#230 Bennie and the Jets

当の本人が精魂込めて ” これぞ俺の渾身の力作・最高傑作だ!” と、創り上げたものが世間では
イマイチ評価されなかった … という事は往々にしてあります。ビリー・ジョエルのアルバム
「ナイロン・カーテン」(82年)などがそうでした(#199ご参照)。
逆にこれは売れないだろうと思っていたのに大ヒットというパターンもあります。
これもビリーで例えると「素顔のままで」がそうです(#183)。

エルトン・ジョンが73年に発表したアルバム「Goodbye Yellow Brick Road」に収録され
全米No.1シングルとなった
「Bennie and the Jets」もそんな一曲です。
本曲を形容するならばエルトン流ソウルミュージック、とでも言ったところでしょうか。
それまでにおけるエルトンの曲風とは異質なものである意味で耳を引きます。
エルトンはブラックミュージックもこよなく愛しており、ソウル・R&B調の楽曲もアルバムに
入れたかったとの事ですがそこはエルトン、ただの黒人音楽の模倣で終わらないのは言わずもがな。

” Bennie ” とは『空想のロック女神』であるそうです。近未来における女性R&Rバンドの
ヴォーカリスト、しかもロボットであるとかないとか・・・・・
上は76年ロンドン アールズ・コートでのライヴ。相当に ” ショー化 ” されたステージは
観ていて楽しいものです。もっともエルトンがブレイクしたのはアメリカツアーにおける
そのかっ飛んだパフォーマンスであったのでこうなるのは自明の理。英国が誇るパーカッショニスト
レイ・クーパーの若き頃が拝めるのも興味深いです。

本曲について語られる時、その疑似ライヴアレンジが必ず挙げられます。
プロデューサー ガス・ダッジョンによるそれは、現在のテクノロジーからすれば
ややチープにこそ聴こえてしまいますが、当時としては画期的なものであったようです。
ちなみにその歓声等の音源は72年におけるロイヤルフェスティバルホールと、
なんとジミ・ヘンドリックスの有名なワイト島におけるものを使用したとの事。
上は00年、マジソンスクエアガーデンで行われた『One Night Only』での模様。
ビリー・ジョエル、ブライアン・アダムスといった大物たちも参加したライヴです。

エルトンは本曲はシングルに向かないと言っていたそうですが、オンタリオのラジオで本曲が頻繁に
取り上げられたり、デトロイトマーケットで1位に上り詰めたことからリリースに踏み切り、
結果として全米ポップスチャートでNo.1となり、R&Bチャートでも15位を記録します。

余談ですが、エルトンはこれと逆の事をある人へ提言したことがあります。言わずと知れた
ジョン・レノンの74年「真夜中を突っ走れ」です。デュエットで参加したこの曲を
ジョンはシングルにしてもどうせ売れないよ、と言ったそうですがエルトンはシングル化を
進言し、もし1位になったら僕のコンサートへゲスト出演してくれ、と要求し結果は見事
エルトンに軍配が上がりました。有名なマジソンスクエアガーデンにおけるライヴがそれです。
時系列的には本アルバムの後なので後日取り上げます。
しかし「Goodbye Yellow Brick Road」についてもまだまだ序盤・・・・・
いつになることやら …………………… (*´∀`;)

#229 Candle in the Wind_2

62年8月4日、ノーマ・ジーン・ベイカーという一人のアメリカ人女性が亡くなりました。
その名を聞いても誰?という方がほとんどでしょう。ですがこの名を知らない人はいないはず、
その名はマリリン・モンロー。50年代においてハリウッドでセックスシンボルとして君臨し、
36歳で若すぎる死を迎えました。過酷な幼少期を経験し、成功した後もステレオタイプの
セックスシンボル像を求められる事に葛藤し、華やかな表舞台とは裏腹に3度の離婚、薬物依存、
そして精神疾患に苦しみ続け、睡眠薬の過剰摂取によって自然死とも自殺ともわからない最期でした。
そしてその死でさえも所謂マスコミは ” モンロー全裸で死亡 ” などとただただスキャンダラスな
興味本位の報じ方に終始しました。

エルトン・ジョンが73年に発表したアルバム「Goodbye Yellow Brick Road」に収録された
「Candle in the Wind」はマリリン・モンローを歌った曲です。前回取り上げた故ダイアナ妃に
捧げられた「Candle in the Wind 1997」は本曲をリメイクしたもの。
” Goodbye, Norma Jeane ” から始まる歌は、銀幕のヒロインとしてスーパースターとなりながら、
業界や世間の様々な思惑に翻弄され葛藤や孤独に苦しむ彼女を ” 風の中で灯るキャンドル ” と、
儚げな形容で表現しました。

https://youtu.be/-ohT6EBhh4o

前回、公で二度とは演奏しなかったと述べたのは勿論ダイアナ妃へ捧げたリメイク版の方であり、
オリジナルは重要なライヴナンバーとなっています。
時系列順に三つ上げてみましたが。73年のはテレビプログラム用?、86年はシアトルにて現地の
オーケストラと共演したもので、そして最後がチリのビニャデルマール国際歌謡祭2013での模様。
10年代に入ると声の衰えは致し方ありませんが、並べてみると時代と共にエルトンの中における
本曲に対する消化(昇華)の変遷がわかって興味深いです。

前回、ダイアナ妃の死後にセント・ジェームズ宮殿へ本曲の歌詞を引用したお悔やみが次々と寄せられた、
というエピソードを書きました。はっきりと証拠はないのですけれども、どうやらダイアナ事故死という
第一報を受けた後、ラジオで追悼の意味を込めて本曲をかけたDJがいて、それに賛同した他数の
ラジオ番組でも流され続け、この時英国は本曲とともにダイアナの死を悼み喪に服すような空気であった、
という話があります。宮殿へ前述の様なお悔やみが相次いだのにはそのような背景があったようです。
35年も前に他界しているアメリカのセックスシンボルとされた女優と、貴族の令嬢として生まれ
王室に嫁いだ女性には一見何一つとして共通項は無いように思えます。
しかしながら、性的興味の対象として常に捉えられ、またマスコミ・業界もそれを期待し、スキャンダラスな
報じ方に終始される。一方名門の家から王室へ入るという、世間からのやっかみやタブロイド紙における
格好の ” 的 ” として取り上げられ続け、やがて様々な問題やプレッシャーに耐え兼ね離婚を決意する。
生まれた国も違えば活躍した舞台も全く異なる、当然会ったこともないであろう二人の女性。
だが華やかな表舞台における彼女たちがその裏で抱える悩み、重圧、孤独といった負の側面、
そしてその早すぎる悲劇的な死、これらを ” 風の中で灯るキャンドル ” という儚く・危うく・脆い
イメージを重ね合わせた、おそらくロンドンのとあるDJもしくは番組関係者がこの曲こそ
今かけるのに相応しいと判断し、そして皆が ” そうだ、モンロー
を歌ったこの曲こそダイアナに
捧げるべきものだ ” と共感して数々の弔文が寄せられ、やがてエルトンとバーニー創作者本人たちや
ジョージ・マーティンといった大物たちを通常では考えられないほどの短期間で動かして
「Candle in the Wind 1997」は創られ、そして
二人の女性は結び付けられる事となったのです。

最後に全然余談なのですが、前回の枕でシングル盤売上記録を「Candle in the Wind 1997」が
塗り替えたと述べました。あの当時本曲の爆発的な売上は全米だけでも3千~3千5百万枚とされ、
ビング・クロスビーの「ホワイト・クリスマス」を抜いたと言われていました。
ですが現在それについて検索すると、クロスビーの「ホワイト・クリスマス」は正確なデータは
無いこそすれ5千万枚以上のセールスがあるであろうとされ、ギネスでも(ビールじゃない方)
シングル盤のセールス記録は「ホワイト・クリスマス」が一位とされているようです。
もっともクロスビーの「ホワイト・クリスマス」に関しては、一度だけの録音ではなく
それらの合算であるようで、しかも40~50年代というあまりにも古いデータの為信頼性に
欠けており、これにはかなりの疑義があります。ギネスも結構イイ加減なので(あっ!(* •ω• * )
ビールは美味しいんですよ)、あてにならない所があるのですけれどね・・・・・
まあ、これだけ売れればどちらが一位とか二位とかもうどうでもイイ気がしますけど … (*´∀`;)

#228 Candle in the Wind

クリスマスが近づいてきました。恋人たちの性 … もとい聖なる夜などともてはやされ、
彼氏彼女のいない若者たちにとって忌まわしいばかりの日ですが、この時期になると
やたら巷で流れるのがクリスマスソングと呼ばれるもの。
人によって様々でしょうが、世界的にクリスマスソングと認識されているのは「ホワイト・クリスマス」
これに尽きるでしょう。特にビング・クロスビーによる録音がよく知られています。
クロスビーによるこの曲は、シングルレコード・CDとして最も売れたものと永らくされてきました。
ある曲が登場するまでは・・・・・

97年8月31日、ダイアナ・フランセス・スペンサーという女性が不慮の死を遂げました。
言わずと知れたダイアナ妃です。世界中がその早すぎる死を悼み、悲しみに包まれました。
エルトン・ジョンもその一人です。

あまりにも有名な映像で説明不要かもしれませんが、上はダイアナの葬儀にてエルトンが
歌った ” Candle in the Wind/Goodbye England’s Rose ” の模様。
その後すぐに「Candle in the Wind 1997」としてリリースされ瞬く間に世界中でチャートの1位に
昇りつめ驚異的なセールスを記録しました。列挙しようとしましたが25ヶ国に及びますのでやめます …

エルトンファンはもとより、ある程度洋楽に精通している人なら周知の事ですが、本曲は73年の
アルバム「Goodbye Yellow Brick Road」に収録された「Candle in the Wind」のリメイクです。
ダイアナへの追悼版が創られた経緯は諸説あるのですが、日本版ウィキではエルトンはそのつもりではなく
作詞家 バーニー・トーピンに電話を掛けただけのところがバーニーは歌詞を書き直して欲しいという
依頼と勘違いして結果的に本曲が出来上がったとあります。
なにが正しいのかは藪の中ですが一応英語版のウィキを信じるとすれば、元々チャリティー活動などを通じて
良き友人であったエルトンとダイアナ。そのダイアナの死に対して何か敬意を表したいと考えたエルトンの
所にヴァージンレコード創業者であるリチャード・ブランソンから、セント・ジェームズ宮殿には
「Candle in the Wind」の歌詞を引用したお悔やみがたくさん寄せられているようだ、歌詞を書き直して
ダイアナの葬儀で歌ってはどうだ?という打診がなされたそうです(エルトンの自伝に記述されている
そうなのでこれが真実なのでしょう)。エルトンはスペンサー家(ダイアナの元嫁ぎ先、つまり
チャールズ皇太子側)へのそれに関するお膳立てはブランソンがしてくれるならと、バーニーへ
連絡を取りました。バーニーは ” Goodbye England’s Rose ” の節が浮かぶとその後はすんなり
歌詞が出来上がっていた、と語っています。
エルトンはジョージ・マーティンへストリングスとフルート・オーボエのアレンジに関する助力を願い、
プロデュースをマーティンがする事となりました。
ここで一旦時系列を整理してみます。ダイアナが亡くなったのが8月31日、その葬儀が9月6日、
英でリリースされたのが9月13日。その間隔はそれぞれ一週間程度です。8/31~9/5に
歌詞が書かれ、同時にエルトンの中でどのように演るかが練られて葬儀での演奏となり、
またほぼ同時進行でレコーディングもなされたのでしょう。もっとも本シングルはリリースされた直後で
あった「Something About the Way You Look Tonight」(9月8日発売)に急遽カップリングして
両A面シングルとして13日に発売され直したものです。いずれにしても短期間の間に様々な事が
なされたのです。よくこれだけの大物全員の都合があったものだな?と思いますが、というよりは
全てを後回しにしてでも皆が本曲を最優先した、といった所だったのかもしれません。

葬儀での演奏はエルトンの歌・ピアノ、そしてシンセが途中から被ってきます。これは所謂口パクでは
なくちゃんとこの場で演奏したものでしょう(シンセは後ろで誰かが弾いて)。
私は歌や演奏に過度な思い入れが込められる事を良いと思いません。音楽を含むすべての表現は
基本的に理性が優先されるものであり、あまりに感情過多なものは聴いていて苦しいものです。
それでもあえて言いますが本演奏におけるエルトンの歌は素晴らしすぎます。レコーディングされた
ものよりこの葬儀における歌の方が秀逸です。これはもちろんエルトンのシンガーとして実力の
高さによるものですが、琴線に触れるその歌声はダイアナへの想いが宿っているからでもあります。

ちなみにダイアナへの追悼版である「Candle in the Wind」をエルトンが公式に演奏したのは、
本葬儀によるものただ一度だけ。07年に催されたダイアナメモリアルコンサートにて、ダイアナの
息子たちから頼まれてもそれを拒んだそうです。
エルトンにとってこの歌がどれだけ特別であるかを物語るエピソードの一つです。

随分長くなってしまいました。歌詞を書き直した、とある通り73年のオリジナルは歌詞が異なり、
もちろんダイアナの事を歌ったものではありません。
次回は初出の「Candle in the Wind」についてです。
それにしても今回この当時の経緯について調べてみると、思ったより感動的な話でした。
冒頭のふざけた枕は要らなかったかな?と思うほど ……… じゃあ消せよ (*´∀`;)・・・・・

#227 Goodbye Yellow Brick Road

以前に書いた事ですが私は鼻血が出る程のピンクフロイドファンです。
79年に発表された二枚組の大作「ザ・ウォール」は名盤と称され、永年に渡りロックの
名作として聴き継がれています。私も好きな一枚です(#28ご参照)。
それでもあえて言いますが、やはり途中でダレます。これは「ザ・ウォール」に限らず
ロックの二枚組大作とされるビートルズの所謂ホワイトアルバム、フー「トミー」など、
素晴らしいアルバムである事に異論はありませんが、やはりやや冗長だな … と思ってしまうのです。
ところがポップミュージックにおいて二枚組大作でありながら、一部の隙も無く、完璧な仕上がりで、
圧倒的なクオリティーを誇るものが二枚あります。一枚はスティーヴィー・ワンダーの
「キー・オブ・ライフ」(76年)。これは既述です(#120~121ご参照)。

モーツァルトはトイレに入っている内に一曲創ってしまったと言われています。用を足している時間、
つまりあっという間に曲が出来てしまっていた … どれだけ泉の様に湧き出ていたかのたとえ話です。
ポップミュージックにおいても何人か、ある時期異様なほどの創造力を発揮した人たちがいます。
60年代においてはジョン・レノン、ポール・マッカートニー、そしてブライアン・ウィルソンが
そうでした。特にブライアンは異常あるいは病的とも言える程の … 実際病んでしまったんですが …
70年代に入ってからはエルトンとスティービーの創造性が突出していたと言えるでしょう。
エルトンがデビュー前にかなりの楽曲ストックを持っていた事は以前に触れましたが、
やはりそれを上回る程にこの時期は次から次へと湧いてきたのでしょう。スティービーの
「キー・オブ・ライフ」に至ってはLP2枚で収まり切らず2LP+1EPとなったのも
スティーヴィー回で既述です。

A-①「Funeral for a Friend/Love Lies Bleeding(葬送〜血まみれの恋はおしまい)」。
のっけから葬式というのは如何なものか?などという懸念は全く払拭されてしまいます。
ピンク・フロイドやイエスを彷彿とさせる様なドラマティックなイントロ、そして抒情的な
ギターソロと動的なビートを反復する構成は圧巻の一言。ちなみにフロイドの「狂気」は
同年の3月リリースですから影響を受けていたとしても全く不思議はありません。
後半「Love Lies Bleeding」の入ると、もはやゴキゲンなエルトンサウンド。しかし
歌詞は二人の破局を表しており、作詞家 バーニー・トーピンとその妻マキシンを謳った
ものだと言われていますが、実は亀裂が生じ始めていたのはエルトンとバーニーの関係でもあり、
その意味も込められているとの説も。

スティーヴィー・ワンダー「キー・オブ・ライフ」と並びポップミュージック史に燦然と輝く
完璧な二枚組大作とは、そう、ここまで書いてきて今さらですが・・・・・
エルトン・ジョンが73年10月に発表した歴史的名盤「Goodbye Yellow Brick Road」に
他なりません。次回以降、当面の間は本作について。
今年中に終わるかな?・・・・・・・(*´∀`;)

#226 Don’t Shoot Me I’m Only the Piano Player

エルトン・ジョンが73年にリリースしたアルバム「Don’t Shoot Me I’m Only the Piano Player
(ピアニストを撃つな!)」は前作に引き続き全米1位を記録します。ちなみに英では初のNo.1
アルバムとなりました(前作は2位どまり)。

A-②「Teacher I Need You」はコーラスに少しフィル・スペクターサウンド臭がします。
A-③の「Elderberry Wine」。エルトン流ソウルミュージックといった感じでしょうか。
しかし歌詞の中身は先だった妻を思う夫の気持ちを歌ったものだそうです。

前作では参加しなかったポール・バックマスターが再び戻っています。A-④「Blues for
My Baby and Me」は彼のストリングスアレンジが堪能できる一曲。デイヴィー・ジョンストンは
シタールもこなします。A-⑤「Midnight Creeper」はまたまたソウル風ナンバー。
ブラスアレンジはガス・ダッジョンで、ギターソロと競って吹いているのが忙しくて面白い。

華々しいイントロから一転して重い曲調に変わるB-①「Have Mercy on the Criminal」には
耳が引き付けられます。このアイデアはエルトン?ダッジョン?それともバックマスター?
B-②の「I’m Going to Be a Teenage Idol」にジョン・レノン臭を感じるのは私だけ?
エルトンとジョンの関係についてはいずれ。

B-③「Texan Love Song」で改めてエルトン&バーニーのカントリー志向が伺えます。
そしてラストナンバーである壮大なバラード「High Flying Bird」でアルバムは幕を閉じます。

本作のタイトルは仏映画「Shoot the Piano Player(ピアニストを撃て)」から取られたと
されています。私もそう思ってました(勿論映画オンチの私は観た事がありません)。
実際ジャケットを見ればそう考えるのが当然でしょう。
ところが色々調べてみるとその映画の題名というのは、アメリカ西部開拓の時代に荒くれ者が
集う酒場にて、当然喧嘩は日常茶飯事であって鉄砲玉が飛び交うことも珍しくなかった状況でも、
” ピアニストだけは撃つなよ! 酒場が盛り上がらなくなるからな!” といった、ピアニストは
酒場にとって大事な存在であったという逸話から取られたとの事。
つまり有名映画に掛けたように見せかけながら、実は本来の意味へ回帰しているという、
非常に奥深くて粋なネーミングであったのです。バーニーは米開拓期を扱った書物などを
好んで読んでいたらしく、その辺りに起因しているのでしょう。
勿論ここで ” 撃つなよ ” 、としているピアニストがエルトンである事は言うまでもありません。

それにしても ” ピアニストを撃つな!” という邦題が印象的で見過ごしがちですが、原題から
すれば ” 撃たないでくれ!俺はただのピアノ弾きだから!! (((( ;゚д゚))) ” といった
意味合いであり、あまり恰好のイイものではありませんね・・・・・(*´∀`;) ……

本作のリリースは73年1月、エルトンは同年10月にもう一枚(二枚と言うべきか?)発表します。
DJMレーベルとの間で年に2枚のアルバムをリリースする契約となっていた、という事は
以前に述べましたが、これは異常なペースです。この時期におけるエルトンの尋常ではない創造力が
うかがい知れます。そしてそれは、ポップミュージック史に残る大傑作なのでした。

#225 Daniel

喧嘩両成敗という言葉があります。
喧嘩をした者は双方とも裁かれる、ペナルティーを負うといった意味合いでしょうか。
しかし一方的に吹っ掛けられ、やむを得ず喧嘩になってしまった場合や、たしかに先に手を出しはしたが、
それに至るまでに相手方の執拗で狡猾な嫌がらせや
恫喝などがあったのにも関わらず、
喧嘩は双方とも悪い、と紋切り型で
片付けられてしまうのはどうも腑に落ちません。

テーマは「Daniel」なのに何で「Crocodile Rock」なんだ?などとは思わずに。
ちゃんと理由があります。(思わねえよ!なにせ読んでる奴なんていねえからな!ケケケ!!Ψ(`∀´)Ψ
イヤーーー!!!ヤメテーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!((o(>皿<)o))

「Crocodile Rock」はアルバム「Don’t Shoot Me I’m Only the Piano Player」
(ピアニストを撃つな!)の先行シングルとして72年11月(英では10月)にリリースされ、
エルトン・ジョン初のNo.1シングルとなった代表曲の一つです。
実は「Crocodile Rock」と「Daniel」の二曲は、どちらを先にシングルリリースするかで
揉めたものです。
エルトンと作詞家 バーニー・トーピンは「Daniel」を推しましたが、DJMレーベル社長
ディック・ジェームズはポップなロックナンバーである「Crocodile Rock」を先行シングルとすべきだ、
と譲りませんでした。ディック・ジェームズの主張は
もっともであったと言えます。
「Daniel」は優しい曲調ではありますが、ともすれば内省的とも
受け取られ、まずアルバムの成功を
第一に願うレコード会社としては当然の考えでしょう。
そしてディック・ジェームズの意見が優先され、
発売された「Crocodile Rock」は先述の通り大成功を収めました。

それでもエルトンとバーニーは諦めませんでした。何とかして「Daniel」をシングルカットするよう
ジェームズに掛け合い続け、ついにジェームズを折れさせる事に成功しました。
それでも本曲のシングル化には懐疑的で、プロモーションなどに決して力は入れなかったとされていますが、フタを開けてみれば全米2位・全英4位のこれまた大ヒット。エルトンとバーニーの主張も決して
間違っていなかった事が証明されました。ちなみにこの時1位を阻んだのはポール・マッカートニーの
「マイ・ラヴ」。相手が悪かった …

本曲は歌詞だけを見ると、失明した兄(Daniel)がスペインへ旅立つのを見送る弟の視点で語られており、
療養か何かでスペインへ行くのかな?思われてしまうそうですが、これには設定があって、
Daniel はベトナムからの帰還兵であり、戦地での負傷により視力を失ったのだとバーニーは語っています。地元では帰ってきた彼を皆が英雄視し、もてはやしましたが、Daniel は平穏な生活を望んでおり、
それが叶わず別の地へと旅立つ決意をしたのだというストーリーだそうです。なおこれにはモデルになった
実話があったとかそういう類ではないとの事。
上は76年、スコットランド エディンバラにおける演奏。個人的にはともすれば本曲に関して、
この弾き語りの方が好みです。

このケースは喧嘩両成敗ならぬ、喧嘩両WIN、あるいは争ったけれども双方成功、
といった具合でしょうか?もちろんそんな日本語はありません。私が今考えたのですから・・・・・
どちらも相譲らず、双方が主張を貫いた結果がどちらも良い目を見たという、なかなか珍しい展開で
上手く収まった出来事だったのです。

#224 Rocket Man_2

エルトン・ジョンの「Rocket Man」はアルバム「ホンキー・シャトー」からの
先行シングルとして72年4月にリリースされます。全米6位・全英2位の大ヒットを記録し、
「ユアソング」以来のTOP10ヒットとなりました。
「ユアソング」「キャンドル・イン・ザ・ウインド」「クロコダイル・ロック」などと
共にベスト盤には必ず収録され、エルトン・ジョン代表曲の一つに数えられます。

「Rocket Man」というタイトルからして、当然宇宙ロケットの乗組員を歌ったものです。
歌詞が全くわからなかった頃は大いなる宇宙への憧れを抱いて創った曲、くらいに思っていました。
インターネット時代になってその内容を知ると、それはむしろ全然違うものでした。

” 宇宙空間は淋しい場所だ 時の流れさえわからない旅 … ”
” 火星は子どもを育てるような場所じゃない実のところ 地獄のように寒い場所さ ”
” たかがこんな科学技術さ ちっともわからないよ。ただの仕事さ週5日間働くだけだ ”
” ロケット飛行士。ロケットを仕事にしてるお父さんさ ”

憧れどころか、宇宙が如何に退屈で酷い所であるかを歌っているのです。
勿論これは本当に宇宙開発や飛行士を否定している訳ではなく、” ただの仕事さ週5日間働くだけ ”
という箇所が表す通り、サラリーマンを宇宙飛行士に例えてその虚しさを歌ったものと解されています。
今でいうところの ” 社畜 ” の悲哀を歌詞に込めたというところでしょうか。
そしてそれはこの頃のエルトン自身を重ね合わせていると言われています。
過酷なツアー、契約によるアルバムのリリースという重圧、それらに追い立てられる自分は
サラリーマンとなんら変わらないではないか?と当時の心情を、相方バーニー・トーピンが
見事に代弁(勿論バーニー自身も似たような状況であった)したのでしょう。
本歌詞には元ネタとなった小説があり、バーニーはそれにインスパイアされた事を公言しています。
レイ・ブラッドベリという米SF小説家の同名作品だそうです。興味がある方はご自身で
ググってみてください。

おそらくはデヴィッド・ボウイ「スペイス・オディティ」にもヒントを得ている事でしょう。
勿論プロデューサー ガス・ダッジョンがエルトンに携わる前、「スペイス・オディティ」を
含むボウイの作品を手掛け、それによって知名度を上げたのも有名であり、既述の事。
エルトンとボウイは良き友人であったらしく、当時はマーク・ボランなどとつるんで、
よくゲイバーに行っていたとか … (*´∀`;) もっとも後年は必ずしも良好な関係ではなかったそうです。
宇宙的音楽、コズミックサウンドを表現する為には電子楽器、とりわけ当時の最先端機材であった
アナログシンセサイザーが不可欠でした。ピンク・フロイドやイエス、ドイツのタンジェリン・ドリーム
など枚挙にいとまがありませんけれども、「スペイス・オディティ」ではスタイロフォンという
電子楽器とお馴染みメロトロンが効果的に使われています。ちなみにこのメロトロンはイエスに
加入する前の学生であったリック・ウェイクマンが演奏しています。ウェイクマンが在籍していた
大学とは英王立音楽院、つまり彼はエルトンの後輩に当たる訳です。
「Rocket Man」でもアープというシンセサイザーが使用されており、当時はムーグシンセと並ぶ
電子楽器だったそうです。ちなみに本曲でそのアープを弾いているのは、のちにジェネシスの
プロデューサーとして活躍するデヴィッド・ヘンツェル。
アコースティックギターが使われているのも「スペイス・オディティ」を踏襲しているのかな?
と想像したりします。「スペイス・オディティ」のPVでボウイがアコギを弾きながら歌っているのは
あまりにも印象的です。
ギターと言えば「Rocket Man」ではスライドが独特な効果をあげています。ピンク・フロイドでも
デヴィッド・ギルモアがスライドギターをよく演奏していました。元はブルースや
カントリー&ウェスタンといった土臭い音楽で使用されていたスライドギターが、宇宙的サウンド、
スペーシーロックと称される音楽で好んで使われるのは興味深いものがあります。ちなみにギルモアは
所謂ボトルネック奏法の他に、膝の上に乗せて弾くラップスティールも多用していました
#29ご参照)。本曲でギタリスト デイヴィー・ジョンストンが行っているのはボトルネック奏法
だと思われます。
上の動画は72年、ロイヤルフェスティバルホールにおける演奏。他にもユーチューブに上がっている
ライヴの模様をいくつか以下に(76・85・00年と時系列順)。

たとえ言語の壁によって歌詞の意味がわからずとも、本曲を良いと思って聴いていた感覚に間違いはなく、
楽曲自体が持つ魅力に惹かれたことは紛れもない事実です。
しかし後年になってその意味を知ると、より本曲の創造性・世界観を奥深く味わえるようになったのも、
これまた事実に相違ありません。たしかに一番及び二番の出だしである、
” She packed my bags last night,Pre flight(旅立つ僕に昨日 妻が荷造りをしてくれた)”
” Mars ain’t the kind of place to raise your kids(火星は子供を育てる様な場所じゃない)”
これらの節の陰鬱さはとても大いなる宇宙への希望、などとは真逆のものですね・・・・・

それで今回書いていてふと思ったのですが、洋楽を聴き始めてかれこれ四十年近く経ちますけれども、
いまだに思い違いをしている楽曲などまだまだあるのではないかと ……… ( ̄∇ ̄)・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・考えるのはやめましょう (´・ω・`)

#223 Rocket Man

前回までの「Honky Château」回にて、” なんであの超有名曲が入ってないんだ? ” と思われた方 …
は …… いませんよね ……… 誰も見てませんから・・・このブログ・・・・・・・ ( ;∀;)


言葉がわからないと良くも悪くも勘違い・思い違いをするものです。
スタイル・カウンシルを取り上げた回で(#55ご参照)、ヒットナンバーである「Shout to the Top!」や「Walls Come Tumbling Down!」がその爽やかで快活な曲調とは裏腹に、権力者への不満や
現体制を打倒しよう!のような内容であったのを、言葉を理解出来ずにオシャレ系のちょっとソウル風の
ポップスだと思って、80年代当時の小洒落たカフェバーやプールバーといった店でよくかかっていた、
という事を書きました。もちろん私も歌詞などさっぱり理解していなかった一人です。
逆を言えば、厳かな雅楽風の調べにのせて、とても口に出来ない様な卑猥な単語を羅列しても
( ”〇〇×◇” とか ” \+⊆” とか ”◇◆△※〒” とか、うわ~!そんなコトふつう言えない・・・
っていうような言葉とかね ……………………… (*´∀`*)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)、
外国人には”オー!ジャパニーズビューティー!!|゚∠゚)ノ とか賞賛されるのかもしれません。
・・・・・・・・・・・・・・オメエだけだ、そんなこと考えるのは ……  (´∀` )

エルトン・ジョンの「Rocket Man」もそんな曲の一つです。
あっ!念のため言っときますけど、口にするのもはばかられる様な卑猥な歌詞であるとか、
そういう事ではないですよ (´・ω・`) ・・・・・・・・・知ってるよ!  (´∀` )
冒頭の超有名曲とは勿論本曲の事。別個に取り上げるため前回・前々回では省きました。

くだらない前置きで長くなりましたので、その中身については次回以降にて。

#222 Honky Château_2

71年1月に前年末からチャートを駆け上がってきた「ユアソング」が全米8位/全英7位の大ヒットとなり、
エルトン・ジョンが世界中に知られる存在となった事は既述であり、また同年におけるコンサートツアーが
それに拍車をかけ、またそのツアーが熾烈(内容そしてエルトン達にかけるストレスという両方の
意味
にて … )であったことも書きました。

同年におけるエルトンのスケジュールをちょっとだけ書き出してみると、年明けにフランスで催された
音楽フェスに参加する為渡仏し、その後少しではあるが北欧ツアーをこなし、その後に長い北米ツアーへと
旅立ちます。これも既述ですが、その合間をぬって2月と8月に「マッドマン」のアルバムレコーディングも
行っている訳です。そしてこの時期、実はマネージャー不在で営業を行っていたらしく、前年の米ツアー時に
クビにしてから一年の間マネージメントするスタッフ無しで、営業面は行き当たりばったりだった様との事
(その後スコットランド人のマネージャーを迎え、その面は解消された)。
上はB-①「Salvation」。作詞家 バーニー・トーピンはキリスト教徒というわけではなく、
むしろそれらには辛辣な姿勢であったらしく、本曲は単純な内容ではないらしい・・・

そのバーニーはツアーにも同行して、ステージの最中にエルトンから呼ばれるのを舞台袖で待ち続け、
ほんの一瞬ステージで挨拶をした後、オーディエンスに小さく手を振ってまた舞台袖に戻っていく、
という事を繰り返していたそうです。
エルトンだけではなく、バーニーもこの様な日々の繰り返しに相当なストレスをため込んでいたらしく、
お互い心身ともに疲弊していきます。エルトンはアルコールと過食、バーニーはドラッグへと
溺れていくのでした・・・
B-②の「Slave」はエルトンお得意のカントリー調ナンバー。牧歌的な曲調ですがアメリカにおける
奴隷の奴隷の辛い境遇を歌ったものらしい・・・

皮肉なことに「ユアソング」のヒット以降、ミュージシャンとしては成功の一途をたどり続けるのと
反比例して、その肉体と精神はどんどん病んでいく事となった訳です。
ちなみにDJMレーベルとの間ではこの時期年に2枚のアルバムをリリースする契約となっていて、
これがエルトン達へのプレッシャーとなっていたことも言わずもがな。
自分たちを拾ってくれたDJM社長 ディック・ジェームズへは恩義もあったでしょうが、
不満も持っていた事は事実で、これがのちにおける泥沼の裁判沙汰へとつながったのかも・・・・・
「Amy」は一筋縄ではないファンクナンバー。エレクトリックヴァイオリンと相まって
魔訶不可思議な雰囲気がプンプンします。レオン・ラッセル調とよく評されますが、私は少し
スティービー・ワンダー臭も感じます。同時期に活躍した天才・鬼才(奇才)たちですから、
影響を受けあって何ら不思議はないです。ちなみにレオンが42年生まれ、エルトン47年、
スティービーは50年生まれです。

かようにツアーに明け暮れた71年が明けて、翌72年初頭からシャトウスタジオにて腰を据えて
制作に取り組んだ作品が「Honky Château」であるというのが前回の内容でした。
そこではコンビを組みたての頃の様にするすると楽曲たちが生み出されていった、と書きましたが、
別の資料によればこの時期のエルトンもかなり精神的に不安定だったとあり、生来の癇癪が
いつ爆発するか、回りは最新の注意を払いながら何とか5月の発売へこぎつけたとあります。
もっともこの資料というのは児童書の ” 伝記 エルトン・ジョン ” みたいな本なんですけどね …
地元の図書館で検索したら唯一ヒットしたのがこの児童書でした・・・ (*´∀`*) ………
B-④「Mona Lisas and Mad Hatters」は隠れた名曲として知られてます(こういう言い方は
よく目(耳)にしますが隠れてるのか知られてるのかどっちなんでしょう? (´・ω・`) ……… )。
エルトン自身が ” one of my all-time favourites ” と称している楽曲であり、N.Y. を歌った
ナンバーである本曲はアメリカ同時多発テロ事件への鎮魂曲として捧げられました。
ベン・E・キングの「スパニッシュ・ハーレム」にインスパイアされて創られたことも
ファンにはおなじみの事。

同年にエルトンはレジナルド・ケネス・ドワイトからエルトン・ハーキュリーズ・ジョンへと
改名します。25歳の時でした。またロンドンから小一時間の所に家を買い、その家を
「ヘラクレス(ハーキュリーズ)」と名付けました。エルトンはステージでしばしば椅子などを
持ち上げたりして怪力を誇示するようなパフォーマンスを行っていたそうで、ギリシャ神話の英雄で
怪力の持ち主である象徴のヘラクレスに何か思い入れがあったのでしょうか?
そして本アルバムのラストを飾るのが「Hercules」。

#221 Honky Château

環境が変わると気分が一新され、良い結果へと物事が成されるということは往々にしてあります。
どうしても書けなかった作家が普段の仕事場を離れたとたんにするすると筆が進んだとか、
演技がマンネリと評されていた役者が充電と称して海外でしばらく過ごした後、帰国してからの
それは一皮剝けたものになっていたとか、倦怠期が訪れた夫婦の間でカミさんにセーラー服を
着せてみるとか、( … ん?話がおかしくなってきてねえか?? (´∀` ) …… )、
普段は右手ばかりなのでたまには左手で・・・・・下ネタ禁止!!!ヽ( ・∀・)ノ┌┛Σ(ノ;`Д´)ノ

エルトンの成功が70年8月に行われた L.A. 公演をきっかけとしたことは以前に述べましたが、
翌71年も北米ツアーに長い期間が費やされました。本ツアーはやがてエルトンのワンマンショー的な
性格を帯びていき、これも既述ですがそのコスチュームやステージアクションはどんどん派手さを増し、
アメリカのオーディエンス達を大いに沸かせたのです。
悪い言い方をあえてするならば、エルトンのメロディックかつ、エモーショナルかつ、グルーヴィーかつ、
深淵な音楽性は蚊帳の外とされ、ぱっと見受けするようなパフォーマンスで注目された訳です。
一年半もの間あまりにツアーに明け暮れたため、明けて72年1月からエルトン達は腰を据えて
アルバム創りに取り掛かります。それが「Honky Château」。言わずと知れたエルトン快進撃の序章を
飾る作品で、初の全米1位を獲得したアルバムです。
上はオープニング曲である「Honky Cat」とA-②「Mellow」。「Honky Cat」はエルトン流
ニューオリンズスタイルといった楽曲。「Mellow」は後半のエレクトリックヴァイオリンが印象的。

パリから北に40キロ行ったところにあるエルヴィルという村。そこに建つ古城を改装したスタジオで
本作のレコーディングはなされました。タイトルである「Honky Château」とはそのスタジオ(城)を
指します。もっとも当時はストロベリースタジオと称して貸し出されていたそうです。
勿論10ccで有名な英マンチェスターの同名スタジオ(#171ご参照)とは別物。

本作よりツアーメンバーとレコーディングのそれが同一となります。つまりディー・マレイ(b)や
ナイジェル・オルソン(ds)が基本的には全てのトラックでプレイするようになりました。
さらに前作からも参加していたギタリスト デイヴィー・ジョンストンが本作よりエルトンバンドの
メインギタリストとなり、スライドやバンジョー、
マンドリンなども多彩にプレイする彼によって
バンドは新境地を開きます。
この古城における制作作業はエルトンに良い結果をもたらしたそうです。
バーニーが朝食時に歌詞が書かれた紙の束を持ってきては、エルトンがそれを ” ビジュアル ” として想像し、そこからメロディーが流れ出るように生まれた。まるでモータウンのヒット工場のようだった。
そこでの制作過程はこの様に表現されています。二人は一時期エルトンの家で暮らしていました。
もっとも空軍大尉であった実父と母親はその時既に別れており、エルトンの母と再婚相手が
暮らしている家でした。二段ベットの上でバーニーが詩を書き、出来上がると下のエルトンが
それを受け取ってすぐさまピアノの向かって曲を創り始める。コンビを組んだ当初、駆け出しの二人は
そのような事をして作品を創りためていました。その古城でまた二人の黎明期におけるコラボレーションが
再現されたのです。バーニーが上の階で曲を書き、マキシン(バーニーの妻。「タイニーダンサー」の
モデルである事は既述)が急いでスペルを修正し、ピアノに置かれた歌詞にエルトンが取り掛かり、
バンドメンバーたちはすぐ後ろでその作業が終わるのを待っている、という状況だったそうです。
前作「マッドマン」は第一章の終わりであり、全く違う新しい何かを始める時を迎えていた、
そうして創られたアルバム、それが「Honky Château」でした。

長くなったので「Honky Château」については次回も続けます。