#240 Captain Fantastic and the Brown Dirt Cowboy

「成功と破滅は表裏一体であり、互いを内包する概念である」こないだ近所の小学生が言ってました。
全ての成功者が破滅の道を歩むなどという事は無論ありませんが、ことショービジネスの世界においては
結構当てはまる人が多いのもまた事実です。

エルトン・ジョンが75年に発表したアルバム「Captain Fantastic and the Brown Dirt Cowboy」は
米ビルボードにおいて史上始めて初登場1位となった作品です。この辺りからも当時における
エルトンの人気っぷりが伺えるでしょう。
タイトル曲はエルトンお得意のカントリーテイスト。勿論作詞家 バーニー・トーピンが西部開拓期マニアで
あったのも既述の事。しかしただのカントリー&ウェスタンに終始していないのは一聴瞭然。

本作はアルバム全体がストーリーに沿って構成され楽曲が収録されている所謂トータルコンセプトアルバム
です。都会っ子であるキャプテン・ファンタスティックと田舎育ちでわんぱくなブラウン・ダート・
カウボーイが出会い、チームを組んで成功を夢見るというのがタイトル曲の内容であり、つまり
エルトンとバーニーを歌っているわけです。
しかし当然ながらすぐには上手くいかず、それでも前に向かって進まなければならない、というのが
A-②「Tower of Babel」とA-③「Bitter Fingers」。

本作の録音は前年である74年の夏とされています。この時期は前回のテーマであったジョン・レノンとの
共演やコンサートツアー、翌75年は引き続いてのツアーに加えて映画「トミー」への出演及び同サントラ内に
収録された「ピンボールの魔術師」の制作、そして本作のプロモーションは勿論の事、10月にはL.A.の
ドジャースタジアムにおいて『エルトン・ジョン・ウィーク』と題された7日間に渡る大規模公演を催し、
それはのべ10万人を動員しました。
A-④「Tell Me When the Whistle Blows」はソウルテイストとよく評されます。たしかに間違い
ありませんし私もそう思いますが、さらにジョンの、特に「ウォールズ・アンド・ブリッジ」辺りの作風に
影響を受けたのかな?と感じます。
A-⑤「Someone Saved My Life Tonight」は唯一のシングルカット曲(米4位・英22位)。
本曲の邦題が誤訳であるのはよく語られる事。興味のある方はググれカ ………… 検索してね ♪

B-①「Meal Ticket」はサイドが変わって一変して力強いロックチューン。どん底ではあるが何とか契約をもぎ取ろうという前向きな内容。
B-②「Better Off Dead」の邦題は「僕に迫る自殺の誘惑」ですが、歌詞はそこまで悲惨ではないらしいです。

世界はエルトンを中心に回っているのではないか?と言えるほどの成功振りですが、実はエルトンはこの時期
最悪の状態にありました。数度に渡る自殺未遂、アルコールと過食、そして無理なダイエットと
そのリバウンド、それによる胃腸障害などの身体的不調がさらに精神障害に拍車を掛け負の連鎖へと
陥っていきました。
それはバーニーも同じで彼はアルコールに加えて重篤なドラッグ中毒に苦しみました。
極端な環境の変化が心身に良からぬ影響を与えるのは古今東西を問わない様です。
付け加えるとバーニーはこの時期離婚しています。相手は「Tiny Dancer」のモデルであった
マキシン・フェイベルマンです(#215ご参照)。
B-③「Writing」は一転してポップで親しみやすいナンバー。エルトンの実家で創作にふけっていた頃を
歌ったようです。二段ベッドで上のバーニーが歌詞を書き終えると下のエルトンにそれを渡し、すぐさま
ピアノで曲創りに取り掛かる。金は無いがひたむきだったあの頃を回想して。

アルバムの最後を飾る「We All Fall in Love Sometimes」と「Curtains」はメドレーです。
前者は物悲しい楽曲。タイトルの恋に落ちる、ですがその ” 恋 ” の対象は異性というより
命を懸けて成し遂げようとするもの、つまり彼らの場合は音楽活動・創作活動を表しているのでは?
エルトンとバーニーに恋愛関係があったかどうかは諸説ありますが、それをあれこれ推測しても
ナンセンスなのでしません。恋愛感情があったのか、それとも人間として友としての愛情だったのか、
どちらにしてバーニーが特別な存在であった事に間違いはありません。無論バーニーにとっての
エルトンもまた然り。
後者は成功を収めた今、昔を振り返り、思い出に浸りながら幕を閉じる、という内容です。

人が昔を振り返るというのは、良かれ悪かれ一段落・一区切りついた時でしょう。
「Goodbye Yellow Brick Road」で都会の冷たいレンガ舗道(ショービズの世界)へ一旦は
別れを告げましたが(#236ご参照)、本作は7年余りに渡ってコンビを組み、ポップス界の
メインストリームへと躍り出てやみくもに突き進んできた二人が、一度袂を分かつという決意の
表れだったのではないでしょうか。もっともこの作品で共作をやめるといったわけではなく、
あくまで精神的スタンスの意味合いで。
仕事上のパートナーシップはその後数年、何枚かのアルバムにおいてまだ続くのですが、
仕事以外で会う機会は減っていったと言われています。

75年の暮れにはエルトンの心身は限界に達し、医者の勧めから四ヶ月の休養を取る事になります。

#239 Whatever Gets You thru the Night

物事(人に会う事を含めて)全てについて、これが最後かもしれないと思ってそれに臨む。
50歳を過ぎるとこれが現実味を増してきて、日々そういう心持で生きようなどと心がけています。
” 一期一会 ” の精神で、とこれを例えた事があったのですが、よく考えたらこの四文字熟語は
” 一生に一度 ” という意味なので適当な表現ではありません。では先述の様な心持を言い表す熟語は?
と思い調べてみたのですが・・・
国語力の無さからなのか … いまだにわかりません・・・・・
ニホンゴムツズカシ~ (゚∠ ゚ )ノ

ジョン・レノンによる74年のNo.1ヒット「Whatever Gets You thru the Night
(真夜中を突っ走れ)」にエルトン・ジョンが参加している事は洋楽好きなら周知の話。
ジョンがアルバム「Walls and Bridges」(74年)を製作していたその前年9月にエルトンは
スタジオを訪ねました。当初ピアノは入ってなかったらしく、エルトンはそれを進言します。
ジョンがそのアイデアを受け入れ、さらにデュエットもする運びとなりました。
これも有名な話ですが、ジョンは本曲が売れるとは考えず ” 100万年かかってもこの曲が1位に
なることはあり得ないね!”と言い放ちますがそれに対してエルトンは ” じゃあ、もし1位になったら
僕のライブに出てよ!” と、ちょっとした賭けをしました。
結果は言うまでもありません。ジョンはその賭けの約束を果たします。それが有名な74年11月28日の
マディソンスクエアガーデンにおけるコンサートであり、ジョンの生前最後となるステージでした。

その唯一の映像であるのがエルトン公式チャンネルにある上の動画。検索すると下の動画も出てきますが、
音は本物でしょうが映像が妙に出来過ぎているな?・・・と調べたら、これはジョンの伝記映画における
ワンシーンの様です。

当日は本曲を含め計三曲デュエットします。あまりにも有名ですが一応念のため、「Lucy in the Sky with Diamonds」と「I Saw Her Standing There」です。後者を歌う前に ” これから歌うのは、
ぼくが昔に捨てられた婚約者ポールのナンバーです ” とジョンが言ったのも洋楽好きには周知の出来事。
実は一旦引っ込んだジョンがアンコールで再びステージに戻ってきて「The bitch is back」を
演奏している時に、作詞家 バーニー・トーピンと二人でタンバリンを叩いた、というエピソードも
あります。
ジョンとエルトンは73年に知り合い、その後良き ” 悪友 ” となっていったそうです。二人による
羽目の外し振りについては様々なエピソードがありますが長くなるのでここでは割愛します。

あの日マディソンスクエアガーデンにいた聴衆は勿論のこと、エルトンやバンドメンバー達、
そしてジョン本人に至ってもこれが最後のステージになるなどとは思ってもいなかったでしょう。
その後ショーンが生まれて育児に専念したという経緯があったのは勿論ですが、実はジョンはかなり
ステージに上がる事に対して恐怖心を抱くようになっていたとの証言もあり、なおさらその後に
コンサートを行う機会を無くした要因になっていたのかもしれません。
もっとも80年のカムバックの際は当然アルバムのプロモーションツアーを行う予定であったでしょうから、
いまさらながら早すぎる死が悔やまれるところです。

結局の所 ” これが最後かもしれない ” の意を表す四文字熟語はわかりませんでした(元々無いのかも)…
ただ、これを英語で言えば ” May be the last(one)” となるので、常に ” メイビー・ザ・ラスト ” の
精神で物事に臨んでいます、などと言うとちょっとカッコイイかもしれませんね。
みなさんも明日から使ってみてください。それで年末に流行語大賞とかいうのにノミネートされたりして。
あっ!でもあれって、ホントに流行ったものは選ばれないんですよね …(コンコン)おや?誰か来

#238 Don’t Let the Sun Go Down on Me

以前にも書きましたがエルトン・ジョンの父親は英空軍の軍人で階級は大佐だったそうです。
かなり厳しい人で家庭にまで軍隊流の規律を持ち込み、エルトンと母親は常に気の休まる時が無かったとか。
もっとも音楽的才能はその父親から譲り受けたもので、彼は優秀なトランペット奏者であったそうであり、
これもまた皮肉な話です。のちに母親はエルトンを連れ離婚して出て行った事もこれまた既述(のはず…)。

いち早くエルトンの音楽的才能に気づいたのは祖母だったそうです。正式なレッスンを受けさせるように
勧められ、それは功を奏し神童と呼ばれるほどになります。
母親の再婚相手は画家で、この人もまたエルトンの才能を見抜いており、15歳のエルトンにホテルの
ラウンジピアニストを勧めたのは彼でした。そして英王立音楽院へ進学します。
もっともエルトンにとって音楽院での授業は退屈だったそうで「…僕はハ調やト調だけで演奏出来れば良いと思っていたので学校での授業は面白いと感じられなかった。でも後になってそれらは役に立ったけどね…」
の様な事をのちに語っています。

前回で「Caribou」に収録されている有名曲が取り上げられていないのは何故?と気づいた人は …
いませんよね・・・誰も読んでませんから ……… このブログ・・・・・・・( ;∀;) ………
「Don’t Let the Sun Go Down on Me」。74年のアルバム「Caribou」に収録され、
先行シングルとしてリリースされた本曲は全米2位の大ヒットを記録します。ちなみにこの時1位を
阻んだのはジョン・デンバー。やはり北米ではカントリー&ウェスタンが強い・・・・・
オリジナルもエルトンの代表曲の一つである事に間違いありませんけれども、本曲をさらに世間へ知らしめる事となったのはあるシンガーとの共演でした。
言わずと知れたジョージ・マイケルとの共演版がそれです。ロンドン ウェンブリー・アリーナにおける
91年3月23日のパフォーマンスは、本曲をレパートリーとしていたジョージが、ツアー最終日に
エルトンをサプライズゲストとして招きデュエットしたもの。エルトンが登場した時の聴衆の
歓喜振りからその盛り上がり具合がうかがい知れます(上の動画で3:00頃)。
同年11月に本演奏はシングルとしてリリースされ、こちらは見事全米1位、というより少なくとも
世界12か国にてチャートのトップに輝きました。動画も1億3300万再生 … スゴイ・・・

ジョージがライヴレパートリーとして取り上げるきっかけとなったのが上の動画。これまた有名な
ライヴエイドにおけるエルトンとの共演でした。85年7月13日、ロンドン ウェンブリー・スタジアムと
フィラデルフィア ジョン・F・ケネディ・スタジアムにて同時進行で行われた一大チャリティーコンサート
であるこのステージ(勿論ウェンブリーの方で)にて二人は共演して本曲を披露しました。
個人的には91年版よりこちらの方が好みです。
お若い方には知らない人も多いでしょうのでライヴエイドについて少しだけ。その前年である84年に
エチオピア救済の為に起ち上げられたバンドエイド「Do They Know It’s Christmas?」に
端を発します。イギリスの有名ミュージシャン達が挙って参加した本シングルは成功を収め、
翌年にそのライヴ版であるライヴエイドが催されることとなった次第です。
ちなみにフィル・コリンズはウェンブリーで演奏した後、超音速旅客機コンコルドでフィラデルフィアへ
飛んでアメリカでもパフォーマンスしたのは有名な話(#164ご参照)

いったいこの人はいつ寝ていたのでしょう … (´・ω・`)?
エルトンは富を得た70年代からチャリティーに注力していました。そのような活動を通して故ダイアナ妃
と親交を持ち、それが「Candle in the Wind 1997」へ繋がった事もこれまた既述(#228ご参照)。

壮大かつ劇的である本曲はロックバラードのスタンダードナンバーとなっており多くシンガー達によって
カヴァーされています。

ジョー・コッカー、91年のアルバム「Night Calls」に収録されたヴァージョン。この人が歌うと
何でも ” コッカー味 ” に仕上がります(イイ意味で、ですよ (*´∀`*))。

フーのロジャー・ダルトリーも取り上げています。87年の映画「The Lost Boys」のサントラに
収められたもの。ちなみにこの人もピート・タウンゼントもいまだ現役 … スゴイですね (*´∀`*)

少し変わり種と言えばゴスペルシンガー オリータ・アダムスのヴァージョン。もっともエモーショナル
なフィーリングがみなぎる本曲はゴスペルにはもってこいですね。

本タイトルを直訳すると ” 太陽を僕の上に沈ませないでくれ ” となりますが、勿論これでは (´・ω・`)?
何人かの人が本歌詞を和訳されていますので詳しく知りたい方はそちらをどうぞ。大体の意味は
自らのもとを去ろうとしている恋人へ投げかけた言葉(彼女=太陽)だそうです。
相方である作詞家 バーニー・トーピンらしい作品。

最後はこれを取り上げて終わります。ビリー・ジョエルとの共演である東京ドームにおける
98年のパフォーマンスは、エルトン・ジョン & ビリー・ジョエル 『FACE TO FACE』と銘打たれたツアーにおける日本公演でのもの。うつ状態(何度目だったのだろう … )となってやる気をなくしていた
ビリーに ” ビリー!一緒に演ろうぜ!! ” とエルトンが声をかけて実現した本ツアーは94年に始まり
10年まで続きました。

#237 Caribou

「あ~!もっと時間があればいろいろやりたい事あるんだよな~!!」
こういうセリフを吐く人にたまに出くわしますが、一日16時間くらい働いていればたしかにしたい事も
出来ないでしょうけれども、往々にしてそういう人は時間があっても何もしないものです。
逆に傍からみると ” あんなに忙しいのにどうやって時間を作っているんだろう? ” というほど多くの物事を
こなす人もいます。時間の使い方の上手い下手もあるのは勿論ですが、人間というものはある程度忙しい中に
身を置いていた方が活動的になるようです。一種の躁状態と言い替えても良いでしょう。

エルトン・ジョンが74年に発表したアルバム「Caribou」はわずか9日間あまりで
レコーディングされたものです。その後に日本公演などを控え詰まりに詰まったタイトスケジュールの間に
録らなければならない状況だったそうです。
オープニング曲である「The Bitch Is Back」。女性に対してお世辞にも上品とは言えない言葉ですが、
この曲においてはエルトン自身を表しているらしいとの事。

この時期エルトンは自身の音楽活動の他に、映画「トミー」への出演及びサントラへの提供や、
ジョン・レノンのアルバムに参加したりと、ちょっと異常とも言えるワーカホリック振りでした。
「トミー」においてはド派手なコスチュームでの魔術師役が有名な所ですが、実はオファーは
初めにロッド・スチュワートへ来ていたとの事。二人は大のサッカー好きという共通点もあり
仲が良かったのですが、ロッドが映画への出演について相談した所、エルトンは断るべきだと告げ
ロッドはそれに従いました。ところが今度はエルトンへ出演依頼が回ってきて、なんと彼はそれを
受けたのです。その辺の感覚は凡人には理解出来ません。
A-②「Pinky」とA-④「Dixie Lily」。後者はお得意のカントリーテイストな楽曲です。

恥をしのんで白状しますが、私永い事「カリブ」はカリブ海のカリブだと思っていました・・・・・
カリブ海に浮かぶ島にあるスタジオで録ったのだろうとか、ぞんざいな推測をしていたのです。
「Caribou」とは北米に生息するトナカイの意。本作はコロラドにある ” カリブー・ランチ ” という
スタジオでレコーディングされ、それにちなむものです。録音場所に由来するという点においては
あながち当たらずとも遠からずいう気も・・・・・しませんね … (*´∀`;)
A-⑤「Solar Prestige a Gammon」はビートルズ後期におけるポールの作風が匂うのですが、
それは私だけでしょうか?
本作ではタワーオブパワーのホーンセクションが数曲において参加しています(#110ご参照)。
A-⑥「You’re So Static」はその中の一曲。

70年代においてエルトンが創った珠玉の作品中において、本作が一番好きという人は多くありません。
しかしながら、前述の様なタイトスケジュールの中で、これだけのクオリティーを誇るアルバムを
創り上げてしまったという事は、この時期のエルトンの異常とも言える創造性も勿論あるのですが、
忙しい中に身を置いているからこそのテンション感、高揚感とでも言いますか、その様なものも
功を奏していたような気がするのです。
B-①「I’ve Seen the Saucers」とB-②「Stinker」。後者はブルース&ソウルミュージックと
いった楽曲ですが、何を演っても絶品なのは言うまでもなし。

エンディングナンバーである「Ticking」は美しい調べに乗せながら救われない歌詞を歌うという、
エルトン&バーニーならではの大作。真面目であれと、厳格に育てられ強迫観念を植え付けられた
少年が犯罪を犯し最期は射殺されるという内容。実在の事件がモデルとも、エルトンの幼少期に
ちなんでバーニーが書いたとも言われています。” Ticking ” とは日本語で言うと ” チクタク ” の意で、
ここでは時限爆弾を表しているとの事。
エルトンの実の父親がかなり厳格な人だったらしく、それがエルトンの性格に影響を与えたと
言われています。
その父親について書こうと思いましたが、長くなったのでそれはまた次回にて。

#236 Harmony

昨年9月から、エルトン・ジョンのアルバム「Goodbye Yellow Brick Road」(73年)について
書いてきましたが、今回で最後です。
あっ!最後といってもこのブログの事ではなく、本アルバムについては今回で終わりという事ですよ。
・・・・・・・・・大丈夫だ、このブログ終わっても誰も困らねえから (*´∀`*) ………………
……………………………………………………………………………………………… 。・゚(゚⊃ω⊂゚)゚・。

前回、D-②「Saturday Night’s Alright for Fighting」がコンサートでハイライトに
用いられると述べましたが、本作中においてもそれは同じで、Ⅾ面の残り三曲は言わばアンコールに
相当する位置づけです。

「Roy Rogers」と「Social Disease」はどちらもエルトンお得意であるカントリーテイストの楽曲。
前二曲が熱いロックチューンであったので一旦クールダウンといったところでしょうか。
「Social Disease」は急に音量が低くなるので再生機器に不具合でも起きたか?
と一瞬思ってしまいますが、そうではなく狙っての事。
全然余談ですが本当にエンジニアのミスでボリュームが変わってしまったものもあります。

ビーチボーイズの「Do You Wanna Dance」(65年)ですが、上の動画で0:27辺りから
それまでよりかなりボリュームが上がります。正確に言えばこれはエンジニアがサビで盛り上げようと
スライダーを上げたのでしょうが(二番でも若干の差はありますからね)、いくらなんでも
一番のサビ前後は差があり過ぎです。昔はこれでもまかり通っちゃったんです、イイ時代ですね。
勿論、楽曲・歌・サウンドはそれとは関係なく極上のもの。
話はまた飛びますがエルトンとブライアン・ウィルソンの関係は#210で既述の事。

アルバムのラストを飾るのは「Harmony」。
だから、君を愛していたいよ永遠に 絶対、絶対、絶対去らないで 夢のようなハーモニー ”
友への葬送に始まり、永遠のハーモニーで終わる、何とも意味深です。本作については
色々なサイトで考察がなされているので長くは触れませんが、スター街道を突き進んで行く
エルトンとパートナーであった作詞家 バーニー・トーピンとの溝であるとか、エルトン自身も
そのショービジネスに嫌気が差し始めてきた頃であったとか、都会の冷たいレンガ舗道へ
別れを告げる、とはそういった当時の状況から生まれた作品であったと言われています。
おそらくは概ねそうなのでしょう。
上は何度も取り上げている80年、セントラルパークでの演奏。これを観て初めて知りましたが、
エンディングにおけるハモリで上のパートはディー・マレイ(b)だったんですね。

コンサートで言えばハイライトであるとかアンコールとかいう表現をしましたが、
本作はある意味コンサート、エルトンのステージを盤上で再現したものだと思います。
その意味ではコンセプトアルバムと言えるでしょう。

私が思う二つのポップミュージック史に燦然と輝く完璧な二枚組大作であるスティーヴィー・ワンダー
「Songs in the Key of Life」とエルトン・ジョン「Goodbye Yellow Brick Road」。
どちらも二人のミュージシャンが泉の様にアイデアが湧き出てしょうがなかった時期に創られた
作品ですが、唯一違いを上げれば、「ブリックロード」は先述の通りコンセプト性があるのに対して、
「キー・オブ・ライフ」にはそれがあまり無いという点でしょうか。
ちょっとまて荘厳なアカペラから始まる「ある愛の伝説」に始まり、血沸き肉躍るような強烈な
ハイライト「アナザー・スター 」もあり、エンディングは「イージー・ゴーイン・イヴニング」の
哀愁を帯びたハープのインストゥルメンタルで幕を引く、見事にストーリーがあるだろ!ゴルァ!!
という意見もごもっとも。しかしそれは楽曲の配置であって昔はアルバムでは普通になされていた事。
スティービーは次から次へと生まれてくる楽曲を二枚組にまとめ(アナログでは収まらなかったん
ですけどね… (*´∀`;) それでLP2枚+EP1枚)、エルトンはこれで一旦自らのミュージシャンとしての
活動にある意味での区切りを付ける、という思いがあったという違いがあるのではないでしょうか。
またこの時期のスティービーは制作に関してはモータウンの干渉は受けないという二十歳の時に交わした
約束が守られており、そのほとんど全てを一人で創ったのに対し、エルトンはバーニーは勿論の事、
プロデューサーであるガス・ダッジョンやバンドメンバーなど、仲間たちと一緒に創り上げたという
違いもあります。もっともどちらも類まれなる大傑作であるのは同じです。

以上で十回に渡った「Goodbye Yellow Brick Road」回も終わりです。
昨年9月の#227で今年中に終わるかな?と書きましたがやはり終わりませんでした …(*´∀`;)…

#235 Saturday Night’s Alright for Fighting

今日では当たり前の週休2日制。米国では自動車メーカー、所謂ビッグスリーの一つである
フォードが1920年代に、日本では松下電器が1965年から導入していたそうです。
しかしながらそれは先進的な考えを持った一部の企業であって、多くは1980年頃までは
基本的な休みは日曜のみという企業が一般的だったそうです。

映画『サタデー・ナイト・フィーバー』(77年)は土曜日の夜にディスコに集まる若者たちを取材した
雑誌の風俗記事が元になっているそうで(勿論映画オンチの私は観た事ありません)、
休みの前日にディスコで踊り狂う事だけが生き甲斐、という青年たちを描いた内容だそうです。

これが90年代に入ると事情が変わってきます。ドリームズ・カム・トゥルーの
「決戦は金曜日」(92年)という曲名からもわかる通り、一週間で最もテンションが上がるのは
土日が休みとなったご時世では金曜日(特にその夜、当時で言う ” アフター5 ” というやつ)
という事でしょう。ちなみに私、ドリカムにも詳しくありません、念のため・・・・・

エルトン・ジョンのアルバム「Goodbye Yellow Brick Road」(73年)について、ようやくD面
まで来ました。
D面のとっ始めである「Your Sister Can’t Twist」。サブタイトルが ” (But She Can Rock ‘n Roll) ”
ですので、” あの娘はツイストは踊れない、でもR&Rはノレるのさ ” という内容。
次曲への呼び水的な配置となっていますが本曲自体素晴らしいロックチューンである事は言わずもがな。

今回のテーマであるD-②「Saturday Night’s Alright for Fighting」も全曲に続き ” イカした ”
R&Rナンバーです。作詞家 バーニー・トーピン曰く ” イギリスしてるロックナンバーを書いてみたかった
最初の作品 ” との事。10代のときに行ったダンスクラブでの話が元になっているとか。
ちなみにエルトンは10代の頃はホテルのラウンジでおとなしくピアノを弾いていたので、
この様なシチュエーションになる事はまかり間違ってもなかったのは既述です。
本曲のレコーディングは大盛り上がり、言い方は悪いですが狂った様な状況だったそうです。
下は有名なやつですが80年、セントラルパークにおける演奏。ただただ素晴らしいの一言。

そのレコーディングの乱痴気騒ぎ振りがそのまま表れているテイクが本曲です。全てがそうであるべきとは
全く思いません。基本的に全ての表現は理性に基づいて創られるべきだと思っていますので、
羽目を外してただただハイテンションであれば良いなどとは微塵にも考えないです。
これだけ逆を張ってから敢えて言いますが、この曲はこれでヨカッタのです。
74年、ハマースミスオデオンでの模様。エルトンがブレイクするキッカケとなった70年夏の米西海岸
ツアーはこんな感じだったのかもしれません。やはり、ただただ素晴らしい・・・

上の動画では本曲終了と共に袖に引っ込んでますのでラストナンバーだったのでしょう(アンコールは
この後あるのでしょうが)。本作でもこの曲はハイライト的な位置づけです。
前曲と本曲でR&R三昧(二曲だけど … )、といった感じでしょうか。
甲乙つけ難いナンバーが色々あるアルバムですが、個人的にはベストトラックです。

アメリカの一部企業では週休三日制が導入され始めているそうです。そうするとこれからは
”Thursday Night’s・・・” というくだりが増えてくるのでしょうかね?
個人的にはなんかしっくりこない、という気もしますが・・・・・

#234 All the Girls Love Alice

全然余談ですが、これまで使わせてもらっていた無料レンタルサーバーが3月末で終了する為、
サイトの引っ越しをせねばならなくなり、正月の二日間をかけてアタマからバネが出そうに
なるのを必死で押さえながら、一時は業者に頼むしかないかな?などと悪戦苦闘しながらも
なんとか新サーバーへの移行に成功しました。なので本投稿からは見た目には以前のサイトと
寸分違わないものですが、新しいURLとなっています。
まあどうせ … 誰も読んでないんですけどね、このブログ・・・・・・・。 ・゚・(ノД`)・゚・。

年が明けても引き続きエルトン・ジョン、73年の大傑作「Goodbye Yellow Brick Road」について。
C-②「The Ballad of Danny Bailey」は副題が ” ケンタッキーの英雄の死 ” となっている通り、
作詞家 バーニー・トーピンが好んでいた西部開拓期もの。

C-③「Dirty Little Girl」の出だしの歌詞を記します。

これまで多くの運の悪い女を見てきた。トラックにはねられたような顔をした女をね。
そんなことは言うべきではないだろうし、本当に気の毒だとは思うよ。
だけど、もし俺の庭にそんな女が入ってきたら、俺はそいつのケツに回し蹴りを食らわすね。

女性人権団体が挙って押しかけて来そうな程に女性蔑視の内容に思えます ………
ドドドε=ε=J(ꐦ°᷄д°᷅)しJ(ꐦ°᷄д°᷅)しJ(ꐦ°᷄д°᷅)しJ(ꐦ°᷄д°᷅)しJ(ꐦ°᷄д°᷅)し!!!(((((゚Å゚;)))))・・・・・
しかし深読みすれば、皮肉屋であるエルトン&バーニーからのある種応援歌なのかもしれません。
生まれつきの容姿が悪い、貧しい境遇に育ったとか、生まれを嘆くだけではなく自分から動け!
というメッセージかも。「ユアソング」の対極にある様な歌です。
このファンキーなグルーヴが天下一品です。

今回のテーマである「All the Girls Love Alice」はC面ラストを飾るナンバー。
一聴する限り快活なジャンプナンバーですが、良家の子女が通うパブリックスクールにて、
男性を愛せない主人公アリスはクラスメイトと関係を持ち、さらには年上の夫のいる女性とも …
淑女であれという厳しいしつけや性的コンプレックスから、ついには地下鉄に飛び込む・・・・
イイとこで育ったレズビアンの娘がその環境や性的嗜好に悩んでやがて自殺するという内容です。
エンディングで聴ける不安を掻き立てる様なサウンドエフェクトはこの様な歌詞故なのですね。
下は13年、つまり40年後におけるシカゴでのライヴ。テンション感こそ若い時にかなわないのは
致し方ないのですが、歳を取ってこその ” 味 ” もまた一興です。

前回のテーマである売春をテーマにした「Sweet Painted Lady」に始まり、抗争の末に死んだギャング、
醜女やその貧困について、そしてラストは自殺に至ったレズビアンの娘と、C面は言わば本作品における
ダークサイドと言えます。しかし聴けばお分かりの通り、楽曲・サウンド・演奏全てが極上のものです。
やはりこのアルバムが名盤と語り継がれるのはこの辺りに要因があります。

次回でようやくD面に触れることが出来ます。昨年9月末から本作を取り上げてきてやっとです … (*´∀`;)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・あっ!忘れてました。今年もよろしく (*´∀`*)

#233 Sweet Painted Lady

『個室付浴場業』:公衆浴場法による浴場業の施設として個室を設け、当該個室において異性の客に
接触する役務を提供する。
偶然に接客従事者と客が双方の意思に基づく自由恋愛に発展する場合もあるが、法律的には何ら問題はない。

エルトン・ジョンが73年に発表した二枚組アルバム「Goodbye Yellow Brick Road」。
当初は二枚組の予定ではなかったものが、あまりにも次から次と曲が出来てしまい、
そのどれもが素晴らしい内容であった為にやむなくそうした、と言われています。
もっとも以前どこかで書きましたが、DJMレーベルとの間で年2枚のペースで
アルバムを創るという契約となっていたのでそれを消化する為、との説もあります。
いずれにしろこの時期におけるエルトンは泉の様にアイデアが溢れ出ていた、
という事に間違いはありません。

B面最後の方の2曲も秀逸です。「Jamaica Jerk-Off」はタイトル通りレゲエ・スカ調の楽曲。
” Jerk-Off ” はスラングであまりお行儀の良い言葉ではない様ですが、色んなものに縛られずに
ハメを外して、くらいの意味だそうで。
「I’ve Seen That Movie Too」は失恋の歌で、それもポイ捨てされた男の心情を表しているもの。
所詮アンタの恋愛映画中のどうでもよい出演者の一人なんだろ?という男の未練・・・

今回のテーマである「Sweet Painted Lady」はC-①、つまり二枚組二枚目のトップを飾るナンバー。
それが売春婦とその客を歌ったもの。この辺り、バーニーの皮肉屋的性質も勿論ですが、
それを二枚目とは言え、オープニングナンバーに据えるエルトンの ” どうかしている ”
具合がとても良いです。

Oh sweet painted lady (Oh 美しく彩られた女性)
Seems it’s always been the same (やる事はいつも一緒)
Getting paid for being laid (寝て金をもらう)
Guess that’s the name of the game (まさにそれだけの事さ)

ここまで来るといっそ清々しいです。この手の楽曲ではコール・ポーター作「Love For Sale」が
最も有名でしょうが、私はその有名スタンダードナンバーに勝るとも劣らない楽曲だと思っています。
不倫ものならギャンブル&ハフ作ビリー・ポールの名唱による「Me and Mrs. Jones」で、
売春ものなら「Love For Sale」もしくは本曲が決定版かと。もっとも ” 売春もの ” という
ジャンルがあるかどうかは知りませんが・・・・・

エルトン&バーニーに関しては殆どが所謂 ” 詩先 ” 、つまりバーニー・トーピンが創った詩に
対してエルトン・ジョンが曲を付けるという作業工程であったと言われています。
本曲もそうであったならば、これほどまでに詩の世界観を的確に音で表現し、さらに独自の
エルトンワールドを展開している、これほど詩と楽曲が互いにミックスアップされている音楽は、
ポップミュージック全体を見渡してもなかなか無いのではないかと私は考えています。
上の二つの動画は76年のものと99年シカゴにおけるもの。後者は映像が無く音質も決して
良くはないこそすれエルトンの歌が秀逸。最も勢いがあったのが70年代半ばである事は
衆目の一致する所ですが、00年頃のエルトンも絶頂期とはまた違った円熟味が醸し出されていて、
要はどちらもイイという事です。
寂寥感や虚無感といった単語で簡単に片づけられる安直なものではなく、ましてや背徳感などとは
全く一線を画する精神性が本曲には漂っています。
買春・売春の是非をここでとやかく言うつもりはさらさらありません。ここでは買う男性も
売る女性もただただそこに ” いる ” 、ただそれだけなのです。
そしてエルトンもバーニーもそこに深いメッセージ性を込めようなどとはさらさら思っておらず、
両人とも感覚でこの様な名曲を創ってしまったのです。
私は時によっては、本曲がこの大傑作アルバムにおけるベストトラックではないかと思う時があります
(聴くときによって結構変わるんですけどね・・・・・)。
ちなみにエンディングでどうしてカモメの鳴き声が入るのかは結局わからず終いでした。
カモメが何かの隠喩なのか?と調べてもみましたが … ???

ちなみに冒頭に掲げた文章は、今回のブログにおける内容とは一切関係の無いものです。
違法性など微塵もありません。間違いありません。お上がそう言っているんですから。
また、この国には「ぱちんこ」と称する ” 遊戯 ” があり、出玉と交換した特殊景品を、” たまたま ” 
その遊戯場のちかくに存在する、遊技場運営者とは ” 全く関係の無い古物商 ” がその特殊景品を
買い取ってくれるそうです。勿論法的に一切問題はありません。
マ・チ・ガ・イ・ア・リ・マ・セ・ン!
 お上がそう言っ… (コンコン)おや?誰か来

#232 Grey Seal

『鰭脚類』という単語をご存知でしょうか。一般の人にはあまり馴染みのない言葉でしょう。
私も今さっき知りました・・・・・・・・オマエもかよ … (*´∀`;)
海生哺乳類もしくは海獣といった方がわかりやすいかもしれません。
アザラシ・アシカ・オットセイ・セイウチなどの分類だそうです。
ポピュラーミュージックにおいてこれらの動物がタイトルや歌詞に出てくる最も有名なものは
何と言ってもビートルズ「アイ・アム・ザ・ウォルラス」(67年)です。
レノン&マッカートニー名義の作となっていますが、ジョン・レノンが創った曲である事は
ビートルズファンはもとより洋楽に精通している方なら周知の事実。
所謂 ” サイケデリックソング ” として知られるこの曲は、ナンセンスな歌詞、ジョージ・マーティンによる
弦と管のアレンジ、そしてサウンドコラージュやその一度聴いたら耳にこびりついて離れないジョンの
ヴォーカルをはじめとした、当時としては最新のレコーディング技術を用いて創られたサウンドなど、
あまりにも多くの要素が詰め込まれています。
この曲について言及し始めるときりが無いので止めますが、ここでの「
Walrus(セイウチ)」とは
『不思議の国のアリス』の中の一編が元になっているとの事。
これらの海獣は、可愛らしさ、ユーモラスさ、ともすれば不気味さをも感じさせ、数多の動物群においても
独特の存在感がある様です。

エルトン・ジョンも海獣がタイトルになっている曲を創っています。「Goodbye Yellow Brick Road」
(73年)に収録されている「Grey Seal」がそれです。ネコ目アシカ亜目アザラシ科ハイイロアザラシ属に属するハイイロアザラシを指すそうで(長いよ … (*´∀`;))、北大西洋の東西両側に棲息します。
動物にまつわるブログでは無いのでこの辺にしときますが、歌詞の内容は主人公(これは人間)が
管理社会・学校教育について抱いている疑問をハイイロアザラシへ問いかけるというものですが、
書いたバーニー・トーピン本人も ” 意味はわからない ” と言っている程なので、それについて
深く考察するのはあまり賢明でないでしょう。おそらく語感や韻などから創られたのでは?
バーニーはこういう創り方をよくしたそうで、「Take Me to the Pilot」(70年)も同様なのは
既述の事(#210ご参照)。
歌詞はひとまず置いといて、楽曲はとにかくゴキゲンそのもの。前回も書いた事ですけれども、
本アルバムが凄いのは隅々までクオリティーの高い楽曲で埋め尽くされているという点です。
” And tell me, grey seal ” のパートから始まるバンドのドライブ感はいまだにシビレます。
やはりナイジェル・オルソン達、エルトンバンドが居てこそ、この大傑作は生まれたのです。

ちなみに本曲は2ndアルバム時に一度録音されていました。オリジナルには収録されませんでしたが、
後年にはボーナストラックとして聴くことが出来る様になります。
これを聴くとエルトンのイメージは当初から73年版の方であったのだろうな、と推察出来ます。

ここでライヴ版を二つ。74年ロンドン、ハマースミス・オデオンと14年デンバー、ペプシ・センター
におけるもの。
ハマースミス・オデオンのそれは映像・音こそ悪いのですが、やはり絶頂期の勢いと臨場感で
圧倒的にこちらが勝ります。勿論すべての楽曲でそれが当てはまる訳ではなく、年齢を積み重ねて
エルトンの中で ” こなれてきて ” より味わい深くなっていった楽曲もあります。

ちなみに枕でジョン・レノンを引き合いに出したのは当然狙っての事です。
毎年この日もしくはこの頃は何かしらジョンに絡めた話を書いています。
最後は勿論二人の競演で。言わずと知れたマジソンスクエアガーデンにおける
「I Saw Her Standing There」(74年)。
私も正直ジョンを聴くのは年に一日、この日くらいなのですが、今日だけは一日中ジョンを流しながら …

#231 This Song Has No Title

エルトン・ジョンが73年に発表したアルバム「Goodbye Yellow Brick Road」は彼の代表作かつ
最高傑作とされ、RIAA(全米レコード協会)において8×プラチナ、つまり800万枚のセールスを
記録しています。
もっともRIAAでは二枚組作品は売上2枚とカウントするようになっているらしく、本作に関しては
400万セットという事になります。

https://youtu.be/uZ1aJCvbxnU
”イエロー・ブリック・ロード”とは富と名声に繋がる出世街道の様な意であり、それに別れを告げる、
つまり当時のエルトンの状況をやや皮肉的に揶揄した内容です。スター街道まっしぐらの
エルトンを相方である作詞家 バーニー・トーピンはやや冷めた眼で見ていたのです。
しかしそんな歌詞とは裏腹に本タイトル曲は極上の楽曲です。やはりこの時期におけるエルトンの
異常とも言える創造性には唸るしかありません。
下は12年のラスベガスにおける演奏。ファルセットは出なくなっていますが力強い歌は健在。

B-②「This song has no title」は本作においてはあまり取り沙汰される機会の少ない楽曲です。
しかしながら、私が本アルバムを歴史に残る名盤と思うのは、この様な地味な楽曲ですら
とてつもない程のクオリティーであるという点があります。スティーヴィー・ワンダーの
「キー・オブ・ライフ」においても同じことが言えるのですが、一聴してアルバムの中では決して
目立たないトラックであっても、それが何気に素晴らしい完成度を誇っており、やはりこの時期に
おける二人の異常とも言えるクリエイティヴィティが伺えるのです。
その歌詞は哲学的とも言える内容であるのにも関わらず、” こんな歌にタイトルはいらない ” とは
バーニーお得意の皮肉というか逆張りの発想でしょう。