#39 Pearl

70年10月4日、滞在先のL.A.のホテルにてジャニス・ジョプリンは亡くなりました。享年27歳。握られていた金銭や、死因がドラッグ、または睡眠薬の過剰摂取のいずれなのか、はっきりとしなかったことから様々な憶測を呼び、ゴシップ誌に至っては暗殺説などのトンデモ話まで飛び交い、殊更ミステリアス、というか興味本位に売文家達によって書き立てられました。これに関しては、ジャニスの音楽性に関係のない事柄なので割愛します。興味のある方はネット上で幾らでも転がっていますのでそちらをどうぞ。

亡くなる前月からレコーディングが開始され、結果的に遺作となった「Pearl(パール)」。翌年1月にリリースされ全米9週連続1位という大ヒットを記録し、さらにシングルカットされた「Me and Bobby McGee(ミー・アンド・ボビー・マギー)」もNo.1ヒットとなりました。そのあまりにも早すぎる突然の死が話題を呼び、ビッグセールスの一因になったことは決して否定は出来ませんが、やはり本作の内容の素晴らしさが何よりも大きいのは間違いありません。生前のオリジナルアルバム(ビッグブラザー含めて)は4枚しかないジャニスですが、本作を最高傑作とするのは衆目の一致するところです。同年6月より活動を開始した彼女の新バンド”フル・ティルト・ブギー”のツボを押さえた素晴らしい演奏、オリジナルないしカヴァー楽曲のセンス、ドアーズを世に売り出したことで有名な敏腕プロデューサー ポール・A・ロスチャイルドがプロデュースに付いた事、そして何よりジャニスの素晴らしい歌、全てが奇跡的とも言えるようなまとまりを見せた結晶としてのアルバムです。
それまでバックバンドに恵まれない、と悩んでいたジャニスが(これにはジャニスの側にも問題はあったようですが)、”ようやく理想のバンドと巡り合えた!”、と喜々として周囲に語っていたと伝えられているのがこのフル・ティルト・ブギー・バンド。確かなテクニックと音楽センスに基づき、バッキングに徹するところはシンプルに徹し、場面場面のソリなどではジャニスの歌を大いに盛り上げ、間奏のソロなどでも決してテクニックのひけらかしにならない、楽曲に沿った音楽的なプレイを聴かせるといった、まさしく”歌モノ”のバックバンドとしてお手本のようなバンドでした。

 

 

 


オープニング曲「Move Over(ジャニスの祈り)」、先述のシングルヒットとなった「ミー・アンド・ボビー・マギー」、その死によって歌入れが叶わず、結果的にインストゥルメンタルナンバーとなってしまった「Buried Alive In The Blues(生きながらブルースに葬られ)」、それとは対照的に無伴奏による歌のみを収録した「Mercedes Benz(ベンツが欲しい)」はあえて伴奏をかぶせずに、そのまま歌のみのテイクを採用したロスチャイルドの英断が称賛されます。

ここからは全く個人的な好みで本作をご紹介します。ジャニスの歌唱において私が白眉と思う甲乙付けられない二曲がありますので、この際ですからどちらも取り上げます。

「Cry Baby(クライ・ベイビー)」。他の女の下へ行ってしまった男が、結局その浮気相手にフラれ、自分のところへ戻ってきた時にかけた言葉。女性の皆さんからすると、「ざけんじゃないわよ!ゴルァ!ヽJ(*`Д´)しノ」と言いたくなるような内容でしょう。ごもっとも。ですからその内容についてはこれ以上言及しません…(((((゚Å゚;))))) もう一曲は、

「A Woman Left Lonely」。ジャニスは勿論リズミックな曲も素晴らしいですが、その真価が発揮されるのは絶唱型のバラードではないかと私は思っています。この両曲は本作、というより全キャリアを通して、その歌唱においてベストトラックではないでしょうか。

世の中にはジャニスの歌を受け付けない人達も当然います。重い・疲れる・金切り声で叫ぶように歌うそのスタイルがダメ、という意見も見受けられます。勿論好みは人それぞれなので致し方ありません。私も元来、歌唱・器楽演奏ともに過多な感情表現のプレイは苦手な方で、何かと言えばすぐシャウトするヴォーカル、ブローするサックスなどは良いと思えず、抑制が効いた中に少ない場面ではあれど、ここぞという箇所で感情表現を聴かせる、というメリハリが付いたプレイの方を圧倒的に良しとする方です。しかしジャニスだけは昔から別でした。勿論ジャニスだって終始シャウトしていた訳ではないですが、その過剰とも言える感情のこもった歌が耳にさわる、疲れる、と思った事は今まで一度もありません。何故だろう?と、これまで長きに渡って疑問に思っていました。”テキサスでの青春期における満たされない、疎外感・孤独感がその歌にソウルを吹き込んだのだ”とか書けば文章的には格好が付くのでしょうが、表現をする側の人間は多かれ少なかれ、世間一般のライフスタイルを送る事が出来なかったり、周囲から浮いていたりするものなので、ジャニスにだけ当てはまる事ではないでしょう。不幸な生い立ち・運命などで語れば、ビリー・ホリデイ、エラ・フィッツジェラルド、エディット・ピアフなど上には上がいます(彼女達もそれだけで名シンガーになったという訳ではないですが…)。
結論としては何故だか分からない。あえて言うなら”ジャニスだから”、となってしまいました。(つまんない答えですね。もうちょっと気の利いた事書けないのでしょうか・・・(´Д`))

先程、その歌唱において白眉と思う二曲をご紹介しましたが、バンドのアンサンブルを含めて、私がベストトラックとする曲をご紹介してジャニス・ジョプリン編を締めたいと思います。「Half Moon(ハーフ・ムーン)」。本作においては地味な存在の楽曲かもしれませんが、この素晴らしいグルーヴ感、そしてその上で水を得た魚のように歌うジャニスが印象的な曲です。先述の通り、理想のバンドと巡り合えた、と喜んでいたジャニスが、喜々として飛び跳ねるように歌っている姿がヴィジュアルとして浮かんでくるようなジャンプナンバー。しかしながら、その後わずかひと月と経たずしてその早すぎる死を迎えた事を思うと余計に感慨深いものがあります。

最後にちょっとイイ文章で締めたいと思って、無い頭をひねくりまわしてみたのですが、自分の文才の無さを再確認するだけでした。
… (╥_╥);
陳腐な言い方ですが、ジャニスが亡くなってからもうそろそろ半世紀が経とうかという年月が過ぎています。しかしながら、ジャニス・ジョプリンという存在は折に触れ取り上げられます。それはロックファン達の心に生き続けているという事に他なりません。比較的若い世代の、当然リアルタイムでジャニスを知らない(ジャニスの没年に生まれた私もそうですが)シンガーにもジャニスに憧れてその道を志した、と言う方もいます。今後もそういう人達は生まれ続けることでしょう、いや、是非そうであって欲しい。このブログがそのほんの僅かな一助になることを願いながら・・・

#38 Kozmic Blues

サム・アンドリュー(g)と共にビッグ・ブラザーを離れるのと同時進行で、ジャニス・ジョプリンは新バンドを結成します。紆余曲折があった末、サム以外はスタジオミュージシャンによって構成された”コズミック・ブルース・バンド”(後世になって付けられた通称ですが)にて活動を開始します。ジャニスが敬愛するソウルミュージックのスタイルを目指すべく、ホーンセクションが大々的にフィーチャーされています。またセッションミュージシャンばかりとあって演奏技術もビッグ・ブラザーより格段に秀でています。このバンドは結成当初、その評判があまり芳しくなかったそうです。ホーンの導入等が取って付けた様なソウルミュージックの真似事、とこき下ろす輩がいたそうです。私は全くそのような印象は抱きませんが、実際メンフィスソウルのスター達が集ったスタックスレーベル主催のコンサートにて、ソウルミュージックのキラ星達と共にその名を連ねますが、そこでの観客の反応は非常に冷めたものだったと言われています。私見ですが、白人が黒人を差別するのと同様に、黒人の側からすれば「俺たちのソウルやR&Bが白人のオネエチャンに出来るのかい?」といった穿った見方も相当あったのでは。
しかし翌69年2月、かのフィルモアイーストにて行った同バンドのライヴでは、楽曲により若干の反応の差異はあったものの、前年末のメンフィスにおけるライヴとは比較にならない手ごたえをジャニスは感じ、非常にエキサイトしたと言われています。勿論これにはN.Y.とメンフィスという地域の違いがあったことは言わずもがなですが。

 

 

 


69年11月、「I Got Dem Ol’ Kozmic Blues Again Mama!(コズミック・ブルースを歌う)」をリリース。ジャニス名義での初のアルバムでした。時系列は前後しますが、ウッドストックにも同バンドにて出演します(8月)。もっともジャニスのパフォーマンスとしては同月にニュージャージー州にて催されたアトランタ・ポップ・フェスティバルの方が圧倒的に良かったと伝えられています(なにぶん音源が残っていないので確かな事は言えませんが…)。

「コズミック・ブルースを歌う」の評価に関しては、とかく”オーバープロデュース”、”バックバンドがジャニスの歌にそぐわない”というのが昔からの定評でした。オーバープロデュース(過剰なアレンジ等)という評価には私は全く賛同しかねます。ロックにおいてホーン(管楽器)やストリングス(擦弦楽器)を導入すると、シンプルでなく良くない、もっとストレートに演った方が良い、と、定型文の様に難癖を付ける、特に自称ロック評論家・ライターという人達の批評を昔は良く見ました。今はその手の文章など全く見ないので、どの様な風潮なのかは知りませんが。この手の批評で最たる例がビートルズの「ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード」でしょう。元はシンプルな編成で録られたものがジョンとジョージがポールに無断で、同曲を含む未発表素材をフィル・スペクターへアルバム制作を依頼してしまい、ポールはその事に激怒し、その”過剰なアレンジ”とされる出来上がりにも憤然とした、という有名な逸話です。
どちらが良いと思うかは人の好みなので「ザ・ロング・アンド・・・」については言及しませんが、アルバム「コズミック・ブルースを歌う」においては、果たしてオーバープロデュースと批判している人達はどれほど分かって批判しているのだろうか?と疑問を覚えずにはいられません。そのホーンアレンジ等のどこが良くないのかを、具体的に指摘した文章など私は今日まで目にしたことがありません。ただ単に、余計な楽器を入れるな!ロックはシンプルなモンだ!、というその自称評論家達の単なる個人的考えなのではないでしょうか?

私も本職はドラムで、ギター等も専ら”演奏するだけ”の人間なので、自慢じゃありませんが編曲に関する理論・ノウハウなど大して持ち合わせていません。ホーンや特にストリングスはそのアレンジが非常に難しいと言われます。現在でこそシンガーソングライターでもそれらのアレンジもこなす人も割といるようですが、昔は職業作曲・編曲家でなければ無理だったと言われています。私見ですが本アルバムにおけるホーンのアレンジに関して、過剰とは全く思えません。7曲目の「Little Girl Blue」にて弦のアレンジがありますが、批判している自称ロック評論家・ライターといった人たちは本曲などの事を指して言っているのでしょうか?良く分かりませんが。ただし、その人達も管や弦のアレンジについてどれだけ知識があって言っているのか、甚だ疑問です・・・。
ただ、バンドに関しては確かにその音数は多すぎるとは思います(特にドラム)。先述の通り、スタジオミュージシャンの集まりなのでテクニカルな面では非常に優れています。しかし、所謂”歌モノ”のバックが難しいと言われるのはこの辺りに由来するのでしょう。インストゥルメンタルの音楽であれば非常に良いバンドであると思われますが、ジャニスの歌を引き立てているか否かはまた別です。しかしそのプレイに関して、プレイヤー個々の判断に任せられていたものなのか、事細かくアレンジャーの指示があったものなのかは、今回かなり調べてみましたがそれについての客観的と思われるネット上の資料などは見当たらず、結局分かりませんが、もし後者であったとしたならば、バンドを責めるのはちと酷なのではないかと思います・・・。

大分長くなってしまいました。長年に渡って、本作への評価が不当なのではないかと思い続けてきたためにこの様なダラダラとした恨みがましい文章になってしまいました。皆さんお忙しいでしょうからこんな駄文はちゃっちゃと読み飛ばしていただいて結構です。あ、でも、もう読んだ後ですよね・・・。

最後に本作からご紹介するのは、ベタ過ぎますが何と言ってもタイトル曲でしょう。それではどうぞ。

#37 Cheap Thrills

67年6月、カリフォルニア州にてモンタレー・ポップ・フェスティバルという大規模なコンサートが催されました。今で言うロックの野外フェスというものの走りでしょう。当コンサートにおいて、一夜にしてスターとなった、と言われるミュージシャンが二人います。ジミ・ヘンドリックスとジャニス・ジョプリンです。しかしジミヘンに関しては、本国アメリカでの下積みを経て、渡英してからは前年に1stシングル、直前の3月には2ndシングルが全英でTOP10ヒットとなっており、勿論現在のインターネット時代のように、皆がリアルタイムで遠い外国の情報でも手に入れる事が出来るという訳ではありませんでしたが、それでも情報通の人間ならば、本国アメリカにおいてもジミのイギリスでの活躍ぶりを知っている人はある程度いたでしょう。
しかしジャニスに関しては違います。本当に一夜にしてロックスターになったのです。オーディション番組などで埋もれた才能を発掘しようという企画であれば、こういう事はあって然るべきでしょう。私は全然詳しくないのですが、確か外国(アメリカ?)のその手のTVプログラムで一躍有名になった女性シンガーがいたとか。ですがモンタレーはそれとは異なり、出演者の大半がキラ星のような有名ミュージシャン・バンドの中において、彼らを差し置き、喰ってしまってその話題をかっさらっていったのです。

 

 

 


43年テキサス州にて生まれたジャニスは、20歳で地元の大学を中退し、シンガーとなるべく
サンフランシスコへ移り住みます。この頃から既に薬物とアルコールへの依存が始まっていたようですが、何とかシスコのアンダーグラウンドシーンにおいてはその頭角を現し始めます。67年、ビッグ・ブラザー&ホールディング・カンパニーで1stアルバムをリリース。全く売れずに、しかも悪徳マネージメントに良いようにされ、一銭も入らなかったと言われています。モンタレー出演はその直後でした。6月17日昼の部に出演したバンドは、ジャニスの圧倒的なステージによって大変な話題となり、急遽本来予定になかった17日夜の部へも出演となりました。

この日から全てが変わった、という表現はジャニスの様な人生を言うのでしょう。大手レコード会社CBSと契約し、2ndアルバム「Cheap Thrills(チープ・スリル)」を発表。全米で通算8週1位という大ヒットを記録。女性初のロックスターの誕生と評されました。ライヴアルバムである本作はジャニスを含めたバンドの”勢い”を見事に切り取った一枚です。良く言われる巷の評価として、このバンドは巧くない、ジャニスの持ち味を活かせてなかった(それは次のコズミック・ブルース・バンドも同様の評価ですが)、とされてます。確かに技巧派とはお世辞にも言えませんが、私個人的にはビッグ・ブラザーというバンドは当時のウェストコーストにおいて、技術的には平均的なバンドだったと思っています(これもあまり褒め言葉ではないですね)。しかし統制が取れていなかった、というのは事実かもしれません。つまりバンドマスターがしっかりとしたイニシアティブを取って、バンドをコントロール出来ていなかった、という側面はあると思います。もっともこの当時はクスリと酒でラリパッパになって、”細けえこたぁイイんだよ!”と自由に演るのが風潮だったので、致し方ない面もあるのかと。ただしコーラスだけは酷すぎます、もうちょっと何とかならなかったのかと思いますが…。

モンタレーでその絶唱が話題となった「Ball and Chain」、G・ガーシュウィン作のスタンダードナンバー「Summertime」、シングルカットされた「Piece of My Heart(心のかけら)」はアレサ・フランクリンの姉であるアーマ・フランクリンの代表曲。しかし、私が本作にて白眉と思うのはジャニス作による「Turtle Blues (タートル・ブルース)」。楽曲的に特に秀でているとは言えません、ごく普通のブルースです。ピアノとギターの演奏も率直に言って凡庸なものです。しかし、蕎麦はシンプルなもりそばが一番ごまかしが効かないというますが(決して技巧や創作の工夫が必要ない、などとは夢にも思いません、が)、ジャニスの見事な歌が最も堪能できるのが本曲だという事実は、ソングライターやプレイヤー達にとって、皮肉めいたものを感じずにはいられません。

68年末にビッグ・ブラザーは解散。既に次なるバンド作りに動いていたジャニスは、ギターのサム・アンドリューと共に新メンバーを求めますが、この時期全く人事が安定せず、人もバンド名もコロコロと変えながら活動するのですが、その辺りはまた次回にて。

#36 With a Little Help from My Friends

前回、「キープ・ミー・ハンギン・オン」について触れましたが、オリジナルがシュープリームス(この場合は最初にレコードに吹き込んだという意味で)、そのオリジナルと同じ位有名なヴァージョンとしてヴァニラ・ファッジ版があると述べました。この様にシングルヒットした、もしくはヒットしたアルバムに収録されている有名曲をカヴァーして、その曲が取り上げられる際、オリジナルと並列して取り上げられる程のカヴァーヴァージョンというものがロック・ポップス界には存在します。勿論ジャズのスタンダードナンバーの様にカヴァーされるのが常である楽曲は除外します。マーヴィン・ゲイの「ホワッツ・ゴーイン・オン」におけるダニー・ハサウェイ版、「スタンド・バイ・ミー」におけるベン・E・キングとジョン・レノン。そして今回のテーマである言わずと知れたビートルズ「With a Little Help from My Friends」。このカヴァーでの決定版は何と言っても69年のジョー・コッカー版にとどめを刺すのでは。

ウッドストックにおける本曲の歌唱はあまりにも有名なところ。とにかくこの人は問答無用の声をしています、ずるいと言って良いほどに。ですが、ミュージシャンとして御多分に漏れず、彼もドラッグと酒で身を持ち崩した人です。初期はレオン・ラッセル等のサポートにより素晴らしい作品を残すものの、先述した持ち前の”だらしなさ”から仲間が去って行ってしまいました。
私の世代ですと、82年の映画『愛と青春の旅だち』主題歌「Up Where We Belong」の印象が先ず初めにありますが、当時もコッカーはヘロヘロのタリラリランだったそうです。が、何なのでしょう?この歌は!。決して喉の状態が良くない事は間違いないのですが、そのふり絞ったしわがれ声は唯一無二の感動を人々に与えて止みません。彼はどんなコンディションでも素晴らしいプレイをするという、ある意味で真のプロフェッショナルと呼べるのかもしれません。
でも、やっぱりタリラリランのラリパッパは良くないですけどね・・・(´Д`)。

 

 

 


コッカーは1stアルバムにて、トラフィックのデイヴ・メイソン作「Feelin’ Alright 」もカヴァーしています。トラフィックは英国で、”神童”スティーヴ・ウィンウッドとデイヴ・メイソンを中心に結成されたバンド。
10代半ばでスペンサー・デイヴィス・グループにて天才少年とその名声を不動のものとしたウィンウッドが次なる活動の場として67年にデビュー。ウィンウッド、メイソン共にイギリス人でありながらブラックミュージックに傾倒していた人達です。しかし双頭バンドというものはうまくいかないのが常なのか、ウィンウッドがブラインド・フェイスを組みために一度バンドを離れ、戻って来た時には今度はメイソンがバンドを離れます。60年代半ば、E・クラプトンやジミ・ヘンドリックスの登場により、イギリスではブルースブームが巻き起こりましたが、ブラックミュージックは勿論ブルースだけではありません。R&B、ソウル、ゴスペル、ファンクetc…。
今回のテーマであるコッカー版「With a Little ・・・」は、原曲を見事なまでにR&B・ゴスペルのスタイルへ昇華させています。またトラフィックもブラックミュージックを英国風に取り込んだバンドの走りと言えるでしょう。まだ本国アメリカでは人種差別が残っていた60年代に、イギリスでは自国にない音楽であるブラックミュージック
を差別感情など関係無く積極的に取り入れる動きがありました。

しかし言うまでもなく、イギリスにおいてブラックミュージックをロックに取り入れた先駆者はローリング・ストーンズに他なりません。ビートルズ・フー・キンクス、皆ブラックミュージックの影響を当然受けましたが、ストーンズほどそれに傾倒していたバンドはなかったでしょう。ビートルズが8年間のその活動にて、劇的なまでにポップミュージックを変革したのに対し、ストーンズは今日に至る50年以上に渡って頑固なまでにR&R、一途にブルースと、そのスタイルを守り通してきました(多少流行りを取り入れることも勿論ありましたが)。これに関してはどちらが良い悪いはありません、それぞれの個性があるだけです。

ギター中心のロックミュージックに関しては、どうしてもギタリストのプレイスタイルに注目が集まってしまい、それが英米問わずブルースに根差した音楽性に注目が集まってしまいがちです。私も鼻血が出るほどブルースが好きな人間ですが、ロックに影響を与えたブラックミュージック、先述の通りそれはブルースだけではありません。ロック史において地味な動きではありましたが、ストーンズ達から始まり、更に60年代後半から興った、特にイギリスにおけるブラックミュージック賛美とも言えるロックは、イギリス古来のトラッドフォーク、ひいてはケルト音楽(大げさかな…)などと混じり合い独自の発展を遂げました。例えば、日本人でも知らないような事を、日本フリークの外国人の方が非常にマニアックな知識を有していたりすることがありますが、無い物ねだりと言うのでしょうか、自分(自国)にないものだからこそ余計に憧れる、というきらいが人間にはあるのかもしれません。

ウッドストックでの「With a Little ・・・」を張るのはベタ過ぎるので、今回は02年のエリザベス女王戴冠50周年ライヴにおけるコッカーのプレイを観てもらいたいと思います。フィル・コリンズ、ブライアン・メイといった錚々たる面子をバックに従え堂々の歌いっぷり。勿論ウッドストック当時の声のハリなどはあるはずもありませんが、ワンアンドオンリーのこの歌声は誰にも真似出来ないのです。
ジョー・コッカーは14年に惜しくも亡くなりました。享年70歳。先述の通り、薬物と酒に溺れたその生活(80年代前半には何とか脱却出来たらしいですが)は決して褒められたものではありませんが、”魂を振り絞って歌う”、という表現がこれほどピッタリなシンガーは、ポピュラーミュージック界においては、ジャニス・ジョプリンなどと共にほんの数人だったのではないでしょうか。
しかしコッカーが亡くなったのはつい最近の様な気がしていたのですが、もう三年経つんですね…
自分もあっという間に歳を取る訳です・・・(´Д`)。
それではコッカー氏への追悼を込めてこの動画を最後に。

#35 Hush

ディープ・パープルのヒット曲「 Hush(ハッシュ)」、と聞いてすぐにピンとくる人はなかなか少ないのではないでしょうか。”パープルつったら「ハイウェイ・スター」とか「スモーク・オン・ザ・ウォーター」だろゴルァ!ヽ(`Д´)ノ ”という声がありそうですが至極もっともです。これらは所謂第2期ディープ・パープル、一般に彼らの黄金期とされる時期の代表曲であるのですぐに名前が挙がるのは当然です。しかし彼らは当初、第2期の様なハードロック路線ではなく、ジョン・ロード(key)を中心としたクラシックをモチーフとしたロックを売りにしたバンドだったのです。この様なロックは当時、アートロックと称されていました。その後イニシアティブを握ることとなるリッチー・ブラックモアのギターはまだ控えめでしたが、優れた演奏技術力に基づく高度な音楽性を有していました。
「 ハッシュ」(68年)は全米最高位4位を記録しました。新人バンドとしては超が付くほどの成功した出だしだったはずなのですが、ロックファンの間でもあまり印象に残らないのは、やはりハードロックバンドとしての第2期以降のイメージが強すぎる為でしょうか。ちなみ代表曲「スモーク・オン・ザ・ウォーター」(73年)も全米最高位4位。ディープ・パープルのシングルとしてチャートアクションが最も良かったのがこの2曲です。

そのディープ・パープルはデビュー当初”イギリスのヴァニラ・ファッジ”と呼ばれていたそうです。ヴァニラ・ファッジは66年アメリカで結成されたバンド。シュープリームスのカバー曲「You Keep Me Hangin’ On(キープ・ミー・ハンギン・オン)」であまりにも有名ですが、彼らも当時はドアーズなどと並んでサイケ・アートロックの急先鋒とされていました。1stアルバムは全曲カバー曲で占められ、「キープ・ミー・ハンギン・オン」をはじめ、「涙の乗車券」「エリナー・リグビー」など既存のロック・ポップスを、サイケかつハードなアレンジで演奏して当時のリスナー達を驚かせました。

 

 

 


奇才フランク・ザッパ。そのキャリアのスタートとなったのはマザーズ・オブ・インヴェンションです。R&R、R&B、ソウル、ポップス、はては前衛音楽まで、ごった煮のように混沌としたその音楽は決して商業的に成功した訳ではありませんでしたが、一部のコアなファンに圧倒的に支持されました。ザッパはその後もハードロック、プログレ、ジャズ・フュージョンなど様々な要素を取り込み、また”ザッパ・スクール”と称されるほど多数の優れたプレイヤーを自身のバンドから輩出しました。テリー・ボジオ、ジョージ・デューク、エイドリアン・ブリュー等々、天才・奇才といった呼称がぴったり当てはまるような錚々たる面々ばかりです。ザッパがそれを見抜く力は勿論のこと、やはり相通じ合う何かを感じ取って、彼らもザッパの下に集ったのかもしれません。

「In-A-Gadda-Da-Vidaガダ・ダ・ヴィダ)」で有名なアイアン・バタフライはサイケ色がありつつも、ヘヴィメタルの元祖とも呼ばれます。シカゴやブラッド・スウェット・アンド・ティアーズ はサイケロックとは一線を画しましたが、ホーンセクションを大々的に導入し、”ブラスロック”と呼ばれる新しいジャンルを産み出しました。この様にこの時期は様々な新しい形態のロックが出現しました。しかしそれを良いと思った人ばかりではなかったのも事実です。大瀧詠一さんは以前ラジオで「(ビートルズは)もうラバーソウルで難しくて着いていけなくなった…」の様な旨を仰っていました。古き良きR&R、ポップスを好むリスナーも当然少なくなかったようです。

今回ご紹介した中で個人的に白眉なのはこの曲です。後にジェフ・ベックとベック・ボガート & アピスを結成することとなるティム・ボガート(b)とカーマイン・アピス(ds)は技術的にはまだ発展途上と言えますが、それを補って余りあるパワーとグルーヴを持っています。決して超絶技巧という訳ではありませんが、エンディングでのアピスによる怒涛のドラミングは圧巻です。更にシュープリームスのあのオリジナルを、この様にアレンジしたのは何ともお見事、としか言いようがありません。最後にこの動画を貼って閉めたいと思います。

#34 A Whiter Shade of Pale

プロコル・ハルムというバンドの名を知らなくても、この曲に関しては「あっ!聴いたことある!」という方がかなりおられるでしょう。それ程までにあまりにも有名な、今回のテーマである「A Whiter Shade of Pale(青い影)」です。
その前進となるバンドは英国エセックス州にて59年に結成されましたので、かなり古くから活動していたバンドです。業界では一目置かれていたそうですが、ヒットに恵まれず67年にメンバーチェンジと共にバンド名をプロコル・ハルムとします。中心メンバーであるゲイリー・ブルッカーのピアノと、改名時に加入したマシュー・フィッシャーのオルガンをフィーチャーした音作りが初期の特徴であり、ブルース、R&B、そしてクラシックのエッセンスを取り入れた音楽性が当時としてはかなり斬新でした。

「青い影」はバッハの「G線上のアリア」をモチーフに作られたと言われています(所説ありますが)。私は不勉強でクラシックに全く疎いのですが、この曲を聴くとクラシック音楽というものが如何に根本的に美しい、完成されたものであるのかと改めて関心させられます。例えが相応しいかどうか分かりませんが、姿形・造形が元から美しいものには敵わない、そうでないものがどんなに着飾ったり、化粧を施したりしても美しさにおいて及ばない、根源的な美にはどう足掻いても勝てないような無力感の様なものを感じるのです。無論この場合は根源的な美を有するのがクラシック、そうでないのがポピュラーミュージックということになりますが・・・
しかし下町には下町なりの良さが、山の手にはないものがあるのも事実です。庶民大衆の音楽には粗野ではあるが上流階級のそれにはないパワー・グルーヴがあるのです(別に庶民がクラシック聴いちゃ悪いわけでもないし、上流階級の方々でもロックを好む人も勿論いるでしょうが・・・)

 

 

 


日本のミュージシャンにも大変強い影響を与えました。その筆頭は何と言ってもユーミンでしょう。本曲を聴いて大変感銘を受け音楽の道を志した、という話は結構有名なところです。1stアルバム「ひこうき雲」(73年)からその影響は顕著ですが、極め付けは「翳りゆく部屋」(76年)。そのモチーフは2nd収録の「Magdalene」とも、3rdの「Pilgrim’s Progress」とも、意見が分かれるところですが、日本のロック・ポップスにおいて、これほどまでに絶望的かつ、荘厳な美しさに溢れた楽曲を私は他に知りません。また山下達郎さんも、本曲をマーヴィン・ゲイの「what’s going on」等と並んで、「僕が人生において最も感銘を受けた曲の一つ」と公言しています。

本曲や2ndシングル「Homburg」の印象が強すぎて、クラシック的で荘厳な美しいポップスを演奏するバンド。というイメージが一般には定着してしまったきらいがあります(実は私も昔はそうでした…)。ところが、非常にブルース色の強い一面も持っており、現在発売されている1stアルバムのボーナストラックとして収録されているライヴ音源にそれが顕著です。演奏技術的にもかなり高いレベルを有しており、ゲイリーやマシューがブルースフィーリングに溢れたテクニカルな即興演奏を聴かせ、「青い影」とは違う一面が垣間見えます。
ギターのロビン・トロワーは当時、ジミ・ヘンドリックスのエピゴーネン達において最右翼とされていたギタリストでした。私個人的にはジミヘンというより、フレディ・キングやバディ・ガイといった、黒人エレクトリックブルースの中でも特にアグレッシヴなプレイをする人達を目指したプレイヤー、という感想を抱きますが、それはつまりジミヘンやクラプトン、後のS・レイヴォーンなどと同系譜、という事になるのでしょう。
またドラムのB.J.ウィルソンは、ジミー・ペイジがレッド・ツェッペリンへ加入させようと目論んだことがある程のプレイヤーであり、非常に高いテクニックを有するドラマーでした。

彼らも成功したバンドとして御多分にもれず、度重なるメンバーチェンジ、解散そして再結成というお決まりのコースを辿ってきましたが、ゲイリーを中心として今でもその活動を続けています。12年にはユーミンと日本にてジョイントライヴを行い話題となりました。

「青い影」があまりにも有名なために、バンドとしてその実像が誤解されてしまっているのは先に述べた通りですが、やはり先述の非常に卓越したブルースバンドとしての側面、また後のプログレシーンにも影響を与えた、プログレッシヴロックの元祖と評価する向きもあり、多様な音楽性を有していることを今一度再確認するべきではないでしょうか。

などと言いながら、「青い影」がポピュラーミュージック史に燦然と輝く名曲であることは揺るがない事実であり、この曲をきっかけとして、彼らの素晴らしい音楽に少しでも多くの人が触れてくれることを望んで止みません。

#33 L.A. Woman

69年3月のマイアミ事件の後、バンドはステージから遠ざかることとなります。その期間が彼らに(特にモリソン)どのような変化を与えたのかは分かりませんが、事件後に発表した5thアルバム「Morrison Hotel」はブルース色を強めたものとなりました。初期の異国的・ジャズ的な、当時のロックとしては耳新しかった音楽性を好んでいたリスナーには戸惑いがあったようです。しかし前回の記事で述べましたが、レコードデビュー前、モリソンの書く曲の殆どは3コードの楽曲だったということから鑑みて、これは原点回帰と言えるのでは。モリソン生存中、最後のオリジナルアルバムとなった「L.A. Woman」は前作同様、いやむしろ更に無骨でタイトなR&R、ブルースを演っています。時折サイケ色が垣間見え、”ドアーズらしさ”が伺えますが、果たしてどちらが本当のドアーズなのか、ちょっとわからなくなります。
このバンドはやはり、初期の、特に1st・2ndの(当時としては)斬新な音楽性と、モリソンのカリスマ性に魅せられたファンが圧倒的に多いと思いますが、後期の地味ではあるが無骨なブルースを歌うモリソンを好む人も決して少なくありません。今回のテーマである「L.A. Woman」を後期の傑作と捉えるファンも大勢いるのです。またドアーズはやはりライヴにおいてその本領が発揮されるバンドであったので、ライヴ盤を抜きに語ることは出来ません。鉄板としては二枚のライヴアルバム(とは言ってもブートレグは別にして、そんなにオフィシャルなライヴ盤が数多く出てる訳ではないです)「Absolutely Live」(70年)と死後かなり経てからリリースされた「Alive, She Cried」(83年)があり、じっくり聴きたい人は前者、取りあえず彼らの勢いのある”ライヴ感”を味わいたいなら後者(時間も短い)をお勧めします。

 

 

 


モリソンはお世辞にも美声とは言えず、また歌唱技術が特に優れている訳でもありませんでした。では何故皆こんなにも彼の歌声に魅かれるのでしょうか?これはもう”カリスマ性”という以外には言いようがありません。勿論他のメンバーの音楽性・演奏技術や、ステージパフォーマンス、そしてプレス向けの過激な発言など、全てが混然一体となっての「ドアーズ」であったのでしょうが、やはりモリソンのパーソナリティに因っていたのは事実でしょう。しかし、モリソン本来の音楽性であるブルースを強く打ち出した「Morrison Hotel」「L.A. Woman」の様な作品にてデビューしていたとしたら、あれほどの成功を収めていたかどうかはこれまた疑問です。ドアーズというバンドはかなりの幸運な巡りあわせ、タイミングの良さ、エレクトラレコードのやり手プロデューサー ポール・A・ロスチャイルドに見いだされた等の周囲に恵まれた事など、時代の波に乗れた、また幸運の女神に微笑まれた、というラッキーな面があります。もっとも逆の見方をすれば時代が彼らを生み出した、ドアーズ、モリソンの様な存在を求め、それが具現化されたという見方も出来ます。これはオカルト的な意味合いではなく、社会学的な意味合いで。大衆が求めた時、そういうカリスマの様な存在が現れる、といった様な。ただ私はそういう方面に全く疎いのでその辺りについてこれ以上は言及しません。
しかし人間の”人生の質量”のようなものは平等なのか、(太く短くor
細く長く、ってやつです)モリソンは成功したロックミュージシャンに少なからず訪れる運命から逃れることは出来ませんでした。71年7月3日、恋人を伴った休暇先のパリで亡くなります、享年27歳。ヘロインの過剰摂取が原因とされています。この27歳という年齢がロックミュージシャンにとって何か意味を持っているかのような言われ方がされる時がありますが、私は全く意味の無い、たまたま同時期に成功した、同年代のミュージシャンが、自己管理が出来なかった結果、近い時期に、同じ年齢で急逝したという事実があるだけだと思っています。それは後からの、特にロックなどの音楽をネタにする売文家の方達による影響だと思います。しかし夭折の天才が伝説化されるのは古今東西の常であり、不遜を承知で言うと、だからこそ(レコードデビューから数えれば)4年間という短かすぎるモリソン在籍時のドアーズが輝いて見えるのも事実です。

モリソン亡き後、バンドは2枚のアルバムをリリースしますが、以前の様なヒットには至らず、その後解散。91年には映画『ドアーズ』が制作されました。内容については賛否両論あるそうです。特にマンザレクは映画でのモリソンの描かれ方にかなりの憤りを覚えたと言われています。

死とエロスを歌ったシンガー・詩人として、現在でも圧倒的なカリスマとして崇められるモリソンですが、先述しました通り、一介のブルースロックバンドとしてデビューしていたとしたら、あれ程の成功は成し得なかったように思います。やはりマンザレク達との幸運な出会いが大きかったでしょう。しかしやはりモリソン自身のパーソナリティが注目を集めた故の圧倒的な成功、という事実も間違いないと思われます。ドアーズという存在は、一人のカリスマ、優れたサイドマンとマネージメント、そして時代の波に見事にマッチした(時代の流れを”創った”とも言える)、混沌とした時代に咲いた耽美かつあまりにも絶望的な花のような存在だったのではないかと思います。

2回に渡ってドアーズを取り上げました。実はかなり久しぶりに聴いたのですが、改めてモリソンの歌の”表現力”の様なものを再確認させられました。テクニックは必要ない、などとは決して思いません。しかし音楽というものはそれだけではない、ということを気づかせてくれます。これはインストゥルメンタルでも同じ事が言えるでしょう。良かったらこれを機に、彼らの素晴らしい音楽、音楽以外の”表現”を含めた功績に触れてみて
ください(ドラッグとか✖✖✖の露出とかはダメですよ、捕まります………)。
これにてドアーズ編は終了です。次は・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。

#32 Light My Fire

前回より、60年代後半から興ったサイケデリックロックをはじめとして、ロック史においてエポックメイキングとなったミュージシャンを取り上げていくこととなりました。第二弾はアメリカのロックバンド ドアーズです。・・・ベタですね、もうちょっとヒネリの効いたセレクションの方が良いかとも思いましたが、奇をてらえばイイというものでもないと考え、割と直球ど真ん中から選んでみました。

ドアーズは65年、ロサンゼルスにて結成されました。ごく初期にはメンバーチェンジが行われたようですが、一般に認知されているオリジナルメンバーとしてはジム・モリソン(vo)、レイ・マンザレク(key)、ロビー・クリーガー(g)、ジョン・デンスモア(ds)です。このバンドが語られる際、まずジム・モリソンが書く文学的・誌的な歌詞がよく取り上げられるところですが、モリソンの歌詞については、それについてディープな考察をしているサイトが幾らでもありますので興味のある方はそちらをご覧ください。バンドの特色としてはその歌詞を除けば、オルガン・エレピを中心とした独特のサウンド、モリソンの際立ったステージパフォーマンス(多分にセクシャルな意味での)が挙げられます。

今回のテーマであるところのあまりにも有名な「Light My Fire(ハートに火をつけて)」は1stアルバム「The Doors」からの2ndシングル。ホセ・フェリシアーノのカバーをはじめ、多数のミュージシャンに演奏され、歌われ続けている曲。もはやスタンダードナンバーと呼んでも差支えないと私は思っています。本曲はロビー・クリーガーが初めて作曲した曲とのこと。初めての創作曲が全米NO.1ヒットとはなんとも凄い事です。なんでも、レコードデビュー前はモリソンが殆どの曲を作っていたそうですが、モリソンに「お前も作れ!」と言われて書いた曲だそうです。もっともモリソンが作る曲は大抵3コードの曲だったらしく、モリソンとの差別化を図るためにも使うコードも俄然多くしたとのこと。もともとはスパニッシュ(フラメンコ)ギタリストだったこともあって、普通のR&Rにありがちな楽曲作りは自然と避けられたのかもしれません。勿論マンザレクの助力もあっての事です。

 

 

 


その後も2nd・3rdアルバムと立て続けに大ヒットを記録し、飛ぶ鳥を落とす勢いでした。しかしモリソンのエキセントリックな言動やパフォーマンスも”勢い知らず”で、有名な話ですがあるTVショーにて、本来の歌詞はテレビでは不適切なのでその箇所だけ変えて歌うという示し合わせを”見事に”裏切ってそのまま歌って司会者を激怒させました。さらにこれまたよく知られたエピソードですが、69年3月マイアミでのコンサートにて、あろうことかステージで性器を露出し逮捕されます。
音楽外においても話題に事欠かなかったモリソンでしたが、デビュー前の彼を知る人のコメントでは、本来は文学や映画を好む物静かな青年だった、という意外な一面も語られています。どちらが本当のモリソンなのか、それともいずれの側面も生来のものなのか、しかしいずれにしても、いきなりの成功が彼の人生に(良くも悪くも)急激な変化を及ぼしたことは間違いないでしょう。

やがて当時のロックミュージシャンにおけるお約束といっていい程の、ドラッグへの傾倒という道を辿り(良い子のみんなは… しつこいな・・・)、音楽面でも徐々に変化が表れてきます。その辺りはまた次回にて。

#31 Surrealistic Pillow

前回まで取り上げていたピンク・フロイド(デヴィッド・ギルモア含めて)は、後世ではプログレッシヴロックを代表するバンドとして扱われていますが、#25でも多少触れましたが、デビュー当初はイギリスにおけるサイケデリックロックの流れの一翼を担う存在として認知されていたようです。そのサイケデリックロック、及びヒッピー・フラワームーヴメントというもの。60年代半ばから興ったこのムーヴメントの経緯やその定義は、一冊本が書けてしまうほどなのでどうぞ各々各自でググってください。ここではロックミュージックだけに限って触れていきます。

その走りはバーズの「Eight Miles High(霧の8マイル)」、ビートルズの「リボルバー」など、人によって意見は分かれるところです。そのサイケデリックロックの特徴と問われれば、
①綺麗なアンサンブル・音色の中に”歪んだ”音色(主にファズなどによるギター)をあえてコントラストとして組み込みトリップ感を醸し出す→バーズ、ジェファーソンエアプレイン等
②サウンド・エフェクトなどによりトリップ感を表現する→ピンク・フロイド他
③即興演奏にて自然偶発的な酩酊感・高揚感を表現→グレイトフル・デッド、初期ソフト・マシーン

④歌詞においてドラッグのトリップ感覚や退廃的雰囲気を唄う→ドアーズなど
いずれにしろLSD等のドラッグを使用した時の酩酊感を表現しようとしたものが主でした。
(良い子のみんなはマネしちゃダメだぞ!☆(ゝω・)v)...最近これ多いな・・・
勿論①~④や、それ以外の要素も色々混ぜ込んで、独自のスタイルを築いたバンドが雨後のタケノコのようにこの時期は出現しました。そしてあまり個人的に好んで聴くことはないのですが、これらが行き過ぎて、稚拙な演奏技術と音楽的素養しか持たないミュージシャンが、フリージャズのような高度な技術・音楽性が必要な演奏を、酒やドラッグの力を借りて、”既成概念を打ち破ったロックミュージックを演ろうぜ!”などと試みた者達
も少なからずいます(と、本人達が思っているだけ。実際はタリラリランのラリパッパな連中が 聴くに堪えない演奏をしただけ・・・)。

 

 

 


そんなサイケロック黎明期にて音楽的・商業的共に成功したのは、ビートルズを除けばバーズとジェファーソン・エアプレインでしょう。どちらも初期はフォークロック的なテイストが多分にあり、親しみやすく(それが商業的には良かったのでしょう)、この手のロックに馴染みがないリスナーでも抵抗なく聴くことができます。また私も不勉強で決して詳しくはないのですが、特に本国アメリカにおいては圧倒的人気を誇るグレイトフル・デッドも忘れてはなりません。今回はその中でも、名盤として名高いジェファーソン・エアプレインの2ndアルバム「Surrealistic Pillow(シュールリアリスティック・ピロー)」を中心に取り上げます。

シスコサウンド、ひいてはサイケロックの象徴的名盤と奉られることが多い本作。サイケロックにありがちな”カオス感”はまだ控えめで(ドラッグの匂いが強いのは「White rabbit」くらいではないでしょうか)、全編に渡って美しい調べの中で、コーラスワークと若干歪んだギターによって、ある種の浮遊感の様なものが漂っています。音楽的に似ているという訳ではありませんが、私はこの感覚に、ビーチボーイズの「PetSounds」と同様のフィーリングを感じます。
本作から加入した女性シンガー グレイス・スリックのパーソナリティがかなりフィーチャーされており、実際本作よりシングルヒットとなった「Somebody To Love」と「White rabbit」は、彼女が直近に居たバンドの曲。その”パンチ”の効いた歌声と美貌(元はモデルらしい)が注目を浴び、”シスコの歌姫”とまで称されたそうです。以下に張るのは結構目にすることのある当時の映像、多分TVプログラム用のもの。この見目麗しき女の子(当時19~20歳)が、時を経てたくましいオバ … 大人の女性へと変容を遂げます(グレイスさん、ホントスイマセン・・・<(_ _)><(_ _)><(_ _)>)。

ウェストコーストで発生したこの波は、あっという間に世界中へ伝播(電波?)して、ロンドンではピンク・フロイドやソフト・マシーンなどが、当時のロックミュージックのメッカ「UFOクラブ」にて、英国流サイケロックを発展させます(勿論ビートルズも、それどころかR&Rとブルースに一途なはずのローリング・ストーンズでさえ影響を受けます。もっともストーンズは決して時代の影響を受けない訳ではないです。ディスコやニューウェイヴが流行れば、それらをちゃんと取り入れたりしています)。日本ではクレイジー・キャッツのハナ肇さんが、ヒッピー風の格好をして”アッと驚く為五郎~”、と・・・

本作発表の67年頃を境に、ロックは”カオス化”を深めていきます。ドアーズ、ジャニス・ジョプリン、ジミ・ヘンドリックス達の衝撃的なデビュー。イギリスでは、既に取り上げましたがクリーム、レッド・ツェッペリン、キング・クリムゾンなど革新的”過ぎる”ほどのバンドが出現します。これを良いと捉えるか否かは人によって意見が分かれるところです。古き良きR&Rやポップスを好む人達もこの当時でも当然大勢いました。現在はネット時代になって多様な情報が入手可能なので良いのですが、私がリアルタイムで聴いていた80年代はそれが乏しく、一部の”ロック評論家・ライター”と称される人達のメディアでの論評のみが幅を利かせ、それが60年代後半~70年代のロック史だと思い込まされた所があります。50’sの流れを組む様なロック・ポップス、ソフトロックとカテゴライズされる音楽はあまり取り上げられず、ディープかつエポックメイキングとなった音楽(言い換えれば彼らが文章にしたい・語りたい、もしくは、文章にし易い・語り易い事)が中心に
紹介されていました。分かり易い例を挙げれば、ビートルズとストーンズはよく取り上げられるが、ビーチ・ボーイズはあまり取り上げられない。しかし当時のチャートアクションを見ると決して革新的な、ディープなロックだけが聴かれていたかというと決してそうではなかったようです。勿論チャートの上位に喰い込んだ音楽だけが良い、などと言うつもりは毛頭ありませんが、80年代の日本においては、情報の少なさからかなり歪められたロック史が形成されていた様な気が、個人的にはしてならないのです。

と、ここまで書いとけば御膳立ては十分でしょうか?これからしばらくはディープでロック史においてエポックメイキングになったとされるロックを主に取り上げていきます…
(今までの前フリは何なの!!!Σ(oДolll)ノノ) 次回へ続く・・・

#30 David Gilmour_2

デヴィッド・ギルモアのプレイにおける真骨頂とは、全くの私見ですが、ストラトキャスターというギターの持ち味であるクリーントーンを活かした、浮遊感とも呼べる独特のサウンド(勿論、リバーブ・コーラス・ディレイといったエフェクター類の存在も欠かせません)と、それに基づくブルースフィーリングに溢れたプレイにあると思っています。当然、場面場面ではディストーションサウンドも効果的に使いますし、一概に言えるわけではありません。そして同じく重要な要素として、ピッキング等によるニュアンスの付け方の巧みさがあります。アンプのセッティングやエフェクター類の使い方にも長けているのですが、何よりも大本の”演奏者自身によるトーンコントロール”がしっかりなされているということです。
私は一応ギタリストでもあり、鼻血が出るほどギターが好きな人間ですが、本職がドラムなのである意味客観的に見ることが出来ます。エレキギター奏者や電子キーボード奏者の中には、テクノロジーに溺れてしまって、基本的に音色とは人間の口・指・手足から生まれるものだという、その他の全ての楽器において当り前の事を忘れてしまっている人達が少なからずいる、という現実があります。ギルモアのプレイはそれを改めて思い出させてくれるのです。それが顕著に堪能できるのがこの曲です。

勿論本曲中において、エフェクター類による音色の操作を行ってないわけではありません。むしろ効果的にそれらを使いこなしていると言えます。しかしそれとは別の次元で”指”によるニュアンス、ひいてはトーンの変化の付け方が絶妙なのです。これらはジェフ・ベックなどに通じる所があると私は思っています。これ以外ではベタなところですが、「Time」「Another Brick in the Wall part2」なども名演としてよく挙げられるプレイです。が、あえてその辺りは外してもう一曲選ぶとすればこの曲です。

また前回の記事で述べましたが、ギルモアの演奏において欠かすことが出来ないのはスライド(スティールギター)によるプレイです。「One of These Days(吹けよ風、呼べよ嵐)」か、これか散々迷いましたが張るのはこちらにします。勿論「吹けよ風、呼べよ嵐」も是非聴いてください。

「Shine On You Crazy Diamond part2」。”泣き叫ぶギター”、というのはまさしくこういうプレイの事を言うのではないでしょうか。勿論スライド(これはラップスティールによる演奏らしいです)以外の、本曲中における多重録音によるプレイも含めて見事であるのは言うまでもありません。

期せずして、全てがアルバム「Wish You Were Here」からの選曲となってしまいました。この偏りは流石にどうかと思いはしましたが、良いものは良いのですから仕方ありません・・・
( ̄m ̄*)…
他にも「Atom Heart Mother」や「Echoes」などの長尺曲中におけるギターソロ、「Wish You Were Here」でのアコースティックギターによる素朴なプレイ、またアルバム「おせっかい」収録の「SANTropez」はピンク・フロイドとしては珍しいジャジーな楽曲。アコギ、エレキ、そしてスライドのそれぞれを効果的に用いた隠れた名演です。

前回までの記事で既に述べましたが、ピンク・フロイドというバンドはポップミュージック界において、非常に革新的な音楽を創り上げた側面がある一方、ファンダメンタルな音楽的要素として、ブルースをベースとしたとても分かり易いものも持ち合わせていました。それが世界的な成功を成し遂げた要因の一つであると思いますが、ギルモアのギタープレイはそれに大変寄与した、というよりも彼のギターがあったからこそ、あの音楽スタイルは築かれたと言っても過言ではないと思うのです。

ギルモアと同世代にはあまりにも多くの”ギターヒーロー”達がおり、ピンクフロイドの名声に比べて、彼自身が取り上げられることは今ひとつ少ないかと思われます。しかしプレイヤーとしてのオリジナリティと、そのバンドサウンドにおける調和という、どちらかが際立てば片方がスポイルされるという相反する側面を見事に両立させ、バンドを長く存続し得ることが出来た。見落とされがちな事ですがこれはプレイヤー・音楽家(この場合は作家・プロデューサー的意味合い)として、共に非凡な能力を有していなければ決して成し得ない、稀有なミュージシャンの一人だと私は思うのです。

2回に渡ってデヴィッド・ギルモアを取り上げてきました。先述の通り、エリック・クラプトンやブライアン・メイといった同年代のスーパーギタリスト達のように、ギタリストとしてスポットライトが当たることは決して多くはありませんが、その唯一無二の個性を持ったギタリスト、ひいては音楽家としての素晴らしい功績を、僅かばかりでも紹介できる一助になることが出来れば幸いに思います。