#114 Kiss

アヴェレージ・ホワイト・バンドとタワー・オブ・パワーを続けて取り上げてきましたが、
彼らの音楽において基礎的部分を担っているのがファンクミュージックである事は
間違いありません。ファンクと言えば、ジェイムズ・ブラウンやスライ&ザ・ファミリー・ストーンが
真っ先に思い浮かぶ方が多いのではないかと思われますが、私にとってはこの曲です。

プリンスによる86年のNo.1ヒット「Kiss」。プリンスは昨年のはじめに80年代特集の皮切りとして
取り上げましたが(#49~#51ご参照)、これ程までに才能の塊の様な天才的ミュージシャンは
何度触れても触れ足りないほどですので再度取り上げます。
本曲が収録されているアルバム「Parade」及びその時期のプリンスの音楽性については、#51で
多少なりとも既述ですので重複は避けますが、ファンク・ロック・ポップスといった枠には収まり切らなく
なっていった、転換点とでも呼ぶべき作品です。

#51でも書いたことですが、これは86年時点におけるプリンスなりのアメリカンミュージック集大成的作品
ではないかと私は思っています。「Kiss」はその中の一音楽、端的に言うとジェイムズ・ブラウンを

米音楽における重要な構成要素として織り込んだ楽曲です。
前回までのデヴィッド・ガリバルディも少年期にジェイムズのステージを観て、その後のミュージシャン
人生に多大な影響を及ぼされた人である事は述べましたが、プリンスも同様です。というよりも、
60年代以降、ジェイムズに直接、或いは間接的に影響を受けなかったミュージシャンは、ビートルズに
おけるそれと同様に、存在しないのではないでしょうか。

「Kiss」は上のジェイムズによる大ヒットナンバー「Papa’s Got A Brand New Bag
(パパのニュー・バッグ)」を良く言えばリスペクト、悪く言えば模倣した楽曲です。実はこの曲、
元はプリンスファミリーの為に書かれた楽曲であり、当初は全く違うアレンジであり、
しかもエンジニアであった人物がある程度仕上げた段階のものを、プリンスが一方的に手を加え
(この段階で「パパのニュー・バッグ」的なギターカッティングを加えるなどしてジェイムズのように
仕上げ直したらしい)、しかも『やはりこれは自分の曲にする』と言い放ったそうです。
工エエェェ(´゚д゚`)ェェエエ工 周囲の人間はたまったもんじゃないでしょう …………
しかし天才とはそういうものなのです。個人的に付き合いたくはないですが、絶対に・・・
クロスオーヴァー(フュージョン)の16ビートと混同してしまいがちですが、ファンクのそれは
元来とてもシンプルなものです。「Kiss」はムダな音を極限まで排除した楽曲、とよく言われます。
確かにその通りで、本質だけを見事に切り取ったものでしょう。ジェイムズとプリンスの歌唱スタイルが
似ているとは決して言えませんが、プリンスはファンクが持つ、人間を根源的に踊り揺さぶらせる様な
ファンクビートのエッセンスを抽出し、この曲を創り上げました。そしてそのお手本となったのが
やはり彼をおいては他ならない、ジェイムズ・ブラウンその人だったのではないでしょうか。

前述の通り、黒いの白いの問わず、アメリカ音楽総まとめの様なアルバムであったので、ファンク・
R&Bなどに限らず様々な要素が盛り込まれています。上のオープニングナンバー「Christopher Tracy’s Parade」は、華やかな幕開けの様に始まったと思いきや、途中からおかしくなっていきます・・・
前作「Around the World in a Day」(85年)の流れを汲んで「サージェント・ペパーズ」的な
サイケデリックカラーを漂わせ、これが評論家達曰くヨーロッパ風になっていったと言わしめて
いるのでしょうが、私は「サージェント・ペパーズ」よりもブライアン・ウィルソンの「スマイル」を
イメージした創った様な気がします。
なので、本作は20世紀以降のアメリカ音楽、レナード・バーンスタイン、ジョージ・ガーシュウィン、
映画及びミュージカル音楽、デューク・エリントンなどのジャズ、勿論ファンク・R&R・ソウル、
その他諸々のポップミュージックがごった煮になっている状態です。その中で私がある意味
一番面白いと思うのが次のナンバー。

B面トップを飾るナンバー「Mountains」。フックのパートはプリンスらしいキモい(ホメ言葉です)
歌い方になるのですが、それより前は楽曲・歌共に誰かっぽくないですか? そうです、言うまでもなく
マイケル・ジャクソンです。同じ歳でよく比較され、CBSのマイケル、ワーナーのプリンスと対立軸に
されてしまった二人。マイケルファンには先に謝っときますが、音楽的才能はプリンスの圧勝だと思って
います、あくまで私見ですよ! ε=ε=ε=ε= (#゚Д゚)( °∀ °c彡)ヽ( ・∀・)ノ┌┛・・・
 (((((゚Å゚;)))))
本曲をマイケル&クインシー・ジョーンズへのからかいと見なす事も出来なくはないのですが、
人間性はともかく・・・プリンスという人は音楽に関しては真摯な人物であったらしいので、
やはりこの曲は80年代初頭からのマイケル&クインシー達によるダンサンブルファンクを
認めた上でのセレクションだったのではないかと思います。プリンス本人もデビュー当時は
ダンサンブルなファンクナンバーを得意としていましたし。

アメリカンポップミュージックにおいて、大変重要な意義を持つ音楽がまだあります。上の
「Anotherloverholenyohead」を聴いて『何かに似ている…』、と思われる洋楽ファンは
私だけでしょうか?その ”何か” は言わずと知れたスティーヴィー・ワンダー、更に言えば
スティーヴィーを含めたニューソウルと呼ばれるもの。マーヴィン・ゲイ、ダニー・ハサウェイ達と
共に70年代以降、新時代のソウルミュージックを切り開きました。
タイプは違いますが、米音楽界における天才であるこの二人は、お互いを尊敬し合っており、
互いのステージにゲスト、ともすれば飛び入りで出ることもあったとか。
16年にプリンスが急逝した際には、スティーヴィーはいち早く追悼のコメントを発表しました。

プリンスはこの後も素晴らしい、かつ問題作?とも言われる作品を発表し続けます。またワーナーとの
確執などもあり、そのミュージシャン人生は波乱に満ちたものでした。
また折に触れ、プリンスは取り上げて行きたいと思いますが、今回はこの辺で。

#113 David Garibaldi_3

デヴィッド・ガリバルディ特集の3回目、今回が最後です。
https://youtu.be/GkqXd2kQPjs
ガリバルディのグリップは映像を観る限りではマッチドグリップ(左右が同じ握り方)ですが、
本人の弁によると74年頃までにおいてはレギュラーグリップで、またフットペダルの
奏法についてもヒールダウン(踵を付けたまま足首の動きだけでペダルを踏む)を用いていたと
語っており、つまり昔ながらのジャズドラマー的スタイルでした。75年頃からマッチド、
そして足も踵を上げて足全体で踏み込むヒールアップを使用するようになったそうです。
細かいニュアンスはレギュラーグリップ、パワーを出したいならマッチドグリップが
向いているとよく言われます。確かに一般的にはそうであるとは思います。思いますが・・・
ガリバルディをはじめ、ジェフ・ポーカロ、ビル・ブラッフォード(#20~21)、そして神保彰さんなど
マッチドグリップの使い手を観ていると、とてもマッチドが細かいニュアンスを付けるのに
不向きなどとは思いません。逆にレギュラーはパワーが出ないからロックは出来ない、などと言う人は
スチュワート・コープランド(#94~95)
のプレイを観た方が良いでしょう。要はそのプレイヤー
次第なのです。上は教則ビデオ「タワー・オブ・グルーヴ」に収録の「Escape From Oakland」。
左手のプレイを視覚的に十分確認する事が出来ます。それにしても「Back to Oakland」に対して「Escape From Oakland」とは皮肉が効いています。もっとも本編では苦笑まじりに
『いや、オークランドはイイ所だけどね・・・』とフォローしていますが…

タワー・オブ・パワー時代のセッティングはスリンガーランドのセットで、ベースドラム20インチ、
タム12インチ、フロアタム14インチという小口径の所謂3点セット。スネアはラディックの
定番スティール(ステンレス)シェルで浅胴と深胴の二種類を使っていたとの事。「Back to Oakland」
制作時辺りから裏面ヘッドを外すようになったと述べており、打面側にテープでミュートをし、とにかく
タイトなサウンドを、目指したのはジェームス・ブラウン(のドラマー)だったと語っています。
上は73年、ソウルトレイン出演時の模様。あまり映りませんが、裏面ヘッドを外しグリップは
レギュラーグリップを用いているのが確認出来ます。ユーチューブで ”tower of power live” にて
検索するとこれ以外にも若干ですが70年代の映像が出てきます。30分超の画質音質共にこの時代と
しては良好な、やはり73年のライヴ映像も上がってますので興味がある人は。
80年代以降はヤマハドラムスのエンドーサーとなり、シンバルに関してはパイステ、比較的最近の
映像を観るとセイビアンを使用している様です。

タワー・オブ・パワーを離れてからはセッションワークをこなすようになります。上はその内の一つ。
ドゥービー・ブラザーズ トム・ジョンストンのソロ作「Everything You’ve Heard Is True」(79年)に収録されている「I Can Count On You」。タワー・オブ・パワーにおける様な手数の多いプレイでは
流石にありませんが、ツボを押さえた16ビートファンクグルーヴは彼ならではのもの。
しかしガリバルディはそのままセッションドラマーとして、例えば同じウェストコーストでも
ジェフ・ポーカロやハーヴィー・メイスンといったプレイヤーの様には多くのセッションワークを
残す事はありませんでした。本人曰く、『ポーカロ達の様なドラマーは ”unique vibe” ( ”独特の雰囲気”
みたいな意味かな?と私は思います)を持っていながら、それをOFFにする事も出来る。自分には
それが出来なかった』、と語っています。個性が強すぎるプレイスタイル故に、セッションドラマーと
しては大成出来なかった、また本人にもそこまでして仕事をこなそうという意識もなかったようです。

こうして90年代後半までは、地道なライブ活動や音楽学校での指導に就きます。教則ビデオの制作も
この時期です。そして98年、古巣タワー・オブ・パワーへ復帰します。これ以降の映像はユーチューブで
かなり上がっていますので容易に観ることが出来ます。
しかし、一昨年17年1月に信じられない様なニュースがありました。ガリバルディが列車にはねられた
というものでした。その後詳細が判り、路面電車との事故であったとのことで、バンドメンバーである
もう一人もはねられたそうです。ガリバルディは手術を受けるほどの怪我ではなかったそうですが、
もう一人は一時意識が無い状態だったそうです。インターネットでそのニュースを読んだ時は、
驚きましたが、どうやら演奏に支障が出るような怪我ではなかったようで、18年のライヴ動画を
幾つか確認すると、ちゃんとガリバルディが叩いています。ヨカッタ・・・(*´∀`*)
ベーシストのロッコ・プレスティアは10年代前半辺りから体調不良により、演奏に参加出来ない事が
多いそうです(ちなみに列車事故に遭ったのは代役のベーシスト)。再び二人による鉄壁のリズム
セクションを聴く事が出来るのを願って止みません。

最後にガリバルディとロッコがプレイしている映像を観ながら。98年に催された『Bass Day 1998』に
おける「Oakland Stroke」。ロッコのステージにガリバルディがゲスト参加した際のものです。
タワー・オブ・パワーのステージでは後ろに隠れてしまう二人ですが、この様にフィーチャーされた
映像は極レアです。こういうのを本当の音楽と言うのです。

#112 David Garibaldi_2

デヴィッド・ガリバルディのプレイにおける特徴としてよく挙げられる点として、パラディドルを
用いたリズムパターンと変則的なビートがあります。この二点は密接に結びついている、
というよりも、ある種不可分のものであるとも言えます。
パラディドルは変形の手順、右左を交互に叩くオルタネイトスティッキング(シングルストローク)
ではなく、シングルとダブルストロークを組み合わせたものと理解すれば良いかと思います。
代表的なものには右左右右左右左左などがあります。彼の教則ビデオ「Tower of Groove」でも、
序盤でこれをそのまま用いたリズムパターンを実演しています。右手ハイハット・左手スネアで
2・4拍のスネアにアクセントを付ける、口で言えば『チタチチチタタチタチチチタタ』という感じ。

 

 

 


私の英語力が拙いせいもあって、説明の内容は断言できませんが、彼が念を押して言っているのは
次の二つだと思われます。①アクセントとノーアクセントをはっきり叩き分ける②スネアとハイハットの
音色を近づける。
強弱の差をきちんと付ける、これは基本的な事です。大きい音はより大きく、小さい音はより小さく、
どの楽器においてもダイナミクスというものは大事なことです。次のスネアとハイハットの音色、
これはスネアにおけるチューニングと密接なつながりがあります。ここでのスネアはノーアクセントの
ショットを指すと思われますが、前回も触れたゴーストノート、主にスネアで叩かれるものですが、
ハイハットの『チッ』という音色に近いサウンドがこの場合は求められます。スティーヴ・ガッドも
同じことを言っており、比較的高いピッチの軽いスネアショットとハイハット(手で叩くのと
足で踏んで鳴らす場合の両方)の音色を出来るだけ近づけるようにしていると語っていた記憶があります。
この二つのサウンドはブレンドし易く、それがフュージョン・ファンクの16ビート、及び勿論ジャズの
4ビートにおいても、相似的な音色の連なりがグルーヴを生み出すとして必要とされているのでしょう。
これは全てがフルショットを必要とされるヘヴィメタル・ハードロックでは機能しないものです。例外的な
人もいますが、それらの音楽では『ズダーン』といったド迫力の重いスネアサウンドが求められます。
これはどちらが良い悪いではなく、音楽的ニーズから来る音色の差です。

もう一点である変則的なビート。やや乱暴に言ってしまえば2・4拍のスネアによるバックビートが
必ずしもないリズム、と言い替えても良いかと思います。1st・2ndアルバムでもその様なリズムは
若干ありましたが、大々的に取り入れられたのは三作目から。前々回取り上げた「Oakland Stroke」や、
上の「Soul Vaccination」にてそれは完成したと言えます。彼はこのアイデアをラテンミュージックの
ドラムから得たと語っています。ラテンも基本的には2・4拍にアクセントがあるアフタービートの
音楽ですが、ロックの様に強烈なものではなく、またそのリズムはシンコペーション、裏拍を強調した
ものであるため、流動的とも言えるビートです。所謂ロックは ”タテノリ” 、ジャズ・ラテンは
”ヨコノリ” と呼ばれるものです。
この変則的ビートは先述のパラディドルを用いる事でより緻密かつグルーヴ感溢れるものになります。
何よりガリバルディのプレイにおいて重要なのは、ただいたずらに複雑なリズムにしている訳では
無いという点です。所謂手クセ・足クセで演奏するのではなく、タワー・オブ・パワーにおいては
ホーンセクションのソリ(ホーン隊がユニゾンで吹くフレーズ)に合わせ、計算されたフレージングで
あるのです。よく聴くと、スネアのアクセントがホーンのソリと合わせていたり、また掛け合いの様に
なっていたりします。

タワー・オブ・パワーにおけるガリバルディのプレイを語る上で、欠かす事が出来ないのはベーシスト
フランシス・ロッコ・プレスティアの存在です。所謂チョッパー(スラップ)などの派手なテクニックは
使わず、基本的に指弾きで正確無比かつ怒涛の様な16ビートを敷き詰めるそのスタイルはある意味
圧倒的であり、同時代におけるスラップベース生みの親であるラリー・グラハムとは対照的です。
しかしベーシストからはグラハムと遜色ないほど、現在においても尊敬を受け続けているプレイヤーの
一人だと言わています。名盤「Back to Oakland」の制作時には、ガリバルディやロッコ達の
リズム隊はジャムセッションにかなりの時間を費やしたと語っており、「Oakland Stroke」などは
その過程から生まれたそうです。5thアルバム「Urban Renewal」に収録されている
上の「Only So Much Oil In The Ground」は、ロッコ、ガリバルディ、そしてホーン隊による
スピード感に溢れながら、
なおかつ一糸乱れぬ16ビートプレイが堪能出来る快演です。

13年の暮れに「Hipper Than Hip」というライヴ盤が発売されます。74年にラジオ番組用として
収録された音源が40年近くの時を経て作品となり日の目を見ました。ほぼ同時期に山下達郎さんと
ピーター・バラカンさんがラジオで取り上げ、バラカンさんは ”何故これが40年もお蔵入りに?” と、
達郎さんは ”本当の音楽っていうのはこういうのを言うんですよ…” と語っていました。
絶頂期のバンドを収めた見事過ぎるアルバムです。前々回も取り上げた名曲「Squib Cakes」も
演奏されていますが、『ライヴでこれかよ!!!』と叫んでしまう様なクオリティーの名演です、
いや、むしろライヴならではの名演、といった方が適切でしょうか。
ちなみに米におけるドラム&パーカッション専門誌 モダンドラマーにおいて、「Back to Oakland」は
ドラマーが聴くべき最も重要なアルバムの一つと認定されている事を付記しておきます。

ガリバルディは70年代後半からバンドと距離を取り始め、80年には完全に一度袂を分かちます。
理由はバンド内におけるドラッグの蔓延。これが彼には我慢出来なかったとの事です。
良い子のみんなはマネしちゃダメだぞ!☆(ゝω・)v  ・・・・・・ しねえよ!(._+ )☆\(ー.ーメ)
☆(ゝω・)v ダメだよ、真似しちゃ!〇エー〇た … やかましい!( °∀ °c彡))Д´)・・・・・
マネはダメヨ!☆(ゝω・)v 三〇〇子さんの次男 … いい加減にしろ!ヽ( ・∀・)ノ┌┛Σ(ノ;`Д´)ノ

デヴィッド・ガリバルディ特集はまだ続きます。

#111 David Garibaldi

デヴィッド・ガリバルディ。この名前を聞いてピンと来る人は、洋楽に通じている人でも
そう多くないのではないかと思います。
日本が世界に誇るドラマー 神保彰さん。圧倒的なテクニックと、エレクトリックドラムなどの
ツールを使って常に新しいプレイを追及し続ける神保さんが、昔ドラムマガジン誌上にて
影響を受けたドラマーは?と尋ねられ、その時に挙げたのがスティーヴ・ガッド、ハーヴィー・メイソン、
そしてデヴィッド・ガリバルディだった記憶があります。
70年代フュージョンシーンを担ったガッドとメイソンは、ドラムを演ってない音楽ファンでも
その名前くらいは聞いた事があるかもしれませんが、ガリバルディというと『誰?』、となるのでは
ないでしょうか。


 

46年、オークランド生まれ。10歳でドラムを始め、17歳からプロとして活動し始めましたが、
66年、つまり二十歳の時にベトナム戦争へ徴兵されます。空軍の軍楽隊に所属していたそうです。
除隊してから帰郷して70年7月にタワー・オブ・パワーへ加入します。9月から11月までレコーディングを
行い、そうして出来上がった1stアルバム「East Bay Grease」をその年のうちにリリースします。

前回既に述べた事ですので重複は避けますが、フィルモア・ウェスト/イーストの設立者 ビル・グレアムが立ち上げたばかりのレーベルから本作は発売されました。二作目以降のワーナーと比べれば録音環境は
劣っていたのでしょう。ドラムの音などは殆ど生音ですが、それが却ってガリバルディのプレイを
生々しく忠実に伝えてくれています。
オープニングナンバーである「Knock Yourself Out」。ガリバルディは17歳の時にサンノゼ公会堂で
ジェームス・ブラウンのステージを観て衝撃を受けたそうです。午後の早い時間に会場へ行くと
バンドがリハーサルを演っていて、間近でそれを観ることが出来たとの事(大らかな時代だったんですね)。
彼のファンクミュージックへの興味はこの辺りから湧いてきたようです。

ガリバルディのプレイにおける特徴であるスネアのゴーストノートや16分裏の強調はこの時点で既に
完成されています。ジェフ・ポーカロ回(#63~#66)でもゴーストノートについては触れましたが、
2・4拍で強く叩くスネアショットとは別に、ごく小さな音量でプレイされるスネアショットを
こう呼びます。このゴーストノートがある事によって独特なグルーヴ感が生まれ、特にファンクなどの
16ビートドラミングには欠かす事が出来ません。本作からもう一曲「The Price」。16分裏のリズムが、特にベースドラムによって強調されているナンバー。口で言えば『ッド・・・』という感じ。

二作目である「Bump City」は、前作にあった怒涛の様なファンク色はやや薄れています。ただし
良い意味で洗練され、音質も向上しています。大レコード会社ワーナーへの移籍に因るもので
あるのは言うまでもないでしょう。それに伴いガリバルディのプレイも、1stにあったようなゴリゴリの
16ビートドラミングは少し鳴りを潜めていますが、その本質は基本的に変わっていないものと私は
思っています。上はシャッフルビートの曲「Flash in the Pan」。シャッフルについては、これまた
ジェフ・ポーカロ回で述べていますが、『タッタタッタタッタタッタ・・・』と所謂 ”ハネる” リズム。
本曲では ”タッ” の裏拍に左手でハイハットやスネアを叩く事でよりオフビートを強調しています。
これは割と古いスタイルのブルース・R&Bのドラミングによくあったプレイスタイルですが、
ガリバルディがプレイすると古さなど微塵も感じさせず、彼のドラミングになってしまいます。
先達の技を踏襲しながら、その上で自身なりの新しいスタイルを築く、まさしく温故知新です。

https://youtu.be/ZbfU2ZYb3NI
私見ですが、インストゥルメンタルと ”歌もの” の演奏は別、との意見が散見されますけれども、
共感出来る部分も無くはないのですが、基本的に根っこは同じだと私は思っています。そして一流の
プレイヤーは例外なくどちらも巧い。上は初期におけるバラードの傑作「You’re Still A Young Man」。
歌ごころあふれるガリバルディのバッキングプレイが堪能できます。二代目ヴォーカリスト
リック・スティーブンスの名唱が見事。一昨年惜しくも他界してしまいました、合掌。

93年にVHSビデオで発売された「Tower of Groove」。ガリバルディ自身が自らのプレイに
ついて実演しながら解説し、バンドとのスタジオライヴを交えてその素晴らしいグルーヴを披露して
くれています。VOL1・2がありますが、DVDでは一枚にまとめられています。現在は
ユーチューブで観れてしまいます。上はその中の一曲「Lakeside Shuffle」。タイトルは
シャッフルですが、ただのシャッフルでは終わらぬ一筋縄ではない楽曲。四分の四のシャッフルと、
八分の六拍子のアフリカンビートが交錯する所謂ポリリズム。途中でジャズのスウィングの
パートもあり、ガリバルディとしては珍しい4ビートプレイを観ることが出来ます。
本編ではこの演奏の後に本曲のプレイについて解説していますので興味のある方は。もっとも
英語ですから何を言っているか私には断片的にしか判りませんが …
一点だけ気になったのは、4ビートのパートで、シンバルレガート(チーンチッチ・チーンチッチと
いったジャズの基本的なリズムをトップシンバルでプレイする事)の際に、裏拍にアクセントが
付いている箇所がかなりある事。口で言えば ”チーンチッ・チーンチッ・チッチーン・チーンチッ
の様な感じ。エルヴィン・ジョーンズなどもこういったレガートをよくしましたが、これは裏拍を
強調し、よりリズムをドライヴさせる効果があります。おそらくエルヴィンにしろガリバルディにしろ、
自然とそうなったのだと思いますが。

余談ですがその昔DCⅠビデオは非常に高価で、七・八千円から一万円以上しました。おいそれと手が
出るものではなかったです。その点日本の、リットーミュージックの教則ビデオなどは良心的で、
ものによっては三千円台で買えました。リットーミュージックさんお世話になりました。
えっ? (*゚▽゚) ナニ
のビデオでお世話になったって …( °∀ °c彡))Д´)( °∀ °c彡))Д´)( °∀ °c彡))Д´)

当然一回では書き切れないので次回以降へ続きます。一字一句を惜しんで少しでもガリバルディの
魅力をより多くの方たちへ伝えていく所存であります! (`・ω・´)キリッ ・・・・・・・・・・・・・・
だったら上みたいなくだらねえこと書いてんじゃねえよ!!!ヽ( ・∀・)ノ┌┛Σ(ノ;`Д´)ノ

#110 Back to Oakland

スティーヴ・フェローンが在籍したアヴェレージ・ホワイト・バンドを聴いていると、
どうしてもあるバンドを思い出し、また比較してしまいます。鉄壁のリズムセクション、
ソリッドなブラス隊、そしてソウルフルなヴォーカル、これでもか!というファンクグルーヴを
繰り出すそのバンドの名はタワー・オブ・パワー。カリフォルニア州オークランドで結成された
彼らの音楽は、それを指してオークランドスタイルファンクと呼ばれる一ジャンルとして語られる程、
ポップミュージック界において、特に同業者達へ影響を与えました。

 

 

 


#85のヒューイ・ルイス&ザ・ニュース回において彼らに触れ、いつか必ず取り上げますと
述べましたが、思ったよりも早く書くことが出来ました。

バンドの出発点は68年に創設メンバーであるエミリオ・カスティロとステファン・カップカが
出会った所から始まります。ただしこのバンドはメンバーが多く、またその変遷も激しい為、
それらについては割愛します。興味がある人はウィキ等で。
当初彼らは『ザ・モータウンズ』と名乗っていた、もしくは周りに勝手に名付けられたらしいです。
カスティロは後のフィルモア・ウェストの前身、フィルモア・オーディトリアムへの出演をオーナーである
ビル・グレアムへ交渉しようとしますが、『ザ・モータウンズ』では彼が出演を認めてくれないと
考え、バンド名の変更を容認するようになります。そうして70年までにはタワー・オブ・パワーという
新しいバンド名が確定し、当時ビル・グレアムが設立して間もないサンフランシスコレーベルから
1stアルバム
「East Bay Grease」をリリースします。
72年にはワーナーへ移籍し、二作目となる「Bump City」を発表。アルバムはR&Bチャートで16位、
シングルもTOP40に入り、徐々に世間への認知度を高めていきます。

73年、3rdアルバム「Tower of Power」をリリース。上はオープニングナンバー「What Is Hip?」。
百聞は一聴に如かず、問答無用のこの曲を聴けば彼らの凄さがわかるはず。

1stシングルである「So Very Hard to Go」は彼らにとって最大のシングルヒットとなりました
(ポップス17位・R&Bチャート11位)。本作はセールス的にバンドにとって最大の成功作と
なりました。ポップスチャートで最高位15位を記録し、ゴールドディスクに認定されます。

74年発表の「Back to Oakland」。セールス的にこそ前作には及びませんでしたが、彼らの
最高傑作と評するリスナーが絶えない名盤です。オープニングとエンディングを飾るナンバー
「Oakland Stroke」。最初は0:53、最後は1:08と短い曲。短くて良いでしょう、
あまりにも凄すぎて、この尺でも十分です。上はUP主が2曲を繋げたらしいですが、
オープニングもフェイドアウトで終わっているのに、境目が全く分かりません。一体どうやって
作ったのでしょうか?・・・・・ナゾの技術・・・才能のムダ・・・・・
(._+ )☆\(―.―メ)そこまでは言われる筋合いはない!
(※と、思っていたのですが、更に調べたところ、昔シングル盤で発売されたことがあったらしいです)

https://youtu.be/CfYy914PXwc
私が思う本作のベストトラックは二曲あるのですが、上はその甲乙付けられない内の一つである
「Can’t You See (You Doin’ Me Wrong)」。あまりごちゃごちゃは言いません、聴いて下さい。

https://youtu.be/RlLVRGb7g7Q
インストゥルメンタルパートが取りざたされる事の多い彼らですが、ヴォーカル曲も秀逸です。
ヴォーカリストは割と入れ替わりが激しいバンドでしたが、黄金期に在籍したのがレニー・ウィリアムズ。
レニーの素晴らしい名唱が堪能出来るのが上の「Just When We Start Makin’ It」。

私にとってもう一つのベストトラックがこれ、「Squib Cakes」。これもあまりごちゃごちゃは
言わないつもりでしたが … 少しだけ言わせて下さい・・・・・・・・・ごちゃごちゃ ……………
(._+ )☆\(―.―メ)言うとおもった!!!
完璧なグルーヴ、ソロプレイヤー各々のアドリブ、ブラスのソリ、どれを取っても超一級品の演奏。
全編に渡って素晴らしいプレイのオンパレードですが、やはり聴き所は4:55からのオルガンと
ギター・ベース・ドラムのリズム隊によるプレイ。途中からはワンコードになり、主役は完全に
ベースとドラム。派手な耳を引くソロプレイではない、リズムの掛け合いであるのに、これ程までに
甘美と言っても過言ではないグルーヴを私は他に知りません。6:02でコードチェンジする部分は、
カタストロフとでも呼ぶべきそれまでのテンション感が一気に弾ける鳥肌モノのパートです。

その後、セールス的にヒットを上げる事はなく低迷していたバンドでしたが、ヒューイ・ルイスの
力添えなどもあり地道に活動を続け、今日まで解散することなく、根強いファン、また同業者達からの
応援を受け続けています。
レコードセールス面だけを見れば、ゴールドディスクが一枚、TOP20入りしたシングルも一枚と、
決して大成功を収めたバンドではありません。インストゥルメンタルの比重が多いので、一般ウケしづらい
のは如何ともし難い所でしょう。卓越したシンガー達が在籍したバンドですので、もっとバラードなどを
フィーチャーした売り方をすれば、ひょっとすると違った結果があったかも
(たらればですけど…)。
しかし彼らは、自分たちの本分はグルーヴを重視したファンクミュージックであるとの自負が
あったのでしょう。そして、その様な姿勢を貫く彼らだからこそ、コアなリスナーや同業者達から常に
尊敬の念を受け続ける事が出来たのではないでしょうか。

一人か二人しかいない読者の中には、ドラマーについて全然書いてないじゃん、と思われた方も
いるかもしれません。…………… いない … かな?・・・・・゜:(つд⊂):゜。。
そうです。タワー・オブ・パワーのドラマー デヴィッド・ガリバルディについては、次からの
テーマとするためにあえて触れませんでした。という訳で次回からはデヴィッド・ガリバルディを
取り上げていきます。

#109 Steve Ferrone_2

私がドラムを始めた80年代半ば、スティーヴ・フェローンはパールドラムスのエンドーサーであり、
彼の姿はカタログに必ず載っていました。



 

 

 

 

最初に金を貯めて購入したドラムセットはラディックであったと述べています。英ジャズロックの草分けで
あるブライアン・オーガーのバンドなどで活動した後、アヴェレージ・ホワイト・バンド(以下AWB)へ
加入する事となります。

前々回でもあげた、75年ソウルトレイン出演時の映像ではグレッチのセットを使用しているのが
確認出来ます。シンバルは確認出来ませんが、その後フェローンが永く使用する事となるセイビアンは
81年の設立なので、この時点ではまだ存在しません、おそらくはジルジャンだと思いますが。
上は同じソウルトレインにおける「Person to Person」。それにしても1:50辺りからの
プレイは本当に素晴らしい・・・

この頃のフェローンのチューニングはスネアがハイピッチで、ベースドラムはローピッチ、つまり
高音から低音までまんべんなく音が出ているという事です。スネアはピッチが高くはあれども、
決してカンカン・パンパンという、ただヘッドをきつく締め上げただけの耳障りな音色ではなく、
高い音ではあるが甘い音でもあります。そしてベースドラムは ”ちゃんと鳴っている音” です。
ロックポップスのドラムにおけるベードラは、ともすれば ”ドッ” ”ボッ” のような、アタック音が
強調される事が多いです。勿論ハチマキを締めた応援団が叩くような大太鼓みたいに ”ドーン” と
いう音では全体的なサウンドにそぐわないのですが、やはり太鼓本来のサスティーン、余韻を
犠牲にしているのも確かです。彼のベードラは ”ドン” と、締まりはあるが、一方でちゃんと
ドラム本来のサスティーンも感じさせる音色です。ベードラの中に毛布を入れてミュートしたり、
フロントヘッド(お客さんから見える方)に穴を空けたり、ベードラはサスティーンを調整するのが
常ですが、フェローンはそれを最小限にしているのではないかと思われます。

チャカ・カーンの1stアルバムから「Some Love」。ロール( ”ザ~~~” と音が繋がって聴こえる
テクニック)に始まり、竹を割ったようなアクセントショットで締める、このスネアだけでシビれます。
ベースはウィル・リー。鉄壁のリズムセクションとはこの様なコンビを言うのでしょう。
70年代半ばにおいて、特にアメリカのファンクバンド、あるいはウェストコーストロックなどの
ドラマーは、裏面のヘッドを外してしまうのがトレンドでした。余韻の無い、乾いた音色を求めていた
ドラマーが多かったようです。それが確認出来る最も有名な映像がイーグルス「ホテル・カルフォルニア」
におけるドン・ヘンリーのドラム。ユーチューブにて『Eagles Hotel California』で検索すると、
多分一番上に出てきますので興味のある方は。しかし米のファンク・ソウルミュージックを追い求めた
AWB及びフェローンでしたが、音色はこれには倣わなかった様でした。ただし、それ以降に同じく
ソウルトレインへ出演した際には、ベードラのフロントヘッドを外していたり(79年)、以前より
大きく穴を空けていたり(80年代初頭)する映像も観られますので、当然ですが時代によって
その音色は変化していったようです。

80年代に入ってから、ドラムスはパール、シンバルはセイビアンというセッティングが定着します。
前回も述べた事ですが、80年代のドラムはゲートリバーブをかけるのが主流となり、フェローンも
それについてはご多分に漏れませんでした。何回か同様の事を書きましたが、ゲートリバーブの音は
生音では絶対に出ないようなド迫力のサウンドを生み出し、80年代の音楽にマッチングしたのは
事実なのですが、逆を言えば皆同じようなサウンドになってしまい、プレイヤー各々の個性が
損なわれたという一面も否定出来ません。
上はこの時代におけるレコーディングの一曲。アル・ジャロウ「L Is for Lover」(86年)に
収録されている「Across the Midnight Sky」。サンバフィールの本曲は、特にハイハットプレイが
印象的です。これまで取り上げてきたドラマーでも、ジェフ・ポーカロやスチュワート・コープランドを
ハイハットワークの名手と紹介してきましたが、フェローンもその名手の一人であると私は考えます。
冒頭の0:48辺りまでが特に聴き所で、チップ(スティックの先)でタイトに叩くノーアクセント、
ショルダー(スティックの ”お腹” に当たる部分)でハイハットの縁を荒々しく叩くアクセントショット
( ”ヂッ” ”ジャッ” といった音色)。左足の開閉によるオープン・クローズ奏法。そしてダブルストローク
(ワンストロークで2回ずつ叩く、右左一回ずつ叩くシングルストロークの中に織り込むと倍の音符を
叩くことが出来る。この場合はシングルで16分、ダブルで32分音符)の絶妙な組み込み方。
是非ヘッドフォーンでお聴きになる事を推奨します。
それにしてもスティックのお腹なのに ”ショルダー” とはこれいかに・・・
(._+ )☆\(―.―メ)うまいこと言ったつもりか!!!

フェローンのグリップはレギュラーグリップ。左右が同じマッチドグリップと異なり、左手が特有の
持ち方をします。彼のグリップの特徴は左手がスティックを逆に持っているという点。細くなっている
チップで叩くのが通常ですが、彼はその逆です。逆側はグリップエンドなどと呼びますが、チップの
様に細くなっておらず、それで叩くと荒々しい、悪く言えば汚い音色になります。理由は明快で、
レギュラーグリップのパワー不足を補う為。画像で検索して頂けるとマッチドとレギュラーグリップの
違いはお分かりになるかと思いますが、レギュラーは打面に対して角度が付いてしまいます。
ドラムは打面に対して並行に叩く方がパワフルなショットが出来るので、その点では不利なグリップです。
それを解消する為、ドラムの左手前を傾けたり、もしくは左肩を下げてプレイする事で打面に対して
並行にショットしたりもします。しかし左肩を常に下げてプレイする事に違和感を覚えたり、打面は
基本的に地面に対して並行にセッティングしたいと思うドラマーは少なくないので、それでも
レギュラーグリップで音量も稼ぎたい、という望みから音色は多少犠牲にしてもパワーが出る
グリップエンドで叩くドラマーが結構存在します。日本では東原力哉さんがその筆頭です。
右はチップ、左はエンドで叩くと音色にバラツキが生じるのではないかと思ってしまいますが、
人間というものは練習次第でそれを克服してしまう様です。フェローンのプレイを
聴く限り、特にその音色に差が出がちなハイハットにおいても、全くそんな事は感じさせません。
うっとりする程きれいなハイハットワークであるのがお分かりになる事かと。

フェローンが来日した際に行ったドラムクリニックを受講した方のブログに記されていたのですが、
そのクリニックでは超絶技巧などは披露せず、シンプルなリズムパターンを何かの歌を
口ずさみながら、ひたすら気持ち良さそうにプレイしていたのが印象的だったそうです。
テクニックが必要無いなどとは絶対に思いませんが、それだけに固執すると木を見て森を見ず、
大事なものを見失ってしまう事もあるのです。フェローンはそれを改めて教えてくれます。
それを肝に銘じながら練習しましょうね! (`・ω・´) ・・・・・・・・ 
オマエモナ (´∀` )

 

#108 Steve Ferrone

久しぶりに本ブログの本文を果たそうと前回の最後に書きましたが、そうなんです … 一応これ、
ドラム教室のブログなんですよ … ほ、本当です、本人が言ってるんですから間違いありません・・・・・


 

 

 

 チャカ・カーン、アヴェレージ・ホワイト・バンドと続いたのですから、当然今回取り上げるドラマーは
この人、スティーヴ・フェローンです。世界でもトップクラスの技術を持ちながら、決してこれ見よがしに
テクのひけらかしなどはせず、あくまで音楽本位。しかしその合間に超絶テクニックが何気なく垣間見え、
またそのフレーズのセンスが絶品なプレイヤー。セッションドラマーなので、当然あらゆるジャンル、
ジャズのスウィングだろうが、難解な変拍子だろうが、そして勿論エイトビートのR&Rでも素晴らしい
プレイを聴かせてくれるのですが、特に彼の真骨頂はファンク・ソウルにおける16ビートドラミングで
あると私は思っています。

50年、イギリス ブライトン生まれ。祖母がピアノを弾き、祖父はダンサーであったとの事。ドラムを
始めたのは12歳と、あるインタビューで語っていますが、別のコメントではなんと同じく12歳の時に、
ビートルズ・ストーンズと並んで英国を代表するバンド ザ・フーの前座を務めたと言っています。
これはいくら何でも辻褄が合いません。私の拙い英語力のせいもあるのですが・・・
最初に影響を受けたのはご多分に漏れずリンゴ・スター。その後、バーナード・パーディに興味を惹かれ、
やがてジャズの世界へ。エルビン・ジョーンズ、アート・ブレイキー、ジャック・ディジョネットなどに
傾倒する一方で、ジョン・ボーナムなどのロックドラマーにも興味を持ったとの事。

幾つかのセッションワークを経た後、彼の名を一躍世間に知らしめる事となったのは、前回取り上げた
アヴェレージ・ホワイト・バンドへの加入でした。前回ご紹介した、ソウルトレイン出演時の
「Cut the Cake」「School Boy Crush」などをお聴き頂ければわかるかと思いますが、
息づかいが感じられるようなグルーヴ、フォルティシモとピアニシモの対比が絶妙なボリュームにおける
強弱の付け方の妙(所謂 ”ダイナミクスレンジ” )、そして言うまでもないフレージングのカッコ良さ。
それら全てが凝縮されていると私が思うプレイが上の「If I Ever Lose This Heaven」。
エンディングにおけるフィルイン、特に4:20辺りの超高速32分音符の ”手手足足” などは圧巻ですが、
それ以外のさり気ない箇所、例えば2:05辺りのスネアショットとハイハットオープンは、
息を吐きだしている、つまりブレスをしているのが手に取るようにわかります。村上 “ポンタ” 秀一さんが『ドラムこそブレス(息つぎ)が大事なんだよ!』と、折に触れ仰っておられたのがよくわかります。
先に述べた32分音符のテクニカルなフレーズも、ただ難しいプレイも織り込んでやろう、という
浅ましい根性ではなく、音楽的に必要なものとして結果的にあのようなプレイなのです。このフィルは
本曲の終盤で演奏される短い四パターンのフィルの内の最後であり、つまり起承転結における ”結”
に相当するフレーズです。音楽的に必要として自然に出たフレーズで、その為に必要な技術を
駆使した迄なのでしょう。彼ほどの超越したプレイヤーになると、別にテクを見せびらかす事など
全く無用であり、全てが ”グッドミュージック・グッドドラミング” なのです。これは一流の
プレイヤー達全てにおいて言えることです。

76年のライヴアルバム「Person To Person」から「T.L.C.」。1stに収録されている本曲は、
初代ドラマーであるロビー・マッキントッシュのプレイと比較して聴くのも一興です。
ライヴなのでかなり長尺ですが、フェローンの16ビートドラミングを存分に堪能出来ます。
勿論バンドのアンサンブル自体そのものも素晴らしい名演です。

https://youtu.be/C-3oR3cGvfU
80年代に入るとフェローンはセッションドラマーとして引っ張りだこになりますが、上はその内の一曲。
前々回でも触れましたが、スティーヴ・ウィンウッドによる86年の大ヒットアルバム「Back in the High Life」に収録されている「Freedom Overspill」。音色はゲートリバーブ全盛だった80年代の音に
なっていますが、そのグルーヴはフェローンならではもの。ちなみにスライドギターはイーグルスの
ジョー・ウォルシュです。
おそらくフェローンの姿がメディアにおいて映っている機会が最も多いのは、エリック・クラプトンの
大ヒット作「アンプラグド」(92年)です。世にアコースティックブームをもたらす先駆けとなった
本作はクラプトン回(#11ご参照)にて既述ですが、至る所で観る事となる本作の映像にてフェローンの
姿を目にする事が出来ます。フェローンがクラプトンに関わるようになったのはアルバムで言うと
89年の「Journeyman」から。80年代後半から90年代前半におけるクラプトンの活動、つまり劇的な
再々ブレークの瞬間に携わった一人です。80年代半ばに引退まで考え、ようやくそれが吹っ切れた矢先に
起きた息子の悲劇的な事故死、しかしその時は麻薬や酒に溺れず、「アンプラグド」であまりにも見事な
再起を遂げ、結果的には自身にとって最大のヒットとなる。その過程にフェローンは居合わせました。

「アンプラグド」直前の作品「24 Nights」(91年)。91年2月5日から3月9日まで24公演(夜)を
行ったので「24ナイツ」という事。実際には前年の1~2月にも18公演を行っていますので都合42公演。
場所はあまりにも有名なロンドンのロイヤル・アルバート・ホール。余談ですがクリームの解散コンサートも
同ホール(68年)、そしてその再結成コンサートも同じく05年に。
「24ナイツ」から一曲、クリームの代表曲である「White Room」。
https://youtu.be/7ScVsf8JZSY
一回でまとめようかと最初は思いましたが、やはり無理の様です。ですので二回に分けます。
次回は奏法・使用機材などについても触れてみたいと思います。

#107 Average White Band

年初からブルーアイドソウルではない、黒人によるブラックミュージック(変な言い方だな … 馬から落ちて落馬、みたいな)を特集していますが、ここで一度ブルーアイドソウルに戻ります(撤回早ッ!Σq|゚Д゚|p)。
前回まで取り上げていた、チャカ・カーンのソロアルバムにて初期から参加していたイギリス勢、
ヘイミッシュ・スチュアートやスティーヴ・フェローン達によるアヴェレージ・ホワイト・バンド。
このタイミングで彼らを取り上げない訳にはいきません。

 

 

 


オリジナルメンバーは全員英国白人、しかもスコットランド人(別にスコットランド差別ではありません)。
スコットランドと言えば、イギリスでも特にケルト文化が色濃く残り、牧歌的な田園風景が残っていて、
時に神秘的な文化・風習が現在でも踏襲されている情景を思い描いてしまいますが、アヴェレージ・
ホワイト・バンドはアメリカのファンク・ソウル・R&Bといった黒人音楽を、ともすれば本場の人間よりも
グルーヴ感に溢れ、かつエネルギッシュに演奏したバンドです。でもこれは完全な偏見ですね、
エディンバラやグラスゴーにも黒人音楽を聴かせる・演奏する場所は当然あったはずですし。まるで、
日本人は今だにチョンマゲ結って、ハラキリしてる、というのと変わりません。

72年にロンドンで結成。それ以前に地元スコットランドで既に演奏していた仲であったらしいのですが、
ロンドンでトラフィック(スティーヴ・ウィンウッドが在籍していたバンド)のコンサートを
観に来た際に再会し、また一緒に演奏するようになったとの事。そして彼らの演奏を聴いた友人の一人が
その時期の彼らを評してこう述べました ”This is too much for the average white man” 、と。
『平均的白人としては過ぎる』。つまり白人とは思えない程、ブラックテイストに溢れたプレイだった、
という意味でしょうか。これがバンド名の由来となったのは言うまでもありません。
バンドの特色はアラン・ゴーリー(b、vo)とヘイミッシュ・スチュアート(g、vo)によるツイン
ヴォーカル、ファンキーかつソウルフルなホーンセクション、そして初代ドラマーであるロビー・
マッキントッシュのファンクフィールに溢れた16ビートドラミングです。ロビーはジャズフルート奏者
ハービー・マンや、あのチャック・ベリーのレコーディングに参加した程の名手でした。
デビューアルバムを73年にMCAレーベルから出した後、バンドに着目したアトランティックの
超大物プロデューサー アリフ・マーディンが、彼らをアメリカへ呼び寄せ、2ndアルバムを制作させます。
それが上の「Pick Up the Pieces」を含む代表作「AWB」(74年)です。
大変語弊のある言い方を敢えてしますが、スコットランドの田舎者達が組んだバンドを、わざわざ渡米させ、
超豪華ミュージシャン(ブレッカー兄弟、ラルフ・マクドナルド等)をあつらえ、大枚をかけてアルバムを
作らせたのには、マーディンのただならぬ期待があったのでしょう。それは見事に証明されます。
本アルバムとシングル「Pick Up the Pieces」は共に全米チャートで1位を記録。特に「Pick Up the Pieces」はインストゥルメンタル曲でありながらNo.1を獲得するという異例の出来事でした。
しかし本作リリース前にロビーが急逝してしまいます。若干24歳、突然の悲劇でした。
本作からもう一曲、アイズレー・ブラザーズのカヴァー曲「Work To Do」。

ロビーの突然の死という悲劇を、バンドは二代目ドラマー スティーヴ・フェローンの加入によって
乗り越えます。ドラムを演っている人間ならその名前くらいは聞いたことがあると思いますが、
その後世界的トップドラマーとなり、前回までのチャカ・カーンをはじめ、エリック・クラプトン、
ビージーズ、アル・ジャロウなど、数えきれないほどのセッションに参加する事となります。
上は三作目「Cut the Cake」(75年)からのシングルであるタイトル曲。アルバムは全米4位、
シングルは10位という、これまた大ヒットを記録します。
ロビーも素晴らしい16ビートドラミングをプレイするドラマーでしたが、何と言ってもフェローンは
技術・グルーヴ感・センスといった三拍子が完璧に揃ったドラマーでした。

「Cut the Cake」同様にソウルトレインに出演した際の「School Boy Crush」。ロビーが
この様なドラミングが出来なかったという訳では無いと思いますが、黒人ドラマーであるフェローンの
加入により、本作以降はより黒っぽいグルーヴ・フィーリングの楽曲を聴く事が出来ます。
4thアルバム「Soul Searching」(76年、全米9位)。

シングル曲「Queen of My Soul」。本作は再びブレッカー・ブラザーズが参加し、ホーンセクションが
フィーチャーされています。本曲はそれまでにはなかったラテンフィールを持った楽曲。当時一世を風靡した
クロスオーヴァー(フュージョン)の影響は当然にあります。2nd「AWB」こそ至高とするファンには、
洗練され過ぎてしまったという向きもあるかもしれませんが、そのクオリティーは3rd・4th共に
決して引けを取らないものです。後は各々の好みと言うしかありません。

https://youtu.be/PGI8YNa5f-M
その後、セールス的には当初の様な成功を上げる事はありませんでしたが、その音楽的内容も
低下していったのかと言うと、決してそうではありません。
時代の変化と共に当然バンドの音楽性にも変化が見られました。80年、アトランティックを
離れアリスタへ移籍し、デヴィッド・フォスターのプロデュースの下にアルバム「Shine」を発表。
実は当初、本作はアトランティックから出す予定だったのですが、途中で移籍の話が舞い込み、
出来上がっていた素材の一部はアトランティックへ渡し、残りで本作を構成したとの裏話があります
金澤寿和さんのブログに詳しくあるので興味がある人は)。
ディスコ・AORといった当時世間を席巻していた音楽を取り入れ、良くも悪くもソフィスティケート
された内容なので、昔ながらのファンは嫌がる人もいたでしょうし、AORファン、特にデヴィッド・
フォスターの音楽を好む人なら文句なしに気に入るでしょう。また同じ話になりますが、2ndこそ
彼らの真骨頂とするリスナーからすると物足りない内容なのかもしれませんけれども、それは
意固地になって時代の変化を受け入れないというのと紙一重です。AOR世代にとって、
本作は結構高い評価を得ている、というのもこれまた事実です。

そんな事言いながら、私も基本的に、80年代の音楽で止まっていたりするんですけどね・・・
ただ私の場合、これ以上新しいのを追っかけるのは無理だとある時期に思ったので … 実際、ユーチューブで幾らでも聴けるようになった現在においても、50~80年代を再確認するので手一杯です・・・
ですから、オールディーズから最新音楽まで、常にフォローしている人はある意味凄いな、とは思ってます。

チャカ・カーン、アヴェレージ・ホワイト・バンドと取り上げて来ましたので、久しぶりに本ブログの
本文を果たそうかな、と思っています・・・ところでこれって、何のブログだったっけ?(´・ω・`)…
100回以上書いてるのにそれかよ!!!・・・・・ ヽ( ・∀・)ノ┌┛Σ(ノ;`Д´)ノ・・・・・

#106 I Feel for You

82年、チャカ・カーンは全編ジャズナンバーのアルバム「Echoes of an Era」をリリースします。
フレディ・ハバード、チック・コリアといったジャズ界の大物達に支えられた本作は、人によって
賛否両論ではあるようですが、チャカのあらゆるジャンルに挑戦していこうという姿勢の表れだった
のではないでしょうか。本作のみワーナーではなくエレクトラから発売されています。
同年暮れには5thアルバム「Chaka Khan」を発表。ますますダンサンブルなエレクトリックファンク
が際立つ様になりました。個人的にはこの手の音楽は決して好みではありませんが、80年代初頭は
猫も杓子もこういった音楽性・サウンドだったので、一概にこの時期のチャカを否定する気はありません。
ダンサンブルな楽曲以外はというと、これも当時の音楽シーンを席巻していた、ジャズフュージョン的な
コンテンポラリーR&B、所謂ブラックコンテンポラリー ”ブラコン” でした。

84年、アルバム「I Feel for You」をリリース。先行シングルであるタイトル曲がチャートを駆け上がり、
彼女のキャリアにおいて最大のヒットとなったのは前々回にて触れた通り(ポップス3位・R&B1位)。
プリンスによる本曲は、元は彼の2ndアルバムに収録されたもの(#49~51ご参照)。チャカの前にも
ポインター・シスターズが取り上げたりもしていたようですが、世間に知られる様になったのはチャカの
ヒットによるものでしょう。冒頭がラップで始まる本曲は、世間に ”ラップ” というものが浸透していった
最初期の楽曲だったのではないでしょうか。ハーモニカはスティービー・ワンダー、
一発でわかります。

本作からもう一つのシングルヒットである「Through the Fire」。日本でもTVなどで使用された
覚えがあるのでお馴染みなのでは。上は本曲の作曲者であるデイヴィッド・フォスターによる、
10年にラスベガスで行われたフォスター&フレンズにおけるコンサートより。本コンサートでは
他にもフィリップ・ベイリー、ケニー・ロギンス、ドナ・サマーなどの豪華ゲストが出演しています。
映像を見る限りドラムはジョン・ロビンソン(ルーファスに在籍していたのでチャカとは旧知)、
ベースは世界で一番忙しいベーシスト ネイザン・イースト、後は特定出来ませんでした…
アルバム「I Feel for You」は米でプラチナディスク、英でもゴールドディスクを獲得。
チャカのキャリアにおいて、商業的には頂点を極めた時期と言って良いでしょう。

ゲストヴォーカルとしても様々なレコーディングに引っ張りだこのチャカでしたが、その中でも
最大のヒットはこれでしょう。スティーヴ・ウィンウッド、86年の全米No.1ヒット「
Higher Love」。
ウィンウッドにとっても最大のヒットとなったアルバム「Back in the High Life」からのシングル曲。
ウィンウッドはアイランドレーベル、チャカはワーナーでしたが、レコード会社の垣根を越えた
デュエットの実現でした。

その後のR&Bシーン(90年代以降のR&Bは、従前のそれとはだいぶ音楽性が変わりましたが)において、
特に黒人女性シンガーの歌唱スタイルと言えば、チャカの様なものがスタンダードになったのでは
ないかと思います。ただし裏を返せば、皆金太郎飴の様になってしまう、と言った側面も
ありますが … しかし、だれでも最初は人の真似から始まるので、一概に否定は出来ません。
チャカだって、アレサ・フランクリンなどの先達をコピーする所から始まったのでしょうから。

最後にこぼれ話を一つ。ティナ・ターナー回(#103)でも触れた曲ですが、86年のロバート・パーマー
によるNo.1ヒット「Addicted To Love」、実はこれにチャカが参加するはずだったという事。
先述の通り、チャカはワーナー、パーマーはウィンウッドと同じくアイランドでしたが、この時は
ワーナー側が許可しなかったらしいのです(「Addicted To Love」のレコーディングは85年中)。
これまたトリビア的な話ですが、何故か本曲が収録されたアルバム「Riptide」のライナーノーツには
チャカの名がクレジットされています(大人の事情でしょうか?)。「Addicted To Love」は
確かにパーマーと、
おそらくは黒人女性であろうシンガーの掛け合いを聴く事が出来ます。
ボンヤリして聴くとチャカに聴こえなくもない感じですが … まあ違います。
(あっ!あれですね (*゚▽゚)!!例えれば『某アイドル(似の娘)がついに!×××で△△△しちゃって!!』みたいな〇Vを、薄目で見れば本人に見えてくる、的なやつ … ちがうがな!!!( °∀ °c彡))Д´)… )
・・・・・が、その後ワーナーもようやく許したらしく、翌年にはウィンウッドとの共演が実現し、
先の通りの大ヒットとなった訳です。ちなみにパーマーは98年のチャカのアルバムに参加しています。

この三人が出演しているコンサートがあります(三人で同時にステージに上がっている訳ではないですが)。
97年8月、ロンドンの有名なウェンブリーアリーナにて行われた『カールスバーグ・コンサート』。
念のためカールスバーグとはあの有名なデンマークのビールメーカー。そう言えばしばらく飲んでないな … どんな味だったっけ?・・・・・失礼 … もとい、ロッド・スチュワートなども出演したかなり大掛かりな
コンサートだったようです。まず、チャカとパーマーによる「サティスファクション」。言うまでもなく
ローリング・ストーンズの代表曲。そしてマーサ&ザ・ヴァンデラスの「Dancing in the Street」の
イントロが流れる中を一度二人は袖にはけ、お次にウィンウッドが登場。前半は一人で歌いますが、
途中からチャカが再登場し、ウィンウッドともデュエット。一つ目の動画などはかなり画質が悪いですが
(アップしてくれた人ゴメンなさい)、「Addicted To Love」で実現されなかったソウルフルな
掛け合いを目の当たりにする事が出来ます。チャカとウィンウッドの共演も言うまでもなく素晴らしい。
余談ですけども演奏屋の性で(あっ!念のため言っときますが、この ”性”  は「セイ」じゃなくって
「サガ」って読むんですよ (*゚▽゚)!。
やだなあ~!すぐエッチな方に・・・( °∀ °c彡))Д´)…)
ついバックのメンツを探ってしまいますが、ドラムは超絶テクニックを誇るヴィニー・カリウタ、
シンプルなエイトビートを演ってもやはり超一流です。ベースはこれまたネイザン・イースト、
この人いつ寝てるんでしょう?・・・

https://youtu.be/Qyq4GaPt8gk
https://youtu.be/viI3UeYT8yg
英国を代表するアリーナで、アメリカ人とイギリス人が双方の国の楽曲を共に歌う。
政治・経済などの他の分野では、この二国が無条件で良好な関係か否かはわかりませんが、
少なくともポップ・ミュージックの分野では良い関係の様です。それはお互いが、相手の音楽に
尊敬と敬意を持っているからに他なりません。
なにかと言えばイチャモンばかりつけてくる国々とは大違いで・・・(あっ!余計な事を!!(#゚Д゚))
・・・・・架空の国ですよ、私の頭の中にあるだけの夢物語です。・・・・・

#105 Chaka

ルーファス後期において、チャカ・カーンがソロ活動を並行して行っていたのは前回述べた通り
ですけれども、今回はチャカのソロワークに焦点を当てて書いていきます。

 

 

 


シングル「I’m Every Woman」と共に、1stソロアルバムが大ヒットした事も前の回で既述の所ですが、
本作「Chaka」は、ソウル・R&Bシーンに輝く名盤です。

その音楽性を言い表すならば、コンテンポラリーR&Bとでも呼ぶべきものでしょうか。二作目以降は
ダンサンブルなファンクミュージック色、手っ取り早く言えばクインシー・ジョーンズ&マイケル・
ジャクソンの様なカラーが強まっていきましたが、本作は正統派ソウル・R&Bのテイストを残しながら、
フュージョン、AOR、勿論当時一世を風靡していたディスコをうまい具合にブレンドした、78年時点に
おけるコンテンポラリーソウル・R&Bというものを
見事に体現した一枚です。
上の「Love Has Fallen on Me」は、リチャード・ティーのゴスペルフィーリングに溢れたピアノが
あまりにも素晴らしいナンバー(こういったピアノを弾かせたら彼の右に出るプレイヤーはいなかった
のではないでしょうか)。個人的には本作のベストトラックです。

お次の「Roll Me Through the Rushes」。プロデューサーはアトランティックソウルの立役者
アリフ・マーディンであるのですが、まるでフィラデルフィアソウルの様なスタイルを持った楽曲。
前曲においても同様であるコーラスとの見事な掛け合い、また中盤のチャカによるテンションの上がり方は
本当に素晴らしい。中身が良ければジャンル分けなどどうでも良いのです。

ジョージ・ベンソンとのデュエット曲「We Got the Love」。楽曲もベンソン作で、「ブリージン」に
収録されていても違和感の無い様なナンバー。根っからのジャズファンの中にはこの当時のベンソンを
嫌う人もいますが、本曲のような軽快感・爽快感は、70年代のクロスオーヴァー(フュージョン)ブームを
体験した人にはたまらないものでしょう。ちなみに本曲のみベースはギタリストのフィル・アップチャーチ。彼は「ブリージン」にてリズムギターとベースも担当しているので、それが本曲における起用の所以かと。

スティービー・ワンダーのこの曲もカヴァーしています。67年全米2位の大ヒット曲「I Was Made to Love Her(愛するあの娘に)」。チャカは ”Her” を ”Him” に変えて歌っています。スティーヴ・
フェローンのタイトなドラミングがあまりにも素晴らしい。

80年、2ndアルバム「Naughty」をリリース。基本的に前作の音楽性を踏襲した作品ですが、前述の通り、
よりダンサンブルかつポップな仕上がりとなっています。ですがクオリティーの高さは秀逸で、昔ながらの
ソウル・R&Bというものに拘らなければ前作同様の傑作と言って過言ではないと思います。
本作より「So Naughty」と「Move Me No Mountain」。「Move Me ~」はディオンヌ・ワーウィックがワーナーに在籍していた75年のアルバムに収められていた一曲のカヴァー。ディオンヌの中では決して
売れたアルバムではありませんでしたが、チャカ本人か、それともアリフ・マーディンによる選曲であるのか
は判りませんが、素晴らしいセレクションであり、先輩に敬意を表している所も立派。ちなみに本作では
ソロデビュー前のホイットニー・ヒューストンがコーラスで参加しています。前回も触れた所の
「I’m Every Woman」のホイットニーによるカヴァーはこの辺りから繋がっているのかと。
81年、3枚目のアルバム「What Cha’ Gonna Do for Me」を発表。よりファンキーでエレクトリックな
方向性となっています。リチャード・ティーやブレッカー兄弟といったニューヨーク勢、アヴェレージ・
ホワイト・バンドのヘイミッシュ・スチュアート、スティーヴ・フェローン達イギリス勢は引き続き参加。
更にジャズ界からハービー・ハンコック、ルー・ソロフ、そしてなんと超大御所ディジー・ガレスピーも。
自身によるスタンダードナンバー「A Night in Tunisia(チュニジアの夜)」にて演奏しています。

本作は1st同様にゴールドディスクを獲得。タイトル曲はシングルカットされR&BチャートでNo.1ヒットと
なります。
まだまだチャカの活躍は続くのですが、その辺りはまた次回にて。