#110 Back to Oakland

スティーヴ・フェローンが在籍したアヴェレージ・ホワイト・バンドを聴いていると、どうしてもあるバンドを思い出し、また比較してしまいます。鉄壁のリズムセクション、ソリッドなブラス隊、そしてソウルフルなヴォーカル、これでもか!というファンクグルーヴを繰り出すそのバンドの名はタワー・オブ・パワー。カリフォルニア州オークランドで結成された彼らの音楽は、それを指してオークランドスタイルファンクと呼ばれる一ジャンルとして語られる程、ポップミュージック界において、特に同業者達へ影響を与えました。

 

 

 


#85のヒューイ・ルイス&ザ・ニュース回において彼らに触れ、いつか必ず取り上げますと述べましたが、思ったよりも早く書くことが出来ました。

バンドの出発点は68年に創設メンバーであるエミリオ・カスティロとステファン・カップカが出会った所から始まります。ただしこのバンドはメンバーが多く、またその変遷も激しい為、それらについては割愛します。興味がある人はウィキ等で。当初彼らは『ザ・モータウンズ』と名乗っていた、もしくは周りに勝手に名付けられたらしいです。カスティロは後のフィルモア・ウェストの前身、フィルモア・オーディトリアムへの出演をオーナーであるビル・グレアムへ交渉しようとしますが、『ザ・モータウンズ』では彼が出演を認めてくれないと考え、バンド名の変更を容認するようになります。そうして70年までにはタワー・オブ・パワーという新しいバンド名が確定し、当時ビル・グレアムが設立して間もないサンフランシスコレーベルから1stアルバム「East Bay Grease」をリリースします。72年にはワーナーへ移籍し、二作目となる「Bump City」を発表。アルバムはR&Bチャートで16位、シングルもTOP40に入り、徐々に世間への認知度を高めていきます。

73年、3rdアルバム「Tower of Power」をリリース。上はオープニングナンバー「What Is Hip?」。百聞は一聴に如かず、問答無用のこの曲を聴けば彼らの凄さがわかるはず。

1stシングルである「So Very Hard to Go」は彼らにとって最大のシングルヒットとなりました(ポップス17位・R&Bチャート11位)。本作はセールス的にバンドにとって最大の成功作となりました。ポップスチャートで最高位15位を記録し、ゴールドディスクに認定されます。

74年発表の「Back to Oakland」。セールス的にこそ前作には及びませんでしたが、彼らの最高傑作と評するリスナーが絶えない名盤です。オープニングとエンディングを飾るナンバー「Oakland Stroke」。最初は0:53、最後は1:08と短い曲。短くて良いでしょう、あまりにも凄すぎて、この尺でも十分です。上はUP主が2曲を繋げたらしいですが、オープニングもフェイドアウトで終わっているのに、境目が全く分かりません。一体どうやって作ったのでしょうか?・・・・・ナゾの技術・・・才能のムダ・・・・・
(._+ )☆\(―.―メ)そこまでは言われる筋合いはない!
(※と、思っていたのですが、更に調べたところ、昔シングル盤で発売されたことがあったらしいです)

私が思う本作のベストトラックは二曲あるのですが、上はその甲乙付けられない内の一つである「Can’t You See (You Doin’ Me Wrong)」。あまりごちゃごちゃは言いません、聴いて下さい。

インストゥルメンタルパートが取りざたされる事の多い彼らですが、ヴォーカル曲も秀逸です。ヴォーカリストは割と入れ替わりが激しいバンドでしたが、黄金期に在籍したのがレニー・ウィリアムズ。レニーの素晴らしい名唱が堪能出来るのが上の「Just When We Start Makin’ It」。

私にとってもう一つのベストトラックがこれ、「Squib Cakes」。これもあまりごちゃごちゃは言わないつもりでしたが … 少しだけ言わせて下さい・・・・・・・・・ごちゃごちゃ ……………
(._+ )☆\(―.―メ)言うとおもった!!!
完璧なグルーヴ、ソロプレイヤー各々のアドリブ、ブラスのソリ、どれを取っても超一級品の演奏。全編に渡って素晴らしいプレイのオンパレードですが、やはり聴き所は4:55からのオルガンとギター・ベース・ドラムのリズム隊によるプレイ。途中からはワンコードになり、主役は完全にベースとドラム。派手な耳を引くソロプレイではない、リズムの掛け合いであるのに、これ程までに甘美と言っても過言ではないグルーヴを私は他に知りません。6:02でコードチェンジする部分は、カタストロフとでも呼ぶべきそれまでのテンション感が一気に弾ける鳥肌モノのパートです。

その後、セールス的にヒットを上げる事はなく低迷していたバンドでしたが、ヒューイ・ルイスの力添えなどもあり地道に活動を続け、今日まで解散することなく、根強いファン、また同業者達からの応援を受け続けています。レコードセールス面だけを見れば、ゴールドディスクが一枚、TOP20入りしたシングルも一枚と、決して大成功を収めたバンドではありません。インストゥルメンタルの比重が多いので、一般ウケしづらいのは如何ともし難い所でしょう。卓越したシンガー達が在籍したバンドですので、もっとバラードなどをフィーチャーした売り方をすれば、ひょっとすると違った結果があったかも(たらればですけど…)。しかし彼らは、自分たちの本分はグルーヴを重視したファンクミュージックであるとの自負があったのでしょう。そして、その様な姿勢を貫く彼らだからこそ、コアなリスナーや同業者達から常に尊敬の念を受け続ける事が出来たのではないでしょうか。

一人か二人しかいない読者の中には、ドラマーについて全然書いてないじゃん、と思われた方もいるかもしれません。
…………… いない … かな?・・・・・゜:(つд⊂):゜。。
そうです。タワー・オブ・パワーのドラマー デヴィッド・ガリバルディについては、次からのテーマとするためにあえて触れませんでした。という訳で次回からはデヴィッド・ガリバルディを取り上げていきます。

#109 Steve Ferrone_2

私がドラムを始めた80年代半ば、スティーヴ・フェローンはパールドラムスのエンドーサーであり、彼の姿はカタログに必ず載っていました。


 

 

 

 

最初に金を貯めて購入したドラムセットはラディックであったと述べています。英ジャズロックの草分けであるブライアン・オーガーのバンドなどで活動した後、アヴェレージ・ホワイト・バンド(以下AWB)へ加入する事となります。

前々回でもあげた、75年ソウルトレイン出演時の映像ではグレッチのセットを使用しているのが確認出来ます。シンバルは確認出来ませんが、その後フェローンが永く使用する事となるセイビアンは81年の設立なので、この時点ではまだ存在しません、おそらくはジルジャンだと思いますが。上は同じソウルトレインにおける「Person to Person」。それにしても1:50辺りからのプレイは本当に素晴らしい・・・

この頃のフェローンのチューニングはスネアがハイピッチで、ベースドラムはローピッチ、つまり高音から低音までまんべんなく音が出ているという事です。スネアはピッチが高くはあれども、決してカンカン・パンパンという、ただヘッドをきつく締め上げただけの耳障りな音色ではなく、高い音ではあるが甘い音でもあります。そしてベースドラムは ”ちゃんと鳴っている音” です。ロックポップスのドラムにおけるベードラは、ともすれば ”ドッ” ”ボッ” のような、アタック音が強調される事が多いです。勿論ハチマキを締めた応援団が叩くような大太鼓みたいに ”ドーン” という音では全体的なサウンドにそぐわないのですが、やはり太鼓本来のサスティーン、余韻を犠牲にしているのも確かです。彼のベードラは ”ドン” と、締まりはあるが、一方でちゃんとドラム本来のサスティーンも感じさせる音色です。ベードラの中に毛布を入れてミュートしたり、フロントヘッド(お客さんから見える方)に穴を空けたり、ベードラはサスティーンを調整するのが常ですが、フェローンはそれを最小限にしているのではないかと思われます。

チャカ・カーンの1stアルバムから「Some Love」。ロール( ”ザ~~~” と音が繋がって聴こえるテクニック)に始まり、竹を割ったようなアクセントショットで締める、このスネアだけでシビれます。ベースはウィル・リー。鉄壁のリズムセクションとはこの様なコンビを言うのでしょう。70年代半ばにおいて、特にアメリカのファンクバンド、あるいはウェストコーストロックなどのドラマーは、裏面のヘッドを外してしまうのがトレンドでした。余韻の無い、乾いた音色を求めていたドラマーが多かったようです。それが確認出来る最も有名な映像がイーグルス「ホテル・カルフォルニア」におけるドン・ヘンリーのドラム。ユーチューブにて『Eagles Hotel California』で検索すると、多分一番上に出てきますので興味のある方は。しかし米のファンク・ソウルミュージックを追い求めたAWB及びフェローンでしたが、音色はこれには倣わなかった様でした。ただし、それ以降に同じくソウルトレインへ出演した際には、ベードラのフロントヘッドを外していたり(79年)、以前より大きく穴を空けていたり(80年代初頭)する映像も観られますので、当然ですが時代によってその音色は変化していったようです。

80年代に入ってから、ドラムスはパール、シンバルはセイビアンというセッティングが定着します。前回も述べた事ですが、80年代のドラムはゲートリバーブをかけるのが主流となり、フェローンもそれについてはご多分に漏れませんでした。何回か同様の事を書きましたが、ゲートリバーブの音は生音では絶対に出ないようなド迫力のサウンドを生み出し、80年代の音楽にマッチングしたのは事実なのですが、逆を言えば皆同じようなサウンドになってしまい、プレイヤー各々の個性が損なわれたという一面も否定出来ません。上はこの時代におけるレコーディングの一曲。アル・ジャロウ「L Is for Lover」(86年)に収録されている「Across the Midnight Sky」。サンバフィールの本曲は、特にハイハットプレイが印象的です。これまで取り上げてきたドラマーでも、ジェフ・ポーカロやスチュワート・コープランドをハイハットワークの名手と紹介してきましたが、フェローンもその名手の一人であると私は考えます。冒頭の0:48辺りまでが特に聴き所で、チップ(スティックの先)でタイトに叩くノーアクセント、ショルダー(スティックの ”お腹” に当たる部分)でハイハットの縁を荒々しく叩くアクセントショット( ”ヂッ” ”ジャッ” といった音色)。左足の開閉によるオープン・クローズ奏法。そしてダブルストローク(ワンストロークで2回ずつ叩く、右左一回ずつ叩くシングルストロークの中に織り込むと倍の音符を叩くことが出来る。この場合はシングルで16分、ダブルで32分音符)の絶妙な組み込み方。是非ヘッドフォーンでお聴きになる事を推奨します。それにしてもスティックのお腹なのに ”ショルダー” とはこれいかに・・・
(._+ )☆\(―.―メ)うまいこと言ったつもりか!!!

フェローンのグリップはレギュラーグリップ。左右が同じマッチドグリップと異なり、左手が特有の持ち方をします。彼のグリップの特徴は左手がスティックを逆に持っているという点。細くなっているチップで叩くのが通常ですが、彼はその逆です。逆側はグリップエンドなどと呼びますが、チップの様に細くなっておらず、それで叩くと荒々しい、悪く言えば汚い音色になります。理由は明快で、レギュラーグリップのパワー不足を補う為。画像で検索して頂けるとマッチドとレギュラーグリップの違いはお分かりになるかと思いますが、レギュラーは打面に対して角度が付いてしまいます。ドラムは打面に対して並行に叩く方がパワフルなショットが出来るので、その点では不利なグリップです。それを解消する為、ドラムの左手前を傾けたり、もしくは左肩を下げてプレイする事で打面に対して並行にショットしたりもします。しかし左肩を常に下げてプレイする事に違和感を覚えたり、打面は基本的に地面に対して並行にセッティングしたいと思うドラマーは少なくないので、それでもレギュラーグリップで音量も稼ぎたい、という望みから音色は多少犠牲にしてもパワーが出る
グリップエンドで叩くドラマーが結構存在します。日本では東原力哉さんがその筆頭です。右はチップ、左はエンドで叩くと音色にバラツキが生じるのではないかと思ってしまいますが、人間というものは練習次第でそれを克服してしまう様です。フェローンのプレイを聴く限り、特にその音色に差が出がちなハイハットにおいても、全くそんな事は感じさせません。うっとりする程きれいなハイハットワークであるのがお分かりになる事かと。

フェローンが来日した際に行ったドラムクリニックを受講した方のブログに記されていたのですが、そのクリニックでは超絶技巧などは披露せず、シンプルなリズムパターンを何かの歌を口ずさみながら、ひたすら気持ち良さそうにプレイしていたのが印象的だったそうです。テクニックが必要無いなどとは絶対に思いませんが、それだけに固執すると木を見て森を見ず、大事なものを見失ってしまう事もあるのです。フェローンはそれを改めて教えてくれます。
それを肝に銘じながら練習しましょうね! (`・ω・´)
・・・・・・・・ 
オマエモナ (´∀` )

 

#108 Steve Ferrone

久しぶりに本ブログの本文を果たそうと前回の最後に書きましたが、そうなんです … 一応これ、ドラム教室のブログなんですよ … ほ、本当です、本人が言ってるんですから間違いありません・・・・・

 

 

 

 チャカ・カーン、アヴェレージ・ホワイト・バンドと続いたのですから、当然今回取り上げるドラマーはこの人、スティーヴ・フェローンです。世界でもトップクラスの技術を持ちながら、決してこれ見よがしにテクのひけらかしなどはせず、あくまで音楽本位。しかしその合間に超絶テクニックが何気なく垣間見え、またそのフレーズのセンスが絶品なプレイヤー。セッションドラマーなので、当然あらゆるジャンル、ジャズのスウィングだろうが、難解な変拍子だろうが、そして勿論エイトビートのR&Rでも素晴らしいプレイを聴かせてくれるのですが、特に彼の真骨頂はファンク・ソウルにおける16ビートドラミングであると私は思っています。

50年、イギリス ブライトン生まれ。祖母がピアノを弾き、祖父はダンサーであったとの事。ドラムを始めたのは12歳と、あるインタビューで語っていますが、別のコメントではなんと同じく12歳の時に、ビートルズ・ストーンズと並んで英国を代表するバンド ザ・フーの前座を務めたと言っています。これはいくら何でも辻褄が合いません。私の拙い英語力のせいもあるのですが・・・最初に影響を受けたのはご多分に漏れずリンゴ・スター。その後、バーナード・パーディに興味を惹かれ、やがてジャズの世界へ。エルビン・ジョーンズ、アート・ブレイキー、ジャック・ディジョネットなどに傾倒する一方で、ジョン・ボーナムなどのロックドラマーにも興味を持ったとの事。

幾つかのセッションワークを経た後、彼の名を一躍世間に知らしめる事となったのは、前回取り上げたアヴェレージ・ホワイト・バンドへの加入でした。前回ご紹介した、ソウルトレイン出演時の「Cut the Cake」「School Boy Crush」などをお聴き頂ければわかるかと思いますが、息づかいが感じられるようなグルーヴ、フォルティシモとピアニシモの対比が絶妙なボリュームにおける強弱の付け方の妙(所謂 ”ダイナミクスレンジ” )、そして言うまでもないフレージングのカッコ良さ。それら全てが凝縮されていると私が思うプレイが上の「If I Ever Lose This Heaven」。エンディングにおけるフィルイン、特に4:20辺りの超高速32分音符の ”手手足足” などは圧巻ですが、それ以外のさり気ない箇所、例えば2:05辺りのスネアショットとハイハットオープンは、息を吐きだしている、つまりブレスをしているのが手に取るようにわかります。村上 “ポンタ” 秀一さんが『ドラムこそブレス(息つぎ)が大事なんだよ!』と、折に触れ仰っておられたのがよくわかります。先に述べた32分音符のテクニカルなフレーズも、ただ難しいプレイも織り込んでやろう、という浅ましい根性ではなく、音楽的に必要なものとして結果的にあのようなプレイなのです。このフィルは本曲の終盤で演奏される短い四パターンのフィルの内の最後であり、つまり起承転結における ”結” に相当するフレーズです。音楽的に必要として自然に出たフレーズで、その為に必要な技術を駆使した迄なのでしょう。彼ほどの超越したプレイヤーになると、別にテクを見せびらかす事など全く無用であり、全てが ”グッドミュージック・グッドドラミング” なのです。これは一流のプレイヤー達全てにおいて言えることです。

76年のライヴアルバム「Person To Person」から「T.L.C.」。1stに収録されている本曲は、初代ドラマーであるロビー・マッキントッシュのプレイと比較して聴くのも一興です。ライヴなのでかなり長尺ですが、フェローンの16ビートドラミングを存分に堪能出来ます。勿論バンドのアンサンブル自体そのものも素晴らしい名演です。

80年代に入るとフェローンはセッションドラマーとして引っ張りだこになりますが、上はその内の一曲。前々回でも触れましたが、スティーヴ・ウィンウッドによる86年の大ヒットアルバム「Back in the High Life」に収録されている「Freedom Overspill」。音色はゲートリバーブ全盛だった80年代の音になっていますが、そのグルーヴはフェローンならではもの。ちなみにスライドギターはイーグルスのジョー・ウォルシュです。おそらくフェローンの姿がメディアにおいて映っている機会が最も多いのは、エリック・クラプトンの大ヒット作「アンプラグド」(92年)です。世にアコースティックブームをもたらす先駆けとなった本作はクラプトン回(#11ご参照)にて既述ですが、至る所で観る事となる本作の映像にてフェローンの姿を目にする事が出来ます。フェローンがクラプトンに関わるようになったのはアルバムで言うと89年の「Journeyman」から。80年代後半から90年代前半におけるクラプトンの活動、つまり劇的な再々ブレークの瞬間に携わった一人です。80年代半ばに引退まで考え、ようやくそれが吹っ切れた矢先に起きた息子の悲劇的な事故死、しかしその時は麻薬や酒に溺れず、「アンプラグド」であまりにも見事な再起を遂げ、結果的には自身にとって最大のヒットとなる。その過程にフェローンは居合わせました。

「アンプラグド」直前の作品「24 Nights」(91年)。91年2月5日から3月9日まで24公演(夜)を行ったので「24ナイツ」という事。実際には前年の1~2月にも18公演を行っていますので都合42公演。場所はあまりにも有名なロンドンのロイヤル・アルバート・ホール。余談ですがクリームの解散コンサートも同ホール(68年)、そしてその再結成コンサートも同じく05年に。「24ナイツ」から一曲、クリームの代表曲である「White Room」。

一回でまとめようかと最初は思いましたが、やはり無理の様です。ですので二回に分けます。次回は奏法・使用機材などについても触れてみたいと思います。

#107 Average White Band

年初からブルーアイドソウルではない、黒人によるブラックミュージック(変な言い方だな … 馬から落ちて落馬、みたいな)を特集していますが、ここで一度ブルーアイドソウルに戻ります。
(撤回早ッ!Σq|゚Д゚|p)
前回まで取り上げていた、チャカ・カーンのソロアルバムにて初期から参加していたイギリス勢、ヘイミッシュ・スチュアートやスティーヴ・フェローン達によるアヴェレージ・ホワイト・バンド。このタイミングで彼らを取り上げない訳にはいきません。

 

 

 


オリジナルメンバーは全員英国白人、しかもスコットランド人(別にスコットランド差別ではありません)。スコットランドと言えば、イギリスでも特にケルト文化が色濃く残り、牧歌的な田園風景が残っていて、時に神秘的な文化・風習が現在でも踏襲されている情景を思い描いてしまいますが、アヴェレージ・ホワイト・バンドはアメリカのファンク・ソウル・R&Bといった黒人音楽を、ともすれば本場の人間よりもグルーヴ感に溢れ、かつエネルギッシュに演奏したバンドです。でもこれは完全な偏見ですね、エディンバラやグラスゴーにも黒人音楽を聴かせる・演奏する場所は当然あったはずですし。まるで、日本人は今だにチョンマゲ結って、ハラキリしてる、というのと変わりません。

72年にロンドンで結成。それ以前に地元スコットランドで既に演奏していた仲であったらしいのですが、ロンドンでトラフィック(スティーヴ・ウィンウッドが在籍していたバンド)のコンサートを観に来た際に再会し、また一緒に演奏するようになったとの事。そして彼らの演奏を聴いた友人の一人がその時期の彼らを評してこう述べました ”This is too much for the average white man” 、と。『平均的白人としては過ぎる』。つまり白人とは思えない程、ブラックテイストに溢れたプレイだった、という意味でしょうか。これがバンド名の由来となったのは言うまでもありません。
バンドの特色はアラン・ゴーリー(b、vo)とヘイミッシュ・スチュアート(g、vo)によるツインヴォーカル、ファンキーかつソウルフルなホーンセクション、そして初代ドラマーであるロビー・マッキントッシュのファンクフィールに溢れた16ビートドラミングです。ロビーはジャズフルート奏者 ハービー・マンや、あのチャック・ベリーのレコーディングに参加した程の名手でした。デビューアルバムを73年にMCAレーベルから出した後、バンドに着目したアトランティックの超大物プロデューサー アリフ・マーディンが、彼らをアメリカへ呼び寄せ、2ndアルバムを制作させます。それが上の「Pick Up the Pieces」を含む代表作「AWB」(74年)です。
大変語弊のある言い方を敢えてしますが、スコットランドの田舎者達が組んだバンドを、わざわざ渡米させ、超豪華ミュージシャン(ブレッカー兄弟、ラルフ・マクドナルド等)をあつらえ、大枚をかけてアルバムを作らせたのには、マーディンのただならぬ期待があったのでしょう。それは見事に証明されます。本アルバムとシングル「Pick Up the Pieces」は共に全米チャートで1位を記録。特に「Pick Up the Pieces」はインストゥルメンタル曲でありながらNo.1を獲得するという異例の出来事でした。しかし本作リリース前にロビーが急逝してしまいます。若干24歳、突然の悲劇でした。本作からもう一曲、アイズレー・ブラザーズのカヴァー曲「Work To Do」。

ロビーの突然の死という悲劇を、バンドは二代目ドラマー スティーヴ・フェローンの加入によって乗り越えます。ドラムを演っている人間ならその名前くらいは聞いたことがあると思いますが、その後世界的トップドラマーとなり、前回までのチャカ・カーンをはじめ、エリック・クラプトン、ビージーズ、アル・ジャロウなど、数えきれないほどのセッションに参加する事となります。上は三作目「Cut the Cake」(75年)からのシングルであるタイトル曲。アルバムは全米4位、シングルは10位という、これまた大ヒットを記録します。ロビーも素晴らしい16ビートドラミングをプレイするドラマーでしたが、何と言ってもフェローンは技術・グルーヴ感・センスといった三拍子が完璧に揃ったドラマーでした。

「Cut the Cake」同様にソウルトレインに出演した際の「School Boy Crush」。ロビーがこの様なドラミングが出来なかったという訳では無いと思いますが、黒人ドラマーであるフェローンの加入により、本作以降はより黒っぽいグルーヴ・フィーリングの楽曲を聴く事が出来ます。4thアルバム「Soul Searching」(76年、全米9位)。

シングル曲「Queen of My Soul」。本作は再びブレッカー・ブラザーズが参加し、ホーンセクションがフィーチャーされています。本曲はそれまでにはなかったラテンフィールを持った楽曲。当時一世を風靡したクロスオーヴァー(フュージョン)の影響は当然にあります。2nd「AWB」こそ至高とするファンには、洗練され過ぎてしまったという向きもあるかもしれませんが、そのクオリティーは3rd・4th共に決して引けを取らないものです。後は各々の好みと言うしかありません。

その後、セールス的には当初の様な成功を上げる事はありませんでしたが、その音楽的内容も低下していったのかと言うと、決してそうではありません。時代の変化と共に当然バンドの音楽性にも変化が見られました。80年、アトランティックを離れアリスタへ移籍し、デヴィッド・フォスターのプロデュースの下にアルバム「Shine」を発表。実は当初、本作はアトランティックから出す予定だったのですが、途中で移籍の話が舞い込み、出来上がっていた素材の一部はアトランティックへ渡し、残りで本作を構成したとの裏話があります(金澤寿和さんのブログに詳しくあるので興味がある人は)。
ディスコ・AORといった当時世間を席巻していた音楽を取り入れ、良くも悪くもソフィスティケートされた内容なので、昔ながらのファンは嫌がる人もいたでしょうし、AORファン、特にデヴィッド・フォスターの音楽を好む人なら文句なしに気に入るでしょう。また同じ話になりますが、2ndこそ彼らの真骨頂とするリスナーからすると物足りない内容なのかもしれませんけれども、それは意固地になって時代の変化を受け入れないというのと紙一重です。AOR世代にとって、本作は結構高い評価を得ている、というのもこれまた事実です。

そんな事言いながら、私も基本的に、80年代の音楽で止まっていたりするんですけどね・・・ただ私の場合、これ以上新しいのを追っかけるのは無理だとある時期に思ったので … 実際、ユーチューブで幾らでも聴けるようになった現在においても、50~80年代を再確認するので手一杯です・・・ですから、オールディーズから最新音楽まで、常にフォローしている人はある意味凄いな、とは思ってます。

チャカ・カーン、アヴェレージ・ホワイト・バンドと取り上げて来ましたので、久しぶりに本ブログの本文を果たそうかな、と思っています・・・ところでこれって、何のブログだったっけ?(´・ω・`)…
100回以上書いてるのにそれかよ!!!・・・・・ ヽ( ・∀・)ノ┌┛Σ(ノ;`Д´)ノ・・・・・

#106 I Feel for You

82年、チャカ・カーンは全編ジャズナンバーのアルバム「Echoes of an Era」をリリースします。フレディ・ハバード、チック・コリアといったジャズ界の大物達に支えられた本作は、人によって賛否両論ではあるようですが、チャカのあらゆるジャンルに挑戦していこうという姿勢の表れだったのではないでしょうか。本作のみワーナーではなくエレクトラから発売されています。
同年暮れには5thアルバム「Chaka Khan」を発表。ますますダンサンブルなエレクトリックファンクが際立つ様になりました。個人的にはこの手の音楽は決して好みではありませんが、80年代初頭は猫も杓子もこういった音楽性・サウンドだったので、一概にこの時期のチャカを否定する気はありません。ダンサンブルな楽曲以外はというと、これも当時の音楽シーンを席巻していた、ジャズフュージョン的なコンテンポラリーR&B、所謂ブラックコンテンポラリー ”ブラコン” でした。

84年、アルバム「I Feel for You」をリリース。先行シングルであるタイトル曲がチャートを駆け上がり、彼女のキャリアにおいて最大のヒットとなったのは前々回にて触れた通り(ポップス3位・R&B1位)。プリンスによる本曲は、元は彼の2ndアルバムに収録されたもの(#49~51ご参照)。チャカの前にもポインター・シスターズが取り上げたりもしていたようですが、世間に知られる様になったのはチャカのヒットによるものでしょう。冒頭がラップで始まる本曲は、世間に ”ラップ” というものが浸透していった最初期の楽曲だったのではないでしょうか。ハーモニカはスティービー・ワンダー、一発でわかります。

本作からもう一つのシングルヒットである「Through the Fire」。日本でもTVなどで使用された覚えがあるのでお馴染みなのでは。上は本曲の作曲者であるデイヴィッド・フォスターによる、10年にラスベガスで行われたフォスター&フレンズにおけるコンサートより。本コンサートでは他にもフィリップ・ベイリー、ケニー・ロギンス、ドナ・サマーなどの豪華ゲストが出演しています。映像を見る限りドラムはジョン・ロビンソン(ルーファスに在籍していたのでチャカとは旧知)、ベースは世界で一番忙しいベーシスト ネイザン・イースト、後は特定出来ませんでした…
アルバム「I Feel for You」は米でプラチナディスク、英でもゴールドディスクを獲得。チャカのキャリアにおいて、商業的には頂点を極めた時期と言って良いでしょう。

ゲストヴォーカルとしても様々なレコーディングに引っ張りだこのチャカでしたが、その中でも最大のヒットはこれでしょう。スティーヴ・ウィンウッド、86年の全米No.1ヒット「Higher Love」。ウィンウッドにとっても最大のヒットとなったアルバム「Back in the High Life」からのシングル曲。ウィンウッドはアイランドレーベル、チャカはワーナーでしたが、レコード会社の垣根を越えたデュエットの実現でした。

その後のR&Bシーン(90年代以降のR&Bは、従前のそれとはだいぶ音楽性が変わりましたが)において、特に黒人女性シンガーの歌唱スタイルと言えば、チャカの様なものがスタンダードになったのではないかと思います。ただし裏を返せば、皆金太郎飴の様になってしまう、と言った側面もありますが … しかし、だれでも最初は人の真似から始まるので、一概に否定は出来ません。チャカだって、アレサ・フランクリンなどの先達をコピーする所から始まったのでしょうから。

最後にこぼれ話を一つ。ティナ・ターナー回(#103)でも触れた曲ですが、86年のロバート・パーマーによるNo.1ヒット「Addicted To Love」、実はこれにチャカが参加するはずだったという事。先述の通り、チャカはワーナー、パーマーはウィンウッドと同じくアイランドでしたが、この時はワーナー側が許可しなかったらしいのです(「Addicted To Love」のレコーディングは85年中)。これまたトリビア的な話ですが、何故か本曲が収録されたアルバム「Riptide」のライナーノーツにはチャカの名がクレジットされています(大人の事情でしょうか?)。「Addicted To Love」は確かにパーマーと、おそらくは黒人女性であろうシンガーの掛け合いを聴く事が出来ます。ボンヤリして聴くとチャカに聴こえなくもない感じですが … まあ違います。
あっ!あれですね (*゚▽゚)!!例えれば『某アイドル(似の娘)がついに!×××で△△△しちゃって!!』みたいな〇Vを、薄目で見れば本人に見えてくる、的なやつ …
ちがうがな!!!( °∀ °c彡))Д´)…
・・・・・が、その後ワーナーもようやく許したらしく、翌年にはウィンウッドとの共演が実現し、先の通りの大ヒットとなった訳です。ちなみにパーマーは98年のチャカのアルバムに参加しています。

この三人が出演しているコンサートがあります(三人で同時にステージに上がっている訳ではないですが)。97年8月、ロンドンの有名なウェンブリーアリーナにて行われた『カールスバーグ・コンサート』。念のためカールスバーグとはあの有名なデンマークのビールメーカー。そう言えばしばらく飲んでないな … どんな味だったっけ?・・・・・失礼 … もとい、ロッド・スチュワートなども出演したかなり大掛かりなコンサートだったようです。まず、チャカとパーマーによる「サティスファクション」。言うまでもなくローリング・ストーンズの代表曲。そしてマーサ&ザ・ヴァンデラスの「Dancing in the Street」のイントロが流れる中を一度二人は袖にはけ、お次にウィンウッドが登場。前半は一人で歌いますが、途中からチャカが再登場し、ウィンウッドともデュエット。一つ目の動画などはかなり画質が悪いですが(アップしてくれた人ゴメンなさい)、「Addicted To Love」で実現されなかったソウルフルな掛け合いを目の当たりにする事が出来ます。チャカとウィンウッドの共演も言うまでもなく素晴らしい。余談ですけども演奏屋の性で(あっ!念のため言っときますが、この ”性”  は「セイ」じゃなくって「サガ」って読むんですよ ♪
(*゚▽゚)!。
やだなあ~!すぐエッチな方に・・・( °∀ °c彡))Д´)…)
ついバックのメンツを探ってしまいますが、ドラムは超絶テクニックを誇るヴィニー・カリウタ、シンプルなエイトビートを演ってもやはり超一流です。ベースはこれまたネイザン・イースト、この人いつ寝てるんでしょう?・・・

英国を代表するアリーナで、アメリカ人とイギリス人が双方の国の楽曲を共に歌う。政治・経済などの他の分野では、この二国が無条件で良好な関係か否かはわかりませんが、少なくともポップ・ミュージックの分野では良い関係の様です。それはお互いが、相手の音楽に尊敬と敬意を持っているからに他なりません。なにかと言えばイチャモンばかりつけてくる国々とは大違いで・・・
(あっ!余計な事を!!(#゚Д゚))
・・・・・架空の国ですよ、私の頭の中にあるだけの夢物語です。・・・・・

#105 Chaka

ルーファス後期において、チャカ・カーンがソロ活動を並行して行っていたのは前回述べた通りですけれども、今回はチャカのソロワークに焦点を当てて書いていきます。

 

 

 


シングル「I’m Every Woman」と共に、1stソロアルバムが大ヒットした事も前の回で既述の所ですが、本作「Chaka」は、ソウル・R&Bシーンに輝く名盤です。

その音楽性を言い表すならば、コンテンポラリーR&Bとでも呼ぶべきものでしょうか。二作目以降はダンサンブルなファンクミュージック色、手っ取り早く言えばクインシー・ジョーンズ&マイケル・ジャクソンの様なカラーが強まっていきましたが、本作は正統派ソウル・R&Bのテイストを残しながら、フュージョン、AOR、勿論当時一世を風靡していたディスコをうまい具合にブレンドした、78年時点におけるコンテンポラリーソウル・R&Bというものを見事に体現した一枚です。上の「Love Has Fallen on Me」は、リチャード・ティーのゴスペルフィーリングに溢れたピアノがあまりにも素晴らしいナンバー(こういったピアノを弾かせたら彼の右に出るプレイヤーはいなかったのではないでしょうか)。個人的には本作のベストトラックです。

お次の「Roll Me Through the Rushes」。プロデューサーはアトランティックソウルの立役者アリフ・マーディンであるのですが、まるでフィラデルフィアソウルの様なスタイルを持った楽曲。前曲においても同様であるコーラスとの見事な掛け合い、また中盤のチャカによるテンションの上がり方は本当に素晴らしい。中身が良ければジャンル分けなどどうでも良いのです。

ジョージ・ベンソンとのデュエット曲「We Got the Love」。楽曲もベンソン作で、「ブリージン」に収録されていても違和感の無い様なナンバー。根っからのジャズファンの中にはこの当時のベンソンを嫌う人もいますが、本曲のような軽快感・爽快感は、70年代のクロスオーヴァー(フュージョン)ブームを体験した人にはたまらないものでしょう。ちなみに本曲のみベースはギタリストのフィル・アップチャーチ。彼は「ブリージン」にてリズムギターとベースも担当しているので、それが本曲における起用の所以かと。

スティービー・ワンダーのこの曲もカヴァーしています。67年全米2位の大ヒット曲「I Was Made to Love Her(愛するあの娘に)」。チャカは ”Her” を ”Him” に変えて歌っています。スティーヴ・フェローンのタイトなドラミングがあまりにも素晴らしい。

80年、2ndアルバム「Naughty」をリリース。基本的に前作の音楽性を踏襲した作品ですが、前述の通り、よりダンサンブルかつポップな仕上がりとなっています。ですがクオリティーの高さは秀逸で、昔ながらのソウル・R&Bというものに拘らなければ前作同様の傑作と言って過言ではないと思います。
本作より「So Naughty」と「Move Me No Mountain」。「Move Me ~」はディオンヌ・ワーウィックがワーナーに在籍していた75年のアルバムに収められていた一曲のカヴァー。ディオンヌの中では決して売れたアルバムではありませんでしたが、チャカ本人か、それともアリフ・マーディンによる選曲であるのかは判りませんが、素晴らしいセレクションであり、先輩に敬意を表している所も立派。ちなみに本作ではソロデビュー前のホイットニー・ヒューストンがコーラスで参加しています。前回も触れた所の「I’m Every Woman」のホイットニーによるカヴァーはこの辺りから繋がっているのかと。
81年、3枚目のアルバム「What Cha’ Gonna Do for Me」を発表。よりファンキーでエレクトリックな方向性となっています。リチャード・ティーやブレッカー兄弟といったニューヨーク勢、アヴェレージ・ホワイト・バンドのヘイミッシュ・スチュアート、スティーヴ・フェローン達イギリス勢は引き続き参加。更にジャズ界からハービー・ハンコック、ルー・ソロフ、そしてなんと超大御所ディジー・ガレスピーも。自身によるスタンダードナンバー「A Night in Tunisia(チュニジアの夜)」にて演奏しています。

本作は1st同様にゴールドディスクを獲得。タイトル曲はシングルカットされR&BチャートでNo.1ヒットと
なります。
まだまだチャカの活躍は続くのですが、その辺りはまた次回にて。

#104 Once You Get Started

ティナ・ターナーの「What’s Love Got to Do with It(愛の魔力)」が全米1位の大ヒットとなっていた頃(84年の9月に三週連続1位)、ある黒人女性シンガーの楽曲もチャートを急上昇し始めました。チャカ・カーン「I Feel for You」。チャカにとって最大のシングルヒットとなるその曲は、11月から12月にかけて最高位3位を記録します。圧倒的な歌唱力を誇り、ソウル・R&Bに留まらず、ジャズ・フュージョンまで幅広くこなすその歌唱テクニックは、歴代女性シンガーの中でもトップクラスのものではないでしょうか。

53年シカゴに生まれる。親はボヘミアン(定住しない人々)でビートニク(所謂 ”ヒッピー” )だったそうです(括弧の定義はあくまで私の思う所なのでツッコミはご勘弁)。つまりかなりフリーキーな環境で育ったという事。祖母の影響でジャズを聴き始め、やがてR&Bに傾倒していき、10代前半には音楽活動を始めていました。地元シカゴでいくつかのバンドを経た後、同じく地元のバンド ルーファスに加入します。言うまでもなくこれが彼女を名を全米に知らしめるキッカケとなります。
2ndアルバム「Rags to Rufus」(74年)からの第一弾シングルである、スティービー・ワンダー作の上記「Tell Me Something Good」がポップス・R&B共に全米チャートにて3位の大ヒットを記録。如何にもこの時期のスティービーらしい粘っこいファンクナンバーで、バンドはグラミー賞を受賞し、アルバムもゴールドディスクを獲得します。

2ndシングルである「You Got The Love」も大ヒット(ポップス11位・R&B1位)。上は『ソウル・トレイン』に出演した際のもの。本曲はチャカとレイ・パーカー, Jr. による共作。レイ・パーカーは84年の大ヒット映画『ゴーストバスターズ』のテーマ曲で有名ですが、実は非常に卓越したテクニックを持ったギタリスト・コンポーザーであります。

同年には早くも3rdアルバム「Rufusized」をリリース(凄いペース…)。1stシングルが上の「Once You Get Started」(ポップス10位・R&B4位)。ベイエリアの超絶技巧ファンクバンド タワー・オブ・パワーのブラス陣を従え、素晴らしいジャンプナンバーとなっています。話は逸れますが、吉田美奈子さんのライヴアルバム「Minako Ⅱ」(75年)で本曲をオープニングナンバーに演っており、そちらも素晴らしいものです。松木恒秀さん(g)、佐藤博さん(key)、村上秀一さん(ds)、そしてコーラスで山下達郎さんと、その後大御所となるミュージシャン達がまだ若かりし頃の、エネルギーに溢れた歌と演奏が堪能できる名盤です。(他にもビッグネームが参加していますが書き切れないので割愛。こちらの方のブログに詳しく記載されています。)

その後もチャカが在籍したルーファスのアルバムは殆どがゴールド・プラチナを獲得し、それは彼女の人気に因るものと衆目が一致するところでした。しかし、バンドと彼女との関係にはやがて暗雲が立ち込み始め(特にドラムのアンディと)、作品毎にメンバーが変わる事態となりました。チャカはバンドに在籍しながら、ソロとしてのデビューをワーナーと契約します。ソロ活動で多忙になった為、バンドはチャカ抜きでレコーディングする機会が多くなりました。それでも彼女は完全にバンドから離れる事はせず、ソロワークの傍らでルーファスに参加し続けます。

ミリオンセラーとなった79年のアルバム「Masterjam」からの1stシングル「Do You Love WhatYou Feel」。本作のプロデュースはクインシー・ジョーンズ。とにかく70年代半ば以降のミュージックシーンは、クインシーかヴァン・マッコイか、というくらいにディスコ・ダンスミュージックの時代だったようです。あのローリング・ストーンズでさえディスコを取り入れたほどでしたから。

チャカの1stソロアルバム「Chaka」(78年)はポップス12位・R&B2位という大ヒットを記録します。とにかくワーナーの力の入れ様がありありと伺えます。プロデュースはアリフ・マーディン。参加ミュージシャンを以下に列挙しますが名前だけ。詳しく知りたい人はコピペして自分で調べて下さい。如何に物凄いメンツかが判ると思いますから。スティーヴ・フェローン、ウィル・リー、フィル・アップチャーチ、リチャード・ティー、アンソニー・ジャクソン、マイケル・ブレッカー、ランディ・ブレッカー、コーネル・デュプリー、ジョージ・ベンソン、デイヴィッド・サンボーン etc.・・・
念のため言っときますけど、復活の呪文とかじゃないですよ …
わかっとるがな!!( °∀ °c彡))Д´)・・・
ジャズ・フュージョンに興味のある方なら、この人達がどれほどのビッグネームかがおわかりでしょう。ワーナーの期待を裏切る事無く、アルバムはゴールドディスクを獲得。上は本作からの第一弾シングル「I’m Every Woman」(ポップス21位・R&B1位)。一般的にはホイットニー・ヒューストンによる93年のレコーディングの方が有名かとは思いますが、ホイットニーファンの方々には本当に申し訳ありませんけども、この曲に関しては、その他のカヴァーを含めても圧倒的にチャカのヴァージョンが白眉だと思っています(※あくまで個人の感想です)。もっともホイットニーもきちんと敬意を表して、エンディングの方でチャカの名を上げてますけれども。

チャカのソロワークによる多忙さから、ルーファスが彼女抜きでの活動を余儀なくされたのは前述した通りですが、83年のアルバム「Seal in Red」(チャカは参加せず)が最後のスタジオアルバムとなりました。ただし、同年10月にリリースされたライヴ盤「Stompin’ at the Savoy – Live」にはスタジオ録音の新曲も含まれており、シングルカットされた「Ain’t Nobody」は最後のヒット曲となり(ポップス22位・R&B1位)、また二度目のグラミー賞の受賞をもたらしました。
この曲の成功をもって、ルーファスとチャカは別々の道を歩み始めます。良好な袂の分かち方だったと言えるでしょう。そしてチャカは、最初の方でも触れた「I Feel for You」による世界的成功を収める事となるのですが、その辺りはまた次回以降にて。

#103 Private Dancer

アイク&ティナ・ターナーの解散による興行中止などから生じた負債を引き受けたティナは、ラスベガスのキャバレーを巡業するようになります。ラスベガスでのキャバレーにおけるショーというものが、日本で言う所の ”ドサ回り” と同じとは言えないかしれませんが、かつて全米TOP10ヒットを出し、アルバムもミリオンセラーとなったシンガーとしては、やはりなりふり構わない仕事の選び方だったのではないかと思われます。

 

 

 


ティナは当時マネージャーであった人物に対し、ロッド・スチュワートやローリング・ストーンズの様に、アリーナを満席に出来るようになりたいとの思いを語りました。彼はティナに対し、バンドを今風のロック的に構築するようアドバイスしたとの事です。この頃のティナのステージングがどの様なものであったかはわかりませんが、おそらく従来のソウル・R&B的なショーを行っていたのでしょう。70年代半ばからソウルミュージックの人気が凋落していく中で、彼の助言は商業的には的を得たものだったでしょう。そしてティナは実際にロッドやストーンズの前座としてステージに上がりました。

前回も触れた通り、83年にアル・グリーン「Let’s Stay Together」のカヴァーがヒットし、久しぶりにメインストリームへと返り咲きました。キャピトルへ移籍しての第一弾シングルが当たった事もあったのでしょう、翌84年リリースのアルバム「Private Dancer」はキャピトル側の並々ならぬ熱意が感じられる豪華な顔ぶれです。ジェフ・ベック、元キング・クリムゾンのメル・コリンズ、マイケル・ジャクソンのビリー・ジーンにおけるドラムで有名なンドゥグ・チャンクラー、ジャズ界からはジョー・サンプルやデイヴィッド・T・ウォーカーといった物凄いメンツです。またティナの復活劇にはデヴィッド・ボウイによる強い後押しがあったとされています。#77にてデヴィッド・ボウイを取り上げましたが、84年のアルバム「Tonight」におけるタイトル曲で二人はデュエットしています。興味深いのは、この時期低迷していた彼女を支えていたのが、ストーンズ、ロッド、ボウイといった英国のミュージシャンだったという事。本国では飽きられていったかつてのソウルの女王を救ったのは海の向こうの同業者達でした。イギリス人の根強いブラックミュージック志向がこの事からも伺い知れます。ちなみに本作のレコーディングも二か月に渡ってロンドンにて行われました。本作からの最初のシングルカットが上の「What’s Love Got to Do with It(愛の魔力)」。全米1位の大ヒットとなります。

タイトルトラックの「Private Dancer」。ダイアー・ストレイツのマーク・ノップラーによる本曲は、元は82年の自身達のアルバム用に作られた曲でしたが、ノップラーはこれは男性が歌う曲ではないと考え、お蔵入りにしました。契約上の問題もあり2年の間塩漬けとなっていましたが、84年にその問題が解消し、ティナに提供されたという訳です。ノップラーは録音には参加せず代わりにジェフ・ベックが弾いています。

上の「I Might Have Been Queen」から始まる本アルバムは、全米で500万枚以上を売り上げ、ティナの見事な復活を象徴する作品であるのは、前回述べた通りです。私はリアルタイムでこの当時の洋楽を経験しましたが、ちょっとオーバーな言い方かもしれませんけれども、洋楽紹介番組などでは(そんなにありませんでしたが)、彼女に触れない時の方が少なかったのではないかと言うくらいに至る所で取り上げられていました。「プライベート・ダンサー」でのグラミー賞の受賞、チャリティーソング「ウィ・アー・ザ・ワールド」への参加など、その話題には事欠きませんでした。また映画『マッドマックス』への出演など(観た事ないですが…)、女優としても活躍しています。

次作「Break Every Rule」(86年)も大ヒット。「Typical Male」(上は90年のライヴ)、下の「What You Get Is What You See」などのシングルヒットを生み出します。

前作に引き続き、超豪華なメンツが参加しています。書き切れないので省略しますが・・・上のシングルカットされた2曲を聴いてわかる通り、ダンサンブルなファンクナンバー、ストレートなR&Rと、従来のソウル・R&B的な楽曲とサウンドではありません。これはティナに限った事ではなく、85年にアレサ・フランクリンも「Freeway of Love」で久々にヒットチャートの上位に昇ってきましたが、やはり従来のアレサ的なそれではありませんでした。これを歓迎したか、嘆いたかは人それぞれだったでしょうが、時代がそういう時代だったのです。さらに言えば、ソウル・R&Bと呼ばれるものは共に流行音楽の一つに過ぎないと言う事も出来ます、なので流行りを受けて変化していくのは仕方が無い面もあるのです。ティナに関して言えば、先述の通り、アリーナを満杯に出来るようになりたいと思ってこの音楽的変化を承知で演ったのです。彼女はそれで成功した黒人シンガーの筆頭だったでしょう。しかし、ティナにしろアレサにしろ、その歌は紛うことなきティナ節・アレサ節だったと思います。ソウルミュージックの本質はその辺にあるのではないかと私は思うので、この時代の彼女達の一連のヒット曲を一概に ”昔と変わってしまった・時代に迎合した” と否定するのもどうかと思うのです。

オリジナルアルバムのリリースこそ99年が最後となっていますが、その後も単発での楽曲の発表及びコンサート活動は行ってきました。しかし10年代に入ってからは健康面で数々の問題が生じている様です。

最後に取り上げるのはロバート・パーマーの大ヒット曲「Addicted To Love」(86年)のカヴァー。88年のライヴアルバム「Tina Live in Europe」に収録された本曲は、その後のベスト盤にも収録される彼女の十八番と言っても良い楽曲。ティナは86年のツアーから本曲をレパートリーとしていたそうで、パーマーのオリジナルに勝るとも劣らない名演です。
裸一貫で再出発を始めた時に、アリーナを満杯に出来るように願ったティナですが、「プライベート・ダンサー」での再ブレーク以降はその思いを叶えました。実際ユーチューブで検索するとアリーナでのライヴ動画が山ほど出てきます。しかし、これはあくまで私個人の考えですが、特にティナのようなソウルシンガーに関しては、所謂 ”ハコ” 、ライヴハウス・ある程度までの規模のコンサートホールで聴くのがベストだと思います。ステージのミュージシャンは豆粒ほどにしか見えないアリーナ・ドーム・野外フェスの最後列でも、最近のPA環境の発展により音質はだいぶ向上しており、前列の方と遜色なくなってきていると聞きます。ですが、人間の声に関しては、たとえわずかばかりでもその空気の振動が伝わる範囲で味わう方が良い気がするのです(それも気分的なものでしょうけど…)。
下はロンドンのカムデン・シアター(現ココ・クラブ)におけるライヴ。PV用に撮られた映像というのも勿論ありますが、オーディエンスとの一体感はやはりホールならではのものでしょう。
まだまだそのワイルドかつエネルギッシュな歌声を世界中に届けて欲しいと願うばかりです。

#102 River Deep – Mountain High

前回のテーマであるアル・グリーン「Let’s Stay Together」について、私の世代ではこの人のカヴァーで初めて耳にした人が多いかと思います。

83年11月にリリースされた本曲は、全米チャートにてポップス26位・R&B3位のヒットとなります。当時はよくわかりませんでしたが、それまで公私共に長く続いた彼女の不遇の時代から抜け出すキッカケとなった曲でした。そして翌年、本曲を含むアルバム「Private Dancer」は全米だけでも500万枚を超えるメガヒットとなり、まさしく ”ティナ・ターナーここにあり” 、という見事な復活劇を遂げたのでした。前回の終わりの方で長いキャリアを持ち、現在でも活動中の黒人シンガーを列挙しましたが、「あれ、ティナ・ターナーは?」と思わた方、あなたはするどい。今回から取りあげる為にあえて外したのです。(べ、別に忘れていた訳じゃないんだからね!ご、誤解しないでよね!!)・・・

39年、テネシー州生まれ。セントルイスのクラブに出演していた、後に夫で音楽的パートナーとなるアイク・ターナーの音楽に魅かれ、やがて17歳の時には彼のバンドで歌うようになっていました。60年、上の「A Fool in Love」でシングルデビュー。それまで ”リトル・アンナ” と名乗っていたのを(本名はアンナ・ブロック)、レコードデビュー前にティナへと改名します。アイクが好きなアメリカンコミックで、『ジャングルの女王シーナ(Sheena)』という漫画があり、その主人公の名前にかけたとの事( ”シーナ” と ”ティナ” )。小柄で細身のティナでしたが、そのパワフルな歌はジャングルの女王を想起させるものであり、実際その当時のステージでは、シーナというキャラクターの衣装を身に着けて歌っていたようです。「A Fool in Love」はポップスチャートで27位・R&B2位のヒットとなります。

翌61年、「It’s Gonna Work Out Fine」がポップス14位・R&B2位と、ポップスチャートでTOP20に入るヒットとなり、グラミー賞へもノミネートされました。アイク&ティナ・ターナーは人気・実力ともに世間が認める所となっていきました。初期におけるティナの歌唱スタイルはかなりヒステリックなシャウト(雄たけび?)が印象的です。人によって好き好きは分かれる所ですが、これが彼女本来のスタイルであったのか、それとも『ジャングルの女王シーナ』を意識して、アイクがその様な歌い方を要求したのか、以前は判りませんでした。ちなみに62年に籍を入れる二人ですが、60年のデビュー頃には既にアイクによるティナへの身体的・精神的虐待、所謂DVは始まっていたとの事です。

彼女たちのキャリアにおいて最大のヒットは71年の「Proud Mary」(ポップス4位・R&B5位)です。言うまでもなくジョン・フォガティ作のCCRによる69年の大ヒットナンバー。本曲においてアイク&ティナ・ターナーは初の、そして唯一のグラミー賞を獲得。同年に発売したカーネギー・ホールでのコンサートを収録したライヴアルバムはミリオンセラーとなります。73年には彼女たちのアルバムとしては最大のヒットとなる「Nutbush City Limits」(ポップス22位・R&B11位)をリリース。アイク&ティナ・ターナーとしてはこの頃が黄金期がであったと言えるでしょう。

アイク&ティナ・ターナーの楽曲の中で、私がベストトラックと思うのが上の「River Deep –Mountain High」(66年)。フィル・スペクターによるこの名曲は、本国ではレコード会社のプロモーション不足などもあり(フィルはこれに対しかなり怒ったらしい)、ポップスチャートで88位、R&Bチャートにいたっては圏外と振るいませんでした。しかし米以外のヨーロッパ各国や豪においては、全英チャートの3位をはじめとして大ヒットを記録します。
今回調べている中で、ティナの自伝にて本曲のレコーディング時の事が記されている事を知りました。はじめはフィルの ”変人” ぶりに面食らったティナでしたが、やがて曲の素晴らしさ、フィルの創作の進め方に関心していったそうです。ティナはいつものようにアドリブでシャウトを入れましたが、フィルにそれをたしなめられます、”メロディを素直に歌ってくれ”、と。ティナの歌唱スタイルについては先述しましたが、どうやらそれはアイクに叩きこまれたスタイルだったようなのです。フィルはティナに言いました、「僕は君のシャウトに対してではなく、声に惚れ込んだ。だから君とレコーディングがしたかったのだ。
」、と。そうしてこの傑作は完成します。フィル・スペクターが手掛けた数多の作品の中でも、「Be My Baby」などと並び、所謂 ”ウォール・オブ・サウンド(フィル・スペクター・サウンド)” を象徴する、彼のベストワークの一つと称えられています。

70年代半ばから、アイクのコカイン中毒と暴力がますます深刻化し、さらにデュオの人気は低迷、長らく続いた法廷闘争などの末、78年に正式に離婚が成立しました。音楽的パートナーシップも解消し、彼女はソロの道を歩み始めます。続きはまた次回にて。

#101 Let’s Stay Together

昨年の間、長々と書き垂れてきた80年代特集の中で、ブルーアイドソウルという単語をしばしば用いましたが(ブルーアイドソウルの意味については#56のホール&オーツ回で触れましたので、よろしければそちらをご参照の程)、ではブルーアイドではないソウル、本物の、黒人によるソウルミュージックって何?と問われると、意外に答えに戸惑うかもしれません。黒人が演る音楽は全てソウルなのか?R&Bとソウルは何が違うのか?ゴスペルは?ファンクと呼ばれるブラックミュージックもあるよね?と、様々な疑問が湧いて出てきます。結論から言うと、明確な定義付けなどありません。クラシックの様に音楽用語全てが厳密に定められているのとは異なり、ポピュラー音楽ではこれらは曖昧なのです。以上 ( ・`ω・´) キリッ!
・・・・・・・・・・・・・・あっ、( ;゚д゚) … これでは、このブログが終わってしまうので …
お願いです、もうちょっとだけ続けさせてください ……… 。゚・(´;ω;`)・゚。
という訳で、しばらくの間、ソウルに代表されるブラックミュージックを取り上げていきます。

白状しますと、私も英米の白人によるロック・ポップスをメインで聴いていたので、黒人音楽を偉そうに語るほどの知識があるかどうかは疑問なのですが、自分にとっての再確認の意味も込めて書いていきます。誰にしようかと思いましたが、何となく真っ先に浮かんだのがこの人・この曲でした。71年の大ヒット、アル・グリーン「Let’s Stay Together」。ポップスチャートとR&Bチャートにて全米1位を記録した本曲は、マーヴィン・ゲイの「What’s Going on」などと共に、70年代におけるソウルミュージックを代表する楽曲です。

 

 

 


46年、アーカンソー州生まれ。10人兄弟の6番目の子供であり、幼少期は兄弟でゴスペルを歌っていたそうです。しかし、彼の音楽的興味はジャッキー・ウィルソン(サム・クックなどと並びソウルの開祖とされるシンガー)、ウィルソン・ピケットやエルヴィス・プレスリーなどへと移っていったようです。彼の父親的にはそれはお行儀の良くない音楽だったらしく、アルは兄弟で組んでいたゴスペルグループを追い出されたとの事。

67年にマイナーレーベルからアルバム1枚を出した後、ハイ・レーベルへ移籍。2枚のアルバムをリリースし、やがて71年に前述した「Let’s Stay Together」の大ヒットへと相成る訳ですが、上はその一つ前のシングルであり最初にゴールドディスクを獲得したヒット曲「Tired of Being Alone」(71年、ポップス11位・R&B7位)。アル・グリーンと言えば、一般的には甘く囁くように歌いあげるヴォーカルスタイルが特徴と思われているのですが(私も昔はそう思っていました)、本曲が収録されている「Al Green Gets Next to You」(71年)迄は結構違っていました。先述の通りウィルソン・ピケット、エルヴィス・プレスリー、そしてジェームス・ブラウンを好み、初期の歌唱スタイルは彼らに影響を受けたものだったようです。ハイ・レーベルへ移ってから、アルのソフトな歌声にセールスポイントを見出したマネージメントサイドが、徐々に変えるようにアルへ促していったと言われています。
シングル「Let’s Stay Together」の世界的ヒット、翌年に発表した同名アルバムも大ヒットを記録(ポップス8位・R&B1位)。本作においてソフト路線はさらに極まり、アル=ソフトなラブソングシンガーというイメージが定着したようです。これがアルが本当に望んだ事だったのかどうかは測りかねる事ですが、それまでソウル界において、男性のセックスシンボル的存在であり、愛や性について歌ってきたマーヴィン・ゲイが「ホワッツ・ゴーイン・オン」で社会派なメッセージを発し、スティーヴィー・ワンダーは成人してモータウンの言いなりにはならずに独自の音世界を構築し始め、そしてダニー・ハサウェイやカーティス・メイフィールド達によって ”ニュー・ソウル” と呼ばれる、それまでとは異なるソウルミュージックが創り上げられました。これらは勿論素晴らしいものであり、私も大好きなミュージシャン達ですが、世間一般には ”難しい” ものとして受け取られるという側面もありました。あのセクシーなマーヴィンが、可愛い天才シンガー リトル・スティーヴィーが変わってしまったと。悪い言い方をすれば、アルはその隙間を突いた様な形となったのです(アルの本望であったかどうか疑わしいのは先述の通り)、特に社会的メッセージを歌うようになったマーヴィン・ゲイに代わるセックスシンボル的存在として祭り上げられていったようです。上のアルバムにおける右側「Al Green’s Greatest Hits」(75年)のジャケットを見ればわかる通り、上半身裸のアルの姿がそれを象徴しています。ちなみに本ベスト盤がアルにとって最も売れた作品でした(ダブルプラチナ)。

次作「I’m Still in Love with You」(72年)は前作を上回る大ヒットを記録(ポップス4位・R&B1位、プラチナアルバムに認定)。上はそのタイトルトラック(ポップス3位・R&B1位)。アルはハイ・レーベルの看板シンガー、というよりも70年代ソウルを代表する存在へと成っていきました。

さらにソフト路線を推し進めたアルバム「Call Me」(73年、ポップス10位・R&B1位)も大ヒット。上記のタイトル曲を含む2曲のTOP10ヒットを生み出しました。

ハイ・レーベルに在籍した69年から78年の間にオリジナルアルバム12枚とベスト盤2枚をリリースしています。シングルカットされた枚数は、数えるのを止めました…(物好きな人は数えてみてください。英語版のウィキに載ってます)。ちょっと異常とも言えるペースです。如何にアルの人気が凄かったか(レコード会社がアルに依存していたか)という証拠です。

アルだけに限った事ではなく、70年代半ばからソウルミュージックの人気には陰りが見え始めました。世間の興味はディスコミュージックなどの新しい音楽へと移っていったのです。78年のアルバムを最後にアルはポップス・エンターテインメント界を離れ、ゴスペルシンガーとしての道を歩み始めます。74年にガールフレンドとの間にトラブルが起きた末、彼女が自殺してしまった事が彼へ転身を決意させたと言われています。勿論それが大きな要因だったのでしょうが、自身を含めたソウルミュージック界の低迷、あまりにも忙しすぎたそれまでの約10年間など、諸々の事が複合的に絡み合って彼に決意させたのではなかったのでしょうか。

80年代後半、アルはショービズ界へ戻ってきます。前回の中でも触れたユーリズミックス アン・レノックスとのデュエット「Put a Little Love in Your Heart」(88年)は、アルとしては74年以来の全米TOP10ヒットとなりました。03年からはジャズの名門ブルーノート・レーベルへ移籍し、3枚のアルバムをリリースしました。昨18年にはカヴァー曲ですが、アマゾンミュージックオリジナルとしてレコーディングしています。アレサ・フランクリン亡き現在、ブラックミュージック界のシンガーで現役最古参として活動している一人でしょう(72歳)。あとはディオンヌ・ワーウィック(78歳)、ダイアナ・ロス(74歳)、スティーヴィー・ワンダーは意外にまだ若く68歳です、何しろデビューが12歳でしたから。ロバータ・フラック(81歳)がいますが、去年の4月にアポロ・シアターの壇上で体調を崩し、そのままステージを降りてしまい、後に脳卒中であったとマネージメントサイドから発表があったそうです。あとは … 誰がいましたっけね?・・・

特にソウルシンガーはライヴにおいてその真価が発揮される、とよく言われます。確かに同感です。アルのオフィシャルなライヴ盤は81年にリリースされた「Tokyo Live」が唯一のものです。78年6月の中野サンプラザにおけるコンサートを収録した本作は、私も今回初めて聴いたのですが、”素晴らしい” の一言です。アルを甘くソフトなラブソングシンガーと認識していた昔の自分が恥ずかしい。まるでジェームス・ブラウンやオーティス・レディング張りのシャウトがさく裂し、エネルギッシュな歌声と抑制の効いたそれによる緩急の付け方は見事。これが本来におけるアルの姿であったのではないかと考えてしまいます。
最後にご紹介するのはやはり生演奏。あまりにも有名な米における音楽番組『ソウル・トレイン』に出演した際のもので、74年のシングルヒット「Sha-La-La (Make Me Happy)」。喉が若干本調子ではない様な気もしますが、そんな事は些末に思えてしまう程伸び伸びと歌うアルの姿が素晴らしい。