#224 Rocket Man_2

エルトン・ジョンの「Rocket Man」はアルバム「ホンキー・シャトー」からの
先行シングルとして72年4月にリリースされます。全米6位・全英2位の大ヒットを記録し、
「ユアソング」以来のTOP10ヒットとなりました。
「ユアソング」「キャンドル・イン・ザ・ウインド」「クロコダイル・ロック」などと
共にベスト盤には必ず収録され、エルトン・ジョン代表曲の一つに数えられます。

「Rocket Man」というタイトルからして、当然宇宙ロケットの乗組員を歌ったものです。
歌詞が全くわからなかった頃は大いなる宇宙への憧れを抱いて創った曲、くらいに思っていました。
インターネット時代になってその内容を知ると、それはむしろ全然違うものでした。

” 宇宙空間は淋しい場所だ 時の流れさえわからない旅 … ”
” 火星は子どもを育てるような場所じゃない実のところ 地獄のように寒い場所さ ”
” たかがこんな科学技術さ ちっともわからないよ。ただの仕事さ週5日間働くだけだ ”
” ロケット飛行士。ロケットを仕事にしてるお父さんさ ”

憧れどころか、宇宙が如何に退屈で酷い所であるかを歌っているのです。
勿論これは本当に宇宙開発や飛行士を否定している訳ではなく、” ただの仕事さ週5日間働くだけ ”
という箇所が表す通り、サラリーマンを宇宙飛行士に例えてその虚しさを歌ったものと解されています。
今でいうところの ” 社畜 ” の悲哀を歌詞に込めたというところでしょうか。
そしてそれはこの頃のエルトン自身を重ね合わせていると言われています。
過酷なツアー、契約によるアルバムのリリースという重圧、それらに追い立てられる自分は
サラリーマンとなんら変わらないではないか?と当時の心情を、相方バーニー・トーピンが
見事に代弁(勿論バーニー自身も似たような状況であった)したのでしょう。
本歌詞には元ネタとなった小説があり、バーニーはそれにインスパイアされた事を公言しています。
レイ・ブラッドベリという米SF小説家の同名作品だそうです。興味がある方はご自身で
ググってみてください。

おそらくはデヴィッド・ボウイ「スペイス・オディティ」にもヒントを得ている事でしょう。
勿論プロデューサー ガス・ダッジョンがエルトンに携わる前、「スペイス・オディティ」を
含むボウイの作品を手掛け、それによって知名度を上げたのも有名であり、既述の事。
エルトンとボウイは良き友人であったらしく、当時はマーク・ボランなどとつるんで、
よくゲイバーに行っていたとか … (*´∀`;) もっとも後年は必ずしも良好な関係ではなかったそうです。
宇宙的音楽、コズミックサウンドを表現する為には電子楽器、とりわけ当時の最先端機材であった
アナログシンセサイザーが不可欠でした。ピンク・フロイドやイエス、ドイツのタンジェリン・ドリーム
など枚挙にいとまがありませんけれども、「スペイス・オディティ」ではスタイロフォンという
電子楽器とお馴染みメロトロンが効果的に使われています。ちなみにこのメロトロンはイエスに
加入する前の学生であったリック・ウェイクマンが演奏しています。ウェイクマンが在籍していた
大学とは英王立音楽院、つまり彼はエルトンの後輩に当たる訳です。
「Rocket Man」でもアープというシンセサイザーが使用されており、当時はムーグシンセと並ぶ
電子楽器だったそうです。ちなみに本曲でそのアープを弾いているのは、のちにジェネシスの
プロデューサーとして活躍するデヴィッド・ヘンツェル。
アコースティックギターが使われているのも「スペイス・オディティ」を踏襲しているのかな?
と想像したりします。「スペイス・オディティ」のPVでボウイがアコギを弾きながら歌っているのは
あまりにも印象的です。
ギターと言えば「Rocket Man」ではスライドが独特な効果をあげています。ピンク・フロイドでも
デヴィッド・ギルモアがスライドギターをよく演奏していました。元はブルースや
カントリー&ウェスタンといった土臭い音楽で使用されていたスライドギターが、宇宙的サウンド、
スペーシーロックと称される音楽で好んで使われるのは興味深いものがあります。ちなみにギルモアは
所謂ボトルネック奏法の他に、膝の上に乗せて弾くラップスティールも多用していました
#29ご参照)。本曲でギタリスト デイヴィー・ジョンストンが行っているのはボトルネック奏法
だと思われます。
上の動画は72年、ロイヤルフェスティバルホールにおける演奏。他にもユーチューブに上がっている
ライヴの模様をいくつか以下に(76・85・00年と時系列順)。

たとえ言語の壁によって歌詞の意味がわからずとも、本曲を良いと思って聴いていた感覚に間違いはなく、
楽曲自体が持つ魅力に惹かれたことは紛れもない事実です。
しかし後年になってその意味を知ると、より本曲の創造性・世界観を奥深く味わえるようになったのも、
これまた事実に相違ありません。たしかに一番及び二番の出だしである、
” She packed my bags last night,Pre flight(旅立つ僕に昨日 妻が荷造りをしてくれた)”
” Mars ain’t the kind of place to raise your kids(火星は子供を育てる様な場所じゃない)”
これらの節の陰鬱さはとても大いなる宇宙への希望、などとは真逆のものですね・・・・・

それで今回書いていてふと思ったのですが、洋楽を聴き始めてかれこれ四十年近く経ちますけれども、
いまだに思い違いをしている楽曲などまだまだあるのではないかと ……… ( ̄∇ ̄)・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・考えるのはやめましょう (´・ω・`)

#223 Rocket Man

前回までの「Honky Château」回にて、” なんであの超有名曲が入ってないんだ? ” と思われた方 …
は …… いませんよね ……… 誰も見てませんから・・・このブログ・・・・・・・ ( ;∀;)


言葉がわからないと良くも悪くも勘違い・思い違いをするものです。
スタイル・カウンシルを取り上げた回で(#55ご参照)、ヒットナンバーである「Shout to the Top!」や「Walls Come Tumbling Down!」がその爽やかで快活な曲調とは裏腹に、権力者への不満や
現体制を打倒しよう!のような内容であったのを、言葉を理解出来ずにオシャレ系のちょっとソウル風の
ポップスだと思って、80年代当時の小洒落たカフェバーやプールバーといった店でよくかかっていた、
という事を書きました。もちろん私も歌詞などさっぱり理解していなかった一人です。
逆を言えば、厳かな雅楽風の調べにのせて、とても口に出来ない様な卑猥な単語を羅列しても
( ”〇〇×◇” とか ” \+⊆” とか ”◇◆△※〒” とか、うわ~!そんなコトふつう言えない・・・
っていうような言葉とかね ……………………… (*´∀`*)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)、
外国人には”オー!ジャパニーズビューティー!!|゚∠゚)ノ とか賞賛されるのかもしれません。
・・・・・・・・・・・・・・オメエだけだ、そんなこと考えるのは ……  (´∀` )

エルトン・ジョンの「Rocket Man」もそんな曲の一つです。
あっ!念のため言っときますけど、口にするのもはばかられる様な卑猥な歌詞であるとか、
そういう事ではないですよ (´・ω・`) ・・・・・・・・・知ってるよ!  (´∀` )
冒頭の超有名曲とは勿論本曲の事。別個に取り上げるため前回・前々回では省きました。

くだらない前置きで長くなりましたので、その中身については次回以降にて。

#222 Honky Château_2

71年1月に前年末からチャートを駆け上がってきた「ユアソング」が全米8位/全英7位の大ヒットとなり、
エルトン・ジョンが世界中に知られる存在となった事は既述であり、また同年におけるコンサートツアーが
それに拍車をかけ、またそのツアーが熾烈(内容そしてエルトン達にかけるストレスという両方の
意味
にて … )であったことも書きました。

同年におけるエルトンのスケジュールをちょっとだけ書き出してみると、年明けにフランスで催された
音楽フェスに参加する為渡仏し、その後少しではあるが北欧ツアーをこなし、その後に長い北米ツアーへと
旅立ちます。これも既述ですが、その合間をぬって2月と8月に「マッドマン」のアルバムレコーディングも
行っている訳です。そしてこの時期、実はマネージャー不在で営業を行っていたらしく、前年の米ツアー時に
クビにしてから一年の間マネージメントするスタッフ無しで、営業面は行き当たりばったりだった様との事
(その後スコットランド人のマネージャーを迎え、その面は解消された)。
上はB-①「Salvation」。作詞家 バーニー・トーピンはキリスト教徒というわけではなく、
むしろそれらには辛辣な姿勢であったらしく、本曲は単純な内容ではないらしい・・・

そのバーニーはツアーにも同行して、ステージの最中にエルトンから呼ばれるのを舞台袖で待ち続け、
ほんの一瞬ステージで挨拶をした後、オーディエンスに小さく手を振ってまた舞台袖に戻っていく、
という事を繰り返していたそうです。
エルトンだけではなく、バーニーもこの様な日々の繰り返しに相当なストレスをため込んでいたらしく、
お互い心身ともに疲弊していきます。エルトンはアルコールと過食、バーニーはドラッグへと
溺れていくのでした・・・
B-②の「Slave」はエルトンお得意のカントリー調ナンバー。牧歌的な曲調ですがアメリカにおける
奴隷の奴隷の辛い境遇を歌ったものらしい・・・

皮肉なことに「ユアソング」のヒット以降、ミュージシャンとしては成功の一途をたどり続けるのと
反比例して、その肉体と精神はどんどん病んでいく事となった訳です。
ちなみにDJMレーベルとの間ではこの時期年に2枚のアルバムをリリースする契約となっていて、
これがエルトン達へのプレッシャーとなっていたことも言わずもがな。
自分たちを拾ってくれたDJM社長 ディック・ジェームズへは恩義もあったでしょうが、
不満も持っていた事は事実で、これがのちにおける泥沼の裁判沙汰へとつながったのかも・・・・・
「Amy」は一筋縄ではないファンクナンバー。エレクトリックヴァイオリンと相まって
魔訶不可思議な雰囲気がプンプンします。レオン・ラッセル調とよく評されますが、私は少し
スティービー・ワンダー臭も感じます。同時期に活躍した天才・鬼才(奇才)たちですから、
影響を受けあって何ら不思議はないです。ちなみにレオンが42年生まれ、エルトン47年、
スティービーは50年生まれです。

かようにツアーに明け暮れた71年が明けて、翌72年初頭からシャトウスタジオにて腰を据えて
制作に取り組んだ作品が「Honky Château」であるというのが前回の内容でした。
そこではコンビを組みたての頃の様にするすると楽曲たちが生み出されていった、と書きましたが、
別の資料によればこの時期のエルトンもかなり精神的に不安定だったとあり、生来の癇癪が
いつ爆発するか、回りは最新の注意を払いながら何とか5月の発売へこぎつけたとあります。
もっともこの資料というのは児童書の ” 伝記 エルトン・ジョン ” みたいな本なんですけどね …
地元の図書館で検索したら唯一ヒットしたのがこの児童書でした・・・ (*´∀`*) ………
B-④「Mona Lisas and Mad Hatters」は隠れた名曲として知られてます(こういう言い方は
よく目(耳)にしますが隠れてるのか知られてるのかどっちなんでしょう? (´・ω・`) ……… )。
エルトン自身が ” one of my all-time favourites ” と称している楽曲であり、N.Y. を歌った
ナンバーである本曲はアメリカ同時多発テロ事件への鎮魂曲として捧げられました。
ベン・E・キングの「スパニッシュ・ハーレム」にインスパイアされて創られたことも
ファンにはおなじみの事。

同年にエルトンはレジナルド・ケネス・ドワイトからエルトン・ハーキュリーズ・ジョンへと
改名します。25歳の時でした。またロンドンから小一時間の所に家を買い、その家を
「ヘラクレス(ハーキュリーズ)」と名付けました。エルトンはステージでしばしば椅子などを
持ち上げたりして怪力を誇示するようなパフォーマンスを行っていたそうで、ギリシャ神話の英雄で
怪力の持ち主である象徴のヘラクレスに何か思い入れがあったのでしょうか?
そして本アルバムのラストを飾るのが「Hercules」。

#221 Honky Château

環境が変わると気分が一新され、良い結果へと物事が成されるということは往々にしてあります。
どうしても書けなかった作家が普段の仕事場を離れたとたんにするすると筆が進んだとか、
演技がマンネリと評されていた役者が充電と称して海外でしばらく過ごした後、帰国してからの
それは一皮剝けたものになっていたとか、倦怠期が訪れた夫婦の間でカミさんにセーラー服を
着せてみるとか、( … ん?話がおかしくなってきてねえか?? (´∀` ) …… )、
普段は右手ばかりなのでたまには左手で・・・・・下ネタ禁止!!!ヽ( ・∀・)ノ┌┛Σ(ノ;`Д´)ノ

エルトンの成功が70年8月に行われた L.A. 公演をきっかけとしたことは以前に述べましたが、
翌71年も北米ツアーに長い期間が費やされました。本ツアーはやがてエルトンのワンマンショー的な
性格を帯びていき、これも既述ですがそのコスチュームやステージアクションはどんどん派手さを増し、
アメリカのオーディエンス達を大いに沸かせたのです。
悪い言い方をあえてするならば、エルトンのメロディックかつ、エモーショナルかつ、グルーヴィーかつ、
深淵な音楽性は蚊帳の外とされ、ぱっと見受けするようなパフォーマンスで注目された訳です。
一年半もの間あまりにツアーに明け暮れたため、明けて72年1月からエルトン達は腰を据えて
アルバム創りに取り掛かります。それが「Honky Château」。言わずと知れたエルトン快進撃の序章を
飾る作品で、初の全米1位を獲得したアルバムです。
上はオープニング曲である「Honky Cat」とA-②「Mellow」。「Honky Cat」はエルトン流
ニューオリンズスタイルといった楽曲。「Mellow」は後半のエレクトリックヴァイオリンが印象的。

パリから北に40キロ行ったところにあるエルヴィルという村。そこに建つ古城を改装したスタジオで
本作のレコーディングはなされました。タイトルである「Honky Château」とはそのスタジオ(城)を
指します。もっとも当時はストロベリースタジオと称して貸し出されていたそうです。
勿論10ccで有名な英マンチェスターの同名スタジオ(#171ご参照)とは別物。

本作よりツアーメンバーとレコーディングのそれが同一となります。つまりディー・マレイ(b)や
ナイジェル・オルソン(ds)が基本的には全てのトラックでプレイするようになりました。
さらに前作からも参加していたギタリスト デイヴィー・ジョンストンが本作よりエルトンバンドの
メインギタリストとなり、スライドやバンジョー、
マンドリンなども多彩にプレイする彼によって
バンドは新境地を開きます。
この古城における制作作業はエルトンに良い結果をもたらしたそうです。
バーニーが朝食時に歌詞が書かれた紙の束を持ってきては、エルトンがそれを ” ビジュアル ” として想像し、そこからメロディーが流れ出るように生まれた。まるでモータウンのヒット工場のようだった。
そこでの制作過程はこの様に表現されています。二人は一時期エルトンの家で暮らしていました。
もっとも空軍大尉であった実父と母親はその時既に別れており、エルトンの母と再婚相手が
暮らしている家でした。二段ベットの上でバーニーが詩を書き、出来上がると下のエルトンが
それを受け取ってすぐさまピアノの向かって曲を創り始める。コンビを組んだ当初、駆け出しの二人は
そのような事をして作品を創りためていました。その古城でまた二人の黎明期におけるコラボレーションが
再現されたのです。バーニーが上の階で曲を書き、マキシン(バーニーの妻。「タイニーダンサー」の
モデルである事は既述)が急いでスペルを修正し、ピアノに置かれた歌詞にエルトンが取り掛かり、
バンドメンバーたちはすぐ後ろでその作業が終わるのを待っている、という状況だったそうです。
前作「マッドマン」は第一章の終わりであり、全く違う新しい何かを始める時を迎えていた、
そうして創られたアルバム、それが「Honky Château」でした。

長くなったので「Honky Château」については次回も続けます。

#220 Madman Across the Water

エルトン・ジョンが71年に発表したアルバム「Madman Across the Water」は、
後年になって「Tiny Dancer」が評価されるようになり、それが収録された作品として
再び注目を浴びるようになっていきましたが、それまでは比較的印象の薄い作品でした。
全米最高位8位、翌年にはゴールドディスクを獲得するなど決してヒットしなかったという訳では
ないのですが、やはりヒットシングルが無いと人々の印象に残らないようです。
翌年にリリースされる「ホンキー・シャトー」以降の、No.1ヒットを連発するような
快進撃の直前であり、人々の記憶としてはそれらの間に埋没してしまったのでしょう。

米ではセールス的に満足のいくものでありましたが、本国イギリスにおける評価は最高位41位と
それまでの作品と比べると散々なものでした。
エルトンの音楽が英国人気質に合わないなどということは絶対にありえない事なので、
やはりアメリカでの高セールスは、派手なパフォーマンスが大いに要因としてありそうです。
上はA-③「Razor Face」とA-④タイトルトラック。

本作でディー・マレイ(b)とナイジェル・オルソン(ds)は演奏においては一曲しか参加していません。
これはプロデューサーであるガス・ダッジョンが、この時点ではまだ二人の力量に不安を
感じており、レコーディング陣はスタジオミュージシャンを中心に構成されています。
あのライヴアルバムにおける鉄壁の演奏を聴けば、そんな心配は無用だったと思うのですが・・・
ちなみに本作からイギリスが誇る名パーカッショニスト レイ・クーパーが参加しています。
その後におけるエルトンの名盤群にて数多の名演奏を残すことは周知の事実です。
上二つの動画はB-①「Indian Sunset」B-②「Holiday Inn」のスタジオライブにおける模様。
BBCのプログラムにおけるものらしく、71年とありますが実際は72年4月のようです。
「Holiday Inn」を聴いていると、以前にも書きましたがカントリー&ウェスタンとブリティッシュ
トラッドフォークなどは根っこが同じものなのだとあらためて思わされます。

本作に収録されている9曲は既に書かれ、また演奏もされていたものだそうで、これはつまり
ブレイク後におけるエルトンとバーニーが時間的余裕の無さからストックに頼るしかなかったという事。
もっとも両名とも、それぞれ作曲家・作詞家のオーディション時には、山ほどの譜面・原稿を
携えて音楽出版社を訪れたというますから、そのストックは膨大なものだったのでしょう・・・
ちなみに ” Madman Across the Water ” とは、バーニーが17歳の時に人々が時の大統領
リチャード・ニクソンを指して言っていた言葉だそうです。狂人が海or河を渡る、とは
どの様な意になるのか?・・・・・
B-③「
Rotten Peaches」はカントリー&ゴスペルといった感じでしょうか。B-④
「All the Nasties」はもっとゴスペルチックなナンバー。エルトンのアメリカンミュージックへの
傾倒ぶりがうかがえます。
トライデントスタジオにおける録音は本作にて一旦区切りがなされ、次作である
「ホンキー・シャトー」からはかの有名なフランスの古城を改装したスタジオで数多の名作が
産み出されることとなるのですが、その辺りはまた次回以降にて。

#219 Levon

以前に言った事と後年になってからのそれが食い違うというのはままあることです。
都合が変わって(悪くなって)以前のそれとは異なる事実や事情を語る、または記憶が薄れてその当時と
整合性が取れない事を言ってしまう、あるいはその当時において錯誤があった場合などもあるでしょう。
いったい何が本当なのか?というよりも真実は必ずしも一つだけなのか?
マンガの主人公によるキメ台詞のように世の中はいかないものなのでは?

エルトン・ジョン4作目のスタジオアルバム「Madman Across the Water」(71年)からの
1stシングルである「Levon」はアルバムと同月の11月にリリースされます。
当時のチャートアクションは全米24位と「Your Song」には及ばないものの、
まずまずのスマッシュヒットといったものでした。
ちなみにウィキではゴールドディスクとありますが、RIAAで認定されたのは
18年4月の事なので比較的最近の事です。#216の「Tiny Dancer」回でも触れましたが、
これは「Tiny Dancer」がトリプルプラチナに認定されたのと同月です。
おそらく映画「ロケットマン」の影響かと思われますが(公開は翌19年5月)、
映画製作の発表がこの頃で、エルトン人気が再燃したのかな?と・・・・・

「Tiny Dancer」同様にポール・バックマスターのストリングスアレンジが見事である本曲は、
” Levon ” という架空の人物を含めた親子三代について書かれた物語です。
ですが、歌詞の考察は別の方達がされているのでここでは特に触れません。
「Tiny Dancer」と同様に静かな導入部から、徐々に壮大さを増していく構成は
ぐうの音も出ないほどに素晴らしく、アレンジ・演奏も秀逸ですがエルトンの歌が
本当にシビれるくらいに見事です。特に最後(三回目)のサビ(以下の部分)における歌唱は絶品。
And he shall be Levon

And he shall be a good man
And he shall be Levon
In tradition with the family plan
And he shall be Levon
And he shall be a good man
He shall be Levon
” And he shall be a good man ” の節における” a good man ” が二回目より三回目の
方がほんのちょっとですけれども荒々しくなっているように聴こえるのがミソ。
” 彼(Levon)は立派な人間になるんだ・いい人間になるのだ ” の部分にこんな力を込めて
歌うのは、勿論 ” 彼がそうなった・そうなって欲しい ” などという、字面通りの表現でない事は
言うまでもないでしょう …………………

” Levon ” という名前はアメリカのロックバンドであるザ・バンドのドラマー リヴォン・ヘルム
(Levon Helm)から取ったと、以前は言われていたそうです。実際にザ・バンドはエルトンと
作詞家 バーニー・トーピンのお気に入りであったらしく、長い間そう思われてきました。
余談ですが、ザ・バンドを好む辺りからエルトンのカントリーミュージック志向が伺えます。
ところが、13年になって歌詞を書いた当人であるバーニーが ” リヴォン・ヘルムとは関係ない ” と
語ったとか・・・・・?(´ヘ`;)
タイトルはリヴォン・ヘルムから取ったとの言はプロデューサー ガス・ダッジョンによるもの
らしいので、ダッジョンの勘違いという可能性もないではありませんが、この時期にエルトンや
バーニーと密接に関わっていた事などから考えると、何らかの根拠はあったのでは?と考えます。
人間の記憶は曖昧なので、40年近い年月を経てバーニーのそれがあやふやになってしまった、
なにか別の事柄と記憶がすり替わってしまった、たしかにリヴォン・ヘルムの事が頭になかった訳ではなく、
当時ダッジョンにそれとなく話したことは話したが、実は” Levon ” に込められたものには
もっと別に大きな意味があった等々、
推測するときりがありません …………………

一年も経っていない事柄でさえ、あの時自分は何を考えてあのような言動を取ったのだろう?
なんてことはざらにあります ………………… えっ!ワタシだけ?!(*゚▽゚)・・・・・

真実はいつもひとつ!… とは限らないのです☆(*•ω•*)☆…… オマエのはただのボケだからな (´∀` ) 

#218 Tiny Dancer_4

エルトン・ジョン「Tiny Dancer」に関するその4。今回で最後です。
緊張と痴漢 … もとい、緊張と弛緩が本曲における重要なファクターであることは前回述べました。
(失礼 (*•ω•*) … 予測変換で上に来たものでつい・・・・・・・ 前回最後のくだらねぇ話は
このネタの為の伏線か? つうかそれが一番上に来るってオマエ普段PCでナニやってんの ……  (´∀` ) )

甘美であることこの上ないAメロから、転調によって一転してテンション感が高まるBメロ。
そしてそれが解放され
クライマックスであるサビへと流れていきます。
特にBメロからサビへつながる ” When I say softly, slowly ” の部分は永いこと本曲を
聴いてはいますがいまだに鳥肌が立ちます。

前回ストリングスは本曲の肝ではない、の様な旨を書きましたが、やはりそれが素晴らしい効果を
あげていることに間違いはありません

2番のAメロ・Bメロでは、1番にはなかったストリングスによってまた異なる彩を添えています。
ちなみにエルトンの歌は1番と2番で
ほとんど変わりはなく、この繰り返しをアレンジの変化によって
活きたものへと昇華せしめることに成功しています。
繰り返しといえば、スローテンポであるこの曲は ” AABCABC ” という構成によって
6分12秒という長尺です。

オープニング曲に据えたことからして当然エルトン達も本曲の出来に自信があってそうしたのでしょうが、
シングルはラジオでかかりやすい
3分程度のものを、まだまだそういったご時世においてシングル曲としては
不向きだったのでしょう。発売時の不振はそういった事情もあったのかもしれません。

演奏もこれまた見事です。特にギターは3本で録音されており、エレキ・スティールギター・アコギが
それぞれ素晴らし効果をあげています。エレキは初期からエルトンに携わっていたカレブ・クエイ。
フェンダー ストラトキャスターによるものと思われるその音色は透明感を醸し出し、
B. J. コールの(おそらくは)ペダルスティールがレイドバックフィーリングを与えています。
ちなみにベースとドラムはディー・マレーとナイジェル・オルソンではなく、彼らは本曲においては
コーラスにて参加しています。

下の動画は70年における本曲のリハーサルの模様と銘打たれていますが、本曲の制作背景からすると
70年中にこの様なリハーサルが行われたとは考えられず、ましてや本曲のモデルとなったマキシン・
フェイベルマン(映っている女性がマキシン)が同席しているという事は、おそらくは少なくとも
71年以降に、本曲が出来上がった過程を語ったドキュメンタリー的なTVプログラムの一部分だと
思われます。映像・音質も良好ですからね、もし当時のホームビデオ(8mm)などでは
もっと質の悪いものでしょう。

「Tiny Dancer」という曲は、楽曲そのものが稀にみるほどの傑作であり、さらに完璧な歌と演奏、
そしてこの上ないアレンジがなされた、ポップミュージック全体においても奇跡的な完成度を
誇るものであり、であるからして発売時には不振に終わったものの、永い時をかけて人々を
魅了していったのです。良いものが必ずしも世間に認められるとは限りません。残念ながら、
素晴らしいものであるのにも関わらず、不遇に終わってしまった作者や作品もジャンルを問わず
いっぱいあります(その逆もあるんですけれどね、なんでこんなに売れるんだろう?ってのが … )。
18年に英ガーディアン紙がエルトン・ジョン名曲ランキングという企画でそれらを選出しました。
このような企画は多々ありますが、私はほとんど取るに足らないものと思っています。
しかし本ランキングは的を得ているな、と頷けるものでした。「ユアソング」や
「キャンドル・イン・ザ・ウインド」が一・二位になりそうな気がしますが(別にこの曲たちも
素晴らしい曲ですよ)、ランキングの1位は「Tiny Dancer」でした。ちなみに2位が
「ロケットマン」で「ユアソング」は4位、「キャンドル・イン・ザ・ウインド」は11位です。
一般投票で選出されたものではなく、同紙が独自に選んだものですから、あくまで(おそらく数人の)
主観と言ってしまえばそれまでですが、マスコミの中でもやはり的確な耳を持った識者はいるようです。

以上四回にわたって「Tiny Dancer」について書きました。この様な駄文ながら、ほんのわずかでも
本曲の魅力を伝えられたならば幸いです。
もしも無人島へ行かなければならない事となったなら。先ず第一には水と食料、暖を取ったりする為の
油や薪、衣類、そして外敵から身を守る防具などが絶対に必要なものです。しかしながら、
人はパンのみにて生くるものに非ずという言葉もあります。衣食住が満たされたら次は生活に潤いを
求めるのが人というものです。その際に、音楽が好きであったならばこの曲は、
無人島へ持って行く曲として間違いなく十二分に価値のあるものです。ぜひ聴いてください。
あっ、でもレコードやCDならプレイヤーが、MP3とかの配信データなら携帯プレイヤーも
必要になりますよね (*•ω•*) ・・・・・・・いい加減にせい!君とはやっとれんわ  (´∀` ) ……

#217 Tiny Dancer_3

緊張と弛緩。スポーツ・トレーニングの分野ではフィジカル面及びメンタル面のいずれにおいても
重要な概念であるそうですが、これらは創作物においても非常に大事な要素と言えます。
ただただ幸せなだけのラブストーリーなどは ( `д´) ケッ!とムカツクだけですし、
終始のべつまくなくお化けやチェーンソーを持った殺人鬼が襲い掛かってくるホラーサスペンスなどでは
恐怖も半減してしまいます。恋愛ものは困難を乗り越えた末に結ばれるからこそヨカッタヨカッタ ( ;∀;) となる訳ですし、背後に気配を感じて振り返るとそこに恐怖の対象はおらず、気のせいか?ε-(´∀`*) ホッ、と胸を撫で下ろして前を向くとそこに異形の者が立っていた … ギャ────∑(゚Д゚; )────ァァッ!!
という方が怖さも倍増するのです。

平たく言えば ” メリハリ ” ということになるのですが、音楽にもこれは当てはまります。
ソロプレイヤーのアドリブなどでは特に顕著であり、最初から最後までひたすら速く弾きまくるような
プレイは、スゴイな~とは思いますが、音楽的に優れているか、人の心に訴えかけるものがあるかと
いうと ” ??? ” です。やはり優れたアドリブプレイヤーは緩急の付け方が見事であり、
音数の多いプレイを続けた次の展開で、ギターで言えば ” キュイーン ” とチョーキング一発で
それまでのテンション感を開放する。ベタではありますがこれが人の心を揺さぶるのです。
これは勿論演奏面だけではなく、楽曲の構成においても同じことが言えます。

エルトン・ジョンの楽曲「Tiny Dancer」において、” 緊張・ハリ ” の部分が所謂Bメロ、
上の動画で言えば2:13からの ” But oh how it feels so real ” から始まるパートで
あることは衆目の一致するところであり、突然転調する本部分がテンション感を与えています。
いきなりBメロの話から始まってしまいましたが本曲の構成は、
①ピアノと歌のみのAメロ
②繰り返しのAメロ(リズムセクション入る、厳密には①の終わり頃から)(1:14~)
③先述したBメロ(2:13~)
④ ” Hold me closer tiny dancer ~ ” のサビ(2:33~)
が1番で、2番は基本的に②③④になります。
エルトンの歌とピアノは言うまでもないことですが、演奏陣・コーラスそしてストリングスと、
本曲は素晴らしい要素ばかりがこれでもかと詰め込まれ、それでいてそれぞれが干渉して互いを
スポイルするような事が全くないという、ポップミュージックにおいて稀有な出来上がりと
なっている楽曲です。このような曲、私は他に思いつくのはたった数曲です。
その中でも特に際立った効果をあげているのがストリングス。2:46辺りから入るそれは、
勿論ポール・バックマスターによるもの。
本ストリングスアレンジがこの名曲を更なる高みへと押し上げていることは言うまでもありません。
しかしながら、それでもあえて書きますが、ではこのオーケストラが無ければ本曲は本曲足り得ないのか?
というと必ずしもそうではありません。
先ずは次の動画をご覧(お聴き)ください。

https://youtu.be/–A-8qUQZXw
80年、セントラルパークにおけるコンサートでの演奏。ギター2本にベース・ドラムという編成ですが、
まぎれもなく「Tiny Dancer」です
(当たり前だ … )。原曲を知っている故に、ストリングスなどを
脳内で補完してしまう、というのもあるかとは思いますが、
スタジオ盤とアレンジが違えども、
全くもって紛う方なき、異論の無いほどに「Tiny Dancer」なのです。前回あげた ” Old Grey
Whistle Test ”
におけるエルトンのソロ演奏についても同じ事が言えます。
これはつまり、本曲はそれだけで完成しているという事。演奏はオーケストラ共々素晴らしいことに
間違いないのですが、やはりそれらは副次的なものであり、曲そのものが究極的に
完成され尽くしているのです。例えれば、何の化粧をしなくともすっぴんで十分に美しい女の子の様に。
勿論メイクをしても
さらに美しさに磨きがかかります。でも、たまにいますよね、すごい美人だな~と
思っていたら、メイクを落とすと ” アレッ? ” っていう女性 … 
そうではなく素材が完璧なのです
(謝れ!全国の女性に謝れ!! (゚Д゚#) !!・・・全国の女性がそうなのか??? (´∀` ) … )。

それにしてもこのセントラルパークのライヴにおけるエルトンの歌は素晴らしい。序盤でわかる通り、
決して喉の調子が良い様子では
ないのですが、曲が始まればそれがどうした!!
男性的な(性的嗜好は別ですよ・・・余計な事を ……… )ヴォーカルと、サビでのファルセットも
見事に出ています。シンガーとしてのエルトンの醍醐味が味わえるものです。

三回で収めようと思っていましたがムリみたいです・・・ですので次回、パート4へ。

余談ですが私 … 弛緩を永らく ” ちかん ” と読んでいました。本来は ” しかん ” なのだそうですが、
誤読が一般化して現在は ” ちかん ” でも可、
と辞書にはあります・・・
ちなみに ” おまわりさん!このヒトです!! ” というのは痴 ……… いい加減にしろ!ヘ(。。ヘ)☆ヽ(゚Д゚#) …

#216 Tiny Dancer_2

エルトン・ジョンが71年に発表したアルバムが「Madman Across the Water」。
「Tiny Dancer」は本作のオープニングナンバーとして収録されています。
前回でも少し触れましたが、本作からの第二弾シングルとしてリリースされます。
しかし当時のチャートアクションは全米41位と、お世辞にもヒットと呼べるものでは
ありませんでした。
しかし現在ウィキペディアを見ると、RIAA(全米レコード協会)で3×プラチナに認定、
つまり300万枚以上売れていることになります。これ如何に?
上は本曲のオフィシャルPV。スマートフォンを持っている人物が登場しているあたりから
わかる通り、だいぶ後年、というか最近になって作られたものでしょう。
個人的にはお世辞にも出来の良い映像とは思いません……… あっ、余計な事を!Σ(•̀ω•́ノ)ノ

結論から言ってしまうと、発売当初はさほど話題にならなかったにも関わらず、時間を経るにつれて
評価され売れ続けてきたという事です。
RIAAのサイトにて本曲の認定履歴を検索すると(みなさんはこんなことをしてるヒマが
ありますか?!(*´∀` ) … )、ゴールド(50万枚)が05年5月、プラチナ(100万枚)が11年8月、
そしてトリプルプラチナが18年4月となっています。
ちなみに本国イギリスでは60万枚のプラチナ、オーストラリアでも50万弱のセールスを
記録しています。

基本的には本曲が持つ魅力・素晴らしさが世に浸透していった結果だと私は思っていますが、
世間的には本曲が巷に知られるきっかけとなったのがある一本の映画によってとされています。
00年に公開された「あの頃ペニー・レインと」。生粋の映画オンチである私もその名前くらいは
聞いたことがあります。その邦題からロックミュージックに何かしらの関係がある
ストーリーなのだろうという想像もできます(もっとも原題は違いますが … )。
上は本曲が効果的に使われる部分。険悪な雰囲気に陥ったツアー中のバンドが、
本曲によってまた一体となる、という場面だそうです。

本曲は所謂 ” 詞先 ” と呼ばれる歌詞が先に出来上がり、曲は後から書かれたもの。
もっともエルトン&バーニーに関してはほとんどが詞先だったらしいです。
70年夏に渡米し、西海岸のツアーでブレイクする直前の頃を思いバーニーが書いたと
言われています。
有名な話ですが、歌詞に出てくる ” L.A. レディー ” とは後にバーニーの妻となる女性である
マキシン・フェイベルマンの事。L.A. に着き、新天地で見たもの・感じた事が歌詞中に
ちりばめられています。” seamstress for the band(バンドの衣装係)” という歌詞が
出てきますが、これももろに彼女を指しています。エルトンの衣装をコーディネートしたり、
お針子さんとして衣装に細工をしたりしていた現地の女性だったのです。
ちいさなダンサーとは歌詞中に出てくる砂の上で踊るバレリーナの事であり、
それもマキシンを表しているのは言わずもがなです。
要はこの歌詞、バーニーの ” のろけ ” であり、出会った頃を回想して創ったものです。
ですから本歌詞には社会へのメッセージ性であるとか、非常に高度で難解な宗教観であるとか、
そういうものは一切含まれていません。非常に単純なラブソングなのです。
私はポップミュージックにおいて、歌詞に重きは置かないのですが(作詞家には失礼ですが … )
本曲はこの歌詞で全く良いと思っています。名曲の歌詞に必ずしも深い意味が潜在していなければ
ならないなどということは決してありません。
以前にも書きましたがバーニーは感覚で書く人であり、意味はあまり無いことが多いらしいです。
「Take Me to the Pilot」などがその最たるものであることは既述です(#210ご参照)。

Blue jean babyブルー・ジーン・ベイビー)
L.A. lady(LAのお嬢さん)
seamstress for the band(バンドの衣装係)
Pretty eyed(可愛い目をした)
pirate smile(いたずらっぽい笑顔)

ただ単に言葉の羅列ですが、美しくかつ心地よい響きです。音韻学などの見地から研究すれば
ひょっとして何か人間の耳にとって、良い響きとして聴こえる秘密があるのかもしれません。
エルトンはバーニーから歌詞を受け取ってすぐに曲を付けたと言われています。
出来上がった
曲を聴いたバーニーは、これほどまでに自分のイメージ通りの曲を
付けられるものなのかと
驚嘆し、あらためてエルトンの才能に感服したそうです。
もちろんそれは一緒に過ごした 
L.A. 時代、そしてバーニーとマキシンをよく知る
エルトンだからこそだったのでしょうが。
上の動画はBBCのTV番組である ” Old Grey Whistle Test ” でのもの。
前にも書いた記憶があるのですが、それが第何回だったか忘れちゃったのでもう一回書きます
(200回以上書いているから仕方ないですよね (*•ω•*)・・・・・・・・・・・
・・・・・ホント、誰も読んでないのに200回以上も・・・・・。 ゚(゚´Д`゚)゚。)
英音楽出版界のオフィスがひしめく界隈にあるホテルで働くベルボーイやドアマンといった、
言い方は悪いがお世辞にも音楽的素養があるとは言えない彼らに、ソングライターは
出来上がった曲を聴かせ、彼らが一度聴いただけでそれを口ずさめる事が出来たらその曲は
売れる、とされていたそうです。つまりそういう人たちでも覚えやすいフレーズ、
キャッチーなメロディであるかどうかが判定できるテストだという訳です。
ちなみに今日のホテルマンは若い人もいっぱいいると思うのですが、この頃のイギリスでは
みな白髪まじりの年寄ばっかりだったのでしょうか?・・・・・

マキシンは出来上がったばかりの本曲をトライデントスタジオにて、傍らにエルトンそして
バーニーというシチュエーションで聴き、鳥肌が立ったと回顧しています。
名曲が誕生した瞬間に立ち会うことが出来た、非常に幸福な女性です。
70年の夏にL.A. にて出会い、翌年、つまり本曲が誕生した71年にバーニーとマキシンは
結婚する訳ですが、二人の邂逅から結ばれるまでを見事に切り取った歌詞が、
この様な稀代の名曲に乗せられるというのは、ある意味世界中で最も恵まれた女性の一人で
あったのかもしれません。
もっともその五年後の76年に二人は離婚するんですけどね …………( ̄▽ ̄;)・・・

#215 Tiny Dancer

” もし​無人島に本を一冊持っていくなら? ” という問いかけがあります。
” ​いや、ふつうそこは水と食料だろ! ” とは言わずに。あくまで読書好きに
今まで最も感銘を受けた一冊は?というたとえであることは言わずもがなです。
これを音楽に置き換えて、” ​無人島にシングル盤を一枚持っていくなら? ”と
問われた場合、私には悩む二枚があります。
一枚はビーチボーイズ「God Only Knows」。言わずと知れた稀代の名曲です。
これと甲乙付け難い程に、私のなかでポップミュージックにおいて燦然と輝く楽曲があります。
その一曲こそが今回のテーマです。
もっとも私なら水と食料を持って行きますがね、当然ですよね? (´・ω・`)
・・・・・・・・・・・・・だからそういう意味じゃねえって … (´∀` ) 

エルトン・ジョンを語るうえで欠かせない人物としてプロデューサー ガス・ダッジョンの名は
既述ですが、正確にはダッジョンと共にもう一人の名を挙げなければ言葉足らずになります。
ポール・バックマスター。チェロ奏者であり、アレンジャー・指揮者としても超一流の彼は、
ダッジョンと共に2ndアルバムから参加。それ以前にデヴィッド・ボウイの
「スペイス・オディティ」に参加し、その名を知られる所となったのもダッジョンと同様です。
エルトンの初期作品における一連の素晴らしいストリングスアレンジは彼の功績です。
前回取り上げた「フレンズ」のインストゥルメンタルパートは彼による部分が大きく、
実質エルトンとバックマスターの共作、と言っても過言ではない程です。
エルトンの作品でますます世に知られることとなり、エルトン曰く他のミュージシャンに
” つまみ取られるようになった ” と語っています。そのインタビューとはローリングストーンズ誌に
おけるもので、” 彼はその功績ほど評価されていない、彼によってポップミュージックでも
ストリングスが感傷的になることもなく、恐ろしくなることもなく使えるという事が証明された ”
という旨を述べています。” 恐ろしくなる ” というのがどういう意味・ニュアンスを指すのか、
原文に当たってみないといまいちわかりかねますが。
(もっとも原文読んでもわかんねえか! (´∀` ) …)
ちなみにジョン・レノンのアルバム「イマジン」における「How Do You Sleep」のアレンジも
バックマスターによるものとの事。

エルトン・ジョン4作目のオリジナルアルバムとなる「Madman Across the Water」は
71年11月にリリースされました。本作の録音時期は同年2月と8月に分かれており、
本作からの第一弾シングルである「Levon」は2月の録音、そして第二弾となる
「Tiny Dancer」が8月のものです。

前置きが長くなりました。私が無人島に持っていきたいシングル、つまり人生で最も感銘を受けた
楽曲、それがビーチボーイズ「God Only Knows」と、今回から取り上げるテーマである
エルトン・ジョン「Tiny Dancer」に他ならないのです。
前置きだけで随分書いてしまいましたので本曲については次回以降から、という事で。

あっ、(´・ω・`) でも私ならやっぱり水としょ… >>>>>シツコイ!ヽ( ・∀・)ノ┌┛Σ(ノ;`Д´)ノ