#184 Just the Way You Are_2

その曲をその曲たらしめている要素とは何か? 一概には語る事が難しい命題ですが、
万国共通で言えるのはその旋律、つまりメロディでしょう。もっと具体的に言えば
テーマ・サビと称される最も ” イイところ ” のメロディという事になります。
音楽、特にポップミュージックを構成する要素は70年代には複雑さを極めました。
その後の80年代以降の方がシンプルになっていき、00年代以降などは良く言えば虚飾を
排した、率直に言えば余計なアレンジやレコーディングテクニックは疎まれるような雰囲気に
なっていったようです。ラップ・ヒップポップ等の台頭に因るものでしょうか。

音楽の基本構成要素はメロディ・和音(ハーモニーとする場合も。いずれにしろ復音)・リズムである。
と、その昔にものの本で読んだ記憶があります。勿論これは揺らぎようのない事実であり、
私もそれを
否定する気は毛頭ありません。
上でも述べたように人が音楽を聴くときに最も注意を惹かれるのは主旋律です。ポップソング、
流行歌、大衆音楽では特に歌い手の(インストゥルメンタルは敬遠されます)、歌唱が最優先です。
器楽演奏者・アレンジャー・レコーディングエンジニアがどれだけ丹精込めて創り上げたものでも、
歌が好きじゃないから聴かねえ! とか言われてしまいになる事が多々あります(トホホ・・・)。
それでも稀にメインの歌以外の要素が多くの人々の心をわしづかみにするといったレアなケースも
存在します。
例えばロネッツ「ビー・マイ・ベイビー」の冒頭にて聴くことが出来る
” ドン ドドン タッ・ドン ドドン タッ ” というあの問答無用のドラミング。
技術的には何てことないプレイですが、ハル・ブレインのあの音色、あのグルーヴがあってこその
ものです。暴論を承知で言いますが、「ビー・マイ・ベイビー」を決定づけている35%くらいは
ハル・ブレインのドラムなのではないかと私は思っています。

だいぶ前置きが長くなりましたが、「Just the Way You Are」を名曲たらしめている要素とは。
メロディ、ビリーの歌唱、テープループによる声のウォールオブサウンドなど幾つも挙げられますが、
構成要素の一つとして疑いようのないものが間奏及びエンディングにおけるサックスプレイです。
アルトサックス奏者 フィル・ウッズによる完璧としか言いようがない本プレイ。世の中には、
この歌・この演奏以外考えられない、と言われるものは結構ありますが、中には最初に聴いたのが
それなので所謂 ” 刷り込み ” では? と思われるものも個人的にはあります。
スターダストレビューの根本要さんがビリーの来日公演(70年代後半から80年位の)を観に行った際、
ツアーバンドでのサックス奏者はフィル・ウッズではありませんでしたが、原曲と寸分違わぬ
プレイを行っていたと以前に語っていました。
つまり崩しようがない・オリジナリティを加えようがない程にあの演奏のイメージが強すぎて
同じプレイをせざるを得なかった、あるいはそれを主催者ないし聴く側がそれを望んだから、
といったところだったのではないでしょうか。
現在ユーチューブで観る事が出来るライヴの模様では必ずしもそうではありませんので、
年月を経てようやく本プレイの ” 呪縛 ” から逃れる事ができるようになったのでは?
と推察したりします。

本曲が収録されたアルバム「ストレンジャー」ではN.Y.における所謂 ” ファーストコール ” の
セッションマンが多数集結しています。前回も触れたキーボード リチャード・ティー、ギターに
スティーブ・カーンとハイラム・ブロック他、パーカッション ラルフ・マクドナルド、そして
コーラス隊には前回でも触れたフィービ・スノウやパティ・オースティンといった超強者ばかり。
ビリーもニューヨークっ子ですが、以前に述べたようにソロキャリアの初期はL.A. におけるもので
あったので、N.Y. に戻ってきた当初は人脈・コネなど無かったでしょう。
これは間違いなくプロデューサー フィル・ラモーンの功績です。
フィル・ウッズもその中の一人かと思っていましたが、ラモーンが13年に亡くなった際に
ネットの記事にてウッズとジュリアード音楽院において同級生だったと初めて知りました。
ウッズの起用にはこの様な背景があったのです(同じフィル(フィリップ)同士で親しくなったのかな?
とか安直な推察もしたりします)。
更に言えば70年代からはロック・ポップス畑で台頭しましたが、60年代はジャズ界での仕事がメインで、
あの世界的ボサノヴァブームを巻き起こした「ゲッツ/ジルベルト」にてエンジニアとして参加しています。

前回述べた本曲におけるラモーンの三つ目の功績とはウッズの起用、そしてこの稀代の名演を取り入れた
事だと私は思っています。根拠は定かではありませんがラモーンはウッズのプレイの中から切り貼りして
あのヴァージョンを創り上げたとされています。自身もヴァイオリンの神童として名をはせたラモーンで
あったので、プレイヤーとして、そしてプロデューサー・エンジニアとしての両輪が盤石であったからこそ
出来た仕事でしょう。

少し横道に逸れますがフィル・ウッズつながりで。「New York State of Mind」回(#182)で
触れるのを忘れてしまいましたが、初出と85年の二枚組ベスト盤ではサックスが異なります。
つまり85年ベスト盤にてサックスが差し替えられたという事ですが、それがフィル・ウッズだと
言われています。ただこれも根拠は定かではありません。
歌のメロディをなぞったソロを展開する初出版に対して、85年版はかなり自由なプレイです。
聴き比べるのもご一興。

#183 Just the Way You Are

10ccの「I’m Not in Love」が実は一度ボツにされた、といういきさつは#170で書きました。
ポップミュージック史に残る名曲が、下手をすれば陽の目を見ていなかったというのは驚きです。
そしてまた、ある名曲も最初は創った当人が世に出すつもりではなかったというのも、
まるでドラマの様な話です。
その名曲と「I’m Not in Love」との関係性も#174にて触れています。

” 僕を喜ばせようとして、新しいファッションや髪の色をかえたりしないで、そのままの君が好きなんだ ”
普通の状況で言ったらアタマがどうかしたのか?と疑われる様な言葉も、この稀代の名曲に乗せると
何ら違和感が無くなるから不思議です。勿論その曲とはビリー・ジョエル「Just the Way You Are」。

ビリーは本曲のインスピレーションを夢の中で得たと語っています。最初の妻でありマネージャーでもある
エリザベスの為に書いたもので、売り物にする曲というよりはプライベートで書いた曲という感じでした。
実際ビリーもバンドも本曲を次作である「ストレンジャー」へ収録するつもりはなかったとの事。
しかしたまたま同建物の別スタジオで作業していたフィービ・スノウとリンダ・ロンシュタットが
ビリーが演奏していた本曲を聴き、アルバムに入れるべきだ!と訴えたそうです。
彼女達が聴いたのはおそらくスタジオで、ラフな感じの弾き語りであったろうと推測されます。
であるからして当然我々が知っているものとは違っていた事は言わずもがなです。
本曲を名曲たらしめている要素は幾つもあるのですが、この時点で既に出来ていたであろう根本的な
メロディとコードプログレッションが素晴らしいことは言うまでもありません。
であるかして、フィービとリンダはその素晴らしさに惹きつけられたのです。

本曲はシングルカットされる際に一分以上短くされています。原曲の4分47秒というのはやはり
シングルとしては長すぎると判断されたのでしょう。ラジオでオンエアされ易いのは3分台という
呪縛はこの時代でもまだまだ健在でした。上がそのシングルヴァージョンで、二番がまるっとカットされ、
フェードアウトも早くなってしまっています。

本曲及びアルバム「ストレンジャー」を語る上で欠かせない存在がプロデューサー フィル・ラモーンです。
彼が起用されるに至ったいきさつは別の機会で述べますが、75年にポール・サイモンの作品でグラミー賞を
獲得しており、プロデューサーとして世間の注目を浴び始めたところでした。
ラモーンが本曲で果たした重要な役割は三つあります。二つは曲創りに直接つながる事において、
もう一つは制作に関わる事ではありませんが、本曲を ” 生かす ” のにある意味最も大事な事柄でした。

一つ目ははじめに触れた「I’m Not in Love」によってインスパイアされたサウンド創り。
バックで流れるヴォーカルのテープループは「I’m Not in Love」に触発されたもので、
それはビリーのアイデア及び要求だったのでしょうが、具現化したのはラモーンの力量です。
今でこそ声を重ねまくってあのサウンドを創ったというのは皆が知るところですが、
当時は情報も少なくメロトロンでは?などと憶測が飛び交っていた状況だったので、
ヴォーカルのダビングとそれをルーピングする事によってあの音が得られるという事実を見抜いたのは、
百戦錬磨のエンジニアであったラモーンの力によるものでしょう。
「I’m Not in Love」から触発されたのはエレクトリックピアノのサウンドも同様です。
フェンダーローズによる独特の浮遊感がどちらの曲にとっても素晴らしい効果を挙げています。
このプレイがリチャード・ティーによるものだという記述がいくつか見られますが、クレジット上では
アルバム最後の曲「Everybody Has a Dream」でオルガンを弾いているのみとなっており、
本曲でのローズピアノはビリー本人とクレジットされています。でもティーのプレイに聴こえなくも …

二つ目はこれも冒頭で触れた、世に出ていなかったかもしれない本曲をお蔵入りにさせなかった事。
ある意味これが最も大きな功績かもしれません(失礼な!音楽面の貢献もハンパじゃねえよ!!)。
ビリーは他の収録曲と比べて場違いな、甘ったるいバラードだとして本曲をアルバムから外そうと
していましたが、ラモーンはこれに同意しませんでした。先述したフィービ・スノウと
リンダ・ロンシュタットがスタジオに来て、これを却下しようとしていたビリーを窘めた件。
実は彼女たちをスタジオへ招き入れたのはラモーンであり、プロシンガーであり当然耳の肥えた
彼女たちであれば、本曲の価値をビリーへわからせる事が出来るはず、という目論見があったのです。
それは見事に成功し、彼女たちの本曲へ対する賞賛がビリーの考えを変えさせるに至ったのです。

三つ目は・・・・・・・・・・・・・・ これは次回にて。

#182 New York State of Mind

ビリー・ジョエル76年発表のアルバム「Turnstiles」について書いてきましたが、
お分かりの人には ” あの曲がヌケてねえか? ” と気づかれたかと思います。
読んでる人が ” い・れ・ば ” な・・・・・ (´∇`)

ビリーにとって、ひいてはポピュラーミュージック界において非常に重要な、
もっと具体的に言えばスタンダードナンバーと化した名曲が収録されています。
それが「New York State of Mind」です。
リズムこそはポップス的16ビートですが、曲調はジャズテイスト溢れるもので、
シナトラが歌っていても違和感が無い、というより実際に取り上げています。
今回は数えきれない程のミュージシャンにカヴァーされている本曲のみに焦点を当てます。

シナトラも歌っていましたがジャズ界ではこの人が最も良く知られる所。シナトラ同様の
大御所 メル・トーメです。彼は77年の「Tormé: A New Album」で本曲をレコーディングし、
それ以来好んでレパートリーとしていた様です。ちなみに69年以来アルバムをリリースしていなかった
トーメが久しぶりに録音したのが本作であり、表舞台へ返り咲いた作品です。

シナトラ、メル・トーメとくれば残る男性ジャズシンガーの大御所であるトニー・ベネット。
彼も本曲を歌っています。上は16年にマディソン・スクエア・ガーデンで行われたビリーの
コンサートへトニーがゲスト出演した際の映像。この二週間後に90歳の誕生日を迎えるトニーの為に
ビリーが「ハッピー・バースデー」を歌ったというオマケ付き。

ビリーは本曲について、歌詞の中にある ” taking a Greyhound On the Hudson River Line ” という
状況でインスピレーションを受けたそうです。Greyhound とはバス会社の事で、つまりバスに乗って
ハドソン川沿いを進んでいる時に浮かんだとの事。家路に着いてから直ぐに本曲を書き上げたそうです。

インストゥルメンタルでも当然山の様にカヴァーされています。上はアルトサックス奏者
エリック・マリエンサル「
Got You Covered」(05年)に収録されたヴァージョン。

女性シンガーのヴァージョンも素晴らしいものが沢山あります。バーブラ・ストライサンド版が有名ですが、
個人的にはあまりピンときません(あくまで本曲に限ってですよ … )。
上はオリータ・アダムス「Evolution」(93年)に収録されたヴァージョン。歌唱・演奏・アレンジともに
文句の付け様が無く、本物の音楽とはこういうのを言うのではないかと思います。
ちなみに素晴らしいストラトキャスターでのプレイ・サウンドを聴かせてくれるのはマイケル・ランドウ。
スティーヴ・ルカサーの後輩であり、そのルカサーも認める世界屈指のセッションギタリストです。

盲目のシンガー ダイアン・シューアによる「Deedles」(84年)における本曲も秀逸です。
GRPレーベルからリリースされた本作は、80年代のジャズ・ブラックコンテンポラリーの
雰囲気がプンプン匂ってきます(良い意味でですよ)。プロデューサーは当然GRP創設者である
デイヴ・グルーシンで、テナーサックスはなんとスタン・ゲッツ。贅沢が許される時代でした。

音だけ聴けば米国のジャズフュージョン・AORにカテゴライズされるミュージシャンかと
信じて疑いませんが、実は英国人であるジョン・マークとジョニー・アーモンドから成る
マーク=アーモンドが76年に発表した「To The Heart」に収録されたもの。
この二人はなんとエリック・クラプトンが在籍した事でも有名なジョン・メイオールの
バンドで知り合った事がキッカケだそうです。

永いこと本曲を聴いてきましたが、その歌詞についてはあまり真剣に考えてきませんでした。
マイアミビーチやハリウッドという単語は聴きとれるので、ウェストコーストとN.Y. を
対比させているんだろうな、くらいでした。
” I’m in a New York state of mind ” というフレーズからして自分はN.Y. の人間だ、
という趣旨なのが間違いない事は明らかなのですが、それがN.Y. に居るシチュエーションなのか、
L.A. なのか、よくわかりませんでした。” Greyhound ” がバス会社だというのは今回初めて
知ったので、” I’m just taking a Greyhound on the Hudson River Line ” が
上記の様な意味だとは思わなかったのです(昔は調べようがなかったし、その気もなかったし・・・)。

英語に『都落ち』という概念があるかどうか知りませんが、「ピアノマン」のヒットこそあったものの、
その後自身の望む結果とは相成らず、故郷に舞い戻って書いたのが本曲、といった所でしょうか。
L.A. が決して悪いばかりの所だとは思わないけれど、やはり自分にはN.Y. の水が合っている。的な …
ちなみN.Y. もL.A. も都なので、どちらに転んでも ” 落ちる ” という事にはならない気がしますが・・・

https://youtu.be/Smxc0Haz5ns
最後は面白い動画を(笑えるという意味ではなく)。何かにつけて比較されてきたエルトン・ジョンと
文字通り顔と顔を合わせてジョイントする事となった” FACE TO FACE ” ツアーの初年である
94年におけるエルトンによる演奏。音も映像も決して良くありませんが、これは貴重なもの。
とにかくこの人は何を演ってもエルトン印にしてしまう、それはずるいほどに・・・・・・・・・・

#181 Turnstiles

ビリー・ジョエル4thアルバム「Turnstiles」についてその2。
上はA-②「Summer, Highland Falls(夏、ハイランドフォールズにて)」ですが、
今回調べていて初めて知った事ですけれども、淡々として爽やかささえも感じられる本曲は、
実の所かなり深刻な歌詞でした。
ビリーが若い頃から鬱病を患っていたのは以前に書きましたが、本曲の歌詞にはそれが
色濃く反映されている様で、理性と狂気、断崖絶壁に立つ状況というのは悲劇か?
それとも刹那の幸福か?という様なかなりめんどくさい … 思慮深い内容です。

A-③である「All You Wanna Do Is Dance」はスカのリズムを取り入れたナンバー。
初期からラテンを含めたワールドミュージックへ視点が向いていた事は既述です。

「James」は1stを思わせる内省的な曲調。音楽性は簡単に変わらないというのも既述。

のっけからそのピアノテクニックに圧倒される「Prelude/Angry Young Man」。
前作における「Root Beer Rag」と同様にプレイヤーとしてのビリーをフィーチャーした
楽曲ですが、「Root Beer Rag」は楽曲ストックの少なさから苦肉の策で収録したと
言われていますが、本曲はイントロ後の本編と呼べる 
” Angry Young Man ” への
移行も見事であり、きちんと練り込まれたナンバーです。

エンディングナンバーである「Miami 2017」には ” Seen the Lights Go Out on Broadway ” と
副題が付いています。81年のライヴ盤「Songs in the Attic」ではオープニングに収録されている本曲は、
その快活なロックチューンの印象とはかけ離れた歌詞(イントロのサイレン音が象徴的)。
アメリカが混乱に陥り、ブロードウェイの灯は消え、エンパイアステートビルは崩れ落ちて橋は朽ち、
人々はニューヨークを去って南へ行ってしまうという近未来ディストピアSFといった内容。
2017年のマイアミで語り部はニューヨークを回想するというストーリーは、
9.11テロを予言しているとか一部オカルトマニアが騒いでいたらしいですが、
それはお好きな人で勝手にどうぞ(その2017年も既に過ぎてしまいましたが … )。

「ピアノマン」「さすらいのビリー・ザ・キッド」から始まって、彼には物語的歌詞を好む傾向が
あるようです。それはやがて名曲「イタリアン・レストランで」や「ザンジバル」、
そしてアルバム「ナイロン・カーテン」など
へ結実する事となります。

本作は大変に内容の充実した秀作であると私は思っています。「ストレンジャー」や「52番街」に
肩を並べるとまでは言いませんが、クオリティー的にそれほど劣っているとは考えられません。
しかしチャート的にはアルバムが最高位122位、「さよならハリウッド」等のシングルに至っては
チャート外という結果でした。良いものが必ずしも陽の目を見るとは限らないという典型です。

「Turnstiles」が改札口・出札口を意味するというのは前回述べましたが、アルバムジャケットが
もろにそのものですので今更触れる事ではありません、が、今回調べていて初めて判った事ですけれども、
ビリー以外の写っている人物は収録曲に登場する人物たちを表しているそうなのです。
誰がどの曲なのかはヒマな … もとい興味がある人は調べてみるのもご一興。

#180 Say Goodbye to Hollywood

ビリー・ジョエル四枚目のアルバムである「Turnstiles」(76年)。
” Turnstiles ” とは回転式のバーなどで通過する者を一方通行で通す改札口・出札口の意。
つまりそこを出たら(入った場合も同じですが)二度と逆戻りは出来ないという事です。
当時におけるビリーの決意を表したものだったのでしょう。

「Say Goodbye to Hollywood」はオープニングナンバーであり本作を象徴する楽曲。
所謂フィル・スペクターサウンドのリスペクト・オマージュとして、ウォーカー・ブラザーズ
「太陽はもう輝かない」などと共によく引き合いとして出される定番です。
日本では勿論大滝詠一さんの「君は天然色」「恋するカレン」がウォールオブサウンドの決定版。
余談ですけれども、最近放送された深夜アニメの『かくしごと』(久米田康治原作)で「君天」が
テーマ曲に使われてました。良いセンスですね。

本曲の歌詞は意外に訳詞・解釈が難しいらしく、人によって多少異なります。
折に触れ書いてきましたが、私はポップミュージックにおいて歌詞の内容というものにあまり重きを
置いていません。大事なのは韻の踏み方やトータルなイメージであって、あまり深読みするべきものでは
ないと思っています。深読みの極地がボブ・ディランやジョン・レノンの歌詞を徹底追及し掘り下げている
人達だと認識しています(ディランやジョンは本当にそんな事考えて詩を書いたのかな?という程に … )。
勿論好きでやっている事にケチを付ける気は毛頭ありません(でもケンカ売ってねえか?)

それでも彼の転換点となった本曲における歌詞の内容はビリー・ジョエルというミュージシャンの
軌跡を語る上で重要かと思いますので今回はそれについて取り上げます。

街の中を、ボビーは車を走らせて行く、
新しいレンタカーで、街灯の下を走るのさ。
この機械に恋人を乗せるのさ。
サンセット大通りじゃお馴染みの風景さ。
ハリウッドにサヨナラするのさ。
俺のベイビーにもサヨナラするのさ。
ハリウッドにサヨナラするのさ。
俺のベイビーにもサヨナラするのさ。
ジョニーは色んな事を気にかけてくれてた。

彼のやり方は吟遊詩人みたいなものさ。
彼をドアに背を向けて座らせたけど、
俺はもう彼の世話になる事は無いだろう。
ハリウッドにサヨナラ・・・
一緒にいようとして、移り住むのは、

どうなるか分からないものなんだぜ。
思い上がったような事を言うと、
君の友達なんて永遠にいなくなるんだぜ。
永遠に。
沢山の奴らと会い、別れて来た。
何人かはこれからも会うだろうし、
何人かはこれっきりになるだろう。
人生なんて出会いと別れの連続なんだぜ。
これが別れにならなきゃ良いんだが。
ハリウッドにサヨナラ・・・

決してL.A. に辟易して脱出した訳では無い事がこの歌詞から伺えます。愛着が湧かなかったのではない、
イイヤツとの出会いもあった、でもお別れさ、といった感じでしょうか。

上はビリー初のライヴアルバムである「Songs in the Attic」(81年)に収録されたもの。
「グラスハウス」プロモーションツアー(80年)における際の一曲という事で、もう少し具体的に言うと、
「ストレンジャー」「52番街」そして「グラスハウス」とお化けの様な超特大ヒット作を連発した直後で、ビリーが最もノリに乗っていた時期のライヴヴァージョンであるのでそのテンション感も凄まじいです。
「Songs in the Attic」については勿論後で(だいぶ後の回で)取り上げます。

https://youtu.be/_EQbD-t0jRU
今度は動いてる動画を(動くから動画って言うんだけどね … )。77年のスタジオライヴという情報だけで
いつのものかは不明ですが、本演奏を含めた30分超の完全版もあがっており、それには「ストレンジャー」のナンバーも含まれているので、「ストレンジャー」のリリース(9月)直前ないし直後の様な気がします。
本演奏ではこれからの快進撃を予感させる高揚感が感じられます。

また長くなってしまったので、本曲以外の「Turnstiles」収録曲については次回にて。

#179 The Entertainer

前回に引き続きビリー・ジョエル74年のアルバム「ストリートライフ・セレナーデ」について。
日本版ウィキの揚げ足を取る様でナンですが、本作も「ピアノマン」と同じくゴールドディスクを
獲得している、とあるのですが、ゴールドに認定されたのは80年12月の事です。
つまり77年における「ストレンジャー」の大ブレイクによって遡及的に売れたのであり、
発売当時はそれ程のヒットとは言えませんでした。全米最高位35位と、もし無名の新人で
あればTOP40入りしたと十分な健闘ですが、「ピアノマン」の後を受けてのリリースの割には
いまひとつ奮わなかったというのが実際の所でしょう。
その「ピアノマン」についても、ウィキを参考にすれば4☓プラチナ(400万枚以上)という
凄い数字ですが、ゴールドに認定されたのは75年11月。発売から二年後の事でした。
ちなみにプラチナ認定が86年で4☓プラチナになったのが99年です。
プラチナはやはり「ストレンジャー」の超特大ヒットによるものである事は否めませんが、
しかしゴールドはそれより前なので、じわじわとセールスを伸ばしていき、二年の月日を経て
ゴールドディスクを獲得したのです。本当に良い作品とはこういう売れ方をするのでは。

本作で最も有名な曲である「The Entertainer」。シングルカットされ全米最高位34位、
85年の二枚組ベストにも収められています。多くの人の初聴はそちらでしょう(勿論私も)。
ヒットを飛ばした ” エンターテイナー ” 及び彼が置かれた状況についてかなり自嘲と皮肉を込めて
歌っています。まさに当時のビリーの心情を歌ったもので、ピンク・フロイドの「葉巻はいかが」に
通じるものです(#27ご参照)。

上はB-②「Last of the Big Time Spenders」ですが、前から何かの曲に雰囲気が似ているな?
と思っていました。エルトン・ジョン73年の歴史的名盤「
グッバイ・イエロー・ブリック・ロード」に
収録されている「Sweet Painted Lady」に似ているんだ、と最近になって気づきました。
後に何かと比較される事となる二人ですが、この時点においてはビリーはTOP40ヒットを
二曲出しただけ、それに対してエルトンは70年の「ユアソング」以降大ヒットを連発し、
スターダムを駆け上がっている最中でした。「ストリートライフ・セレナーデ」制作の頃には
「グッバイ・イエロー・ブリック・ロード」は大ヒットしていたので、おそらく耳にしていたのでは
ないかと勝手に想像したりします。

「Weekend Song」は一転してエッジの効いたロックチューン。ロックンローラーとしての
一面は健在です。

「Souvenir」は「コールド・スプリング・ハーバー」や「ピアノマン」に収録されていても
違和感のないナンバー。作風はそう簡単には変えられないといった所でしょうか。

アルバムラストである「The Mexican Connection」はインストゥルメンタルナンバー。
ラテンタッチのノリは初期からビリーの中に在りました。人種のるつぼで産湯をつかったのだから当然か。

率直に私見を言うと「ストリートライフ・セレナーデ」は1stと2ndのクオリティーには
及ばないものと思っています。ビリーの中でのストックが尽きてきたこと、制作期間の短さなどの
理由があるので致し方ないとは思います。彼のディスコグラフィー中ではイマひとつ埋没しがちな
作品であるのは否めませんが、やはりそこはビリー・ジョエル。駄作などは決して生みませんでした。
80年代前半に出版されたロックアルバム名鑑(二千円以上という中学生の私からして大枚をはたきました)
には ”「ピアノマン」のヒットを受けて次の成功を気負うあまりプレッシャーに負けた感がある ” などと
レコード評が載っていましたが、今ならこれが全くの見当違いである事が自信を持って言えます。
成功したいと思わないミュージシャンはいないですし、勿論当時のビリーもそうだったでしょう。
しかし気負い・焦りの様なものは全く感じられません。全てのナンバーがビリー・ジョエル印です。
「エンターテイナー」の歌詞から当時の彼が極めて冷静に自分の置かれた状況を客観視出来ていたことが
明白です。だからと言ってコロムビアレコードを責めるのも酷です。営利企業なのですから儲ける事が
至上命題であるのは当然ですし、生き馬の目を抜くポップミュージック界ではあっという間に
世間から忘れられてしまうのが常ですので、次作の制作を急かしたのもある意味致し方ないかと。
しかしこの経験が後におけるビリーの大ブレイク後に重要な意味を持ってきます。
この話はだいぶ後の回になると思いますが・・・・・・・・・・・

#178 Streetlife Serenade

その人に定着したイメージと実際が異なるという場合が往々にしてあります。
上方漫才、というより日本漫才界の最高峰と言うべき夢路いとし・喜味こいし師匠。
実は東京生まれだそうです。あの関西弁による漫才の筆頭格としか思えないお二方が
東京出身者だったというのは驚きです。…………… あっ!これ、漫才のブログじゃないですよ。
昔の洋楽についてばかり書いている誰も見ていないブログです・・・・・

「ピアノマン」のヒットにより世間に認知される事となったビリー・ジョエルですが、
最初の契約先であるファミリープロダクションからバックレる様にL.A. へ移ったのは
前回で既述の事です。そして「ピアノマン」はL.A. で創られた作品です。
今日においてはN.Y. の象徴という存在であるビリー・ジョエルのブレークは
故郷の東海岸ではなく西において始まったのです。
こんなビリーの経緯をいとし・こいし師匠とだぶらせられるんじゃないかなと思って
上の枕を書きましたが、読めば読むほど見当違いの様な気がしてきました …(じゃあ書くな)。

「ピアノマン」の次作である「Streetlife Serenade」(74年)。そのA-①が上の
「Streetlife Serenader」です。恥を忍んで言いますと、ずっとタイトルソングとして
同じ ” Serenade ” だと思っていました・・・・・・・・・・・
「セレナーデ」は愛する女性に対して、彼女の部屋の窓下で歌う愛の歌を指すそうです
(勿論現在では通報されます)。「セレナーダー」はそれを歌う(詠う)歌い手・詩人といった
所でしょうか。吟遊詩人と訳したブログもありました。
ここでのストリートは間違いなくN.Y. ではなくL.A. の街角です。

A-③「The Great Suburban Showdown」は前二作に収められていてもおかしくない曲調ですが、
一点だけ決定的に異なるのがシンセサイザーの使用。本作からビリーはムーグを取り入れます。

ある時期ビリーのコンサートでは定番のナンバーであったA-④「Root Beer Rag」。
ジャズ、ブルーグラス、そしてクラシックの要素をも取り入れながらのピアノテクニックを
存分に披露するための様な曲です。タイトルのラグはラグタイムを指します。
私は決して詳しくないのですがそれはジャズの前身とされる音楽スタイルと言われています。
ちなみに「ピアノマン」のヒットを受けて急いで次作に取り掛からなければ
ならなかったが、
曲のストックが無く苦肉の策としてビリーにとっては
指慣らし的な演奏を収録するに至ったという話も。

A面ラストの「Roberta」は地味な楽曲ですが、「ニューヨーク52番街」の「ロザリンダの瞳」に
繋がるものと思っています。人種のるつぼであるN.Y. で育ったビリーならではで、英仏独以外の
欧州をルーツに持つ女性(イタリアやスペインなど)、あるいは中南米の女性を題材としたナンバーの
はしりです。勿論実際にそういった女性たちとも星の数ほど付き合ったことでしょう。

中途半端な長さですけれども、アルバム丸ごと取り上げるとやはりかなりのボリュームになるので、
本作についても二回に分けます。なので次回も「ストリートライフ・セレナーデ」について。

#177 Captain Jack

ビリー・ジョエルのアルバム「Piano Man」(73年)に収録されている
「The Ballad of Billy the Kid」。西部劇において伝説化された人物をモチーフにした本曲は、
ビリーがこの人物について目にしたものを基に創り上げたストーリーであり、
実際のビリー・ザ・キッドについて史実通りかどうかは不正確であると本人も認めています。
歴史上の人物なんてこんなものでしょう。忠臣蔵なんかお上から任された指南役としての
仕事を忠実にこなしていたいただけなのに、仕事が出来ず癇癪持ちの指導相手に切りつけられ、
さらにそれを逆恨みした部下たちによって一方的に押し入られ殺害された、というのが
実際の所であると現在では定説になっています(話が横道に逸れたかな・・・・・)。

ビリーの父親がユダヤ系ドイツ人というのは前回触れましたが、宝石商を営みかなり裕福で、
しかもかなりのピアノの腕前であったそうです。ビリーはこの父親によって英才教育を受けました。
彼の音楽的ルーツはここにあります。
ちなみにビリーの本名はウィリアム・マーティン・ジョエル。私昔はビリーというステージネームは
上記のビリー・ザ・キッドから付けられたものと思っていましたが、後にウィリアム(William)を
短縮した愛称が ” Bill(Billy)” であると知りました。つまり、ビリー・ザ・キッドも本名は
ウィリアムという事です。

「The Ballad of Billy the Kid」は後にビリーお得意のスタイルとなる小物語的楽曲創りです。
「ストレンジャー」に収録された名曲「イタリアン・レストランで」に代表される様な、
ちょっとした短編映画を観ている様な感覚にさせてくれます(音だけですが)。
もろ西部劇といったイントロから、良い意味で大仰なアレンジ構成に移るといった、複数パートからなる
曲創りは本ナンバーから始まったものでしょう。特にオーケストラが素晴らしい効果を挙げています。

2ndシングルである「Worse Comes to Worst」。ある評論家曰く ” 少しカントリー、少しロック、
そして少しゴスペル ” だそうです。そんな気もしないではありません。

「Stop in Nevada」は前作に収録されていても違和感の無いナンバーです。ですがやはりここでも
オーケストラアレンジが一際際立っており、やっぱり大手のレコード会社と契約したからこそ
贅沢な作りが出来たのでしょう。スティールギターも素晴らしい(前作とは違うギタリスト)。

スケール感溢れるナンバー「If I Only Had the Words (To Tell You)」。ビリーは決して
美声の持ち主という訳ではありませんが、朗々とした歌いっぷりが素晴らしい。

「Somewhere Along the Line」はゆったりとした中にもリズミックでなおかつゴスペルの
香りもするダイナミックなナンバー。
余談ですが本作にはラリー・カールトンが参加しています。しかしラリーを含めて三人の
ギタリストがクレジットされており(ペダルスティールは更に別)、正直どれがラリーの
演奏であるかは判別出来ません。

良いものが必ずしも世間に認められるとは限りません。何度か同様の事は書いていますが、
存命中は見向きもされず死後になって評価されるなどという事もありますし、
いまだに埋もれている名曲などは沢山ある事でしょう。
これだけ逆を張ってから言いますが、「Captain Jack」は認められるべくして認められた曲だったのだと
私は思っています。
FMでかかっていたのをコロムビア・レコードの重役がたまたま耳にし契約のキッカケとなったのは
既述ですが、この話にはもっと深い流れがあります。フィラデルフィアのWMMRというFM局に
よってそのスタジオライヴの模様は72年4月にオンエアされたました。前作から7曲未収録曲が5曲という
セットリストで、「Captain Jack」は未収録曲の一つでした。それが上記2曲のうち下の方です。
本演奏はすぐにWMMRのオーディエンスによって絶賛され、その後一年以上に渡って
レギュラーローテーションとなり放送されました。そしてこの曲は何のアルバムに入っているんだろう?
と、皆が求めるようになったのです。その後更にN.Y. におけるいくつかのFM局でもオンエアされ
世間に浸透していく事となります。
たった一度だけ地方のラジオ局で放送された演奏がたまたまコロムビアの重役の耳に留まった、
というのであれば運命論なども信じたくなりますが、実際はローカルであれども評判が高まり
オンエアされる頻度も上がっていった中においてコロムビアに知られる所となったのです。
この経緯にかなりの必然的要素があった事は否めない事実なのです。

現在殆どのリスナーがアルバムに収録された「Captain Jack」を先ず耳にし、その後に
11年に発売された「Piano Man」のレガシーエディションによって(先のスタジオライヴが
ボーナスディスクとして付いている)、あるいはユーチューブにて72年のライヴ版を
遡って聴いたことでしょう。勿論私もそうです。なのでアルバム版の印象が刷り込まれて
しまっていてライヴ版をまっさらな耳で聴くことが困難なのですが、アルバム版は
コロムビア契約前からビリーが持っていた本曲のイメージ通りだったのではないでしょうか。
先にも書いた通り大手と契約した事によってオーケストラなど贅沢なアレンジが実現しましたが、
最初からビリーの中にはアルバム版の様な形があったのではないかと思えるのです。
勿論先述した様にアルバム版を先に聴いた故の刷り込みによるものかもしれませんが・・・・・

アルバム「Piano Man」に収録された楽曲も基本的には前作と同系統の素材であると思います。
それがコロムビア・レコードの力によって贅沢かつ華がある創りとなり、よりエンターテインメント音楽
として完成されたものになりました。個人的にはどちらも甲乙つけがたい内容なのですが、
上の様な理由から商業的に成功したのではないでしょうか。
当然の事ながら、コロムビアによる強いプロモーション
も大きかったのでしょうけれども。

#176 Piano Man

鳴かず飛ばずだったビリー・ジョエルの1stアルバム「Cold Spring Harbor」ですが、
前々回・前回と取り上げた通りその内容は非常に秀逸なものでした。
運が悪かった、世間の見る目が無かった等、原因はいくつか考えられますけれども、
販促が弱かったというのは否めない事実です。
「Cold Spring Harbor」はファミリープロダクションというレーベルから
リリースされました。若きビリーの才能を見出したというのは特筆に値する慧眼ですが、
如何せん零細レーベル故にプロモーションは脆弱で、しかも回転数を誤りピッチが
上がってカッティングされてしまったというオマケ付きという有様でした(前々回ご参照)。
そんなレコード会社だったので、拾ってくれた恩義を感じながらもファミリー・プロダクションへ
見切りを付けようとしたビリーの心情も理解出来無くはありません。

「Piano Man」(73年)は同名アルバムからの1stシングルであり、ビリーにとって
最初のヒット曲であると同時にビリー自身を象徴する楽曲でもあります。
全米チャートで最高位25位と、無名の新人としては申し分ないヒットです。

アルバム一曲目の「Travelin’ Prayer」。前回でも触れましたが、ビリーとカントリーミュージックとは
あまり結び付かないイメージですが、初っ端から思いっきりブルーグラス調のナンバーです。
ビリーの音楽は良い意味で無節操であり、「素顔のままで」「オネスティ」しか知らないリスナーには
意外なものでしょう。ソロデビュー前のサイケバンドも、ビリーの一音楽であったのかもしれません。

ファミリープロダクションから逃げだすかの如く72年にビリーはN.Y. からL.A. へ移ります。
それは何故かと言えば、同年春にフィラデルフィアのFMで流れた「Captain Jack」のライヴを
耳にしたコロムビアレコードの重役が、ビリーの音楽に興味を持ち会社へ紹介したのです。
前述の通りファミリー・プロダクションの脆弱さに不満を抱いていたビリーは当然の如く
大手レコード会社であるコロムビアと契約をし、L.A. へ移住を決めたという訳です。
ビリーにまつわる有名な逸話として、音楽に没頭するあまり学業がおろそかであったビリーに対し
高校の教師がその姿勢を非難したところ、「俺はコロムビア大学ではなく、コロムビアレコードへ
行くのだから勉強は必要無い!」と言い放ったというのがあります。
本当にコロムビアレコード相手に契約と相成った訳です。

コロムビアと契約したとは言いましたが、当然ファミリープロとの契約も活きていました。
この辺りは ” 大人の ” 話し合いがなされたらしく、前作の権利をファミリーから買い取る、
また記述は見当たりませんでしたが、次々作の「ニューヨーク物語」までリリース元が
ファミリープロ/コロムビアとなっている事から、その辺りで手を打ったのでは?
(更に怖い話としてコロンビア側の重役がファミリーの社長を脅したとかナンとか・・・)

上はA-③の「Ain’t No Crime」。ビリーによるソウルフルなヴォーカルと
ゴスペル風女性コーラスからR&B・ソウルへの傾倒ぶりも伺えます。

A-④「You’re My Home」は当時の妻であるエリザベスの為に書いた曲。ウェストコーストに
いた頃は経済的余裕の無さから何も買ってあげられなかった故、バレンタインデーの贈り物として
彼女へ捧げたナンバーだそうです。「ストレンジャー」以降は家など何軒でも買える様になりました。
あっ! あと、ついでに言うと奥さんも何人でも …………… ヤメロ!ヽ( ・∀・)ノ┌┛Σ(ノ;`Д´)ノ
本曲もカントリーテイストが漂い、フィンガーピッキングによる生ギターやペダルスティールなどが
よりそれをイイ感じで演出しています。

話しは「ピアノマン」に戻ります。ビリー最初のシングルヒットでありシグネイチャーソングとも
言うべきこのナンバーは、アメリカを代表するミュージシャンであるビリーらしく、自身のそして
アメリカの魂とも言えるジャズ風のピアノイントロに始まります・・・・・・・・・・・・・・が、
その後の展開はいきなり三拍子、つまりワルツのリズム。そしてマンドリンやアコーディオンといった
楽器を用い欧州風の音楽、ブリティッシュ・アイリッシュトラッドミュージックかの様な曲調です。
カントリーでもマンドリンを使用する事はあるそうですが、やはりこれはヨーロッパの感覚でしょう。
勿論白人であるビリーのルーツはヨーロッパにあります。父はドイツ系、母はイギリス系の共に
ユダヤ人。しかしビリーにはあまり自身のルーツであるとか、特にユダヤ系である事にさして
思い入れは無いと言われています。
つまりこの人、音楽的に良ければ何でも取り入れる、先述した通り良い意味で無節操なのでは?
歌詞の内容は良く語られる所なのでここでは最小限にとどめます。
自身をバーのピアノ弾きに見立て、そこに毎夜やってくる常連や百戦錬磨のウェイトレス
(最初の奥さんエリザベスがモデルとも)が繰り広げる群像劇といったストーリーになっています。
これはファミリープロからトンズラし、L.A. で日銭を稼ぐため実際にラウンジミュージシャンを
していた頃の実体験を基にしているとか。
チャートアクションこそ「ストレンジャー」以降のシングルヒットには及ぼないものの、
コンサートではエンディング曲の定番となっており、オーディエンスの大合唱と共に終えるのが
お約束となっています。その事からしてもビリーにとって特別な一曲であるのは確かです。

ここまででアルバム「ピアノマン」に関してのまだ半分です。なので次回も「ピアノマン」その2。

#175 Cold Spring Harbor

ビリー・ジョエルは49年、N.Y. 州生まれ。彼の生い立ちなどは折にふれて。

デビューアルバムである「Cold Spring Harbor」(71年)はとにかく売れなかった、というのは
前回も述べました。
ビリーはソロデビュー前に二つのロックバンドを経ていますが、時代が時代というだけあって、
サイケ色満開で混沌とした音楽であり、これは昔からくそみそにこき下ろされています。
私も一度だけ耳にしましたが確かに二回は聴こうと思いませんでした …
上はA-②の「You Can Make Me Free」。「She’s Got a Way」と甲乙つけがたい
本作におけるベストトラックではないかと思っています。
ちなみに上は83年版で(前回ご参照)初出より短く再編集されています。初出版はこれです。

ピアノのみであった「She’s Got a Way」にはストリングスなどが加えられたのに対し、
本曲のリメイクにおいてはかなり削られた部分があります。後半のギターソロが長すぎるという
判断だったのでしょうが、個人的にこの後半の ” ハジけっぷり ” は好きです。71年というのは
こういう時代だったのであり、再発版も勿論良いのですが、22歳当時におけるビリーの
パッションを余すところなく伝える快作です。
これにはソロデビュー前のサイケバンドにおける経験もあり、さらにはオープニングの
「She’s Got a Way」が内省的な仕上がりだったので、” 次曲は暴れてみよう ” 、という
目論見もあったのでしょう。なのでアルバムコンセプトから言えば初出こそビリーが意図する所のはず。

A-③「Everybody Loves You Now」。ブルーグラス(カントリー&ウェスタンでテンポが
速いもの、という私の認識ですが、違っていたらご勘弁)の香りも少し漂うジャンプナンバーです。
ビリーとC&Wとはあまりイメージ的に結び付きませんが、初期は意外にも … 次作でわかります。

B-①の「Turn Around」はいかにも70年代初頭らしい、ジェームス・テイラーの曲と言われても
疑わない作品、といった感じですが実は初出版を聴いてみると・・・・・

83年版よりも泥臭い、サザンロック・スワンプロックといった仕上がりになっています。
リミックスヴァージョンではスライドギター(本曲はペダルスティール)が抑えられてしまって
いますが、原曲はもっとフィーチャーされています。今回調べていて初めてわかったのですが、
このスライドはスニーキー・ピート・クレイノウというギタリストによる演奏。
バーズを脱退したメンバーとカントリーロックバンドを結成し、ペダルスティールの名手と
謳われたプレイヤーだったそうです。83年版は洗練さが売りで、初出は朴訥さと
この素晴らしいギターが堪能が出来、結局はどちらも良いです。

非常にポップな楽曲である「You Look So Good to Me」。印象的なハモンドオルガンは勿論ですが、
ハーモニカもビリーによるもの。

「Tomorrow Is Today」はキャロル・キングか?、という程に内省的シンガーソングライターの
作品と呼べるもの。「つづれおり」が同年2月のリリースで、全米チャートにて15週連続一位という
お化けの様な売れ方をしたのですから、当然ビリーもこれに影響を受けなかったはずはありません
(「Cold Spring Harbor」の録音は7月からとされています)。
しかしながら、これも初出版はかなり違います。動画は張りませんがご自身でググってください。

エンディング曲である「Got to Begin Again」も「Tomorrow Is Today」と同系統の
ピアノ弾き語りによるナンバー。

ユーチューブを漁っていたら面白いものが。同71年におけるスタジオライヴらしいです。
音はお世辞にも良いとは言えませんが(タダで聴いてるんだから文句言うな!)、
若き日のビリーを生々しくうかがい知る事が出来る貴重な録音です。

当然の如く、前述した通りキャロル・キング、ジョニー・ミッチェル、ローラ・ニーロ、
そして同性であればジェームス・テイラーといった、当時台頭しつつあったシンガーソングライター達の
音楽に影響を受けたのは間違いないでしょう。結果的には箸にも棒にも掛からぬ程に売れませんでしたが、
永年に渡り幻の名作と言われ(日本では83年の再発迄は輸入盤・中古盤でしか聴くことが出来なかったので
尚更の事)、実際本作の内容はそれらの評価が紛うことなきものである事が明白です。
しかし少し天の邪鬼的な視点で言わせてもらうと、キャロル・キングやジェームス・テイラーといった
内省的シンガーソングライター風な音楽だけかと言えば、ややが付きます。
83年の再発時には邦題で ” ピアノの詩人 ” というサブタイトルが付きました。「ピアノマン」での
ブレイク前における、若き日のビリーによる心に染み入る珠玉の作品集、と言った売り出し方です。
勿論これが的外れだなどと言うつもりはありません。70~80%はその通りです・・・ですが …………
初出版の「You Can Make Me Free」や「Turn Around」を聴いてわかる通り、
実は結構ハジけています。
「ストレンジャー」「ニューヨーク52番街」にてビリーをバラード、ジャズ的なAOR、ソフトロックと
いった甘い印象で捉えた聴衆が「グラスハウス」で面食らった事はいずれ触れる所ですが(だいぶ後 …)、
キャロル・キングやジェームス・テイラー達と異なっていたのは、実はビリーは筋金入りのロックンローラーであるという点です。かなり語弊がある言い方になってしまいましたが、キャロルやジェームスに
R&Rスピリットが無いという事では決してありません。R&Rに対するベクトルの様なもの、
もう少し冗長を覚悟で述べるとすれば、それぞれが持っている音楽的 ” 引きだし ” の数々において、
ビリーは他のシンガーソングライター達よりもR&Rが占めるウェイトが大きかったのではないかと。
つまり「ピアノマン」、「素顔のままで」、「52番街」に収録された「ザンジバル」といった楽曲と
同じ比重で、R&Rナンバーも演っていたのだと考えています。R&Rもこなすシンガーソングライター
(世間一般的イメージの)ではなく、シンガーソングライターでありロックンローラーでもある、
そういうミュージシャンなのだと私は思っています。
何度も述べますが、他の人達にR&R魂が無いという事を言ってる訳ではないですよ。
キャロル・キングはある意味R&Rを創った偉人の一人です、「ロコモーション」を聴けばわかります。
上の部分は言いたいことが上手く伝わったどうか、かなり自信がありません。
なので忙しい人はちゃっちゃと読み飛ばしてください・・・・・あっ、でも曲だけは聴いてくださいね …