#180 Say Goodbye to Hollywood

ビリー・ジョエル四枚目のアルバムである「Turnstiles」(76年)。
” Turnstiles ” とは回転式のバーなどで通過する者を一方通行で通す改札口・出札口の意。
つまりそこを出たら(入った場合も同じですが)二度と逆戻りは出来ないという事です。
当時におけるビリーの決意を表したものだったのでしょう。

「Say Goodbye to Hollywood」はオープニングナンバーであり本作を象徴する楽曲。
所謂フィル・スペクターサウンドのリスペクト・オマージュとして、ウォーカー・ブラザーズ
「太陽はもう輝かない」などと共によく引き合いとして出される定番です。
日本では勿論大滝詠一さんの「君は天然色」「恋するカレン」がウォールオブサウンドの決定版。
余談ですけれども、最近放送された深夜アニメの『かくしごと』(久米田康治原作)で「君天」が
テーマ曲に使われてました。良いセンスですね。

本曲の歌詞は意外に訳詞・解釈が難しいらしく、人によって多少異なります。
折に触れ書いてきましたが、私はポップミュージックにおいて歌詞の内容というものにあまり重きを
置いていません。大事なのは韻の踏み方やトータルなイメージであって、あまり深読みするべきものでは
ないと思っています。深読みの極地がボブ・ディランやジョン・レノンの歌詞を徹底追及し掘り下げている
人達だと認識しています(ディランやジョンは本当にそんな事考えて詩を書いたのかな?という程に … )。
勿論好きでやっている事にケチを付ける気は毛頭ありません(でもケンカ売ってねえか?)

それでも彼の転換点となった本曲における歌詞の内容はビリー・ジョエルというミュージシャンの
軌跡を語る上で重要かと思いますので今回はそれについて取り上げます。

街の中を、ボビーは車を走らせて行く、
新しいレンタカーで、街灯の下を走るのさ。
この機械に恋人を乗せるのさ。
サンセット大通りじゃお馴染みの風景さ。
ハリウッドにサヨナラするのさ。
俺のベイビーにもサヨナラするのさ。
ハリウッドにサヨナラするのさ。
俺のベイビーにもサヨナラするのさ。
ジョニーは色んな事を気にかけてくれてた。

彼のやり方は吟遊詩人みたいなものさ。
彼をドアに背を向けて座らせたけど、
俺はもう彼の世話になる事は無いだろう。
ハリウッドにサヨナラ・・・
一緒にいようとして、移り住むのは、

どうなるか分からないものなんだぜ。
思い上がったような事を言うと、
君の友達なんて永遠にいなくなるんだぜ。
永遠に。
沢山の奴らと会い、別れて来た。
何人かはこれからも会うだろうし、
何人かはこれっきりになるだろう。
人生なんて出会いと別れの連続なんだぜ。
これが別れにならなきゃ良いんだが。
ハリウッドにサヨナラ・・・

決してL.A. に辟易して脱出した訳では無い事がこの歌詞から伺えます。愛着が湧かなかったのではない、
イイヤツとの出会いもあった、でもお別れさ、といった感じでしょうか。

上はビリー初のライヴアルバムである「Songs in the Attic」(81年)に収録されたもの。
「グラスハウス」プロモーションツアー(80年)における際の一曲という事で、もう少し具体的に言うと、
「ストレンジャー」「52番街」そして「グラスハウス」とお化けの様な超特大ヒット作を連発した直後で、ビリーが最もノリに乗っていた時期のライヴヴァージョンであるのでそのテンション感も凄まじいです。
「Songs in the Attic」については勿論後で(だいぶ後の回で)取り上げます。

https://youtu.be/_EQbD-t0jRU
今度は動いてる動画を(動くから動画って言うんだけどね … )。77年のスタジオライヴという情報だけで
いつのものかは不明ですが、本演奏を含めた30分超の完全版もあがっており、それには「ストレンジャー」のナンバーも含まれているので、「ストレンジャー」のリリース(9月)直前ないし直後の様な気がします。
本演奏ではこれからの快進撃を予感させる高揚感が感じられます。

また長くなってしまったので、本曲以外の「Turnstiles」収録曲については次回にて。

#179 The Entertainer

前回に引き続きビリー・ジョエル74年のアルバム「ストリートライフ・セレナーデ」について。
日本版ウィキの揚げ足を取る様でナンですが、本作も「ピアノマン」と同じくゴールドディスクを
獲得している、とあるのですが、ゴールドに認定されたのは80年12月の事です。
つまり77年における「ストレンジャー」の大ブレイクによって遡及的に売れたのであり、
発売当時はそれ程のヒットとは言えませんでした。全米最高位35位と、もし無名の新人で
あればTOP40入りしたと十分な健闘ですが、「ピアノマン」の後を受けてのリリースの割には
いまひとつ奮わなかったというのが実際の所でしょう。
その「ピアノマン」についても、ウィキを参考にすれば4☓プラチナ(400万枚以上)という
凄い数字ですが、ゴールドに認定されたのは75年11月。発売から二年後の事でした。
ちなみにプラチナ認定が86年で4☓プラチナになったのが99年です。
プラチナはやはり「ストレンジャー」の超特大ヒットによるものである事は否めませんが、
しかしゴールドはそれより前なので、じわじわとセールスを伸ばしていき、二年の月日を経て
ゴールドディスクを獲得したのです。本当に良い作品とはこういう売れ方をするのでは。

本作で最も有名な曲である「The Entertainer」。シングルカットされ全米最高位34位、
85年の二枚組ベストにも収められています。多くの人の初聴はそちらでしょう(勿論私も)。
ヒットを飛ばした ” エンターテイナー ” 及び彼が置かれた状況についてかなり自嘲と皮肉を込めて
歌っています。まさに当時のビリーの心情を歌ったもので、ピンク・フロイドの「葉巻はいかが」に
通じるものです(#27ご参照)。

上はB-②「Last of the Big Time Spenders」ですが、前から何かの曲に雰囲気が似ているな?
と思っていました。エルトン・ジョン73年の歴史的名盤「
グッバイ・イエロー・ブリック・ロード」に
収録されている「Sweet Painted Lady」に似ているんだ、と最近になって気づきました。
後に何かと比較される事となる二人ですが、この時点においてはビリーはTOP40ヒットを
二曲出しただけ、それに対してエルトンは70年の「ユアソング」以降大ヒットを連発し、
スターダムを駆け上がっている最中でした。「ストリートライフ・セレナーデ」制作の頃には
「グッバイ・イエロー・ブリック・ロード」は大ヒットしていたので、おそらく耳にしていたのでは
ないかと勝手に想像したりします。

「Weekend Song」は一転してエッジの効いたロックチューン。ロックンローラーとしての
一面は健在です。

「Souvenir」は「コールド・スプリング・ハーバー」や「ピアノマン」に収録されていても
違和感のないナンバー。作風はそう簡単には変えられないといった所でしょうか。

アルバムラストである「The Mexican Connection」はインストゥルメンタルナンバー。
ラテンタッチのノリは初期からビリーの中に在りました。人種のるつぼで産湯をつかったのだから当然か。

率直に私見を言うと「ストリートライフ・セレナーデ」は1stと2ndのクオリティーには
及ばないものと思っています。ビリーの中でのストックが尽きてきたこと、制作期間の短さなどの
理由があるので致し方ないとは思います。彼のディスコグラフィー中ではイマひとつ埋没しがちな
作品であるのは否めませんが、やはりそこはビリー・ジョエル。駄作などは決して生みませんでした。
80年代前半に出版されたロックアルバム名鑑(二千円以上という中学生の私からして大枚をはたきました)
には ”「ピアノマン」のヒットを受けて次の成功を気負うあまりプレッシャーに負けた感がある ” などと
レコード評が載っていましたが、今ならこれが全くの見当違いである事が自信を持って言えます。
成功したいと思わないミュージシャンはいないですし、勿論当時のビリーもそうだったでしょう。
しかし気負い・焦りの様なものは全く感じられません。全てのナンバーがビリー・ジョエル印です。
「エンターテイナー」の歌詞から当時の彼が極めて冷静に自分の置かれた状況を客観視出来ていたことが
明白です。だからと言ってコロムビアレコードを責めるのも酷です。営利企業なのですから儲ける事が
至上命題であるのは当然ですし、生き馬の目を抜くポップミュージック界ではあっという間に
世間から忘れられてしまうのが常ですので、次作の制作を急かしたのもある意味致し方ないかと。
しかしこの経験が後におけるビリーの大ブレイク後に重要な意味を持ってきます。
この話はだいぶ後の回になると思いますが・・・・・・・・・・・

#178 Streetlife Serenade

その人に定着したイメージと実際が異なるという場合が往々にしてあります。
上方漫才、というより日本漫才界の最高峰と言うべき夢路いとし・喜味こいし師匠。
実は東京生まれだそうです。あの関西弁による漫才の筆頭格としか思えないお二方が
東京出身者だったというのは驚きです。…………… あっ!これ、漫才のブログじゃないですよ。
昔の洋楽についてばかり書いている誰も見ていないブログです・・・・・

「ピアノマン」のヒットにより世間に認知される事となったビリー・ジョエルですが、
最初の契約先であるファミリープロダクションからバックレる様にL.A. へ移ったのは
前回で既述の事です。そして「ピアノマン」はL.A. で創られた作品です。
今日においてはN.Y. の象徴という存在であるビリー・ジョエルのブレークは
故郷の東海岸ではなく西において始まったのです。
こんなビリーの経緯をいとし・こいし師匠とだぶらせられるんじゃないかなと思って
上の枕を書きましたが、読めば読むほど見当違いの様な気がしてきました …(じゃあ書くな)。

「ピアノマン」の次作である「Streetlife Serenade」(74年)。そのA-①が上の
「Streetlife Serenader」です。恥を忍んで言いますと、ずっとタイトルソングとして
同じ ” Serenade ” だと思っていました・・・・・・・・・・・
「セレナーデ」は愛する女性に対して、彼女の部屋の窓下で歌う愛の歌を指すそうです
(勿論現在では通報されます)。「セレナーダー」はそれを歌う(詠う)歌い手・詩人といった
所でしょうか。吟遊詩人と訳したブログもありました。
ここでのストリートは間違いなくN.Y. ではなくL.A. の街角です。

A-③「The Great Suburban Showdown」は前二作に収められていてもおかしくない曲調ですが、
一点だけ決定的に異なるのがシンセサイザーの使用。本作からビリーはムーグを取り入れます。

ある時期ビリーのコンサートでは定番のナンバーであったA-④「Root Beer Rag」。
ジャズ、ブルーグラス、そしてクラシックの要素をも取り入れながらのピアノテクニックを
存分に披露するための様な曲です。タイトルのラグはラグタイムを指します。
私は決して詳しくないのですがそれはジャズの前身とされる音楽スタイルと言われています。
ちなみに「ピアノマン」のヒットを受けて急いで次作に取り掛からなければ
ならなかったが、
曲のストックが無く苦肉の策としてビリーにとっては
指慣らし的な演奏を収録するに至ったという話も。

A面ラストの「Roberta」は地味な楽曲ですが、「ニューヨーク52番街」の「ロザリンダの瞳」に
繋がるものと思っています。人種のるつぼであるN.Y. で育ったビリーならではで、英仏独以外の
欧州をルーツに持つ女性(イタリアやスペインなど)、あるいは中南米の女性を題材としたナンバーの
はしりです。勿論実際にそういった女性たちとも星の数ほど付き合ったことでしょう。

中途半端な長さですけれども、アルバム丸ごと取り上げるとやはりかなりのボリュームになるので、
本作についても二回に分けます。なので次回も「ストリートライフ・セレナーデ」について。

#177 Captain Jack

ビリー・ジョエルのアルバム「Piano Man」(73年)に収録されている
「The Ballad of Billy the Kid」。西部劇において伝説化された人物をモチーフにした本曲は、
ビリーがこの人物について目にしたものを基に創り上げたストーリーであり、
実際のビリー・ザ・キッドについて史実通りかどうかは不正確であると本人も認めています。
歴史上の人物なんてこんなものでしょう。忠臣蔵なんかお上から任された指南役としての
仕事を忠実にこなしていたいただけなのに、仕事が出来ず癇癪持ちの指導相手に切りつけられ、
さらにそれを逆恨みした部下たちによって一方的に押し入られ殺害された、というのが
実際の所であると現在では定説になっています(話が横道に逸れたかな・・・・・)。

ビリーの父親がユダヤ系ドイツ人というのは前回触れましたが、宝石商を営みかなり裕福で、
しかもかなりのピアノの腕前であったそうです。ビリーはこの父親によって英才教育を受けました。
彼の音楽的ルーツはここにあります。
ちなみにビリーの本名はウィリアム・マーティン・ジョエル。私昔はビリーというステージネームは
上記のビリー・ザ・キッドから付けられたものと思っていましたが、後にウィリアム(William)を
短縮した愛称が ” Bill(Billy)” であると知りました。つまり、ビリー・ザ・キッドも本名は
ウィリアムという事です。

「The Ballad of Billy the Kid」は後にビリーお得意のスタイルとなる小物語的楽曲創りです。
「ストレンジャー」に収録された名曲「イタリアン・レストランで」に代表される様な、
ちょっとした短編映画を観ている様な感覚にさせてくれます(音だけですが)。
もろ西部劇といったイントロから、良い意味で大仰なアレンジ構成に移るといった、複数パートからなる
曲創りは本ナンバーから始まったものでしょう。特にオーケストラが素晴らしい効果を挙げています。

2ndシングルである「Worse Comes to Worst」。ある評論家曰く ” 少しカントリー、少しロック、
そして少しゴスペル ” だそうです。そんな気もしないではありません。

「Stop in Nevada」は前作に収録されていても違和感の無いナンバーです。ですがやはりここでも
オーケストラアレンジが一際際立っており、やっぱり大手のレコード会社と契約したからこそ
贅沢な作りが出来たのでしょう。スティールギターも素晴らしい(前作とは違うギタリスト)。

スケール感溢れるナンバー「If I Only Had the Words (To Tell You)」。ビリーは決して
美声の持ち主という訳ではありませんが、朗々とした歌いっぷりが素晴らしい。

「Somewhere Along the Line」はゆったりとした中にもリズミックでなおかつゴスペルの
香りもするダイナミックなナンバー。
余談ですが本作にはラリー・カールトンが参加しています。しかしラリーを含めて三人の
ギタリストがクレジットされており(ペダルスティールは更に別)、正直どれがラリーの
演奏であるかは判別出来ません。

良いものが必ずしも世間に認められるとは限りません。何度か同様の事は書いていますが、
存命中は見向きもされず死後になって評価されるなどという事もありますし、
いまだに埋もれている名曲などは沢山ある事でしょう。
これだけ逆を張ってから言いますが、「Captain Jack」は認められるべくして認められた曲だったのだと
私は思っています。
FMでかかっていたのをコロムビア・レコードの重役がたまたま耳にし契約のキッカケとなったのは
既述ですが、この話にはもっと深い流れがあります。フィラデルフィアのWMMRというFM局に
よってそのスタジオライヴの模様は72年4月にオンエアされたました。前作から7曲未収録曲が5曲という
セットリストで、「Captain Jack」は未収録曲の一つでした。それが上記2曲のうち下の方です。
本演奏はすぐにWMMRのオーディエンスによって絶賛され、その後一年以上に渡って
レギュラーローテーションとなり放送されました。そしてこの曲は何のアルバムに入っているんだろう?
と、皆が求めるようになったのです。その後更にN.Y. におけるいくつかのFM局でもオンエアされ
世間に浸透していく事となります。
たった一度だけ地方のラジオ局で放送された演奏がたまたまコロムビアの重役の耳に留まった、
というのであれば運命論なども信じたくなりますが、実際はローカルであれども評判が高まり
オンエアされる頻度も上がっていった中においてコロムビアに知られる所となったのです。
この経緯にかなりの必然的要素があった事は否めない事実なのです。

現在殆どのリスナーがアルバムに収録された「Captain Jack」を先ず耳にし、その後に
11年に発売された「Piano Man」のレガシーエディションによって(先のスタジオライヴが
ボーナスディスクとして付いている)、あるいはユーチューブにて72年のライヴ版を
遡って聴いたことでしょう。勿論私もそうです。なのでアルバム版の印象が刷り込まれて
しまっていてライヴ版をまっさらな耳で聴くことが困難なのですが、アルバム版は
コロムビア契約前からビリーが持っていた本曲のイメージ通りだったのではないでしょうか。
先にも書いた通り大手と契約した事によってオーケストラなど贅沢なアレンジが実現しましたが、
最初からビリーの中にはアルバム版の様な形があったのではないかと思えるのです。
勿論先述した様にアルバム版を先に聴いた故の刷り込みによるものかもしれませんが・・・・・

アルバム「Piano Man」に収録された楽曲も基本的には前作と同系統の素材であると思います。
それがコロムビア・レコードの力によって贅沢かつ華がある創りとなり、よりエンターテインメント音楽
として完成されたものになりました。個人的にはどちらも甲乙つけがたい内容なのですが、
上の様な理由から商業的に成功したのではないでしょうか。
当然の事ながら、コロムビアによる強いプロモーション
も大きかったのでしょうけれども。

#176 Piano Man

鳴かず飛ばずだったビリー・ジョエルの1stアルバム「Cold Spring Harbor」ですが、
前々回・前回と取り上げた通りその内容は非常に秀逸なものでした。
運が悪かった、世間の見る目が無かった等、原因はいくつか考えられますけれども、
販促が弱かったというのは否めない事実です。
「Cold Spring Harbor」はファミリープロダクションというレーベルから
リリースされました。若きビリーの才能を見出したというのは特筆に値する慧眼ですが、
如何せん零細レーベル故にプロモーションは脆弱で、しかも回転数を誤りピッチが
上がってカッティングされてしまったというオマケ付きという有様でした(前々回ご参照)。
そんなレコード会社だったので、拾ってくれた恩義を感じながらもファミリー・プロダクションへ
見切りを付けようとしたビリーの心情も理解出来無くはありません。

「Piano Man」(73年)は同名アルバムからの1stシングルであり、ビリーにとって
最初のヒット曲であると同時にビリー自身を象徴する楽曲でもあります。
全米チャートで最高位25位と、無名の新人としては申し分ないヒットです。

アルバム一曲目の「Travelin’ Prayer」。前回でも触れましたが、ビリーとカントリーミュージックとは
あまり結び付かないイメージですが、初っ端から思いっきりブルーグラス調のナンバーです。
ビリーの音楽は良い意味で無節操であり、「素顔のままで」「オネスティ」しか知らないリスナーには
意外なものでしょう。ソロデビュー前のサイケバンドも、ビリーの一音楽であったのかもしれません。

ファミリープロダクションから逃げだすかの如く72年にビリーはN.Y. からL.A. へ移ります。
それは何故かと言えば、同年春にフィラデルフィアのFMで流れた「Captain Jack」のライヴを
耳にしたコロムビアレコードの重役が、ビリーの音楽に興味を持ち会社へ紹介したのです。
前述の通りファミリー・プロダクションの脆弱さに不満を抱いていたビリーは当然の如く
大手レコード会社であるコロムビアと契約をし、L.A. へ移住を決めたという訳です。
ビリーにまつわる有名な逸話として、音楽に没頭するあまり学業がおろそかであったビリーに対し
高校の教師がその姿勢を非難したところ、「俺はコロムビア大学ではなく、コロムビアレコードへ
行くのだから勉強は必要無い!」と言い放ったというのがあります。
本当にコロムビアレコード相手に契約と相成った訳です。

コロムビアと契約したとは言いましたが、当然ファミリープロとの契約も活きていました。
この辺りは ” 大人の ” 話し合いがなされたらしく、前作の権利をファミリーから買い取る、
また記述は見当たりませんでしたが、次々作の「ニューヨーク物語」までリリース元が
ファミリープロ/コロムビアとなっている事から、その辺りで手を打ったのでは?
(更に怖い話としてコロンビア側の重役がファミリーの社長を脅したとかナンとか・・・)

上はA-③の「Ain’t No Crime」。ビリーによるソウルフルなヴォーカルと
ゴスペル風女性コーラスからR&B・ソウルへの傾倒ぶりも伺えます。

A-④「You’re My Home」は当時の妻であるエリザベスの為に書いた曲。ウェストコーストに
いた頃は経済的余裕の無さから何も買ってあげられなかった故、バレンタインデーの贈り物として
彼女へ捧げたナンバーだそうです。「ストレンジャー」以降は家など何軒でも買える様になりました。
あっ! あと、ついでに言うと奥さんも何人でも …………… ヤメロ!ヽ( ・∀・)ノ┌┛Σ(ノ;`Д´)ノ
本曲もカントリーテイストが漂い、フィンガーピッキングによる生ギターやペダルスティールなどが
よりそれをイイ感じで演出しています。

話しは「ピアノマン」に戻ります。ビリー最初のシングルヒットでありシグネイチャーソングとも
言うべきこのナンバーは、アメリカを代表するミュージシャンであるビリーらしく、自身のそして
アメリカの魂とも言えるジャズ風のピアノイントロに始まります・・・・・・・・・・・・・・が、
その後の展開はいきなり三拍子、つまりワルツのリズム。そしてマンドリンやアコーディオンといった
楽器を用い欧州風の音楽、ブリティッシュ・アイリッシュトラッドミュージックかの様な曲調です。
カントリーでもマンドリンを使用する事はあるそうですが、やはりこれはヨーロッパの感覚でしょう。
勿論白人であるビリーのルーツはヨーロッパにあります。父はドイツ系、母はイギリス系の共に
ユダヤ人。しかしビリーにはあまり自身のルーツであるとか、特にユダヤ系である事にさして
思い入れは無いと言われています。
つまりこの人、音楽的に良ければ何でも取り入れる、先述した通り良い意味で無節操なのでは?
歌詞の内容は良く語られる所なのでここでは最小限にとどめます。
自身をバーのピアノ弾きに見立て、そこに毎夜やってくる常連や百戦錬磨のウェイトレス
(最初の奥さんエリザベスがモデルとも)が繰り広げる群像劇といったストーリーになっています。
これはファミリープロからトンズラし、L.A. で日銭を稼ぐため実際にラウンジミュージシャンを
していた頃の実体験を基にしているとか。
チャートアクションこそ「ストレンジャー」以降のシングルヒットには及ぼないものの、
コンサートではエンディング曲の定番となっており、オーディエンスの大合唱と共に終えるのが
お約束となっています。その事からしてもビリーにとって特別な一曲であるのは確かです。

ここまででアルバム「ピアノマン」に関してのまだ半分です。なので次回も「ピアノマン」その2。

#175 Cold Spring Harbor

ビリー・ジョエルは49年、N.Y. 州生まれ。彼の生い立ちなどは折にふれて。

デビューアルバムである「Cold Spring Harbor」(71年)はとにかく売れなかった、というのは
前回も述べました。
ビリーはソロデビュー前に二つのロックバンドを経ていますが、時代が時代というだけあって、
サイケ色満開で混沌とした音楽であり、これは昔からくそみそにこき下ろされています。
私も一度だけ耳にしましたが確かに二回は聴こうと思いませんでした …
上はA-②の「You Can Make Me Free」。「She’s Got a Way」と甲乙つけがたい
本作におけるベストトラックではないかと思っています。
ちなみに上は83年版で(前回ご参照)初出より短く再編集されています。初出版はこれです。

ピアノのみであった「She’s Got a Way」にはストリングスなどが加えられたのに対し、
本曲のリメイクにおいてはかなり削られた部分があります。後半のギターソロが長すぎるという
判断だったのでしょうが、個人的にこの後半の ” ハジけっぷり ” は好きです。71年というのは
こういう時代だったのであり、再発版も勿論良いのですが、22歳当時におけるビリーの
パッションを余すところなく伝える快作です。
これにはソロデビュー前のサイケバンドにおける経験もあり、さらにはオープニングの
「She’s Got a Way」が内省的な仕上がりだったので、” 次曲は暴れてみよう ” 、という
目論見もあったのでしょう。なのでアルバムコンセプトから言えば初出こそビリーが意図する所のはず。

A-③「Everybody Loves You Now」。ブルーグラス(カントリー&ウェスタンでテンポが
速いもの、という私の認識ですが、違っていたらご勘弁)の香りも少し漂うジャンプナンバーです。
ビリーとC&Wとはあまりイメージ的に結び付きませんが、初期は意外にも … 次作でわかります。

B-①の「Turn Around」はいかにも70年代初頭らしい、ジェームス・テイラーの曲と言われても
疑わない作品、といった感じですが実は初出版を聴いてみると・・・・・

83年版よりも泥臭い、サザンロック・スワンプロックといった仕上がりになっています。
リミックスヴァージョンではスライドギター(本曲はペダルスティール)が抑えられてしまって
いますが、原曲はもっとフィーチャーされています。今回調べていて初めてわかったのですが、
このスライドはスニーキー・ピート・クレイノウというギタリストによる演奏。
バーズを脱退したメンバーとカントリーロックバンドを結成し、ペダルスティールの名手と
謳われたプレイヤーだったそうです。83年版は洗練さが売りで、初出は朴訥さと
この素晴らしいギターが堪能が出来、結局はどちらも良いです。

非常にポップな楽曲である「You Look So Good to Me」。印象的なハモンドオルガンは勿論ですが、
ハーモニカもビリーによるもの。

「Tomorrow Is Today」はキャロル・キングか?、という程に内省的シンガーソングライターの
作品と呼べるもの。「つづれおり」が同年2月のリリースで、全米チャートにて15週連続一位という
お化けの様な売れ方をしたのですから、当然ビリーもこれに影響を受けなかったはずはありません
(「Cold Spring Harbor」の録音は7月からとされています)。
しかしながら、これも初出版はかなり違います。動画は張りませんがご自身でググってください。

エンディング曲である「Got to Begin Again」も「Tomorrow Is Today」と同系統の
ピアノ弾き語りによるナンバー。

ユーチューブを漁っていたら面白いものが。同71年におけるスタジオライヴらしいです。
音はお世辞にも良いとは言えませんが(タダで聴いてるんだから文句言うな!)、
若き日のビリーを生々しくうかがい知る事が出来る貴重な録音です。

当然の如く、前述した通りキャロル・キング、ジョニー・ミッチェル、ローラ・ニーロ、
そして同性であればジェームス・テイラーといった、当時台頭しつつあったシンガーソングライター達の
音楽に影響を受けたのは間違いないでしょう。結果的には箸にも棒にも掛からぬ程に売れませんでしたが、
永年に渡り幻の名作と言われ(日本では83年の再発迄は輸入盤・中古盤でしか聴くことが出来なかったので
尚更の事)、実際本作の内容はそれらの評価が紛うことなきものである事が明白です。
しかし少し天の邪鬼的な視点で言わせてもらうと、キャロル・キングやジェームス・テイラーといった
内省的シンガーソングライター風な音楽だけかと言えば、ややが付きます。
83年の再発時には邦題で ” ピアノの詩人 ” というサブタイトルが付きました。「ピアノマン」での
ブレイク前における、若き日のビリーによる心に染み入る珠玉の作品集、と言った売り出し方です。
勿論これが的外れだなどと言うつもりはありません。70~80%はその通りです・・・ですが …………
初出版の「You Can Make Me Free」や「Turn Around」を聴いてわかる通り、
実は結構ハジけています。
「ストレンジャー」「ニューヨーク52番街」にてビリーをバラード、ジャズ的なAOR、ソフトロックと
いった甘い印象で捉えた聴衆が「グラスハウス」で面食らった事はいずれ触れる所ですが(だいぶ後 …)、
キャロル・キングやジェームス・テイラー達と異なっていたのは、実はビリーは筋金入りのロックンローラーであるという点です。かなり語弊がある言い方になってしまいましたが、キャロルやジェームスに
R&Rスピリットが無いという事では決してありません。R&Rに対するベクトルの様なもの、
もう少し冗長を覚悟で述べるとすれば、それぞれが持っている音楽的 ” 引きだし ” の数々において、
ビリーは他のシンガーソングライター達よりもR&Rが占めるウェイトが大きかったのではないかと。
つまり「ピアノマン」、「素顔のままで」、「52番街」に収録された「ザンジバル」といった楽曲と
同じ比重で、R&Rナンバーも演っていたのだと考えています。R&Rもこなすシンガーソングライター
(世間一般的イメージの)ではなく、シンガーソングライターでありロックンローラーでもある、
そういうミュージシャンなのだと私は思っています。
何度も述べますが、他の人達にR&R魂が無いという事を言ってる訳ではないですよ。
キャロル・キングはある意味R&Rを創った偉人の一人です、「ロコモーション」を聴けばわかります。
上の部分は言いたいことが上手く伝わったどうか、かなり自信がありません。
なので忙しい人はちゃっちゃと読み飛ばしてください・・・・・あっ、でも曲だけは聴いてくださいね …

#174 She’s Got a Way

今回からビリー・ジョエルを取り上げます・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
前回まで10ccという、英国人らしい少し斜に構え、でありながらして非常に練り込まれた
ポップミュージックを創ったバンドを取り上げていたのに、ジャズ・R&R・R&B・ドゥーワップといった
アメリカ音楽の体現者とも言える存在であるビリー・ジョエルへなぜ話が流れるのか?
洋楽に精通している方であれば ” はは~ん、そのつながりで来たか ” とすぐにピンとくるかも
しれません。ましてやブログタイトルはビリーのデビューアルバム「Cold Spring Harbor」における
オープニングナンバー「She’s Got a Way」であるのに、初っ端の動画がそれより6年後の
「素顔のままで」なのはそれが理由。そうです、ビリーの代表曲である「素顔のままで」は
10cc「
I’m Not in Love」にインスパイアされて創った曲なのです。

1stアルバム「Cold Spring Harbor」は71年の作品。とにかく鳴かず飛ばずだったのは有名ですが、
さらにオマケとしてマスタリングのミスで再生速度を速くしてしまい、ピッチ(音程)が高くなって
しまったという曰く付きです。
83年にピッチを本来のものに直して再発され面目躍如と相成ります。日本では永らく廃盤だった
本作が再発されたのもこのタイミングでした。私が洋楽を聴き始めたのがちょうどこの頃なので
よく覚えています。
「She’s Got a Way」は多くのリスナーが81年のライヴ盤「Songs in the Attic」、
あるいはそれを収めたベストアルバム「Greatest Hits –Volume I & Volume II」(85年)で
本曲を知った事と思います(勿論私も)。10余年を経て世間に認知される事となった本ナンバーは、
最初の妻であるエリザベスを歌ったもの。

上の動画が71年初出のテイク。83年の再発時にはシンバルやストリングスが加えられました。
私はブラスやストリングスなどを加えるとすぐオーバープロデュースだ、とか騒ぐ自称ロック評論家は
全く信用しません。技巧や演出を否定してシンプルがイチバン、とか言えば聞こえが良いですが、
要はオレたちがわからないものは作るな?と言っているのと同義なだけです。
これだけ逆を張ってから敢えて言いますが、本曲に関してはピアノのみである初出版の方が良いです
(ピッチの問題は別として)。

上が81年のライヴヴァージョンですが、ピアノの弾き語りである本テイクはこの曲の完全版では
ないかと思っています。10年の月日を経てビリーが本当に演りたかった「She’s Got a Way」が
出来たのではないでしょうか。83年の再発盤で面目躍如と先ほど述べましたが、本曲だけに限っては
ピアノオンリーの方がベターです。

全然余談ですが、私はしばらくの間本曲を「She’s Got away」だと思っていました。
” 彼女はいってしまった ” 的な、別れた彼女を想う内容と信じて疑わなかったのです
(ホール&オーツの「She’s Gone」(#56ご参照)みたいな)。
この内省的雰囲気漂う佳曲に相応しい歌詞だな~、なんて・・・・・・・・・・・・・・
「She’s Got a Way」とは ” 彼女は独特だ、あるいは我が道を行く女性だ ” の様な意味に
なるそうです。エリザベスという女性が個性的な女性であったのか?その辺りはわかりません。
さらにこれも不確かな情報ですが、エリザベスはビリーがソロデビューする前に組んでいた
バンドメンバーの妻(当時)であり、仲間の女房に横恋慕してしまった自責の念から
自殺さえ試みたとか・・・
それが事実であれば、既述の本曲における内省的な香りも納得がいきますけれども ……………

#173 The Things We Do for Love

#169にて「Donna」(72年)が” 三番目くらい ” に知られる曲であろうという事は述べましたが、
では二番目は?と言うとこの曲でしょう。「I’m Not in Love」に次ぐ10ccのシングルヒットである
「The Things We Do for Love」(76年、全米5位・全英6位)です。

「I’m Not in Love」が収録されたアルバム「The Original Soundtrack」(75年)について。
とにかく「I’m Not in Love」ばかりが取りざたされるという事は既述ですが、本作も前二作と
毛色こそ違えど実験精神にあふれた作品です。
上はオープニング曲である「Une Nuit a Paris」。オペラ仕立ての様な楽曲構成である本曲ですが、
ある有名な曲と比べてしまいます、そうクイーンの「ボヘミアンラプソディー」です。
クイーンがこれにインスパイアされた、口の悪いヤツはパクったなどと色々言われています。
またクイーン擁護派はレコーディング時期がさほど変わらず制作前には聴けなかったはずだ、等々。
真相は藪の中ですが、客観的事実だけを述べると「ボヘミアンラプソディー」の録音は75年の
8月から9月、「The Original Soundtrack」のリリースは3月ですから制作前に聴く事は
出来ました。ただしフレディ・マーキュリー達が本作にヒントを得たというコメントなどは無い様です。
しかし「ボヘミアンラプソディー」には更にもう一点、声のウォール・オブ・サウンドという
「I’m Not in Love」との共通点もあります。あの有名なオペラパートにおけるコーラスの多重録音ですが、
千回以上のオーバーダビングを行ったという事ですから頭が下がります m(_ _)m
全くの私見ですが、やはりクイーンの面々あるいはプロデューサー トーマス・ベイカーは
「The Original Soundtrack」を耳にし、インスパイアされたのではないかな?と思っています。

「Blackmail」は骨のあるロックチューンでありながらファルセットヴォーカルという異色の
組み合わせで、更に(おそらくエリックの)スライドギターが映える良い意味での珍曲(?)です。
やはり普通では終わらせないこのバンドの精神がよく表れているナンバーです。

5thアルバム「Deceptive Bends」(77年)の制作過程でロル・クレームとケヴィン・ゴドレイは
脱退します。二人が抜けた事で当然の事ながらその音楽性にも変化が表れ、つまりヘンな事をする
メンバーの1/2がいなくなった事によって10ccは良くも悪くもストレートなロック・ポップスを
演る様になっていきます。上はオープニングナンバーの「Good Morning Judge」。
「The Things We Do for Love」も本作に収録された楽曲ですが、このアルバムでは四人時代の
名残を残しつつ新しい方向性を定めた礎石の様なナンバー、といった感じです。
と言っても完全に方向転換などは出来る訳もなく、やはり端々には10ccスピリットを垣間見る事が
出来ます。

本作のエンディングを飾る「Feel the Benefit」。三部構成からなるこの大作は、本アルバムにおける
ある意味一番の聴きどころです。ビートルズの「ディア・プルーデンス」か?と思わせる導入部に始まり、
ドラマティックなバラードパート、リズミックな16ビートパート、再びバラードへと戻りこのまま
大円団かと思いきや、そうは問屋は卸さずに、アグレッシヴかつブルージーなギターでフィニッシュ。
イメージは「アビー・ロード」のB面なのかな?といった感じの組曲に仕上がっています。
「オー!ダーリン」のパク …… オマージュである「ドナ」に始まり、やはりビートルズをイメージした
組曲で二人体制の門出を締める、10ccがポストビートルズ的音楽を演っていたかと言えば必ずしも
そうとは思えませんが(もっと他にいます)、その実験精神を最も継承したのはひょっとしたら
彼らだったのではないでしょうか。

唐突ですが10ccとはポップミュージックにおいて鵺(ぬえ)の様な存在ではないかと私は思っています。
この空想上の妖怪は ” つかみどころがなくて、正体のはっきりしない人物や物ごと ” を表す時に
用いられます。#169で既述ですが、R&R、ポップス、フォークロア、ハードロック、クロスオーヴァー、ラテン、アヴァンギャルド etc ….. といった節操のない音楽性を持って、悪く言えばロック・ポップスを
おちょくっているのか?と感じられなくもないその姿勢の裏側には、恐ろしいほどに真摯かつ懸命な
音楽創りへの情熱があります(良い意味で偏執的と言える程に ” フツウで終わらせない ” 姿勢が)。
普通のミュージシャンやエンジニアであれば ” そこまでやらなくても… ” といった突飛なアイデアも
何の迷いもなくトライしてみる、そういった姿勢が「I’m Not in Love」をはじめとした、それまでの
誰もが思いつかなかった様な作品を産み出していったのでしょう。

今回調べていてわかった事ですが、米でのゴールドディスクは「The Things We Do for Love」のみで、
アルバムは一枚もゴールドを獲得しておらず、「I’m Not in Love」ですら同様だったのです。
彼らの作風がアメリカでは受けなかったというのは合点がいきます。ですからレコードセールスだけを
取れば決して大成功を収めたバンドではありません。
しかし逆を言えば、その様なバンドが現在でも聴き継がれているという事実は、
決して「I’m Not in Love」の知名度のみによるものではなく(所謂 ” 一発屋 ” )、耳の肥えたリスナー達がその特異とも言える創造性を理解しているという事に他ならないのです。

#172 I’m Not in Love_3

「I’m Not in Love」その3。今回で最後です
中間部におけるベースソロパートと言えば忘れてならないのが … という所で前回は終わりました。
本曲を知っている人なら当然 ” ああ!あれね!! ” とお分かりの事。あの女性による囁き声、
所謂ウィスパーボイスについてです。

ベースソロを入れ終えてから聴き返していた面々でしたが、ケヴィン・ゴドレイはまだ何か欠けていると
感じていました。” 次にやるアイデアは?!” と皆に問いかけたそうです。
そのフレーズである ” Be quiet, bigboys don’t cry ” とはロル・クレームが何気なく発した言葉で
あったらしく、これを取り上げる事に皆の異論はありませんでした。問題は誰に歌わせるかという事
でしたが、まさにその時幸福な偶然が起こりました。ストロベリースタジオの秘書であった
キャシーという女性がエリックへ電話が入っているとスタジオ内へ入ってきて告げたのです。
” この声だ!俺が求めていたのは!!” とロルが歓喜し、早速彼女をブース内へ招き入れ録音を
始めました。キャシーは困惑し拒否さえしたそうですが、皆で説得、というか口八丁手八丁で
丸め込み ” 電話口で話す様にしてくれればイイんだ!” 、などと何とかその声を録り終えます。
あの中間部のパートにはこんないきさつがあったそうです。
ちなみに上の動画は93年に一時的に戻ってきたエリックを加えての日本公演における模様。
お世辞にも出来が良いとは言えませんが、エリックが歌っているというだけで貴重でしょう。

さて「I’m Not in Love」というタイトルについてですが、これについては触れられることも多く
今更私が書きタレる事もないかと思いますが、一応念のため。
当時結婚して八年になるエリックは妻 グロリアから ” あなたは何故もっと愛してるって
言ってくれないの? ” と問われました。エリックは言葉にすればするほどその意味は劣化する、
という思いから口に出さないという考えでした。具体的に言えば、
ねえ?愛してる?? J(・ω・)し … あ~愛してる、すっげえ、チョ~アイシテルヨ~!(´∀`) ………
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ケンカ売ってるレベルですね・・・・・
ここまではないにしろ(当たり前だ … )、口に出した途端ウソっぽくなるというのはわかります。
昨今、何でも口にしなければ伝わらない、の様な風潮があるように感じられますが、それらを全て
否定するつもりはありませんけれども、やはりむしろ口にしない方が重みを増す想いもあるのです。
唐突ですがこの歌は、史上初の ” ツンデレ ” ソングなのではないかと思っています。つまり、
(;´・ω・`;) べ、別にお前の事なんか愛してる訳じゃないからな! … か、勘違いするなよな!!
って感じでしょうか?(それも違うと思うぞ (´∀` )・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)

https://youtu.be/nrEF6CITwmg
上の動画は95年にリリースされた「Mirror Mirror」をプロモートする為に出演したテレビ番組らしいです。
本作はエリックが戻ってきて、更にポール・マッカートニーが
参加している事も話題となりましたが、
内容はエリックとグレアムが各々別々に作った作品の寄せ集め、などと評価は芳しくありません。
93年のと比べると、演奏の出来に関しては編成が異なるので一概には比較できませんが(95年の方は
エリックのエレピ、グレアムのギターそしてシンセのみ)、こじんまりした「I’m Not in Love」という
感じと、エリックの歌が二年経って少し昔を取り戻した(?)という点で個人的には95年の方がベター。

「I’m Not in Love」という曲は、元来はラテンタッチの小作品といったものであったのが、
一度はボツにされたものの奇妙なプロセスを辿って、最も酷評していたケヴィン・ゴドレイの
アイデアをはじめメンバー全員の力によって驚くほど別の姿として再生(playじゃなくてrebirthの方)を
果たします。それは全員が優れたプレイヤー(シンガー)、作曲・編曲者、そしてさらには
レコーディングエンジニアであるという特異性から生まれた、奇跡的でもありそれでいてなおかつ
必然的でもあった曲なのではないかと思っています。「I’m Not in Love」は10ccにおいては
異端の曲などと最初に述べましたが、それはそれ以前の作品と一聴して比べた時に感じるものであり、
やはり中身は10ccエッセンス・10ccスピリッツにみなぎっている曲なのです。
また ” オトナの事情 ” によりシングル化にあたって短縮させられ、ふたたび陽の目を
見ずに終わりかけたところを(短縮はBBCが要求したそうです)、本曲の魅力を理解していた
周囲がフルヴァージョンを推し進めたことで英本国、更には米及び世界へと広がったという
逆転サヨナラ本塁打のような曲です(たとえが適切じゃないかな・・・)。
本曲の良さがその様な道筋を辿らせたのだ、などと言えば文章的にはキレイにまとまるのでしょうが、
やはりそれだけではなく運もあったと思います。良いものは必ず認められるなどというのは
成功した側からの結果論に過ぎません。素晴らしい出来であったのにその時はさっぱり売れず、
後世に認められた。ヘタすりゃいまだに世に認知されていない名曲も当然たくさんあるでしょう。
と、……… これだけ伏線を張ってからあえて言いますが、やはりこの曲を埋もれさせまいとする
不思議な力、オカルトではなく人の思いの集合の様な力が「I’m Not in Love」という曲を成功に
導いたのではないかと私は思っています。

最後に余談的なエピソードですが、本曲の作者はエリックとグレアム。これだけ歴史に残って
流され続け、また取り上げられる楽曲ですので印税収入もすごい事でしょう。ロルとケヴィンは
その恩恵に与れなかったので可哀想、と思ってしまいますが実は違っており。当時バンド内では
誰が創った曲であろうと印税は四分の一ずつと取り決めをしており、二人もきちんとその分け前を
得ているようです。一人親方の集まりである様な彼ららしいエピソードです。

#171 I’m Not in Love_2

上は「I’m Not in Love」のシングルヴァージョンで、6分以上あった原曲を3分40秒程に
短縮したもの。日本版ウィキでは短縮版は米向けで英版はフルサイズとありますが、実際は英でも
短縮版でリリースされ、その時はチャートで28位とあまり奮わなかったらしく、その後に
ファンやプレス連中の要求からフルサイズをラジオで流すようになった所、見事全英No.1を獲得します。
米でも最高位2位を記録しバンド最大のヒットとなりました。ちなみに1位を阻んだのはヴァン・マッコイ
「ハッスル」やイーグルス、ビージーズといった強者達でタイミングが悪かったとしか言い様がありません。
それにしても当時の編集技術では致し方ないとは言え、3:18の処理は残念過ぎます・・・・・

前回でも触れたケヴィン・ゴドレイの提案による ” 声のウォール・オブ・サウンド ” は本曲における
肝であり、ポップミュージック界に大きな衝撃を与えました。BS-TBSの『SONG TO SOUL』では
本曲の回でムーンライダーズの鈴木慶一さんが出演されていました。当時ムーンライダーズは
アイドルタレントのバックバンドとして活動しており、その地方公演の為滞在していたホテルにて
ラジオから流れてきた本曲が初めて耳にしたものだったそうです。いかにも英国的な、練り込まれた
ポップスという印象だったとか。番組出演にあたり改めて本曲を聴き込み及び解析したところ、
何十年という時を経て新たな発見があったとの事。プロの耳をもってしても容易には理解できない
アレンジの緻密さがあるという事です。勿論本曲のマスタリングや再生機材の向上もあるのでしょうが。
” 声のウォール・オブ・サウンド ” の制作過程についてはかなり専門的で長い文章になってしまい
(正直わたしも ”?” という点が多々ありました)、レコーディングエンジニアを経験した人間で
なければ理解できない部分も多いのであまり詳しくは言及しません。出来るだけ簡潔にまとめると、
半音階で12音(13という説も有り)、つまり一オクターブをメンバー四人で録音しました。
それを磁気テープに録音しループ(輪っかにする)させてエンドレスで再生するというもの。
サンプリングマシンが一般化する80年代中期以降であれば全く無意味な作業ですが、当時こんな事を
しようとした人達は他にはいなかったのではないでしょうか。革命的レコーディングという
点ではビートルズのサージェントペパーズ(#3ご参照)に繋がるものがあります。
『SONG TO SOUL』でも語られていましたがテープの継ぎ目でどうしてもノイズが入る、
その為ループを出来るだけ長くする必要があり、その解決策としてスタジオを対角線に使い、
角と角にマイクスタンドを設置してそれをテープのガイドローラーとしての役割を負わせ、
12フィート(約3.6m)のテープが工場のベルトコンベアの如く廻ってマルチレコーダーに
録音させたそうです。ミュージシャンというより工作技術者といった方が相応しい程です。
そうして624声という素材をミックスダウンさせる事に成功したそうです、頭が下がる … <(_ _)>

文章ばかりでは飽きるので、ハマースミス・オデオンにおける77年のライヴを。
本曲では偶然の産物という結果もありました。冒頭から聴こえる、特にエレピが入る前において
よくわかりますが ” サー ” というノイズが聴こえます。私の様なアナログ世代ならお馴染みですが
これは磁気テープ特有の ” ヒスノイズ ” というもの。意図的に入れたものかと思いきや真相は
異なり、理由はわかりませんがこの時フェーダー(音量を上げ下げするツマミ)の下部にガムテープを
張って一番下まで下がらないようにしており、その為無音ノイズとも呼べるヒスノイズが全編に
渡って入っています。本来であれば余計なノイズなのですがこれが結果的に本曲における独特の
浮遊感・空気感を産み出しています。

冒頭から聴こえるベースドラムの音というのが実はシンセサイザーによるものだというのは
今回調べていて初めて知りました。てっきりマレットでもって手で弱く叩いているものかと思って
いましたが、当時ロル・クレームが購入した最新鋭のムーグを使用したそうです。
心臓の鼓動をイメージして作ったというこのビートもまた本曲を構成する重要な要素の一つです。
また本曲におけるベースパートはエリックのエレピによるもの。つまり弦のベースではなく
フェンダーローズの左手によるベースラインにて賄われています。それは制作段階からであり、
ベースギターが入る余地はないと考えられていたのですがある日エリックの頭にアイデアが
浮かびます ” ベースソロを入れたらどうだろうか? ” と。
ジャズにおいてバラード中でベースソロを入れるというのは普通にある事ですが、ポップソングで、
しかも70年代中期の段階ではまず無かった試みでした。
とにかく10ccというバンドの中に流れていた信念は ” 他人と同じ事はやりたくない ” というものでした。
” 普通でない ” アイデアを出すためには何日~何週間という時間をかけるのも珍しくなかったらしく、
このバンドの精神性はその辺りにあると思います。もう少し具体的に言えば、全員が器楽演奏・歌・
作曲・編曲をこなす、これだけなら他のバンドでも無くはありませんが(そんなにはいないか・・・)、
更に彼らは全てがレコーディングエンジニアでもあるという特異性がありました。
それを可能にしたのは彼らが活動の拠点としていたスタジオにあります。そのスタジオとは
『ストリベリースタジオ』。元々は68年にエリックが小さなデモ用スタジオを購入し、後にグレアムが
共同出資者となり更にはロルとケヴィンもその経営に参加しスタジオはバンドのものとなります。
前述の通り自分達で作曲・編曲し演奏と歌もこなす、というバンドは70年代に入ってから
決して珍しい存在ではありませんでしたが、彼らは更にその一歩先を見越していました。
つまりポップミュージックは録音・編集まで含めてのトータルな表現であると。その先見性には驚愕します。日本では大滝詠一さんが早くから自身のスタジオを所有していましたが、やはり同じような考えで
あったという事は言わずもがなです。
偶然かもしれませんが大滝さんの『福生45スタジオ』も75年から存在していたとされています。
ちなみに『ストリベリースタジオ』という名の由来は言うまでもなくビートルズ「ストロベリー・
フィールズ・フォーエバー」。10ccの面々が影響を受けたのは自明の理です。更に言えば
エリック達は初期におけるエルビス・プレスリーのレコードの様な音に惹かれ、あのような音を
自分で創りだしたいと思ったとの事。それは少し割れて(歪んで)しまっていたりするものや
真空管マイクで録音した独特のヴォーカルなど、68年においてもかなりレトロなサウンドで
あったのですが、これらに興味を持ったのが始まりだったようです。

そして中間部のパートと言えば忘れてならないのが、あ!・・・ またいつの間にこんなに長く …
二回でも無理でしたね・・・という訳で続きは次回「I’m Not in Love」その3にて。