた様なソウルミュージックの真似事、とこき下ろす輩がいたそうです。
私は全くそのような印象は抱きませんが、実際メンフィスソウルのスター達が集った
スタックスレーベル主催のコンサートにて、ソウルミュージックのキラ星達と共に
その名を連ねますが、そこでの観客の反応は非常に冷めたものだったと言われています。
私見ですが、白人が黒人を差別するのと同様に、黒人の側からすれば「俺たちのソウルや
R&Bが白人のオネエチャンに出来るのかい?」といった穿った見方も相当あったのでは。
しかし翌69年2月、かのフィルモアイーストにて行った同バンドのライヴでは、
楽曲により若干の反応の差異はあったものの、前年末のメンフィスにおけるライヴとは
比較にならない手ごたえをジャニスは感じ、非常にエキサイトしたと言われています。
勿論これにはN.Y.とメンフィスという地域の違いがあったことは言わずもがなですが。

 

 

 


69年11月、「I Got Dem Ol’ Kozmic Blues Again Mama!(コズミック・ブルースを歌う)」
をリリース。ジャニス名義での初のアルバムでした。時系列は前後しますが、ウッドストックにも
同バンドにて出演します(8月)。もっともジャニスのパフォーマンスとしては同月に
ニュージャージー州にて催されたアトランタ・ポップ・フェスティバルの方が圧倒的に良かったと
伝えられています(なにぶん音源が残っていないので確かな事は言えませんが…)。

「コズミック・ブルースを歌う」の評価に関しては、とかく”オーバープロデュース”、
”バックバンドがジャニスの歌にそぐわない”というのが昔からの定評でした。
オーバープロデュース(過剰なアレンジ等)という評価には私は全く賛同しかねます。
ロックにおいてホーン(管楽器)やストリングス(擦弦楽器)を導入すると、シンプルでなく
良くない、もっとストレートに演った方が良い、と、定型文の様に難癖を付ける、特に自称
ロック評論家・ライターという人達の批評を昔は良く見ました。今はその手の文章など全く
見ないので、どの様な風潮なのかは知りませんが。
この手の批評で最たる例がビートルズの「ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード」でしょう。
元はシンプルな編成で録られたものがジョンとジョージがポールに無断で、同曲を含む未発表素材を
フィル・スペクターへアルバム制作を依頼してしまい、ポールはその事に激怒し、
その”過剰なアレンジ”とされる出来上がりにも憤然とした、という有名な逸話です。
どちらが良いと思うかは人の好みなので「ザ・ロング・アンド・・・」については言及しませんが、
アルバム「コズミック・ブルースを歌う」においては、果たしてオーバープロデュースと
批判している人達はどれほど分かって批判しているのだろうか?と疑問を覚えずにはいられません。
そのホーンアレンジ等のどこが良くないのかを、具体的に指摘した文章など私は今日まで
目にしたことがありません。ただ単に、余計な楽器を入れるな!ロックはシンプルなモンだ!、
というその自称評論家達の単なる個人的考えなのではないでしょうか?

私も本職はドラムで、ギター等も専ら”演奏するだけ”の人間なので、自慢じゃありませんが編曲に関する
理論・ノウハウなど大して持ち合わせていません。ホーンや特にストリングスはそのアレンジが非常に
難しいと言われます。現在でこそシンガーソングライターでもそれらのアレンジもこなす人も
割といるようですが、昔は職業作曲・編曲家でなければ無理だったと言われています。
私見ですが本アルバムにおけるホーンのアレンジに関して、過剰とは全く思えません。7曲目の
「Little Girl Blue」にて弦のアレンジがありますが、批判している自称ロック評論家・ライターと
いった人たちは本曲などの事を指して言っているのでしょうか?良く分かりませんが。ただし、
その人達も管や弦のアレンジについてどれだけ知識があって言っているのか、甚だ疑問です・・・。
ただ、バンドに関しては確かにその音数は多すぎるとは思います(特にドラム)。先述の通り、
スタジオミュージシャンの集まりなのでテクニカルな面では非常に優れています。しかし、
所謂”歌モノ”のバックが難しいと言われるのはこの辺りに由来するのでしょう。インストゥルメンタルの
音楽であれば非常に良いバンドであると思われますが、ジャニスの歌を引き立てているか否かはまた別です。
しかしそのプレイに関して、プレイヤー個々の判断に任せられていたものなのか、事細かくアレンジャーの
指示があったものなのかは、今回かなり調べてみましたがそれについての客観的と思われるネット上の
資料などは見当たらず、結局分かりませんが、もし後者であったとしたならば、バンドを責めるのは
ちと酷なのではないかと思います・・・。

大分長くなってしまいました。長年に渡って、本作への評価が不当なのではないかと思い続けて
きたためにこの様なダラダラとした恨みがましい文章になってしまいました。皆さんお忙しいでしょうから
こんな駄文はちゃっちゃと読み飛ばしていただいて結構です。あ、でも、もう読んだ後ですよね・・・。

最後に本作からご紹介するのは、ベタ過ぎますが何と言ってもタイトル曲でしょう。それではどうぞ。

https://youtu.be/nLN72sR9w0M

#37 Cheap Thrills

67年6月、カリフォルニア州にてモンタレー・ポップ・フェスティバルという大規模な
コンサートが催されました。今で言うロックの野外フェスというものの走りでしょう。
当コンサートにおいて、一夜にしてスターとなった、と言われるミュージシャンが
二人います。ジミ・ヘンドリックスとジャニス・ジョプリンです。
しかしジミヘンに関しては、本国アメリカでの下積みを経て、渡英してからは
前年に1stシングル、直前の3月には2ndシングルが全英でTOP10ヒットとなっており、
勿論現在のインターネット時代のように、
皆がリアルタイムで遠い外国の情報でも手に入れる
事が出来るという訳ではありませんでしたが、それでも情報通の人間ならば、本国アメリカに
おいてもジミのイギリスでの活躍ぶりを知っている人はある程度いたでしょう。
しかしジャニスに関しては違います。本当に一夜にしてロックスターになったのです。
オーディション番組などで埋もれた才能を発掘しようという企画であれば、こういう事は
あって然るべきでしょう。私は全然詳しくないのですが、確か外国(アメリカ?)のその手の
TVプログラムで一躍有名になった女性シンガーがいたとか。
ですがモンタレーはそれとは異なり、出演者の大半がキラ星のような有名ミュージシャン・
バンドの中において、彼らを差し置き、喰ってしまってその話題をかっさらっていったのです。

 

 

 


43年テキサス州にて生まれたジャニスは、20歳で地元の大学を中退し、シンガーとなるべく

サンフランシスコへ移り住みます。この頃から既に薬物とアルコールへの依存が始まっていた
ようですが、何とかシスコのアンダーグラウンドシーンにおいてはその頭角を現し始めます。
67年、ビッグ・ブラザー&ホールディング・カンパニーで1stアルバムをリリース。全く売れずに、
しかも悪徳マネージメントに良いようにされ、一銭も入らなかったと言われています。
モンタレー出演はその直後でした。6月17日昼の部に出演したバンドは、ジャニスの圧倒的な
ステージによって大変な話題となり、急遽本来予定になかった17日夜の部へも出演となりました。

この日から全てが変わった、という表現はジャニスの様な人生を言うのでしょう。
大手レコード会社CBSと契約し、2ndアルバム「Cheap Thrills(チープ・スリル)」を発表。
全米で通算8週1位という大ヒットを記録。女性初のロックスターの誕生と評されました。
ライヴアルバムである本作はジャニスを含めたバンドの”勢い”を見事に切り取った一枚です。
良く言われる巷の評価として、このバンドは巧くない、ジャニスの持ち味を活かせてなかった
(それは次のコズミック・ブルース・バンドも同様の評価ですが)、とされてます。
確かに技巧派とはお世辞にも言えませんが、私個人的にはビッグ・ブラザーというバンドは
当時のウェストコーストにおいて、技術的には平均的なバンドだったと思っています(これもあまり
褒め言葉ではないですね)。しかし統制が取れていなかった、というのは事実かもしれません。
つまり
バンドマスターがしっかりとしたイニシアティブを取って、バンドをコントロール出来て
いなかった、という側面はあると思います。もっともこの当時はクスリと酒でラリパッパになって、
”細けえこたぁイイんだよ!”と自由に演るのが風潮だったので、致し方ない面もあるのかと。
ただしコーラスだけは酷すぎます、もうちょっと何とかならなかったのかと思いますが…。

モンタレーでその絶唱が話題となった「Ball and Chain」、G・ガーシュウィン作の
スタンダードナンバー「Summertime」、シングルカットされた「Piece of My Heart
(心のかけら)」はアレサ・フランクリンの姉であるアーマ・フランクリンの代表曲。しかし、
私が本作にて白眉と思うのはジャニス作による「Turtle Blues (タートル・ブルース)」。
楽曲的に特に秀でているとは言えません、ごく普通のブルースです。ピアノとギターの演奏も
率直に言って凡庸なものです。しかし、蕎麦はシンプルなもりそばが一番ごまかしが効かない
というますが(決して技巧や創作の工夫が必要ない、などとは夢にも思いません、が)、
ジャニスの見事な歌が最も堪能できるのが本曲だという事実は、ソングライターや
プレイヤー達にとって、皮肉めいたものを感じずにはいられません。

68年末にビッグ・ブラザーは解散。既に次なるバンド作りに動いていたジャニスは、ギターの
サム・アンドリューと共に新メンバーを求めますが、この時期全く人事が安定せず、人もバンド名も
コロコロと変えながら活動するのですが、その辺りはまた次回にて。

#36 With a Little Help from My Friends

前回、「キープ・ミー・ハンギン・オン」について触れましたが、オリジナルがシュープリームス
(この場合は最初にレコードに吹き込んだという意味で)、そのオリジナルと同じ位有名な
ヴァージョンとしてヴァニラ・ファッジ版があると述べました。
この様にシングルヒットした、もしくはヒットしたアルバムに収録されている
有名曲をカヴァーして、その曲が取り上げられる際、オリジナルと並列して取り上げられる程の
カヴァーヴァージョンというものがロック・ポップス界には存在します。
勿論ジャズのスタンダードナンバーの様にカヴァーされるのが常である楽曲は除外します。
マーヴィン・ゲイの「ホワッツ・ゴーイン・オン」におけるダニー・ハサウェイ版、
「スタンド・バイ・ミー」におけるベン・E・キングとジョン・レノン。
そして今回のテーマである言わずと知れたビートルズ「With a Little Help from My Friends」。
このカヴァーでの決定版は何と言っても69年のジョー・コッカー版にとどめを刺すのでは。

ウッドストックにおける本曲の歌唱はあまりにも有名なところ。とにかくこの人は問答無用の
声をしています、ずるいと言って良いほどに。ですが、ミュージシャンとして御多分に漏れず、
彼もドラッグと酒で身を持ち崩した人です。初期はレオン・ラッセル等のサポートにより
素晴らしい作品を残すものの、先述した持ち前の”だらしなさ”から仲間が去って行ってしまいました。
私の世代ですと、82年の映画『愛と青春の旅だち』主題歌「Up Where We Belong」の印象が
先ず初めにありますが、当時もコッカーはヘロヘロのタリラリランだったそうです。が、
何なのでしょう?この歌は!。決して喉の状態が良くない事は間違いないのですが、そのふり絞った
しわがれ声は唯一無二の感動を人々に与えて止みません。彼はどんなコンディションでも
素晴らしいプレイをするという、ある意味で真のプロフェッショナルと呼べるのかもしれません。
でも、やっぱりタリラリランのラリパッパは良くないですけどね・・・(´Д`)。

 

 

 


コッカーは1stアルバムにて、トラフィックのデイヴ・メイソン作「Feelin’ Alright 」も
カヴァーしています。
トラフィックは英国で、”神童”スティーヴ・ウィンウッドとデイヴ・メイソンを中心に
結成されたバンド。
10代半ばでスペンサー・デイヴィス・グループにて天才少年と
その名声を不動のものとしたウィンウッドが次なる活動の場として67年にデビュー。
ウィンウッド、メイソン共にイギリス人でありながらブラックミュージックに傾倒していた
人達です。しかし双頭バンドというものはうまくいかないのが常なのか、ウィンウッドが
ブラインド・フェイスを組みために一度バンドを離れ、戻って来た時には今度は
メイソンがバンドを離れます。
60年代半ば、E・クラプトンやジミ・ヘンドリックスの登場により、イギリスでは
ブルースブームが巻き起こりましたが、ブラックミュージックは勿論ブルースだけでは
ありません。R&B、ソウル、ゴスペル、ファンクetc…。
今回のテーマであるコッカー版「With a Little ・・・」は、原曲を見事なまでに
R&B・ゴスペルのスタイルへ昇華させています。またトラフィックもブラックミュージックを
英国風に取り込んだバンドの走りと言えるでしょう。
まだ本国アメリカでは人種差別が残っていた60年代に、イギリスでは自国にない音楽である
ブラックミュージック
を差別感情など関係無く積極的に取り入れる動きがありました。

しかし言うまでもなく、イギリスにおいてブラックミュージックをロックに取り入れた先駆者は
ローリング・ストーンズに他なりません。ビートルズ・フー・キンクス、皆ブラックミュージックの
影響を当然受けましたが、ストーンズほどそれに傾倒していたバンドはなかったでしょう。
ビートルズが8年間のその活動にて、劇的なまでにポップミュージックを変革したのに対し、
ストーンズは今日に至る50年以上に渡って頑固なまでにR&R、一途にブルースと、
そのスタイルを守り通してきました(多少流行りを取り入れることも勿論ありましたが)。
これに関してはどちらが良い悪いはありません、それぞれの個性があるだけです。

ギター中心のロックミュージックに関しては、どうしてもギタリストのプレイスタイルに注目が
集まってしまい、それが英米問わずブルースに根差した音楽性に注目が集まってしまいがちです。
私も鼻血が出るほどブルースが好きな人間ですが、ロックに影響を与えたブラックミュージック、
先述の通りそれはブルースだけではありません。
ロック史において地味な動きではありましたが、ストーンズ達から始まり、更に60年代後半から
興った、特にイギリスにおけるブラックミュージック賛美とも言えるロックは、イギリス古来の
トラッドフォーク、ひいてはケルト音楽(大げさかな…)などと混じり合い独自の発展を遂げました。
例えば、日本人でも知らないような事を、日本フリークの外国人の方が非常にマニアックな知識を
有していたりすることがありますが、無い物ねだりと言うのでしょうか、自分(自国)にないもの
だからこそ余計に憧れる、というきらいが人間にはあるのかもしれません。

ウッドストックでの「With a Little ・・・」を張るのはベタ過ぎるので、今回は02年の
エリザベス女王戴冠50周年ライヴにおけるコッカーのプレイを観てもらいたいと思います。
フィル・コリンズ、ブライアン・メイといった錚々たる面子をバックに従え堂々の歌いっぷり。
勿論ウッドストック当時の声のハリなどはあるはずもありませんが、ワンアンドオンリーの
この歌声は誰にも真似出来ないのです。
ジョー・コッカーは14年に惜しくも亡くなりました。享年70歳。先述の通り、薬物と酒に溺れた
その生活(80年代前半には何とか脱却出来たらしいですが)は決して褒められたものでは
ありませんが、”魂を振り絞って歌う”、という表現がこれほどピッタリなシンガーは、
ポピュラーミュージック界においては、ジャニス・ジョプリンなどと共にほんの数人だったのでは
ないでしょうか。
しかしコッカーが亡くなったのはつい最近の様な気がしていたのですが、もう三年経つんですね…
自分もあっという間に歳を取る訳です・・・(´Д`)。
それではコッカー氏への追悼を込めてこの動画を最後に。

https://youtu.be/abX3PZDZ1bk

#35 Hush

ディープ・パープルのヒット曲「 Hush(ハッシュ)」、と聞いてすぐにピンとくる人は
なかなか少ないのではないでしょうか。”パープルつったら「ハイウェイ・スター」とか
「スモーク・オン・ザ・ウォーター」だろゴルァ!ヽ(`Д´)ノ ”という声がありそうですが
至極もっともです。これらは所謂第2期ディープ・パープル、一般に彼らの黄金期とされる
時期の代表曲であるのですぐに名前が挙がるのは当然です。しかし彼らは当初、第2期の様な
ハードロック路線ではなく、ジョン・ロード(key)を中心としたクラシックをモチーフとした
ロックを売りにしたバンドだったのです。この様なロックは当時、アートロックと称されていました。
その後イニシアティブを握ることとなるリッチー・ブラックモアのギターはまだ控えめでしたが、
優れた演奏技術力に基づく高度な音楽性を有していました。
「 ハッシュ」(68年)は全米最高位4位を記録しました。新人バンドとしては超が付くほどの
成功した出だしだったはずなのですが、ロックファンの間でもあまり印象に残らないのは、
やはりハードロックバンドとしての第2期以降のイメージが強すぎる為でしょうか。
ちなみ代表曲「スモーク・オン・ザ・ウォーター」(73年)も全米最高位4位。
ディープ・パープルのシングルとしてチャートアクションが最も良かったのがこの2曲です。

そのディープ・パープルはデビュー当初”イギリスのヴァニラ・ファッジ”と呼ばれていたそうです。
ヴァニラ・ファッジは66年アメリカで結成されたバンド。シュープリームスのカバー曲
「You Keep Me Hangin’ On(キープ・ミー・ハンギン・オン)」であまりにも有名ですが、
彼らも当時はドアーズなどと並んでサイケ・アートロックの急先鋒とされていました。
1stアルバムは全曲カバー曲で占められ、「キープ・ミー・ハンギン・オン」をはじめ、
「涙の乗車券」「エリナー・リグビー」など既存のロック・ポップスを、サイケかつハードな
アレンジで演奏して当時のリスナー達を驚かせました。

 

 

 


奇才フランク・ザッパ。そのキャリアのスタートとなったのはマザーズ・オブ・インヴェンションです。
R&R、R&B、ソウル、ポップス、はては前衛音楽まで、ごった煮のように混沌とした
その音楽は決して商業的に成功した訳ではありませんでしたが、一部のコアなファンに
圧倒的に支持されました。ザッパはその後もハードロック、プログレ、ジャズ・フュージョンなど
様々な要素を取り込み、また”ザッパ・スクール”と称されるほど多数の優れたプレイヤーを
自身のバンドから輩出しました。テリー・ボジオ、ジョージ・デューク、エイドリアン・ブリュー等々、
天才・奇才といった呼称がぴったり当てはまるような錚々たる面々ばかりです。
ザッパがそれを見抜く力は勿論のこと、やはり相通じ合う何かを感じ取って、彼らもザッパの下に
集ったのかもしれません。

「In-A-Gadda-Da-Vidaガダ・ダ・ヴィダ)」で有名なアイアン・バタフライはサイケ色がありつつも、
ヘヴィメタルの元祖とも呼ばれます。シカゴやブラッド・スウェット・アンド・ティアーズ は
サイケロックとは一線を画しましたが、ホーンセクションを大々的に導入し、”ブラスロック”と呼ばれる
新しいジャンルを産み出しました。
この様にこの時期は様々な新しい形態のロックが出現しました。しかしそれを良いと思った人ばかりでは
なかったのも事実です。
大瀧詠一さんは以前ラジオで「(ビートルズは)もうラバーソウルで難しくて
着いていけなくなった…」の様な旨を仰っていました。古き良きR&R、ポップスを好むリスナーも
当然少なくなかったようです。

今回ご紹介した中で個人的に白眉なのはこの曲です。後にジェフ・ベックとベック・ボガート & アピスを
結成することとなるティム・ボガート(b)とカーマイン・アピス(ds)は技術的にはまだ発展途上と
言えますが、それを補って余りあるパワーとグルーヴを持っています。決して超絶技巧という訳では
ありませんが、エンディングでのアピスによる怒涛のドラミングは圧巻です。更にシュープリームスの
あのオリジナルを、この様にアレンジしたのは何ともお見事、としか言いようがありません。
最後にこの動画を貼って閉めたいと思います。