#19 Close to the Edge

ピンク・フロイド「Echoes」、キング・クリムゾン「Lizard」、ジェネシス「Supper’s Ready 」、キャメル「The Snow Goose」。今、思いつく限り挙げてみましたが、これらの共通点がすぐにわかってしまった人は、かなり重症のオールド洋楽シンドロームにかかっています。対処法としては、このブログを定期的に読むことです。それしか治療法はありません。
(たまにでいいから読んで下さい、おながいします… (´;ω;`))
その共通点とはLP時に、片面全てを使って一曲(「The Snow Goose」はAB面通して)という、とんでもない楽曲構成ということ。今こんなことをやったら頭おかしいの?と思われることでしょうが、70年代はこれが許されてしまったのです。そして、お分かりの人は”一つ大事なのが抜けとるぞ!ゴルァ!!(#゚Д゚)” とすぐにお気づきになられるでしょう。そうです、今回のテーマ、72年発表イエスの代表作にて最高傑作と評される「Close to the Edge(危機 )」そのタイトル曲です。

前作「こわれもの」のヒットにて、世界にその名が知られ、米国アトランティックからもようやく認められた彼らでしたが、バンド内の不和はかなり深刻な状態でした。なかでもビル・ブラッフォード(ds)とジョン・アンダーソン(vo)の関係はかなり険悪で、アンダーソンが度を過ぎて”きっちり・かっちり”とした構成を求める為に出口が見えない程、レコーディングしては修正、またレコーディングしては修正、という無限ループの様な状況。また難解な文学的歌詞の志向に、ブラッフォードはウンザリしていたそうです。彼はジャズにそのルーツを持つ人なので、もっとフリーにプレイしたい、といった願望がありました。以前からキング・クリムゾンの音楽性に魅かれ、ロバート・フリップと接点をもっていた彼は、結果的にアルバム発表後のツアー中に脱退して、クリムゾンへ加入しました。しかし、そのブラッフォードをもってしても、完成した本曲を聴いた時には、その出来栄えの素晴らしさに感嘆したそうです。

19分近くに及ぶ本曲は、とにかく聴いてみてもらうしかありません。今回は細かく楽曲の構成を四の五の言わないようにします。ただ”聴きどころ”だけを三点挙げると、
①SE的イントロを経て、00:57秒頃に始まるテンション感溢れる動的アンサンブル
②08:30~14:15秒頃までの静的パートにおける、終盤盛り上げりのパイプオルガンとシンセの音色、その後に続く上記①を更にテンションアップした動的パート
③16:32秒辺りのエンディングへと向かう展開
勿論この箇所だけを抜き出して聴いても意味はありません。YouTubeで聴けますので(お金に余裕のある人は、上のアマゾンリンクから買ってください)、人生におけるたった20分弱の時間です、騙されたと思ってこの曲に耳を傾けてみて下さい。

ブラッフォード脱退に伴い、新メンバーとしてアラン・ホワイトが加入。ブラッフォードよりシンプルで、ロックフィーリングに溢れたそのドラミングはイエスに新たなエッセンスをもたらしました。その後リック・ウェイクマンも脱退し、70年代も人事的に安定しないのは相変わらずでした。遂には中心メンバーであるアンダーソンですら一時バンドを離れます。バグルスのトレヴァー・ホーン (vo)、ジェフ・ダウンズ(key)が参加(というよりイエスとバグルスの”合併”と言った方が正確かも)してバンドは何とか存続の道を探ります。
83年発表の「90125(ロンリー・ハート)」からのシングル「ロンリー・ハート」が、全米NO1ヒットとなったのは前回で触れた通り。その後一時期、スクワイアを除く黄金期のメンバーとそれ以外のメンバーで、イエスが分裂した時期もありました。08年にアンダーソンが完全に脱退。15年には創設メンバーであったクリス・スクワイアが死去(享年67歳)。その後は別活動を行っていたアンダーソンと「イエス」ではない名義で合併し、実質上の「イエス」として、流動的ではありますが、今日でも彼らの音楽は連綿とそのDNAを紡いでいます。

ピンク・フロイドがロジャー・ウォータース、キング・クリムゾンがロバート・フリップの、その強烈・強力な音楽的個性及びリーダーシップによって成り立っていたのに対し、イエスは先に述べた様に(良くも悪くも)民主的なバンドだったのでしょう。強いて言えば、中心的役割を担ったのは創設メンバーであった、アンダーソンとスクワイアと言えるでしょうが、それとて絶対的なものではなく、実際に一貫して在籍し続けたメンバーは一人もいない(分裂期を考慮しなければスクワイアは唯一亡くなるまで居たとも言えますが)という事実を鑑みても、”イエスはこの人ありき”といったバンドではなかったと思いますが、しかし(80年代初頭はかなり薄れましたが)その血統・DNAの様なものは50年近く受け継がれているといって良いでしょう。ロックシーンにおいて、かなり珍しい存続のあり方を辿ってきたバンドだったのではないかと思います。
これにてイエス編は終了です。次回はどのバンド、それともミュージシャン?・・・

#18 Roundabout

テレビアニメ『ジョジョの奇妙な冒険』のエンディングテーマとして使用されたことから、耳にした事がある方も結構おられるのでは。イギリスのロックバンド イエスの71年発表「Fragile(こわれもの)」のオープニング曲にて、シングルヒットした「Roundabout」。

初めから演奏力が突出したバンドでしたが、3rdアルバムからギター スティーブ・ハウが、そして4thアルバムである本作「こわれもの」からキーボード リック・ウェイクマンが加入し、黄金期のラインアップが揃います。こぼれ話ですが、以前からイエスと交流はあったウェイクマンでしたが、バンドの練習を見に来ないか?と電話を受けたときは、寝不足で翌日も朝が早かったので、大変不機嫌な状態で行ったとのこと。しかし、その時殆ど完成していた本曲「Roundabout」を耳にして、すっかり魅了されてしまい、そのままなし崩し的にバンドに加わったというエピソードがあります。その演奏技術においてイエスは、当時のロックバンドの中で最高峰だったと思います。”鉄壁なアンサンブル”という言葉はこの人達の為にあるのでないかと思われる程で、更にコーラスワークまで見事です。イエス=”テクニックのバンド”というレッテルが張られるほど。これには功罪いずれの側面もあるとは思いますが、本作にてアメリカでもアルバムトップ10に入り、世界的にその名が知れ渡ります。
キング・クリムゾンが重厚かつ高度で深遠な世界観(悪く言えば、難解かつ、陰鬱で沈んでいく様な内向きな音楽性)であったのに対し、イエスは高度な音楽性でありながら、外向きに解放された(決して軽いという意味ではなく)音楽世界を構築しました。もっとも人事面においては、クリムゾンに”負けず劣らず”安定しないバンドで、頻繁なメンバーチェンジからそれは見て取れます。クリムゾンが基本的にロバート・フリップの強力なリーダーシップによって構築された音楽(決して皆、唯々諾々と従った訳ではないことは前回までの記事で触れた通り)であったのに対し、イエスはある意味、”民主的”な集まりだったそうです。些末な事柄でも、全員で話し合い、徹底的に”民主的”に決定するという姿勢が、メンバーによっては、「タルい、時間がかかってしょうがない」、といったバンド内の状況だったそうです。「こわれもの」というタイトルは当時のバンド内の人間関係を表したものとも言われています。

「ラジオ・スターの悲劇」のヒットで有名なバグルスのトレヴァー・ホーンが主導権を握っていた頃の、83年発表、全米1位の「Owner of a Lonely Heart(ロンリー・ハート)」(この時期のイエスは基本的に”別物”と捉えた方が良いと私は思っています)を除けば、「Roundabout」は全米トップ20に入った最大のシングルヒット。8分以上に渡るこのような楽曲がシングルヒットするのは、極めて異例だと言えます(時代がそれを許容していたというのもあるでしょう)。本曲は高度な音楽性とコマーシャリズムが同居した、ポップミュージックにおいては誠に稀有な楽曲だと言えます。イントロの生ギター(これはナイロン弦ではなくフォークギターだと思います、多分…)のハーモニクスが非常に印象的で、これだけで”イエス的音楽世界”へ引き込まれてしまいます。リズム隊が入ると颯爽とした、軽快感さえ感じる展開へ。ジョン・アンダーソンのハイトーンボイスも相まって、非常にキャッチーな楽曲として始まりますが、やはりそこはイエス。クリス・スクワイアの重厚なベース、リック・ウェイクマンのオルガン、ムーグシンセを見事に使い分けたオブリガード的フレーズと、キャッチーでありながら一筋縄ではない高度なプレイと音色のセレクションです。曲は更にディープな展開へ。変拍子の”キメ”の後、03:20秒辺りからのポリリズム(異なるリズムの混在)を駆使した、ヘヴィーなパートへ。そして05:00秒頃にて、イントロ同様の生ギターのフレーズに戻り、静的パートへと回帰。そしてウェイクマンとハウによる怒涛のソロの掛け合いを経た後、ヴォーカルのパートを挟み、ラストは見事なコーラスワークと生ギターによる冒頭のフレーズをなぞったエンディング。8:30秒という長さを全く感じさせない見事としか言いようのない楽曲構成です。
エンディング曲「Heart of the Sunrise(燃える朝焼け)」は、次作の大作志向が既に現れている10分以上に及ぶ楽曲。これだけ長い楽曲は自ずと、静と動、緩急を使い分ける構成になりますが(そうでなければ飽きます…)、やはり見事の一言です。高い技術の裏付けがあるからこそ出来る、激しい複雑かつ高速なプレイのパート、決して”ダレる”ことなく緊張感を保った静的パート。この様な楽曲は、イエス、キング・クリムゾン、ジェネシスといった高度な技術・豊富な音楽的素養を有するバンドであるからこそ作り上げ、またそれを実際に演奏して具現化出来たものでしょう。
レッド・ツェッペリンとともに、期待の英国新人バンドとして、米大手アトランティックレコードと契約したイエスでしたが、ツェッペリンが初めから爆発的なヒットを飛ばしたのに対して、イエスは芽が出るまでに若干時間を要しました。色々な要因がありますが、例えば、初代マネージャーがマネージメントの専門家では無かった、本国アトランティックと上手く意思疎通・情報伝達が出来なかった為、販売促進活動が的を得たものにならなかった(米国側は、当初彼らを”フォークグループ”だと思っていたらしい・・・)等々。しかし、ようやく本作のヒットにて、世界的なロックバンドへと認知されるようになりました。

しかし先に触れたように、人事的には大変混乱しており、決して順風満帆な状況ではありませんでした。その様な”危機”をどの様にして乗り切っていったのか、または乗り切れなかったのか。その辺りは次回にて。

#17 Starless

俳優の高嶋政宏さんは大変なロックマニアで、ご自身もベーシスト(弟の政伸さんはドラマー)であり、ロック関連の番組に出演される時は”スターレス高嶋”と名乗られています。その”スターレス”とは高嶋さんの愛聴曲であり、キング・クリムゾン74年発表「Red」のエンディングを飾る「Starless」のことに他なりません。

同年3月発表の「Starless And Bible Black(暗黒の世界)」はスタジオ録音とライブ音源から成る作品。この頃からメンバー間には不和が(毎度の如く…)生じていたとのこと。「Starless」というタイトルから明らかな通り、本来は「暗黒の世界」に収録される予定だった曲。しかし収録は他メンバーの反対にあって、タイトルだけがアルバムと、B面一曲目のインストゥルメンタルナンバーに冠されることでその時は落ち着きました。
「暗黒の世界」ツアー終了後、デヴィッド・クロス(vio)が脱退。クロスは結局
「Red」にゲストとして参加しますが、正式なメンバーはフリップ、ウェットン、ブラッフォードの3人となります。ですが彼らの人間関係もかなり険悪になっていて、アルバムジャケットの3人の写真はそれぞれ別々に撮ったものを合成したとのこと。つまり一緒に写真を撮ることさえ嫌だ、という絶望的な人間関係に陥っていたようです。ちなみに「Red」というタイトルは裏ジャケットにある通り、録音レベルを示す針が振り切れて”レッドゾーン”に達している、つまりバンド内の人間関係も”レッドゾーン”だ、という意味合いもその一つと言われています。
しかし、「暗黒の世界」「Red」共に、決してバンド内の不和が悪影響を及ぼしているということは決してなく、前回も記しましたが、それさえも良い緊張感として昇華してしまうほど音楽的には成功しています。これは、メンバーそれぞれの力量の高さ、プロフェッショナルとして、あくまで音楽そのものは完遂するというモチベーションの結晶だと思います。更に本作には、過去にメンバーであったイアン・マクドナルドとメル・コリンズも参加しています。フリップとの仲違いが脱退の一因でもある彼らが何故また参加したのか?
勿論様々な理由があったとは思いますが、やはりフリップが創る音楽に魅せられ、自分たちもそれに関わりたいというのがあったと思います。お世辞ににもフリップの人間性に魅かれてではなかったと思うのです(フリップ氏に大変失礼<(_ _)>)。逆に言えばそれだけクリムゾンの音楽には魔性とも言える魅力があったのでしょう。バンド内の不和は基本的に音楽にも悪影響を及ぼす方が多いとは思いますが、しかし仲が良いだけの、和気あいあいとしたお友達バンドであることが音楽に良い影響を与えるかというと、これまた違うでしょう。ある意味この時期の彼らは、ストイックなまでに音楽第一主義であり、互いの人間的相性などは全く無縁で音楽に没頭できた、逆説的ではありますが、ある意味、理想とも言える状況にあったのではないでしょうか。

タイトル曲「Red」。クリムゾンにとって、そしてその後のロックミュージック全体において非常に重要な意味を持つナンバーだと私は思っています。フリップがそのような意図を持って作ったとかコメントがある訳でもなく、全く根拠のない私見ですが、本曲は”ロックの本質とは”と投げかけているような気がするのです。テーマの繰り返し、あまり展開をしない、間奏にソロ演奏などはしない、当然即興など介在する曲ではなく、これまでのクリムゾン像とはかけ離れた楽曲で、時系列でクリムゾンの音楽を聴いてきた場合、あれ? と思うものです。1stにてそれまでのロックには無かった様々な要素を取り入れ、見事な作品にまで昇華せしめたクリムゾンは、前回でも書きましたが、やがて即興性と”偏執的”なまでのリフレイン・リズムの反復という、相反する要素を混在させ、そして本曲では即興や特殊な楽曲展開などは鳴りを潜め、一定のグルーヴからもたらされる、ある種の高揚感が重要なファクターとなっています。一聴した感じでは、一般的なロック・R&Rとはかけ離れた音楽ですが、図ったか、図らずか、”ロックとは何ぞや”と投げかけているような気がするのです。ロックとはシャウトするヴォーカルでしょうか?間奏にギターソロがあればロックなのでしょうか?否、インストゥルメンタルでもキーボードトリオでもロックは成立します。ロックとは、一定のフレーズ・リズムの反復からもたらされるグルーヴ・高揚感にその本質があるのではないでしょうか。リフレインを「リフ」と称するほど、それは定着化しているではありませんか。本曲を聴くたびにその様なことを考えさせられるのです。
今回のテーマである「Starless」。1stの「Epitaph」やタイトル曲を彷彿させるナンバー。12分余の大作ですが、その構成の見事さには何度も聴いても圧倒させられます。冒頭、メロトロンとフリップのトーンを絞ったむせび泣く様な音色による抒情的テーマ。ウェットンのヴォーカルに優しく、しかし距離を置いて寄り添う様な(多分イアンの)サックス、全く明るさはありません。暗く、陰鬱な楽曲として始まります。これだけで終わっていれば特筆すべき楽曲ではありませんでした。圧巻なのはこの後、04:30秒辺りからのインストゥルメンタルパートに入ると、フリップが執拗に一定のリフをキープする後ろでウェットンとブラッフォードのインプロヴィゼイジョン、特にブラッフォードのドラム&パーカッションは見事の一言、間違いなく「太陽と戦慄」にて参加したジェイミー・ミューアの影響を受けたであろう、そのプレイは、打楽器とはここまで表現が出来るものなのだ、と聴くたびに目から鱗の思いです。極限までテンションを高めたこのパートを終えると、変拍子によるメルのサックスをフューチャーしたパートへ。一旦それが中断され、ヴォーカルのフレーズをサックス2本で奏でるパートを挟み、また変拍子のパートを今度はフリップのソロ(といっても既出のリフの延長)にて。後ろで鳴っているのは、多分歪ませたクロスのヴァイオリンだと思うのですが、ギターのピックスクラッチかもしれません。未だに不明です。
(分かる人は教えて(´・ω・`))
そして11:30秒頃からの圧巻のラスト。またサックス2本で冒頭のギターのフレーズを奏で、イントロのテーマを見事なまでに別次元へと昇華します、見事の一言。何度聞いてもこの怒涛のエンディングには涙腺が崩壊させられます。先述しましたがお世辞にも明るい曲ではありません。しかしただただ陰陰滅滅となるのかというとそれとも違います。聴き終わった後で不思議なカタルシス、浄化作用の様なものがあり、むしろ一種の清々しさが残るような楽曲です。
「Red」の様な7年後の「Discipline」へと繋がる、その後におけるクリムゾンの萌芽的楽曲から、「Starless」という劇的な従来のクリムゾン世界観まで。本作は、この時におけるクリムゾンの集大成だったのでしょう。当然フリップはこれにてバンドは終了、という気持ちで本作を制作したはずです。”真紅(=Crimson)の宮廷”に始まり、”星一つない暗黒”をもって、その幕を一旦閉じたクリムゾンの歴史は、ある意味当時におけるロックミュージック界の終焉を象徴しているような気がしてなりません。

90年代以降も、メンバーチェンジ(お約束の人事的トラブルは相変わらず…)や、活動休止を挟みながらも、クリムゾンは現在も活動を続けています。例えばバンドでもリーダーが殆ど作曲・編曲を手掛け、特に当人がヴォーカリストである場合などは、所謂”ワンマンバンド”で、バックメンバーが変わってもその音楽性には
あまり影響を及ぼさないバンドが結構あります(具体名は挙げませんが…)。しかしクリムゾンは異なります。あくまでその時々のサウンドコンセプトはフリップによるものですが、メンバーによってがらりと変わります。インストゥルメンタルの比重・重要性が高いからというのがありますが、プレイヤー達(初期は作詞者ピート・シンフィールドも含めて)によって、”あらゆる意味で”火花を散らしながら、各々の個性が有機的に融合することによって、その音楽性は創られていった、ロック界においては稀有な存在だったと言えます。1stアルバムこそロックの古典としてある程度のセールスを上げてはいますが、決してビッグセールスを数々放ったバンドではありません。しかしその音楽性に魅せられ、世界中で、約50年に渡っての”クリムゾンフリーク”といった人達が決して少なくないのです。これは逆に凄い事ではないでしょうか。

今回の記事はかなり長くなってしまいました。もう一回増やそうかとも思いましたが、三行で…ならぬ三回でまとめます。これにてキング・クリムゾン編は終了です。
しかしドラム教室のブログのくせに、いつになったらドラムの事書くの…
(´・ω・`)

#16 Larks’ Tongues in Aspic

発売時、日本のある大手新聞のレコード評にて、「ロック史に残る傑作となるであろう」と評されたアルバム。それが73年発表「Larks’ Tongues in Aspic(太陽と戦慄)」です。イエスからビル・ブラッフォード(ds)を引き抜き、同様にファミリーから大学の友人であったジョン・ウェットン(b)、更にヴァイオリニスト デヴィッド・クロス、そして本作において大変重要な役割を果たすこととなる前衛パーカッショニスト ジェイミー・ミューアを従え、新生キング・クリムゾンが誕生します。
演奏力が格段に上がったことによって、その時フリップが描いていた音楽が具現化できるようになりました。”基本的に”即興演奏を前面に押し出し(あくまで”基本的に”です。何故それを強調するかは後述します)、しかしながら鉄壁なアンサンブル・グルーヴはあくまで保ちつつ、フリージャズ、前衛音楽とは似て非なる、あくまで”ロックミュージック”であるという全くの新境地を開きました。以前BSで、ある有名ミュージシャンが昔の洋楽を紹介する番組があったのですが、そこで「Larks’ Tongues in Aspic, Part One(太陽と戦慄 パートI)」のライブ演奏を流しました。観終わってからアシスタントの女性が、「すいません、私全然理解できません!」の様な旨を言いました。正直な感想だと思います。お世辞にもコマーシャリズムに溢れた音楽ではなく、むしろ真逆の方向性ですので無理もありません。
オープニング曲「太陽と戦慄 パートI」のメンバー全員による強力なインタープレイの応酬から、その後のクールダウンしたパートへの、静と動のコントラストが非常に印象に焼きついてしまうアルバムであり、それが一般的に本作を即興演奏を前面に押し出したロックミュージックの傑作と評されることが多いのですが、全くの私見ですけれども、その評価は本作の2~3割位の部分しか的を得ていないと思っています。実際メンバー全員のインタープレイが堪能できるのはオープニング曲くらいであって、その他はフロント(フリップとクロス)のみの即興でリズム隊はストイックなまでに殆どバッキングに徹する、かと思えばその真逆もあり、先述の通り、フリージャズ・前衛音楽とはあくまで一線を画する”ロック”として昇華されている所が本作の醍醐味であり、そうでなかったら同様のジャズや現代音楽と変わらない音楽でした。
エンディング曲「太陽と戦慄 パートII」が最も顕著な例でしょう。基本的にミューアのパーカッション以外は律儀なまでに(複雑なバッキングですが)、構築されたアンサンブルを貫き通し、一定のリフ・リズムの繰り返し(繰り返すから”リフ”って言うんですけどね(´・ω・`))から生まれる高揚感と、その上で”暴れまくる”ミューアのプレイのコントラストが見事としか言いようのない効果をもたらしています。もしも、本作にミューアが参加していなかったとしたら、かなり印象の違う作品になっていたでしょう。そのエキセントリックでありながら、確かなテクニックに裏打ちされた劇的な演奏が、本作をロック史に残る傑作へと高めた要因の一つとなったのは間違いありません。具体例を一つだけ挙げるなら、「太陽と戦慄 パートII」01:40秒辺りのホイッスル、この笛の音一発で、どんな複雑かつ高速なフレーズよりもインパクトがあります。ちなみにミューアは本作のみでバンドを脱退。理由の一つは、クリムゾンの音楽は自分には”ポップ”すぎる、というものでした・・・
これでもまだ”ポップ”って……(´゚д゚`)
3rdアルバム「Lizard」にてフリージャズピアニストをゲストとして起用し、かなりその影響が強く表れた作品となりましたが、その辺りを境に、フリップの中で即興音楽に対してのスタンスが変化していったのではないか、と私は勝手に思っています。即興を取り入れながらも、片一方では”偏執的”とも言えるほど一定のフレーズの反復を強調したりと、相反する要素を混在させ、独特の音楽的世界観を構築しました。

時代は飛びますが、第3期新生クリムゾンによる、81年発表の「Discipline」(=”戒律・規律”といった意味)においては、リフ・一定のビートから生まれるグルーヴを前面に押し出した音楽になっています。トーキング・ヘッズに参加していたエイドリアン・ブリューが加わったことによって、”クリムゾンがヘッズの様になってしまった”と否定的な意見が当時は多かったとのこと。実際、私が中学生時に買った”ロック名盤ガイド”の様な本(80年代前半発刊)では、低い評価を受けています。
勿論ブリューの影響が無いはずはないのですが、それは表層的な見方にしか過ぎず、「Discipline」におけるサウンドアプローチは「太陽と戦慄 」から既に芽生えていたと私は思っています。90年代以降に「Discipline」再評価のような気運が興り、「このアルバムって実は良くね!」といった聴き手が増え、現在では1stや「太陽と戦慄 」と並んで代表作の一つと挙げられます(フリップ自身もお気に入りの作品)。斯くの如し、人の評価などは古今東西で変わるもので、当てにならないのです。先述の本などは一応ロックに関しては”プロ”のライターと称する方々が書いたものです。10年余経つとがらりと評価など変わってしまうものです。そのくらいあやふやなものです。皆さん、人が何と言おうと、自分が良いと思ったものを聴けば良いのです。


( ・`ω・´)
また歌詞の面でも、当初は作詞専門のメンバーを抱え、文学的歌詞を築いていたのが、「Discipline」オープニング曲「Elephant Talk」(”無駄話”の様な意味)では、アルファベット順に単語の羅列をするだけといった、従来のクリムゾンの世界観を覆す様な作風を披露します(それが余計従来のファン、評論家筋から不評を買った)。しかしこれはフリップの飽くなき創造性が先ず第一義に、そして幾分かは従来のポップミュージックの歌詞に対するアンチテーゼもあったのではないかと個人的には思います。フリップという人は、前回述べましたが、ストイックなまでに音楽第一主義を貫く人物であると同時に、ポップミュージックに対して非常にシニカルで鳥瞰的な見方をしている人だと思えます。決してメインストリームに存在する人ではありませんが、それ故ある意味”仙人”の様なスタンスで居続けられているミュージシャンと言えるのではないでしょうか。

決して万人受けするものではない、率直に言って難解な音楽です。「難しくてわかんね!ロックなんてノリノリの曲か、メロディが綺麗なバラードだけでイイじゃん!」
( ゚д゚)ペッ、
という人もいるでしょう。別に人それぞれなので構いませんが、一応一言だけ。そういう方達へ、食べ物についてはしょっぱいものと甘いものだけで良いですか?アジアのエスニック料理にあるような複雑にスパイスが入り混じった、辛味・酸味・苦味・渋味が混然一体となった料理を”奥深い”とか言ったりしませんか?また小説・マンガ・アニメ・映画などの物語で、ご隠居さんが諸国漫遊して悪を懲らしめる勧善懲悪もの、主人公とヒロインが最後には結ばれハッピーエンドで終わる創作物が全てで物足りますか?何が正義で何が悪なのか考えさせられる深遠な世界観、結ばれないラブロマンス、ハッピーエンドでもバッドエンドでもない予想の斜め上を行く結末、こういったものに人は魅かれ、またそういう作品が現れなければ、その文化・芸術はあっと言う間に陳腐なものへと成り下がっていくのではないでしょうか。

ミューアが脱退し、もはや恒例行事の如く(…(´Д`))、フリップと他のメンバーの間に軋轢が生じ始め、しかしながらバンドは活動を続けます。第1期とは違ってその人間関係の不和をも音楽的には良い緊張感として昇華させてしまう程、この時期のクリムゾンにはパワーがみなぎっていたのではと思ってしまいます。その辺りは次回にて。

#15 The Court of the Crimson King

生物学において、突然変異・ミッシングリングという言葉がありますが(決して詳しくないので、詳しい人がいたとしても突っ込まないで下さい ((゚Å゚;)))、例えば前回までの記事にて、取り上げていたレッド・ツェッペリンに関しては、クリームやジミヘンの存在があって、やがてツェッペリンの登場に繋がって言ったのでは、と書きました。しかし、このバンドはロック史の流れにおいて、突然変異としか思えない、その誕生の前段階になるようなミュージシャン達の存在も確認出来ない、としか言いようがないのです。
そのバンドの名はキング・クリムゾン。69年「In The Court Of The Crimson King(クリムゾン・キングの宮殿)」で鮮烈なデビューを飾った、当時ツェッペリンと共に”ニューロック”などと称され、新しい時代のロックを象徴するバンドの急先鋒でした。その音楽性を文章で表わすと、アナーキーかつノイジーな破壊的サウンド、ヨーロッパ古来のフォークミュージック(本当の意味での”フォークロア”、古謡・民謡とでも呼ぶべき音楽)のフレーバーを漂わせ、フリージャズもしくは現代音楽のようなインプロヴィゼイジョン(即興演奏、所謂”アドリブ”)を取り入れ、そしてクラシックにあるような、様式美・構築美を併せ持ったようなサウンド、とでも表現したら良いでしょうか。こんなバンドはそれまでポピュラーミュージック界には間違いなくいませんでした。一つ一つの要素を見れば、クラシックらしさを取り入れていたのは、プロコル・ハルムやムーディー・ブルースが、ジャズ的な即興演奏はソフト・マシーンが既に行っていました。しかしそれらはあくまで断片的であり、クリムゾンはそれらも取り入れながら、さらにプラスαし、全く別次元のロックへと昇華させてしまったのです。
「21st Century Schizoid Man(21世紀の精神異常者)」は90年代位にテレビCMで使われたと記憶していますが、あの強烈なイントロがTVから流れるようになるとは、時代も変わったものだと当時は思いました。「Epitaph」やタイトル曲の重厚かつ荘厳さは、それまでのポップミュージックには無かったものです。メロトロンという当時の最先端のキーボードが実に効果的に使われています。こぼれ話ですが、ここで使用されたメロトロンはその後ジェネシスに譲渡され、これまたジェネシス黄金期のサウンドを支える事となります。
”ビートルズの「Abbey Road」をチャート1位の座から引きずり落としたアルバム”のような文言がレコード帯に書いてあった記憶がありますが、そのような事実はなかったというのが実際のところです。ただしそのくらいインパクトがあった、新しいロックが登場した、というようなニュアンスだったのでしょう。

本作におけるサウンド面においては、リーダーのロバート・フリップよりも、イアン・マクドナルドがイニシアティブを握っていたと言われています。それを快く思わなかったかどうかわかりませんが、2ndアルバム「In The Wake Of Poseidon(ポセイドンのめざめ)」の制作途中でイアンは辞めさせら…脱退します。イアンは才能の塊みたいな人で、豊富な音楽的素養を持ち、尚且つマルチプレーヤー(サキソフォンまでこなします)でもあるミュージシャンです。余談ですがその後、英米混合バンド フォリナーの立ち上げに関わりますが、程なくして脱退。初めから成功したバンドではありましたが、今でいうところの”メガヒット”を飛ばすようになったのは彼の脱退した80年より後、「Girl Like You」や「I Want to Know What Love Is」といった大ヒットを生んだ頃には、バンドを辞めていました。偶然かもしれませんが、その後成功するバンドを軌道に乗せてあげて、自身はその一番美味しい恩恵には預かれない、損な役回りの人だったのかも、と思ってしまいます。
また、グレッグ・レイク(b)はEL&Pへ加入するため、更に作詞担当のピート・シンフィールドとマイケル・ジャイルズ(ds)も、つまりフリップ以外は全員いなくなったのです。ロバート・フリップという人はとにかく変わり…超個性的な性格の人物であると言われ、その後のバンドにおけるメンバーの頻繁な変遷には少なからずそれが関わっていたのは間違いない事でしょう。しかし逆に言えば、自らの音楽性に微塵の妥協も許さず、厳格に音楽第一主義を貫く人とも言えるのではないでしょうか。2ndアルバムは基本的に1stの延長上にある作品です。余談ですが、本作にてまだ無名時代のエルトン・ジョンが参加していたかもしれなかった、というこぼれ話もあります。
3rdアルバム「Lizard」はフリージャズピアニスト キース・ティペットが参加し、より即興性の強い音楽となっており、(少なくともその当時の)フリップの嗜好が出ています。

00年代半ばに、永らく行方不明となっていた本作のマスターテープが発見されたそうです。なんと当時のスタジオ、発見時は貸オフィスとなっていた給湯室の棚から見つかったそうです。当時テープは貴重で、使い回す(重ね録り)のが当たり前だったそうですから、例えそんな所であっても、残っていたというだけで運が良かったと思わなければならないでしょうが、それにしても台所の棚の中とは…(´Д`)

その後もメンバーチェンジを繰り返しながら70年代初頭も活動を続けます(レコード会社との契約消化の為もあったそうですが)。4thアルバム「Islands」、ライブアルバム「Earthbound」(カセットレコーダーで録った音源なので音質が悪い)を発表し、ツアーを行いながら、フリップはその活動と並行して、頭に描いていた次なるバンドの青写真を具体化するために動き出します。その辺りは次回にて。

#14 Achilles Last Stand

ツェッペリンが登場するまで、ポップミュージックの販売戦略としては、先ずシングルのリリースがあり、それがラジオ等の媒体でかかることで、広く大衆に認知されるのが一般的だったとされています。しかし彼らはそれを前提としない、例外もありますが、シングルサイズを念頭に楽曲を作っていない、アルバム重視の楽曲制作でした。つまり一曲の演奏時間が長い。とてもラジオで気軽にかけられるものではない楽曲が多かった。
また1stアルバムから既にその傾向はありましたが、彼らの音楽性は基本的にブルースをベースにしつつ、そこにペイジの音楽的嗜好であったトラッドフォークのフレーバーを混ぜつつ作り上げたロックサウンドとでも呼ぶべきものでしたが、それ以外の多種多様な音楽性も垣間見えました。
5thアルバム「Houses of the Holy」ではそれが前面に出ており、ファンク、レゲエなどの新しいジャンルも取り入れ、賛否両論を巻き起こしました。6thアルバム「Physical Graffiti」はその集大成とでも呼ぶべき2枚組の超大作で、ブルージーなナンバーからワールドミュージックまで彼らの力量が思う存分発揮されています。「Kashmir」はその後の彼らの重要なライブナンバー。派手なギターソロなどがある訳ではありませんが、中近東風の独特のサウンドに、これまでのロックにはなかった様な楽曲構成でもって、素晴らしい大作に仕上がっています。
ボンゾ存命中最後のアルバム「In Through the Out Door」では、カントリー&ウェスタンからサンバまで、さらにシンセサイザーを大胆に取り入れ、異色の出来となっています。これは決してアメリカ市場に迎合したなどということでは決してなく、彼らの音楽的トライアル精神の賜物だと私は思っています(現実面ではジョーンズがイニシアティブを握った、握らせてあげた結果とも)。

前回の記事で、なぜツェッペリンの追随者は現れにくかったのか、と書きました。私見ですが、こんなリスキーな営業戦略を取るバンドはなかなかいない(させてくれない)、ということではなかったかと思います。メディアと距離を取り、シングル盤のリリースを殆どしないなど、普通では販売促進の面からはとても考えられないスタンスを貫いた。そしてサウンド面では、ハードロックのみならず、様々な音楽性に(決して流行りに乗った、とか思いつきでもなく)トライしていった。こんなバンドはそれまでいなかった。普通は例えやりたいと言っても市場に流通させてもらえないでしょう。これは成功した者、言わば”王者の余裕”の様なものがあったから出来た側面もあったと思いますが、基本的にはペイジ達の音楽性の多様さがそうさせたのでしょう。
例えばハードロックなら、それを中心にやっていれば、(昔ながらの味を頑固に守っている店の様に)常連客はついてきてくれるでしょう。決してそれは悪い事ではなく、商業音楽であれば止むを得ない面もあります。またとどのつまりは人の好み、という一言に尽きます。
簡単に言うと、彼らはメディア・大衆に媚びたりしない「カッコいいロックヒーロー」の元祖だったのだと思います。だからこそワンアンドオンリーであって、未だに彼らの追随者・エピゴーネンでここまで成功する人達はなかなか現れない(現れづらい)のではないでしょうか。

アルバム「Presence」のオープニング曲「Achilles Last Stand(アキレス最後の戦い)」。個人的にはツェッペリンの中で一二を争うベストトラックと思っています(もう一つは「The Rain Song」 ライヴの方)。ポップミュージックにおいて、これほど雄々しく、気高く、そしてヒロイックな楽曲を他に知りません。「Presence」は初期のハードドライヴィング感覚に満ち溢れた、言わば彼らによる原点回帰の作品とも呼べます。従来のファン、評論家筋などには評価の高い、最高傑作ともされる作品ですが、セールス的にはオリジナルアルバム中では最も芳しくなかったらしいです。
(とはいっても米だけで350万枚。桁が違います…(´Д`))

80年9月25日、”ボンゾ” ことジョン・ボーナムが急逝。ボンゾ以外のドラマーでこのバンドを続けることは考えられない、と解散を表明。人によって意見の違いはあるでしょうが私は全くの英断だと思っております。更に言えば、これはボンゾとそのご家族に大変不敬な言い方になってしまうかもしれませんが、レッド・ツェッペリンというバンドは、ここで終わったからこそ、ここまで伝説的になったと。そして80年代以降の音楽シーンにそぐわない存在でもあったのではないかと。コンプレッサーをかけ、煌びやかな音色になり、ディレイやコーラス等のエフェクターを多用した”オシャレ”な音色のペイジのギター、ゲートリバーブを効かせたボンゾのドラム、「そういうツェッペリンも聴いてみたかった」という人達も当然いるでしょう。勿論、趣味嗜好は人それぞれですから、それを決して否定はしません。しかし私はその様なツェッペリンが想像出来ません。その様なサウンドのツェッペリンがもしも聴けてしまったとしたら、その瞬間、それまでの彼らが雲散霧消してしまう様な気がするのです。

その後の彼らについて少しだけ。85年の『ライブエイド』にて、フィル・コリンズを加え、計画的だったとも、全くの即席だったとも、説が分かれますが、かりそめにも、再結成してその音を聴かせ、世界中のファンが狂喜乱舞。88年のアトランティック・レコード40周年コンサートでは、ボンゾの息子 ジェイソンが参加してトリを務めました(記憶違いでなければ確か夜中に衛星生中継で演っていた様な… 眠い目をこすりながら観た記憶が・・・)。

最後に、ひょっとしたら、おそらく一人か二人しかいない読者の中には
(一人もいないって
言うなー!!━━━(# ゚Д゚)━━━ )、「ドラム教室のブログのくせに、ボンゾのドラミングに殆ど触れてないじゃん」と思われた方もおられるかもしれません。
当たり前です( ̄m ̄*)… ボンゾのプレイについて語り出したら、記事が何回に渡るか分かったもんじゃありません・・・
ですのでそれについては、是非別の機会を設けて。これにてレッド・ツェッペリン編は終了です。

#13 Good Times Bad Times

現在では結構知られた事かもしれませんが、エリック・クラプトン ジェフ・ベック、そしてジミー・ペイジ、この三人を指して、(ロックの)三大ギタリストと呼ぶのは日本だけのことだそうです。その昔あるロック雑誌にて、同じヤードバーズ出身の彼らをこのように括ったことが始まりとか何とか… という訳で今回は最後の一人、ジミー・ペイジ、というより言わずと知れた、彼をリーダーとしたバンド レッド・ツェッペリンについて。最初にこんな事を言うのは何ですが、私、ペイジのギタープレイ自体にはあまり興味がありません(ペイジファンの方々本当すいません <(_ _)> あと断っておきますが、私、ツェッペリンは大好きです。ビートルズ、ピンク・フロイドなどと共に、中学~高校にかけて、私を昔の洋楽の世界に引きずり込んで、逃れられなくしてくれた存在です)。
これもよく言われる事ですが、ペイジのプレイは技術的には(三大~の)他の二人や、また同時代の名手と言われたプレイヤー リッチー・ブラックモア、ブライアン・メイといった人たちと比べると、劣っているとされています。確かに、スタジオ盤はまだともかく、ライブ盤を聴くと、それが顕著です。かなり速く弾く瞬間があるのですが、左手の運指及び右手のピッキング、共に追いついていない時が多いというか、正確さに欠ける演奏です。例えばクラプトンの、流れる様な、綺麗なフレーズにはなっていない場合が多いです。ペイジ自身が、必死の練習にも関わらず、その上達に限度があったのか、それとも自分はそのようなテクニックはそれ程追い求めない、目指す音楽のベクトルが異なる、として割り切っていたのか、そのどちらであったのかは分かりませんが、単純にギタリストとしての力量だけを見れば、同時代の彼らと同列に並ぶのは無理な存在だったでしょう。
しかし、レッド・ツェッペリンが、彼ら、またはその属するバンドのいずれよりも、(90年代以降のクラプトンとは甲乙付け難いとこですが)、商業的に成功したバンドであったのは紛れもない事実です。売上総トータル3億枚以上とも言われ、コンサートの観客動員数でも記録を塗り替えていった、ハードロックと呼ばれるジャンルにおいては、最も成功したバンドと呼んで良いでしょう。どうしてツェッペリンはここまで成功し、ハードロック界で唯一無二の存在となれたのか。また、その後のハードロックバンド達に、直接影響を与えたのは、ディープ・パープルの方が強いと言われます。パープルの方が真似しやすかった、とかでは決してないと思います。なぜツェッペリンの追随者は現れにくかったのか。

ヤードバーズ末期には、ペイジは既に新バンドの構想を持っていたと言われています。時代はビートルズ、ストーンズ、フーなどの”第1次ブリティッシュ・インヴェイション”の波は一服し、サイケデリックムーブメントが巻き起こり、文化的にも”カオス”なものが好まれるようになり、ロックシーンにおいては、クリーム、ジミ・ヘンドリックス、アメリカではヴァニラ・ファッジなどが、よりヘヴィーなサウンドを作り出していました。
もう従来のビートロックでは、特に若い層のロックファンは満足しなくなってしまっていたようです。ヤードバーズ末期のライブなどでは、かなりその様なサウンドを目指していたようですが、如何せんメンバーの演奏力が追いつきませんでした
(失礼<(_ _)>)。
そこで紆余曲折の末、新メンバーを探し出し、当初はニュー・ヤードバーズと名乗っていましたが、レッド・ツェッペリンと改名し、コンサート活動を行うと好意的な評価を得ます。大音量のサウンド、歪んだギターの音色などは、クリーム、ジミヘンも既に取り入れていましたが、静と動を織り交ぜた劇的な(構築美・様式美とでも呼ぶべき)楽曲展開、ヨーロッパ的な哀愁(ブリティッシュ・トラッドフォークの影響等)を漂わせながら、ロックサウンドを作り上げたのはツェッペリンが初めてと言っても良いでしょう。
もっとも、直近にかなり近い事をやった人がいます。ジェフ・ベックです。”第1期ジェフ・ベック・グループ”が半年程前にリリースした1stアルバム「Truth」では、先述した様な音楽性を持ち合わせています。しかし、幸か不幸か「Truth」はそれ程売れなかった、そしてツェッペリンは華々しく、センセーショナルなデビューを飾った(ジェフが嫉妬した程)という明暗が分かれました。
(※・・・と、昔は言われていたのですが、ネット時代になって、当時のチャートアクションが調べられるようになると、「Truth」は全米チャートで15位まで行っています。ヤードバーズである程度知名度はあったにしろ、基本的に海の向こうの新人バンドがトップ20に入るというのは十分なヒットです。あくまで”ツェッペリンと比べて”ということでしょう)

クリーム、ジミヘン、初期ディープ・パープルといった音楽は、当時「ニューロック」「アートロック」などと称されていたそうです。従来のロックよりもより ”先進的””芸術的” という事なのでしょうが、ツェッペリンやキング・クリムゾンなどはまさに新しい時代の幕開けを予感させる音楽でした。
当時をリアルタイムで体感した人の話を読み聞きすると、ツェッペリンの出現がかなり衝撃的だったことが窺えます。ビートルズ、ストーンズなどのビートロックに多少食傷気味だったところに(ビートルズはかなり違う方向に向かってましたが)、ドカンと一発食らった様なインパクトがあったと。恐らく皆何となく「こんなロック(バンド)があったらなあ…)と思っていたところへ、その期待通り(と言うより、更にその斜め上を行くような)のサウンドをかまされたのでしょう。「そう!それだよ!それ!俺たちが求めていたのは!!」
1stアルバム「LED ZEPPELIN」のオープニング曲「Good Times Bad Times」はまさにその期待に対して、ド直球の様な曲だったことでしょう。

ペイジのギターテクニックは先述の通り、ロバート・プラントのヴォーカルは好みが分かれるでしょう(かなり癖のある、金切り声)、そしてボンゾの唯一無二のドラミング。ジョン・ポール・ジョーンズは多彩な音楽性やアレンジ能力を持ち合わせていましたが、かなり個性的な、悪く言えば偏ったバンドだったような気がします。その点ではディープ・パープルの方が演奏(歌唱)力、つまり個々のメンバーがバンドマスターやアレンジャーからの様々な音楽的要求に答えられる、という意味のテクニック、および音楽的素養においては幅が広かったと言って良いでしょう。
じゃあ、何故ツェッペリンがハードロック界で最も成功したのか。言ってみれば先にやったもん勝ちだったのではなかったかと思うのです。先述の通り、(特にアンテナの鋭い若者などの)何となく「こんな音楽があったら・・・」というニーズに、一番乗りでブチかましたのがツェッペリンだったのではなかったのでしょうか。
ツェッペリンがもし現れなかったとしても(勿論全く同じではないにしろ)、いずれ似たような、ハードな音楽性を持ったバンドなどは出現していたような気がします。しかし彼らの特異なところは、ヨーロッパ的な雰囲気(先述のトラッド・フォークなど)を漂わせながら、基本的にカントリー&ウェスタンが最も大衆の支持を得ているアメリカでも大いに受け入れられた、という所の様な気がします。そこまで考察するとかなりディープな話になるので(アメリカ民族のルーツ云々とか…)止めときます。また、メディアへの露出を従来のミュージシャン達より避け、カリスマ性を保った事も、ペイジや、敏腕マネージャー ピーター・グラントによる戦略が大きかったでしょう。

ペイジはよくリフ作りの天才と言われます。確かにギターという楽器の特性を活かした楽曲を作ることには非常に長けていた人だったと思います。しかしソングライターとして超一流だったのか、と言うと必ずしもそうではないと思います。あくまでツェッペリンの様な形態・音楽性のバンドにて、ギターを中心とした楽曲作り、及びプロデュースにおいては成功した、とでも言えば良いでしょうか。そこにジョーンズの幅広い音楽性(多彩な器楽演奏能力、アレンジの才能等)が加わり、ペイジのアイデアを具現化し、時にはプラスαすることもあったでしょう。そしてプラントとボンゾという、暴れ馬のような(ボンゾは腕っぷしもホントに暴れ馬だった)、他のバンドであったら、上手く合っていたかどうか分からないような個性的なプレイヤーの持ち味を見事に引き出した、ペイジのプロデュース能力の勝利だったような気がします。逆に言えば、このメンバーで、この音楽性で、レッド・ツェッペリンというバンドだったからこそ、ここまで成功したのではないかと思うのです。この辺が、あくまで1プレーヤー・1ミュージシャンとして確固としたアイデンティティを確立していったクラプトンやジェフとは違う所だったような気がします。

ハードロックというジャンルを確立させ、次々と新作を発表し、コンサート活動を繰り広げていった彼ら。60年代のロックシーンが持っていた”勢い”のようなものが徐々に鈍化していったと言われ、またロックが多様化していった70年代において、やはりいつまでも同様の音楽性ではいられなかった(というより、いる気もなかった)、彼らの音楽はどのように変化していったのか。その辺は次回にて。

#12 Slowhand

その女性と出会ったのは、ジョルジオ・アルマーニが催したパーティにて。彼女はそのパーティで雇われていたスタッフだったのですが、友人と、クラプトンへ一緒に写真を撮ってもらえないかと頼みにきたとのこと。スタッフがパーティのゲストへ、この様な申し出をするのはルール違反らしいのですが、彼女の屈託のない笑顔に、クラプトンは、「明日、三人で食事に行けるのなら撮っても良い」と答えたそうです。彼女の名はメリア。現在のクラプトンの奥さんです。30歳以上年の離れた二人ですが、三人の子供に恵まれています。自伝(08年発刊なので、執筆は00年代半ば位?)でも述べられていますが、自身も今が一番充実していて幸せだ、
と語っています。
波乱万丈の人生だったクラプトンですが、人生の後年になって、ようやく穏やかな幸せがやってきたようです。05年には、クリームの再結成で話題を巻き起こしました(一説には、経済的に困ったジャック・ブルースの救済の為とも)。初めのうちこそ、
「やあジンジャー( ノ゚Д゚)! ヽ(・∀・ )ノ やあジャック!、懐かしいな、また宜しく頼むぜ」の様な雰囲気だったそうなのですが、あっと言う間に雰囲気は悪くなったと語っています。人間て、やっぱり合わない人どうしは何をどうしても合わないのでしょうね
・・・(´Д`)
自身も苦しんだ、薬物・アルコール依存症患者の為の更生施設『クロスロード・センター』の運営資金調達を目的とした、「クロスロード・ギター・フェスティバル」の定期的な開催、盟友スティーヴ・ウィンウッドとの共演など、00年代後半から10年にかけても、精力的に
活動をしてきました。10年代に入ってからも、アルバムリリース、コンサートなどは継続的に続けていたのですが、実は末梢神経障害など、体に不調が現れ始めたことを後に告白し、70歳を前に、もう大規模なツアーなどはやらない(出来ない)、今後はできる範囲での活動のみにする、といったセミリタイア宣言をしました。しかし16年4月には、日本のみの公演を行いファンを喜ばせました。とんかつが食べたくなったのかもしれません。(分からない人は ”クラプトン とんかつ” でググってください)

60年代半ば~後半にかけて、クラプトンと同様に、天才的白人ブルースギタリストとしてよく比較されていたミュージシャンにマイク・ブルームフィールドがいます。アル・クーパーとの「Super Session」「フィルモアの奇蹟」や、ボブ・ディランのアルバムでのプレイなど、クラプトンも憧れ、またお手本にした程であった人物。イギリスのクラプトン、片やアメリカのブルームフィールドと、ロックのフィールドにブルースを浸透させた立役者と言って良いでしょう。しかし彼も御多分にもれず、クラプトン同様、ドラッグとアルコールに溺れた人でもありました。そのため70年代に入ってからは、目立った活動は少なくなり、80年代初めに、最後は駐車場の片隅で野垂れ死の様な状態で亡くなっていたそうです。
クラプトンも下手をすれば、ブルームフィールドと同様の人生を歩んでいたかもしれません。ほんとに紙一重のところで、それを回避出来ただけなのかもしれないです。しかし一方で、私以前にも書きましたが、運命論など微塵にも信じない人間ですが、ごく稀に、目に見えない何かが、人の人生を突き動かしたりしているのではないか、と思うこともあります。クラプトンはその何かから、「お前はまだやることが沢山ある、まだこっちにくるな  (( ( ̄  ̄*)」と拒否られ、一方、ブルームフィールドは召されてしまったのかもしれません。

遠い昔に、十字路で悪魔に魂を売り渡す契約をしてしまった青年ですが、50年以上の歳月を経て、悪魔からすら、「お前さん、昔は随分やんちゃもしたけれど、大勢の人間に夢と感動を与えてきたようだな(悪魔のセリフじゃないな…)。それに免じて昔の契約は反故にしてやるよ」・・・などと荒唐無稽な妄想をしてみたりしてしまいます。

最後にクラプトンの愛称 ”スローハンド” の由来について。出てくるフレーズは非常に速いのに、指は(この場合は左手の運指の方、と私は解釈しています)とてもゆっくりした動きに見える、ということから来ているそうです。つまり、無駄な動きがなく、必要最小限の、合理的な指使いをしているので、速く弾いても、せせこましく動いているようには見えず、スローハンドと呼ばれたのだと。これはドラムなど、他の楽器、またスポーツなどでも同じ事が言えるのではないかと。もっとも別説もあって、彼はチューニングにとても神経質で(女性関係にはルーズでしたが・・・)、いつまでも時間を掛けていたのでそう呼ばれた、とも言われています。

ブログを始める際、個々のミュージシャン・バンドにつき、記事は長くても3回まで、と自分の中で一応ルール付けしたのですが、あっさりと破ってしまいました。よく考えたら50年以上のキャリアをそんなに短くまとめて書くことなど土台無理かと。これにてエリック・クラプトン編は一先ず終了です。次は・・・大体想像つきますかね…

#11 From the Cradle

私がリアルタイムで洋楽を聴いていた80年代、クラプトンは割と”過去の人”扱いだったと記憶しています。当然新作を出せばある程度ヒットはするのですが、それは60~70年代における売れ方とは違いました。”オシャレでポップで、なおかつダンサンブル”な80年代の音楽シーンにおいて、クラプトンは試行錯誤していたようです。マネージメントサイドからフィル・コリンズをプロデューサーに、と提案された事は戸惑いであったと後に語っています。フィルとはそれ以前から知り合いであり、フィルの人の良さから、人間関係はとても良いものが築けたようですが、音楽性はあまりにも違う、というのが正直な感想だったようです(これは衆目の一致する所)。フィルは 80年代、最も忙しい男、と言われた程、シンガー、ソングライター、プロデューサー、そして本職のドラマー(本当に忘れ去られているかもしれませんが、彼はとてもテクニカルで、素晴らしいグルーヴを持ったドラマーなのです。キャリアの出発点はあくまでジェネシスのドラマー)として、その余りある才能で、世界中を飛び回っていました。しかしクラプトンの音楽性とは相容れないのではないか、というのは従来のそれぞれのファン達、そして本人たちも感じていました。一言で言えば”過渡期”であったということでしょう。また。アルコール依存症もかなり悪化しており、さらにパティとの関係も終焉へと向かいつつあるような状況で、80年代半ば、クラプトンは引退まで考えてしまう程になりました。

あまりのアルコール依存症に、さすがに本人も、このままではいけないと決意し、禁酒プログラムに通うようになります。色々あったようですが、80年代後半には、何とか酒も絶つことが出来た様です。その時期に、彼には子供が出来ます。イタリア人女性との間に生まれた息子「コナー」です。パティとのエピソード同様、あまりにも有名な話ですので、あくまで簡潔に。91年3月20日、コナーは当時、母親・祖母と共に住んでいたN.Y.の高層マンションから転落死します。ちょっとした不幸なタイミングの悪さ、偶然が積み重なって起きた事故でした。前日19日、クラプトンは初めてコナーと、誰も伴わずに二人きりで出かけました。サーカスを観に連れていってあげたそうです。コナーは象を見てとても喜こび、これからはコナー達の家に行った時は、自分一人で彼の面倒を見ようと思ったそうです。
世界中から悔やみの手紙などが届き(ケネディ家からチャールズ皇太子まで)、大変驚いたとの事ですが、最初に封を開けた手紙は、10代の頃からの”悪友・先輩”でもあった、キース・リチャーズからのものだったそうです。そこには「何かできることがあったら、知らせてくれ」とだけ書いてあったそうです。クラプトンはこれには大変感謝したと後に語っています。
世界中のファン達が、またドラッグとアルコールに溺れてしまうのではないか、このまま引退してしまうのではないかと心配しました。当然、しばらくは喪に服し、表舞台からは消えていましたが、この間クラプトンは常に古いガットギターを側に置き、特にリリースする意図をもって作った訳でもなく、何ともなしに曲を作っていたりしたそうです。その時期に書き上げたのが、「Tears In Heaven」「Circus left the town」(コナーが亡くなる前日に、一緒にサーカスを観に行った時のことを歌った曲)です。
まず92年初頭、「Tears In Heaven」が映画のサントラに使用され大ヒット、さらにかねてから打診されていたMTVの番組として「Unplugged」が収録・放映されます。これにはクラプトン自身も満足し、評判も非常に良かった。しかしアルバム化が決まった時、自身はそれ程のものではない、限定版で発売すべきだと言っていた様なのですが、蓋を開けてみれば空前の大ヒットを記録します。

ここから先は説明不要なほど、見事な”クラプトン復活”といった状況になったのは周知の事。しかし、私は彼が凄いのはこの後だと思っています。”「Unplugged」第二弾”の様なアルバムを作れば、再度のビッグセールスは間違いなかったでしょう(実際マネージメントサイドはそれを望んでいた)。だがそれをしなかった。勝って兜の緒を締めよ、ではないですが、ここでクラプトンは時流に乗らず、自分のルーツを見つめなおす「原点回帰」を行いました。「From the Cradle 」。マディ・ウォーターズ、エルモア・ジェイムス、そして最もクラプトンに影響を与えたであろう ロバート・ジョンソン。全曲ブルースのスタンダードカバーで占められた本作は、周囲の懸念を他所に、アルバムチャートで見事にǸo1ヒットとなりました。そしてそのまま2年近く、「wonderful tonight」も、あろうことか「layla」すら演らないという、『Nothing But The Blues』ツアーを行います。「Unplugged」で初めてクラプトンを知った、アコギを座って弾きながら、「Tears In Heaven」の様なバラードを歌っている渋いオジサン(勿論これが悪いと言っているわけではないです)といった認識しかなかった人たちには、良かれ悪しかれ刺激が強かったのではないでしょうか。
更に、映画のサントラに提供した「Change the World」も大ヒット、勢いは留まることなく、00年には、B.B.キングとの共作「Riding with the King」をリリース、これも大ヒットします。大物同士の共演というのは、企画倒れ、エゴのぶつかり合い、などに終わってしまうことが珍しくないのですが、当アルバムはお互いを認め合った、時に相手を尊重し、時に火花が出る様なプレイが繰り広げられ、誠に素晴らしい共演作となっています。これもクラプトンの、ブルースに対する造詣の深さ、尊敬の念、そしてそれを認めた故の、B.B.の全てを包み込むようなスケールの大きなプレイ、といったものの結晶だったのではないでしょうか。生半可な”ブルースが好きです”といったミュージシャンでは、このような作品はB.B.と共に作れなかったでしょう。

この時期、全てが順風満帆で、楽しい事ばかり、クラプトンも浮かれていた、というわけではなかったようです。先述した「Unplugged」後に生じたマネージメントサイドとの亀裂が深まり、弁護士が介入する程のトラブルになり(結局その長年のマネージャーとは決裂)、さらにストーカーのような女性も出現したりしていたそうです。また、クラプトンは自身の薬物・アルコール依存の反省から、自分同様の人たちを救済する手段を考えていました。「クロスロード・センター」の設立です。自身が発起人の一人となり設立・運営に携わりました。その資金の為に、自身のギターコレクションをオークションにかけます(99年と04年)。70~80年代にかけて彼の愛器であった ストラトキャスター”ブラッキー” が約1億円の値で競り落とされたのは、かなり話題になりました。

この時期、彼にはある出会いがありました。
(先のストーカーじゃないですよ(´・ω・`))

長くなりましたので、続きはまた次回に。
(いつまで続くのかな・・・(´・ω・`))

#10 Layla_2

活動の拠点をアメリカに移していたクラプトンは、デラニー&ボニーへ参加、そして同バンドのリズムセクション ボビー・ウィットロック(key)、カール・レイドル(b)、ジム・ゴードン(ds)と新バンドを立ち上げます。「デレク・アンド・ザ・ドミノス」は当初、アルバムリリースまで正体を明かさない、”企画バンド”の側面をもっていたとのことでしたが、発売前に情報が漏れてしまい、「あのエリック・クラプトンが参加しているらしい」と事前にばれてしまったそうです。デラニー&ボニー時代に、クラプトンとウィットロックは曲を書きためており、結果的にそれがドミノスの出発点となり、さらにプロデューサーにはトム・ダウドを迎え、70年8月、その制作が開始されます。ちなみに同月にはすでに録り終えていたクラプトンの1stソロアルバム「Eric Clapton」がリリースされています。
デュアン・オールマンの参加は当初から決まっていた事ではなく、かなりの偶然の重なり合いによるものだそうです。ダウドは当時オールマン・ブラザーズ・バンドの2ndも手掛けており、その縁から、デュアンの
「ちょっとドミノスのレコーディングを覗いてみたい」との申し出に、勿論全員異論はなく、それどころか、デュアンはクラプトンのサインでも貰って帰ろうと思っていた位のところを、「デュアン、ギターも持って来てよ」という様な流れになり、後は周知の通り、運命的とも言えるセッションが生まれた訳です。

オリジナルアルバムとしての「Layla and Other Assorted Love Song」は勿論、ドミノス、そしてオールマンのメンバーとのジャムセッション、幻に終わったドミノスの2ndアルバムに収録されるはずだったであろう未発表曲や1stのアウトテイク・別バージョンなど、よくぞこの音源を残してくれ、そして後年(90年)になって発表してくれた、と感謝するばかりです。
ジミ・ヘンドリックスもそうですが、デュアンも夭折の天才だったので、音源が少ない。ギタリストとして一番”ノッていた”時期の天才二人のジャムは素晴らしいの一言です。クラプトンのストラトキャスター”ブラウニー”、デュアンのレスポールのそれぞれの音色、プレイスタイルの違い、そしてその二人(二本のギター)が有機的に組み合わされることによって、1+1は2ではなく、10にも100にもなるという音楽、特に即興演奏の妙。クリーム時代の様な”果たし合い”的インタープレイのバトルではなく、お互いのフレーズ、トーンを噛みしめながらの、ある域に達した音楽家だけに許された、レイドバックしていて、なおかつスリリングで、そしてこんなにエモーショナルな演奏は、クラプトンがそれまでイギリスにいた頃には味わうことが出来なかった瞬間だったのではないでしょうか。

現在ではクラプトンの代表作であり、ロック史に残る名盤として不動の地位を得ている本作ですが、発売当初、アメリカではゴールドディスクになったものの、イギリスでの反応は芳しくなかったそうです。色々な要因はありますが、レコード会社の販促不足、また従来のファンは、クリーム時代のような、アグレッシブな、火花の出るようなプレイを望んでいた、というニーズとのギャップもあったようです。レコーディング終了後、すぐさまツアーに出ますが、その矢先、ジミ・ヘンドリックスの訃報が飛び込んでいます。敬愛するジミに対して、「Little Wing」をカバーしたものの、ジミは結局本曲を聴く事は出来なかったのです。更に”父”であった祖父ジャックの死、など良くない事が続きます。翌年には2ndアルバムに取り掛かるものの、途中でバンドは分裂。一概にクラプトンだけのせいとは言えませんが、ドラッグとアルコールにより、かなり心身の状態が悪くなっていたことが、関係しているいることは当然否めません。
そして秋には、デュアンが、バイク事故にて若干24歳の若さで亡くなってしまいます。周囲に起きる立て続けの不幸、勿論パティとの関係、クラプトンを徐々に深い”闇”が包んでいきます。72年は全く活動をせず引きこもっていました。しかし73年の初め、ピート・タウンゼント達により、レインボウ・シアターでのライブへと表舞台に引っ張り出されることとなります。「Eric Clapton’s Rainbow Concert」にてその模様は聴くことが出来ます。決してベストコンディションではありませんが、隠遁生活から抜け出すきっかけになったのは大きかったでしょう。さすがに本人も、これではまずいと思ったのか、麻薬の更生施設に入り、取りあえず”麻薬だけ”は断つことができました。そして新作の制作に取り掛かり、完成したのが「461 Ocean Boulevard」。ここからの”第二期黄金期”はネットでいくらでもググることができますので、各自でどうぞ。

ドラッグの代わりにアルコールの量は増えてしまったようで、70年代中期~後期も決して良いコンディションとは言えなかった様です。ドミノス時代から”辛抱強く”付き合ってくれた、カール・レイドルを79年に解雇してしまいます。後年クラプトンは「アルコールのせいで多くの人達を傷つけた」と語っているそうですが、レイドルの解雇もその辺が絡んでいるのかもしれません。この年、来日を果たし、武道館でのコンサートの模様は「Just One Night」にて聴くことが出来ます。個人的には、クラプトンの代名詞的ギターでもあったストラトキャスター”ブラッキー”の音色が最も堪能できる作品としてお気に入りの一枚です。翌80年、レイドルは病死。ゴードンはこれまたドラッグ・アルコール依存症で、更に「Layla」の印税収入が入るようになったことによって、それまでと人生が変わってしまったのか、あろうことか母親を殺害してしまいます。「Layla」の共作者としてクレジットされている彼ですが、ピアノから始まる後半のパートは、当時のガールフレンドが作ったものだというのが定説になっています。ウェストコーストで一二を争う引っ張りだこのセッションドラマーでしたが、基本的にゴードンには作曲能力は無かったと言われています。そして、ウィットロックは目立った活動は少なくなり、やがて表舞台から消えていきます。

時代は80年代へ。オシャレでポップと言うべきか、はたまた軽佻浮薄と呼ぶべきか、クラプトンはどの様にして、そんな音楽シーンを生き抜いていったのか。その辺りは次回にて。