#160 Big Time

その表現方法が独特な人、言い替えれば傍から見ると我が道を行くクリエーターというのは、
ともすれば売れる事を拒否しているのかと捉えられがちです。しかし当人にすれば、いたって真面目に
それが世の中に受け入れられるはずだ!という信念のもとに行っている事が少なくありません。
ベクトルが一般人とはちょこっとズレているだけで・・・・・

大成功(Big Time)が間近に迫っているピーター・ガブリエルはやる気にみなぎっていました。
3rdアルバムこそ全英1位を獲得したものの世界的な成功とはまだまだ言えず、古巣のジェネシスと
大きく差を開けられていたというのは#157で述べた事ですが、83年頃を境にピーターの中では
メンタルにおける変化が起こっていて前向きな方向へ向かっていたそうです(躁鬱ともいえます … )。
上の「Big Time」は「スレッジハンマー」に続く全米TOP10ヒット。” もう少しだ、もう少しで
成功出来る所なんだ! ” という、まるでこの後のピーターを予言している歌の様にも取れますが、
その歌詞の中身は成功を切望している人物を自嘲的に描いたもの。
とは言え、ピーターの中に何らかの変化があった事は周囲の人物からのコメント等で伺い知れます。
その直前には離婚の危機にあった妻ジルは ” 成功したいんだ!突き抜けてやる!何でもやってやる!” と
ピーターが語っていたと述べており(この頃は夫婦関係も良好になっていた)、3rdから参加している
ギタリスト デヴィッド・ローズもピーターには功名心が溢れていたと証言しています。
4thアルバムまでは全てが「Peter Gabriel」というタイトルであったのを、86年の「So」から
タイトルを付けたのもその辺りが理由だそうです。ピーターはアルバムに名前を冠する事を
無意味だとその時点でも思っていた様ですが、レコード会社サイドからせめてタイトルは付けてくれ、
という要請に対し仕方なく応じたそうです。これだけでも彼にとっては大きな妥協です。
さらにはアルバムジャケットにもその変化が伺えます。1stはフロントガラス越しに車内にいる
心霊写真の如き顔。2ndは正面を見据えて指で何かを引っ掻いているもの。3rdは顔が解けており、
そして4thに至ってはアフリカの部族が儀式に使う人形の様にカリカチュアされた顔です。
どれ一つを取っても ” まともな ” ジャケットが無かったピーターでしたが、「So」においては
” フツウ ” になります。元々男前なのですからはじめからそうすれば良かったのでしょうが、
本人の中では何か許せないものがあったのでしょう。本作では80年代風に短く整えられた髪型と
シックな黒服という ” 洒落乙 ” なものとなりました。
ちなみに「So」に全く作品との関連性は無く、ただ単に言葉の響きが良かっただけ、との事。

「Big Time」のドラムはポリスのスチュワート・コープランドで、ベースは言うまでもなく
トニー・レヴィンです。本曲にはちょっとしたウラ話があり、初期から参加している
ジェリー・マロッタが当初ドラムトラックを録音したのですが、結果的にはコープランド版が
採用されました。#156で触れましたが、「So」以前はバンドのギャラも工面できない程に
金銭面で苦労していました。しかしジェリーをはじめとするバンドのメンバーは正式な契約も
交わさずに、ピーターの仕事の為には他のスケジュールも押しのけて参加していました。
「So」の製作段階ではジェリーはポール・マッカートニーのツアーに加わっており、
ピーターからお呼びがかかった事で散々苦労してポールに一週間のお暇を頂きレコーディングに
参加したそうです。そこで「Big Time」のジェリーによるドラムが録られたのですが、
前述の通りそれはボツになります。ジェリーはこのプレイを自身でも指折りのプレイと
思っており、ピーターに対して何とか考えなおしてもらえないか?と頼んだそうです。
ピーターは決して結果の為には血も涙も無く全てを切り捨てられる人ではありません。
生まれが良いのと典型的な英国人気質で、言いたいこともなかなか言えないタイプです。
実際はじめてジェリーを迎えに行った道中で、ピーターは何か話題を見つけてジェリーを
話しでもてなそうとしているのに上手く話せずにいました。ジェリーはサバサバしたこれまた
ティピカルな米国人であるので、” 気を使うなよ!ピーター! ” と慰めたそうです。
そんなイイ奴のジェリーを切ってまでコープランドヴァージョンを使ったのですから、
ピーターの葛藤は相当なものだったでしょう。裏を返せば、例え気弱でも譲れない所は
テコでも譲らない創造主としての精神が表れています。でもジェリー版も聴いてみたい …
付け加えると1stから参加しているキーボードのラリー・ファーストとも袂を分かっています。

「Mercy Street」はピーターが以前から好んでいた米女流詩人にインスパイアされた曲。
その歌詞同様に曲調もメランコリックなものですが、リズムはラテンチックなのが興味深いです。
元のタイトルは「フォロ」であったとの事。昔ブラジルに出稼ぎへ行っていた英・アイルランドの
建設従事者は現地でハチャメチャなパーティーをしていたらしく、そのうちにブラジル人でも
誰でもその宴に迎え入れる様になる ” For All(誰でも大歓迎)” がブラジル流の発音では
” フォロ ” になり、その時に演奏されていた音楽のリズムそのものを指す言葉になったそうです。
勿論本曲におけるリズムはそのフォロを基にしているのは言わずもがな。

発売当初、プレスの評価は従前の作品同様に賛否両論、両論極端なものだったそうです。
ある者は ” 永遠に希望が湧き出る地球的メッセージ ” と絶賛し、またある者は ” 退屈・わざとらしい ” と
酷評しました。リリース前後にプロモーションを行いますが、あるコンサートのために
発売月の86年5月末に一旦そのプロモーションを中断、その後11月から米でソロツアーを開始します。
この頃には「スレッジハンマー」の大ヒットもあり客層は広がっていました。
アメリカ・カナダにおける約一年のツアーは当初あまり話題になっていなかったそうです。
オーディエンスも「So」で初めてピーター・ガブリエルを知った人が多く、昔の曲をよく知らないという
状態でした。しかしその内容の素晴らしさが徐々に広まり、プレスの評価も高いものとなっていきます。
奇抜なメイク・コスチュームといったものはなくなりましたが演劇的要素は健在で観客を惹きつけます。
そうして87年6月、カナダでの日程を終えてアメリカに戻ってきた一発目のニュージャージー州の
スタジアム公演では五万人以上を動員するという記録を打ち立てました。

本アルバムが傑作であることは揺るぎない事実ですが、あえて唯一難点を挙げるとすればエンディング曲で
ある上の「We Do What We’re Told (Milgram’s 37)」です。これは市井のリスナーや評論家筋の
多くが言っている事で、これに関しては私も同感です。一応本曲についての説明をすると、副題である
『ミルグラムの37(%)』というある実験が基になっています。詳しく説明するスペースも無いので
興味がある方はミルグラムで検索を。5秒で説明すれば ” 人は権威の指示によりどれだけ残酷になれるか ”
といったもの。” We Do What We’re Told=言われた通りにやっただけだ ” 、という事です。
歌詞の内容もあまりピンと来ませんし、楽曲にもあまり秀でたものが感じられません。
それでも好意的に捉えるならのなら、商業的成功を狙いに行った本作でもなお、トライアル精神を
失わなかったという点くらいでしょうか・・・・・

ピーター・ガブリエルの代表作にて最大のヒット作となった本アルバムは米だけで500万枚以上、
英ではトリプルプラチナ(英プラチナディスクは30万枚以上なので、約100万枚といった
ところでしょうか)。その他ドイツとオランダでプラチナ、フランスでゴールドディスクに認定されます。

夢は必ず叶うとか、努力は必ず報われるといった無責任な物言いを私は全く信じていません。
実際にあることを願い、当人としては寝食を忘れ精進を続けたのに全く世に認められなかった人は
大勢います。いや、むしろそういう人の方が圧倒的に多いでしょう。
ピーター・ガブリエルもそういう人生を送っていたとしてもおかしくはありませんでした。
その特異な才能は、ある程度音楽に精通した人間であれば認めざるを得ないものです(好む好まないは
別として)。ですが、才能があっても商業的結果を残せなかったクリエーターはたくさんいます。
時代にそぐわなかった、宣伝広告が行き届かなかった、業界の大物に嫌われた等々 … 。
ピーターもそれで終わっていたかもしれないミュージシャンの一人です。私は運命論など毛ほどにも
信じていない人間ですが、それでもやはり運命の様なもので、天が結果をもたらしてあげたのでは?
と思わざるを得ない人がいます。ピーター・ガブリエルもその一人なのです。
余りにも独特な音楽性、歌詞の世界観、そしてステージングアクト。これまでコマーシャルな意味では
デメリットでしかなかった事柄が全て正の方向で結実します。そしてそれはこの後の活動においても。
本作で味を占めて「So」第二弾をまた作っていたならそれはなかったかも・・・・・
おっと、また長くなりすぎました。続きはまた次回にて。

#159 In Your Eyes

今日では有名なワールドミュージックの祭典であるWOMADがピーター・ガブリエルを中心に
始められたという事は前々回述べました。3rdアルバムの「Biko」などに象徴される通り、
80年代に入ってからのピーターはアフリカ等の第三世界、及びそれらの国々で未だ解決されていない
人権問題などに着目しました。後に世界的シンガーとなるユッスー・ンドゥールや、
フランス国籍の黒人ドラマー マヌ・カチェなどは86年のアルバム「So」にて世間の注目を
浴びる事となった訳ですが、ピーターが彼らを起用した背景は前述の活動が下地としてありました。

前回に続き「So」について。上はA面三曲目に収録されている「Don’t Give Up」。
本曲はイギリスにおける失業問題を歌っています。00年代以降イギリスは景気を取り戻して
いきましたが、80年代中頃は ” 英国病 ” とも言われる、過去に行われた過度な福祉政策
(ゆりかごから墓場まで。というやつ)によってまだまだ永く続いた不景気の真っ只中でした。
特に若者の失業は70年代から続く深刻な問題だったそうです。
デュエットの相手は言わずと知れたケイト・ブッシュ。ケイトの唯一無二の歌声が素晴らしいのは
言うまでもないのですが、ピーターの歌唱も筆舌に尽くしがたいものです。
その独特な音楽性や歌詞、時に奇抜とも言えるメイクやステージアクトによって見過ごされがちですが、
シンガーとしての実力は並々ならぬものです。ケイトのパートが終わってピーターの歌に戻る
3:20過ぎからの歌には鳥肌が立ちます。
本曲はそもそものイメージとしてはカントリーバラードがあったそうですが、出来上がったものは
ゴスペルの要素をも含んでいる様に思えます。いずれにしても素晴らしい楽曲に変わりはなし。

A-④の「That Voice Again」はオープニングの「Red Rain」同様に快活なリズムトラックの上で
哀愁感漂うピーターの歌及び世界観が展開されます。本作よりかなり前に、映画の構想と共に
創られたという点においても「Red Rain」と共通しています。マヌ・カチェのドラムが秀逸過ぎます。
ちなみにピーターとマヌは反アパルトヘイトに関するコンサートで知り合ったとの事。

後半で聴く事が出来るユッスー・ンドゥールの歌が印象的である「In Your Eyes」ですが、
実は他にもコーラスでシンプル・マインズのジム・カーや、ピアノにリチャード・ティーの名前も
クレジットされています。
ンドゥールが世界的歌手となるキッカケとなった事は先述の通りですが、これはピーターの方から
ンドゥールへラブコールを送ったのがはじまりだそうです。ンドゥールとコンタクトを取るためには
直接セネガルまで出向かねばならず(何故ならンドゥールの家には電話がなかったから)、
そこでンドゥールのステージを観る事となりました。彼はその時点ではセネガルの国民的歌手と
なっており、そのライヴにピーターは大変感銘を受けたとの事。余談ですがこの時まで
ンドゥールはピーター・ガブリエルというミュージシャンを知らなかったそうです。
「So」への参加の約束を取り付け、いざそのレコーディングの時がやって来ます。
当初ンドゥールは英語で歌おうとしたのですが、セネガルの言葉であるウォロフ語にそれを訳して
即興で歌い始めました。あまりの素晴らしさにピーターがそれに加わり、とてつもなくエキサイティングな
瞬間が生まれたそうです。
86年の後半から翌年まで約一年の間、ンドゥールはピーターのツアーに同行しました。
ピーターはンドゥールを紹介する際に ” 素晴らしいミュージシャンを紹介します。彼はアフリカから
最高の音楽を持ってきてくれました ” という言葉を用いました。ンドゥールはこれに
大変感激しました。観客は最初のうちこそ ” 誰だこのアフリカ人は? ” という反応でしたが、
彼の歌を聴くうちに ” もっと演ってくれ! ” 
となっていったそうです。
本曲はラテンフィール、アフリカン、そしてゴスペル等の要素が良い意味でごった煮になった様な
まさしく ” ワールドワイド ” な名曲です。

本曲を皮切りにンドゥールは西欧で知名度を上げ、ポール・サイモンのヒット曲などにも参加し
スター街道を突き進みます。上はンドゥールのソロアルバムにおけるピーターとのデュエット曲である
「Shaking The Tree」(89年)。翌90年におけるピーターの初となるベストアルバム
「Shaking the Tree: Sixteen Golden Greats」のタイトルともなり再録されています。

ピーター・ガブリエルの「So」についてはまたまた次回まで続きます。

#158 Sledgehammer

音楽性と商業性、商業性はエンターテインメント性と言い替えても良いですが、
この二つが両立し辛いというのは今までにも何度か書いてきました。
音楽性を重視すればわかりづらい、独りよがりの音楽だなどと言われ、コマーシャルな
方向に走ればやれ売れ線だ、金に目がくらんだ、などと好き勝手な批判をされます。

ピーター・ガブリエルが86年5月に発表したアルバム「So」は質の高さとエンターテインメント性が
両立している、ポップミュージック界において数少ない作品の一つです。
それまでジェネシスの元ヴォーカリスト、そしてイギリス本国 ” では ” 玄人受けしているミュージシャンと
いった程度の認知度でしかなかったピーターを一躍スターダムへと伸し上げた大ヒット作です。
上はオープニングナンバーである「Red Rain」。先ほどエンターテインメント性と言いましたが、
本ナンバーにおいてはその曲調及び歌詞は決して明るくありません。「Red Rain」とは血を意味しており、
アフリカで繰り返される争いの事などを歌っている様です。ピーター曰く ” 情念的なバラード ” であり、
確かに胸が切なくなるような歌唱です。
スチュワート・コープランド特集にて(
#95)、本曲のハイハットプレイがコープランド、
生ドラムがマヌ・カチェ、その他に打ち込みのドラムと書きましたが、よく調べたら生ドラムは
1stから参加しているジェリー・マロッタでした。ここにお詫びして訂正させて頂きます・・・・・
誰も見てねえから大丈夫だ (´∀` ) ……………………… ・゚・。・゚・。・゚・・゚・。・(ノД`)・゚・。・゚・。・゚・。・゚・。・゚・。
そのハイハットやリンドラムは振りしきる雨を表現したものです。三種のドラムの連なり合いも素晴らしいのは言わずもがなですが他のパートも見事過ぎ。ベース トニー・レヴィン、ギター デヴィッド・ローズと
いったリズム隊はお馴染みの面子でありケチの付け様がないプレイ。キーボードはピーターによるもので、
フェアライトCMIやプロフェット5といった80年前頃に発売されたデジタルシンセの黎明期における名器。
ピーターはこれらの楽器にかなりインスパイアされたそうです。自伝にもCMIを弾いているスナップが
掲載されています。リズムトラックだけ取れば快活でさえあるのに、曲調及びピーターの歌は厳粛さを
備えています。前作を踏襲しながら見事にポップミュージックせしめた楽曲であり、ともすれば本作の
ベストトラックではないかと個人的には思っています。

以前から折に触れ書いてきましたが、イギリス人のブラックミュージック好きはヘタすりゃ本国を
上回るかも?といった程です。ピーターもご多分に漏れず、アカデミックなクラシックの教育には
興味を示せず、10代の頃にはオーティス・レディング(#141~144ご参照)などの
ソウルミュージックへと傾倒します。
「Sledgehammer」はピーターなりのソウルミュージックと言えるでしょう。ファンキーな
ホーンセクションが印象的ですが、その中にはスタックスレーベルのメンフィスホーンズに
在籍していたプレイヤーもいます。つまりオーティスのサウンドを担っていたミュージシャンが
20年近くを経て、それを聴きまくり憧れていたピーターのソウルサウンドにまた色どりを添えたのです。

本曲について語られる時、必ずその独特なプロモーションビデオが話題に上がります。80年代から
MTVの普及により、ミュージシャンにとってPVは欠かせないものとなりました。
私は映像表現というものにあまり詳しくなく、あくまで主体は音楽であると思っているので、
時に音楽そっちのけでPVばかりについて語られる事に違和感を抱き続けていました。
しかしそんな私でも本曲のPVは秀逸であると認めざるを得ないのでそれについて書きます。
本PVにおける一番の特徴はコマ撮りというもの。アニメーションの様に一コマずつ撮影したものを
連続再生し映像とするのですが、アニメは出来るだけ細かくコマを撮って滑らかな動きを
追求するのに対して、あえて粗く撮りカクカクした動きにしています。
それでも実際の人間でそれを撮るのは大変だったらしく、かなりの時間が撮影に費やされたとの事。
機関車のシーンはたった十秒間なのに、機関車とそれから発せられる煙の動きを合わせる為に
ピーターは六時間じっとしていなければならなかったそうです。そして生魚も出てきますが、
これもそのままにしておかなければならず、スタジオの照明に当てられ酷い悪臭を放ったとの事。
もう一つの特徴は粘土細工をコマ撮りにしたクレイアニメというもの。70年代からこの手法は
あったらしいのですが、一般にこれを知らしめたのは本PVによってではないかと思われます。
これ以降テレビコマーシャルなどでもこの手法を用いたものを見るようになったと記憶しています。

スレッジハンマーとは大槌の意ですが、PVでもかなり露骨な描写があるのでお分かりかと
思いますが男性のチ ………… 男性の生殖器のメタファー(隠喩)となっています。
ピーターは本曲における歌詞の源流はブルースにあると述べています。ブルースなどは
労働の苦しみ、つまり ” やってらんねえぜ!こんな生活! ” みたいなものか、あとはセックスに
関するものが殆どです。勿論ロックもその流れを継いでいるのは言わずもがなです。

本PVの監督はスティーブン・ジョンソンという人物。まだ駆け出しのビデオ監督だったのですが、
ヴァージンレコードのスタッフからこの監督を紹介されます。ちなみにカリスマレーベルは
この時点でヴァージンレコードの傘下に入っていたので、本作のイギリス本国における発売元は
カリスマ/ヴァージンとなっています。
余談ですがジョンソン監督をミュージックビデオにおいて初めて起用したのはトーキング・ヘッズです。
85年の「Road to Nowhere」のPVにてその独特な映像が発揮されています。

「スレッジハンマー」は瞬く間にチャートを駆け上がり、英にて最高位4位を記録し、そして米においては
No.1を獲得します。ちなみにその前週までの米No.1はジェネシスの「インヴィジブル・タッチ」。
つまりジェネシスツリーがこの時期において世界のミュージックシーンを席巻したのです。
70年代におけるピーター在籍時にはその特異な音楽性やステージング(専らピーターによる)から
キワモノ的扱いをされてきた彼らがついに時代の頂点を極めたのです。嘘か誠か知りませんが、
往年のジェネシスファンは涙を流し、赤飯を炊いて祝ったとか祝わなかったとか・・・・・

本曲のPVについては流石にマイケル・ジャクソンほどではなかったにせよ、かなりの予算が
費やされたそうです。その額は12万ポンド。80年代半ばのポンド円レートが250円位だったので
日本円にしてざっと三千万円。3rdアルバムこそ本国を含む欧州でヒットしたとは言え、北米つまり
世界的にはヒットの無かったピーターにとっては破格の経費でした。しかし結果的にはこれが功を奏します。
87年のMTVアワードを受賞し、楽曲・PV共に世界中で聴かない・観ない日は無いのではないかと
思われる程でした。リアルタイムで経験した私が言うので間違いありません。

冒頭の二曲だけでこれだけのスペースを費やしてしまいました。本作については複数回に分けます。

#157 The Rhythm of the Heat

WOMADというワールドミュージックの祭典があります。現在ではギネスブックに載るほどの
メジャーなフェスティバルですが、これはピーター・ガブリエルが発起人となり始まったものです。
しかし最初から上手くいった訳ではなく、82年における第一回目は多額の赤字を被ったとの事。
その窮状を見かねてフィル・コリンズ達はカンパを提案しましたが、そういう事には意地っ張りな
ピーターはそれを受け取らないだろうという事で、赤字を補填すべくフェスの五週間後に
ジェネシス再結成コンサートが行われたのです。

再結成ライヴは決して出来の良いものではなかったそうですが、それでも再び彼らが一堂に会したのは
非常に意味がありました。一つのエピソードとして、カリスマレーベルの創業者であり兄貴的存在であった
トニー・ストラットン・スミスが亡くなった後、遺品であるノートにおいて ” あの再結成ライヴは
良かった ” という記述があり、ピーター達は胸を熱くしたそうです。
上は4thアルバム「Peter Gabriel」(82年)のオープニング曲である「The Rhythm of the Heat」。
” リズミック ” ”アフリカン ” というコンセプトはここに極まれり、という楽曲です。
静と動が同居、もっと具体的に言えば厳粛なパートがあったかと思えば、脳内麻薬が出ているかのような
打楽器の乱れ打ちも。前作の音楽性を更に押し進めた本曲は当アルバムを象徴しています。

「San Jacinto」もアフリカ音楽的な楽曲。古の大地を想起させる様なサウンドです。最もピーターと
してはアメリカのインディアンをイメージして作った曲だったとの事。

アフリカンファンクとでも呼ぶべき「I Have the Touch」は、身体的接触に馴れていない英国人が、
返って肌に触れる事で異常に性的興奮を覚えるといった内容。

実はジェネシスを脱退した頃のピーターに対して映画の話があったそうです。本作や86年の「So」に
おける楽曲のいくつかはそれ用に書かれたものだったとの事。
彼は早い時期からプロモーションビデオに力を入れていましたが、その独特なステージアクトと同様に
視覚へ訴えかける手段を重んじていました。勿論それが86年のNo.1ヒット「スレッジハンマー」の
PVにて華開いた事は言うまでもありません。

本作からのシングル「Shock the Monkey」。最も親しみやすい楽曲であり、実際米では彼にとって
初のTOP40入りを果たします。評論家筋にはえらく不評だったらしいですが、いつの時代にも
けなすだけの簡単なお仕事はあるものです。ただし本曲は重要な意味を持っており、彼はモータウンの様な
ソウルミュージックを意識してこの曲を書いたらしく、最終的にはソウルっぽい雰囲気は失われて
しまいましたが、これは「スレッジハンマー」や「ビッグタイム」へと繋がる流れです。

「Lay Your Hands on Me」は触る事をタブーとされてきながら、身体的接触を求めるという歌詞。
「I Have the Touch」と対を成すような内容ですが、どちらもピーターの中にある感情の表れです。

エンディングナンバーである「Kiss of Life」は躍動感溢れるリズミックな楽曲。(多分)フランジャーを
かけたパーカッションが素晴らしい効果を上げています。

本作は結果的に前作程の成功を収める事が出来ませんでした。米ではゴールドディスクに認定されて
いますが、それは5thアルバム「So」の大ヒットを受けてから改めて売れた為(これは3rdも同様)。
当時は酷評する者が多数を占めたそうでしたが、一部ではその先進性を認めた評論家筋もいた様です。
この路線が決して間違っていなかった事は次作「So」で証明される訳ですが、その時本作を酷評した
連中はどう釈明したのでしょう。テレビの自称コメンテーターとかいうのと同じで、どうせ都合の悪い事には
ダンマリを決め込んだのでしょうけど … 世の中カンタンなお仕事が多すぎですね・・・・・

https://youtu.be/xz524Cm4YRw
4thアルバムのプロモーションツアーを収録したライヴ盤「Plays Live」が83年にリリースされます。
ソロとしては初のライヴアルバムである本作はセールス的にこそ決して奮いませんでしたが、
ピーターのライヴアクトの模様を切り取った秀作です。出来れば映像で観たい所ですが、この時のものは
出回っていません。ライヴバンドとして鳴らしたジェネシスは全員の演奏力も勿論でしたが、
ピーターのステージングに因る所が大きかったのは言うまでもありません。「So」「Us」の大成功を受け、94年にリリースされてこれまたヒットを収めた「Secret World Live」(こちらは映像有り)の
原点は間違いなく「Plays Live」にあります(厳密にいえばジェネシス時代からですが)。
上は3rdに収録される予定が未収録となり、コンサートのみで披露されていた「I Go Swimming」。
上のサムネはアルバムジャケットですが、ジェネシス時代同様の特異なメイク・コスチュームです。

https://youtu.be/z2jknuwzJE8
ピーターが映画に並々ならぬ興味を持っていた事は既述ですが、この時期にはサウンドトラックへ
楽曲の提供もしています。上は『カリブの熱い夜』に収録された「Walk through the fire」(84年)。
私と同世代(昭和45年生まれ)の洋楽ファンの方ならご存知でしょうが、本映画からは
フィル・コリンズによるタイトルソング「Against All Odds (Take a Look at Me Now)
(見つめて欲しい)」が全米No.1の特大ヒットを記録し(ちなみに年間シングルチャートでも
5位)、ピーターの方は完全に霞んでしまいました。もっともサントラの仕事はやれば小銭が
稼げるから、といった程度でこなしていたそうです。

この時期、妻であるジルと危機的な状況にあったそうです。殆ど家に帰らないピーター、
引っ越しをしたのですがその環境にジルが馴染めなかったという事、そしてピーターには
浮気相手がおり、精神的に不安定になったジルもこれまた不倫をしてしまいました。
ちなみにジルも貴族の家柄でイイとこのお嬢様。そしてメンタルの脆さはピーターと同様でした。
3rdにて躍進の兆しが見えかけたかと思われたピーターでしたがそれもつかの間、またまた
暗いトンネルへと突き進んでいくかの様でした。その後に関しては次回にて。

#156 Games Without Frontiers

ピーター・ガブリエルによるアルバム「Peter Gabriel」(80年)についてのブログその2ですが、
少し時系列を遡ってジェネシス時代の話を。
ジェネシス回 #22~24でも書きましたが、ピーターとその他のメンバーの間に確執が生まれ、
やがて脱退に繋がります。特にキーボード トニー・バンクスとの仲は険悪でピーターのやる事に
トニーはいつもピリピリしていたとの事(しかし仕事を離れれば学生時代からの通り親友でいられたらしく、この辺りは不思議なものです)。ベースのマイク・ラザフォードはトニー側に着き、フィル・コリンズと
ギターのスティーヴ・ハケットは傍観するといった感じだったそうです。フィルは特にバンドの
潤滑剤的存在らしかったので(リンゴ・スターの様な立ち位置か?)、脱退後もピーターとは
親しくしていたとの事。丁度その頃フィルは最初の結婚が破綻し、元来のワーカホリックに益々拍車が
掛かりました。ピーターは財政的に苦しい時期でありセッションミュージシャンへのコンスタントな
ギャラの工面も難しい状況にあったそうで、そんな折フィルにその話が伝わり自分を使えば良い、
と言った所ピーターは ” ありがたい ” となり3rdアルバムへの参加と相成った訳です。

「Games Without Frontiers」は戦争を子供の遊びに例えた曲。#152で取り上げたケイト・ブッシュが
バッキングヴォーカルで参加しています。「No Self Control」においてもそうですが、彼女の声が
入ると得も言われぬ幻想の世界に引き込まれてしまいます。本曲はピーターにって初の
全英TOP10ヒットとなりました。もっともピーターとプロデューサー スティーヴ・リリーホワイトは
シングル化に反対していたそうですけれども・・・

「Not One of Us」はここではよそ者や異邦人の様な意。一聴すると本作の中では最もポップな創りに
聴こえますが、イントロからして既にフツウではありません。後半のドラミングが圧巻ですが、本曲は
以前から参加しているジェリー・マロッタです。やはりジェリーに対してもピーターはシンバル類を
セッティングしない事を要求し、そうしてこのプレイが生まれました。普通であればシンバルの
クラッシュ音( ” シャーン ” という音)が鳴る展開の変わり目などでそれが聴こえないと違和感があるかと
思いますが、それが全くありません。フィルのプレイにおいても同様ですが、この力強い ” タイコ ” の音で
十分に成立しています。勿論全てでシンバルが必要無いなどと言うつもりはありませんよ。
良いシンバルはその音色を聴いているだけでウットリします。

ジェネシス及びピーター・ガブリエルの作品を英本国でリリースしていたのはカリスマレーベルです。
創業者であるトニー・ストラットン・スミスは先見の明を持った人物で、69年の創設時から先進的な
ミュージシャンを見出してきました(今回調べていて初めて知ったのですが、84年に衝撃のデビューを
飾ったジュリアン・レノン〔ジョン・レノンの長男〕も同レーベルでした)。80年代前半に
ヴァージンレコード傘下に入りますが、後に世界的なレコード会社となるヴァージンも、創世記は
独創的な音楽を目指すミュージシャンを発掘しており、第一号作品はマイク・オールドフィールドによる
「Tubular Bells(チューブラー・ベルズ)」という、アルバムを通して交響曲の様にただ一曲のみ、
しかも全編インストゥルメンタルという無謀 … もとい、画期的なアルバムをリリースしました。
映画『エクソシスト』で無断使用され、結果的にはそれが災い転じて福と成すとなって大ヒットしました。
カリスマもヴァージンも共にアンテナの鋭い企業風土だったからこその合併だったのでしょう。

「Lead a Normal Life」は親が我が子大して普通の生活を送って欲しいと願う思いを、
体制に従う陳腐なものと皮肉る様な内容(だったと思う・・・)。

本作は当然の如く賛否両論を巻き起こしました。賛の方はローリングストーンズ誌において、” 得体の
知れない恐怖感からくる刺激的なLP ” と評価。またニューミュージカルエクスプレス誌(NME誌)では
” これで80年代の音楽の種はまかれた・・・ロックに少しでも関心のある人は是非心にとどめておくべき
作品である ” とその革新的な作風を賞賛しています。一方で同じNME誌でも別の記者によっては
” アートとしては底が浅い ” などと否定されており、感じ方は人それぞれであった様です。
ピーターはこれに対して傷つきそして憤慨し、NME誌へはチケット、プレス情報、そしてレコードも
一切送らないという仕返しをしたそうです。87年に経営陣が入れ替わる迄それは続いたとか・・・

エンディングナンバー「Biko」は反アパルトヘイト活動家であったスティーヴ・ビコの死を悼んだ曲。
私は詳しくないのでアパルトヘイトやビコについて知りたい人は各自でググってください。

本作から方向性が変わり、その後におけるピーターの音楽の一里塚となったのは衆目の一致する所。
しかし私は根っこの部分では少しも変わっていないのだと信じています。ジェネシス時代から
幻想・怪奇・狂気といったものをエンターテインメント音楽としてどう表現するかが彼の目指す所だったと
思います。本作では表面上の表現手段こそ変化したものの、その根幹は揺らいでいません。
およそポップミュージックとして扱うテーマとしては商業的に成り立たないと思われるものを、
本作やトーキング・ヘッズの「リメイン・イン・ライト」(#88ご参照)などは見事に昇華せしめました。
70年代の複雑化したロックやスタジアムロックなどと言われる商業主義に走ったとされる音楽(これに関しては何度も書いてますが決して悪い事ではないと思っています。なにせ商業音楽なんですからね)、
それらに対する反動がアフリカン、リズム革命、そして当時最先端であった機材及び録音技術等を用い
ここに華開いたのです。
前回も書きましたが、あと三年早かったならピーターにしろヘッズにしろ成功していなかったでしょう。
勿論この下地にはパンク~ニューウェイヴといったアンテナの鋭い人達による音楽が先ずあって、
70年代のロック・ポップスに飽き足らないと感じたリスナー達へ見事に響いた事は言うまでもありません。

#155 I Don’t Remember

私は筋金入りのピーター・ガブリエルフリークであるからして言う資格があると思いますが
(何の資格だ?)、この人は精神を病んでいます。しかも幼少の頃から・・・・・

彼は子供の頃、夜トイレに起きると廊下で奇妙な人物が頭のぱっくり割れた赤ん坊を差し出してきたと
語っています。不思議と怖くはなかったそうですが、これが大人の気を引くための嘘であるなら
前回述べたサービス精神(?)であり、本当に見えていたのなら何らかの精神疾患でしょう。
80年発表の3rdアルバム「Peter Gabriel」のジャケットをご覧になればおわかりの通り、
やはりこの人はどうかしています。ちなみに娘はこのジャケットを怖がったのであまり
見せないようにしたとか(当たり前だ … )。
上は本作のオープニング曲「Intruder(侵入者)」。売ることを目的に創ったとは思えません。
不安を煽るようなフレーズ、ワイアーか何かを引っ掻いているような人を不快にさせる音、
そしてとどめのピーターによるヴォーカル。一曲目からいきなりこれです・・・・・

79年の初頭からピーターは本作の準備に取り掛かりました。トーキング・ヘッズ回 #89
本曲を取り上げましたが、80年代に入ってから ” リズム ” が大いに見直されました。
おそらくは70年代に複雑化し過ぎた事への反動なのだと思いますが、流行り廃りというものは
極端から極端へとブレる様です。ピーターはそれまでのキーボードでコードパターンを基に
曲を作るという手法から、当時最新鋭であったリズムマシンを用いるようになりました。
先ずリズムありき、という制作手法に変わっていったのです。
ドラムはフィル・コリンズ。#89でも少し触れた事ですが、ピーターはシンバル類を
取っ払うことを要求し、面食らったフィルでしたがその指示通りにプレイします。
スタジオではプロデューサーとエンジニアが従来にはない試みを行っていました。
ゲートコンプレッサーという最先端の装置をドラムの音にかけて色々いじくっていたのですが、
そうしているうちにキック(ベースドラム)の音がシューと伸びて、次のキックの直前まで
残るというそれ迄に聴いた事がない様な効果を挙げました。これを聴いたピーターは興奮し、
フィルにそのまま五分間プレイしてくれと言いました。それが「侵入者」のドラムパターンです。
後にこの手法はゲートリバーブとして80年代のドラムサウンドを変えるテクニックとなります。
そのエンジニアはヒュー・パジャム。ゲートリバーブをフィルと共に創った功労者として
世間にその名を知られます。実はこのサウンドの開発について、ピーターとフィルの間では
少しもやもやした感情があるようです。どちらもこれを生み出したのは自分だとの自負があるのです。
先に本作で世に出したのはピーターでしたが、爆発的ヒットによって世界的に認知されたのは
勿論フィルの初ソロアルバム「夜の囁き」(81年)です。ピーターは3rdでのドラムサウンドについて、
人からフィルの(ソロアルバムの)音に似ているね、などと言われる事に気を悪くしたそうであり、
またフィルの方もピーターのサウンドをパクったなどといわれのない中傷を受けたとの事。
双方ともあのサウンドを生み出したのは自分だと(フィルはパジャムと共に)プライドがある様です。
それにしてもフィルのタムタムの音は素晴らし過ぎます。同時期におけるジェネシスの「Duke」も
同様ですが(#24ご参照)、裏面のドラムヘッドを外した所謂シングルヘッドタムによる力強い音色には
圧倒されます。この音は前述した「夜の囁き」の大ヒットにより、フィル・コリンズの音として
世の中に認知されます。

そしてプロデューサーはスティーヴ・リリーホワイト。この後U2のプロデュースにて
一躍その名を世界に轟かす事となる人物ですが、当時はまだ新進気鋭の駆け出しプロデューサーでした。
スージー・アンド・ザ・バンシーズを聴き、ピーターはスティーヴに興味を持ったそうです。
スティーヴからすれば ” あのジェネシスのピーター・ガブリエルが何故自分に? ” と思ったそうですが。
トーキング・ヘッズ回の辺りでニューウェイヴについては何回かに渡り触れましたけれども、
この時期ロンドンやN.Y. のミュージックシーン、とりわけアンテナの鋭い層では新しい試みが
行われていた様です。ピーターはそれらの動きに敏感でした。この若きプロデューサーに光るものを
見出したのです。
上は次曲の序章に当たる「Start」。英サックス奏者ディック・モリシーのプレイが素晴らしい。

今回のテーマである「I Don’t Remember(記憶喪失)」。本作ではこの一曲のみの参加である
トニー・レヴィンのスティック(ベース)が耳を引きます。「Start」のエンディングで聴こえる
音色は当時最新鋭であったデジタルシンセサイザー フェアライトCMIですが、これをピーターは
積極的に使用しました。余談ですけれども、80年頃このシンセは日本では三台しかなかったとの事。
一台は坂本龍一さん、もう一台は?、そして三台目は東京のとあるスタジオにあったのですが、
たまたまそこでアニメ『うる星やつら』の音楽をレコーディングする為に使用した星勝さんが
本機を見て、これを使おうと判断したとか。うる星やつらはSFなので、近未来的な音色が
マッチしたのでしょう。オッサン世代にはドンピシャリですが今の人にははたして …

「Family Snapshot」はアラバマ州知事を暗殺しようとした男の自伝を読みインスパイアされて
作った曲。暗殺者の視点から書いた歌詞でありますが、楽曲自体は起伏に富んだもので
本作では聴きやすい方です。銃を放った後、
最後に子供時代に戻るパートが何とも言えず侘しい。
https://youtu.be/qDHpbZ_0n6E
A面ラストの「And Through the Wire」は電話線を通じて世界と繋がる、の様な事を
歌っていたと思います。これも本作としてはポップな曲調。ちなみにポール・ウェラーが
ギターで参加していますが、たまたま同じスタジオでレコーディングしていた所を、
ピーターが弾いてくれないかと頼み、そうしてみたらピーターのイメージにピッタリだったので
一発採用だったとか。パンクやニューウェイヴといった若いミュージシャンによる音楽に
理解があったピーターならではの事です。

本作はピーターにとって、と言うよりもポップミュージック全体において重要な作品であるからして、
二回に分けます。ただ先に事実だけを述べておきますと、米アトランティックは本作のデモを聴いて
こう言いました、” ピーターがまともになったら次のアルバムを出そう … ” 、と。
アトランティックの言い分も無下に否定は出来ません。ポップス界において売るという事は
至上命題であります。ミュージシャンだけではなく、それに関わる現場のスタッフや間接部門の
人間たちを食べさせていかなければならないのですから。ミュージシャンの良く言えば実験的精神、
悪く言えばオ〇ニーに付き合ってはいられないという考えも道理です。
結果的にアトランティックとは決別し、米ではマーキュリーからリリースすることとなります。
そしてそれは周囲の(悪い意味での)期待を裏切り米で25万枚(最終的にはゴールドディスクを獲得)を
売り上げ、英及び仏では初のNo.1を記録します。
あと三年リリースが早かったら本作は埋もれていたでしょう。ポップミュージックの時代が
変革期を迎えており、このお世辞にもコマーシャルとはとても言えない作品が世に認められたのです。

#154 White Shadow

ピーター・ガブリエルは50年、英国サリー州生まれ。ジェネシス回 #22~24で既述の事ですが、
オリジナルメンバーは全員が貴族の家柄です(後から加入したフィル・コリンズやスティーヴ・ハケットは
一般階級)。父方の祖父が財を成した人で、相続により農場とコテージを貰いピーターはそこで育ちます。
父親は電気技師でかなりの発明マニアだったとの事。仕事部屋で色々なものをこしらえ幼き日のピーターは
それにワクワクします。母親も貴族の家柄で五人姉妹の内二人は王立音楽院に在籍するといった超音楽
エリートの家系。勿論この母方の影響はあったのでしょうが、意外にもピアノのレッスンなどに対して
ピーターはあまり興味を示さなかったそうです(むしろ妹のアンが真面目だった)。
ピーターはシャイである一方、周囲の人達をあっと言わせる仕掛けを施すような子供だったそうです。
それは天真爛漫というよりも、こうしたら皆は驚き、そして喜んでくれるんじゃないかな?という思いから
だった様との事。これが後におけるピーターの創作・表現の根幹となっています。

77年暮れからピーターは2ndアルバムの制作に取り掛かります。プロデュースはロバート・フリップ。
フリップは前作に納得がいっておらず、またピーターのソロとしての始動にも若干煮え切らないものを
感じていたそうですが、やはり親友なのでそれを引き受けます。
上はオープニング曲の「On the Air」。勢いのあるロックチューンでピーターとしては無難な
楽曲だと思いますが、これには裏エピソードが。米ではアトランティックが発売元だったのですが、
とにかくシングルとして売れる曲を作れ、という要望だったそうです。次の「D.I.Y.」も含めて
ピーターはそれを受け入れます。これに関して彼は金銭的成功が欲しかった事は認めつつ(実際
この時点ではジェネシス時代の印税に頼っていた)、少し斜に構えた考えを持っており、
” 自分達が創造的姿勢をあくまで崩さずに、表面上は商業的なものが会社に受け入れられるかどうか
(=だまくらかせるかどうか)試してみたかったんだ ” の様な趣旨のコメントをしています。

アトランティックが意図した通りのシングル向けの楽曲もありますが、基本的に本作は
内省的な楽曲の方が多いです。上は妻ジルと共作した「Mother of Violence」。

個人的には本作のベストトラックであるA面ラストの「White Shadow」。地味ではありますが
ジェネシス色を感じさせる佳曲です。ジェネシス時代とは決別を図っていたピーターでしたが、
やはりそう簡単に払拭出来るはずはありません。そしてファンにはそれが嬉しいのです。
特筆すべきはロバート・フリップによるギターソロ。(多分)ナイロン弦によるプレイも
素晴らしい効果を上げていますが、3:20過ぎからのエレクトリックギターによるソロが
絶品です。フリップとしては珍しく(?)緩急のついた、起承転結のあるフレーズ構成であり、
おそらくはギブソンレスポールのフロントピックアップを用いて、トーンを絞り軽く歪ませる、
エリック・クラプトンがクリーム時代によく使った所謂 ” ウーマントーン ” というやつですが、
このむせび泣くような音色がたまりません。キング・クリムゾンの「スターレス」も同様です。
考えてみればフリップの速弾きというのもレアなプレイです。そしてトニー・レヴィンの
ベースも秀逸であるのは言わずもがな。レヴィンは前作でボブ・エズリンが引っ張ってきたのですが、
フリップとの出会いはこの頃からだったようです。81年にクリムゾンがレヴィンを交えて
再結成するのはクリムゾン回 #16で述べた通り。エズリンを毛嫌いしていたフリップでしたが、
この出会いにだけは感謝するべきでしょう。

少し時間は遡りますが、ジェネシスを脱退した頃のピーターの精神状態はかなりヤバい状態だったようです。
妻ジルによると、レタスの栽培に凝っていたそうですが、異常とも言える偏執的な凝り方であり、
この人はどうにかなってしまったのではないか?という程だったとの事(でも次回以降で書きますが、
この人は生まれた時から ” どうかしてる ” ヒトなんですけどね・・・失礼 …… )。
しかしやがて徐々に幾つかの出会いから音楽活動を再開出来るようになり、1stソロの制作へと
こぎ着ける事が出来たのです。

B面トップの「Indigo」は隠れた名曲。30年代のミュージカル映画にインスパイアされたという
本曲は、死を目前にした父親が今まで潜めていた感情を吐露するといった内容です。
寂寥感溢れる曲調、なによりピーターの歌唱が何とも言えぬほど切ないです。

先述の通り本作はレコード会社を説得する(=だまくらかす)為のポップな楽曲と、内省的なものとが
混在しています。その中にあって異彩を放つのがピーター&フリップによる実験的ナンバーである
「Exposure」。翌79年のフリップ初ソロ作のタイトル及びタイトルチューンとなる訳ですが、
よく取りざたされるのが『フリッパートロニクス』というやつ。私も詳しくはないのですが、
二台のテープレコーダーを用いてギターに独特の音色変化をもたらすもので、適切な表現かどうかは
わかりませんがギターシンセのアナログ版とでも捉えれば良いのでしょうか?
私はそれよりもドラムの音が気になります。本作から参加しているジェリー・マロッタは兄のリックと共に
第一線で活躍するセッションドラマー。二人とも何の予備知識もなくその姿を見れば絶対にプロレスラーだと
思う程の体格ですが、その音も体格通りの音です(別に筋力がなければパワーが出ないという事は絶対に
無いですけどね、凄く細いのにめちゃくちゃパワフルなドラマーは大勢いますから)。
本作全編に渡りシンプルでありながら、そのタイトでパワフルなドラミングにて貢献しています。

エンディング曲である「Home Sweet Home」はピーターが初めて書いたラブソングだと言われています。
彼がラブソングを作るなどという事は精神状態が良かったのでしょうから、前述したジェネシス脱退直後の
不安定さは解消されていたのでしょう。このようにメロウな曲も ” ちゃんと ” 書ける所から(失礼だな)、
ソングライターとして非凡な才能が伺い知れます。

本作はオリジナルアルバムの中で最も売れなかったアルバムです。個人的には好きな作品なのですが、
商業的失敗については様々な要因を思いつく事が出来ます。元ジェネシスのリーダーであった
ピーター・ガブリエルのソロという話題性は1stで切れてしまった。1stはまだジェネシスらしさが
残っていた為に昔のファンは喜んだのだけれども、本作には先述したレコード会社を説得するための
ポップな素材が入っており、それがコアなリスナーには敬遠されてしまった。また何よりジャケットが
暗過ぎます。この人に明るさを求めるのは端から無理ですけれども、表は勿論の事、裏ジャケットは
特に陰惨な雰囲気を漂わせています(興味がある人はググってください)。もっともジャケットの
異様さは(良い意味で)今後も続くんですけどね・・・・・

同時期にジェネシスはギターのスティーヴ・ハケットの脱退をもこれまた乗り越え、「そして三人が残った」
という自嘲的タイトルのアルバムが大ヒットを記録し、ますますその世界的成功を手中に収めていきます。
このままピーターとジェネシスの(商業的な)差は広がっていくのか?その辺りは次回にて。

#153 Solsbury Hill

ケイト・ブッシュ回でその名前が挙がったのでこの人を取り上げます。
#22~24のジェネシス特集にて、私がジェネシスマニアであることは述べました。
ですので当然この人もジェネシスにおける活動及びソロワークは鼻血が出るほど聴きました。
その人は言うまでもなくピーター・ガブリエル。英国が生んだ屈指の天才(奇才)ミュージシャンです。

75年にジェネシスを脱退した彼は、その年の終わりからデモテープを作り始め、それは20曲程となります。
76年から77年1月にかけてトロントとロンドンで録音を行い翌2月に1stソロ「Peter Gabriel」を発表。
上はオープニング曲である「Moribund the Burgermeister」ですが、のっけから怪奇色満載で、
かと思えば劇的な曲調に変わる、これだけ聴くとジェネシスかと思う程です。
それもそのはず、1stに収録された多くはジェネシス在籍時に書かれたものだそうです。
初めに白状しておきますと、今回かなりの割合でピーターの自伝『ピーター・ガブリエル(正伝)』
(スペンサー・ブライト著・岡山 徹訳・音楽之友社)を参考にしています。

第一弾シングルである「Solsbury Hill」。ソルズベリー・ヒルとはイングランド南西部の
サマセット州にある古代塚で、当時ピーターの住まいは近くにあったとの事。
これから手に入るかもしれないものの為に、今持っているものを捨てる覚悟を書いた歌詞だと
本人は語っています。子供も生まれ(それに対して他のジェネシスメンバーが無理解だったのが
脱退の要因の一つであった事はジェネシス回で触れた通り)、新しい出発という意味で
第二の人生における希望のシンボルにしていたそうです。
変拍子である所を除けば本曲はメロディックで親しみやすい方ですがエンディングはやはり・・・
本シングルは全英で13位にチャートインし、アルバムも英7位、米でTOP40に入るという
好成績を上げ、英・仏・独でゴールドディスクに認定されました。ソロとして上々の滑り出しです。

平凡な・単調な、という意味である「Humdrum」。確か邦題は「虚ろな日々」だった記憶があります。
ラリー・ファーストのエレピに乗せて気怠く歌われる導入部から、途中では舞踏曲を思わせる箇所もあり、
エンディングは荘厳な展開へ。これもジェネシス時代を思わせる曲です。
キーボーディスト ラリー・ファーストはその後ピーターと永く関わる人物。そしてガットギターは
言うまでもなく盟友ロバート・フリップです。
プロデュースはボブ・エズリン。正直ピンク・フロイドの「ザ・ウォール」とピーターの本作でしか
名前を知らない人でしたが(アリス・クーパーのプロデュースが有名らしいですが私は詳しくなく … )、
大仰な音楽の作り方をする人で有名だそうです。

B面トップの「Slowburn」はイントロだけ聴くとアメリカンロックかと思ってしまいますが、
これもエズリンの影響かと。昔は輸入盤で本作を聴いていましたが、向こうのLPはジャケットの中に
ゴロッとポリ袋に包まれたレコードが入っているだけで、詳しい情報、つまり演奏陣などは
判りませんでした。ですので本曲のギターもロバート・フリップが弾いているものと思っていました。
やがてネット時代になって別のギタリストがいるとわかり合点がいきました。
エズリンはフリップに対してロックギター然としたプレイを要求し、フリップはそれを拒んだそうです。
当初は偽名でクレジットするよう頼んだそうですが(それ程までにエズリンとは合わなかった)、
親友であるピーターの為に渋々実名でのクレジットを許可したとか。余談ですがその後のツアーでは
偽名で参加し、アンプの陰に隠れて弾いていたそうです。
「Slowburn」のエンディングではやはりピーター・ガブリエルワールドが展開されます。

ブルースのパロディのようなナンバー「Waiting for the Big One」。しかし演奏が素晴らしいので
ただのパロディでは終わっていません。

壮大なオーケストレーションとタイトなR&Rが同居する「Down the Dolce Vita」は「Slowburn」と
同カラーの楽曲。次のエンディングナンバーである「Here Comes the Flood(洪水)」への
導入部も兼ねています。

https://youtu.be/vb7htoJAK7g
「洪水」は全てが洗い流され、後に新しい世界が到来するといった多分にキリスト教的な内容だそうです。
私は詳しくないのですが黙示録というものでしょうか。自身のソロとしての再出発にもかけた意味合い
との事。本アルバム全体を通してその手のメタファー(隠喩)が込められているとか。

自伝でピーターが語っていますが、本アルバムはかなりの割合でエズリンに主導権を握られていた様です。
それでも彼はフリップの様にエズリンを毛嫌いする事なく、自分には出来ない音楽の作り方をする人と
認めています。しかしそんなピーターでも本曲はいじり過ぎだったと回顧しています。当初のイメージは
もっとシンプルなアレンジだった様であり、それは多分上の様なヴァージョンだったと思われます。
これは79年に放送されたテレビ番組『ケイト・ブッシュ クリスマススペシャル』におけるもの。
スタジオライヴを収録したこのプログラムにピーターはゲスト出演し、本曲を披露しました。
勿論の事、ご覧の通り冒頭でケイトが出ています。

初めに述べた通り私は相当なジェネシス&ピーター・ガブリエルフリークなので、ついつい思い入れ過多の、
独りよがりで
、マスTーBーション的(伏字の意味ねえな)な内容になってしまいがちなので、出来得る限り
” ピーター・ガブリエル?ナニソレ?食べられるの?” という方にも分かり易い内容で書いていきます。

既に ” 付いていけねえ ” と思ってるんじゃねえかな、見てる人いたら? … の話だけどな (´∀` )・・・・・
・・・・・・それは言うなあ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!━(# ゚Д゚)━

#152 Wuthering Heights

ドリーム・アカデミーがピンク・フロイドのデヴィッド・ギルモアによるプロデュースを
受けてデビューしたという事は前回述べましたが、ギルモアによってその才能を見出された人と言えば
彼女を挙げずにいられません。

天才・鬼才・奇才という表現があまりにもしっくりくる女性ミュージシャンの筆頭ではないかと
思います。その名はケイト・ブッシュ。上は彼女のデビューシングルにて全英No.1となった
「Wuthering Heights(嵐が丘)」(78年)です。
親が医者で裕福だったとか、11歳からピアノを始めたとかは日本版ウィキにありますので
そちらをご参照を。今回調べていて初めて知り納得がいったのは、彼女が空手を習っており
(兄のジョンは空手家)、時折発する奇声は空手の気合であり、またデビュー作の
ジャケット等における日本風のコスチュームはそれに由来するものの様です。
そのレコードジャケットに関して、「嵐が丘」や1stアルバム「The Kick Inside」で画像検索すると
いくつかのヴァージョンが出てきます。先ほど「嵐が丘」は78年(1月)リリースと述べましたが、
実は前年の11月に一旦は発売されたようです。しかしそのジャケットを彼女が気に入らず、
ラジオ局などへいくらか出回った分を回収し、翌年までペンディングさせたそうです。
それにしても、たかだか18、19歳の小娘の言う事に天下のEMIが従ったというのも驚きです。
それだけ期待が大きかったのか、あるいはギルモアの威光があったからか?(多分後者)・・・
「嵐が丘」は英女性作家の同名小説を基にしているそうですが、詳しくは他で検索を。

「嵐が丘」は英女性シンガーソングライターとしては初の全英1位となり、アルバムも100万枚以上の
セールスを記録します。しかしアメリカでは成功を収める事が出来ませんでした。米ラジオ局のシステム、
また彼女の美しい容姿を積極的に打ち出さなかった事などが原因ではないかと色々非難があったそうです。
日本風衣装に凧というジャケットの他に、胸元が大きく映ったバストショットのものも出てきますが、
米市場で売り込む為に後から作成されたものの様ですけれども、彼女は後にこれについて批判しています。
上はアルバムのオープニング曲「Moving(嘆きの天使)」。摩訶不思議なイントロから、
ヨーロッパ的叙情味溢れるメロディとケイトの歌で早速彼女の世界に引き込まれてしまいます。

タイトル通りこれまた不思議な曲調の「Strange Phenomena」。かと思えば一転してコミカルな
曲調の「Kite」はアルバムジャケットの元になっていると思われます。

2ndシングルで全英6位となった「The Man with the Child in His Eyes」。彼女は早くから
プロモーションビデオに力を入れており、音楽のみならずその歌詞や演劇的なステージアクトなど
全てをひっくるめてケイト・ブッシュの音楽と相成っています。ちなみに本曲は13歳の時に作り、
16歳でレコーディングされたとか。

B面のトップはこれまたガラッと変わってブギ・ロック調のナンバーである「James and the Cold Gun」。終盤では叙情的なプログレ色に染まっていきますがやはりギルモアの仕業か?
これらの曲を10代後半で一人で創り上げたというのは驚愕に値します。勿論アレンジや演奏陣の仕事に
よって出来の如何にはだいぶ違いが生じますが、ありあまる天賦の才を持った人に間違いはないです。
こうして書いていくと、どうしても同様の日本人女性シンガーソングライターと比較してしまいます。
言うまでもなくユーミンです。細野晴臣さんや後に伴侶となる松任谷正隆さん達のキャラメル・ママ
(後のティン・パン・アレー)などのサポートを受けその才能を世間へ知らしめた天才ミュージシャン。
ケイトも先述の通りデヴィッド・ギルモアやアラン・パーソンズ・プロジェクトの面子によって
そのミュージックワークを支えられ、この様な傑作をデビュー作として生み出すことが出来たのです。
私は運命論などは全く信じていないのですが、やはり才能をもっている人間は然るべき出会いなどを経て
世に出ていくのかと思わされます(勿論世に認められず埋もれた才能もたくさんありますが … )。

本作では地味な存在ですが、非常に興味深いナンバー「L’Amour Looks Something Like You」。
本作が米で売れなかった事は既述の通りですが、そのルックスをフィーチャーしなかったからだとか
色々言われていますけれども、本質はそこではなくて、この寂寥感の様なものをアメリカ人は
理解出来ないのではないかと思っています(別に米国人差別じゃありませんよ。アメリカ人の悲哀は
ブルースやカントリー&ウェスタンみたいなカラっとした悲惨さですから)。
ブリティッシュトラッドフォークは、日本の古謡・童謡に通じるプリミティヴな哀愁があります。
本作が日本で受け入れられたのはその辺りにあるのではないかと私は思っています。

「Them Heavy People」のPVを観て思うのは、せっかく美人なのにどうしてこんなキワモノ的な
メイクやパフォーマンスをするのだろうか?という事です。しかたありませんね、本人が望んで
そうしたいんですから。これら全てがケイト・ブッシュなのです。演劇的なステージ・アクトなどは
ピーター・ガブリエルの影響を感じさせます。勿論二人の間には交流があります。

タイトルトラックである「The Kick Inside」。刺激という意味にもなるらしいのですが、
この場合は文字通りの意味で、(胎児が)内側から(母親のお腹を)蹴るといった意味の様です。
その子の父親とは実の兄という、つまり近親相姦によって出来た命で、最後に主人公は自ら命を絶つような
結末を示唆するエンディングらしいです。私はポップミュージックの歌詞というものにそれ程重きを
置いていない者なので歌詞の深読みはしませんが、ギリシャ神話をモチーフにしているとか。
ただ一つ言えるのは10代の女性シンガーのデビュー作タイトル曲にて、この様なテーマを扱うことを
許した天下のEMIレコードの度量の深さ(=暴挙)への驚きです。いくらデヴィッド・ギルモアの
後ろ盾があったとは言え、やはりイギリスという国の奥深さ(=ヤバさ。誉め言葉ですよ)に感嘆します。

ケイト・ブッシュ特集はこの一回でひとまず終了します。これ以降の彼女についてはまた折を見て。

#151 Life in a Northern Town

昨年は一年に渡ってブラックミュージックを取り上げてきましたが、はて、今年はどうしたものか?
と考えあぐねていました。ずっと真っ黒けっけだったので、今度はナマっ白い連中の音楽に
しようかと、極東の島国の黄色いサルは思いましたとさ(こういう書き方しときゃ、差別だとか
ナンとかイチャモンも付けられないでしょ)… 大丈夫だ、誰もこんなブログ見てねえから (´∀` )
。・゚・。・゚・。・゚・。・゚・。・゚・。・゚・・゚・。・゚・。・゚・。・゚・。(ノД`)・゚・。・゚・。・゚・。・゚・。・゚・。・゚・。・゚・。・゚・。・゚・。・゚・。・゚・。

という訳で当面は英米の白人によるロック・ポップスを特集していきたいと思います(特に英)。
寒いこの季節にピッタリかなと思いついたのがこれ。85年11月にリリースされたイギリスのバンド
ドリーム・アカデミーによるデビューシングル「Life in a Northern Town」と本曲が
収録された同月発売の1stアルバム「The Dream Academy」です。ちなみに本国では
シングルは3月にリリースされたそうですが、当時私の耳に入ってきたのは当然米と同じ時期です。
リアルタイムで聴いたので思い入れがあります。その印象的なコーラス、北欧を思わせる
凍り付く様な曲調とサウンドに魅了され(英も北欧も言ったことないけど … )、なけなしの金を
はたいてLPレコードを買い、中三の終わりに聴きまくりました(受験はどうした?・・・・・)。

ニック・レアードを中心とするドリーム・アカデミーのデビュー作は、ピンク・フロイドの
デヴィッド・ギルモアによるプロデュースを受けてリリースされています。ギルモア回#29~30
でも述べた事ですが、ケイト・ブッシュの才能を見出し、いきなり全英No.1へと導いた彼には、
人の才能を見極め、そして引き出す才能もあったようです。

作品を通して主にオーボエでもってヨーロッパ感を漂わせることに寄与しているのは紅一点である
ケイト・セント・ジョンによるもの。アカデミックな音楽教育を受けた才女であり、ニックの作る
楽曲へ更なる彩りを添えています。それが顕著なナンバーが上の「In Places On The Run」。

A面ラストを飾る「This World」はリチャードという人物を主人公に仕立て上げた物語的楽曲。
曲調はそうでもないのですが、かなり救われない内容の歌詞であり、麻薬中毒になったニックの
友人をモデルにしたとかしないとか。

日本版ウィキを引くと彼らについて ”・・・派手な楽曲が主流となっていた時代に、非常にシンプルな
サウンドを展開し異彩を放った ” とあるのですが、あまり的を得ていないと思います。
基本的に80年代的ファッショナブルかつダンサンブルな曲調ではなかったのはその通りですが、
シンプルなサウンドというのには首をかしげます。殆ど全曲に渡ってきちんと練られたアレンジがなされ、
当時における凡庸なロックバンドなどよりよほど複雑かつ高度な音楽を展開しています。そしてさらに派手な
楽曲も収められており、それが上の「Bound to Be」。B面トップを飾る16ビートのジャンプナンバーは
非常に刺激的です。本曲以外でも金属的なベースの音色、ゲートリバーブを効かせたドラム、
シンセの多用など80年代的エッセンスは間違いなく彼らの中にあります。「Life in a Northern Town」の
ヨーロッパ的・牧歌的イメージが強すぎて、おそらくはそんな形容をさせているのかと思われますが
(その「Life in ~」だってよく聴けばとても単純ではなく、一筋縄ではないんですけどね)。
本当の意味でその様な ” 80年代的呪縛 ” から解放された音楽を作る人達が現れるのはもう少し後の事。

「Moving On」も「Life in ~」同様にコーラスが印象的な佳曲。本作はケイトのオーボエ以外にも管楽器が
フィーチャーされています。途中のハモンドオルガンがピンク・フロイド臭を漂わせているのは
やはりギルモアによるものか?シンセや(多分)フレットレスのベース及びその音色などは80年代的です。

少し売れ線狙いかな?とも思いますが、決して嫌いじゃないのが「The Love Parade」。「Life in ~」は
全米チャートで7位、アルバムもTOP20に入るといったイギリスの新人バンドとしては素晴らしい
デビューを飾った彼らでしたが、レコード会社(米ではワーナー)は更なるヒットを期待し本曲を
シングルカットしたそうです、わざわざ米用の別ヴァージョンをこしらえてまで。結果的には
かろうじてTOP40に入る程度と、それほどのヒットとはなりませんでした。上はアルバム版です。

「The Party」も「Life in ~」同様にクラシカルかつ牧歌的楽曲。ストリングスのクレジットは
なされていないのですが、どう考えてもこれは生のストリングスでしょうね。エンディング間際に
本作の収録曲が軽くリプライズされ、コンセプト感を出しています。やはりギルモアの影響か?

アルバムラストの「One Dream」。本作では最もシンプルな楽曲ですが、オブリガードを
奏でるトランペットが印象的であり、やはりきちんと作り込まれているものです。

その後二枚のアルバムをリリースしますがデビュー作程のヒットとはならず91年に解散します。
ニック・レアードという人は才能のあったミュージシャンであったのでしょうが、時代の波に
今一つ乗り切れなかったのかな、と思います。
匂い、味、そして音(音楽)は時間を飛び越えてその当時を思い起こさせる、刷り込みの様な
効果があると言いますが、たしかにドリーム・アカデミーを聴くと、冷え切った部屋で石油ストーブを付け、
かじかんだ手でレコードを取り出しターンテーブルに乗せた35年前の記憶がよみがえります。
昨日食べた昼飯も思い出せなくなってきているのに・・・・・