#89 Remain in Light_2

リメイン・イン・ライト回その2です。
B面トップを飾るナンバー「Once in a Lifetime」。リズミックな楽曲であるのは同様ですが、
A面とはややカラーを異にするもの。当初、ブライアン・イーノは本曲を気に入らず、バンドもそのまま
うっちゃっておいたそうです。メンバーのジェリー・ハリスンによれば、”何しろコードチェンジも
無い楽曲なので、ある種の『トランス』が全てだった”との事。コーラスを付けるのにも困難が
生じていたそうですが、デヴィッド・バーンは本曲に信念のようなものを持っており、イーノが
無歌詞でコーラスを付け、本曲は”収まるべき所へ収まった”との事です。
バーンの歌詞は非常に難解で、ネイティブでさえ理解するのは困難であるそうなので、それについて
あまり取り上げるつもりはなかったのですが、本曲においてのみ少しばかり。
一番では極狭住宅に住んでいる所から、別世界で大きな車、美人の妻を持つ自分に驚く話。続く二番にて、
それらがどこかへ行ってしまった事に困惑する話。各合間にて”Letting the days go by…”のコーラスが
繰り返されますが、このパートは”水に流される様にただ日々は過ぎていく…一生に一度だけ地下を水が
流れる”の様な意。”Once in a lifetime , water flowing underground”をどう捉えるかは人それぞれ
の様で、人生に一度は来るチャンスをモノにするんだ!といったポジティブな解釈をする人もいれば、
”after the money’s gone(一文無しになって・・・)”という一文がある事から、ビジネス・投資などに
トライしてみたものの、失敗して破産してしまった男の話とみる人もいます。ネイティブもわからないの
ですから、私がわかるはずもないのですが、何しろバーンが書く歌詞ですので、具体的ではないシュールかつ
観念的な意味の様な気がします。後半で繰り返される”Same as it ever was(今までと同じ=
何も変わらない)が鍵を握っていて、SF的並行世界に迷い込んだか、あるいは精神を病み妄想の中で
混乱する男を題材にしながら、どっちが現実なのか?『胡蝶の夢』的な説話を意味したかったのでは
ないでしょうか。つまるところ、成功も不成功も大して意味はない、人生などただ生まれてただ死んで
いくだけの事、幸も不幸も人間が作り出しているただの幻想、の様な意だと勝手に解釈しています。
ジェリー・ハリスンがシンセで水泡(bubble)の音を表現した、と語っていることから、本曲では
水がキーワードになっているのは確かだと思います。

https://youtu.be/Rvjw5xJF8WQ
次曲以降はおとなしめの楽曲となっていきます。B-②「Houses in Motion」では中近東風のフレーズが
聴かれます。アフリカのみならず非西洋、所謂”サードワールド”へ、イーノやヘッズの面々が視点を
向けていた表れでしょう。B-③「Seen and Not Seen」は浮遊感漂う形容しがたい不思議な楽曲。
B-④「Listening Wind」。本作の中では比較的”ちゃんとした”歌(=メロディ)を持った曲。
異国(やはりアフリカ・中近東・アジア等の非西洋)を彷徨っている様な情景が浮かびます。
B-⑤「The Overload』。本作のエンディングナンバーである本曲は、前々回触れたポストパンクの
バンド ジョイ・ディヴィジョンにインスパイアされた楽曲であるとの事。

本作では実はロバート・パーマーが参加しています(#73ご参照)。本作の製作に参加した事が
自身の音楽にもかなり影響を与えたらしく、同時期にリリースされた「Clues」にてそれは顕著です。

パーマーの様に直接「リメイン・イン・ライト」に関与した訳ではないのですが、本作とそのコンセプトを
同じくする音楽を創りだしたミュージシャンがいました。間接的に知り得たか、あるいは
共時性的現象とでも言うのか、世界には似たような事を考える人間が、全然離れた場所でも同じ時期に現れるというやつです。

ピーター・ガブリエルが80年に発表したアルバム「Peter Gabriel」。全英1位を記録した本アルバムの
リリースは3月と、「リメイン」(10月)より早いのですが、『リズム』『アフリカ(非西洋)』を
コンセプトとした点においてはカラーを同じくする作品です。本作にイーノは関わってはいませんが、
ピーター、イーノ、そしてキング・クリムゾンのロバート・フリップは旧知の仲でしたので、何らかの
形でイーノとヘッズが取り組んでいた音楽がピーターに伝わった可能性は大いにあります。もしくは
先述した共時性(シンクロニシティ)が起こったのかもしれません。
上の「No Self Control」におけるドラムはフィル・コリンズ。言うまでもなくジェネシスにおいて
以前活動を共にしていた二人。ピーターはフィルに対してシンバルを外してプレイして欲しいと要求した
そうです。70年代に彼らが目指していた、テクニカルかつ、進歩的な、文字通りプログレッシブロックの
リズムパターンとは対極に位置するとも言える、金属の音色を排して太鼓の音だけをフィーチャーした、
よりプリミティブ(原始的)なビートを創り出す事に成功しています。技巧が必要無いなどとは決して
思いませんが、本作においては、人間の根源に訴えかけるリズムを
見事なまでに表現しました。

#16でも触れたキング・クリムゾンの「Discipline」(81年)。発売時はクリムゾンがトーキング・ヘッズになってしまった、などと不評を買ったのは#16で述べた通りで、それは表層的な部分だけを捉え、
本質を見ようとしなかった当時の評論家・ライターの目が節穴であった為であり、後年になってから
再評価されるようになっていったというのも既述です。
「ディシプリン」にて、アフリカン・エスニックビートの要素は薄く、以前よりはシンプルになったとは
言え、”何しろクリムゾン”ですから、そんなに単純なリズムではありません。しかしながら70年代中期、
第2期クリムゾンの頃から、反復されるビートやリフが生み出す高揚感のようなものにフリップが
着目していたのは確かだと思われ、そこにイーノ達の作品からインスパイアされて、かねてから
思い描いていたコンセプトを「ディシプリン」にて具現化するに至ったのではないでしょうか。
勿論エイドリアン・ブリューの起用は、ヘッズでの活躍を見た事からであるのは言わずもがなです。

直接的、あるいは間接的であれ、これら一連の作品群に影響を受け、以降のポップミュージックに
おけるリズムが変化を遂げていったと
いう事は間違いありません。ドラムパターンはシンプルに
1・3拍のキック(ベースドラム)と2・4拍のスネアドラムが、同時期にフィル・コリンズらに
よって創り出されたゲートリバーブ(ゲートエコー)の効果と相まって、それまでよりも圧倒的に強調され、
反してハイハットやトップシンバルで刻むビートは音量的に小さくなっていきました。言うまでもなく、
80年代から一般的になっていったドラムマシン、シーケンサーがそれらを助長していった事実もあります。
余談ですが、その反動とでも言うのか、90年代に入ってからはハイハットがガシャガシャ鳴っている
荒々しく生々しい音色が好まれる様になり、またドラムに限らず、ヴォーカル、ギターなどにおいても
ノーリバーブが見直されるようになりました。大滝詠一さんは生前ラジオで、「スピーカーの面(ツラ)で
歌っている、演奏している様だ」と語っていたのを思い出します。奥行を全く感じさせないサウンドは、
80年代を経験してきた人たちにとって、奇異に感じるものだったのです。音楽に限らず、流行り廃りと
いうのは、時代によって両極にブレるもののようです。

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