#204 Tell Her About It

80年代前半に所謂 ” モータウンビート ” のちょっとしたリバイバルがあった、という事は
以前にも何回か書きました。
ホール&オーツ「マンイーター」、スティーヴィー・ワンダー「パートタイム・ラヴァー」、
そしてフィル・コリンズによる「恋はあせらず」のカヴァーなどがよく知られています。
さらに言えば、その少し前からイギリス勢の中でもアンテナの鋭いミュージシャン達によって、
このリバイバルは始まっていたと言えます。
デイヴ・エドモンズとニック・ロウを中心とし、アルバム一枚のみを残して解散したロックパイルによる
「ハート」(80年)(#86ご参照)、ポール・ウェラー(#55)率いるザ・ジャムが
解散間際に放った
全英No.1ヒット「悪意という名の街」(82年)などが既にありました。

この曲もそんな所謂 ” モータウンビートリバイバル ” の真っただ中にリリースされ、見事に全米No.1と
なりました。言わずと知れたビリー・ジョエルによる「Tell Her About It」(83年)。
「あの娘にアタック」という邦題から、恋するあの娘へ告白するんだ!くらいの内容かと長い間
思っていましたが、実は語り部は第三者であり、しかも当の男女は既にステディな関係である。
” 彼女へ(ちゃんと)伝えなよ ” という、自分は過去にそれで過ちを犯したので、その教訓から、
オマエは付き合っている彼女へ大事な事をきちんと話せよ、というアドバイスをするものです。
邦題の付け方ももう少し考えてもらいたいものでした・・・・・
PVは言うまでもなく、エド・サリヴァンショーを模したもので、エドはそっくりさん。
ビリーは B.J. and the Affordables(お手頃価格なバンド)として登場し、後に控える
大物コメディアンの為に場を ” あっためる ” 役割だったのですが、完全に場を食ってしまった形で、
スタジオ以外でも視聴者たちや、なぜかソ連の宇宙飛行士までもノリノリとなります。
ちなみに大物コメディアンは踊る熊と絡む、という設定で、はたしてその後は?……… というオチ。

#203 The Longest Time

前回、さらにはそれ以前にもビリーと元妻 エリザベスの親族との間にトラブルが生じた事は
既に触れてきましたが、ここで具体的に書いてみます。

エリザベスとの離婚後においても、弁護士である彼女の実兄及び義弟がマネージャーとして
ビリーのマネージメントに引き続き就いていました。
簡単に言えば使い込みをしていたという事なのですが、驚くべきはその金額。80年代のおよそ十年間で
3000万ドル(当時のドル円が200円程度だったので日本円で60億円)という巨額なものでした。
元々金に疎く、さらにはあまりにも多忙であったビリーの目が届かないのをイイ事に、
その金を投資につぎ込んでいたそうで、さらにその投資の失敗を穴埋めするためにまた使い込むという、
典型的なパターンでした。
80年代の後半になってさすがにおかしいと思ったビリーは調査チームを雇って調べ上げた所、
上記の様な使い込みが発覚しました。その後はお決まりの泥沼法廷闘争となり、結果的にはビリー側の勝訴
(当たり前だ)。しかし被告側が破産して全額回収する事は出来ませんでした。
後にビリー本人も愚かであったと振り返っているそうです。

上は言わずと知れた「The Longest Time」。アルバム「An Innocent Man」(83年)のA-③に
収められた本曲は、今ではごく当たり前に聴くことが出来るアカペラスタイルの楽曲ですけれども、
80年代、特にその前半において、アカペラなど全く注目されていませんでした。90年代から
ヴォーカルグループが陽の目を見るようになり、それ以降はポップミュージックの一ジャンルとして
定着しましたが、70~80年代においては完全に過去の廃れた音楽として扱われていました。
しかしビリーにとってはその少年時代、N.Y. の街角で当たり前の様に歌われていた、慣れ親しんだ
ストリートミュージックだったので、何の奇のてらいもなく取り上げる事が出来たのでしょう。
さりげなく創ったような楽曲が(アルバムの全素材を六週間で書き上げた事は前回で既述)、
素晴らしい楽曲、そして素晴らしい歌唱になる所がこの時期におけるビリーの音楽的テンションの
高さを物語っています。
余談ですが、それを考えると80年に「オン・ザ・ストリートコーナー」をリリースした山下達郎さんが
いかにすごかったのかを改めて思い知らされます。達郎さん曰く、「ライド・オン・タイム」が
ヒットした今しかこんなアルバムは創らせてもらえない、とその時は創ってしまったそうです。
ちなみにオンストはその3までリリースされています。

こちらも有名な「This Night」。ベートーヴェンの曲をモチーフにした事がよく知られていますが、
父親のルーツがドイツ系という事もあり、クラシックで取り上げるとしたならばやはり
ベートーヴェンだったのかな? とか勝手に推測したりします。
ちなみにその歌詩は、その時期に短期間付き合ったスーパーモデル エル・マクファーソンについて
書かれたものだそうです。

次回以降も「An Innocent Man」について。

 

#202 An Innocent Man

『心機一転』を辞書で引くと ” ある事をきっかけとして新たな気持ちや態度で事に臨むこと ” とあります。
当然この ” ある事 ” が必ずしも良い出来事とは限りません。近しい者の死、失業、そして勿論離婚など …

最初の妻であるエリザベスとの離婚直後に制作されたアルバム「An Innocent Man」(83年)。
「ストレンジャー」による大ブレイク後としては初めての独身状態となり、一流モデルたちとデートを
したりして(ヤルことはちゃんとヤッている)、ビリー曰く ” もう一度ティーンエージャーの気持ちに
戻った様だった ” と語っています。
それらが影響したのか、「An Innocent Man」は彼が十代の頃に影響をうけた音楽に対して
敬意を表した内容となりました。
上はオープニングナンバーである「Easy Money」。一聴瞭然ですが、実際にジェームス・ブラウンと
ウィルソン・ピケットへのオマージュと記されています。
これほどまでにソウルフルなビリーはそれまでに聴く事はありませんでしたので、それまでのリスナーは
あっけにとられたことでしょう。
私はリアルタイムで丁度この頃から洋楽を聴き始めたのですが、何が黒人音楽とか、白人テイストだとか
あまりよくわからなかったので、当時は何気なく聴いていましたけれども・・・・・

ビリーは後に、多分六週間以内で全ての素材を書き上げたんじゃないか、と語っています。
これだけの傑作群をそのような短期間で創ることが出来たとは驚きですが、出来る時はそのような
ものなのでしょう。
タイトル曲はドリフターズそしてベン・E・キングへ捧げたものであり、過去につらい思いをして
恋する心を閉ざした女性に対して、恋する事そして人を信じる気持ちを取り戻させてみせる、
という男性の歌。どちらかと言えばビリーがエリザベス(一家)からかなりひどい事をされたのですが
(後に裁判沙汰となる程の)、ひょっとして男女の立場を入れ替えて暗喩的に創ったのかも・・・・・

#201 The Nylon Curtain

今回の記事をアップするのが12月21日であり、クリスマスの直近回です。
昨年は番外編のクリスマスソング特集などやりましたが(#149)、もうネタはないと思っていた所、
これは狙った訳でも何でもなく偶然この回になりました。
上はビリー・ジョエル唯一のクリスマスソングと言える「She’s Right on Time」。
82年におけるアルバム「The Nylon Curtain」のB面トップを飾る本曲は、
自分にとって最高のタイミングで現れてくれる彼女を称えた内容。別れと再会を歌っていますが、
本作の中では珍しく基本的にポジティブな歌詞です。でもビリーの事だからウラの意味が・・・・・

” ふたりには別々の部屋が必要なんだ ” という内容の「A Room of Our Own」。男女が、
というよりも人間がその関係を保っていくためにはある程度の節度を持った距離が必要である。
至極まともな事実です。でも結局は妻 エリザベスと離婚するのですが・・・・・

エリザベスとの離婚後においても、彼女の実兄と義弟はそのままビリーのスタッフとして
就いていたそうです。これが後に大問題へとなるのですが、それはいずれまた・・・・・
上は本作で最も地味な曲ですが、結構な佳曲である「Surprises」。

アルバムラストの「Where’s the Orchestra?」。幕が降りた舞台での虚無感、
とでもいった感じでしょうか。メッセージ性の強い作品であった「ナイロンカーテン」でしたが、
とどのつまりはただのエンターテインメント、ただの演目に過ぎない。
いかにもビリーらしい自虐的な最後です。「アレンタウン」のリフレインが流れてアルバムは幕を閉じます。

「ナイロンカーテン」はゴールドディスクにこそなりましたが(最終的にはダブルプラチナ)、
プラチナ以上が当たり前であった当時のビリー・ジョエルとしては決してヒットとは呼べない
結果に終わりました。
私は本アルバムが失敗作とは微塵も思いません。「ストレンジャー」~「イノセントマン」までの
五作中では評価が低いのは事実ですが、そのクオリティーにおいて劣っているとは全く思いません。
これがあと10年遅く世に出ていたならば、結果は少し違ったものになったかもしれません。
82年という、米も日も浮かれていた時代において、世間には受け入れられなかったのです。
90年代であったならひょっとして・・・・・ タラレバは意味がないですけどね。

#200 Goodnight Saigon

” 変わらないでおくれ、僕はそのままの君が好きなんだから ”
あまりにも有名な一節を含むビリー・ジョエルの名曲「素顔のままで(Just the Way You Are)」が
妻であるエリザベスに対して書いた曲であるというのは#183
で触れました。
しかしながら悲しい事に永遠の愛というものはなかなか存在せず、ビリーとエリザベスの仲にも
やがて終焉が訪れます。しかもかなり面倒な事になるのです・・・・・

エリザベスが妻であると同時に優秀なマネージャーでもあったという事は既述ですが、その優秀さは
良からぬ方向へも発揮されます。
80年頃にビリーの弁護士として実の兄、自分の後任マネージャーとして義理の弟を就けます。
ビリーは元々裕福な生まれのせいか、銭金勘定には疎かったらしくその点に関してはエリザベスまかせ
だったと言われています。
この頃から二人の間に亀裂が生じ始めたとも言われます。そして前回も触れた通り「The Nylon Curtain」
リリース直前にバイク事故を起こす訳です。
上はA-③の「Pressure」ですが、当時におけるビリーの状況でしょうか?・・・・・

82年の末に二人は離婚したそうですが、事故で入院中に離婚の書類やら財産分与に関する書類やらを
ギプスをはめた手でサインさせられたとかなんとか ……… 清々しい話です・・・・・・・・・・

A面ラストの「Goodnight Saigon」。言うまでもなくベトナム戦争について歌っています。
私はポップミュージックに政治的・社会的メッセージを込める事はあまり好ましく思えないので、
歌詞の内容についてはあまり興味が無いのですけれども、戦地へ赴いた名もなき兵士たちの事を
歌ったものです。興味がある方は検索してみてください。
楽曲についても、戦争反対を高らかに歌うより戦地における若者たちの同志愛を描いたものなので、
悲しみの中にも優しさがそこはかとなく感じられる曲調です。
「キャプテン・ジャック」や「イタリアンレストランにて」の様な物語的楽曲がビリーの十八番と
以前に書きましたが、これもビリー流物語の一つなのかもしれません。

あと一つ、何か書こうと思っていたのですが、それがどうしても思い出せません ………………
二百という数字が関係していたような、いないような ・・・・・・・・
思い出せないという事は大したことではないという事ですよね! ………………………………………

#199 Laura

自分にとっての「サージェント・ペパーズ(ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド)」を創る。
ビリー・ジョエルは「The Nylon Curtain」(82年)を上の様な想いから制作に取り掛かりました。
「サージェント・ペパーズ」は言うまでもなくビートルズが67年にリリースしたアルバム。
よく言われるのは3分間ポップソングでしかなかったロックを新たな高みまで引き上げた作品である、
という事。私は「サージェント・ペパーズ」が一番好きなアルバムという訳ではなく、また3分間ポップスも
悪いとは全く思いませんが、従来のロックミュージックとは一線を画した作品である事に異論はありません。
その辺は#3で触れていますので宜しければ。

82年の4月15日にビリーはバイク事故を起こします。かなりの重傷で、しかもピアニストにとって命である
指と手首にかなりの損傷を負いました。この事故により6月にリリース予定であったアルバムが
9月まで伸びることとなりました。
「The Nylon Curtain」は全体を内省的な雰囲気が覆っている作品ですが、まるでバイク事故によって
ビリーのスター人生に影を落とす事を予見していた様だ、とオカルト信者は言い出しそうですけれども、
事故はあくまでたまたまの出来事でしょう。もっともその前から妻であるエリザベスからバイク禁止令が
出されており、そのストレスが事故に繋がったという見方もあるので全く関係ないとは言い切れないかも …

上はA-②「Laura」。ビートルズファンや洋楽にある程度精通している人なら ” まるでジョン(レノン)
みたいだ ” と感じることでしょう。ビリーはそのメロディメーカーとしての世間的イメージから
ポールとよく比較されるところですが、精神的・音楽的にはジョンの影響が強いと思われます。
多分「レット・イット・ビー」や「ロング・アンド・ワインディングロード」の映像でピアノを
弾きながら歌うポールのイメージが強すぎての事だと思いますが、ポールは言うまでもなく卓越した
ベーシストであり、またギタリストとしても非常に優れたプレイヤーでした。ビートルズ初期において、
最もギターが上手かったのはポールだと言われています(ピアノが下手と言う訳ではなく)。
「Laura」から感じられるのはジョンの「ハッピネス・イズ・ア・ウォーム・ガン」や
「アイ・ウォント・ユー」において感じられる ” 粘っこさ ” です。
歌詞においてもかなり難解な面があり、やはりジョンの影響かな?と思われる所があります。

自分にとっての「サージェント・ペパーズ(ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド)」を創る、
というのは唐突に思い立った事ではなく、言うまでもなく80年12月におけるジョンの悲劇的な死を
受けての事だったと思われます。エド・サリヴァンショーにおけるビリーを観てロックンロールの洗礼を
受けたビリーにとって当然ジョンはヒーローの一人でした。
ジョンの死、及び周囲との確執(妻 エリザベスやその親族)などがビリーの中で徐々に黒い影を
落とし始め、そして82年4月の大事故が起きてしまいます。
周囲との確執って何? というのは次回以降にてまた。

ところでこのブログを書いているのは12月7日。明日はジョンの命日です。ビリー・ジョエルに
関する記事なのですが、ジョンの話に繋がったところで何か一曲。これもビリーは相当好きだったのでは
ないかな? と思うものです。厭世的な歌詞などが特にビリー好みだったのでは・・・

#198 Allentown

社会学の分野において、欲求5段階説というものがあるそうです。
飢える事無く雨風しのげる住まいや生活用品を確保するという根源的な欲求から始まり、
家族・会社・地域社会といった仲間とのつながり(所属)及び愛(勿論性欲も含む)を
求めるようになり、やがてはさらに他社から認められたい(承認・尊厳)という欲求へと
発展していきます。
承認の欲求が最終段階化と思いきや、この学説ではさらに上のステージがあり、
それは自己実現の欲求だそうです。つまりこの段階になると他人の評価などは関係なくなり、
自分自身が満足できるか否かという欲求になります。
富も名声も得た人間が突然出家するなど、精神的満足を得る行動に移る事があるのはこれでしょう。

ビリー・ジョエルはプロデビューの当初はホームレス生活を経験するほどの困窮ぶりでした。
やがて「ピアノマン」のヒットによりミュージシャンとして生活は出来るようになり、
そして「ストレンジャー」の大ヒット以降は誰からも認められるメインストリームの大スターと
なりました。そんなビリーがやげて自己実現の欲求を満たそうとしたのは。上の学説からすると
当然の帰結なのかもしれません。
上は82年のアルバム「The Nylon Curtain」におけるオープニング曲でありシングルカットされた
「Allentown」。鉄鋼の街であるアレンタウン。かつては栄えたもののやがて製鉄業の衰退と共に
活気を失い、そこで暮らす若者たちはなかなか職にありつけない様な状況にある。
街を出ていく若者、あるいは葛藤を抱えながら残る者と、淡々とした曲調の上でリアリティあふれる
社会的問題が歌われます。

「The Nylon Curtain」の発売前後、ビリーに様々な問題が降りかかります。
その辺りは次回以降にて。

#197 Songs in the Attic

『屋根裏部屋の曲たち』。アルバムジャケットでも表している通りに銘打たれたビリー・ジョエル
81年リリースのライヴアルバムは、30秒にも渡る印象的なエフェクト音にて幕を開けます。
「ニューヨーク物語」(76年)のエンディングナンバーである本曲は、その快活な曲調とは
裏腹に近未来ディストピアSF的な内容であるのは#181で既述の事。
突っ走り気味なリバティ・デヴィートのドラムが素晴らしい、彼はこれでイイのです。

そのタイトルが物語る通り、本作はストレンジャーで大ブレイクする以前の楽曲で構成されており、
全てが80年6~7月における「グラスハウス」ツアーによるもの。当然「素顔のままで」「マイライフ」と
いったヒット曲もセットリストに入っていたわけなのですが、あえてそれらを一切収録せず、
最初のヒット曲「ピアノマン」さえ入れないという徹底振り。陽の目を見なかった作品たちに
スポットライトを当ててあげたいという気持ちも勿論あったのでしょうが、それだけではない
意地の様なビリーの意図も汲み取れないではありません。
上は「ストリートライフ・セレナーデ」(74年)中の「Los Angelenos」。

実際に頑なまでヒット曲を収録しなかったのはビリーのコロムビアへ対する反抗心であった様です。
時代の寵児となったビリーに対し、「グラスハウス」ツアーの終了後すぐに新作へ取り掛かるよう
ビリーへ要望しますが、彼はなかなかその気になれない。人気絶頂の内に少しでも売りたい、
間隔を空けて世間の興味が薄れるのを嫌がったレコード会社が、ではライヴ盤を出そう、
とビリーに持ち掛けて、ビリーも渋々同意した、というのが実情だったそうです。
それでもコロムビアの言いなりになるのが癪だったビリーが持ち出した折衷案がヒット曲を
一切に入れないというものだったようです。
それでも天下のビリー・ジョエル。本作は全米8位という大ヒットを記録します。
まだベスト盤が出ていなかった当時においては、「ストレンジャー」より前の曲を
本作で初めて知り、改めてビリーのファンになったというリスナーも少なくなかったとか。
好循環で回っている時は何をやってもうまくいきます。
#174で既述のデビュー作「She’s Got a Way」と「Say Goodbye to Hollywood」が
本ライヴ盤からシングルカットされ、これまたヒットします。

世界はビリーを中心に回っているのではないかと思えるほどの成功振りですが、
はたしてこの後は・・・・・

#196 Glass Houses

上はビリー・ジョエルのアルバム「Glass Houses」(80年)においてB面のトップを飾る
「I Don’t Want to Be Alone」。当時流行しつつあったレゲエ・スカのリズムを取り入れた
本曲はイギリス勢の影響を受けたのではないか? と思っています。そしてこの歌い方、
どこかで聴いた事が? と首をひねりがちになるんですけれども・・・
そう! エルヴィス・コステロにどことなく似ているんです。コステロは前年に3rdアルバムが
全米TOP10入りするほどに躍進していましたので、コステロをはじめ英国勢の若手が好んで取り入れた
レゲエ・スカといった音楽やその歌い方に関して影響を受けたとしてもなんら不思議はありません。
70年代後半にイギリスでパブロックと呼ばれる米のオールドスタイルR&Rをリスペクトしながら
独自の音楽が生み出されました。デイヴ・エドモンズ、ニック・ロウ、そしてエルヴィス・コステロ達が
その代表格であり、まだ売れる前のヒューイ・ルイスが欧州で武者修行していた時にエドモンズや
ニックと知り合い交流を深めた、というのは以前に書きました(#85ご参照)。
またストレイ・キャッツが認められたのも初めは英国においてです。
全くの推測ですが、ビリーは彼らの動きに先を越された!くらいの感じを受けたのではないでしょうか。
本国では廃れつつあったオールドスタイルR&Rのスピリットを、海を隔てた英国のミュージシャンたちが
復興させた事に本国のミュージシャンとして歯痒い想いを抱いたのではないかと。
ちなみにコステロの米における発売元はビリーと同じコロムビアレコードです。

再びタイトなロックチューンである「Sleeping with the Television On」。中間部のチープな
オルガンの間奏がこれまたコステロっぽく聴こえます。
” テレビをつけっぱなしで寝る ” というのは、むなしい朝を迎える、退屈な日常を繰り返す事の
比喩の様です。アメリカでは昔からテレビ(この場合は地上波というやつ)は無趣味・無教養な
人間が視るもの、貧乏人の娯楽と蔑まされていました。日本でもようやくアンテナの敏感な
若い人達の間ではそうなっていますね。まともな感性であんなくだらないものは視れません。

これまた素晴らしいロックナンバーである「Close to the Borderline」。本作においては
ドラムのリバティ・デヴィートとベースのダグ・ステグマイヤーが重要な役割を果たしている、
というのは前々回にて既述ですが、本曲においてそれが十二分に発揮されています。
憧れのジョージ・マーティンとの仕事を袖に振ってまで守り抜いた自身のバンド。それが本作で
見事に結実されたのです(#186ご参照)。特にデヴィートのドラムが素晴らしく、彼のドラム抜きに
本作は完成出来なかったのではないかと思えるほどです。

アルバムラストの「Through the Long Night」。多くの人が本曲だけがこのアルバムの中で
浮いていると思うのではないでしょうか。勿論私もそうです。内省的な曲調・歌詞は
本作のコンセプトからはベクトルが外れています。どう考えても次作である「ナイロン・カーテン」に
収録されていた方が良かったのでは?・・・ そうです。ビリーはこの時からすでに
「ナイロン・カーテン」の構想があったのでは? と私には思えてなりません。本曲はビリーが
最後に提示した次作の方向性だったのはないでしょうか。

” Glass Houses ” が諺中の単語であることを知らなかった頃は、冒頭のガラスが割れる音は
前作迄のイメージをぶっ壊してやる!的なビリーの意気込みくらい
だと思っていました。
勿論そういった想いもあったかもしれませんが、諺の意味を知ってからはまた別の意味合い、
これは好き勝手言ってばかりいるリスナーやプレス、特に評論家をはじめとしたプレス連中への
強烈な皮肉だったのではないかと個人的には解釈しています。
現在でも俗にいうマスコミの状況は全く変わっていませんけれども・・・・・

#195 It’s Still Rock and Roll to Me

ビリー・ジョエルが80年にリリースしたアルバム「Glass Houses」についてその2。
R&Rナンバーが二曲続いた後に少し箸休め的なナンバーである「Don’t Ask Me Why」。
本作からの第三弾シングルである本曲は全米19位というヒットを記録しましたが、
一つ前のシングル「It’s Still Rock and Roll to Me」がビリー初の全米No.1と
なったのでその陰に霞みがちです。
しかしライヴでは必ず披露される定番曲だったらしくファンの間では人気のナンバーです。
アコギの軽やかな印象によってロックンロール色が薄いように感じてしまいますが、
そこはどうして、ボ・ディドリーばりの所謂ジャングルビートでしっかりと ” ロック ” しています。

画質は最悪ですが84年のビリーが乗りに乗っていた頃の模様が上の動画。本曲はジャングルビートと
共にラテンビートも併せ持っています。ロックンローラーはラテンも好みます。初期のビートルズが
良い例です。会場との一体感が伝わる貴重な映像です。

先述の通りビリーにとって初の全米No.1シングルとなった「It’s Still Rock and Roll to Me」。
批判を顧みず率直言えば、ビリーによる数多の名曲の中において本曲は突出した楽曲ではありません。
ですけれども、ディスコの潮流がまだ蔓延り、さらにニューウェイヴが台頭しつつあった
80年初頭において、こんなド直球のロックンロールナンバーが天下を取ったのは奇跡です。
言い替えればビリーの人気・勢いが時代を凌駕したのです。誤解を恐れず言うとこの時点で
ビリーは何を演っても成功したと言う事が出来、それは良い意味における強者の特権でしょう。
ポール・マッカートニーですらこれほどの勢いはありませんでしたから。

A面ラストの「All for Leyna」。アルバム発売に先駆けてイギリスのみでシングルカットされました。
曲中の主人公が一夜限りの関係を持った女性にやがてのめり込んでいくという内容。
イントロにおけるピアノの連打が翌年のホール&オーツによる大ヒット「キッス・オン・マイ・リスト」
#57ご参照)と似ているな?影響を与えたのかな? と思っていましたが、よく考えたら
ホール&オーツのアルバム「モダン・ヴォイス」は80年7月のリリースで「Glass Houses」の
4カ月後。「キッス・オン・マイ・リスト」は随分時間が経ってからリリースされ、爆発的にヒットして
ホール&オーツ第二次黄金期の礎を築いた曲でした。
「モダン・ヴォイス」もプログレ、ハードロック、ニューウェイヴと色々チャレンジしてきた
ホール&オーツが、彼らのルーツであるソウル・R&B・R&R・ドゥーワップといった音楽へ
原点回帰した作品でした(ただし全部が全部という訳ではなく)。
時代を極めたビリーが商業性を(あまり)気にせず行う事が出来たのに対して、ホール&オーツは
「リッチガール」(77年)以来ヒットから遠ざかっていました。対照的な両者達が選んだ方向性が原点回帰、というのも興味深いものです。