#79 Stevie Ray Vaughan_2

84年5月、スティーヴィー・レイ・ヴォーン&ダブル・トラブルとしての2ndアルバム「Couldn’t Stand the Weather(テキサスハリケーン)」をリリース。発売後わずか2週間で前作の売り上げを抜き、1ヶ月あまりで100万枚のセールスを叩き出しました。前作の成功が決してまぐれ当たりなどではない、確固とした実力によるものとの評価を得ました。

 

 

 


基本的には前作の延長上にある作品ですが、やや新しい試みも。ジャズスタイルの演奏にトライした「Stang’s Swang」などもあります。古いブルースのスタンダード「Tin Pan Alley」を取り上げていますが、プロデューサーのジョン・ハモンドは本曲がレイ・ヴォーンのベストトラックとしています。本曲はファーストテイクでOKになったとの事。録音を終えた直後、ハモンドは思わずブース内にいるメンバー達へ向けてマイクにて、”今までで最高の出来だ!ワンダフルだよ!!”と言ったそうです。確かにレイ・ヴォーンの中で、フレーズ・音色共に白眉のプレイの一つです。

レイ・ヴォーンを語る上で欠かせない先達のギタリストに、言わずと知れたジミ・ヘンドリックスがいます(#43~47ご参照。もっともロックギタリストで直接的あるいは間接的にジミの影響を受けていない人の方が少ないと思いますが…)。兄のジミー・ヴォーンや、巨匠 アルバート・キングと並んで、多大な影響を受けたプレイヤーの一人と折に触れコメントし、そのリスペクトの程がうかがえます。本作ではジミの代表曲の一つ「Voodoo Child」をカヴァーしています。

レイ・ヴォーンの使用ギターは、そのジミと同様にフェンダー・ストラトキャスターがメインでした。最も有名なのは『ナンバーワン』と呼ばれたもの。
当然ストラトだけでも何本も所有していたのですが、レイ・ヴォーンの使用ギターとしては本器が最も良く知られています。70年代前半に地元オースティンの楽器店にて、それまで使用していたストラトと物々交換したと言われています。本器は製造されたそのままの状態ではなく、ネックとボディは年式のそれぞれ異なるものを合わせており(フェンダータイプはボルトで容易に着脱出来るのでそういうものがよくあります)、ジミ・ヘンドリックスと同様にトレモロアームが上部に付いています。ジミは左利きであったのに右利き用のギターをひっくり返して使用していたためそうなったのですが、レイ・ヴォーンは右利きですけれどもあえてその様に加工しました。通常の下部に位置するアームでは出来ないような独特なプレイを可能にしたと言われています。
アンプに関しては80年代初期は同じくフェンダー社のスーパーリバーブやヴァイブロバーブを使用。同社の代表的なツインリバーブよりも小口径・小出力のアンプです。後期はオーダーメイドであるダンブルアンプをメインとしていたようです。
圧倒的な正確無比かつアグレッシブなプレイも勿論ですが、レイ・ヴォーンの魅力は何といってもその音色にあります。#29のデヴィッド・ギルモア回でも少し触れましたが、ストラトキャスターというギターは元々カントリー&ウェスタン等で使用されるのを念頭に開発されたため、太く甘い音よりもヌケの良い枯れた音色を狙って作られました。しかし彼のトーンはストラトらしいハリのある、ガラスがはじける音などという表現がありますが、フェンダーらしい美しい高音とヌケの良さに、ギブソン的なパワフルさも兼ね備えた、ズルい程にイイとこ取りしたような音色です。
多くのレイ・ヴォーンフリークが彼と同じギター・アンプ・エフェクターを入手してその音色にトライしたようですが、殆どの人が口を揃えて言うのが”同じ音にはならない”という事。これは当たり前と言えばそれまでなのですが、ギタリストの場合、そのトーンはプレイヤーの指から生まれるという事です。確かイギリスのミュージシャンの間の言葉で”トーンは指から生まれる”(The tone is in one’s finger だったかな?… 原語はちょっと怪しいかも・・・)というのがあります。機材・セッティングだけ真似てみてもそのプレイヤーの音色と全く同じにはならないのです。

それでもレイ・ヴォーンの音色の秘密に少しでも近づきたいというのがファンの心情であるのも事実です。よく言われるのは、とにかく太い弦を使っていたという事。ギターの弦(ゲージ)は一番細い1弦の太さで表わされますが、通常エレキギターの弦として一般的なのは直径0.09インチ(ゼロキュー)、ジャズやブルースなどを好むギタリストは少し太めの0.10インチ(イチゼロ)などが使用されます。レイ・ヴォーンは0.12やともすれば0.13などという極太のゲージを使っていたと言われています。アコギで使われるようなゲージであり、当然弾きにくくてしょうがありません。それであれほどのスピーディーかつ正確無比なフィンガリングを実現出来ていたのですから驚愕します。そしてそれだけ太い弦を張っていれば当然なのですが、弦の張力によってネックが反ってしまいます。ゴメンナサイした様な状態の所謂”順反り”になってしまい、弦と指板の距離が遠くなる、ギター用語で言う”弦高”が高くなってしまい、これまた弾きにくさに拍車をかけてしまいます。実際レイ・ヴォーン存命中に彼のギターを弾かせてもらったという人の話では、極度の弦高の高さに極太の弦で、とても弾けたものではなかったというものがあります。しかしこれにもメリットが、弦高は低い方が弾きやすいのは当然なのですがその一方で音色のハリを失います。特にアコギではそれが顕著で、あえて弾きにくくても弦高を高くするプレイヤーもいます。レイ・ヴォーンの場合は狙ってそうなったか、結果的だったのかはわかりませんが、その異常な程の弦高もその独特なトーンへ起因しているのではないかと推測されます。
またピックアップが高出力のものに載せ換えられているのでは?、と存命中はよく言われたらしいのですが、彼の死後、フェンダー社がシグネイチャーモデルを製作するために兄のジミーの了承を得て分解してみたところ、他社製のピックアップなどに換えられた形跡は無かったとされています。ちなみにそのレイ・ヴォーンモデル『ナンバーワン』は現在でもフェンダー社の数あるシグネイチャーモデルにおいて、エリック・クラプトンモデルと双璧をなすロングセラーモデルとなっているそうです。そして当然の事ながらフィンガリングやピッキング、あとは気合(?)などが全てミクスチャーされてあのトーンが生まれたのは言うまでもありません。またジミヘン同様、ギブソン・フライングⅤも使用することがありました。これはジミもレイ・ヴォーンも、彼らのヒーローであったアルバート・キングからの影響と言われています。

85年7月、3年前は歓声とブーイングが入り乱れて微妙なリアクションに終わった、因縁のモントルー・ジャズ・フェスティバルへ再び出演します。

既にスーパースターとなっていたバンドは当然大歓声に迎えられてのステージとなります。個人的には82年のステージが特に出来が悪かったなどとは思えませんので、如何に売れているから、メディアで取り上げられているから、という属性でもって世間の評価というものが変わるのかという良い例でしょう。レイ・ヴォーン達にしてみれば、してやったり!と、リベンジを果たしたといったところだったでしょうか。

85年9月、3rdアルバム「Soul to Soul」をリリース。こちらもプラチナディスクを獲得。順風満帆に見えるそのミュージシャン人生でしたが、実はある問題を抱えていました。その辺りはまた次回にて。

#78 Stevie Ray Vaughan

直近のデヴィッド・ボウイ回にて、最大のヒットアルバム「レッツ・ダンス」に関して、あえて触れなかった人物がいます。それは今回からのテーマになる人だったからです。

       スティーヴィー・レイ・ヴォーン。80年代のロック・ブルースシーンに突如出現し、その驚愕のプレイによって人々の度肝を抜き、90年に不慮の事故によりわずか35歳でその生涯を閉じたスーパーギタリスト。54年テキサス州生まれ。兄であり同じくギタリストであったジミー・ヴォーンの影響で7歳からギターを始める。71年に高校を中退し、本格的に音楽の道を志すべくダラスからオースティンへ。上記にて80年代に突如登場したような書き方をしましたが、厳密には70年代から活動はしていました。勿論それは世界的に脚光を浴びたのは、という意味であって、80年代初頭までは米南部を拠点として活動するローカルなミュージシャンであったようです。

そのキャリアにおいて転機となったのが、82年のモントルー・ジャズ・フェスティバルへの出演でした。デヴィッド・ボウイとジャクソン・ブラウンがその演奏を観て、彼の才能に目を付けたのです。上記の動画はそのステージの始めの方ですが、実はこの後観客からブーイングが混じり始めます。レイ・ヴォーン率いるバンドはフェスティバルの中での『ブルース・ナイト』と銘打たれたプログラムにて出演したのですが、彼ら以外は皆アコースティック・ブルースであったところに、いきなり激しいエレクトリック・ブルースが始まった事に対して拒否反応を示すオーディエンスがいた為です。本国アメリカにおいてもローカルな存在でしかなく、アルバムもリリースしていない無名のバンドが遠いヨーロッパにおいて、無条件ですんなり受け入れられるというのは少しばかり厳しかったようです。しかし分かる人には彼の凄さがきちんと分かっていました。ジャクソン・ブラウンは翌日バーで行われたジャムセッションで共に演奏し、あらためてレイ・ヴォーンのプレイの素晴らしさを認識し、ロスにある自身のスタジオを使ってレコーディングする事を勧めます。レイ・ヴォーン達は同年11月にブラウンの勧めに応じてロスを訪れ、アルバムのレコーディングに取り掛かります。そしてわずか3日間でアルバム1枚分の録音を終えてしまいました。そしてそのロス滞在中にさらなるチャンスがやってきます。デヴィッド・ボウイから翌83年1月より始まる次作のレコーディングに参加してくれないかと電話で打診を受けたのです。これこそが前回取り上げた、ボウイ最大のヒットとなる「レッツ・ダンス」です。それは同時にレイ・ヴォーンの名も全世界に轟かせることとなったのです。

そのあまりにも印象的なフレージング・音色・フィーリングに、「誰じゃ!このギタリストは!!」と騒がれ始めました。自身のバンド ダブル・トラブルにおける嵐のようなプレイが聴けるわけではありませんが、そのツボを得た、ブルース・フィーリングに満ち溢れ、一発でレイ・ヴォーンその人と分からしめるプレイは見事です。ここではセッションプレイヤーとしての責務を見事に果たしたと言えるでしょう。一流のプレイヤーはサイドマンに徹してもやはり一流なのです。直後に始まるボウイのコンサートツアーにも招かれ、いったんは参加する事としたのですが、様々な原因からそのツアーをすぐに離脱します。しかしこれがかえって幸運な結果となったのかもしれませんでした。5月にN.Y.のボトムラインにてブライアン・アダムスのオープニングアクトとして出演し、その素晴らしいパフォーマンスにて話題をかっさらってしまいました。ニューヨークポストなどはブライアン・アダムスを喰ってしまった、の様な記事を載せた程だったとの事。こうして本国アメリアでも一介のローカルミュージシャンから、全米での人気を着実なものとする人へとなっていったのでした。

前述したジャクソン・ブラウンのスタジオにて録音されたトラックを中心に構成されたアルバムこそが、83年6月にリリースされた、スティーヴィー・レイ・ヴォーン&ダブル・トラブルとしての記念すべき1stアルバム「Texas Flood(テキサスフラッド~ブルースの洪水)」です。本作は当時において全米で50万枚以上を売り上げゴールドディスクを獲得しました(現在ではダブルプラチナム(=200万枚)に達しています)。特筆すべきはオシャレで、ポップ、かつダンサンブルな音楽が全盛だった80年代において、その真逆を行くような”どブルース”な内容でこれだけのセールスを記録した事です。やはり当時においても、時代の音楽に飽き足らない思いを抱いていた人たちが決して少なくなかったという事実の現われでしょう。

アルバム発売後、プロモーションツアーとして北米、カナダ、短期間のヨーロッパツアーを行いその名声を着実なものとしていきました。翌84年初頭からバンドは次作の制作へと取り掛かりますがその辺りはまた次回にて。

#77 Let’s Dance

#74のミック・ジャガーとデヴィッド・ボウイによるデュエットから、ミックのソロ、そして80年代のストーンズへとテーマは変遷しました。なので安直ですが、今回はデヴィッド・ボウイの話を。ボウイの音楽的黄金期と言えば、やはり60年代末から70年代にかけてというのが大方の評価でしょう。私もそれには異論はありませんが、そこから取り上げると回数もかさむ上に、一応年初から80年代をテーマとしていますので(誰も,覚えてません…よね………。゜:(つд⊂):゜。)、前回のストーンズ同様に80年代のボウイに限って取り上げます。

 

 

 


デヴィッド・ボウイ最大のヒットにして代表作「Let’s Dance」(83年)。ボウイフリークは彼の最高傑作とは「ジギー・スターダスト」だ!、いや「アラジン・セイン」だ!、と喧喧囂囂の議論になるのでしょうが、最も売れて世界中にボウイの名を広めたという意味では代表作と言って差し支えないでしょう。私もボウイの作品において本作が白眉とは思いませんが、リアルタイムで聴いた最初のアルバムなのである程度の思い入れはあります。

プロデュースはナイル・ロジャース。ここ数回の記事で何度もその名が出てきていますが、それだけ80年代は彼が作るサウンドが持て囃された、そして皆がそれを目指していたという事。本当に当時は煌びやかでダンサンブルなサウンドならナイル、AOR・ポップスならデイヴィッド・フォスター、と、ポップス界は数人のプロデューサーだけで回していたのではないかと思うくらい(それはいくらなんでも大げさか・・・)数々のレコードでその名を目にする人でした。本作からもう一曲、盟友イギー・ポップとの共作「China Girl」。

84年、アルバム「Tonight」をリリース。前作に続いて全米でミリオンセラーとなりました。意外な事に、米でプラチナディスクを獲得したのは「Let’s Dance」及び「Tonight」の二作のみとなっています。しかしボウイの総売上枚数は1憶数千万枚と言われており、これは北米以外、ヨーロッパ各国やその他の地域で幅広く支持されたボウイであったからこそ。アメリカ市場だけが全てではないということを改めて教えてくれます。本作からの1stシングル「Blue Jean」。

本作も前作同様にポップな音楽性となっており、コアなボウイファンや玄人筋からは決して良い評価を受けませんでした。それに関しては人それぞれなのでとやかく言う筋合いではありませんが、一つ言えるのは、デヴィッド・ボウイというミュージシャンはその音楽性に関してかなりの変遷を経てきたという事。プログレ、サイケ、コンセプチュアルかつ演劇的なロック、アメリカンソウル、テクノ、ヨーロピアンミュージック、etc… 。何をもってボウイらしい音楽かと述べる事は、少なくとも表面的な音楽ジャンルのみをもっては不可能であり、それは根底に流れる”ボウイイズム”の様なものによって語られるべきだと私は思っています。

先述した”ボウイイズム”が健在であり、また「レッツ・ダンス」以降の80年代におけるボウイの楽曲の中で私がベストトラックと思うのが上記の「Loving the Alien」。往年のボウイらしい良い意味での仰々しさをまといながら、80’sサウンドによって彩られた快作。私見ですが”ボウイイズム”は80年代においても全く失われていなかったと思います。もっとも当時はそこまで考えて聴いていませんでしたが・・・。ちなみに本曲での”Alien”は異星人ではなく、『異邦人・よそ者』の意(多分に宗教的な意味においての)。かの有名映画のせいで、エイリアン=宇宙人、と刷り込まれてしまっていますね …
👽👽👽👽👽 (((;゚Д;゚;)))・・・
本作には他にも、ティナ・ターナーとのデュエットで話題となったタイトル曲、ビーチ・ボーイズのカヴァー「ゴッド・オンリー・ノウズ」など、聴き所は豊富です。

誤解を恐れずあえて言うと、ミュージシャンとしてのデヴィッド・ボウイは捉えどころのない鵺(ぬえ)の様な存在だと私は思っています。歌唱技術が超一流かと問われれば、失礼を承知で言うと決してそうではなく。突出したメロディーメーカーかと言われれば、それも否。しかしロック・ポップス界を見渡せば、これ程までにそれを聴いて、一発で”その人”とインパクトをもって認識されるミュージシャンもそう多くはないと思います。音を聴いているだけでボウイが様々な表情で、あの”独特な”振り付けで歌っているのが目に浮かぶのです。ステージパフォーマンス、役者としての活動、それら諸々を含めてこその『デヴィッド・ボウイ』だと私は思っています。このようなミュージシャンは他にはなかなかいなかったのではないでしょうか。

#76 Dirty Work

前回はミック・ジャガーのソロアルバムについてでしたので、このままストーンズを取り上げようかと思いましたが、ご存知の通りローリング・ストーンズという約55年に渡る現役最古参であるバンドについては、とても2~3回などでは書き切る事が不可能ですので、今回は私がリアルタイムで聴いていた80年代の作品に絞って書いてみたいと思います。

 

 

 


初めて聴いたスタジオアルバムは「Undercover」(83年)だったと記憶しています。とにかくローリング・ストーンズという、ビートルズと並ぶ有名なバンドなのだから聴いてみようと、貸レコード屋(当時は”レンタルレコード”などというこじゃれた呼び名ではありませんでした)から借りてきて聴きました。感想は『?』といったものだったと思います。洋楽を聴き始めたばかりで理解出来る出来ないもあったもんじゃなかったのですが、思い描いていたストーンズ像とは異なるように感じたのは覚えています。

最初に聴くストーンズの作品としてはあまり適当ではなかったかもしれません。もっとも当時は右も左も分からなかったのでしょうがありませんが。本作はヒップホップ等時代の流行を大胆に取り入れた、ストーンズとしては異色の作品とよく評されます。もっともストーンズが流行りを全く取り入れてこなかったかというと決してそうでもなかった訳で、ディスコが流行れば「ミス・ユー」(78年)の様な曲を作ったりしたのですが、本作はそれまでの古き良きストーンズを好むリスナー達からは拒否反応がひと際強かったようです。個人的には好んで聴くことは現在では確かにありませんが、さほど毛嫌いするような内容でもないと思います。2ndシングルであるA-②「She Was Hot」など彼ららしいR&Rも健在であったのに、それ以外で拒絶されてしまったのかも。

86年、アルバム「Dirty Work」をリリース。当時、日本の評論家達は高い評価をしていたと記憶しています。前作では多少試行錯誤が過ぎてしまったかもしれないが、本作では”これぞストーンズ”という内容に回帰したと。しかし現在ウィキなどを見てみると前作同様にあまり評価の芳しくないアルバムとされているようです。これに関しては珍しく私も当時の日本の評論家達と同意見です。本作リリース時は既に60~70年代のストーンズも一通り聴いて理解していたつもりでした。まさにこれこそストーンズ、楽器の音色などこそ80年代風ですが、彼らのロックスピリットは変わっていないと感じました。かように人の評価などは古今東西で変わるもの、あまりあてにしない方が良いというのが私の持論です。

彼ららしくない曲調といえばレゲエの「Too Rude」、ファンク調の「Back to Zero」くらいでしょうか。また1stシングル「Harlem Shuffle」がカヴァーだったというのも彼らとしては異例ではありましたが、基本的にはブルース・R&Bを根っこに持つ,彼ららしいタイトなR&Rに溢れた好アルバムだと思います。この時期のミックとキースの不仲もよく言われることですが、バンドの人間関係の良し悪しが必ずしも作品のクオリティーに反映されるものでもないでしょう。ビートルズの「アビー・ロード」(#4ご参照)の様な例も決して少なくありません。もっともこの二人、仲が良かった時期の方が少なかったのでは・・・

時代は前後しますが82年リリースのライヴ盤「Still Life」。前年の全米ツアーを収録したものですが、個人的にはストーンズの中で最もよく聴いたアルバムです。往年のヒット曲とオールディーズのカヴァーが程よくミックスされた選曲で、もし『ローリング・ストーンズを聴いてみたいんだけど,何にしたらイイ?』と、尋ねられたならば私は先ず本作を勧めます。アメリカツアーにおいて、コンサートのオープニングテーマが「A列車で行こう」というのが少し安直な気もしますがこれもご愛敬。余談ですけど「A列車で行こう」を初めて耳にしたのは本作においてだったかもしれません。

有名な幻に終わった73年の来日公演以降、ストーンズは永いこと”日本は遠いから行かない”などと我が国に対して冷たい態度を貫いていました。入国拒否されたという恨みもあったのかもしれませんが、80年代はこのまま永遠に来日しないのではないかと思われていたくらいです。しかし90年に初来日を果たし、その後も計6回の来日公演を行っているので、日本も毛嫌いされることはなくなったようです。やっぱりお金の力って偉大ですね・・・・・
ちがうがな!!! (#゚Д゚)!!!!

#75 She’s the Boss

前回、記事を書き終えようとした辺りで見知らぬ訪問者がやって来たのですが、その後気づくと布団の上で寝ており、それらの前後の記憶が曖昧になっています… 気のせいですよね・・・

前の記事の最後でミック・ジャガーとデヴィッド・ボウイのデュエットについて取り上げましたが、同年にミックは自身初のソロアルバムをリリースしています、それが「She’s the Boss」(85年)です。天下のミック・ジャガーの初ソロアルバムという事で当時はかなり話題になったと記憶しています。さすがレコーディングの面子がもの凄い。ギターにジェフ・ベック、ピート・タウンゼント、ナイル・ロジャーズ他。ベース バーナード・エドワーズ、ビル・ラズウェル他。ドラム スティーヴ・フェローン、トニー・トンプソン他。パーカッションには英国を代表するパーカッショニスト レイ・クーパー。そして何とピアノ・キーボードにはジャズフュージョン界から大御所 ハービー・ハンコックとヤン・ハマー(ジェフ・ベック回#6ご参照)その他。これだけ贅沢な布陣を揃えられたのは、当時において他にはボブ・ディランかポール・マッカートニーくらいしか考えられません。

オープニングナンバー「Lonely at the Top」。とっぱじめからかっとんだロック・チューンに痺れます。リードギターはジェフ・ベック。問答無用のジェフ節といったフレーズ・音色が炸裂します。ロック界でジェフより速く、複雑、かつ正確に弾けるギタリストは大勢います。
(失礼を承知で <(_ _)>)
しかしその音を聴いただけで”あっ!!これってジェフ・ベックじゃね?!”の様に思わせることが出来るプレイヤーはそう多く無いのではないでしょうか。ストーンズファンとジェフ・ベックファンには既出の事でしょうが、ジェフは74年のミック・テイラー脱退時にストーンズへ誘われています。しかし当時のジェフはフュージョン的音楽を目指しておりその時は袂を分かちました。(しつこですがジェフ・ベック回#5~7ご参照の事、
お願いです…ちょっとでイイですから読んでください……… オネガイシマス… 。゜:(つд⊂):゜。遂に泣き落としか・・・)私見ですがジェフはこの時加入しなくて良かったと思います。多分すぐ喧嘩別れしていたのが目に見える様ですので・・・ 実は本曲はストーンズのために作られた楽曲、なのでミックとキース・リチャーズの共作名義。参考までにストーンズによるデモヴァージョンを、だいぶ印象が違います。

本作は全英6位・全米13位のチャートアクションを記録し、プラチナディスクを獲得。1stシングル「Just Another Night」は全米12位のヒットとなりました。

プロデュースはビル・ラズウェルとナイル・ロジャーズ。ハービー・ハンコックが参加した事もあってか、エレクトリックファンク、つまり後に言うヒップホップ色が強いと感じる向きもある様ですが、個人的にはさほどそれは気にならないです。この時代は皆こぞってこの手のサウンドを取り入れていたので、本作だけ突出してヒップホップ然としている訳ではないと思います。ただ昔ながらのストーンズファンはどうしても”ストーンズらしさ”を求めてしまったのでギャップを感じた人も少なくなかったのでしょう。
2ndシングル「Lucky in Love」は、エレクトリックファンクとミック・ジャガーらしさが見事に融合した楽曲だと思います。もっともミックが歌えば何でもミックの音楽になってしまうのですが。こういうシンガーはポピュラーミュージック界でも数える程しかいないような気がします。

キースはミックがソロアルバムを出す事を快く思っていなかったそうです。ストーンズの活動を第一義に優先させるべき、と考えているキースにとってはミックの活動がそうは映らなかった様です。ミックはその後現在まで4枚のソロアルバムを発表していますが、本作が最も好セールスを上げた作品となっています。レコーディング時は41歳、シンガーとして最も脂の乗っていた時期に収録された、一人の”シンガー ミック・ジャガー”を知る上では格好の一枚ではないかと思います。

#74 Dancing in the Street

ポピュラーミュージックにおける「バンド」の定義というのは、厳密に定められている訳ではありませんが、概ね次の様に定義付け出来るのではないでしょうか。
・トリオ(3人)編成以上であり。
・ベースとドラムから成るリズムセクションを従え。
・残る一パートはコード楽器、つまりギターないしピアノ・キーボードのいずれかから成る事。
クリームやグランド・ファンク・レイルロード、そしてエマーソン・レイク・アンド・パーマーはロックにおいて言うまでもなくバンドと認識されており、ジャズではピアノトリオは数え切れない程、またギタートリオも数は少ないですがこれもあります。しかしホール&オーツやカーペンターズをバンドと呼ぶのは聞いたことがありません。例外として後期のジョン・コルトレーンがピアノレストリオという編成を好みました、つまりベース、ドラム、そしてテナーサックスという編成。”コード楽器が無い事により空間が広がる”、評論家によればその様なサウンドであるそうです。私も幾つかトライして聴いてみましたが、20分余りに渡ってベース・ドラムだけの上で延々とアドリブを紡いでいくそのコルトレーン独自の音世界を、”これがジャズなんじゃ~!モードでござる~!(@∀@l|)°。” と、アタマからバネが飛び出そうになるのを必死で押さえながら理解しようとした事もありましたが、私には向いてなかったようです・・・
前回スーパーグループについて語りましたが、グループと言うくらいなので当然バンド編成です。そして80年代を境にそれは流行らなくなっていったという事も述べました。では、大物シンガー二人によるデュエットは?、と言えばこれは枚挙にいとまがありません。今回は80年代における大物デュエットについて取り上げたいと思います。

”とっぱじめからこんなベタベタな曲からかあ~~~い!!(#゚Д゚)!!!! ” と、批判は覚悟の上・・・
説明不要な程の超有名曲ですね。
(じゃあ、するな!( `・ω・´) ……… 説明させてください。゚(´;ω;`)゚。 )
ポール・マッカートニーとスティーヴィー・ワンダーによるあまりにも有名なデュエット曲「Ebony and Ivory(エボニー・アンド・
アイボリー)」(82年)。全米で7週連続No.1、その年の年間シングルチャート第4位という大ヒットを記録。楽曲はポールによるもので、アルバム「Tug of War」(82年)に収録。ピアノの黒鍵と白鍵のように左右に並んで皆一緒に生きよう、つまり肌の色の違いで差別などしないで、という人種差別反対の曲。PVでピアノに並んで歌う二人が印象的ですが、実はこれは合成の映像。スケジュールがどうしても合わずその様な方法を取ったとの事。ただし原曲の歌入れはちゃんと二人でスタジオライヴの形で、つまりマルチトラックで別々に録るのではなく一緒に歌っているそうです。ハーモニーや、特にエンディングにおけるコール&レスポンス(掛け合い)などはその賜物でしょう。ビートルズ後のポールにとっては最も長くチャートの首位を保持した楽曲となりました(ビートルズ時代は「ヘイ・ジュード」が9週連続第1位)。

お次もこれまたポールに関する曲であり超ベタなやつですが、マイケル・ジャクソンとのデュエット曲「Say Say Say」(83年)。ポールのアルバム「Pipes of Peace」からの先行シングルとしてリリース。大物二人による夢の競演、また当時のマイケルのスリラー人気も相まって当然の様に全米No.1ヒット。本曲のレコーディングが始まったのは実は81年5月まで遡り、先述したポールの「Tug of War」の制作と同時期という事になります。最終的に完成し終えたのは83年2月。プロデュースがジョージ・マーティン、エンジニアがジェフ・エメリックと、要はビートルズの制作陣によるもの。
本曲制作中のいつ頃の事かはわかりませんが、マイケルは英国滞在中(ロンドンのスタジオだった為)はポールの家に泊まっていて(勿論リンダも一緒=当時のポールの奥さん、ウィングスのメンバーでもある)、これを機に大変親密になったそうです。その滞在中におけるある晩の夕食にて、ポールはマイケルに対し楽曲の版権類を見せながら、『こいつらが金を生むんだ。誰かが演奏したり、ラジオで流したりする毎に金を稼ぐことが出来るから』と話したそうです。何か大変生々しい話でポールの印象が悪くなりそうな逸話ですが、ミュージシャンの生業として割り切って考えれば当たり前のことでしょう。この晩の話が、後にマイケルがビートルズの楽曲の版権を買い取ることにつながったのは間違いありません。

最後はミック・ジャガーとデヴィッド・ボウイによる「Dancing in the Street」(85年)。最初に吹き込んだのはモータウンのガールグループ マーサ&ザ・ヴァンデラス(64年)。彼女たちの代表曲であり、モータウンを象徴する楽曲の一つ。これまで色々な人達にカヴァーされてきました。

ミックとボウイという一人でさえ”濃ゆい”シンガーが組んだら一体どうなるの?と、思ってしまいますが意外にもそれが”中和(?)”されてなのか、クドさはそれ程感じずに絶妙なロック&ソウルナンバーへと仕上がっています(全英1位・全米7位)。本曲は同年の英国ミュージシャン達によるチャリティー『ライヴ・エイド』の為の企画ものでした。当初の計画ではボウイはロンドン(ウェンブリー・スタジアム)、ミックがフィラデルフィア(ジョン・F・ケネディ・スタジアム)の異なる二会場で衛星同時中継で共演する予定だったらしいのですが、0.5秒のディレイ(遅れ)が生じてしまう為その計画は断念することになってしまいました(代わりにPVを流した)。

スーパーグループにしろ大物同士のデュエットにしろ、話題性が先行してしまい、時としてその中身が正しく語られる事が少ない場合もありますが、チャリティーなどに関してはその話題性・注目を集める方法としてはうってつけの面はあるでしょう。ちなみに欧米でのこうしたチャリティーは如何に拘束時間が長くとも出演者に報酬が支払われる事はまず無いそうです。噂に聞いた程度なのですが、チャリティーなのに出演者へ報酬が支払われるイベントが毎年あり、それは主催会社もしっかりと利益を得ているチャリティー番組であるとの事(走る人がいるとか何とか…どこの国の話かは知りませんよ…)。しかしそれではチャリティーの意味が無いのでは…(コンコン)おや?誰か来たようだ・・・

#73 Sea of Love

エイジアやフォリナー回にて何気にスーパーグループという言葉を使いましたが、調べてみると現在では死語になっているそうです。…知らなかった…
(゚Å゚;)━?!
既に実績・知名度のあるミュージシャンやバンドに在籍していた人たちが結成したバンド、というような意味合いで、私のようなオッサン世代では普通に使っていた言葉ですが、80年代辺りを境にこの呼称はあまり好ましい言い方としては使われなくなっていったとの事です。古くはクリーム(エリック・クラプトン回#8ご参照)、クロスビー、スティルス、ナッシュ&ヤング、そしてエイジアあたりが最も有名なところだったかと思います。

私のリアルタイムだった80年代、エイジア以外でもスーパーグループと呼ばれたバンドはありました。まずはパワー・ステーション。飛ぶ鳥を落とす勢いだったデュラン・デュランのジョン・テイラー(b)と、アンディ・テイラー(g)が長年尊敬していたシンガー ロバート・パーマーと結成したバンド。
当時アイドルバンド的な扱いをされる感が否めなかったデュラン・デュランですが、ジョンとアンディはそれを嫌っていたのか、もっと硬派なロック・ファンクを演りたいと願ったのがきっかけとか。プロデュースは「Le Freak(おしゃれフリーク)」(←しかしこの邦題は何とかならなかったのか…)等のヒットで知られるシックのバーナード・エドワーズ。そのつながりでドラムはトニー・トンプソンに。

それ以前は所謂”Musician’s Musician”、玄人受けの存在であったロバート・パーマーを表舞台へ引っ張り出したジョンとアンディの目論見は見事に当たりました。上記の1stシングル「Some Like It Hot」を含むアルバム「The Power Station」(85年)は米で6位の大ヒット。2曲のTOP10シングルを輩出し大成功を収めます。またアイズレー・ブラザーズの「Harvest ForThe World」やT・レックス「Get It On」のカヴァーも話題となりました。”大人の男のフェロモン”がプンプンするような苦み走ったパーマーのヴォーカルは今聴いても惹きつけられます。その後にリリースしたソロアルバム「Riptide」(85年)からは全米No.1シングル「Addicted To Love(恋におぼれて)」を生み出し、その印象的なPVも含めて大ヒットし、グラミー賞を受賞する事となります。
トニー・トンプソンのドラムも一度聴いたら忘れられないグルーヴと音色です。黒人のうねるリズムと言うのはこういうビートを指すのでしょう。念の為言っときますが生音でこんなドラムの音はしません。サウンドエフェクトがあってはじめてあの様な音になります。具体的にはゲートリバーヴとフランジャー、あとは気合(?)でしょうか… 本作からもう一曲「Communication」。

エイジア以降で最も話題になった大物同士の組み合わせと言えばこれに尽きるのではないでしょうか。ハニードリッパーズ「Volume One」(84年)。レッド・ツェッペリンのジミー・ペイジとロバート・プラント、ジェフ・ベック、シックのナイル・ロジャースという顔ぶれで、よくぞこれだけの面子を揃えたものだと思いますが、それもそのはず、このバンドは当時のアトランティックレコードの社長が自身の好きな50’sの曲でレコードを作りたいと企んだのが始まり。ハニードリッパーズというのは元々はプラントがツェッペリン解散以降に率いていたバンド名だったのですが、このバンドが50’sのスタンダードを演っているのを知っていた社長が、これだけのビッグネームを集めて企画モノとしてプラントのバンド名義にてミニアルバムを作らせた、という事情だったようです。ツェッペリンやジェフ・ベックらしい音楽を期待して聴いたら肩透かしを喰います。コンセプトがオールディーズを楽しんで演ろう、という様なものなので当然でしょう。
奇しくも最初のパワー・ステーションと同様にシックのメンバーが関わっていますが、70年代におけるファンク・ディスコミュージックの立役者であった彼らが、80年代に入って一世を風靡したヒップホップ、ダンサンブルな音楽の形成に最前線で寄与した事が、特に80年代前半~半ばにかけて皆がこぞって彼らの力を借りようとした為のようです。もっともハニードリッパーズは決してファンクやヒップホップの要素があるとは思えませんが、それが時代の流れだったのでしょう。

フィル・フィリップスによる59年の大ヒットナンバー「Sea of Love」。ハニードリッパーズ版も85年に全米3位の大ヒットを記録します。プラントのツェッペリン解散後における最大のヒットとなったのですが、実はこれが彼にとってジレンマだったようです。本曲の様な甘い曲を得意とするシンガー、とイメージが定着することを恐れたとのことです。
意外と目立たない事ですが、実は本作に参加しているドラマーは現在ではジャズ・フュージョンドラマーの大御所デイヴ・ウェックルです。当時は新進気鋭のN.Y.若手セッションドラマーとして、オマー・ハキム、デニス・チェンバース達と共に、スティーヴ・ガッドなどの次世代を担うドラマーの一人でした。先述の通りオールディーズのカヴァーなので、超絶テクニックなどを聴くことは出来ませんが、シンプルながらツボを押さえた演奏は見事。一流の人はシンプルなのをプレイしてもやはり一流です。

エイジア回でも述べた事ですが、スーパーグループというのは企画モノの側面があり、またビッグネーム同士でエゴのぶつかり合いになる事が少なくない為、短命で終わることが常です。ハニードリッパーズは始めから単発の企画だった様なので当然ですが、パワー・ステーションも上記のアルバム1枚でいったん解散してしまいます(96年に再結成し、アルバムをリリース)。
演奏者の力量に因る部分が大きい即興演奏主体のジャズ・フュージョンは別として、それ以外のポピュラーミュージックについては演奏技術に秀でたメンバー同士が集まったから優れた音楽が出来るとは限りませんし、また卓越した作曲・編曲能力を持つものが組んで曲を作れば必ず名曲が作られるかという訳でもありません。スティーヴィー・ワンダーとエルトン・ジョンが共に作曲すればこの世のものとは思えない素晴らしい楽曲が生まれるものでもないでしょう。むしろ”船頭多くして船山に登る”になってしまう事の方が多いのかも。スーパーグループがやがてロック・ポップス界から姿を消していったのも、そのような理由からだったのかもしれません。

#72 John Wetton_2

ジョン・ウェットン回その2。ウェットンの性格はポジティブで人当たりの良いものだったと言われています。前々回でも書きましたが、仕事を断るという事を知らない、というか頼まれるとイヤと言えない性格であったそうです。勿論仕事好きというのが一番の理由でしょうが、前回述べたバンド遍歴(70年代だけであの量…)はそれらに起因するものかと思われます。
しかしウラを返すとその性格はルーズで大雑把、ともいえるものです。アルコール依存症のため厳格な性格のスティーヴ・ハウとソリが合わずエイジアを一時離脱した事は書きましたが、U.K.においてもビル・ブラッフォードとアラン・ホールズワースの”神経質組”とはアルバム1枚で袂を分かっています。もっともU.K.の場合は目指す音楽性の違いが大きな原因でしたが。また後年はだいぶ太っていましたが、これも自己管理の甘さからくるものだったのかもしれません。

シンガーとしてのウェットンにスポットが当てられる機会は意外になかったと思います。先ずは親しみやすい方から。エイジアのアルバム「Alpha」(83年)から、全米34位を記録した同アルバムからの2ndシングル「The Smile Has Left Your Eyes(偽りの微笑み)」。ドラマティックでハートウォーミングなバラードである本曲は、1~2枚目のアルバムを通じて唯一彼が作詞作曲全てを手掛けたもの、つまりウェットン成分100%の曲なのです。彼は美声という訳ではなく、割と野太い声で朗々かつ朴訥と歌う男性的な歌唱スタイルです。私見ですが本曲の様なバラードは彼の様な歌い方で丁度バランスが取れているのではないかと思います。つまり、あまり過度な感情表現と所謂”美声”で歌われると『クドさ』が前面に立ってしまうのです。オフィシャルPVは妻子と別れた男性のストーリー仕立てのもの。母親に引き取られた娘が途中で車を降り、パリの街中で誤って川(セーヌ川?)に転落してしまい両親は娘にこの様な行動を取らせてしまった自分達を責め嘆いて終幕、と思いきや娘は最後にエイジアのメンバー達の前に現れる、というオチ。
オフィシャルプロモなので歌詞もその様な内容なのだろうと信じて疑わなかったのですが、今回本曲の和訳を色々な方がされているのを調べて改めて気付いたのですが、ビデオの内容と歌詞があまり合ってないようです。”父さん母さんのせいで君(娘)に辛い思いをさせた、その瞳から笑顔が消えてしまった”の様な歌詞かと思い込んでましたが、多分PVを観ていなくて純粋に訳だけをした方なのでしょうけれど、”一度は僕の元を去ったのに、また戻ってくるなんて…” 勿論娘に対してという訳ではなく恋愛の対象(元妻or元カノ)
に向けた言葉です。拙い英語力で挑んでみましたが挫折しました………(´Д`)
ホール&オーツ回の#61で書きましたが、MTVの申し子のように思われていたホール&オーツが実は当時それを快く思っていなかった。あまりに忙しすぎたというのもあったのでしょうが、指定された日に撮影の為スタジオに行くと、本人たちの意図していなかった愕然とするようなひどい内容のPVを撮られ作られてしまった、という事があったそうです。本曲はそこまで酷くはないと思いますが、作詞者ウェットンの意図する所と異なるものに仕上がってしまったという可能性も考えられます。

お次は”親しみにくい方”を。やはり何と言ってもこれでしょう、キング・クリムゾン「Red」のエンディングナンバー「Starless」。クリムゾン回の#17で取り上げましたが、クリムゾン時代における彼のヴォーカルでいずれか一つと言われたらこれに尽きます。本曲については#17をご参照の程。
(お願いです、ちょっとでイイですから読んでください…。゜:(つд⊂):゜。)
まるで葬送曲を思わせるこの歌は、ウェットンのヴォーカルがあったればこそ。感情を抑えた淡々とした歌唱が本曲をより引き立てます。12分30秒の内、ヴォーカルパートは冒頭の4分半ほどですが、是非とも最後まで聴いてみて下さい。インストゥルメンタルパートまでを全て含めて「スターレス」なのです。感動的なまでの絶望感という言葉があるならば、それは本曲の為にある言葉だと思います。

イエスのクリス・スクワイア、グレッグ・レイク、そしてキース・エマーソンと、ブリティッシュロックの巨人達が相次いで亡くなる中、昨年1月にジョン・ウェットンもこの世を去りました、享年67歳。勿論これらの事に因果関係などがある訳ではなく、皆そのような年齢だったので致し方ない事なのですが、やはり自分が長年聴いてきた人達がいなくなってしまうのは寂しいものです。

上の写真はウェットンが亡くなる直前(16年12月らしいです)、リサ夫人と一緒にロバート・フリップを訪ねた時のもの。ウェブ上の日記にウェットンへの追悼の言葉と共に上記を含む写真があげられています。その激やせぶりから分かる通り、病状も思わしくなかったでしょう。おそらく会えるのはこれが最期とフリップを訪ねたのでしょう。クリムゾン回でも書いたことですが、失礼を承知で言うと、フリップは決して人間味溢れる温かい人柄という訳ではないと言われています。クリムゾン解散時は非常に険悪な人間関係だったというのも既に述べた通りです。しかしどうでしょう、特に右側の二人で写っている写真での笑顔は。一緒に組んでいた時期ははるか昔であり、また二人とも歳を取った事なども勿論あるのでしょうが、性格的相性などはともかくとして、やはり根底にあるのは音楽家として互いに認め合っていた仲だからこそ、最期はこのように笑って一緒にいることが出来たのではないでしょうか。

最後にご紹介するのはベーシスト、シンガー、そしてコンポーザーとして、全てを含めた音楽家としてのジョン・ウェットンを最も知る事が出来ると私が思う曲。彼はプログレ然とした変拍子などのテクニカルなプレイから、エイジアやソロアルバムでのポップな面まで、様々な顔を持ち合わせている、一筋縄ではその音楽性を括る事が出来ないミュージシャンです。その間を取ったなどと言うと中途半端な感じに聞こえてしまうかもしれませんが、難解と言われるプログレッシヴロックからポピュラリティを得たポップミュージックへの移行期とも言えるU.K.の2ndアルバム「Danger Money」(79年)から「The Only Thing She Needs」。今聴くと難しい、と思われるかもしれませんが、これでもまだ当時はポップなプログレを目指して作った方なのです。展開が劇的に変わるアレンジの素晴らしさと、超絶技巧を尽くした演奏でありながら、エンターテインメントとしての音楽性も失わない本曲は、エディ・ジョブソンとテリー・ボジオという圧倒的な技術・音楽的素養を持ったプレイヤー達と共に、この時点でウェットンが思い描いていた音楽が見事に具現化されたものだと思います。商業的には決して振るわなかった本作ですが、これらは後のエイジアにおける成功の布石となったのです。本曲だけのいい動画がないので、どうせならアルバム丸ごと上げます。「The Only Thing She Needs」は13:14~21:07ですが、どうせなら全部聴いてみて下さい。その価値がある作品です。

#71 John Wetton

前回取り上げたエイジアの中心メンバーであったジョン・ウェットン。私も中学生の頃から長年に渡ってキング・クリムゾンやエイジアなどでその歌とベースを聴いてきたのですが、ミュージシャンとして、また人間として能動的に詳しく知ろうとした事はありませんでした。
ベースとドラムはリズムセクションとしてどうしても裏方に回る役割ですが、自分がドラマーなのでドラムについてはそれなりの知識は持ち合わせていますけれども、同じ裏方のベーシストにはなかなか意識が向かなかったというのが事実です。昨年1月に惜しくも亡くなってしまいましたが、今回からジョン・ウェットンの音楽、及びその人間性などについても書いてみたいと思います。

49年、英国ウィリングトン生まれ(ウィリングトンというのはイングランドの丁度ど真ん中辺りに位置する町のようです)。ブリティッシュロック、特にプログレッシヴロックと呼ばれるカテゴリーにおいて様々なバンドに在籍、またはサポートメンバーとして参加した英国ロックの生き字引的な人でした。彼のキャリアをデビューした70年頃から前回のエイジア、つまり80年代前半位までだけでもちゃっちゃと述べてみますが、それでもかなりのボリュームになります。どれだけ節操ない…もとい仕事好きだった人なのかが垣間見えるのではないでしょうか。忙しい人はザックリとだけ読んで頂ければ・・・

初めてその名が世間に認知されるようになったのはファミリーに参加した事によって(71~72年)。米では全く売れなかったようですが、本国イギリスではアルバムがTOP10内に入るほどの人気バンドでした。ウェットンはアルバム2枚にてプレイしています。72年にキング・クリムゾンへ加入。ロバート・フリップらしく(?)3年間で解散、その後ロキシー・ミュージックへ参加しますがツアーのみでスタジオ盤は残していません。直後にユーライア・ヒープへ加わり2枚のアルバムを。そして超絶ハイテクバンド U.K.を結成しますがこちらもスタジオアルバムは2枚のみと短命で終わります。その後もジェスロ・タルのサポートをしたり、自身の初ソロアルバムもリリース。80年、一時だけウィッシュボーン・アッシュに在籍しアルバム1枚を、そして前回取り上げたエイジアで世界的な成功を収める事となります。約10年間だけでこのバンドの変遷と仕事量です。実際彼を”ベースを持った渡り鳥”と呼ぶ人もいます。

彼の名を一躍有名にしたのはキング・クリムゾンに参加した事だと一般には言われています(72~74年)。実際そうだとも思うのですが、しかしチャートアクションだけを見ると、この時期のクリムゾンにおいては3枚のスタジオ盤とライヴ盤1枚を残していますけども、「太陽と戦慄」(73年)が英でぎりぎり20位、米ではどれもTOP40に入る事は無かったのです。無論レコードセールスが全てだ、などと言う気は毛頭ありませんですし、むしろその逆で、売上的には決して振るわなかったクリムゾンが50年経った今日でも語り継がれているのは商業的成功だけが全てではないという事を物語っているという証拠です。しかしリアルタイムの70年代前半において、米や日本において彼の知名度は如何ほどだったのかと?…

#15~17でキング・クリムゾンは取り上げましたが、彼のベースプレイでまず真っ先に浮かんでくるのは何と言ってもこの曲「Red」。当時におけるウェットンの使用機材はフェンダー・プレシジョンベースとハイワット製アンプ、そしてエフェクターを使って歪ませることもあったとの事。本曲における波のように押し寄せる重低音は35年以上聴き続けていますがいまだに圧倒されます。

その奏法はツーフィンガー・スリーフィンガー・ピック弾きと多彩で、時に所謂”チョッパー”(これは和製英語で、欧米ではスラッピング(slapping)と言うそうです)とは異なる、人差し指から薬指までの3本ないし2本を弦に叩きつけるような奏法を用いる事もあったそうです。ロキシー・ミュージックへ参加時の下記の演奏「Out of the Blue」にて、ベースとドラムによるブレイクが2回ありますが、この時に低音弦がビビり・割れている音がそうではないかと思っています。

60年代風ソウルミュージックをさらにテクニカルにしたようなプレイは圧巻。先述のブレイク時におけるエフェクターのかけ方も非常に効果的でインパクトがあります。

最後にもう一曲、U.K.から。本バンドはどれを取っても凄まじいプレイですが、来日時のライヴアルバム「Night After Night 」(79年)より「Presto Vivace and Reprise~In The Dead of Night」。1stアルバムの曲ですが、結成メンバーである超絶技巧ギタリスト アラン・ホールズワースの脱退によりトリオ編成となり、ドラムもブル・ブラッフォード(#20~21ご参照)からテリー・ボジオに代わりました。ウェットンのプレイのみならず全員(といっても3人、それでこの演奏…)が圧巻ですが、特筆すべきはこの変拍子の難曲を歌いながら演奏しているという事。スタジオ盤では別々に録っているのでしょうが(ひょっとしたら弾きながら歌っていたりして…)、この辺りがウェットンの地味に凄い所です。

次回はウェットンのシンガーとしての側面、またその人生についても書いてみたいと思います。

#70 Heat Of The Moment

前回までのフォリナー回における枕の話は82年の年間シングルチャートがきっかけでしたが、同年の年間アルバムチャートに目をやると、3位がフォリナーの「4」、2位がゴーゴーズの「Beauty and the Beat」(ガールズバンドのはしりの様な存在。ベリンダ・カーライルを中心とした5人組で、ベリンダは解散後ソロでも活躍)、そして1位が今回のテーマであり、この年のロックシーンを席巻したスーパーグループ エイジアです。

 

 

 


#15~17で取り上げたキング・クリムゾン、#18~19でのイエス、そしてエマーソン・レイク・アンド・パーマー(EL&P)といった英国プログレッシヴロックを代表するバンドのメンバー達が集結したバンド。プログレというものは難解で冗長な音楽、と感じる人達が少なくなかったのですが、エイジアはそれを解消して、語弊はありますがあえて言うと”わかりやすく聴きやすいプログレ”を目指したと言えば良いでしょうか。

82年3月、1stアルバム「Asia(詠時感〜時へのロマン)」をリリース。上記の1stシングル「Heat Of The Moment」と共に大ヒットを記録。前述の通り同年最大のヒット作となります。世間一般に受け入れられたという事は、昔ながらのコアなファンが好む重厚なプログレではなくなったという事。実際かなり批判的な評価もあったようですが、80年代という時代がそうさせたのでしょうか、#22~24で取り上げたジェネシス、83年にイエスが発表した「90125(ロンリー・ハート)」などと共に、80年代になってよりコンパクトかつポップになった音楽は、それぞれ彼らがそれまでに発表したどの作品よりも好セールスを上げる事となりました。私も鼻血が出るほどプログレが好きな人間であり、好んで聴くのは70年代の彼らの音楽ではありますが、
80年代のそれらもそれなりにちゃんと好きです(なんか変な言い方ではありますが…)。

本作にて、というよりエイジアで私が1,2を争うベストトラックと思っているのが、上記の「Wildest Dreams」。後半にかけてのスティーヴ・ハウのギターとカール・パーマーのドラムによるテンション感が見事です。特にエンディング近くにおけるカールのドラムは完全にハシっていますがこれは意図的なものでしょう(カールはもともとハシるタイプのドラマーですが・・・)。

83年7月、2ndアルバム「Alpha」を発表。本作もプラチナディスクを獲得し、普通であれば十分なヒットなのですが、前作があまりにも売れ、また話題になり過ぎてしまった為、過小評価されているきらいがあるように思われます。先に述べた1,2を争うベストトラックと思うもう一つが本作に収録の「The Heat Goes On」。中間部のキーボードソロはバグルス~イエスと在籍していたジェフ・ダウンズによるものですが、まるでナイスやEL&Pにおけるキース・エマーソンのプレイを彷彿させる様な熱く素晴らしいソロです。エマーソンを意識したのかな?と思わせるほどの…

ユーチューブにて本曲を検索すると83年の武道館公演が出てきます(当時はビデオ・レーザーで発売)。オープニングナンバーだったらしく、MCの後に本曲の演奏が始まります。ちなみにこの時はジョン・ウェットン(vo、b)が一時的にバンドを離れていたため、グレッグ・レイクが参加しています。

ウェットンが離脱していたのはハウと確執が深まったためと言われています。実はウェットンが重度のアルコール依存症であって、神経質な性格であったハウとは衝突が避けられなかったのでしょう。しかし今度はウェットンとダウンズがイニシアティブを取り出し、ハウが蚊帳の外に置かれ始める様になり、やがて脱退に至ります。85年発表の3rdアルバム「Astra」は新ギタリストを迎えて制作されましたが、以前ほどのセールス・評価は得られずに、やがてバンドは活動を休止する事となります。

エイジアというバンドはイエス、EL&Pが共に解散状態であった隙間の時期に、これまたフリーの状態であったウェットンを(ウェットンはもともと仕事を断ることを知らないのか、というくらい色々なバンド、セッションへ参加する人でしたが…)、マネージメントサイドが上手く引き合わせ、まとめ上げた。言い方に少し語弊はあるかもしれませんが、企画ものバンドの側面があったように思います。短命に終わったのもある意味必然だったのかもしれません。その後ダウンズ主導にて再結成がなされ、流動的ではありますが結成メンバーが集まる機会もあったようです。しかし17年1月、ウェットンが亡くなりオリジナルメンバーでの演奏を聴くことは二度と叶わなくなりました。

重厚なプログレッシヴロックを軽い音楽へと貶めた、いや、この難解な音楽をポピュラリティを得るまでに昇華せしめた。評価は分かれるところですが、世にプログレという音楽への門戸を広く開いた立役者である、という事は間違いないと思います。