#101 Let’s Stay Together

昨年の間、長々と書き垂れてきた80年代特集の中で、ブルーアイドソウルという単語をしばしば
用いましたが(ブルーアイドソウルの意味については#56のホール&オーツ回で触れましたので、
よろしければそちらをご参照の程)、ではブルーアイドではないソウル、本物の、
黒人によるソウルミュージックって何?と問われると、意外に答えに戸惑うかもしれません。
黒人が演る音楽は全てソウルなのか?R&Bとソウルは何が違うのか?ゴスペルは?ファンクと
呼ばれるブラックミュージックもあるよね?と、様々な疑問が湧いて出てきます。
結論から言うと、明確な定義付けなどありません。クラシックの様に音楽用語全てが厳密に
定められているのとは異なり、ポピュラー音楽ではこれらは曖昧なのです。以上 ( ・`ω・´) キリッ!
・・・・・・・・・・・・・・あっ、( ;゚д゚) … これでは、このブログが終わってしまうので …
お願いです、もうちょっとだけ続けさせてください ……… 。゚・(´;ω;`)・゚。
という訳で、しばらくの間、ソウルに代表されるブラックミュージックを取り上げていきます。

https://youtu.be/COiIC3A0ROM
白状しますと、私も英米の白人によるロック・ポップスをメインで聴いていたので、黒人音楽を
偉そうに語るほどの知識があるかどうかは疑問なのですが、自分にとっての再確認の意味も込めて
書いていきます。
誰にしようかと思いましたが、何となく真っ先に浮かんだのがこの人・この曲でした。71年の大ヒット、
アル・グリーン「Let’s Stay Together」。ポップスチャートとR&Bチャートにて全米1位を
記録した本曲は、マーヴィン・ゲイの「What’s Going on」などと共に、70年代における
ソウルミュージックを代表する楽曲です。

 

 

 


46年、アーカンソー州生まれ。10人兄弟の6番目の子供であり、幼少期は兄弟でゴスペルを
歌っていたそうです。しかし、彼の音楽的興味はジャッキー・ウィルソン(サム・クックなどと
並びソウルの開祖とされるシンガー)、ウィルソン・ピケットやエルヴィス・プレスリーなど
へと移っていったようです。彼の父親的にはそれはお行儀の良くない音楽だったらしく、
アルは兄弟で組んでいたゴスペルグループを追い出されたとの事。

67年にマイナーレーベルからアルバム1枚を出した後、ハイ・レーベルへ移籍。2枚のアルバムを
リリースし、やがて71年に前述した「Let’s Stay Together」の大ヒットへと相成る訳ですが、
上はその一つ前のシングルであり最初にゴールドディスクを獲得したヒット曲「Tired of Being Alone」
(71年、ポップス11位・R&B7位)。アル・グリーンと言えば、一般的には甘く囁くように歌いあげる
ヴォーカルスタイルが特徴と思われているのですが(私も昔はそう思っていました)、本曲が収録されている
「Al Green Gets Next to You」(71年)迄は結構違っていました。先述の通りウィルソン・ピケット、エルヴィス・プレスリー、そしてジェームス・ブラウンを好み、初期の歌唱スタイルは彼らに影響を受けたものだったようです。ハイ・レーベルへ移ってから、アルのソフトな歌声にセールスポイントを見出した
マネージメントサイドが、徐々に変えるようにアルへ促していったと言われています。
シングル「Let’s Stay Together」の世界的ヒット、翌年に発表した同名アルバムも大ヒットを記録
(ポップス8位・R&B1位)。本作においてソフト路線はさらに極まり、アル=ソフトなラブソングシンガーというイメージが定着したようです。これがアルが本当に望んだ事だったのかどうかは測りかねる事ですが、
それまでソウル界において、男性のセックスシンボル的存在であり、愛や性について歌ってきたマーヴィン・ゲイが「ホワッツ・ゴーイン・オン」で社会派なメッセージを発し、スティーヴィー・ワンダーは成人して
モータウンの言いなりにはならずに独自の音世界を構築し始め、そしてダニー・ハサウェイやカーティス・
メイフィールド達によって ”ニュー・ソウル” と呼ばれる、それまでとは異なるソウルミュージックが
創り上げられました。これらは勿論素晴らしいものであり、私も大好きなミュージシャン達ですが、
世間一般には ”難しい” ものとして受け取られるという側面もありました。あのセクシーなマーヴィンが、
可愛い天才シンガー リトル・スティーヴィーが変わってしまったと。
悪い言い方をすれば、アルはその隙間を突いた様な形となったのです(アルの本望であったかどうか
疑わしいのは先述の通り)、特に社会的メッセージを歌うようになったマーヴィン・ゲイに代わる
セックスシンボル的存在として祭り上げられていったようです。上のアルバムにおける右側
「Al Green’s Greatest Hits」(75年)のジャケットを見ればわかる通り、上半身裸のアルの姿が
それを象徴しています。ちなみに本ベスト盤がアルにとって最も売れた作品でした(ダブルプラチナ)。

次作「I’m Still in Love with You」(72年)は前作を上回る大ヒットを記録(ポップス4位・
R&B1位、プラチナアルバムに認定)。上はそのタイトルトラック(ポップス3位・R&B1位)。
アルはハイ・レーベルの看板シンガー、というよりも70年代ソウルを代表する存在へと成って
いきました。

さらにソフト路線を推し進めたアルバム「Call Me」(73年、ポップス10位・R&B1位)も
大ヒット。上記のタイトル曲を含む2曲のTOP10ヒットを生み出しました。

ハイ・レーベルに在籍した69年から78年の間にオリジナルアルバム12枚とベスト盤2枚を
リリースしています。シングルカットされた枚数は、数えるのを止めました…(物好きな人は
数えてみてください。英語版のウィキに載ってます)。ちょっと異常とも言えるペースです。
如何にアルの人気が凄かったか(レコード会社がアルに依存していたか)という証拠です。

アルだけに限った事ではなく、70年代半ばからソウルミュージックの人気には陰りが
見え始めました。世間の興味はディスコミュージックなどの新しい音楽へと移っていったのです。
78年のアルバムを最後にアルはポップス・エンターテインメント界を離れ、ゴスペルシンガーと
しての道を歩み始めます。74年にガールフレンドとの間にトラブルが起きた末、彼女が自殺して
しまった事が彼へ転身を決意させたと言われています。勿論それが大きな要因だったのでしょうが、
自身を含めたソウルミュージック界の低迷、あまりにも忙しすぎたそれまでの約10年間など、
諸々の事が複合的に絡み合って彼に決意させたのではなかったのでしょうか。

80年代後半、アルはショービズ界へ戻ってきます。前回の中でも触れたユーリズミックス アン・レノックス
とのデュエット「Put a Little Love in Your Heart」(88年)は、アルとしては74年以来の
全米TOP10ヒットとなりました。
03年からはジャズの名門ブルーノート・レーベルへ移籍し、3枚のアルバムをリリースしました。
昨18年にはカヴァー曲ですが、アマゾンミュージックオリジナルとしてレコーディングしています。
アレサ・フランクリン亡き現在、ブラックミュージック界のシンガーで現役最古参として活動している
一人でしょう(72歳)。あとはディオンヌ・ワーウィック(78歳)、ダイアナ・ロス(74歳)、
スティーヴィー・ワンダーは意外にまだ若く68歳です、何しろデビューが12歳でしたから。
ロバータ・フラック(81歳)がいますが、去年の4月にアポロ・シアターの壇上で体調を崩し、
そのままステージを降りてしまい、後に脳卒中であったとマネージメントサイドから発表があったそうです。
あとは 
… 誰がいましたっけね?・・・

特にソウルシンガーはライヴにおいてその真価が発揮される、とよく言われます。確かに同感です。
アルのオフィシャルなライヴ盤は81年にリリースされた「Tokyo Live」が唯一のものです。
78年6月の中野サンプラザにおけるコンサートを収録した本作は、私も今回初めて聴いたのですが、
”素晴らしい” の一言です。アルを甘くソフトなラブソングシンガーと認識していた昔の自分が恥ずかしい。
まるでジェームス・ブラウンやオーティス・レディング張りのシャウトがさく裂し、エネルギッシュな
歌声と抑制の効いたそれによる緩急の付け方は見事。これが本来におけるアルの姿であったのでは
ないかと考えてしまいます。
最後にご紹介するのはやはり生演奏。あまりにも有名な米における音楽番組『ソウル・トレイン』に
出演した際のもので、74年のシングルヒット「Sha-La-La (Make Me Happy)」。喉が若干本調子では
ない様な気もしますが、そんな事は些末に思えてしまう程伸び伸びと歌うアルの姿が素晴らしい。

#100 I’ll Remember the 80s

あの … 多分 … 誰も覚えていないと思うのですが ……… このブログ、年初から80年代をテーマに
書いてきました(#51ご参照)。そりゃ、覚えてませんよね。アハハ!…………… ゜:(つд⊂):゜。。

これまたどなたも覚えてらっしゃらないでしょうが、本ブログは何かしら前回から関連するテーマを
引き継いで書いております(#5ご参照)。なので、取り上げようと思っていたのですが、関連付け
出来ずに結局ご紹介出来なかったミュージシャンが結構います。ですので、今回は80年代特集番外編
として、それらを取り上げていきたいと思います。

はじめは80年代初期、オーストラリアから突如ブレイクしたバンド メン・アット・ワーク。
上はデビューシングル「Who Can It Be Now?(ノックは夜中に)」。81年6月に本国でリリースされ
最高位2位を記録、やがて各国で発売され次々とヒットし、それが米でのリリースに拍車をかける事となり、
翌82年10月、遂に全米No.1ヒットとなります。2ndシングル「Down Under」も全米1位に輝き、
これらを含むデビューアルバム「Business as Usual(ワーク・ソングス)」(豪81年11月・
米82年6月)は本国は勿論の事、米・英・ニュージーランド・ノルウェーで軒並み1位を記録。全米だけでも
”6 プラチナ” (600万枚)の大セールスを記録します。ちなみに「ダウン・アンダー」とは、世界地図で
オーストラリアは下側に位置する事を自虐的に表現したもの。自分たちが世界の中心だとか国名で表している
所よりは(あっ!これ、私の想像上の国ですよ。実在はしません)、シャレがわかる人たちですね。

2ndアルバム「Cargo(カーゴ)」(83年)も大ヒットし、本作からは上の「Overkill」を含めて2枚の
TOP10シングルを生み出しました。
ボーカル コリン・ヘイの飄々としながら、どこか哀愁の漂う歌声は、日本人の琴線に触れるものがあったのでしょう。我が国でもメン・アット・ワークは大ヒットを記録しました。
失礼を承知で言うと、彼らは究極のB級バンドでした。良くも悪くもシンプルな演奏、ゴージャス・重厚さとは対極にあるチープなサウンド、これらが支持された一番の理由だと思います。決して貶す訳ではなく、
彼らのそれはあまり難しい事を考えずに済む音楽であり、米のウェストコーストサウンドに近い感覚なので
心地よく、ですが少し切なさも感じさせる様な楽曲と歌が、多くの人々の心に響いたのでしょう。
音楽性が似ているという訳ではありませんが、#52で取り上げたカーズに通ずる様な気が私はします。

お次はティアーズ・フォー・フィアーズ。2ndアルバム「Songs from the Big Chair(シャウト)」
(85年)のモンスターヒットは私の世代の洋楽ファンなら記憶に残っている事でしょう。「Shout」及び
上の「Everybody Wants to Rule the World」が全米No.1ヒットとなり、一躍世界的バンドと
なります。サウンド的には如何にも80年代的な煌びやかな音色のシンセサイザーを多用したものでした。
この辺りに関しては#54でご紹介したスクリッティ・ポリッティと同系譜とも言えます。ところが彼ら、
実は内省的な部分をかなり抱えており、その歌詞や、ソフトマシーン ロバート・ワイアットへ捧げた
楽曲など、バンド名も含めてなかなか ”闇” を抱えたバンドだった様です。

70年代末からイギリスで興ったニューウェイヴに関しては#87以降にて触れてきましたが、個人的に
思い入れのあるバンドがいます。ザ・フィックスです。その音楽性はデュラン・デュランを地味にした、
言い換えればザ・フィックスをダンサンブルかつ、ポップでキャッチーに、ナウなヤングでオシャレな
イマイ音にすればデュラン・デュランになる・・・・・・クドイわ!! ヽ( ・∀・)ノ┌┛Σ(ノ;`Д´)ノ
(おめでとうございます!いま並べ立てたヨコ文字に違和感が無ければあなたは立派なオッサンです!!)
2ndアルバム「Reach the Beach」(83年)がダブルプラチナの大ヒットを上げ、上のシングル
「One Thing Leads to Another」も全米で最高4位を記録します。率直に言うとヴォーカリスト
シー・カーニンのルックスの良さもあったとは思いますが、同時期に流行ったデュラン・デュラン、
スパンダー・バレエ、リマール率いるカジャグーグーといった、当時で言う ”ニューロマンティクス” の
バンドたちと同系統ではあれども、どこか一線を画したその硬派なポストニューウェイヴ的
ブリティッシュポップスは私の印象に残りました。

次に取り上げるのはユーリズミックス。英国王立音楽院出身のアン・レノックス(日本版のウィキでは
中退とありますが、英語版にはそんな記述はありません。どっちでしょう?…)と、デイヴ・スチュワート
から成るデュオ。今回調べるまでは、アンという人はイイとこのお嬢様で英才教育を受けてきたのだと
勝手に思っていましたが、実はそうではなく、労働者階級に生まれ、幼少期において神童ぶりを発揮し、
やがて王立音楽院への進学と相成ったそうです。しかし決して裕福ではない出自ゆえに、ウェイトレス、
バーテンダー、販売員、そしてクラブでのシンガーなど、働きながら学費と生活費を捻出していたそうです。
83年、2ndアルバム「Sweet Dreams (Are Made of This)」からタイトル曲が全英2位・全米1位の
大ヒット。ポストニューウェイヴのエレクトリックポップに、アンによるR&B・ソウルといったブラック
ミュージック志向が加わり、当時のイギリス勢の中でも異彩を放っていました。短髪でビシッと決めた
アンはとんでもなく迫力がありました(道で会ったら間違いなく避けます・・・(((;゚Д;゚;))) )

日本ではこちらの方が馴染みがあるかもしれません。85年のヒット「There Must Be An Angel」。
「スウィート・ドリームス」から比べるとすっかり明るく洗練された楽曲と歌。アンのシンガーとしての
引き出しの多さには脱帽です。ちなみに後半のハーモニカソロはスティーヴィー・ワンダー。聴けば
一発でスティーヴィーとわかるそのプレイは今更ながら見事です。

都会的感のあるアン・レノックスですが、彼女実はスコットランドの出身です(スコットランドに謝れ!)。
同じくスコットランド出身である女性シンガーを擁したバンドと言えば、私にとってはフェアーグラウンド・
アトラクションです。エディ・リーダーをフィーチャーした本バンドは88年に上のシングル「Perfect」にて
デビューし、本国イギリス、アイルランド、オーストラリアで1位を記録。独・スイス・スウェーデン・
ベルギー・ニュージーランドでもTOP10ヒットとなりました。
エディはバンド結成以前に、セッションシンガーとしてユーリズミックスやアリソン・モイエットの
バックで歌っていました。アンとはその頃に接点があったようです。
80年代半ばまで流行ったブリティッシュエレクトリックポップの反動とも言える、そのアコースティック
サウンドは、ヨーロッパ圏をはじめとして受け入れられました。デビューアルバムにして、バンドとしては
唯一のオリジナルアルバム「The First of a Million Kisses」(88年)も全英2位の大ヒット。私は
90年代に興ったアコースティック(アンプラグド)ブームの予兆であったのではないかと思っています。
昔、村上 “ポンタ” 秀一さんがホストを務めていたBSの音楽番組で、ル・クプルの藤田恵美さんをゲストに
迎えた回があり、その番組で藤田さんはフェアーグラウンド・アトラクションを取り上げていました。
だいぶ以前の番組なので、ひょっとしたら記憶違いがあるかもしれませんが、藤田さん達は80年代の
エレクトリックかつダンサンブルな音楽は自分たちが演るものではないと考えていましたが、しかし
どの様な音楽を目指せば良いのか、具体的には見つからなかったそうです。そんな折、彼女達の音楽を
耳にし、” 私達が目指していたのはこれだ!先を越された!!” と思ったそうです。やはり世の中には
シンクロニシティ(共時性)と言うのでしょうか、同時期に同じ事を考えている人達がいるようです。

#96のシンプリー・レッド回にて、ラジオでユーミンがミック・ハックネルの事を、その声だけで惚れて
しまった人、と語っていたと書きましたが、エディもユーミンが惚れたシンガーの一人だったはずです。
上の「The Moon Is Mine」はスウィング調の楽曲に乗せて、「Perfect」同様にエディの多彩な歌唱を
堪能する事が可能です。ちなみにバンドメンバーも、本作においては決して超絶技巧を披露している訳では
ありませんが、実は皆かなりのテクニシャンであり、端々にそれらを聴き取る事が出来ます。

豪のメン・アット・ワーク、後は全てイギリス勢と、図らずも自分の好みが出てしまいました。
別にアメリカンロックが嫌いという訳ではないのですが… なので最後くらいは米のミュージシャンを。

https://youtu.be/gb1wYslTBk8
言わずと知れたドン・ヘンリーによる85年のヒット「The Boys of Summer」。イーグルス
活動休止後における2作目のソロアルバムに収録。夏にフェイスブックの方でも書きましたが、
暑い時期に聴いていた記憶があったのですが、調べてみるとシングルカットされたのは10月26日、
チャートを賑わしていたのは12月頃でしょう。人間の記憶が如何に当てにならないかという好例です。

ドン・ヘンリーが出たのでお次はグレン・フライ。同じく85年のソロ「The Heat Is On」。
エディ・マーフィ主演の大ヒット映画『ビバリーヒルズ・コップ』のサウンドトラックへ
提供された楽曲。白状しますと映画を観た事はありませんが、その雰囲気が伝わってくるような、
良い意味でグレンらしい西海岸的なサウンドだと思いました。ところがどっこいこの映画、
物語の舞台はデトロイトらしいですね … こちらも長年勘違いしてました … バカですね …(´・ω・`)

今までご紹介した音楽を聴いてノスタルジアを感じるのは、40代半ばから60歳位までの方々でしょうか。
それ以外の世代の人たちには刺さらないかもしれませんが、ジェネレーションというのはそういうもの
でしょう。私もこの時代の全てが素晴らしかったと思う訳ではありません。正直くだらないと思う
音楽もありました(※あくまで個人の感想です)。ただしこれはどの時代の音楽にも言えることであり、
エルヴィスやビートルズなどの時代を超越した存在は例外として、それぞれの世代の人間にとって、
それぞれの時代の音楽というものはあるのです。私の場合はたまたま80年代であったという訳ですが、
別の時代のものを殊更否定したりするつもりは毛頭ありません。たまに、いつの時代の音楽こそが
至高であるとか、いついつ以降のロックは死んだ、とか言っている輩を見かけますが、どの時代にも
良い音楽はあるし、くだらないものもあるのです(それも個々人の主観ですがね・・・)。
文章力の無さから、なんか話の主題が定まりませんが、皆さん、自分がイイと思ったものを聴きましょう。
俗にいうマスメディア、自称音楽評論家などの話を鵜呑みにする必要はありません。現在はインターネットが
あるので、昔から比べると、能動的に調べるのにはとてつもなく良い時代です。

オッサンの昔話ですが、洋楽を聴き始めた中学生の頃の事(80年代前半)。貸レコード屋でレンタル料が
1泊2日で500円(当日なら450円だったかな)、46分テープ(TDK-ADとか)が300円位で、
つまり、アルバム1枚ダビングするのに合計で800円程でした。月の小遣いが二千円とかの身にとっては、
ひと月に借りられるのは2~3枚くらいのもの。ましてやLPレコードを買うなんて年に数枚の一大イベント
だったのです。ですから、借りてきたLPのライナーノーツを隅から隅まで読み(コピーサービスがまだ
近所になかった)、曲目等を丁寧にカセットレーベルに書き写して、それはそれは一本一本を慈しむように
聴いたものです。
あとは専らエアチェックでした。知ってます?お部屋の芳香剤とか空気清浄機じゃないですよ・・・
わかっとるがな!!( °∀ °c彡))Д´)FM雑誌というものが昔はありまして、2週間分のかなり詳細な
ラジオ番組表が載っているので、
どの番組で、どの様なミュージシャンの曲がかかるのかを事前に
把握することが出来ました。
勿論タイマー録音など出来ないので、リアルタイム録音です。
カセットテープを少しでも活かすために
DJの喋りを極力排除して、曲のみを録音するように努めました
(DJさんゴメンナサイ <(_ _)>)。

あとこれは、長年私だけかと思っていたのですが、テレビの前にラジカセを据え置き(昔のラジカセは
マイクが内蔵されていた)、テレビから発せられる音を直にテープに録音する(専らベストヒットUSA)という荒業をやっていました。大体そういう時に限ってオフクロが起きだしてきて、『ガラッ!オメェ、
ナニヤッテンダぁ~ J(´・ω・`)し』『うわぁぁぁぁぁぁぁ!ババァ!!今録音してんだよ~~~ (゚Д゚#) 』となるのがオチでした・・・ 
ところがネット時代になって、同じことをしていた人が結構いるのを知り、
ウレシイやらカナシイやら ………

それが今ではユーチューブで幾らでも聴く事が出来る … ( ;∀;) イイジダイダナー …
以上は全てオッサンの戯言です。ちゃっちゃと読み飛ばしてください … でもちょっとは時代の雰囲気だけ
でも伝わりましたかね?

ところで今日って、何かの日でしたよね?カレンダーで言えば最後にある日。「お」で始まって「か」で
終わる呼び方の、何だったかな?・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
思い出せないって事は大した日ではないってことですよね。では皆さん、年越しそば、紅白歌合戦、二年参りなど、思い思いの大みそかをお過ごしくだ … わかってんじゃねえかよ! ! !ヽ( ・∀・)ノ┌┛Σ(ノ;`Д´)ノ
来年もヨロシク・・・

#99 Simply Red

91年10月、シンプリー・レッドはアルバム「Stars」を発表します。一般的には彼らの代表作とされる
全曲オリジナルから成る本作は、本国を含むヨーロッパ各国で驚異的大ヒットを記録します。

本国イギリスではBPI(英国レコード産業協会。米におけるRIAAの様な組織)が ”12 プラチナ” と
認定しました。30万枚×12=360万枚以上という事で、現在でも破られてなければ、英国で最も売れた
音楽アルバムとして記録されているはずです。
本作では日本人ドラマー屋敷豪太さんが参加しており、生ドラムによるプレイと、ドラムプログラミングの
両方にて活躍しています。上はタイトル曲である「スターズ」。ピックアップ(曲の冒頭部でキッカケとなる
ドラムフレーズ)や歌が入る直前のスプラッシュシンバル(小さめのクラッシュシンバル。 ”パシャッ” と
いう感じの音色)の鳴らし方など、屋敷さん特有のフレーズ・センスが素晴らしい。

95年9月、5thアルバム「Life」をリリース。上は第一弾シングル「Fairground」。意外にも全英チャートで1位を記録したのは本曲が初めて、かつ唯一です。全米1位の「Holding Back the Years」と
「二人の絆」は本国においては2位止まりでした。本作にて1stから在籍し、キーボードと歌で貢献してきた
フリッツ・マッキンタイヤーがバンドを離れます。

98年5月、アルバム「Blue」を発表し、同郷マンチェスターの大先輩であるホリーズのヒット(74年)で
有名な「The Air That I Breathe(安らぎの世界へ)」を取り上げました。

四作目である「スターズ」からその作風は変わってきました。90年代以降にR&Bと呼ばれる様になった
音楽を取り入れます。それはあまり抑揚のないビートに、これまた抑制の効いた歌。50~80年代の
R&B・ソウルを聴いてきた人達からすると違和感があるものですが、時代がこういう音楽を求めていたの
でしょう。ミックは時代の流れに敏感だったようです。またシンプリー・レッド自身がそれらを演ったと
いう訳ではないのですが、ラップ、ヒップホップ、ダンスビートといった、やはり90年代以降のトレンドに
多少なりとも影響は受けているようです。

03年リリースのアルバム「Home」。本作に収録されている上の「Sunrise」は、80年代の洋楽を
くぐり抜けてきた人なら気が付くはず、ダリル・ホール&ジョン・オーツによる81年の全米No.1ヒット
「I Can’t Go for That (No Can Do)」(#58ご参照)をモチーフとしています。
#58でも書いたことですが、いち早くドラムマシンを駆使したそのリズムは、それまでのR&B・ソウルとは
グルーヴ・サウンドを異にするものであり、90年代以降のブラックミュージックにおける一里塚とでも
呼ぶべき楽曲でした。アメリカにおけるブルーアイドソウルの代表格であるホール&オーツの名作を、
20年余を経て英国ブルーアイドソウルの雄であるシンプリー・レッドが、所謂 ”オマージュ” したのは
興味深い事です。

「Home」ではこの曲も取り上げています、「You Make Me Feel Brand New」。トム・ベル作にて、
スタイリスティックスのヒットで説明不要な程の本曲は、フィラデルフィア・ソウルにおいてある意味
最も重要な楽曲。と、確か山下達郎さんが以前どこかで書かれていた記憶があります(多分・・・)。
原曲は低音部と高音部(ファルセット)を二人で歌い分けていますが、ミックは一人で歌っています。
男性としてはかなり声の高いミックは高音部でもファルセットは使いません(というよりもミックの
ファルセットなぞ聴いたことありませんが…)。サビに至ってもコーラスは入れずに独唱で通しています。
抑制の効いた原曲に対して絶唱タイプのミックによる本曲は、人によって好みは分かれる所でしょうが、
ミックはこれで良いのです、異論は認めない  ( ・`ω・´) キリッ! … いえ、認めますけどね(気が弱いので…)
ちなみに達郎さんも全編アカペラアルバム「オン・ザ・ストリート・コーナー2」(86年)にて本曲を
取り上げていますが、達郎さんバージョンの方が原曲に忠実です。要はミックも達郎さんも両方イイのです。

シンプリー・レッドはメンバーの入れ替わりが激しく、実質的にミック・ハックネルとそのバックバンドと
いう捉え方をよくされがちで、ミック自身もその様な発言をした事があり、その際は物議を醸しました。
初期から在籍して音楽的にもかなり深い部分まで関わった前述のフリッツ・マッキンタイヤーや、前回触れた
3rdから4thにて加入したエイトルT.P.など、彼ら無くしてはその時におけるシンプリー・レッドの音楽は
無かったとも言えます。しかし、それがバンドの形態であれ、セッションミュージシャンとしての参加で
あったとしても、全くの私見ですが、シンプリー・レッドに関してはその音楽性に殆ど差異は無かった
のでは、と思っています・・・異論、大いに認めますよぉ~ (((i;・´ω`・;i)))・・・(チキン…)

09~10年にかけてのツアーを最後に、ミックはバンドを解散するというアナウンスメントをします。
しかしながら、15年には結成30周年として新作を発表し、再結成ツアーも行いました。16年から
17年にかけては、「スターズ」発売25周年として “25 Years of Stars Live” を行っています。

初期のインタビューにて、ミックは影響を受けたミュージシャンとして、ジェームス・ブラウン、
スライ&ザ・ファミリー・ストーン、アレサ・フランクリンなどの名を挙げ、ブラックミュージックが
自身のバックボーンである事を語っています。しかしそれと同時にこの様な旨も述べています
『所詮僕らはマンチェスターの人間なんだよ』、と。私はこの言葉が最も端的にシンプリー・レッドと
いう存在を言い表していると思っています。R&B・ソウル・ファンクはとても好きではあるが、やはり
自分は英国白人、黒人音楽を追っかけているだけではただの猿真似で終わり、本家の彼らにはかなう訳が
ない、というよりもミック・ハックネルという人は初めから所謂ブルーアイドソウルシンガーとして
終始するつもりなどさらさらなかったのだと思います。デビュー当時は時代の波とは真逆を行くような
地味な音楽性でしたが、90年代はいち早くトレンドを取り入れました。また、他人のカヴァーにしても、
意表を突くような楽曲・アレンジで演ったかと思えば、ベタと言われる程の超有名曲を何の気なしに
歌ってしまう。ミックはその時々で、演りたい・歌いたい音楽に取り組んでいるだけなのだと思うのです。
私個人的な好みですが、男性シンガーの中でもミックとダリル・ホールは、その歌声だけで無条件に
許せてしまう人なので、ファンのひいき目かもしれませんが、ミックはこれで良いのです。

先述の15年に再結成した際に発表したアルバム「Big Love」。アルバムリリースに際してミックは、
『かつて一度は、「Stay」(07年、解散前としては最後のアルバム)の制作中にバンドの音楽に
疑問を持ち、シンプリー・レッドから離れてもしまったが、今はブルーアイドソウルグループとしての
存在が心地よい。』の様な旨を語っています。一度は行き詰まりを感じて解散し、一人になりましたが、
冷却期間を置いてリフレッシュさを取り戻したかのようです。これは他の物事にも当てはまる事でしょう
(男女の関係とか・・・)。最後はタイトル曲の「Big Love」。本作に関しては多くが70~80年代の
音楽に揺り戻されたかのような楽曲によって構成されています。リフレッシュしたミックが、この時点に
おいてシンプリー・レッドで演りたいと思った音楽がこれだったのでしょう。私のような信者はこれを
受け入れますし、一方で否定する人もいるでしょう。ただ一つ言えるのは、ミックがとても伸び伸びと
歌っている、それに関しては間違い無いのです。

https://youtu.be/U–BC1G7WgY

#98 A New Flame

音楽に限らず、傑作が誕生する時というものは、それが生み出される環境が整ったから傑作が
生まれるのか、傑作を生み出そうとする力がそれに必要な環境を呼び寄せてしまうのか、
『鶏が先か卵が先か』という永遠に解決しない問題に迷い込んでしまうのですが、シンプリー・レッドの
3rdアルバム「A New Flame(ニュー・フレイム)」を傑作たらしめたのは、前者に因るものの様でした。

89年3月にリリースされた「ニュー・フレイム」。上の「It’s Only Love」から始まる本作は、
全曲素晴らしいクオリティーを誇りながら、アルバム全体に漂うカラーがしっかりとした統一感を持つ、
ポップミュージック史に残る名盤です。

タイトル曲の「A New Flame」。ミック作の本曲は、彼独自のソングライティングセンスが伺えます。

前作に引き続き、ラモント・ドジャーが共作者としてクレジットされています。上はその中の一曲
「You’ve Got It」。ミックのメロウな歌が素晴らしい。

本作から新しいブラジル人ギタリスト エイトル・ペレイラ(エイトルT.P.)が参加しています。
1stから2ndにて参加していた黒人ギタリスト シルバン・リチャードソンも素晴らしいプレイを
残しましたが、「ニュー・フレイム」ではエイトルが全編に渡り、その見事なギタープレイにて
本作の楽曲群をより印象的なものへと昇華せしめています。

https://youtu.be/NbuYtk_X3gs
私が本作のベストトラックと思うのが上の「Turn It Up」。ミックと(多分)キーボードの
フリッツ・マッキンタイヤーによる歌、鉄壁のホーンセクション、そしてエイトルのプレイがあまりにも
見事です。私が今までに聴いた、ギターにおける16ビートカッティングの中でも一二を争う名演です。

本作からもNo.1ヒットが生まれました。上の「If You Don’t Know Me by Now(二人の絆)」です。
ハロルド・メルヴィン&ザ・ブルー・ノーツによる72年の大ヒット。フィラデルフィアソウルの
立役者であるソングライターチーム ケニー・ギャンブル&レオン・ハフ(ギャンブル&ハフ)による
この名曲を取り上げ、見事全米1位を記録します。毎度の如く売れ線狙いなどという批判はあった様ですが、
言いたい輩には言わせとけば良いのです。殆どのリスナーはそんな事はお構いなしにこの曲を支持したから
こその大ヒットなのですから。勿論オリジナルも素晴らしいですので、ユーチューブで聴いてみてください。
リードヴォーカル テディ・ペンダーグラスの名唱が堪能できます。全くの余談ですが、ペンダーグラスと
言えば、我々オッサン世代なら間違いなく知っているドリフターズ『ヒゲダンス』の原曲が、79年のソロ作
「Do Me」と知ったのはだいぶ後になってからの事でした。

本作のエンディングを飾る「Enough」。クルセイダーズのジョー・サンプルとミックの共作である本曲は、
当時で言う所のコンテンポラリージャズ的な楽曲。上は92年のモントルー・ジャズ・フェスティバルに
おける演奏。本作では殆どリズムギターに徹していたエイトルによる、素晴らしいソロプレイを後半にて
聴くことが出来ます。

本作を端的に評するならば、1st・2ndのイイとこ取りをし(1stは地味・暗めではあるが内容が非常に
質実剛健とでも呼ぶべき充実したもの。2ndはコマーシャルにはなったもののやや1stより軽くなった。
それでも当時の他の音楽よりはだいぶ硬派であったが…)、より洗練され、ミックの歌が最もノッていた
時期に録音された、全てが好循環で回っていた時に生まれた作品。2ndの時ほど準備期間のタイトさはなく、
発表まで丁度良い期間であったのかと思われます。勿論短すぎてもダメですが、やたら長い時間をかければ
良い音楽が生まれるかというと、そういうものでもないでしょう。プロデュースは1stと同じく再び
スチュワート・レヴィンを起用、先述の通りラモント・ドジャーやジョー・サンプルといった大物陣が
参加し、そしてエイトルの加入といった人的な巡り合わせの良さもありました。
「ニュー・フレイム」は質の高さとエンターテインメント性が高い次元で両立しているという、ポップ
ミュージックにおいて理想的な作品となっているのです。

本作はイギリスで ”7 プラチナ” (英でのプラチナディスクは30万枚なので210万枚以上)を
記録し、他の欧州諸国やカナダでも軒並みプラチナ・ゴールドを獲得しました。米でも1stの様に
ミリオンセラーにこそ至らなかったものの、ゴールドディスク(50万枚)に認定されました。
私個人的には、80年代における名盤ベスト3の内の一つだと思っています。
セールス的にはやや伸び悩んだ2ndの分を取り返したかの様に、本作の大ヒットによって、シンプリー・
レッドの人気は揺るぎないものとなり、その実力も評論家筋がイヤでも認める事となりました。
まさに、名実ともにトップバンドの仲間入りを果たしたのです。

#97 Men and Women

新人がヒットを飛ばした場合、当然レコード会社やマネージメントサイドはその勢いがある内に
次作の制作を急かす、これは致し方ない事だと思います。デビューアルバムが米でミリオンセラーを
記録したシンプリー・レッドもその例外ではありませんでした。

前回も述べた事ですが、シングルでのレコードデビューが85年3月、1stアルバム「Picture Book」が
同年10月。そして「Holding Back the Years」が全米1位となったのは86年7月でした。おそらくは
バンドの周囲が慌ただしく動き始めたのもこの頃からでしょう。2ndアルバム「Men and Women」が
リリースされたのは87年3月の事でした。

全く次作の準備をしていなかったという事は無いかとは思いますが、「Holding Back the Years」が
全米チャートの頂点を極めた時点から起算すると、新作の発売までわずか9ヵ月という期間です。
本作のオープニングナンバーにして第一弾シングルであるのが上の「The Right Thing」。私が思うに、
本作を象徴している楽曲であり、ベストトラックだと思っています。あせり・気負い・やっつけ感などは
全く感じられない、むしろ余裕と、ともすればすでに円熟味さえ感じさせるミックのヴォーカルです。
ちなみに快活なソウルナンバーという印象の曲ですが、歌詞はとんでもなく性的なもの。「もう真夜中、
さあ、ヤ〇う!僕の×××がどんどん△△△△△くるよ。君の◇◇◇に僕の×××を◆◆◆するよ。
さあ、ヤ〇う!今すぐ@@@しよう!」… 伏せ字ばかりでワカランわ!!!ヽ( ・∀・)ノ┌┛Σ(ノ;`Д´)ノ

本作の一般的な評価としては、前作にあった内省的な印象が薄れ、よりソウル色を増し、明るくなった、
というポジティブな論調が一つ。これは私も全く同感です。一方、否定的な論調として、先ほどの意見が
反転した
もの、というか常にこういう論評は相反するものなのですが、売れ線に走った、特にアメリカ市場に
おもねった作りになった、というものです。否定的な意見として言われる最たるものは、ジャズスタンダード
ナンバーの「Ev’ry Time We Say Goodbye」を取り上げた事。偉大なる大作曲家 コール・ポーターに
よるあまりにも有名な本曲は、 ”ベタ過ぎる” という点でネガティブに評価されがちです。
人それぞれ意見は様々で良いかとは思いますが、カヴァーした楽曲が超有名曲だからといって売れ線と
批判するのは、木を見て森を見ず的な、全く本質を理解していないものです。

本作ではラモント・ドジャーがソングライターとして参加しています。ホーランド=ドジャー=ホーランド
名義でシュープリームズの「恋はあせらず」「ストップ・イン・ザ・ネイム・オブ・ラヴ」をはじめ、
モータウンの数ある名曲を手掛けた大物作曲家。おそらくはレコード会社側が準備期間の短さや、
話題作りの為にあてがった人事だと思われますが、上の「Infidelity」はミックとドジャーの共作です。

R&B、ソウル、ファンク、ジャズバラード、はたまた上の「Love Fire」の様なレゲエまで。
本作は何でも有り、無いのは節操(失礼<(_ _)>)というくらいにバラエティーに富んだ音楽性です。
前作の様な内省的な雰囲気、トーキング・ヘッズ「ヘブン」における見事なカヴァーアレンジといった
意外性、などを期待していた聴衆からは不評を買ったようです。
アメリカでは前作のようなヒットには結び付きませんでした。ひょっとしたらですが、米で前作を
支持した層は、既存のアメリカ的ソウルミュージックに飽きていた聴衆が、イギリスの若者が
創りあげた新しい英国流ソウルに惹かれたためであり、表面上はアメリカナイズされてしまったと
される本作は、彼らにはいまいち響かなかったのかもしれません。

しかし本国イギリスをはじめ、ヨーロッパ各国では前作同様にプラチナ・ゴールドディスクを
獲得しており、この辺りがアメリカと違って面白い所です。基本的に中身(音楽)が良ければ、
ベタな選曲をしようが、意外性が無かろうが構いはしないのでしょう。
そして何より素晴らしいのは、当のミック・ハックネル本人が伸び伸びと歌っているという点。

https://youtu.be/LiYycT0nqwM
ミックに売れなくても構わないなどという意思があったとは到底思いませんし、米市場を全く
意識しなかった、という事も考えにくいでしょう。しかしながら、インタビューでのコメントなどの
裏付けがある訳では無い全くの私見なのですが、ミックという人はその時その時で自分が良いと
思ったものを、縛りを科す事なく、自由に創っていくミュージシャンだと思うのです。
デビュー作は社会派な歌詞、派手さよりも実質本位(音楽本位)という内容が、時間は若干かかったものの、
米をはじめとして、世界中の多くのリスナーに受け入れられました。
しかし2ndである本作制作時には、本人の創作に対する方向性が前作とは変わっていただけの様な
気がするのです。勿論ベースにソウルミュージックがあるのは揺るぎない事なのですが、
失礼を承知で言うと、自らのスタイル、バンドのコンセプトよりも、 ”うっせえな!今オレが創りたいものを創るんだよ!!” 的な、あまり難しい事を考えない人だったのでは・・・
かと言って、ミックが唯々諾々と、「ねえミック♡ 売れるレコードを作ろうよ♡♡ ヘラヘラヘラ~…」
という周囲の甘言に乗ったとも思いません(レコード会社に失礼だな… 会社の名誉の為にマジメに
言うと、英エレクトラはシンプリー・レッドをかなり買っていて、デビュー作に米大物プロデューサー
スチュワート・レヴィンを起用したり、彼らをしっかりサポートしていた様です)。B面トップを飾る上の
「Let Me Have It All」は米ファンクバンドの雄 スライ&ザ・ファミリー・ストーンの
カヴァーですが、スライの曲としては決してメジャーな方ではなく、その選曲眼、そしてオリジナルに
負けるとも劣らないヘヴィーなファンク感は素晴らしく、売れ線などと言う輩の気が知れません。
また先述の1stシングルである「The Right Thing」はその ”あまりな” 歌詞のせいで幾つかの国では
当時放送禁止とされたそうです。売上最優先であるならばもっと無難な曲を選ぶでしょう。
ミックは元々セックス・ピストルズに感銘を受け、音楽の道を志したと語っており、パンクの反骨精神を
持ち合わせている人です。「The Right Thing」の過激な歌詞は、前作の成功によって、
露骨に手のひらを返してきた世間や、俗にマスコミと呼ばれるプレス連中に対しての、
”テメエら!これでも喰らえ!!” 的な皮肉、アンチテーゼだった様な気がするのです。

#96 Picture Book

ポリスが活動休止した84年頃には、ニューウェイヴシーンも一服し、ポップミュージックの
メインストリームは、煌びやかで、かつダンサンブルな華々しい(=軽佻浮薄とも言う)音楽が
主流となっていきました。しかしながら、イギリスの若手ミューシャンによって、地味では
ありながらも、ある音楽的ムーヴメントが興りつつありました。#54のスクリッティ・ポリッティ、
#55のスタイル・カウンシル、エヴリシング・バット・ザ・ガール、またアイドル的扱いをされていた
バンドにおいても、#53のカルチャー・クラブのように、R&B、ソウル、ジャズなどを自分達なりに
消化した、英国流ブルーアイドソウルとでも呼ぶべき動きです。その中でも世界的な成功を
収めた代表的バンドがシャーデーと、今回から取り上げるシンプリー・レッドでしょう。

予備知識を一切与えられずに、その歌声だけを聴けば、十中八九、シンガーは黒人女性と思うのでは
ないでしょうか。その正体は、赤毛の英国白人男性であるその人、ミック・ハックネルです。
唯一無二の声を持つシンガー。ユーミンは以前ラジオで、「その声だけで惚れてしまった人の一人」、
の様な旨を語っていた記憶があります。
リリースしてすぐに、という訳ではありませんでしたが、デビューアルバムは米でミリオンセラーを
記録し、そこからNo.1シングルも生み出しました。結果だけを見ればイギリスの新人バンドとしては
申し分ないデビューを飾った、といって過言ではないのでしょうけれども、実はそこに至るまでは
それ程トントン拍子という道のりではありませんでした。

ミック・ハックネルは60年、マンチェスター生まれ。ミュージシャンとしてのキャリアの出発点は
70年代後半にバンドを結成した事から始まります。フランティック・エレヴェイターズ (The Frantic Elevators) という名のそのバンドは、パンク&サイケとでも言えるような音楽性でした。
昔は入手困難で耳にする事が出来ませんでしたが、現在はユーチューブで幾つかの音源を聴く事が
可能です。興味のある人は聴いてみたら良いかと思いますが、失礼を重々承知で言わせてもらうと、
「これじゃ、売れないわな…」というもの。パンクは当時の流行りですから致し方ないのですが、
とにかく演奏が稚拙(特にギター)。そして何より、ミックの歌が、曲にもよりますが、
「えっ、これがミック・ハックネル?…」というものなのです。
ミックの歌唱技術が発展途上であったのか、その歌声を生かし切れるバンドでなかったのか、
多分その両方なのでしょうけれども、その後のミック、シンプリー・レッドの芽を見出す事が
難しい程です。このバンドは7年程で解散します。

85年にシンプリー・レッドを結成。セッションミュージシャンを集めて組んだバンドなので、
演奏力はしっかりとしたものでした。それはミックとマネージャーによる人選だったらしいのですが、
賢明な選択だったと言えるでしょう。
同年3月、上のシングル曲「Money’s Too Tight」でレコードデビュー。本曲はオリジナルでは
ありませんが、全英13位・全米28位という、新人バンドとしては十分なチャートアクションを
記録します。しかし、その後翌年にかけて三枚のシングルをリリースし、85年10月には1stアルバム
「Picture Book」を発表するものの、今一つヒットには結び付きませんでした。

流れが変わったのは86年に入ってから。5枚目のシングルとして上の「Holding Back the Years」を
リリースします。実は3rdシングルとして85年中に一度シングルカットしていたのですが、その時は
全英51位とお世辞にもヒットと呼べるものではありませんでした。どの様な経緯で再発に至ったのかは
わからないのですが、これがヒットチャートを駆け上がり全米1位・全英2位の大ヒットとなります。
アルバムリリース時に、NHK-FMの洋楽番組で彼らを取り上げているのを聴き、興味を持った私は
地元の貸レコード店へと足を運びました(買えよ!、と言われても、中学生にとっては2800円の
アルバムを買うというのは年に数枚だけの一大イベントだったのです…)。まだブレークする前だったにも
関わらず、そのレンタル店には「ピクチャー・ブック」がありました。今考えるとセンスの良いお店でした。
カセットテープにダビングし、毎日の様に聴いていましたが、やがてそのお気に入りのバンドが
みるみるうちにスターダムへとのし上がっていったのです。リアルタイムでそういう事を経験出来るのは
なかなか無い事だと思います。本曲が86年になってから、アメリカのTVコマーシャルで使用されたとか、
ヒット映画のサントラに組み入れられたなどという事実は、現在になって調べてみても見当たりません。
純粋に楽曲の良さ、ミックの歌が世間に認められていったという事に間違いないでしょう。
余談ですが本曲はフランティック・エレヴェイターズ時代の曲。試しにご一聴を。メロディ(=歌)は
殆ど同じですが、曲の印象はここまで違うのか、というもの。曲はアレンジ次第、という典型です。

上の「Come To My Aid」をオープニングナンバーとして始まる本アルバムは、R&B、ソウル、ファンク、ゴスペル、ジャズ、そして若干ではありますがニューウェイヴの香りも漂せながら、シンプリー・レッドの
音楽として、この時点で既に完成されています。

2曲目である「Sad Old Red」。思いっきりジャズのスウィングナンバー。デビューアルバムに収録する
のをよくぞマネージメントサイドが許したものです。ですがこれは大英断でしょう、並みのジャズシンガー
など太刀打ち出来ない程の名唱です。

「No Direction」。スピード感が絶品です。

全曲素晴らしい完成度を誇る本作ですが、その中でも「Holding Back the Years」と並んで私が
ベストトラックと思う楽曲が上記の「Heaven」。原曲は#88~90にて取り上げたトーキング・ヘッズの
3rdアルバム「Fear of Music」に収録されている楽曲。参考までに原曲を張りますが、この原曲を
よくぞかくの如くアレンジしたものです(決して原曲が悪いといった意味ではなく)。

エイトビートのポップソングを、R&B・ゴスペルスタイルにアレンジしたシンプリー・レッド版「ヘブン」。
ミックの歌、アレンジ、演奏と三拍子そろった名演です。あえて元ネタを探すとするならば、ビートルズ
「ウィズ・ア・リトル・ヘルプ・フロム・マイ・フレンズ」のジョー・コッカー版(#36ご参照)の様な
イメージかな、とも思いますが。

「ピクチャー・ブック」は決して、一聴して世間一般の耳目を集めるようなアルバムではありませんでした。
快活なポップナンバーなどはなく、悪く言えば非常に地味で暗い音楽です。ですから先述の通り、
発売後すぐにヒットした訳ではなく、これまた先述した「Holding Back the Years」と共に、
時間をかけてその素晴らしさが世間に認められていってのブレークだったのです。
そして特筆すべきは、ミックの歌がこの時点で既に完成されているという点。無理くりアラを探し出せば、
次作以降よりも若干キンキンした感じはあるかな、とも思いますが、それはデビュー作なのですから、
若さとエネルギッシュさ、に満ち溢れていると捉えるべきでしょう。

デビューアルバムで傑作を創ってしまったミュージシャンというのは、次作以降、前作以上のものを
求められるプレッシャー、生みの苦しみなどから、トーンダウンしてしまう事が少なくないのですが、
彼らの場合はどうなったのか。その辺りはまた次回にて。

#95 Stewart Copeland_2

日本にはドラムにおいて、世界に誇る三大メーカーがあります。パール、ヤマハ、そしてスチュワート・
コープランドも使用しているタマ(TAMA)です。
偉大なるジャズドラマー エルビン・ジョーンズ、超絶テクニックを誇るビリー・コブハムといったジャズ
フュージョンのプレイヤーから、#20~21で取り上げたビル・ブラッフォード、サイモン・フィリップスと
いった世界のトップドラマー達が愛用していました。

 

 

 

 

 当時のTAMAドラムにおけるプロフェッショナルモデルのラインアップは、メイプル材(カエデ・楓)の
アートスター、バーチ材(カバ・樺)のスーパースター、そしてマホガニー材のインペリアルスターがあったと記憶しています。コープランドはインペリアルスターを使用していると当時のドラムマガジンには記載
されています。ドラムの材としてはメイプルとバーチが圧倒的に多く、ギターではお馴染みであれども、
マホガニーを使用したドラムは珍しかったと思います。メイプル・バーチが好まれるのは勿論その鳴りの
良さがあるのですが、非常に強度に富んでいるという理由もあります(ただしその分重い)。マホガニー材はそれらに比べると軽く、加工もし易い、ただしその分強度では劣ります。その為、メイプル・バーチなどは
6プライ、6枚の張り合わせ合板を使用してドラムを製作するのが一般的ですが、インペリアルスターは
9プライと厚めに作られていました。
一般的に硬い木材は硬い音、柔らかい材は柔らかい音がすると言われています。私はこの説に必ずしも同意は
出来ないのですが、セオリーとしては信じても良いかと思います。コープランドのチューニング(ドラム
ヘッドの締め具合等)はロックドラマーとしては高めで、ジャズドラムに近いものです。そのためズドンと
腹に響く様な重低音ではなく、明るめのスコーンと抜けるような音色でした。ハイピッチでありながらも
硬すぎないトーンを、という意図からのマホガニー材の選択だったのかもしれません。

TAMAは独創的なドラムを生み出してきました、その一つがオクタバンです。現在でも生産されている
製品で、6インチの小口径でありながら長い胴を持つ(確かアルミ製)のドラムです。 ”オクタ” というのは
「8」を表しており、つまりドレミファソラシドの音階を作れるという事。しかしコープランドは8個全部は
使わず、上の右写真がわかりやすいかと思いますが、昔から4つ程のみ使用してきました。あくまで、
ドラムでメロディを奏でるというよりは、パーカッション的な使い方をしてきた様です。
またスプラッシュシンバルを多用するドラマーでありました。シンバルは主にリズムを刻むライドシンバルと、曲展開の節目にアクセントを付けるクラッシュシンバルがあります。クラッシュは16~18インチで、
”シャーン” といった、サスティーンのある響きですが、スプラッシュは8~12インチと小口径で、
”シャッ” ”パシャッ” といったサスティーンが殆どないクラッシュ音のシンバルです。やはり上の写真で
確認できますが、スプラッシュをはじめ、複数のシンバルをセッティングしており、場面場面でのチョイスが
非常に絶妙です。ユーチューブで「Synchronicity Concert」と検索するとほぼコンサートの全容を
観る事が出来、そのプレイを視覚で確認可能です。もし興味があれば。あっ!勿論お金に余裕がある人は
買ってください、別に私はA&M(現ユニバーサルミュージック)の回し者ではないですけどね・・・

ドラムにディレイをかけたのも私が知る限りではコープランドが初めてだと思います。勿論アンディ・
サマーズがいたからこそ、その様な手法を取るに至ったのでしょうが、それにしてもその斬新さが見事です。
80年代以降、ギターでは当たり前に行われる事となりましたが、ディレイタイムをきっちり合わせて、
リズムを作り出したドラムは上の「Walking on the Moon」が最初ではないでしょうか。5、6か所で
聴くことが出来ますが、特に印象的なのが3:20秒辺りのハイハットと、4:20辺りのスネアによる
リムショット。ディレイ音を加えて2拍3連(正確には裏の2拍3連” )のビートを作り出しています。

https://youtu.be/cjBAJpTJlZc
現在で言う所の ”スリップビート” を取り入れたのもコープランド(=ポリス)が最初だったと思います。
ポリス回でも述べましたが、いきなり1拍目が抜けて始まるので、ただでさえリズムが取りづらいのですが、
上の「Spirits in the Material World」はその極地と言える曲です。普通に聴くとシンセとハイハットの
刻みが四分音符で、ベースドラムが裏拍と錯覚してしまいますが、実はシンセとハイハットが裏拍で、
ベードラはオンビート(多分2・4拍)。サビに移る時に変拍子かと思い込んでしまう程にトリッキーな
リズム構成です(ひょっとしたら変拍子なのかもしれません、実はいまだによく理解出来ていません…)

ポリス以外のセッションワークから一曲。ピーター・ガブリエルによる86年の大ヒット作「So」。
本作ではコープランド以外に、ジェリー・マロッタ、フランス人黒人ドラマー マヌ・カチェが
参加しています。オープニングナンバーである「Red Rain」は、ハイハットがコープランド、
生ドラムがマヌ・カチェ、その他に打ち込みのドラムと非常に凝ったものです。冒頭のハイハットが
まさにコープランドの真骨頂という音色・フレーズです。コープランドによるセットドラムでの
プレイはシングルヒットした「Big Time」で聴く事が出来ます、興味があればご一聴を。
コープランドの話しからは少し逸れてしまいますが、「So」では、その後世界的シンガーとなる
ユッスー・ンドゥールも参加しています。ユッスーやマヌ・カチェは本作で有名になったと言っても
過言ではない程で、#89のトーキング・ヘッズ回でも書きましたが、ピーターは三作目からワールド
ミュージックを大胆に取り入れており、「So」でもその路線は踏襲されています。音楽性のみならず、
人選においてもワールドワイドな視点が、やはり幼少期から世界各国を渡り歩いてきたコープランドに
とっても相通ずるセンスを感じ取れたのかもしれません。

ヘヴィメタル・ハードロックの様な速さ・激しさ、ジャズフュージョンの高度なテクニック、ブルースなど
における所謂 ”味”  ”ニュアンス” といったものとは、コープランドが追及した演奏スタイルは一線を画して
いました。彼のスタイルはエイトビートドラミングの新しい可能性を図らずも指し示していたのでは
ないかと思うのです。
なのですが、ポリス回の最後と同じような旨を書く事になってしまいますけれども、コープランドの
後を継ぐようなドラマーはロック界においては現れていないのではないかと思います。理由は幾つか
ありますが、その最たるものは、先進的すぎるプレイゆえ、普通のロック・ポップスの楽曲にはそのプレイが
マッチングしないという事でしょう。ポリスという、実験性・革新性とエンターテインメントが両立していた
稀有なバンドであったからこそ、コープランドの一連のプレイも成り立っていた訳で、凡百のポップソング
ではせっかくのプレイも猫に小判、というよりもはなから曲にそぐわないでしょう。当たり前の事に
なりますが、世間一般に受け入れられる音楽はわかりやすいものが多く、作曲・アレンジ・演奏面において、
高度あるいは先進的な楽曲は売れにくいです。そういう音楽を創っているミューシャンはいつの世も
いるとは思うのですが、残念ながらそれらの殆どは玄人受けこそしても、ヒットにはつながらないものです。
ポリスは数少ないバンドの一つだったのです(勿論、スティングの人気というミーハー的要素もあって…)。

(以前も似たような事を書いた記憶がありますが)しかしながら、巷にあふれる音楽が全て、ノリがイイだけのポップソングとメロディックなバラードだけになってしまったならば、この世のポピュラー音楽は
陳腐なものばかりとなり、やがて衰退してしまうでしょう。商業音楽なのだから売れることを意識して
創る事が悪いとは絶対に思いません。ですが、世間に迎合するだけのものも、やがて人々から飽きられて
しまうのです。芸術はもとより、文化・芸能ごとも全てにおいて、実験的精神・トライアルを止めてしまってはその先、仰々しい言い方をすれば未来はないと思います。勿論先達の伝統を踏襲するのも必要です。
それを踏まえて自分なりに消化して新しいものを創る事が大事なのです。それは旧態依然でいる、
とは似て非なる、というより全く別の事なのです。
ポリスの音楽、コープランドのプレイは、ニューウェイヴの流れにあって、最後、そしてある意味での
究極系とでも言うべきロックの形だったのではないかと私は思っています。90年代以降の音楽を殆ど
知らない私ですので、その後のロック・ポップス界がどうなっていったのかはよくわかりません。
80年代で止まっているのか、それとも新しい遺伝子が芽生えてきているのか・・・

#94 Stewart Copeland

おそらく一人か二人しかいない読者の中には(ひ、一人もいないって言うなー!!━━━(# ゚Д゚)━━━ )
ドラム教室のブログのくせに、ポリス回でスチュワート・コープランドのドラムに殆ど触れてないじゃん、と、二人の方のうち一人くらいは思われたかもしれません(いない…かな……゜:(つд⊂):゜。。)
それはなぜなら、コープランドは別に取り上げるため、直近のポリス回ではあまり触れませんでした。
という訳で、今回はスチュワート・コープランドについて書いていきます。


 

 

 

 

52年、バージニア州生まれ。ポリスの三人中唯一のアメリカ人ですが、父親がCIAの職員であったため、
幼少の頃から海外で暮らすことが長かったそうです。少年期をアフリカ・中東で過ごし、これが彼の音楽性、
リズムに対する考え方へ大きな影響を与えた様です。イギリスにも二年間住んでいました。

影響を受けたドラマーとして、ジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンスのミッチ・ミッチェルや
ジンジャー・ベイカーの名を挙げています。ロックドラマーとしては珍しくレギュラーグリップ(左手が
特有の持ち方をする)でプレイする事から見ても、ジャズがその基礎を担っているのは間違いないと
思われるのですが、意外にも本人には ”ジャズアレルギー” があったらしく、その為にバディ・リッチ
(ジャズドラム界のスピードキング、とにかく手足が速く動いた)を聴くようにしていたと語っています。

前回も同じ様な事を述べましたが、ポピュラーミュージックにおいてプレイヤーが、その技巧を突き詰めて
いくと、ヘヴィメタル・ハードロックでよく聴かれる様な超絶的速さ、ジャズフュージョンにおける
複雑かつ高度な技巧に走るかのいずれかだと思います。コープランドも非常に高い技量の持ち主で
あったのですが、彼が目指したプレイスタイルはそのいずれとも異なるものでした。

パンク全盛の頃にデビューし、彼自身も当時はそれを好んでいたので、ポリス初期はパンク的ドラミングを
聴くことが出来ます。しかし他のパンクバンドのドラマーとは技術で圧倒的に差があったので、ただただ
ファストテンポでエイトビートを叩くだけのプレイではありません。その手のプレイが十分に堪能出来るのが上の「Next to You」。1stアルバム「Outlandos d’Amour」のオープニングナンバーです。

ポリスの音楽及びコープランドのドラミングを語る上で、欠かせないのはレゲエの影響です。#91でも
述べた事ですが、普通に ”ワン・ツー・スリー・フォー” とカウントを取る様な所謂オンビートではなく、
スリフォ” と、裏拍を強調する所謂 ”オフビート” がフィーチャーされています。

上記「Bring On the Night」をはじめ、「So Lonely」「Walking on the Moon」「One World」等が
レゲエのリズムを取り入れた楽曲として顕著な例です。

コープランドのプレイにおいて、皆が注目する点としてその巧みなハイハットワークがあります。#63
ジェフ・ポーカロ回でもハイハットについて触れましたが、コープランドもポーカロ同様にハイハット使いの
名手としてよく挙げられます。エイトビート(8分音符)で刻まれるハイハットビートの中に時折
織り込まれる絶妙な16
分音符、レゲエ・シャッフルといった3連系のビートにおいて使われる装飾音符の
巧みさ。後者は口で言うと、 ”チッチ・チッチ・チッチ・チッチチ・チッチチ・チッチ・チッチチ・チッチ
”の
様な感じ。小さい ”チチ” が装飾音符で、本音符である ”チ” の前に引っ掛ける様なニュアンス、これが
絶妙なグルーヴを生み出しています。またアクセントの付け方にも非常に特色があります。フュージョンの
16ビートなどではよく行われる事ですが、ロックドラムではハイハットの叩き方は一定のオンビートか、
オフビートであっても、ディスコビートの様な ”
チッチー・チッチー・チッチー・チッチー”といった一定の、所謂裏打ち程度のものです。コープランドはハイハットによる強弱の付け方が場面場面でフリーであり、それがただデタラメに変化を付けている訳ではなく、類いまれなるセンスと計算されたフレージングに
よるものです。ロックドラマーでこの様なプレイを行っていたのはこの時代迄は彼だけだったと思います。
ちなみに彼が使用しているハイハットのサイズは13インチと、標準的な14インチより一回り小さい
ものです(ヘヴィメタル・ハードロックでは15インチが用いられる事があります)。切れの良い
そのサウンドは、その辺りに由来するのかも(でも基本的にはプレイする人の腕次第ですけどね)。

ロック・ポップスのドラミングは基本的に1・3拍にベースドラム、2・4拍にはスネアドラムで強い
アクセントを付ける、所謂バックビート(アフタービート)が基本です。核となるビートはベースドラムと
スネアドラムによって形作られ、ハイハットなどのシンバル類で色付けがなされる。勿論コープランドも
こういうプレイはします、しかし、このようなポップスのビートの既成概念に縛られない自由なリズムが
彼のプレイにおいてはよく聴かれます。タムタムもフィルイン(所謂 ”オカズ” )でのみ使用される
のではなく、ベードラ・スネアと同様に、ビートを構成するためのツールの一つとして扱っています。
これはアフリカン・ラテンパーカッションの影響であり、つまりセットドラムをパーカッションの
集合体として捉えているからでしょう。この自由な発想は、彼が幼少期から様々な国々で過ごした経験、
特に西洋以外の国で身に付いた感覚なのでしょう。上はそれらが存分に味わえる「シンクロニシティー・
コンサート」での「One World」。普通のロックビートとフリーなリズムが交互にプレイされます。
ライヴならではの自由さによって素晴らしい演奏へと昇華されています。

トリビア的な話題ですが、コープランドのレギュラーグリップは他と少し変わっています。

 

 

 

普通は親指の付け根ではさみ、中指と薬指の間でホールドします。向かって右の写真はそうしています。
しかしポリス時代から、左の様に人差指と中指の間でホールドする事がよくありました。上の写真は00年代
以降のものですが、ポリスでデビューした70年代後半から80年代にかけての写真を見ても、同様に二つの
ホールドの仕方が見受けられます。まれにこういうグリップをするプレイヤーもいるとは言われていますが、
彼はその数少ない内の一人でしょう。ただしこれが彼独特のフレーズ・音色に影響をもたらしているかと
言うと、個人的にはあまり関係ないと思っています。
また、彼の特徴として所謂 ”ハシる” タイプのドラマーであるとよく言われます。ハシる、つまりテンポが徐々に速くなる、あるいはアンサンブルの中で他のパートより若干先に音を出す、俗に言う ”くい気味” に
演奏するという事。これに関しては半分正しく、半分正しくない、という意見です。確かにライヴでは
曲の最初と最後でテンポが若干違っている事はあります(もっともこれはコープランドに限った事では
ありませんが)。ただ、ポリスの音楽性がエイトビートのR&Rやレゲエの様な軽快なリズムを元に
していた事によるものでもあり、これらの音楽が ”前ノリ” 気味で演奏した方がフィットするからだった
ことが原因でしょう。もしポリスにブルージーなナンバーがあったならば、 ”後ノリ” でタメの効いた
ビートになっていたかもしれません、想像出来ませんが…

一回ではとても書き切れないので、二回に分けます。次回は使用機材や、その独特なレコーディング
テクニックなどについて触れていきたいと思います。

#93 Synchronicity

カリブ海に浮かぶ島 モントセラト(イギリス領)に、かつてジョージ・マーティンが設立した
レコーディングスタジオ『AIR』がありました。89年に島を襲った大型ハリケーンにより、やむなく
閉鎖に追い込まれましたが、70年代半ばの設立から、数多のミュージシャンがここでレコーディングを
行いました。ポリスも「Ghost in the Machine」、そして「Synchronicity」を当スタジオにて
録音しています。

ポリス最大のシングルヒットである「Every Breath You Take(見つめていたい)」。5thアルバム
「Synchronicity」からの第一弾シングルである本曲は全米で8週連続の1位を記録。
スティングがこの曲を書いてきた時、アンディ・サマーズはスティングにしては普通のポップソングだな、
と思ったそうです。確かに、A-F#m-D-Eという教則本に出てくる様な循環コードから成る本曲は、
一聴すると非常にシンプルです。サマーズはこの曲を、ミュートを効かしたアルペジオ(分散和音)で
プレイしました。録り終わった直後に、全員が彼を称えるような顔付きをしたと語っており、殺伐とした
レコーディングのさなかに起こった、珍しくも素晴らしい瞬間だったようです。このギタープレイが
本曲の印象を決定付けていることは一聴瞭然であり、そしてそれは後世まで語られる名演となります。
余談ですが、このアルペジオは9度の音を加えている所がミソである、とよく紹介されます。ところが、
サマーズの自伝においては『……… ルート・5番・2番・3番でもって・・・』と書かれています。
「番」というのは「度」の事だと思いますが、原文では多分 ”route・5th・2nd・3rd” となっていたの
でしょう。Aのコード、ラ・ド#・ミにシ(B)を加えているのですが、普通は9度(ナインス、
ラを1番目と数えて9番目の音)と思います、勿論私もそう思ってました。しかし翻訳家の方は
多分原文を忠実に訳されたのでしょうから、原文には ”2nd”とあったのだと思います。つまり、
サマーズとしては、このBの音は9度ではなく2度という解釈だったようです。この頃彼は
クラシックを練習曲としてよく演っており、本曲のアルペジオもそこから着想を得たと語っています。

全米で800万枚、世界中で1000万枚以上売り上げたとされるこの大ヒット作によって、ポリスの
人気はその頂点を極めました。しかしアルバム全体がポップかつコマーシャルな創りになっているかと
言うと決してそうではありません。「見つめていたい」、「King of Pain」、「Wrapped Around
Your Finger」、上の「Synchronicity II」の様なメロディアス、あるいはポップでリズミックな
楽曲もある一方で、「Walking in Your Footsteps」、「Mother」、「Miss Gradenko」の様な、
お世辞にも世間受けし易い楽曲とは言えないナンバーも収録されています。「Mother」はサマーズ作で、
何故かスティングがこの曲を気に入り採用されたとの事。かなりエキセントリックな仕上がりです。
前回も述べましたが、バンドの人間関係は最悪の状態になっていました。スタジオのリビング、調整室、
そしてブースと、それぞれが別々に立てこもり録音するという、正常なレコーディングにはなって
いませんでした。しかし、決してやけになって制作したという訳ではなく、人気がうなぎ上りの状況を
考えて、次作はヒットする、いや世界的な成功を収めようと目論んで創った、とサマーズは述べています。
極限状態の様な人間関係が、良くも悪くも本作に緊張感を与えたのであろう、と回想しています。

自伝にて述べらている裏話があります。三人の仲があまりにもひどくなり耐えられなくなったサマーズが、
AIRスタジオのオーナーであるジョージ・マーティンに助けを乞いに、つまりプロデュースを依頼しに
行ったという話です。マーティンは島内に屋敷を構えており、それを知っていたサマーズは場所も
おぼろげながら、炎天下の中を歩いてマーティンのもとを訪ねたそうです。折良くマーティンは屋敷にいて、
上がってお茶でも、と言ってくれたとの事。始めはスタジオの使い勝手は?などと当り障りのない会話で
あったが意を決して、『バンドの人間関係が良くないのです。貴方の力を貸してくれませんか?』と、
切り出しました。マーティンはポリス内の不和を残念そうに述べた後、以下の様な旨を言ったそうです。
『~私が加わっても変わらないだろう、まだ君たちで解決出来る余地があるのではないか。・・・」
かつてビートルズをまとめ上げたマーティンに一縷の望みを求めて、思い切って相談した訳ですが、
結果的には丁重に断られてしましました。しかし、これで吹っ切れたのか、サマーズはマーティンに
礼を述べ、再びレコーディングに向かいました。悩みと言うものは人に話した時点である程度解決したと
同じである(相談者のメンタル的には)、というものの見方もある様ですが、この場合がそうであったの
かもしれません。ちなみにビートルズ後期の状況はマーティンもお手上げでしたが…(#4ご参照)。

「シンクロニシティー」ツアーを収めた映像作品があります。10ccのメンバーであったロル・クレームと
ケヴィン・ゴドレイは、ゴドレイ&クレームとして独立して活動を始めましたが、80年代には映像作家として
数々のミュージシャンのプロモーションビデオなどを手掛けました。「Synchronicity Concert」(84年)は映像クリエイターとしての代表作です。
スティングの喉の調子があまり良くなく、演奏も完ぺきとは言えないのですが、ライヴならではの熱気、
勢いが素晴らしいです。当時VHSビデオで観てシビレたのを思い出します。

ある意味ポリスの音楽性を最も端的に表していると言って過言ではない「Walking on the Moon」。
本ライヴにおける一番の聴き所ではないでしょうか。

https://youtu.be/SrOd87TnJhs
前々回のテーマとした「Message in a Bottle(孤独のメッセージ)」。百聞は一見(一聴)に如かず、
問答無用のカッコ良さです。スチュワート・コープランドによる3:16秒辺りのドラミングが素晴らしい。スモールタムをクレッシェンドで盛り上げながら叩き、最後はお得意のフラム(左右を少しずらして打つ)で締める、技術的には何て事ないシンプルなフレーズですが、これをこれ程カッコ良く叩けるのは彼だけでは。

83年の当ツアー中に、スティングはかねてより求めていたソロ活動を行うことを決定します。サマーズと
コープランドもそれぞれソロ活動を始め、バンドは活動停止。86年に6作目を作ることを試みてスタジオ入り
するものの、コープランドの怪我などもあって中止されます。その後20年に渡りメンバーは各々ソロで
活動してきました。スティングの成功はここで改めて述べるまでもないですが、サマーズとコープランドの
二人も様々な音楽活動を続けてきました。しかし07年に、結成30周年を機に再結成しワールドツアーを
行いました。いつの間にか10年も経ってしまった事なのですが、こちらはまだ記憶に新しいです。

ロック・ポップスにおいて、テクニックや音楽性を追い求めると、ヘヴィメタル・ハードロックの様な
速さ・激しさを、もしくはフュージョン的な複雑さ、といった高度な技量や音楽的クオリティーに
向かいがちです。しかし、それらも出来る程の技術・音楽性を持った彼らが目指した音楽は、
それまでの誰とも全く違うベクトルでした。ロックの ”ビートイズム” の様なものは尊重しながら、
レゲエ・アフリカンなどに代表されるエスニックリズムを取り入れた、それまでとは異なるリズムへの
アプローチ。そして、プレイヤーの感覚(指グセ・手クセ・足クセ)に頼った即興演奏をほぼ排除し、
計算されたハーモニー、和音、サウンドエフェクトなどでもって彩られたインストゥルメンタルパートを
フィーチャーしたプレイとサウンド。彼らがそれまでにおけるどのバンドとも異なる点は、ひとえに
この二点が
大きいでしょう。これはやはり当時のニューウェイヴシーンの機運があったからこそです。
スターダストレビューの根本要さんが以前、『俺が思うに、ロックの究極はポリスの様な音楽だと思う』
の様な旨を仰っていた記憶があります。私も同感です。速弾きや、複雑な16ビートが悪いとは決して
思いませんが、ロックの本質とは何か、というテーマを彼らは計らずも体現したのではないでしょうか。

あくまで私見ですが、彼らの後を追うミュージシャンというのはその後現れていないような気がします
(私が勉強不足で知らないだけかも…)。ポリス風のサウンドを奏でるバンドなどはいるかとは思いますが、
彼らの本質を受け継いだ人たちは残念ながら存在していないのではないでしょうか。9年ほどの活動期間
であったにも関わらず、ポリスというバンドがいまだに語り草となっている、ワンアンドオンリーな
存在であるのは、その様な理由からなのではないでしょうか。

#92 Ghost in the Machine

スティングはポリス初期の段階からソロ活動を見据えていたらしいです。実際アンディ・サマーズにも
その様な事をほのめかすことがあったそうです。何しろ ”あのルックス” で ”あの声” ですから、世間や
マスコミの注目がスティングに集まるのは仕方がありませんでした。ポリス以前はジャズロックの
バンドに在籍していた事もあってか、その音楽性はロックにこだわらない様でした。対してスチュワート・
コープランドはあくまでロック志向だったので、意見が対立する事も少なくなく、また性格的にも
合わない所があったようです。

80年10月、3rdアルバム「Zenyatta Mondatta」を発表。本作からのシングル「Don’t Stand So Close to Me(高校教師)」が全英1位、上の「De Do Do Do, De Da Da Da」は全英5位と本国では勿論の事、
アメリカでもTOP10入りし、アルバムも全英で1位、全米でも5位を記録し、世界的成功の始まりと
なった作品です。
前2作にあったストレートなロック・パンク色は薄れ、楽曲的バリエーションに富むようになってきました。
これを良しとするか否かは人によって分かれる所でしょうが、バンドの転換点となったのは間違い
ありません。

本作に収録の「Shadows in the Rain」。スタジオ盤ではエコープレックス(テープエコー)を用いて
ギターの音を加工し、サウンドエフェクト的にそれを加えています。上はライヴヴァージョン。
ライヴでスタジオと同じ音を再現するのは困難という事で、代わりにボリューム奏法(ピッキング時は
音量ゼロで、徐々に上げていく。バイオリンの様なピッキング時のアタック感がなくなったサウンドが
得られます)などを用い、これにより何とも言い難い不思議な効果を得ることに成功しています。

サマーズのギタープレイの特色として挙げられるのは、エフェクター類の効果的な使い方です。
ギター用語で言う所の ”空間系”  ”ゆらぎ系” と呼ばれる、ディレイやコーラスなどが代表的です。
ポリス結成当初からしばらくは、先述のエコープレックス(テープエコー)を使用していたとの事。
遅延素子を用いたアナログディレイ、デジタル回路によるデジタルディレイよりもっと以前の、
弾くと同時に磁気テープに録音され、それを時間差で再生するという、今から考えるとえらく
アナクロなエフェクターです(ですがこの音が良い、と今でも愛用者が絶えないそうです)。
サマーズの影響を受けて、80年代以降はこの様なサウンドが一般的になりました。U2のエッジ
などはその筆頭でしょう。余談ですが前回触れたサマーズの自伝において、エッジはその序文を
書いています。
これも前回述べたことですが、サマーズは60年代からエリック・クラプトンらと交流がありました。
素晴らしいブルースギター、アドリブプレイヤーである事は認める一方で、自分は彼の様なスタイルは
取らない、と決めていたそうです。ポリス時代には、特にライヴにおいて、クラプトンの様な
長尺の即興演奏は ”前近代的” と考え、間奏部分については全く別のアプローチを行いました。
その顕著な例が上のライヴにおける「Shadows in the Rain」なのです。
ロックにおける即興演奏を決して否定する訳ではありません(言っときますが、私、クラプトンは
鼻血が出る程好きです。#8~#12ご参照)。しかし所謂 ”指クセ” に頼ったアドリブプレイに限界を
感じたプレイヤー達がこの当時現れてきたのは事実です。その筆頭がサマーズやエッジだったのでしょう。
布袋寅泰さんも同様の考えをお持ちの様で、ギターソロは必ずしも入れなくて良い、と、何処かで
仰っていたそうです。ニューウェイヴ以降、この様なポップミュージックに対する新しい考え方を
持ったプレイヤーが増えていったのは興味深い事です。

81年10月、4thアルバム「Ghost in the Machine」をリリース。バンド内の不協和音は益々大きくなって
いた様なのですが、蓋を開けてみれば前作を凌ぐ大ヒット。全英1位・全米2位(6週連続)を記録します。
上の「Every Little Thing She Does Is Magic(マジック)」はシングルカットされ全英1位・全米3位
にチャートイン。スティングが用意したデモは、
収録版よりもシンセを多用したプログレのようなサウンド
だったらしいのですが、二人が賛成せず、この様な形に落ち着いたとの事。それでもその時点において
最もシンセを多用した楽曲の一つであり、ファンにとっては意見が分かれる所です。個人的にはポップさと、
ポリスらしさがぎりぎりの所で折り合っている曲であり、好きな曲の一つです。

昔から思っていた事なのですが、ポリスのプロモーションビデオは、「見つめていたい」を除いて、
どうしてあんなにくだらないのかと感じていましたが、今回サマーズの自伝を読んで、本人達も
くだらないと思っていたそうです。MTV黎明期であったので、PVをつくる事はマストだったようですが、
サマーズいわく、『・・・スタンリー・キューブリックなど、素晴らしい映像クリエイターがいる中で、
何故こんなくだらないフィルムを録らなきゃならないんだ・・・」と思っていたらしいです。
結局はレコード会社であるA&Mの指示であったとの事。ただし先述の通り、「見つめていたい」の
PVで汚名挽回を果たします。

本作ではシンセやホーンがフィーチャーされ、前作よりさらにバンドの方向性に変化が認められます。
上記「 One World (Not Three)」は比較的、従来のポリスらしさが残っている楽曲と言えますが、
ホーンセクションの大胆な導入に新しさが垣間見えます。

https://youtu.be/uYk2UiwWeBI
「Omega Man」は本作中、唯一のサマーズによる楽曲。新作の為に楽曲を書き溜めてきたのですが、
殆どが無駄になってしまったとの事。この頃は完全にスティングが主導権を握っていて、勝手にサポート
ミュージシャンを連れてきたり(ただし三日でお役御免に)、アレンジに関しても自分の意見を通そうと
しました。二人は当然反目したものの、一方でバンドがスティングの才能・人気によって成り立っている
事も理解していました。本作のレコーディングはサマーズによれば ”戦場” であったとの事。この頃には
スティングはコープランドだけでなく、サマーズともいがみ合うようになり、収録最後の頃、スティングの
不満が爆発して、皆の前でサマーズを滅茶苦茶になじったそうです。冷静になってからはさすがに
謝ったらしいですが、徐々に修復不可能な、ビートルズ後期の様な状況に追いやられていったそうです。

バンド内の不協和音に反して、その人気は着々と世界的なものへとなっていきました。そして彼らは
次作の制作へ取り掛かります。その辺りはまた次回にて。