#89 Remain in Light_2

リメイン・イン・ライト回その2です。
B面トップを飾るナンバー「Once in a Lifetime」。リズミックな楽曲であるのは同様ですが、
A面とはややカラーを異にするもの。当初、ブライアン・イーノは本曲を気に入らず、バンドもそのまま
うっちゃっておいたそうです。メンバーのジェリー・ハリスンによれば、”何しろコードチェンジも
無い楽曲なので、ある種の『トランス』が全てだった”との事。コーラスを付けるのにも困難が
生じていたそうですが、デヴィッド・バーンは本曲に信念のようなものを持っており、イーノが
無歌詞でコーラスを付け、本曲は”収まるべき所へ収まった”との事です。
バーンの歌詞は非常に難解で、ネイティブでさえ理解するのは困難であるそうなので、それについて
あまり取り上げるつもりはなかったのですが、本曲においてのみ少しばかり。
一番では極狭住宅に住んでいる所から、別世界で大きな車、美人の妻を持つ自分に驚く話。続く二番にて、
それらがどこかへ行ってしまった事に困惑する話。各合間にて”Letting the days go by…”のコーラスが
繰り返されますが、このパートは”水に流される様にただ日々は過ぎていく…一生に一度だけ地下を水が
流れる”の様な意。”Once in a lifetime , water flowing underground”をどう捉えるかは人それぞれ
の様で、人生に一度は来るチャンスをモノにするんだ!といったポジティブな解釈をする人もいれば、
”after the money’s gone(一文無しになって・・・)”という一文がある事から、ビジネス・投資などに
トライしてみたものの、失敗して破産してしまった男の話とみる人もいます。ネイティブもわからないの
ですから、私がわかるはずもないのですが、何しろバーンが書く歌詞ですので、具体的ではないシュールかつ
観念的な意味の様な気がします。後半で繰り返される”Same as it ever was(今までと同じ=
何も変わらない)が鍵を握っていて、SF的並行世界に迷い込んだか、あるいは精神を病み妄想の中で
混乱する男を題材にしながら、どっちが現実なのか?『胡蝶の夢』的な説話を意味したかったのでは
ないでしょうか。つまるところ、成功も不成功も大して意味はない、人生などただ生まれてただ死んで
いくだけの事、幸も不幸も人間が作り出しているただの幻想、の様な意だと勝手に解釈しています。
ジェリー・ハリスンがシンセで水泡(bubble)の音を表現した、と語っていることから、本曲では
水がキーワードになっているのは確かだと思います。

https://youtu.be/Rvjw5xJF8WQ
次曲以降はおとなしめの楽曲となっていきます。B-②「Houses in Motion」では中近東風のフレーズが
聴かれます。アフリカのみならず非西洋、所謂”サードワールド”へ、イーノやヘッズの面々が視点を
向けていた表れでしょう。B-③「Seen and Not Seen」は浮遊感漂う形容しがたい不思議な楽曲。
B-④「Listening Wind」。本作の中では比較的”ちゃんとした”歌(=メロディ)を持った曲。
異国(やはりアフリカ・中近東・アジア等の非西洋)を彷徨っている様な情景が浮かびます。
B-⑤「The Overload』。本作のエンディングナンバーである本曲は、前々回触れたポストパンクの
バンド ジョイ・ディヴィジョンにインスパイアされた楽曲であるとの事。

本作では実はロバート・パーマーが参加しています(#73ご参照)。本作の製作に参加した事が
自身の音楽にもかなり影響を与えたらしく、同時期にリリースされた「Clues」にてそれは顕著です。

パーマーの様に直接「リメイン・イン・ライト」に関与した訳ではないのですが、本作とそのコンセプトを
同じくする音楽を創りだしたミュージシャンがいました。間接的に知り得たか、あるいは
共時性的現象とでも言うのか、世界には似たような事を考える人間が、全然離れた場所でも同じ時期に現れるというやつです。

ピーター・ガブリエルが80年に発表したアルバム「Peter Gabriel」。全英1位を記録した本アルバムの
リリースは3月と、「リメイン」(10月)より早いのですが、『リズム』『アフリカ(非西洋)』を
コンセプトとした点においてはカラーを同じくする作品です。本作にイーノは関わってはいませんが、
ピーター、イーノ、そしてキング・クリムゾンのロバート・フリップは旧知の仲でしたので、何らかの
形でイーノとヘッズが取り組んでいた音楽がピーターに伝わった可能性は大いにあります。もしくは
先述した共時性(シンクロニシティ)が起こったのかもしれません。
上の「No Self Control」におけるドラムはフィル・コリンズ。言うまでもなくジェネシスにおいて
以前活動を共にしていた二人。ピーターはフィルに対してシンバルを外してプレイして欲しいと要求した
そうです。70年代に彼らが目指していた、テクニカルかつ、進歩的な、文字通りプログレッシブロックの
リズムパターンとは対極に位置するとも言える、金属の音色を排して太鼓の音だけをフィーチャーした、
よりプリミティブ(原始的)なビートを創り出す事に成功しています。技巧が必要無いなどとは決して
思いませんが、本作においては、人間の根源に訴えかけるリズムを
見事なまでに表現しました。

#16でも触れたキング・クリムゾンの「Discipline」(81年)。発売時はクリムゾンがトーキング・ヘッズになってしまった、などと不評を買ったのは#16で述べた通りで、それは表層的な部分だけを捉え、
本質を見ようとしなかった当時の評論家・ライターの目が節穴であった為であり、後年になってから
再評価されるようになっていったというのも既述です。
「ディシプリン」にて、アフリカン・エスニックビートの要素は薄く、以前よりはシンプルになったとは
言え、”何しろクリムゾン”ですから、そんなに単純なリズムではありません。しかしながら70年代中期、
第2期クリムゾンの頃から、反復されるビートやリフが生み出す高揚感のようなものにフリップが
着目していたのは確かだと思われ、そこにイーノ達の作品からインスパイアされて、かねてから
思い描いていたコンセプトを「ディシプリン」にて具現化するに至ったのではないでしょうか。
勿論エイドリアン・ブリューの起用は、ヘッズでの活躍を見た事からであるのは言わずもがなです。

直接的、あるいは間接的であれ、これら一連の作品群に影響を受け、以降のポップミュージックに
おけるリズムが変化を遂げていったと
いう事は間違いありません。ドラムパターンはシンプルに
1・3拍のキック(ベースドラム)と2・4拍のスネアドラムが、同時期にフィル・コリンズらに
よって創り出されたゲートリバーブ(ゲートエコー)の効果と相まって、それまでよりも圧倒的に強調され、
反してハイハットやトップシンバルで刻むビートは音量的に小さくなっていきました。言うまでもなく、
80年代から一般的になっていったドラムマシン、シーケンサーがそれらを助長していった事実もあります。
余談ですが、その反動とでも言うのか、90年代に入ってからはハイハットがガシャガシャ鳴っている
荒々しく生々しい音色が好まれる様になり、またドラムに限らず、ヴォーカル、ギターなどにおいても
ノーリバーブが見直されるようになりました。大滝詠一さんは生前ラジオで、「スピーカーの面(ツラ)で
歌っている、演奏している様だ」と語っていたのを思い出します。奥行を全く感じさせないサウンドは、
80年代を経験してきた人たちにとって、奇異に感じるものだったのです。音楽に限らず、流行り廃りと
いうのは、時代によって両極にブレるもののようです。

#88 Remain in Light

https://youtu.be/Y8xdsZhfrcA
伝統的アフリカ音楽において、中心となる楽器は打楽器であると言って差し支えないでしょう。
勿論、弦楽器や笛、カリンバ(親指ピアノ)などもありますが、ジャンベに代表される太鼓類が
最もポピュラーだったようです。西洋に比べると、音階(特に複音)を奏でることが出来る楽器が未発達、
また入手しにくいなどの要因もあってか、その音楽はリズム中心というベクトルに向かっていったと
考えられるのでないでしょうか(ただし、アフリカにもハーモニー・和音の概念を持った音楽を操る
部族もいたという話もありますが、その辺まで突っ込むと際限がないので割愛)。

デヴィッド・バーン率いるトーキング・ヘッズによる80年発表のアルバム「Remain in Light」。
ポップミュージックにおいて、『リズム』、とりわけアフリカン、そしてそれを源流としたであろう
アメリカのファンクミュージックを殊更前面に押し出し、さらにそのエッセンシャルを
極限まで抽出して、それまでの如何なるミュージシャンとも異なるアプローチでもって表現した
作品です。プロデュースはブライアン・イーノ。前回の最後で取り上げた、前作「Fear Of Music」
(79年)の「 I Zimbra」にてその予兆は見え始めていました。

ポリリズムという音楽用語があります。パフュームのヒット曲のおかげで世に知れるようになりましたが、
こんな言葉は楽器、特にドラム・パーカッションでも演っていなければ昔は「ナニそれ?美味しいの?
(゚Д゚)?」と
言われる用語でした。”複合リズム” のような意味ですが、4/4拍子に3拍のフレーズを
組み込んだトリッキーなものから、単純なものまで色々あります。考えようによってはセットドラムで
演奏される単純な8ビートも、複数の打楽器類(ベースドラム・スネアドラム・シンバル)から成る
ポリリズムと言えます。
先述の通り、ハーモニー・和音の概念がなく、メロディーも決して洗練されたものではなかった
アフリカ音楽が特化していったのが、ポリリズムを含む『リズム・ビート』だったのでしょう。
70年代にロック・ポップスはある意味行きつくところまで行ってしまった、旋律・和声・リズム・
アレンジ・その他諸々の全ての点において煮詰まってしまったのではないかと思います。これ以上
高度・複雑化してその先に何があるのか?(進化を追い求めるのが決して悪いとは断じて思いませんが)
70年代後半、それらに反旗を翻すような形でパンクムーヴメントが興った事は既に述べましたが、
パンク自体は1~2年で収束してしまいました。その流れの続き、変な言い方をすればパンクの残党が
ニューウェイヴというジャンルを創りあげていったというのは前回書いた通りです。
それらの中からブライアン・イーノ及びトーキング・ヘッズが着目したのが『リズム』、プリミティブな
アフリカ起源のポリリズムに代表される様な、一定であり、かつ複数のリズム・ビートの交差から
もたらされる躍動感・高揚感だったのです。

本作は基本的にワンコード、メインのメロディ(=バーンの歌)も極論すればあってないようなもの
(もっともバーンのヴォーカルはむしろ主旋律以外で変化を付けることに寄与しています)。
オープニングナンバー「Born Under Punches (The Heat Goes On)」は本作のコンセプトを
最も象徴するものです。各楽器は全て一定のリフ・パターンの繰り返し(中間部のエイドリアン・ブリュー
によるギターシンセでのソロは除く)、演説の様なバーンの歌、これまでのポップミュージックの定石を
ひっくり返すような楽曲です。一般的な”Aメロ→Bメロ→サビ”の様な展開、循環進行などを全く無視
しています。しかし何でしょう、この不思議なテンション・高揚感は。各パートによってひたすら、
執拗といってよいほどに奏でられるリフレインは、甘美なメロディやハーモニーに勝るとも劣らない
魅力を醸し出す事に成功しています。リズム・ビートの交錯によって生まれる何かが、人が根源に
持っているであろう本能の様なものに訴えかけているのではないでしょうか。
”And the heat goes on!…” の動的なバッキングヴォーカル(掛け合い)と、多分バーン自身の
多重録音による ”All I want is to breathe・・・” の優しく、かつ物悲しくもあるコーラスの混在は、
見事なまでに静と動のコントラストを表現しています。

https://youtu.be/Kmp8BhW-YMQ
2曲目の「Crosseyed and Painless」。オープニング曲と同系統の楽曲ですが、こちらの方が
ややファンク色が強いかも。
本作で特筆すべき事項の一つとして、アフリカンミュージックを表現するからといって、民族楽器などを
使っている訳ではないということ。コンガ・ボンゴ・クラベスといったラテンパーカッションは使用して
いますが、普通のロック・ポップスでもこれ位のパーカッション類は使います。ベース・ドラム・
シンセサイザー、そして、サポートギタリストであるブリューに至っては先述の通りギターシンセなど、
およそプリミティブな音楽には相応しいとは思えない、当時としては最先端の楽器を使用しています。
形から入るのも一つの手ではありますが、やはり大事なのは本質を捉える事。アフリカの伝統・民族楽器を
使用せずとも、そのエッセンスであるポリリズミックなビート、コール&レスポンス(掛け合い)、
躍動感あふれる踊りのような動的フレーズと、アフリカの大地における厳しい生存環境、しかし時には
慈愛に満ち溢れた優しい大地を表現するような静的メロディ、これらを現代の一般的な楽器類によって
表現する事に成功した稀有な例であり、それが本作を傑作たらしめている要因の一つでしょう。
日本的なロックを演ろうとした場合、和太鼓や大正琴を持ち出してくれば良いかというと、決して
そういうものではないでしょう。”じゃあ、日本的ロックって何?” というのはまた別の機会に・・・

3曲目である「The Great Curve」。やはり1・2曲目とカラーを同じくするもの。アナログ盤では
ここまでがA面、つまり片サイドは同系統の楽曲で固められています。本作では最もアップテンポの
アグレッシブな楽曲。後半におけるブリューのギターソロが印象的です。彼としては割と”普通の音色”で
弾いています。ちなみにグレートカーブとは女性の腰・おしりを意味しているとか。人類の起源は
アフリカにあるといいますが、これも母なる大地アフリカを表現したのかもしれません。

長くなるかな…、とは思っていたのですが、案の定長くなりそうです。ここまでにおいて、
まだアルバムの片面のみですので、続きはまた次回にて。

#87 What Is This Thing Called “New Wave”?

前回の後半にて、ロックの歴史が語られる際に、70年代後半から80年代初頭にかけて、
パンクムーヴメントの流れからニューウェイヴにシフトしていったとよく言われる、
という旨を述べました。何気にニューウェイヴという言葉をポップミュージックにおける一ジャンルを
指すものとして使っていますが、はたして”ニューウェイヴ”という音楽とはどういうものなのでしょうか?
ハードロックやパンクといったジャンルはすぐにイメージ出来ると思うのですが、ニューウェイヴという
音楽に関して、実は一筋縄で説明するには難しいものがあります。
今回は無謀にもこのテーマに関して触れていきます。

ニューウェイヴを無理くり幾つかのカテゴリーに分けるとすれば、①テクノポップ②環境音楽
(アンビエント)③アバンギャルド④その他、とでも分類出来るかと思います。

先ずテクノポップ。これに関しては先駆者であるドイツのクラフトワークが70年から既に活動して
いました。74年、アルバム「アウトバーン」が全米5位・全英4位という大ヒットを記録し、
テクノポップ・電子音楽を一般に知らしめるキッカケとなりました。それまでは前衛音楽の一つくらいの
認識でしかなかったのを、ポピュラー音楽として通用するのだと証明したバンドです。日本においては
言うまでもなくYMOによってポピュラリティーを得ました。
なので、決して70年代後半に新しく生まれた音楽という訳ではないのですが、何故この時期に
多くのミュージシャンが取り上げるようになったのか?
あくまで私の推論ですが、内的要因として、ミュージシャン達の中に新しい試み・実験的な音楽に
トライしようという機運が高まった事が挙げられると思います。ちょうど60年代にブライアン・ウィルソンが
「ペット・サウンズ」、ビートルズが「サージェント・ペパーズ」において行った様な創造的試みが、
10数年を経た80年前後に興ったのではないでしょうか。歴史は繰り返す、というやつです。
また外的要因として、それまでデジタルシンセサイザー・シーケンサー・サンプラーといった電子機材は
それ以前はまだ市販化されていなかった、またあってもプロでさえもおいそれとは手が出せない高価な
ものであったのが、ようやく何とか入手できるようになったという要因もあります(それでも現在から
見ればとてつもなく値が張るものだった様でしたが…)。

ブライアン・イーノによって提唱されたとされる環境音楽(アンビエント)。イーノ自身がコメントしている
そうですが、エリック・サティから影響を受けたものであるとの事。サティの名前はわからなくても、
曲名を知らずとも、99%の人はこれを聴けば「あっ!聴いたことある!!」という曲「ジムノペディ」。
イーノがアンビエントミュージックを生み出した際にインスパイアされた曲がジムノペディ、という訳では
ないようですが、いずれにしてもサティがアンビエントの源流という事が言えるのは確かなようです。
テクノポップ同様、ニューウェイヴより前にあった音楽ではありますが、既述の通り実験的機運が
みなぎっていたその時代に、アンビエントを試みるミュージシャンが現れたという事でしょう。
またイーノはアンビエント以外のニューウェイヴにも関わっています(というより、ニューウェイヴだけでは括れないミュージシャンです)。元はロキシー・ミュージックでデビュー。ロキシーに在籍したのは
初期のみでしたが(アルバムで言えば2作目まで)、その後もロバート・フリップ、ピーター・ガブリエル、デヴィッド・ボウイとの活動など、ブリティッシュロックを陰で支え続けた目立たない重鎮という存在です。

ポップミュージックでアバンギャルドと言えばその開祖はフランク・ザッパに止めを刺します。時代によって音楽性には変遷がありますが、マザーズ時代からそのオリジナリティーは揺るぎないものです。それ故、
ザッパの事をロックミュージシャンと捉えるか、現代(前衛)音楽家とするかは議論が分かれる程です。
ジミ・ヘンドリックスやピンク・フロイドなどもアバンギャルドであったと言えます。フロイドの2枚組
「ウマグマ」(69年)のスタジオ録音の方などはもろにそうです。ミュージック・コンクレートや
SE技術を駆使した音楽という点ではアバンギャルドです(フロイド回#25ご参照)。その意味では
「サージェント・ペパーズ」もアバンギャルドの萌芽と言う事が出来ます。
オーネット・コールマンなどに代表されるフリージャズもアバンギャルド音楽の一種と言えます。規則的な
リズム、定石を踏んだ循環進行などを否定したこれも、間接的であれニューウェイヴに影響しているのでは。
また狭義におけるアバンギャルドとは異なるかもしれませんが、ノイズ的サウンドに、唸りや叫びの様な
ヴォーカルを乗せた、暴力的・不協和ロックとでも呼べるようなバンドも含まれて良いのではないかと
思います(アバンギャルドよりもエキセントリックと言った方が適当かもしれません)。ドイツの
ロックバンド カンによる「Monster Movie」(69年)などの影響を受けて、79年、イギリスで
ポップ・グループがデビューし、衝撃の問題作「Y (最後の警告)」をリリースします。ちなみに名前は
ポップ・グループでもその音楽は全然ポップではないので、念のため。

最後にその他。実際は殆どがここに分類されるかと思います。①から③の要素を含みながら、各々に独自の
音楽性を聴くことが出来ます。アメリカのテレヴィジョン、イギリスのXTCは一介のパンクバンドとは
異なるニューウェイヴロックを生み出しました。ジョイ・ディヴィジョンは暗めのポストパンク
(パンク後の音楽)の筆頭。中心メンバーの自殺により短命に終わりましたが、その後のオルタナティヴ・
グランジと呼ばれるロックに大きな影響を与えたとされています。対してスクィーズはポジティブな
ポストパンクのバンド。前回取り上げたロックパイルに近い、アメリカンルーツなどをベースにしながら、
ニューウェイヴ色で彩られたサウンドは、このカテゴリーでは最も親しみやすいのではないかと思います。

奇才 ジョー・ジャクソンもデビュー時はニューウェイヴの一派とされました。エルトン・ジョンなどと
同様にイギリス王立音楽院を出たバリバリのエリートでしたが、クラシックを離れポピュラーの道へ。
やがてジャンルでは括ることの出来ない唯一無二のミュージシャンとなっていきます。
U2もニューウェイヴのジャンルに含まれる場合があります。「ヨシュア・トゥリー」(87年)の
世界的大ヒット以降は多少丸くなった感がありますが、それより前はジ・エッジの凍り付くかのような
鋭いギターカッティングが創り出す独自のサウンドに、アイルランド出身というバックグラウンド故に
政治的な、時にはかなり過激な内容の歌詞を乗せ、ボノが”あの”声で歌いあげていました。

https://youtu.be/b-RDJ4Z4XrQ
最後に忘れてならないのはトーキング・ヘッズ。初期はテレヴィジョンやXTCと同様のポストパンクと
されたバンドでしたが、ブライアン・イーノとの出会いからその音楽性は独自の方向へ。そして
80年代におけるポップミュージックの流れを大胆に変える事となる作品を創り出していきます。
「Fear Of Music」(79年)に収録の「 I Zimbra」はその序章とも呼べる楽曲。翌80年、
先述の通り80年代ポップミュージックにおいて、ある意味最も重要な意味を持つ大傑作アルバム
「Remain In Light」をリリースします。

実は今回ニューウェイヴとは何か?と、つらつら綴ってきたのは「リメイン・イン・ライト」の為。
最初はヘッズを取り上げながら、ニューウェイヴというものにも触れていこうかと思ったのですが、
とてもついででは書き切れるボリュームではないと判り、1回分まるまるこのテーマにしました。
という訳で、次回はトーキング・ヘッズ「リメイン・イン・ライト」を取り上げます。

#86 Rockpile

エルビス・コステロとニック・ロウのイギリス勢から、ヒューイ・ルイス&ザ・ニュースとアメリカ勢へ話は移ってきましたが、ここでまたイギリスのバンドへ戻ります。この流れで取り上げておかないと、今後触れることが出来るかどうかわからないので。

今回取り上げるのはロックパイル。デイヴ・エドモンズとニック・ロウを中心としたバンドです。「Rockpile」とは元はエドモンズによるソロアルバムのタイトルであり、そこからデイヴ・エドモンズ&ロックパイルというバンド名として使用していました。しかし当バンドは短命に終わりエドモンズは再びソロ活動へ。そして76年にニック達と共にバンドを結成した際に、再度「ロックパイル」をバンド名に冠しました。エドモンズとニックの所属レーベルが異なるなどの問題があったため、レコードデビューまで間が空いた訳ですが、80年にようやく、そして彼ら唯一のスタジオアルバムである「Seconds of Pleasure」のリリースへとこぎつけました。同時期に発表されたエドモンズとニックのソロアルバムも実質的にロックパイルの活動の一環と捉えられる場合が多く、それらを含め、また彼らが当時のミュージックシーンに及ぼした影響などについても併せて触れていきたいと思います。

76年の結成から80年の「セカンド・オヴ・プレジャー」まで、エドモンズはロックパイルとは別に3枚のソロアルバムをリリースしています。ロックパイルとしてステージでの活動を行いながら、年1枚のペースで自身のアルバムも作る、かなりのペースの仕事量であったでしょう。さらに言えばロックパイル解散後も81~84年の間も年イチでアルバムをリリースしています。上はエルビス・コステロ作「Girls Talk」を先にエドモンズがシングルとしてリリースしたもの。全英4位の大ヒットとなります。コステロ自身も翌年にシングル曲のB面として収録しています。

ニックも78年に1stソロアルバム「Jesus of Cool」、79年に2nd「Labour of Lust」を立て続けにリリース。2ndからは前々回も触れた通り、最大のシングルヒットとなった「Cruel to Be Kind(恋するふたり)」が生まれました。そしてコステロ回でも述べたように、人のプロデュースも並行して行っていたのですから、そのワーカホリック振りには脱帽します。

「セカンド・オヴ・プレジャー」の音楽性は最初の動画「Teacher Teacher」の様なR&Rは勿論の事、カントリーロック、そしてR&Bと、エドモンズとニック双方が愛してやまないアメリカのルーツミュージックを基調としています。上の「A Knife and a Fork」などはブッカー・T&ザ・MG’sを彷彿とさせる様な黒っぽいナンバーです。しかし、作家としての二人のスタンスには違いがあり、エドモンズは自作・他作には拘らず、気に入った曲を自分の味付けで料理してしまうのに対して、ニックはオリジナルを重視したようです。

この時期のエドモンズとニックは創作意欲・アイデアが次から次へと浮かんできて仕方がなかったのではないでしょうか。実際この時期の彼らを70年代におけるレノン&マッカートニーと評する人たちもいる程です。決してポップミュージックの変革点となる、エポックメーキングな音楽を創った訳ではありませんが、自身たちの愛する音楽を踏襲しながら、そこにオリジナリティーを加味していくといった、簡単なようで決して一筋縄ではいかない事を行っていました。再度言いますが時代を変えるような音楽を創ろうとした訳ではありませんし、まして奇をてらう気などさらさらなく、音楽本位の姿勢でした。そこに若き日のコステロやヒューイ・ルイスなど、彼らを慕うミュージシャン達が自然と集まり、創造性に溢れた場が形成されていったそうです。

ニック作による「Heart」。シュープリームス「You Can’t Hurry Love(恋はあせらず)」に代表される所謂”モータウンビート”を取り入れた曲。しかしただの模倣に終わらず、ロカビリーのテイストと融合した独自の楽曲に仕上がっています。#59のホール&オーツ回でも触れた事ですが、80年代前~中期にかけてちょっとしたモータウンビートのリバイバルブームがありました。これの火付け役はイギリス勢によるものではないかと思っています。同時期にクラッシュにもモータウンビート風の楽曲があったと記憶しています。

ポール・ウェラーは#55にて取り上げましたが、ザ・ジャム後期における全英No.1ヒット「Town Called Malice(悪意という名の街)」のリリースが82年1月(翌2月には1位となる)、そしてフィル・コリンズによる「恋はあせらず」のカヴァーと、ホール&オーツ「Maneater」が同年秋と、ほぼ同時期に発売。そこからはビリー・ジョエル、カトリーナ&ザ・ウェーブズ、そしてモータウン本家のスティーヴィー・ワンダーまで、モータウンビートリバイバルといった感がありました。先日他界したアレサ・フランクリンをはじめ、アトランティックやモータウンといった60年代に一世を風靡したソウルミュージックは70年代に入って一時鳴りを潜めます。70年代半ばには黒人音楽と言えばEW&Fに代表される様なディスコミュージックが主流となりました。しかし海を隔てた英国ミュージシャン達によって、「このリズムカッコイイ!すっげえクールじゃん!」と見直されたのではないかと思うのです(”じゃん!”と言ったかどうかはともかくとして・・・)。

ロカビリーという単語が先ほど出ましたが、80年代初頭にロカビリー人気の再燃がありました。言わずと知れたブライアン・セッツァー率いるストレイ・キャッツがその代表格であり、彼らのデビューアルバムをプロデュースしたのがエドモンズです。アメリカの若者が十五歳も年の離れたイギリス人と、その時までは古臭いものとして本国では廃れていた音楽を、見事に復活させたのです。しかもそのブレイクは先ずイギリスから始まりました。1st及び2ndアルバムを英国で発売し、これらが大ヒット。そして3rdアルバム、米国では実質的にデビューアルバムとなる「Built for Speed」(82年、1stと2ndから選曲したもの)が全米2位の大ヒットを記録する事となります。

ロックの歴史を書いた本などがあると、60年代末からハードロック、プログレッシブロックが台頭し、やがてジャズの要素を取り入れたクロスオーヴァー(後に言うフュージョン)、70年代半ばからはディスコミュージックが全盛となり、ロックがどんどん商業主義化し、またテクニック重視となっていくのに対し、70年代後期にロンドンを中心とした怒れる若者たちがパンクムーヴメントを興し、やがてその流れはニューウェイヴへとシフトしていった、の様な内容がよく書かれているかと思います。
商業音楽に商業主義化するなと言うのがそもそも存在自体を否定している気がしてなりませんし、演奏技術・レコーディングテクニックを駆使したアレンジを追い求める事もさらさら悪いとは思いません、それらを否定すると音楽に限らず、全ての文化・芸能において発展はないのですから。しかし、上の様なロックの本に書かれているであろう70~80年代にかけての流れは、概ねにおいてその通りだと思います。そしてあまり目立つ存在ではありませんでしたが、パンク~ニューウェイヴの流れにおいて、実はエドモンズとニックの果たした役割が大きかったと言われています。彼らの音楽自体にパンクっぽさなどが感じられる訳ではないと思いますが、一貫して自身たちの愛する、本国では古臭いとされていたR&Rなどのアメリカンルーツをベースとした音楽を追及し続け、その真摯な音楽に対する姿勢に惹かれてイギリス人はもとより、ヒューイ・ルイスやブライアン・セッツァーなど、アメリカのミュージシャン達も彼らを信奉してその下に集い、エドモンズとニックは彼らの指南役、良きアドバイザーとなっていたのだと思います。

17年におけるコンサート活動を最後に惜しくもデイヴ・エドモンズは音楽界を引退しました。余談ですが公においてエドモンズ引退、というアナウンスを最初にしたのはセッツァーでした。前々回述べた通りニック・ロウは今も現役バリバリです。セールスだけを取れば、彼らは決して大ヒットを連発したミュージシャンという訳ではありませんが、半世紀以上に渡り多くのリスナー、またミュージシャン仲間達から支持された理由は、ギミックなどに走らず、常に音楽本位の姿勢を崩さなかった事でしょう。派手な宣伝広告、目立つ外観に頼った飲食店などより、地味ではあるが一貫してその味を大事にしてきたオヤジがやってる店の方が生き残る、といったようなものではないでしょうか。

#85 The Heart of Rock & Roll

ニック・ロウのアルバム「The Rose of England」(85年)にヒューイ・ルイス&ザ・ニュースが参加している事は前回触れましたが、エルビス・コステロの1stアルバム「My Aim Is True」(77年)が、ヒューイ・ルイスが当時在籍していたバンドによって全面的にサポートされている事もコアなロックファンには結構知られている事です。ヒューイ・ルイス&ザ・ニュースの2ndアルバム「Picture This」(82年)の邦題は『ベイエリアの風』と冠せられるほど、米西海岸を代表するバンドとされたヒューイ・ルイスがイギリスのミュージシャンとつながりが深いというのはなかなか興味深い事ですが、果たしてその理由は?

 

 

 


ヒューイ・ルイスは50年生まれの現在68歳。生まれはN.Y.ですが小学校入学前にカリフォルニアへ移り住み中学までを過ごした後、両親の離婚に伴い高校はニュージャージー州、
大学はN.Y.のコーネル大学と、東西を行った来たする少年期~青年期を送ったようです。彼の音楽にドゥーワップやR&Bといった要素が大きなウェイトを占めているのはこれに起因するようです。
父親はアイルランド系アメリカ人、母親はポーランド人と、意外にもそのルーツはヨーロッパにあります。その豪快かつパワフルなヴォーカルスタイルからアメリカを代表するシンガーと捉えられるヒューイですが、彼の血筋、また音楽的バックボーンに様々な要素が入り混じっているのは興味深いことです。高校までは学業・スポーツ(野球選手だった)共に優秀だったようですが、大学に入ると身を持ち崩してしまったそうです。69年、大学3年生の時に中退し、音楽の道を志してサンフランシスコのベイエリアへと、再度ウェストコーストへ戻ってきます。
71年、ヒューイはベイエリアのバンド「クローバー」へ加入。地元でローカルな好評価を得た後、76年にバンドはL.A.へ進出。クラブシーンで成功を収めると共にその頃ニック・ロウの目に留まり、ニックの勧めから渡英し、78年にカルフォルニアへ戻るまでイギリスで活動します。先述したコステロのデビューアルバムへの参加はこの時期の事です(もっともヒューイはそれには参加しませんでした)。

クローバーはアメリカへ戻ってすぐに解散。ヒューイはメンバーを集め、ザ・ニュースの前身となるバンドを結成。シングル1枚をリリースした後、80年にヒューイ・ルイス&ザ・ニュースへと改名し、バンド名を冠した1stアルバムを発表。82年に前述の2ndアルバム「ベイエリアの風」からのシングル曲「Do You Believe in Love」が全米7位の大ヒットを記録。バンドは檜舞台へと躍り出ます。

83年、彼らの人気を決定的なものとした代表作「Sports」をリリース。上記の3rdシングル「The Heart of Rock & Roll」を含め、4枚のTOP10ヒットを輩出し、世界で800万枚以上を売り上げた大ヒットアルバムです。本作からもう一曲「If This Is It」。

ストレートなR&R、美しいコーラスで彩られたウェストコーストサウンド、はたまたドゥーワップと、その多様な音楽性は他のウェストコースト系ロックバンドとは一線を画していました。ザ・ニュースのメンバーは器楽演奏は勿論一流ですが、全員がシンガーとしても優れていて、見事なコーラスワークを聴かせてくれます。この時期だったかと思いますが、ベストヒットUSAへ出演した際に、小林克也さんがその場で、コーラスを披露してくれないか?と頼んだところ、嫌な顔一つせずに快諾して素晴らしいアカペラを披露していたのを記憶しています。克也さんも彼らの度量の深さについて、後に(総集編だったかな?)褒めたたえるコメントをしていました。同番組にてカメラが回っている時と、そうでない時の態度が180度違う、ある女性シンガーとは全く正反対の対応です。(・・・誰も言ってませんよ、マ〇ンナなんて… 言ってませんからね・・・・・)

おそらく彼らの代表曲となるのは、超有名映画「バック・トゥ・ザ・フューチャー」のテーマ曲である「The Power of Love」でしょう。有名すぎるのでここでは張りませんが、同曲は初の全米No.1ヒットとなりました。86年、4thアルバム「Fore!」をリリース。ここからも上の「Stuck with You」を含む2曲のNo.1シングルを生み、バンドの人気はピークに達しました。

ヒューイは大学入学前、ヨーロッパを無銭旅行で回った事があるそうです。ハーモニカを持って各地を巡り、スペインのマドリッドではブルースプレイヤーとしてストリートミュージシャンを演り、旅費を稼いでいたとの事。ちなみにヒューイはこの時マドリッドで初めての(路上ではない)コンサートを経験したそうです。
ヒューイ・ルイス&ザ・ニュースの音楽からヨーロピアンロックのフレーバーが直接香り立つことは正直ないと思います。ストレートなR&R、カントリーロック、コーラスワークを生かしたウェストコーストサウンド、R&B・ドゥーワップ・ファンクといったブラックミュージックが、彼らの表立っての音楽性と言えます。ですが両親のルーツ、若き日のヨーロッパでの放蕩、クローバー時代のイギリスでの活動及びニック・ロウをはじめとしたブリティッシュミュージシャンとの交流が、その音楽に深みを与えている様な気がしてなりません。

90年代以降のヒューイ・ルイス&ザ・ニュースは80年代の様なヒットを飛ばすことはなくなりましたが、一度も解散することなく今日までその活動を続けています。結成以来比較的メンバーの異動も少なく、コンスタントに活動を続けて来られたのは、ヒューイをはじめメンバーの人柄及び結束力が大きな要因かと思われます。ヒューイは決してぽっと出で成功した人ではなく、下積みを経験した人ですので、80年代のブレイク以降も驕り高ぶることなく、非常に義理堅く真摯な人柄であるそうです。前述のニック・ロウとのコラボレート、同郷(ベイエリア)の超絶技巧ブラスファンクバンドタワー・オブ・パワー(いつか必ず取り上げます)のサポートなど、仲間たちとの関係を非常に大切にしてきた人物です。

リアルタイムで聴いていたというひいき目を考慮しても、現在でもその音楽には当時を想起させてくれる(別に良い思い出ばかりだった訳では決してありませんが・・・(´Д`))、私の心の琴線に触れる音楽となっています。昔の音楽が全て良かったなどとはつゆも思いません(50’s~80’sにもくだらないものはたくさんありました)。しかし現在でも多くのリスナーが支持する彼らの音楽は、断じてオッサン達の懐メロというだけではない、普遍的、言い換えればエバーグリーンな輝きを持った音楽として存在し続けているのだと思います。

#84 The Rose of England

前回も少し触れましたが、エルヴィス・コステロの初期作品群をプロデュースしたのがニック・ロウです。コステロは79年にニック・ロウ作の「(What’s So Funny ‘Bout) Peace, Love And Understanding」をカヴァーしています。

ニック・ロウのオリジナルはこちら。ブリンズリー・シュウォーツ による74年のシングル曲。

両者の個性が表れており、聴き比べると興味深いものがあります。本曲は決してヒットナンバーであった訳ではないのですが、その後も多くのミュージシャンによって取り上げられ続けています。

 

 

 


ニック・ロウのデビューは67年、つまり50年以上のキャリアを持つミュージシャンです。バンドでの活動を経て、76年にソロでレコードデビュー。最大のヒットは79年のシングル「Cruel to Be Kind(恋するふたり)」(全米・全英共に12位)。

コステロ回でも述べた事ですが、オールディーズのR&Rやポップス、カントリー&ウェスタンといったアメリカのルーツミュージックを演奏するイギリス人ミュージシャンの代表格です。予備知識なしに一聴すると、てっきりアメリカのミュージシャンと思ってしまうでしょう。上は84年発表の「Nick Lowe and His Cowboy Outfit」のオープニングナンバーである「Half a Boy and Half a Man」。小気味良いR&Rですが、やはりどこかに英国臭さを感じるのは私だけでしょうか?

ニック・ロウは自身の活動以外にも、プロデューサーとしての手腕も良く知られるところです。先述のコステロをはじめ、英国パンクの祖であるダムド、米ロカビリー・カントリー界のカリスマ ジョニー・キャッシュ、デビュー間もないプリテンダーズなど、そのプロデュースワークは多岐に渡っています。

「The Rose of England」(85年)からの1stシングル「I Knew the Bride (When She Used to Rock ‘n’ Roll)」。当時は全米77位とお世辞にもヒットしたとは言えませんが、現在YOUTUBE上で200万回超の再生回数を誇っています。時代がようやくニックの音楽性に追いついたのでは?
本曲には当時人気絶頂であったヒューイ・ルイス&ザ・ニュースが参加、というよりもこの曲に限りヒューイ・ルイス&ザ・ニュースの演奏及びコーラスによるもの(プロデュースもヒューイ)。

タイトルトラックである「The Rose of England」。私が思う本作のベストトラックであり、ニックの音楽性を最も表していると思うのが本曲です。カントリーを基調としたR&R、アメリカで言えばサザンロック、スワンプロックに相当するのでしょうが、やはりヨーロッパ的哀愁が漂っており、コステロにも通じる所がありますが(というよりコステロがニックを踏襲したのでしょうけど)、この雰囲気はニック・ロウにしか出せないものです。

よくよく考えればカントリー&ウェスタン、ブルーグラスといった米白人によるアメリカンルーツとされる音楽も、元をたどればイギリス・アイルランドで根付いていたポピュラーの変化版と言えます。アメリカでは西部劇よろしく、ウェスタン扉を押しのけてバーボンをあおりながら演るところを、イギリス・アイルランドでは、パブでエールやスタウト(ギネスビールなど)といったビールや、スコッチウィスキー(ヴァランタインやグレンリベット等々 いかん、飲みたくなってきた…)を嗜みながら飲めや歌えやの宴を催す、といっただけの違いです。その根っこは同じものなのでは?

今年4月、ニックは来日公演を行いその健在ぶりを日本のファンに披露しました。セールスやチャートアクションだけを取れば、大成功を収めたミュージシャンという訳ではありません。しかし半世紀以上に渡り継続的な活動を続けてきたのは、コアなファンからの支持や、同業者達から一目置かれる存在であり続けた”Musician’s Musician”としての功績によるものではないかと私は思うのです。

#83 Punch the Clock

直近のブルース・スプリングスティーン回にて、ブルースが70年代後期に興ったパンクムーヴメントに影響を与えたであろう事を書きました。ロンドンを中心としたロックンロールへの回帰、とでも言える様な音楽的な波が一般的にそう呼ばれます。もっともこの時期にイギリスでデビューしたミュージシャン達は皆パンク扱いされました。後になって『この人(達)ってパンクか?』というようなケースもありましたが、流行・時代の波といったものは往々にしてそういうものでしょう。

 

 

 


エルヴィス・コステロもそのパンクムーヴメントの真っ只中にレコードデビューした一人です。後にその音楽性の多様さ(節操のなさ?)を発揮しますが、デビュー当時はパンク調の音楽であったのは確かです。しかし他のパンクロッカー達と一線を画していたのは、コステロのバックボーンにはオールディーズR&R、カントリー&ウェスタン、ジャズ等のアメリカンミュージックが染み付いていた事。大ヒットとまでは行きませんでしたが、初期から米において比較的チャートアクションが良かったのは、一過性に終わったパンクの流行に乗っただけではない、これらの要因があったからなのではと思われます。

今回取り上げる80年代の作品、私がリアルタイムで聴いていた「Punch the Clock」(83年)「Goodbye Cruel World」(84年)の二つは生粋のコステロファンにとってはあまり芳しくない評価のものです。というよりも、コステロ自身が気に入っていない、と公言しているものです。「Goodbye Cruel World」などは後にCDで再発された時に、コステロ自身によるライナーノーツにて、『Congratulations! You just bought the worst album of my career.(おめでとうございます。あなたは我々のワーストアルバムを購入しました。)』という文言が入っていた程だそうです。自虐ネタにもほどがあるでしょうが・・・
私的にはリアルタイムで体験したというひいき目を差し引いても、決して出来の悪いアルバムだとは今聴いても全く思いませんが、コステロ的には”売れ線”に走ってしまったのがどうにも許せなかったらしいです。確かに80年代の日本のロック雑誌にてそのようなコメントがあったのを記憶しています。

その”売れ線”と言われた一つが上の「The Only Flame in Town」。当時飛ぶ鳥を落とす勢いだったホール&オーツのダリル・ホール(#56~#61ご参照)をゲストに迎えた一曲。ダリルとデュエットするからにはやはりソウルミュージック、となったのかと推測されますが(ダリルはどんなスタイルでも見事に歌う事が出来るシンガーですけど)、言うほど売れ線か?と思うような楽曲です。先程デュエットと書きましたが、正確にはダリルがバッキングヴォーカルに回った、というのが正しいでしょう。コステロはかなり個性的な声・歌唱スタイル、悪く言えばかなりアクの強い歌い方をするシンガーですが、ダリルはそれを引き立て出しゃばり過ぎず、それでいてちゃんと存在感を示しているという素晴らしいプレイを披露しています。超一流のシンガーでなければ出来ない事です。

もう一つの”売れ線”がこれ「I Wanna Be Loved」。スクリッティ・ポリッティ(#54ご参照)のグリーン・ガートサイドをコーラスに起用したバラード。シンセの音色が如何にも80年代を感じさせ、またグリーンの個性的な声でもってより特色ある楽曲へと仕上がっています。ちなみに本曲はオリジナルではなく、シカゴのR&Bコーラスグループ「Teacher’s Edition」という、お世辞にも有名とは言えないグループの、しかもアルバム未収録のシングルB面曲との事。コステロが本曲を知ったのは訪日時にたまたま買ったその手のコンピレーションものに入っていたらしいです。参考までに原曲を。

ポップに歩み寄ったつもりでもチャート的にはイマイチ振るわず、コステロはアメリカに渡り「King of America」(86年)を制作。前述した様なアメリカのルーツミュージックに傾倒した作品となりました。また2ndアルバム以降その活動を共にしてきたバックバンド アトラクションズとの関係もこの時期に一度断ち切っています。私生活では離婚問題などを抱え、80年代中期~後期はコステロにとって比較的苦難の時代となっていました。

89年、コロンビアからワーナーに移籍。アルバム「Spike」をリリースし、そこからの第一弾シングルでありポール・マッカートニーとの共作として話題を呼んだ「Veronica」。コステロのキャリアにおいてはアメリカで最もチャートアクションが良かった曲です(全米19位)。果たして何かが吹っ切れたのでしょうか?。90年代以降のコステロはその奇才ぶりを発揮していきます。バート・バカラックとの共作、ジャズへの傾倒(3番目の奥さんがジャズシンガー)、さらにはインスタントラーメンの生みの親である日清食品の創業者をタイトルに冠したアルバムのリリースなど、その創作意欲はとどまる事を知らないかのようです。

パンクムーヴメントでデビューし、果てはジャズまで。決して一筋縄で括ることが出来ないミュージシャンではありますが、基本的にこの人はオールディーズやカントリー&ウェスタンといったアメリカンルーツをイギリス人的解釈で演る人だと私は思っています。それに関しては先輩であり盟友でもあるニック・ロウ、デイヴ・エドモンズなどと同系譜のミュージシャンと言えます。
決してビッグセールスを連発したミュージシャンという訳ではありません。しかし40年に渡る根強いファンからの支持、また同業者であるミュージシャン達から一目置かれる存在であり続けているエルヴィス・コステロという人は、ポップミュージック界におけるワンアンドオンリーだと思います。

#82 Born in the U.S.A.

直近のブライアン・アダムス回でブルース・スプリングスティーンについて触れましたが、二人は昨年9月にトロントで共演しているそうです。”熱きロックンローラー”として、また後にそれぞれの代表作となるアルバムが同時期にチャートを賑わしていた事などもあって、とかく比較される事の多い二人だったと記憶しています。

 

 

 


アダムスの「Reckless」とチャートの首位を争ったアルバム、それは言うまでもなくブルース最大のヒットとなった「Born in the U.S.A.」(84年)。

全米で1500万枚、全世界では推定で3000万枚以上は売れているであろうとされているアルバム(この位のレベルになると実数はよくわからないそうです)。85年の年間チャートにて第1位(2位がブライアン・アダムス「Reckless」)。特筆すべきはそのロングセラーぶり。発売月である84年6月には初登場9位、二週間後にはTOPとなりそれを7週連続保持します。その後ビルボードTOP200に140週チャートインし続けたというモンスターアルバムです。ちなみに84年の年間チャートでは28位、86年は16位(どんだけ息が長いんだよ!)。

サウンド的には流石のブルースも時代には抗えなかったのか、シンセサイザーが前面に押し出された作りとなっています。問題作とされた前作「Nebraska」(82年)が基本的にアコギとハーモニカのみで録音された非常に内省的なアルバムだったこともあってか(90年代のアンプラグドブーム以降であったら特に奇異に思われる事もなかったでしょうが、時代がまだそれを受け入れられるような耳を持っていませんでした。それでもプラチナディスクだったんですからね…)、コマーシャリズムを意識した内容です。商業音楽ですからこれは全く悪いことではありません。スタッフ・レコード会社の人々・その他諸々ブルースの音楽に携わっている人達を食べさせていかなくてはならないのですから。彼はその意味でのバランス感覚をしっかり持っている人なのでしょう。「ボーン・イン・ザ・U.S.A.』後の作品もまた内省的なものへと移り変わっていきましたが、商業性と創造性・トライアル的なものをきちんと両立させており、それは真摯で真面目な性格がそうさせていたのかもしれません。しかしまたそれ故であったのか、鬱病に悩まされていた事も後年に語っています。

73年にアルバムデビュー、ブレイクのきっかけは3作目「Born to Run(明日なき暴走)」(75年)。熱いロックンローラーのイメージは本作のタイトル曲に因る所が大きいでしょう。”あの声”で、青筋立てて、汗だくになって歌われた日にゃ、こっちも拳を握られずにはいられません。個人的には決してその手のロックが得意という訳ではないのですが、ブルースだけは唯一の例外です。

80年、「The River」が初のアルバムチャート1位となります。1stシングル「Hungry Heart」は初のTOP10ヒット(最高位5位)。今回初めて判ったのですが、シングル曲の「明日なき暴走」は最高位で23位と、TOP20に入ってなかったようです(もっとヒットしていたと思ってました…)。トリビア的な事ですが、これだけの成功を収めたブルースでも唯一得られなかったのがシングルNo.1でした。「ボーン・イン・ザ・U.S.A.」からの第一弾シングル「Dancing in the Dark」が2位と、惜しくも1位を阻まれてしまったのでした。84年6月から7月にかけて4週連続2位をマーク、ちなみに1位を阻止したのはデュランデュラン「The Reflex」と、プリンス「When Doves Cry」(#50ご参照)でした。もっともこんだけ売れりゃあ1位でも2位でも、どっちでもイイ気がしますが・・・

ブルースが日本のミュージシャン達に与えた影響も多大なものでしょう。佐野元春さんと浜田省吾さんはその双璧と言えます。お二人が自身の口からブルースによる影響云々、というコメントは見当たらないようですが、80年代は”和製スプリングスティーン”と呼ばれるほど、楽曲・サウンド・歌詞それぞれの面において、その影響を感じさせるスタイルでした。
海を渡ったイギリスでもブルースはリスペクトされました。70年代後半のパンクムーヴメントにおいて、”怒れる若者”達の中にブルースの影響があったことは間違いありません。80年代以降はパンクのイメージはすっかりなくなってしまいましたが、エルヴィス・コステロのロックンロール調楽曲及び歌唱スタイルにはブルースの雰囲気が見え隠れします。コステロはブルースのトリビュートアルバムに参加、またグラミー賞の舞台でも共演したりしています。

御年68歳(もうすぐ69歳)ですがまだまだ現役バリバリです。一昨年16年9月には自身でも最長となる4時間越えのコンサートを行い話題となりました。元々彼はライヴが長い事で有名でしたが(最低でも3時間以上は当たり前)、60代後半でこの体力はどこから・・・。また同年の3月にはコンサートに来た9歳の子供が彼のライヴが長いことを知っていたため『明日学校に遅れちゃうよ。どうか、先生宛ての手紙に署名して』と”遅刻届”にサインしてくれるよう頼んだ所、ブルースはその子と校長先生の名前とそのスペルを確認し、『この子は夜遅くまでロックン・ロールしていたんです。もし遅刻しても、許してあげてください』と直筆で綴ってあげたそうです。ブルースの人柄が垣間見える素敵なエピソードではありませんか。

#81 Reckless

スティーヴィー・レイ・ヴォーン回その1にて、ブライアン・アダムスの前座としてステージに上がったところ、メインアクトのアダムスを凌ぐプレイであったと新聞に評されていた、といったエピソードを書きました。アダムスの名誉の為にも今回は彼を取り上げてみたいと思います。

 

 

 


59年、カナダ オンタリオ州生まれ。15歳の時にはバンクーバーでバックコーラスの仕事を始めていました。70年代半ばにはバンドを結成した事もあったようですが、80年に自身の名を冠したアルバムでデビュー。83年、3rdアルバム「Cuts Like a Knife」が大ヒット。本国カナダで3プラチナ(カナダは10万枚でプラチナなので30万枚)、米でもミリオンセラーを記録します。

そのキャリアにおいて最大のヒットであり、世界にブライアン・アダムスの名を轟かせたのが84年発表の「Reckless」。本国ではダイアモンド・ディスク(10プラチナ=100万枚)、米でも500万枚のメガヒットを記録します。ちなみにカナダでダイアモンドを獲得した初のアルバムであり、全世界では1200万枚のセールスを上げたと言われています。本作からの4thシングル「Heaven」は初の全米No.1となりました。

その独特のハスキーヴォイスで、愛と青春(及びその苦悩)を歌う熱き血潮を持ったロックンローラー、というイメージの典型だったと思います。同じく熱きロックンローラーという点では、先輩格に当たるアメリカのブルース・スプリングスティーンがいますが、ブルースほど”個性的”な声ではなく、またルックスも良かったので、それもブレイクの一因かと。ブルースのルックスが悪い、という意味ではありません、決して・・・
(#゚Д゚) 謝れ!!ブルースに全力で謝れ!!! <(_ _)><(_ _)><(_ _)>・・・・・
私の勝手なイメージですが、最もジーンズと白いTシャツが似合うミュージシャンではないでしょうか。

現在58歳、まだまだ現役バリバリです(よく考えると自分と10歳程しか違わない…10年後、こんなに若々しくいられるでしょうか・・・)。全世界で7500万枚以上のセールスを上げ、国を代表するミュージシャンの一人として、カナダ勲章も授与されました。”エバーグリーン”という言葉がこれほどよく似合うロックンローラーは他にはなかなかいないと思います。

#80 Stevie Ray Vaughan_3

ミュージシャンとして華々しい躍進を遂げているように見えたスティーヴィー・レイ・ヴォーンでしたが、実は大きな問題を抱えていました。本ブログにおいて、これまで取り上げた多くのミュージシャン達がテンプレのように陥ってしまった問題でしたが、言うまでもなくドラッグとアルコールでした。
(良い子のみんなはマネしちゃダメだぞ!☆(ゝω・)v)
80年代の急激な成功によって有頂天になってしまった為、という訳ではなく、70年代から既に依存症の問題は始まっていたようです。彼の飲酒歴は何と6歳まで遡ります。父親の酒を盗み飲んだところから始まったとの事。麻薬に関しては70年代の半ばから手を付けるようになったと言われています。やがてアルコールとコカインの摂取が常態化していったそうです。86年のヨーロッパツアーの時期が最もひどかったようで、毎日ウイスキーを約1L、コカインを7g摂取していたとの関係者によるコメントがあります。7gのコカインというのがどれほどの依存度を示すのかはわかりませんが(わかっちゃダメだけどね・・・)、ウイスキーの1Lというのは相当重篤な状態だったというのは言うまでもないでしょう。

日本版のウィキだと3作目の「Soul to Soul」を発表後、麻薬・アルコール中毒に陥り入院、その後は「In Step」(89年)のリリースまで活動の記述が無い為、約4年間全く活動していなかったかの様な印象を受けますが、英語版のウィキによるとその間の活動も記されています。もっとも英語版のウィキが正しいという保証もありませんけれども・・・
86年9月、ドイツでの公演を終えた直後、レイ・ヴォーンは体調を崩し、死に瀕するほどの脱水症状に苦しみます。流石にこれはやばいと思ったのか治療を受ける事となり、ロンドンの病院に入院した後、アトランタの病院へと移る事となりました。アトランタでのリハビリは4週間程だったとの事。ベースのトミー・シャノンがリハビリをチェックしていたそうです。
11月にリハビリから復帰したレイ・ヴォーンは、『ライヴ・アライヴ・ツアー』と銘打ったコンサートツアーの準備に取り掛かります。同月にリリースしたライヴ盤「Live Alive」のプロモーションの為のツアーでした。本盤は85年のモントルーと86年7月のダラスとオースティンでの演奏を収録したもの。上記はオースティン オペラハウスでのライヴ、兄のジミーも参加しています。

退院後ライヴを再開し、徐々に仕事への意欲を取り戻していったレイ・ヴォーンでしたが、酒と麻薬を遠ざけた故のシラフでいることへの不安、妻との離婚問題などを抱えて、楽曲こそはこつこつと書き溜めていたのですが、新作のリリースは滞ってしまいました。80年代中期から後半にかけては、地味ではありますが、継続的にステージに立ち、シコシコと次作用の曲作りを行っていました。

しかし89年6月、離婚問題や薬物等への依存を解決したところでようやく新作の発表となります。「In Step」=”足並みをそろえて・~と共に”の様な意。本人の言によると、ようやく「人生」「自分自身」「音楽」と”イン・ステップ”することが出来た、といった意味合いから名付けたとの事。待望の新作に世界中のファンは勿論大喜び、当然大ヒットとなり、更には初のグラミー賞を得ます。本作では初期から曲作りに参加していた、同郷のドラマー・ソングライターであるドイル・ブラムホールが大きく関わっています。ちなみに00年代にエリック・クラプトンバンドにサポートギタリストとして参加していたドイル・ブラムホール二世は、名前からして一目瞭然の通り彼の息子です。
本作のエンディング「Riviera Paradise」と1st収録の「Lenny」をミックスした東京公演での演奏を。

90年8月26日、ウィスコンシン州で行われたコンサート終了後、移動の為に乗ったヘリコプターが墜落。わずか35歳で帰らぬ人となってしまいました。有名な話ですが、同コンサートに出演していたエリック・クラプトンも同乗を誘われたとの事。クラプトンは自伝でその時の事を、『霧がひどい状態で、風防をパイロットが会場で販売していたTシャツで拭いていた、何かイヤな感じがして乗るのを断った』の様に述べています。これはあくまで後付けの印象かもしれません、しかし人の運命というのはほんのわずかな瞬間の選択で大きく変わってしまうのだと改めて思い知らされます。

レイ・ヴォーンのプレイスタイルは非常にオーソドックスなペンタトニックスケールに基づいたものです。ジャズスタイルの演奏も披露していますし、勿論南部出身ですからカントリー&ウェスタンも演ります。引き出しの広さも当然持ち合わせてはいるのですが、あくまでブルースに則った感情表現を第一義とするスタイルでした。その意味ではクラプトンと同様だったと言えます。レイ・ヴォーンは更にもっと強いアルバート・キングの様な感情表現(ビブラート・チョーキングなど)、ジミ・ヘンドリックスばりの型破りかつアグレッシブなプレイを踏襲しながら、技術面では正確無比なフィンガリング・ピッキングを行うことが出来、加えて意外と目立たないところかもしれませんが、ブラッシング・チョッピングなどの小技も見事であって、音の飾り方が多彩で実に巧いのです。しかし何といっても、現在に至るまで彼を信奉する人たちが絶えない一番の要因は、前回も触れたそのトーンにあります。シンガーやサックス奏者がその歌声・ロングトーン一発で聴き手をシビれさせるように、彼のトーンにも魔性の魅力があったのです。またトミー・シャノン(b)、クリス・レイトン(ds)の存在も忘れてはなりません。地味ではありますが的確にレイ・ヴォーンのサポートに徹するシャノンのベース、竹を割った様にタイトなレイトンのドラム。決して前面に出る事のなかった二人でしたが、このリズムセクションなくしてレイ・ヴォーンの名演は生まれなかった事でしょう。『オレが!オレが!』『オレも!オレも!』といったタイプのプレイヤーであったなら、レイ・ヴォーンの持ち味をスポイルし、ダブルトラブルは早期に空中分解していたのでは。

亡くなる年である90年に、レイ・ヴォーンはあるアルバムをレコーディングしていました。最後にご紹介するのは、兄のジミー・ヴォーンと共に『ヴォーン・ブラザーズ』として、結果的に遺作となった「Family Style」。本作はレイ・ヴォーンの死の直前に全てを録り終えたと言われています。私は全くの無神論者ですが、これが本当であれば何か運命的なものを感じてしまいます。かねてよりレイ・ヴォーンはジミーとアルバムを作りたいと望んでいたそうです。心身の復調、身の回りのゴタゴタなども片付き、ようやく念願であった兄との共作に取り掛かり、それを終えたところで急逝してしまうという、まるで物語のような人生であった様に思えてなりません。
本作はダブルトラブルにおける炎が出るような激しいプレイはありません。R&R、ソウル、カントリー、ファンク、サザンロック、勿論ブルース、といった音楽そのものを楽しんで作った、(決して世間に迎合したという意味ではない)聴きやすい作品となっています。したがって歌が重要なファクターとなっており、シンガーとしてのレイ・ヴォーンの良さを再認識することが出来、全体的には非常にアンサンブルを大事にした創りとなっています。これもまたレイ・ヴォーンの音楽の一つであるのです。