90年代以降のホール&オーツについては、前回の終わりで少し触れた通り、アルバムの
TOP40入りはベスト盤を除き一枚もなく、シングルもTOP20以内にランキングされた
のは「So Close」(90年)のみです。レコード・CDセールスだけを取ってみれば、完全に
”過去の人”となってしまいました。
実は80年代後半から、彼らの周りでは色々問題が起こっていたようです。まずはそれまで
長年に渡り彼らのマネージメントを務めてきたトミー・モトーラが彼らの元を去ります。
このモトーラという人物、洋楽に詳しい方ならその名前を耳にしたことがあるかもしれません。
CBSとコロンビアという大レコード会社をソニーが買収し、その後ソニー・ミュージック
エンタテインメント(SME)という一大音楽事業会社となります。モトーラは同社の初代
最高経営責任者となります。マライア・キャリーを世へ送り出し、その後彼女と結婚・離婚。
またマイケル・ジャクソンには”悪魔”とまで罵られた人物。モトーラの人となりや功績については
ここで詳しくは言及しませんが、SMEに移る直前までホール&オーツと関わっていました。
金銭面の管理など一切を任せていたモトーラがいなくなることはかなり影響があったようです。
また同時期にジョンは離婚し、そして91年にはホール&オーツはその活動を一旦休止します。
これらの経緯だけを見ると、内部的なゴタゴタを抱え、やがて世間からその音楽も飽きられていった
過去のミュージシャンと捉えられてしまうかもしれません。勿論その取りようは人それぞれなので
構いませんが、別の見方も出来るのです。それは無理してメインストリームに居続ける気もなくなった、
また時代の最先端の音楽を作り続ける考えもなくなったのではないかと。すこしおぼろげな記憶なのですが、
当時のインタビューで、40歳も過ぎた事だしこれからは少し落ち着きたい、音楽性についても
これまでとは違った、例えばカントリー&ウェスタンの様なものにもチャレンジしてみようかと思う、
といった様なコメントがあったような記憶があります(ひょっとしたら私の勘違いかも・・・)。
00年代になって、彼らは80年代について振り返って言及しています、『クレージーな日々だった』、と。
飛ぶ鳥を落とす勢いだったあの時代は、プライバシーもなく、買い物へもおちおち出ていけない、
全く気が滅入る状況だったと。さらに、自身達をスターダムへのし上げる一助となったMTVについて、
実は決して快く思っていなかった事をも告白しています。始めのうちこそ上手く利用しようと立ち回っていた
ものの、あまりにその陳腐さ、創造性の無さに辟易としていったと語っています。
前回触れた85年のテンプテーションズとの共演を果たした時点で、やる事はやり尽した様な、所謂
”燃え尽き症候群”となってしまったそうです。日本版のウィキでも記述されている通り、91年からの
活動休止は割と知られていますが、実はそれ以前に、85年から三年間に渡りホール&オーツとしての活動は
一時休止しています。ダリルはソロ活動を、ジョンは充電期間を過ごします。
先述の通り、90年代以降は決して以前の様なビッグヒットは産み出さなくなりましたが、その音楽性自体も
低下したかのどうか、これは聴く人の主観によるものなので一概には言えませんが、一つ言える事は、
デビュー当時にあったような内省的な曲調が再び垣間見られるようになった事です。上記の動画は前述した
「So Close」のアコースティックヴァージョン(95年のライヴ)ですが、内省的かつ、それまでは
ダリルのソロにおいてしか感じられなかったヨーロッパ的感性が、ホール&オーツの楽曲においても
表れてきています。一生贅沢出来るだけの金を稼いだので、あとは好き勝手に音楽をやろう、といった
訳ではありません。どころか、80年代後半の活動休止が響いて、90年頃には経済的に困窮してしまいます。
不動産、飛行機、高級車を売り払うまでして対処しなければならない状況でした。90年発表の
「Change of Season」は、狂騒的だった80年代を自戒を込めて総括した作品だったのかもしれません。
91年からの活動休止中に、彼らにとって大変ショッキングな出来事が起こります。ダリルの恋人である
サラ・アレンの妹 ジャナが93年8月、37歳の若さで急逝します。前回までの記事にても触れて
きましたが、姉のサラと共に、ホール&オーツを作詞・作曲面でサポートしてきた、というよりも、
80年代に関して言えば、四人一組で作品を創り上げていったと言っても過言ではありません。
姉のサラは言うまでもありませんが、ダリルの悲しみも筆舌に尽くしがたいものだったそうです、
ジャナの誕生日にはわざわざ飛行機で駆けつけて、彼女が欲しがっていたギターをプレゼントしに
行ったほどの可愛がりようだったそうです。翌9月にリリースとなったダリルのソロアルバム「Soul Alone」のエンディングにはジャナが作曲に関わった「Written in Stone」が収録されています。
同作に収録され、第一弾シングルとなった「I’m in a Philly Mood」。曲調こそは当時流行のブラック
コンテンポラリー的なものですが、タイトルが示す通り、少なくともその音楽的精神はダリルの原点へと
立ち返った事を歌ったものではないかと私は思っています。
ホール&オーツについて語られる時、どうしてもダリルの話題が中心となってしまいます。かくいう
本ブログでも、取り上げてきたのは#56の「She’s Gone」以外は基本的にダリルの曲となって
しまいました。00年代のインタビューにて、ジョンは自身の事を「世界で最も高給取りのバックシンガーさ」などと、かなり自虐的なジョークを飛ばしていますが、ジョンは非常に優れたシンガーであります。
ジョンの曲・リードヴォーカルでどれか一曲と言われれば、「モダン・ヴォイス」(80年)収録の
「How Does It Feel to Be Back」か、こちらか悩む所なのですが、リアルタイムで聴いていたことも
あって今回はこちらを選びます。「Big Bam Boom」(84年)のエンディングに収録された「Possession Obsession」(曲はダリル・ジョン・サラの共作)。「How Does~」も是非聴いてみてください。
01年にダリルとサラは、その30年近くに渡って続いた恋人関係に終止符を打ちます。しかしその後も
良好なフレンドシップの関係は続いていると言われています(一緒にインタビューも受けてたりします)。
各々がソロ活動を行いながら、ホール&オーツとしての作品は06年のクリスマスアルバムが最後ですが、
二人でのツアーは行っており、一番最近の活動としては17年10月にロンドンで演奏しています。
かなりの日本びいきであり、日本版のウィキに書いてある通り来日公演もかなりの回数をこなしています。
ちなみにベストヒットUSAの最多出演回数もホール&オーツの二人です(勿論小林克也さんを除く…)。
最後にご紹介するのは、90~00年代にかけて彼ら、ないしダリルがソロでレパートリーとしていた曲。
72年のビリー・ポールによるNo.1ヒット「Me and Mrs. Jones」。”最後はオリジナルを
取り上げるべきだろ!”、というお声は勿論承知の事ですが、このフィラデルフィアソウルを代表する名曲は、
彼らのその当時の音楽的姿勢が表れているものと私が思っている事と、役者で”ハマリ役”という言い方が
ありますが、ダリルにとっての”ハマリ歌”と言えるこの歌唱・演奏があまりにも見事なので取り上げざるを
得ませんでした。ホール&オーツ回の最後なので、二人の演奏を取り上げるのは当然なのですが、
ダリルのソロもあまりに素晴らしいので、どうせなら両方張ります。是非どちらも聴いてください。
以上、6回に渡ってホール&オーツを取り上げて来ました。こんなに長く書くつもりは当初なかったの
ですが、実は彼らは洋楽を聴き始めた頃、能動的に聴いてみたいとおもった初めてのミュージシャンです。
初めの頃はヒットチャートの上位に入った曲だけを聴いていたものですが、彼らはその中で初めて
”この人達の音楽をもっと知りたい”、と思い過去に遡って聴くようになったミュージシャンでした。
ただのオッサンのノスタルジーと思って下さって結構ですが、若い方達にも少しでも伝わればこれ幸いです。