#12 Slowhand

その女性と出会ったのは、ジョルジオ・アルマーニが催したパーティにて。彼女はそのパーティで
雇われていたスタッフだったのですが、友人と、クラプトンへ一緒に写真を撮ってもらえないか
と頼みにきたとのこと。スタッフがパーティのゲストへ、この様な申し出をするのはルール違反
らしいのですが、彼女の屈託のない笑顔に、クラプトンは、「明日、三人で食事に行けるのなら
撮っても良い」と答えたそうです。彼女の名はメリア。現在のクラプトンの奥さんです。
30歳以上年の離れた二人ですが、三人の子供に恵まれています。自伝(08年発刊なので、
執筆は00年代半ば位?)でも述べられていますが、自身も今が一番充実していて幸せだ、
と語っています。
波乱万丈の人生だったクラプトンですが、人生の後年になって、ようやく
穏やかな幸せがやってきたようです。05年には、クリームの再結成で話題を巻き起こしました
(一説には、経済的に困ったジャック・ブルースの救済の為とも)。初めのうちこそ、
「やあジンジャー( ノ゚Д゚)! ヽ(・∀・ )ノ やあジャック!、懐かしいな、また宜しく頼むぜ」
の様な雰囲気だったそうなのですが、あっと言う間に雰囲気は悪くなったと語っています。
人間て、やっぱり合わない人どうしは何をどうしても合わないのでしょうね・・・(´Д`)
自身も苦しんだ、薬物・アルコール依存症患者の為の更生施設『クロスロード・センター』の
運営資金調達を目的とした、「クロスロード・ギター・フェスティバル」の定期的な開催、
盟友スティーヴ・ウィンウッドとの共演など、00年代後半から10年にかけても、精力的に
活動をしてきました。10年代に入ってからも、アルバムリリース、コンサートなどは
継続的に続けていたのですが、実は末梢神経障害など、体に不調が現れ始めたことを後に
告白し、70歳を前に、もう大規模なツアーなどはやらない(出来ない)、今後はできる
範囲での活動のみにする、といったセミリタイア宣言をしました。しかし16年4月には、
日本のみの公演を行いファンを喜ばせました。とんかつが食べたくなったのかもしれません。
(分からない人は ”クラプトン とんかつ” でググってください)

60年代半ば~後半にかけて、クラプトンと同様に、天才的白人ブルースギタリストとして
よく比較されていたミュージシャンにマイク・ブルームフィールドがいます。
アル・クーパーとの「Super Session」「フィルモアの奇蹟」や、ボブ・ディランの
アルバムでのプレイなど、クラプトンも憧れ、またお手本にした程であった人物。
イギリスのクラプトン、片やアメリカのブルームフィールドと、ロックのフィールドに
ブルースを浸透させた立役者と言って良いでしょう。しかし彼も御多分にもれず、
クラプトン同様、ドラッグとアルコールに溺れた人でもありました。そのため70年代に
入ってからは、目立った活動は少なくなり、80年代初めに、最後は駐車場の片隅で
野垂れ死の様な状態で亡くなっていたそうです。
クラプトンも下手をすれば、ブルームフィールドと同様の人生を歩んでいたかもしれません。
ほんとに紙一重のところで、それを回避出来ただけなのかもしれないです。
しかし一方で、私以前にも書きましたが、運命論など微塵にも信じない人間ですが、
ごく稀に、目に見えない何かが、人の人生を突き動かしたりしているのではないか、
と思うこともあります。クラプトンはその何かから、「お前はまだやることが沢山ある、
まだこっちにくるな  (( ( ̄  ̄*)」と拒否られ、一方、ブルームフィールドは召されて
しまったのかもしれません。

遠い昔に、十字路で悪魔に魂を売り渡す契約をしてしまった青年ですが、50年以上の
歳月を経て、悪魔からすら、「お前さん、昔は随分やんちゃもしたけれど、大勢の人間に
夢と感動を与えてきたようだな(悪魔のセリフじゃないな…)。それに免じて昔の
契約は反故にしてやるよ」・・・などと荒唐無稽な妄想をしてみたりしてしまいます。

最後にクラプトンの愛称 ”スローハンド” の由来について。出てくるフレーズは
非常に速いのに、指は(この場合は左手の運指の方、と私は解釈しています)とても
ゆっくりした動きに見える、ということから来ているそうです。つまり、無駄な
動きがなく、必要最小限の、合理的な指使いをしているので、速く弾いても、
せせこましく動いているようには見えず、スローハンドと呼ばれたのだと。
これはドラムなど、他の楽器、またスポーツなどでも同じ事が言えるのではないかと。
もっとも別説もあって、彼はチューニングにとても神経質で(女性関係にはルーズ
でしたが・・・)、いつまでも時間を掛けていたのでそう呼ばれた、とも言われています。

ブログを始める際、個々のミュージシャン・バンドにつき、記事は長くても3回まで、
と自分の中で一応ルール付けしたのですが、あっさりと破ってしまいました。
よく考えたら50年以上のキャリアをそんなに短くまとめて書くことなど土台無理かと。
これにてエリック・クラプトン編は一先ず終了です。次は・・・大体想像つきますかね…

 

#11 From the Cradle

私がリアルタイムで洋楽を聴いていた80年代、クラプトンは割と”過去の人”扱いだったと記憶しています。
当然新作を出せばある程度ヒットはするのですが、それは60~70年代における売れ方とは違いました。
”オシャレでポップで、なおかつダンサンブル”な80年代の音楽シーンにおいて、クラプトンは試行錯誤
していたようです。マネージメントサイドからフィル・コリンズをプロデューサーに、と提案された事は
戸惑いであったと後に語っています。フィルとはそれ以前から知り合いであり、フィルの人の良さから、
人間関係はとても良いものが築けたようですが、音楽性はあまりにも違う、というのが正直な感想だった
ようです(これは衆目の一致する所)。フィルは
 80年代、最も忙しい男、と言われた程、シンガー、
ソングライター、プロデューサー、そして本職のドラマー(本当に忘れ去られているかもしれませんが、
彼はとてもテクニカルで、素晴らしいグルーヴを持ったドラマーなのです。キャリアの出発点は
あくまでジェネシスのドラマー)として、その余りある才能で、世界中を飛び回っていました。
しかしクラプトンの音楽性とは相容れないのではないか、というのは従来のそれぞれのファン達、
そして本人たちも感じていました。一言で言えば”過渡期”であったということでしょう。
また。アルコール依存症もかなり悪化しており、さらにパティとの関係も終焉へと向かいつつある
ような状況で、80年代半ば、クラプトンは引退まで考えてしまう程になりました。

あまりのアルコール依存症に、さすがに本人も、このままではいけないと決意し、禁酒プログラムに
通うようになります。色々あったようですが、80年代後半には、何とか酒も絶つことが出来た様です。
その時期に、彼には子供が出来ます。イタリア人女性との間に生まれた息子「コナー」です。
パティとのエピソード同様、あまりにも有名な話ですので、あくまで簡潔に。
91年3月20日、コナーは当時、母親・祖母と共に住んでいたN.Y.の高層マンションから転落死します。
ちょっとした不幸なタイミングの悪さ、偶然が積み重なって起きた事故でした。前日19日、
クラプトンは
初めてコナーと、誰も伴わずに二人きりで出かけました。
サーカスを観に連れていってあげたそうです。
コナーは象を見てとても喜こび、
これからはコナー達の家に行った時は、自分一人で彼の面倒を見ようと
思ったそうです。
世界中から悔やみの手紙などが届き(ケネディ家からチャールズ皇太子まで)、大変驚いたとの事ですが、
最初に封を開けた手紙は、10代の頃からの”悪友・先輩”でもあった、キース・リチャーズからのもの
だったそうです。そこには「何かできることがあったら、知らせてくれ」とだけ書いてあったそうです。
クラプトンはこれには大変感謝したと後に語っています。
世界中のファン達が、またドラッグとアルコールに溺れてしまうのではないか、このまま引退して
しまうのではないかと心配しました。当然、しばらくは喪に服し、表舞台からは消えていましたが、
この間クラプトンは常に古いガットギターを側に置き、特にリリースする意図をもって作った
訳でもなく、何ともなしに曲を作っていたりしたそうです。
その時期に書き上げたのが、「Tears In Heaven」「Circus left the town」(コナーが亡くなる
前日に、一緒にサーカスを観に行った時のことを歌った曲)です。
まず92年初頭、「Tears In Heaven」が映画のサントラに使用され大ヒット、さらにかねてから
打診されていたMTVの番組として「Unplugged」が収録・放映されます。これにはクラプトン自身も
満足し、評判も非常に良かった。しかしアルバム化が決まった時、自身はそれ程のものではない、
限定版で発売すべきだと言っていた様なのですが、蓋を開けてみれば空前の大ヒットを記録します。

ここから先は説明不要なほど、見事な”クラプトン復活”といった状況になったのは周知の事。
しかし、私は彼が凄いのはこの後だと思っています。”「Unplugged」第二弾”の様なアルバムを
作れば、再度のビッグセールスは間違いなかったでしょう(実際マネージメントサイドは
それを望んでいた)。だがそれをしなかった。勝って兜の緒を締めよ、ではないですが、
ここでクラプトンは時流に乗らず、自分のルーツを見つめなおす「原点回帰」を行いました。
「From the Cradle 」。マディ・ウォーターズ、エルモア・ジェイムス、そして最もクラプトンに
影響を与えたであろう ロバート・ジョンソン。全曲ブルースのスタンダードカバーで占められた
本作は、周囲の懸念を他所に、アルバムチャートで見事にǸo1ヒットとなりました。そして
そのまま2年近く、「wonderful tonight」も、あろうことか「layla」すら演らないという、
『Nothing But The Blues』ツアーを行います。「Unplugged」で初めてクラプトンを知った、
アコギを座って弾きながら、「Tears In Heaven」の様なバラードを歌っている渋いオジサン
(勿論これが悪いと言っているわけではないです)といった認識しかなかった人たちには、
良かれ悪しかれ刺激が強かったのではないでしょうか。
更に、映画のサントラに提供した「Change the World」も大ヒット、勢いは留まることなく、
00年には、B.B.キングとの共作「Riding with the King」をリリース、これも大ヒットします。
大物同士の共演というのは、企画倒れ、エゴのぶつかり合い、などに終わってしまうことが
珍しくないのですが、当アルバムはお互いを認め合った、時に相手を尊重し、時に火花が出る様な
プレイが繰り広げられ、誠に素晴らしい共演作となっています。これもクラプトンの、ブルースに
対する造詣の深さ、尊敬の念、そしてそれを認めた故の、B.B.の全てを包み込むようなスケールの
大きなプレイ、といったものの結晶だったのではないでしょうか。生半可な”ブルースが好きです”
といったミュージシャンでは、このような作品はB.B.と共に作れなかったでしょう。

この時期、全てが順風満帆で、楽しい事ばかり、クラプトンも浮かれていた、というわけでは
なかったようです。先述した「Unplugged」後に生じたマネージメントサイドとの亀裂が
深まり、弁護士が介入する程のトラブルになり(結局その長年のマネージャーとは決裂)、
さらにストーカーのような女性も出現したりしていたそうです。
また、クラプトンは自身の薬物・アルコール依存の反省から、自分同様の人たちを救済する
手段を考えていました。「クロスロード・センター」の設立です。自身が発起人の一人となり
設立・運営に携わりました。その資金の為に、自身のギターコレクションをオークションに
かけます(99年と04年)。70~80年代にかけて彼の愛器であった ストラトキャスター
”ブラッキー” が約1億円の値で競り落とされたのは、かなり話題になりました。

この時期、彼にはある出会いがありました。(先のストーカーじゃないですよ(´・ω・`))
長くなりましたので、続きはまた次回に。(いつまで続くのかな・・・(´・ω・`))

#10 Layla_2

活動の拠点をアメリカに移していたクラプトンは、デラニー&ボニーへ参加、そして
同バンドのリズムセクション ボビー・ウィットロック(key)、カール・レイドル(b)、
ジム・ゴードン(ds)と新バンドを立ち上げます。「デレク・アンド・ザ・ドミノス」は当初、
アルバムリリースまで正体を明かさない、”企画バンド”の側面をもっていたとのことでしたが、
発売前に情報が漏れてしまい、「あのエリック・クラプトンが参加しているらしい」と事前に
ばれてしまったそうです。デラニー&ボニー時代に、クラプトンとウィットロックは曲を
書きためており、結果的にそれがドミノスの出発点となり、さらにプロデューサーには
トム・ダウドを迎え、70年8月、その制作が開始されます。ちなみに同月にはすでに録り終えて
いたクラプトンの1stソロアルバム「Eric Clapton」がリリースされています。
デュアン・オールマンの参加は当初から決まっていた事ではなく、かなりの偶然の重なり合いに
よるものだそうです。ダウドは当時オールマン・ブラザーズ・バンドの2ndも手掛けており、
その縁から、デュアンの
「ちょっとドミノスのレコーディングを覗いてみたい」との申し出に、
勿論全員異論はなく、それどころか、デュアンはクラプトンのサインでも貰って帰ろうと思って
いた位のところを、「デュアン、ギターも持って来てよ」という様な流れになり、後は
周知の通り、運命的とも言えるセッションが生まれた訳です。

オリジナルアルバムとしての「Layla and Other Assorted Love Song」は勿論、ドミノス、
そしてオールマンのメンバーとのジャムセッション、幻に終わったドミノスの2ndアルバムに
収録されるはずだったであろう未発表曲や1stのアウトテイク・別バージョンなど、よくぞ
この音源を残してくれ、そして後年(90年)になって発表してくれた、と感謝するばかりです。
ジミ・ヘンドリックスもそうですが、デュアンも夭折の天才だったので、音源が少ない。
ギタリストとして一番”ノッていた”時期の天才二人のジャムは素晴らしいの一言です。
クラプトンのストラトキャスター”ブラウニー”、デュアンのレスポールのそれぞれの音色、
プレイスタイルの違い、そしてその二人(二本のギター)が有機的に組み合わされることに
よって、1+1は2ではなく、10にも100にもなるという音楽、特に即興演奏の妙。
クリーム時代の様な”果たし合い”的インタープレイのバトルではなく、お互いのフレーズ、
トーンを噛みしめながらの、ある域に達した音楽家だけに許された、レイドバックしていて、
なおかつスリリングで、そしてこんなにエモーショナルな演奏は、クラプトンがそれまで
イギリスにいた頃には味わうことが出来なかった瞬間だったのではないでしょうか。

現在ではクラプトンの代表作であり、ロック史に残る名盤として不動の地位を得ている
本作ですが、発売当初、アメリカではゴールドディスクになったものの、イギリスでの
反応は
芳しくなかったそうです。色々な要因はありますが、レコード会社の販促不足、
また従来のファンは、クリーム時代のような、アグレッシブな、火花の出るような
プレイを望んでいた、というニーズとのギャップもあったようです。
レコーディング終了後、すぐさまツアーに出ますが、その矢先、ジミ・ヘンドリックスの
訃報が飛び込んでいます。敬愛するジミに対して、「Little Wing」をカバーしたものの、
ジミは結局本曲を聴く事は出来なかったのです。更に”父”であった祖父ジャックの死、など
良くない事が続きます。翌年には2ndアルバムに取り掛かるものの、途中でバンドは分裂。
一概にクラプトンだけのせいとは言えませんが、ドラッグとアルコールにより、かなり
心身の状態が悪くなっていたことが、関係しているいることは当然否めません。
そして秋には、デュアンが、バイク事故にて若干24歳の若さで亡くなってしまいます。
周囲に起きる立て続けの不幸、勿論パティとの関係、クラプトンを徐々に深い”闇”が
包んでいきます。72年は全く活動をせず引きこもっていました。しかし73年の初め、
ピート・タウンゼント達により、レインボウ・シアターでのライブへと表舞台に引っ張り
出されることとなります。「Eric Clapton’s Rainbow Concert」にてその模様は
聴くことが出来ます。決してベストコンディションではありませんが、隠遁生活から
抜け出すきっかけになったのは大きかったでしょう。さすがに本人も、これではまずいと
思ったのか、麻薬の更生施設に入り、取りあえず”麻薬だけ”は断つことができました。
そして新作の制作に取り掛かり、完成したのが「461 Ocean Boulevard」。ここからの
”第二期黄金期”はネットでいくらでもググることができますので、各自でどうぞ。

ドラッグの代わりにアルコールの量は増えてしまったようで、70年代中期~後期も
決して良いコンディションとは言えなかった様です。ドミノス時代から”辛抱強く”
付き合ってくれた、カール・レイドルを79年に解雇してしまいます。後年クラプトンは
「アルコールのせいで多くの人達を傷つけた」と語っているそうですが、レイドルの解雇も
その辺が絡んでいるのかもしれません。この年、来日を果たし、武道館でのコンサートの模様は
「Just One Night」にて聴くことが出来ます。個人的には、クラプトンの代名詞的ギターでも
あったストラトキャスター”ブラッキー”の音色が最も堪能できる作品としてお気に入りの一枚です。
翌80年、レイドルは病死。ゴードンはこれまたドラッグ・アルコール依存症で、
更に「Layla」の印税収入が入るようになったことによって、それまでと人生が変わって
しまったのか、あろうことか母親を殺害してしまいます。「Layla」の共作者として
クレジットされている彼ですが、ピアノから始まる後半のパートは、当時のガールフレンドが
作ったものだというのが定説になっています。ウェストコーストで一二を争う引っ張りだこの
セッションドラマーでしたが、基本的にゴードンには作曲能力は無かったと言われています。
そして、ウィットロックは目立った活動は少なくなり、やがて表舞台から消えていきます。

時代は80年代へ。オシャレでポップと言うべきか、はたまた軽佻浮薄と呼ぶべきか、
クラプトンは
どの様にして、そんな音楽シーンを生き抜いていったのか。その辺りは次回にて。

 

 

#9 Layla

クリーム解散後、ブラインド・フェイス、ジョン・レノン・バンド、デラニー&ボニー、
その他一曲~数曲のみのセッションワークを含めると、挙げ切れない程、60年代末から
70年初頭にかけてクラプトンはスタジオ及びライブで精力的に活動しています…いや、
精力的というよりは、正しくは”やけくそ”、じっとしてはいられない、決して充実した
音楽活動とは言い難い、満たされない思いを埋めるため、ドラッグとアルコールと共に
やみくもに突っ走っていた、という表現の方が適当なのではないかと私は思っています
(ただし、結果的に素晴らしい演奏として昇華されているものも少なくありません)。
その根底には、言うまでもなく、パティ・ボイドの存在があったからです。
もし初めて知った方の為にざっくりと(後はご自身で検索を)、公私ともに、尊敬する
ミュージシャン、そして親友でもあったジョージ・ハリスンの妻を愛してしまったのです。
親友の妻に対する、許されざる愛の葛藤から生まれた名曲「Layla」。これを全く否定する
つもりは毛頭ありませんが、この三角関係に関しては、かなり美化して語られていることが
多いように見受けられる為、若干、天邪鬼的な心持ちも込めて、知り得る限り客観的事実を。

ジョージとパティの結婚は66年、しかし天下のビートルズ ジョージ・ハリスン。女性に
モテない訳がない、結婚後も他の女性との関係はあったそうです。一方、クラプトンも
とにかくハンパなくモテる、当然本人もキライな方ではない、というか人一倍女性が好きな
健全な男性でした(ひどい書き方だな…)。そして、パティも当時、ツイッギーと並ぶ
トップファッションモデルの中の一人で、当然、女性としての自意識は高かったでしょう。
「アタシの旦那は、天下のジョージ・ハリスン。でも天才ギタリスト エリック・クラプトンも
このアタシに惚の字なのよ♡」といった気持ちがなかった訳ではないと思います。
要は三者三様、異性関係にルーズだった、という側面は決して否定出来ないと思います。
以前BSで、「Layla」が作られた経緯、その周辺のドキュメンタリー番組があったのですが、
当時周りにいた関係者の証言によれば、最初にモーション(表現が古いな…)をかけたのは
パティの方と言われています。ジョージが女性関係やその他で、最近自分に振り向いて
くれなくなった、の様な相談を持ち掛けたのが始まりとか何とか。
クラプトンも後に率直に語っていますが、ジョージは大親友であったと同時に、大きな家、
高級車、そして美しい妻を持っている、男として対抗心を燃やす対象でもあったようです。
ある日クラプトンは、ついに意を決して、君の妻を好きになってしまった、と告白したそうです。
当然ジョージは憤然として、その場を立ち去ったそうです(当たり前だ(´・ω・`))。
一方、パティの方はと言うと、自分で”色目”を使っておいたものの、タイミングが良いと
言うべきか、悪いと言うべきか、クラプトンから”告白”された時は、ジョージとの関係が
修復されてていた時期であったこともあって、その時は”ごめんなさい<(_ _)>”したそうです。

「Layla」や「Bell bottom blues」は、その様な時期に作られた曲です。さらに70年は、
ジミヘンドリックス及び”父”であった祖父の死、と彼の周りで不幸が続きます。人間誰しも、
肉親や近しい友人との別れ、また思い通りにならない事は、程度の
差はあれ避けられない事なので、
これらをもってクラプトンの麻薬や酒に対するのめり込みを、仕方のない事などと言うつもりは
毛頭ありません。端的に言って、メンタルが弱かった、と言われてしまえばそれまでの事です。
また「Layla」を語る際、この三角関係を、”親友の妻を愛してしまった男が、苦しみの中から
創り上げた狂おしいほどのラブソング”の様な、かなり美化されて紹介されているのがしばしば
見受けられますが、(当たり前ですが)実際はそんな物語のような話ではなかった様です。

ここまでこんな書き方をしてきて言うのもなんですが、この曲が、ここまで多くの人々を
現在に至るまで魅了してきたのは、
やはりクラプトンのパティに対する想いだと思います。
「オマエ、さっきまで随分、幻滅させる様なことばかり書いてこなかったか?( ゜д゜)」
と言われても無理ないことなのですが、しかし、やはり、この曲には何か言いようもない、
得体の知れない力が宿っているのではないでしょうか

勿論、楽曲が優れていることは言わずもがなです。非常にキャッチーで、それでいて思わず拳に
力が入ってしまう様な、あの印象的なリフが何より、と思えば、歌のパートに入ると転調すると
いった、一筋縄ではない構成になっており、そして後半のピアノから始まるパートへと、
異なる曲をつなぎ合わせたアレンジなど。ただの凡庸なR&Rやブルースに終始してはいません。
しかし(本当に私、この曲をdisってる訳じゃないんですよ、鼻血が出るほど好きです(´・ω・`;))、
スティービー・ワンダーやエルトン・ジョンなどの数多の名曲と比べて、単純に、音楽的に
楽曲だけを取り上げた場合、同列に挙がる曲かと言われると、残念ながらそうではないと
思うのです。じゃあ、何故、この曲を聴くたび血沸き肉躍り、随分長い事聴いてきたにも
関わらず、時にはこんなオッサンの涙腺を崩壊させるのか、月並みな言葉になりますが、
やはり、この曲にはHEART、そしてSOULがあるから、という一言に尽きると思うのです。
さらにタイミングが良かった。クラプトン自身のコンディション、出会えた仲間たちなど。
自身も後に語っていますが、ギタリストとして一番ノっていた時期が、デレク&ザ・ドミノスの
頃であった。歌は、ドラッグとアルコールでかなり苦しいそうな歌い方に聴こえなくもないですが、
ギリギリの感じで、より切なさが増すような声になっていると思います。あと1~2年遅かったら、
酷い状態になっていました。実際72年は全く活動をせず、未成年の少女と隠遁生活に陥っていました。
デラニー&ボニーから”引き抜いた”、ウィットロック、レイドル、ゴードンという、素晴らしい
リズムセクション。名プロデューサー トム・ダウドが関わったこと、そして何よりも、本アルバム
「Layla and Other Assorted Love Song」の楽曲の殆どに参加し、クラプトンと共に素晴らしい
プレイを繰り広げたデュアン・オールマンの存在があります。

”三角関係”等の経緯の話でスペースを費やしてしまい、本作の音楽的部分等にはあまり触れることが
出来ませんでした。で、二回に分けます。ちなみに少しだけ「Layla」以降の話を。ジョージとパティの
間はまた冷え込んでいき、パティはロン・ウッドと浮気を、ジョージはリンゴの奥さんとこれまた関係を、
結局二人は74年に離婚。クラプトンは徐々にパティにアプローチしていき、離婚後に同棲を始め、79年に
遂に結婚。しかしクラプトンもその間、パティ一筋だったかというと、”当然”そんなことはなく、
星の数ほどの女性と付き合っていたそうです(もう何がなんやら…(´Д`))。

やはり一回でこの話を書き切るのは無理でした(だから言ったでしょ、長くなるって・・・( ̄m ̄*))
次回、その2へ。次は本作の音楽的部分・制作経緯等を。(二回で終わるかな~… (´・ω・`))

#8 Crossroads

ロンドンのやや南に位置するリプリーという町に、1945年3月30日、一人の男の子が
誕生しました。母親が十代半ばという若さでの出産だった故、祖父母を両親、母を姉、
そして叔父を兄として、少年はある時期まで育てられました。”兄”エイドリアンが
音楽好きだったため、ベニー・グッドマンなどのジャズ、初期のR&Rといった
アメリカ音楽を、その少年は”兄”の影響あって聴き育ち、やがてその中の一つである
” ブルース ”に少年は魅せられてしまいます。中古で買ってもらったギターで、ひたすら
寝食を忘れて練習する日々が続きました。少年の名はエリック・パトリック・クラプトン。
言わずと知れた”ギターの神様” エリック・クラプトンその人です。

クラプトンの公式な音源として最も古いものは、63年12月にアメリカのブルースマン
サニー・ボーイ・ウィリアムソンのバックを
ヤードバーズの一員として務めたものです。
ここでのプレイは決してその後の様なものではなく、クラプトンだと知っていて聴けば、
その後の片鱗を見い出せるかな、といったプレイであり、知らずに聴いたら、言い方は
本当に申し訳ないですが、凡庸なブルースギタリスト、といった印象を個人的には
受けるものです。実際、ウィリアムソンは「ロンドンでブルースを演っているという
若い連中とプレイしてきたが、退屈な演奏だった」の様な旨を後に語っていたそうです。
(余談ですが、その語った相手は後にクラプトンにも多大な影響を与える「ザ・バンド」の
メンバーでした)。ところが翌64年3月、「Five Live Yardbirds」においては、
技術面・フィーリング等において、クラプトンのスタイルは基本的に完成されています。
このたった三ヶ月ほどの間に何があったのか?ある著書で述べられていたことですが、
”まさしく「十字路」で悪魔に魂を売り渡す契約をしてしまったのではないか?
それ程までに驚くべき進歩だ” とでも思わざるを得ないほどの劇的な成長なのです。

”ポップ化”していくヤードバーズに嫌気が差し、当時イギリスにおいては、希代のブルース
コレクターでもあった、”ブルースの師匠” ジョン・メイオールのバンドに参加し、ここで
レスポール&マーシャルアンプという、その後のロックギターサウンドに多大な影響を
与えるトーンを創り出します(クラプトンの使用機材遍歴については、語っていると
それだけで一冊本が書けてしまうので、今回はあまり詳しくは記さないこととします)。
その後、”最強のロックトリオ” クリームを結成し、大きな話題を集めます。
このバンドの様な長い即興演奏は、人によって好みが分かれる所でしょうが、
ロックにおいて、ブルースをベースに各メンバーの力量を思う存分振るう、といった
スタイルの音楽は当時としてはかなり斬新であり、また衝撃的だったことでしょう。

ロバート・ジョンソン 作の「Crossroads」。アルバム「Wheels of Fire」に収められている
このライブ演奏は、50年近く経った現在でも、クラプトンの、というよりロック史に燦然と輝く
名演として取り上げられるプレイです。この時期の本曲の演奏はブートレグを含めて、
幾つか聴くことが出来ますが、本作収録の68年3月10日ウィンターランドでの演奏が白眉です
(だからこそ収録されたのでしょうけれども)。
ヘヴィメタル・ハードロックを好んで聴く方達からすると、”そんなに速く弾いてないじゃん”
と思う向きもあるかもしれませんが、このフレーズセンス、音色、そしてグルーヴの素晴らしさが、
半世紀を経た今の世でも語り継がれる理由でしょう。ジミ・ヘンドリックスのような革新的な
プレイではありませんが、流麗で艶っぽく、時に泣き叫ぶ(またはむせび泣く=ウーマントーン)
様なクラプトンのプレイが、多くの人たちの心を掴んで離さないのでしょう。
この当時でも、クラプトンがロックギタリストの中で最も上手かった(速く、複雑、かつ正確に
演奏する、という意味における技術において)かというと、必ずしもそうではないと思います。
既にデビューしていた中では、例えばイエスのスティーヴ・ハウ、テンイヤーズ・アフターの
アルヴィン・リーなどは、その意味のテクニックにおいてはクラプトンより上だったかもしれません。
また先述したザ・バンドのロビー・ロバートソンもかなりの技巧派だったようです。
なぜクラプトンが同時期に活躍していた彼らよりも突出して注目を浴びるようになったのか?
私見ですが、”分かり易さ”だと思っています。シンプルであるが、それでいて人間の根源的な感情に
訴えかけてくる様なマイナーペンタトニックスケールに根ざしたフレーズ(演歌民謡に通じる様な)、
うっとりするほど綺麗なチョーキングビブラートなどは、かなり長い年月を聴いてきた現在でも
今だに惚れ惚れしてしまいます。スティーヴ・ハウはバリバリにクラシックを、アルヴィン・リーは
ジャズをかじっていた人なので、テクニックのバックボーンはクラプトンとは異なる、というか上で
あったと言っても良いでしょう。Charさんが以前テレビにて、「自分がどうして少年時代、あれほど
クラプトンに魅かれたのか、それはフレーズが全部口で歌えた、からではないかと思う。当時はまだ
よく分からなかったが、クラプトン自身もシンガーであることに起因していたのではないか」
の様なことを仰っていました。口で歌える、言い換えれば「歌心があるギター」と言えるでしょうか。
ハウやアルヴィンのクラシック・ジャズ的要素は、ポップミュージックにおいては、時に容易な
音楽的理解を妨げる、有体に言えば、分かりずらい・難しい、という側面も持ち合わせしまっています。
さらにもう一つ、これを言ったら身も蓋も無い事なのですが、クラプトンは見た目が良かった、
という点もあったと思います。あのルックスで、あのギターの腕前で、人気が出ない方が
どうかしてしている、と言って良い程でしょう。ハウやアルヴィンがもっとイケメンだったら、
少しロック史が違っていたかもしれません(お二人とも、本当すいません <(_ _)><(_ _)><(_ _)>)。

人間関係等からバンドが長続きせず、またザ・バンドの様に歌と音楽に心を注ぐ方向を目指したくても、
テクニック面のみに注目が集まってしまい、音楽そのものに対する評価が得られない状況などに
ストレスを抱え、クラプトンはドラッグとアルコールに溺れていきます・・・・・それだけでは
ないですね。当然ご存じの方は「一番大きな問題があっただろう!」とツッコミが入るでしょう。
それは次回のネタですので……… あまりにも有名なエピソードですので、普通に語られて
いるのとは、ちょっと変わった切り口でその件については書いてみたいと思っています。

もっと簡潔に書くつもりだったのですが、随分長い文章になってしまいました。おじさん、
クラプトンの事になると筆が止まらなくなっちゃうんです。(´・ω・`)
次はもっと長いかもしれません。覚悟していなさい。

 

#7 There and Back

78年暮からヤン・ハマーと共にレコ-ディングに取り掛かった、
本作「There and Back」は、一度制作が中断され、79年6月から
ジェフは再びツアーに出ることとなります。ウィキ等では、その仕上がりに
満足がいかなかった為と述べられている所ですけれども、真偽の程は不明ですが、
実はヤンが他のメンバーの彼女に手を出したことで、人間関係に亀裂が
生じたことによる、という話もあります。いずれにしろツアー終了後に、
共演したトニー・ハイマス(key)、サイモン・フィリップス(ds)そして
モー・フォスター(b)
というオール英国人の布陣で制作が再開されました。
ハイマスは王立音楽院卒のエリート、フォスターはイギリスの
ジャズロックシーンにおいて名うてのセッションベーシスト、
そしてサイモンは70年代後半から、イギリスプログレ界のスター達が集結した
「801 Live」や、マイク・オールドフィールドのアルバムなどで、
めきめき頭角を現しつつあった新進気鋭の若手セッションドラマーでした。

 

 

 


①~③がヤン加入時、④~⑧がその後、と曲順の並びで分かり易くなっています。
しかしそれによって、ガラッと楽曲・サウンドの印象が変わっているという事はなく、
本作全体に”孤高のギタリスト ジェフ・ベックが紡ぎ出す宇宙的音世界”とでも
呼ぶにふさわしい、独特で一貫した印象の素晴らしいアルバムに仕上がっています。
ジェフは、全く出来ないというわけではないでしょうが、アレンジ・プロデュースと
いった能力にはあまり長けていない、根っからの”ギター職人”の様な人なので、
本作の統一感は、ハイマスが、ヤンの作って行った楽曲・サウンドのコンセプトを
踏襲した、またプロデューサー ケン・スコットによるものかと思われます。
スコットは、ビートルズのエンジニアとして有名なジェフ·エメリックとともに、
アビーロードスタジオで仕事をしていました。エメリックと同様、
特に後期ビートルズのサウンドメイキングに関わった人物です。
「Star Cycle」は、私を含めたオッサン世代は耳にしたことがあるはず、
プロレスがまだゴールデンタイムでテレビ放映されていた頃、
新日本プロレスのオープニングテーマに使われた曲。ちなみにこの曲、
ドラムはヤンによるプレイ。前作でも叩いていますが、それはとても
上手いのですが、やはり本職ではない人、特有の感じがありました。
(もっとも、S・ワンダーなどもそうですが、本職でないプレイヤーは
目からうろこ的な、大胆でシンプルなフレーズをいともあっさりと
プレイしてしまったりして、非常に驚かされることがあります。また、
ヤンもスティーヴィーも、そのグルーヴは素晴らしいものです。)
しかし、本曲におけるドラムは上手過ぎます。恥ずかしながら、
かなり長い間、サイモンのプレイだと信じて疑わなかった程です。ただ、
それ以外の曲とは少しドラムの音色が違うな、と感じてはいましたが。
「Space Boogie」におけるサイモンの怒涛のプレイが有名ですが、
「The Pump」「The Golden Road」などでのセンシティブな
プレイも必聴ものです。サイモンのドラミングに関しては、
ここで語り尽くすにはスペースが足りないので、是非また別の機会に。

R&R、ブルース、R&B、ファンク、そしてジャズ・フュージョンと、
様々なスタイルを
経てきたジェフですが、本作にてその後のサウンドが
確立された様に思います。
全編インストゥルメンタルであるのは前2作同様ですが、
本作は
ジャズ・フュージョンとはカテゴライズ仕切れない、まさしく、
”ジェフ・ベック・サウンド”としか言いようのない音楽が成立しています。
エリック・クラプトンと同じく、ジェフのプレイが、ブルースにそのルーツが
あることは間違いないのですが、オーソドックスな、ペンタトニック・スケールに
根ざしたブルースを追及するクラプトンに対して、ジェフは(クラプトンに
比べれば)トリッキーで、革新的なサウンド・奏法(機材の扱いを含め)を
追い求めてきた、と言えるでしょう。ジミ・ヘンドリックスと共にロックギターに
革命を起こした、と常々評されるのは衆目の一致するところです。
つい先日、来日公演を果たし、その際のインタビューにて「尊敬する友人であり、
勿論最高のギタリストであるが、エリック(・クラプトン)みたいに
同じスタイルの音楽(ブルース)を延々とやり続けるのは自分には出来ない、
音楽で実験することを楽しむタイプなんだ」と語っていました。
無論どちらが良い悪いということではありません。ですが、72歳で
” まだ新しいことやるんすか!! (゜ロ゜) ”というのは驚愕です。
顔のシワこそ深く刻まれてはきていますが、まだまだ”ロック”している
ジェフを見ていると、自分もこんな年寄りになれれば良いなと、少しでも
近づくことが出来ればと思い、日々練習に励むようにしております。

3回に渡り、ジェフ・ベックについて書いてきましたが、具体的な
奏法・テクニック面についてあまり触れることが出来ませんでした。その辺は
是非また別の機会にて、という事でジェフ・ベック編はひとまず終了です。

#6 Wired

ジェフ・ベックが「Blow by Blow」を制作するに至ったのは、
その当時、マハヴィシュヌ・オーケストラなどのジャズロックに
傾倒していた為で、G・マーティンにプロデュースを依頼したのも、
彼が当時、マハヴィシュヌの最新アルバムを手がけたことが理由と
言われています。そして、本家マハヴィシュヌのオリジナルメンバー
ヤン・ハマーもプロデューサーに迎えて作り上げたのがこの「Wired」。

前作よりも、アグレッシブな”バトル”色が強まった感があるのは、
ヤンの加入があったことによるものかと思われます。
オープニング曲「 Led Boots」のドラミングを聴いて、
「何じゃ、こりゃ~!Σ(゚◇゚;)」と、かなりの方がぶっ飛んだのでは。
その後80年代からは、ホイットニー・ヒューストンなどのプロデュースで
有名になるナラダ・マイケル・ウォルデン。ミュージシャンとしての
キャリアのスタートはあくまでドラマー。当時、マハヴィシュヌにいた
ナラダをヤンが引っ張って来たのでしょう。前作から引き続き、
マックス・ミドルトン(key)もほぼ全編に渡りプレイしています。
本作ではクラヴィネット・エレピにて殆どバッキングに徹していて、
シンセでの目立つソロはヤンによるものと思われますが、
二人のプレイスタイルを聴き比べるのも、また一興です。
(一例として「Play With Me」にて、クラビネットによる
イントロ~バッキングがミドルトン、シンセでのソロがヤン)
ヤンは「Blue Wind」にてドラムもプレイしており、
これが結構上手い、天は二物をうんちゃら…ってのは絶対ウソです。

 

 

 


本作中、唯一のカバー曲「Goodbye Pork Pie Hat」はジャズベーシスト
チャールズ・ミンガス作のものですが、他の曲における派手なプレイに
耳を奪われがちですけれども、本曲中でのジェフのプレイ、とりわけ音色、
場面場面におけるそのトーンセレクションは素晴らしいの一言に尽きます。
ジェフの多彩なトーンコントロール、そのチョイスの巧みさは、
彼の特徴としてよく挙げられる所ですが、本曲におけるそれは、
個人的にはジェフの全プレイ中でも一二を争うものだと思っています。
ドラムは更に、これも前作から引き続きのR・ベイリー、
LAのセッションドラマー エド・グリーンも参加していて、非常に贅沢な
リズムセクションのラインアップとなっています。

ロック畑のプレイヤーが、ジャズ・フュージョンの人たちと組むと、
そのテクニックに”喰われて”しまうこともあるのですが、ジェフの
凄い所は、それをものともしない堂々っぷりではないでしょうか。
速く、複雑に、かつ正確な演奏をする、という技術の点においては、
ジェフはヤンやナラダより、率直に言って明らかに劣っています。
しかし全くそんなことに気後れもせず、”これが俺の音だー!”と
彼にしか弾けない唯一無二のプレイを、これらの猛者に対しても
何の躊躇いもなく演奏しているように聞こえます。(ただ意外にも、
G・マーティンのコメントによると、ジェフは案外、自分のプレイに
「これで良かったのだろうか?」と後から悩む一面もあったとの事)
更に言えば、ジェフは音楽面にて「俺が!俺が!」的な性格では
決してなく、例えば「
Play With Me」において、ジェフは
テーマを弾く以外はカッティングに回っていて、ヤンのソロの方が
フィーチャーされています。これはコメントなどの裏付けが
あるわけでなく、あくまで私の憶測なのですが、この曲において、
ジェフは決して”喰われて”しまった訳ではなく、制作段階にて、
「この曲は君(ヤン)のシンセのプレイを際立たせた方が良い、
俺はバッキングに徹した方が良いと思う。」の様なやり取りが
なされたのでは、
と勝手に思っています。そしてそれは見事な
演奏として成功しております。我が強いと言われているジェフですが、
前回の記事で記した通り、マーティンの提案をあっさりと受け入れた
エピソードなどからも、ジェフはそれが良い結果をもたらす事なら、
全く意に介せず、引くところは引くような人なのではないでしょうか。
「それがどうした?グッドサウンド・グッドミュージックならイイじゃん!」
の様な感じで。ただし、自分が(音楽面、それ以外でも)納得いかない事は、
テコでも譲らない性格故に、周囲との衝突も多かったので、と思うのです。

#5 Blow by Blow

恐らく一人か二人しかいないと思いますが(…いなかったりして…(´;ω;`))、
このブログを一回目から読んで下さっている物好……オールド洋楽ファンの
中にはお気づきの方もいらっしゃるかもしれませんが、このブログ、
何かしら前回から関連するテーマを引き継いで書いております。今後も
そのように続けて行こうと、(あっ、でも公言しといて、やっぱり
出来なかったりしたら格好悪いんで、….゚。(゚Д゚;)≡(;゚Д゚)・。゚・・・)
思っていますん!! (・`ω´・)✧

という訳で、今回はG・マーティンつながり。ビートルズ以外の
プロデュースワークで、まず挙がるのはこれでしょう。
ジェフ・ベック「Blow by Blow」。70年代のフュージョンブーム
(当時の言葉でクロスオーヴァー)の火付け役となった一枚。
そのわがま……自由奔放な性格故に、バンドが長続きせず、
ソロ名義で初のアルバムとなった本作は大ヒットしました。
個人的な事ですが、私がジャズ・フュージョンのドラムに
開眼させられるきっかけとなった一枚です。本作を耳にしたのは、
高校に入学してドラムを始めた頃、それまで聴いていたロックの
ドラミングとは何かが違う、当時はまだ分かりませんでしたが、
それがダブルストロークやパラディドルといった”ルーディメンツ”、
複雑な両手両足のコンビネーション、所謂”4WAYインディペンデンス”に
よるものだと理解できるのは、もうすこし後の事でした。

 

 

 


”第二期ジェフ・ベック・グループ”からの盟友 マックス・ミドルトン(key)、
セッションベーシストのフィル・チェン、そしてレコーディング時
若干18歳のリチャード・ベイリー(ds)という布陣。本作におけるベイリーの
ドラミングはまだ超絶技巧といったものではありませんが、緻密に練られた
フレージング、その音色とグルーヴは非常に素晴らしく、
この強者達と十分、いやそれ以上に互角に渡り合っています。
ジェフのプレイにおいては、スティービー・ワンダー作の
「Cause We’ve Ended as Lovers」(哀しみの恋人達)における、
俗に言う、”泣きのギター”が有名ですが、そのサブタイトル
「ロイ・ブキャナンに捧げる」にて、殆どのロックファン(私も)は、
ロイの名前を知ったのではないでしょうか(ロイについては是非別の機会に)。
”意外”な事に、ジェフはマーティンの提案などを驚く程素直に受け入れていた
そうです。「Scatterbrain」 「Diamond Dust」におけるストリングス
アレンジはマーティンからのものだったそうですが、最初、ジェフから反発が
あるかと思っていた所、彼は微笑みを見せ、「うん、あなたがそういうなら、
それでいいんだろうね」と言ったとの事。そしてその出来上がりにジェフは
とても驚き、そして興奮したそうです。実際にこの2曲における演奏
及びアレンジは見事としか言いようがありません。
ミドルトンの存在も大きく、楽曲の提供は勿論、マーティンの考えを
ジェフに分かり易く伝える”仲介役”の役割を果たしてくれた事が、
本作の音楽的成功に寄与したとの旨をマーティンは後に語っています。
トリビア的な事ですが、「哀しみの恋人達」と並んでもう一曲の
スティービー・ワンダー作による「Thelonius」、これは
クレジットはされていませんが、実は本曲でのクラヴィネットは
スティービーによる演奏とのこと。元々はスティーヴィーのアルバム
「Talking Book」のアウトテイクだったそうです。

全くの余談ですが、私ずっと「Blow by Blow」の意味を、風が
次から次へと、びゅーびゅー吹いている様を表す熟語だと思っていました。
が、今回ブログを書くにあたって調べてみたら、”(ボクサーの一挙一動を
解説するように)「非常に詳細な説明」、「詳細に・詳しく」”といった
意味だというのが初めて分かりました。”風”ではなく、ボクシングの
”パンチ”の方のBlowだったんですね。「Scatterbrain」などは
”風”の方がむしろぴったりな曲なんですが・・・。
三十年以上、ずっと間違ってたんですね………… (´・ω・`)
ジェフ・ベックネタはもう少し続きます。

#4 Abbey Road

意外と知られているか、いないか。発売順では「Let it be」が最後ですが、
録音された時点においては、本作「Abbey Road」が
実質的ラストアルバムだと言われていました、少なくとも80年代までは。
しかし90年代に入って、「Let it be」に本作後の音源が
含まれていることが判明し、何をもって実質的ラストアルバムか、というのが
ちょっとした議論になりました。しかし四人とプロデューサーG・マーティンが、
”一応”一丸となって、一つのアルバムに取り組んだという意味においては、
本作を実質的ラストとして良いと私は思っています。そして、
このバンドがエルヴィス・プレスリーと並んで、ポップミュージック界を
代表する存在として、いまだに神格化されているのも、
本作があったからこそではないか、と思うのです。
気持ちがバラバラになっていたメンバー達が、ポールの「もう一度」という
声かけに応じ、とても解散寸前のバンドとは思えない、この様な大傑作を
作ってしまった。もし、ホワイトアルバムの後、”ゲット・バック・セッション”が
頓挫し、「Let it be」がリリースされたにしろ、されなかったかにしろ、
いずれにしろ、そのまま尻切れトンボで終わっていたとしたら、
これほどの伝説的存在にはなっていなかったのではないでしょうか。

 

 

 


あくまで私見ですが、本作を大傑作たらしめているのは、B面途中からのメドレーに
よるもので、そしてそれは主にポールとG・マーティンの功績、と思っています。
” ちょっとまて、ジョンの曲も素晴らしいのは勿論、ジョージは「Something」と
「Here Comes the Sun」でソングライターとしての才能が開花した。そして、
リンゴのプレイは、グルーヴ、フレーズのセンス、そしてそのアイデアにおいて、
もはや円熟の域に達しているではないか。” といった意見が出るのはごもっとも。
異論は大いに認めます(…………でもお手柔らかに♫ (ゝω・)v …………)

ポールから「もう一枚レコードをプロデュースして欲しい」と声がかかった時、
ゲット・バック・セッションが悲惨な結果に終わり、ビートルズとして、
彼らから声がかかる事はないと思っていたマーティンは驚き、そして、
四人がまとまって制作に取り掛かり、そして”本当の意味で”
(バンド内のいざこざのツケが押し付けられるだけの役目ではなく、音楽的に)
プロデュースさせてくれるなら、との条件で引き受けたそうです。
多分初めは疑心暗鬼だったのではないかと思います。しかし、
制作が進むにつれ、「こいつは凄いのが出来上がるかも」という思いが
胸中に芽生えていった(勿論メンバー達にも)のではないでしょうか。
B面メドレーは、一つ一つの楽曲がそれ単体では完結しなかったことにより、
その結果としてあの様な形になった、と言われています。が、一部には、

いや、少なくともポールの楽曲に限っては、初めからその構想が
あったんじゃないか?と、これまたマニア達には議論の的です。
制作途中にジョンが交通事故で入院するといったアクシデントもあり、
私は前者の方が真相ではないかと思っていますが、
そのアクシデントまで含めて、全てが良い方に向かうように、
制作時には”風”のようなものが吹いていた気がしてなりません。
私は無神論者で、運命論など微塵にも信じない不信心者ですが、
音楽の神様か何か分からないが、”上の方にいる見えない何か”から、
「おまいらに最後もう一度傑作を作るチャンスをやるよ (゚Д゚)ノ⌒○」
の様な力が働いたのでは、と思わざるを得ないことが稀にあります。
勿論それは、基本的に関係者全員の才能及び努力によるものだと
いうのは言わずもがなですが・・・

その後、70年4月にポールが脱退を表明、裁判沙汰や、その後も
メンバー間の確執が残るなど、決して有終の美を飾った終わり方では
ないですが、年が経つにつれ徐々に仲直りすることが出来た様で、
近年のインタビューにてポールは、「ジョンが亡くなる前に仲直り
出来て良かった」の様なコメントを残しています。昨16年には、
G・マーティンも亡くなり、携わった人達がいなくなっていくのは誠に
寂しい限りですが、ポールとリンゴはいまだ現役で活動しています。
なにより、ビートルズがその終焉を迎える前、一時ではあったにせよ、
奇跡の様な音楽が作り上げられた幸福な時間を、本作を聴くたび、
後世の我々も共有することが出来るのです。
これはちょっと素晴らしいことではないでしょうか。

 

#3 Sgt. Pepper’s Lonely Hearts Club Band

ビートルズファンの間で議論になる定番ネタとして、
前期・後期いずれの方が好きか?というのがあります。
永遠に尽きないネタですが、その分かれ目は「Rubber Soul」より前、
それ以降、として良いと私は思っております(これ自体議論のネタですが)。
そして、後期、というより全キャリアを通しての最高傑作と評されるのがこの
「Sgt. Pepper’s Lonely Hearts Club Band」
どのアルバムが一番好きか?というのも定番ネタで、必ずしもこれ、
という人ばかりでないでしょうが(私もその一人)、その後のポップミュージックを
劇的に変化させたアルバムであるのは間違いありません。

当初、制作は架空の”ペパー軍曹のロンリーハーツクラブバンド”という
ショー仕立てのストーリーを持った所謂「コンセプトアルバム」として始まりました。
しかしレコード会社の(マネージャーB・エプスタインとの説も有)”レコード早く出せ!
早く売れ!”の圧力によって、「Strawberry Fields Forever」「Penny Lane」を
切り売りされてしまったことにより、特にジョンが、コンセプト云々としての制作意欲を
削がれる結果となりました。ジョンは後に「あのアルバムがコンセプトアルバム
なんて言われるけど、そんなつもりで作った訳ではないんだ。
せいぜいタイトル曲のリプライズがB面最後の方に入っているくらいさ」などと、
インタビューにて、いかにも皮肉屋のジョンらしいコメントを残しています。
よくロックを革命的に変えたと評されますが、その主な”革命性”を簡潔に、
具体的に一つずつ列挙すると(曲名長いので収録順のみ記載)、
◆①テーマから、架空の”ビリー・シアーズ”というシンガーのショー②へと
繋がる、また⑫にてオープニングテーマのリプライズ、そして
レコードジャケットまで含めて一つの作品、というトータル・コンセプト性
◆隠喩的にドラッグについて歌った②③⑤
◆パイプオルガンの演奏を録音した磁気テープをバラバラに切り刻み、
繋ぎ合わせてSE(サウンドエフェクト)的に使用した⑦
◆インド音楽のフレーバー(ラーガロック)を取り入れた⑧
◆異なる2曲を繋ぎ合わせた⑬
その実験性の例として、よく⑦のSEが挙げられますが、
これが本作を傑作たらしめているということではなく、
出来る事は何でも試してみよう、という制作時にみなぎっていた
”機運”をあらわす象徴的出来事として捉えるのが適当でしょう。

 

 

 

しかし後の世に生まれた世代の残念な所は、これらを発売当時の人々程の、
衝撃・感動をもって聴く事が出来にくいのではないか、ということ。なぜなら、
ここで行われたサウンドアプローチ・手法などは、後のミュージシャン達によって、
子引き・孫引きの形で踏襲され、後世のリスナーは本アルバムを聴く以前に、
大抵はどこかでそれを耳にしてしまっているからです。
また⑦のSEなども、後の世、特に80年代以降なら、もっと劇的かつ効果的なSEを
(しかももっと容易に)作り出すことが可能になりました。
しかしながら(
映画に全く詳しくないのでが)、初期のディズニー映画やゴジラなどの
特撮物は、そのアニメーション技術・特撮効果といったテクノロジーにおいては、
後世とは比較にならない程チープなものでしょう。しかしそれらや本作は
時代を超えて名作と親しまれています。その理由は、先駆けとなった精神性、
またなにより、そのストーリーや楽曲が優れている、といったテクノロジー云々
以前の要素は勿論の事、そして本作に関しては、質の高さとエンターテインメントが
両立している、という面があります。「内容は高度だけど、玄人にしか受けない」、
「面白いけど売れ線だな」といったものは他にありますが、これが両立しているのは
ロック・ポップスにおいても、あまり多くないのではないかと私は思っています。

ビートルズネタは難しいです。私などはマニアとまでは言えない普通の
一ファンに
過ぎないので、客観的事実の誤りは勿論、主観的意見を
述べただけでも、日本に限っても巨万といるビートルズマニア達から、

「それ間違ってるよ!」「何言っとんじゃ、ゴルァ!!」(#゚Д゚)・・・・(((((゚Å゚;)))))
といった事になりかねません。(ウソですw。ビートルズファンにそんな
怖い人達はいません。…………………いないんじゃないかな…………)

本作の音楽的・商業的成功とは相反して、その後、
バンド内における亀裂の深まり、
B・エプスタインの死など様々な理由により、
その活動は徐々に
終焉へと向かうことになります。