#144 The Dock of the Bay

オーティス・レディングのレコード・CDの発売元を見るとその殆どがヴォルト(Volt)とあり、
これはスタックス(Stax)の子レーベルです。サザンソウルの首都メンフィス(テネシー州)を
代表してかつては一世風靡したレコード会社ですが、オーティス回の最初で書いた事ですけれども、
オーティスはアトランティックソウルの代表格とされています。昔はこれが理解出来ませんでした。
スタックス?アトランティック?キッチリしなさい ( ゚Д゚)!! と叫びだしたくなる衝動に駆られますが
(それほどの問題じゃないだろ・・・)、ネット時代になってその謎が解けました。
スタックスはやはり米南部の一レーベルに過ぎず、その音源を全米及び世界に配給していたのが
大手アトランティックだったという訳です。今回は興味の無い人にはどうでもイイようなこの枕から …

オーティスは26歳という若さでこの世を去ります、原因は飛行機事故。67年12月10日に悪天候の
中その飛行機は飛び立ち、そして墜落してしまいました。
「ドック・オブ・ベイ」の歌詞が自身の死を予言しているとかいうオカルトめいた噂が
昔からまことしやかに一部で囁かれているのですが、これは全くナンセンスなものです。
上は翌68年1月にリリースされたシングル「(Sittin’ On) The Dock of the Bay」。
死の直前に録音された本曲は結果的にオーティス最大のヒットとなり、ポップス・R&B双方の
チャートで1位を記録、全英でも3位に入り代表曲の一つとなります。
67年6月のモントレー・ポップ・フェスティバル出演の直後オーティスは喉の不調を感じ、
それはポリープによるものでした。あまりにも激しいシャウトなどにより喉を酷使した為ですが、
手術をする事になり彼はその後の歌唱法を変えざるを得ないようになります。
「ドック・オブ・ベイ」がこの様な背景から生まれた曲であるのは有名です。発売は死後ですが、
シングル化するのは彼の意志であったと言われています。淡々と語りかけるようなスタイルの本曲に、
周囲はこれまでと違い過ぎる曲調・歌唱に戸惑いを覚えたとされていますが、オーティスは
本曲に自信を持っていたそうです。
勿論若すぎる不慮の死という事実がそのセールスを後押ししたのは否めませんし、私もこれが
オーティスのベストトラックかと問われれば決してそうではありませんけれども、
熱い歌も、淡々としたヴォーカルスタイルも、どちらもオーティスなのだと思っています。
翌2月にはアルバム「The Dock of the Bay」が発売され、ポップス4位・R&B1位・全英1位という
これまた大ヒットを収めます。

ソウルシンガーの真骨頂はライヴによってであると私は思っています。70年に有名なモントレーに
おけるステージがA面ジミヘン・B面オーティスという抱き合わせの形でリリースされゴールドディスクの
大ヒットとなりましたが、単独のライヴ盤で有名なのは生前唯一の「Live in Europe」(67年)と
68年にリリースされた「In Person at the Whisky a Go Go」でしょう。
上は「~ヨーロッパ」から言わずと知れたローリング・ストーンズの「Satisfaction」。
恥をしのんで白状しますが、その盛り上がり方からこれはロンドン公演を収録したものと
永い事思っていましたが、今回調べてみると本作は全曲67年3月のパリ公演を収録したものでした・・・
それはさておき(何が ” さておき ” だ … )、ロンドンの若者たちが米ブラックミュージックに
憧れて創った曲を、本場の黒人シンガーが本曲をレパートリーにして欧州で大歓声を浴びる、
何とも素敵な関係性ではありませんか。以前にも同じ事を書いた様な気がしますが、
政治的にアメリカとイギリス・フランスといった欧州諸国の関係が必ずしも良好ではないかも
しれませんが、ことポップミュージックの分野においては幸せな関係を築いていると思います。

「~ウィスキー・ア・ゴーゴー」は白人ミュージシャンの聖地とされていた当ライヴハウスに
黒人として初めてステージに立ったのがオーティスである事でも有名。
上は言うまでもないジェームス・ブラウンの「Papa’s Got a Brand New Bag」。
二枚のライヴ盤はリリース順は「~ヨーロッパ」の方が「~ウィスキー・ア・ゴーゴー」よりも
先ですが、収録はその逆。「~ウィスキー・ア・ゴーゴー」は66年4月、「~ヨーロッパ」は
先述の通り67年3月であり、つまり「~ヨーロッパ」はモントレーの直前です。
聴き比べると「~ヨーロッパ」の方が苦しそうな歌い方をする個所があります。この時から
喉の不調は始まっていたのかもしれません。

ボクシングでファイタータイプのボクサーというのがいます。漫画でいうと「〇〇〇の一歩」
みたいな。自分がダメージを受けてもそれを物ともせず前に出て戦う、それは決して
良いスタイルではなく、基本は ” 打たせずに打つ ” が理想なのだそうですが、人はそんな自らの
選手生命を縮めてでもその瞬間を生きる様なタイプのボクサーに思い入れします。
突拍子もない喩えですが、私はオーティスにファイタータイプのボクサーを重ねてしまいます。
声楽・ボイストレーニングには無知な私ですが、オーティスの歌唱スタイルは決してシンガー生命を
永く持続させる様なものではなかったと何かで読んだ記憶があります。しかしそれでも、
喉を潰すことも厭わずに全身全霊を振り絞って歌う彼の姿に人々は心を震わされたのだと思います。
ポリープの手術後、「ドック・オブ・ベイ」の様な路線で歌い続ける事となったのか、それとも
また激しいシャウトで聴かせることとなったのか、亡くなってしまった後の事を妄想しても
仕様もないことですが、それでもファンはそれに思いを馳せてしまうものなのです・・・・・・
それも残された者の特権ですからね。

最後に印象的な動画を一つ。66年にイギリスのテレビ番組にアニマルズのエリック・バードン達と
出演したもの。「シェイク」から途中で「ダンス天国」へ、ちょうどウィルソン・ピケット版が
大ヒットしていた頃ですから。イギリス人のブラックミュージック好きは折に触れ述べてきましたが、
黒人音楽に心酔仕切ったバードンらと共に盛り上がるその姿は観ていて清々しいです。
私は世界平和とか、人類みなナントカとかは土台無理だと思っている人間です。どうしたって
分かりあえない、利害の相反する事が先立っていがみ合う国や民族は存在します(どこの国とは
言ってませんよ・・・)。それでも少なくともポップミュージックの分野においては、
米国黒人と英国白人達がこんなにも溶け合っている姿は好ましいと思ってしまいます。

オーティス・レディングは今回で終わりです。もう11月も半ばですね ………………
アレ!!ってコトは!!今年もあと少しじゃね ( ゚Д゚)!! ・・・・・・・・・・・・・・・・

#143 Try a Little Tenderness

前回「I’ve Been Loving You Too Long(愛しすぎて)」をあげた際にさらりと述べましたが、
モントレー・ポップ・フェスティバルという67年に行われた有名なコンサートに
オーティス・レディングも出演しました。ジミ・ヘンドリックスとジャニス・ジョプリンの回でも
当コンサートについては触れました。それまで無名の存在であったジミヘンとジャニスを
一夜にしてスターダムにのし上げた伝説的なステージ。二人のパフォーマンスが聴衆の度肝を
抜いた事に間違いはないのですが、実は最もオーディエンスを熱狂させたステージは
オーティスのものであったと、コアな音楽ファンの間では語り草となっています。

https://youtu.be/xcOfz21MbMA
黒人層においては不動の人気を固めていたオーティスですが、こと一般白人リスナーの間では
まだまだその知名度は低いものでした。時代背景が全く違うので、私が経験した80年代以降では
考えられないことですが、白人層はソウルを聴くなど以ての外(一部のファンを除いて)、
という風潮だったそうです。しかしオーティスのステージはそれを見事に吹き飛ばしてしまいました。
上はその中の一曲「Try a Little Tenderness」。一聴瞭然です、このステージで熱くならない
音楽ファンなどいないでしょうから。

時系列的には少し遡りますが、66年には4thアルバム「The Soul Album」をリリース。
上はオープニング曲である「Just One More Day」。静かなギターのアルペジオから
徐々に盛りあがりを見せるスタイルはオーティス及び演奏とソングライティングを担った
スティーヴ・クロッパーの十八番と言えるでしょう。

同年10月にもアルバムを発表します。「Complete & Unbelievable: The Otis Redding
Dictionary of Soul(ソウル辞典)」のオープニング曲「Fa-Fa-Fa-Fa-Fa (Sad Song)」は
代表曲の一つであり、本曲もオーティスとクロッパーの共作です。

これも有名なやつですがビートルズ「Day Tripper」。ジョンやポールが黒人音楽に熱中していた事は
あまりにも有名ですけれども、「デイ・トリッパー」は本来「ラバー・ソウル」に
収録されるはずだったとかでないとか … ビートルズファンや洋楽通には今更なエピソードですが、
「Rubber Soul」とは紛い物のソウルミュージックという意味を含めたもの。紛い物の意味では
” plastic ” が普通だそうなのですが、プラスティックならゴム(rubber)も一緒、そして
” rubber sole(ゴム底靴)” とかけてジョンがタイトル付けしたというのは有名な話し。
英国人気質を実によく表した逸話ですが(特にジョンの)、所詮我々のソウルはなんちゃって
ソウル、という自嘲的な意味も勿論あったのでしょう。しかし、私はある意味ジョン達の何でも自分達なりの
音楽に取り込んで見せる、という自負の意味合いもあったのではないかと勝手に思っています。
古くはケルト音楽やブリティッシュトラッドフォークなど英国固有の音楽が有ることには有りますが、
北米のソウル・ブルース・カントリー、そしてそこから派生したR&Rや、中南米音楽などに
憧憬を抱いていたイギリス人ミュージシャン達は、イギリスには固有の音楽がない(これは他人の
芝生はナントカだと思いますがね … )、だからこそ他国の文化でも取り込めるものは何でも取り込もうと
いった姿勢の裏返しだったのではないかと思うのです … あれ?ビートルズ回じゃないよね?・・・
いずれにしても面白いのは、逆輸入の形で本場のオーティスがビートルズやストーンズを
カヴァーしたのは誠に興味深い事です。当然の事ながらポップスチャートを賑わせているヒット曲を
取り上げれば一般にウケが良い、という目論見があった事は否定出来ませんが、しかしオーティスや
ブッカー・T&ザ・MG’sの面々にとっては、それらイギリス勢が自分達なりに消化(昇華)した
ブリティッシュソウル・R&Bとでも呼ぶべきものに並々ならぬ関心を抱いたのではないかと
思うのです。特にMG’sは黒人・白人二人ずつの混成バンドなので余計に触発されたのでは?

67年3月には6thアルバムである「King & Queen」(カーラ・トーマスと共作名義)をリリース。
上はオープニング曲である「Knock on Wood」。R&Bチャートで5位、ポップスチャートでも
36位と初めてTOP40入りします。

オーティスは64年1月のデビューアルバムから上記の「King & Queen」まで、わずか3年あまりで
6枚のアルバムを出した事になります。ちょっと異常とも言えるペースです。それはまるで、
生き急いでいるかの様にも思えてしまいます・・・・・・・・・・続きは次回にて。

#142 Otis Blue

オーティス・レディングを語る上で欠かせないのは、その演奏及びソングライティングを務めた
ブッカー・T&ザ・MG’sの存在です。彼らについてあまり詳しく言及するときりがないので、
以降ではオーティスに関わる点のみに絞り折に触れ述べていきます。

チャートアクション的に代表作と言えば、遺作となった「The Dock of the Bay」(68年)なのですが、
オーティス及びソウルファンが彼の最高傑作と口を揃えるのが65年発表の
3rdアルバムである「Otis Blue/Otis Redding Sings Soul」です。
おそらくは最高に脂がのっていて、後に触れる事ですが喉を傷める前の状態で録音が出来た、
歌・楽曲・演奏と三拍子が揃ったソウル史に残る大傑作です。上はブッカー・T&ザ・MG’sの
ギタリスト スティーヴ・クロッパーのペンによるオープニング曲「Ole Man Trouble」。

アレサ・フランクリンの大ヒットで有名な「Respect」はオーティスのオリジナル。
裏話として、自分の曲で吹き込みも先であったのに、アレサ版が大ヒットした事に
かなりの嫉妬を抱いていたようです。しかしどちらも名唱である事に異論はないでしょう。

https://youtu.be/rI_zG2eWGE4
サム・クックのA-③「A Change Is Gonna Come」も素晴らしい事この上ないのですが
涙をのんで割愛。
上はオーティスによる代表曲の一つである「I’ve Been Loving You Too Long
(愛しすぎて)」。67年のライヴとしか動画の記述はありませんが、言うまでもなく
あまりにも有名なモントレー・ポップ・フェスティバルにおける歌唱です。
オーティスやアレサ、ロイ・オービソンにコニー・フランシスといった、
持って生まれた声・歌唱能力というものに対して、凡人は抗えないのではないかと
思わされてしまいます。私はシンガーでなくて良かった(でも器楽演奏も天賦の才が
左右するという事は30年以上楽器を演ってきてイヤという程思い知らされましたがね … )。

41年ジョージア州生まれ。六人兄弟の四番目にして長男。黒人シンガーの多くがそうである様に
幼少の頃から教会の聖歌隊で歌い始めます。10歳にて歌とドラムを習い始め、高校時代には
バンドでヴォーカルを務めます。毎週日曜日には地元のラジオ局でゴスペルを歌って6ドルを
得ていたそうです。影響を受けたのはリトル・リチャードとサム・クック。特にリトル・リチャードに
心酔しており、” リチャードがいなかったら今の自分はない ” と語っている程です。動的で
激しいシャウトはリトル・リチャードにインスパイアされたものでしょう。
15歳の時に父親が病気になり、家計を支えるために高校を辞めて建設現場・ガソリンスタンド店員、
そしてミュージシャンとして働き始めます。
陽の目を見るきっかけは58年に行われた地元のコンテストにて。15週連続でそのコンテストを
勝ち抜け5ドル(現在の価値で43ドル)を手にしました。ちなみにジョニー・ジェンキンスが
その場におり、後に彼のバンドでバッキングヴォーカル兼運転手を務めるのは前回述べた通りです。

サム・クックのナンバー「Shake」はリズミックな所謂 ” ハネる ” ナンバー。オーティスの歌は
勿論の事、アル・ジャクソンのドラムも絶品。アルは決して技巧派のドラマーではなく、
むしろどれだけ音数を減らし、その中で表現が出来るかを追求したドラマーです。
本年一発目のテーマであるアル・グリーン「Let’s Stay Together」(
#101ご参照)などは
その極地と言われています。本曲は比較的音数が多い方ですが、3連符の中に16分音符の
フレーズを入れる所などが ” 味なプレイ ” です。

本作のB面は「Shake」を皮切りに全てがカヴァー曲。テンプテーションズ「My Girl」、
これまたサム・クックの「Wonderful World」、そしてローリング・ストーンズ「Satisfaction」と
目白押しですが、なんとこの曲も取り上げています。泣く子も黙るB.B.キング「Rock Me Baby」。
ブルースを歌わせても天下一品です。ソウルもブルースも根っこは演歌と一緒だと私は思っています
(ソウル・ブルースファン、演歌ファン、どちらにも誤解を招きそうな表現かもしれませんが、
人の感情の根源を揺さぶる歌唱・演奏という点ではどちらも共通しているものがある、という意味です)。

エンディング曲はウィリアム・ベルによる61年のヒット「You Don’t Miss Your Water
(恋を大切に)」。ウィリアム・ベルはオーティスと同じスタックスレーベルの所属でした。

本作は米R&BチャートでNo.1となります(ポップスでは75位)。面白いのはイギリスでは
最高位6位でシルバーディスクを獲得します。実は本国において奮わなかったデビューアルバムから
英ではTOP40入りしており、イギリス人のブラックミュージック好きが顕著に表れています。
ソウル・R&Bにかぶれたストーンズは勿論、ジョン・レノンやポール・マッカートニー、
ピート・タウンゼント、キンクスのデイヴィズ兄弟といったブリティッシュ・インヴェイションの
面々たちは挙って、この突拍子もない天才ソウルシンガーに夢中になったと言われています。

この様に米ソウル界及び海を隔てた英国では不動の人気を固めていったオーティスでしたが、
米ポップスチャートを見ればわかる通り、白人層への浸透度はまだ十分とは言えませんでした。
60年代中期ではまだまだ白人のロック・ポップス、黒人の為のソウル・R&B・ファンクと、
音楽も訳隔てられていたのです。そんな状況に転機が訪れるのは・・・
その辺りはまた次回にて。

#141 Pain in My Heart

ブログの回数的には少し遡りますが、ロバータ・フラックやダニー・ハサウェイが在籍した
レコード会社としてアトランティック・レコードの名がたびたび挙がりました(ダニーは
子レーベルのアトコ)。50年代にはレイ・チャールズが在籍し、昨年他界したアレサ・フランクリンを
はじめとして、多くの黒人ソウルシンガーを輩出しました。ロバータやダニーは王道のソウルからは
別ベクトルのミュージシャンであったと思います。モータウンソウルやシカゴソウルなどと共に、
アトランティックソウルという言葉があるほどにソウルミュージックの一ジャンルとされている程の
レコード会社ですが、その代表格は女性なら先に挙げたアレサ、男性ならば・・・
そうです、それが今回からのテーマであるオーティス・レディングに他なりません。

以前どこかで書いた記憶があるのですが、あなたにとっての男性ソウルシンガーは?と問われれば、
私は躊躇なくオーティスを挙げます。さらにこれは私の勝手な思い込みですが、オーティスは
米国黒人層にとっての日本における演歌の様な音楽だとおもっています。実質的な活動期間は
7~8年という、決してキャリアが長かった人ではありませんが、どうしてこれほどまでに
古今東西を問わず支持されているのか、駆け足ですが私なりに書いてみます。

ロバータやダニー同様に、その生い立ちから音楽的キャリアの出発点等を時系列で触れていくと
初回がほぼそれだけで埋まってしまうので、それは折に触れ。
上の動画は最初のヒット曲「These Arms of Mine」(62年)。本国で80万枚以上を
売り上げたとされる本曲にてオーティスは世に認知されました。
本曲はオーティスがバンドメンバー兼運転手を務めていたジョニー・ジェンキンスバンドの
録音の ” たまたまついでに ” 録られたものだとされており、それがレコード会社の
お偉方の耳に留まり、レコードデビューと相成ったとされています。しかし実際はオーティスの
評判をあらかじめ聞いていて、ジェンキンスと共にオーティスのレコーディングも
予定されていたというのが実際の所だそうです。
とにかく驚愕するのは、これが20~21歳の青年による歌唱だという事です。シンガーでも
器楽演奏者でも、10代で既に完成されているミュージシャンがいない訳ではありませんが、
オーティスもその一人でしょう。

記念すべきオーティスのデビューアルバムが「Pain in My Heart」(64年)。上は
そのタイトルトラック。お世辞にも都会的・洗練されているとは言えない歌唱と演奏ですが、
米南部の雰囲気を赤裸々に表したのが、所謂 ” ディープソウル ” と言われる所以です。

サム・クックの大ヒット曲「You Send Me」。テイストが似ているとよく言われる
サムとオーティスですが、どちらも素晴らしい事に間違いありません。
ちなみに上の動画のサムネが「Pain in My Heart」のアルバムジャケットですが、
これはアポロ・シアターに初めて出演した時のスナップだそうです。シンガーというより
政治家の演説の様にも見えますね。

翌65年の2ndアルバム「The Great Otis Redding Sings Soul Ballads(ソウル・バラードを歌う)」はタイトル通り殆どをバラードで締められた作品なのですが、エンディング曲でシングルカット
された上の「Mr. Pitiful」は軽快なナンバー。カヴァーの方が多い本アルバムにおいて、
本曲はオーティスとギタリスト スティーヴ・クロッパーによるオリジナル。

もう一曲はバラードを。ジェリー・バトラーやカーティス・メイフィールドが在籍した事で知られる
インプレッションズのナンバー「For Your Precious Love」。これが20代前半の若者による歌唱とは …

「ソウル・バラードを歌う」はR&Bチャートで3位まで昇り詰め、オーティスの人気を決定的な
ものとします。ここから畳みかけるようにその快進撃が始まるのですが、その辺りは次回以降にて。

#140 Harvey Mason_3

ハーヴィー・メイソン特集、今回で最後です。
数あるハーヴィーのセッションワークにおいて、絶対に外せないものがあります。
我が国が世界に誇るミュージシャン 渡辺貞夫さんの作品です。

https://youtu.be/5wWPy8mSzLY
70年代後半から80年代前半における貞夫さんのアルバムにおいてデイヴ・グルーシン達と共に
参加していますが、中でも有名なのは貞夫さんの代表作にてジャズ界では空前の大ヒットとなった
アルバム「California Shower」(78年)でしょう、上は本作に収録の「Duo-Creatics」。
以前BSで「カリフォルニア・シャワー」の制作にまつわるドキュメンタリーを観たことがあります。
貞夫さんご自身は勿論、デイヴ・グルーシンのインタビューも交えながらの番組構成でした。
グルーシンの弁によれば ” 貞夫は(英語の)語彙が決して多い訳ではなかったが、彼が演ろうと
している事は皆に伝わった ” との事です。トップクラスのミュージシャン達にとっては、
その音を聴いただけで意思が伝わる様で、貞夫さんからハーヴィー達へ、あるいはその逆の
「サダオ!こんなのはどうだい?!」という様なメッセージも勿論言葉を介さずに伝わった事でしょう。
ハーヴィー、グルーシン、リー・リトナー、チャック・レイニーとのレコーディングは
「カリフォルニア・シャワー」の前年、77年発表のアルバム「My Dear Life」に始まります。
本作からも一曲、サンバ調の「Music Break」。

https://youtu.be/Wq57hGGJ6Bw
ハーヴィーのプレイスタイルについて。現在ではレギュラーグリップを用いる事が多い様ですが、
70年代から80年代において、画像や数少ない映像によれば基本的にマッチドグリップだったようです。
リズム教育研究所の江尻憲和さんがその昔にご自身の著書で書かれていたのですが、江尻先生は
ハーヴィーのレコーディングに立ち会う機会があり、その時驚いたのはシンバルの音が鳴ったと
思うとハーヴィーは既に元の態勢に戻っており、ただ右側のシンバルだけが揺れているというものでした。
前々回のカシオペアとのTV共演で観る事が出来ますが、右側のクラッシュシンバルを全く見ずに
ヒットして、そのままリズムパターンを刻み続けている動作が確認出来ます。
またショットする毎に打面が1~2センチ凹むようなパワフルなストロークに圧倒されたとも
語っています。

ハーヴィーのジャズドラマーとしての側面もご紹介。上はロン・カーター76年のアルバム「Pastels」に
収録されている「One Bass Rag」。ミディアムテンポの気持ちの良いスウィングですが、
4:20過ぎで超絶アップテンポに、そしてまた元のテンポへ戻る、圧巻のプレイです。

ハーヴィーがどうしてあれほど多くのレコーディングにおいて求められたのか。例えば速く複雑に
プレイするといった意味では、同世代ではマハヴィシュヌ・オーケストラのビリー・コブハム、
後にはテリー・ボジオやヴィニー・カリウタが現れ、その超絶テクニックで世間を圧倒しました。
しかしながら、これはスティーヴ・ガッドや若干下の世代であるジェフ・ポーカロにも言える事ですが、
ハーヴィーをはじめとする所謂 ” ファーストコール ” のセッションミュージシャン達は、
先のデイヴ・グルーシンによる言葉の様に、ミュージシャン及びアレンジャーの意図を瞬時に汲み取り、
体現してみせる事が出来る人達でした。テクニカルなプレイが出来るのは勿論、シンプルな方が良いと
判断すれば一曲ほぼ丸ごと頭打ちに徹する事も何とも思わない(技術がある故に叩きすぎる・弾きすぎる
プレイヤーが結構います)グッドミュージック本位のミュージシャンなのです。でありながらして、
そのシンプルなプレイの中にもハーヴィーは彼にしか出せないウネるようなグルーヴを、
ガッドであれば ” ガッド節 ” と称される彼独自のフレーズを垣間見せる事で、まるで刀工が自身の
作品に銘を入れるが如く、ハーヴィー印・ガッド印の作品(ドラミング)を皆がこぞって
必要としたからに他ならないのではないかと私は思うのです。

最後はハーヴィーによる現代版「Chameleon」のプレイを。オンラインドラムレッスンDRUMEOに
よって昨18年にアップされたものの一部分。73年のオリジナルとはだいぶアレンジが変わっています。
ハーヴィーのドラミングもそれに伴ったものなのかどうか、非常に肩の力が抜けリラックスして
叩いています。それでいながら、静かな中にもテンション感を持った16ビートはやはり見事です。
御年72歳、まだまだそのファンクグルーヴは健在です。

以上で三回に渡ったハーヴィー・メイソン特集は終わりです。
多分誰も覚えていないと思いますが、一応年初からのブラックミュージック特集はまだ続いています …
次回以降は誰を・何を取り上げようか?実は現時点でまだ白紙です … どうしよう・・・・・

#139 Harvey Mason_2

数えきれない程のセッションワークで知られるハーヴィー・メイソンですが、前回触れたハービー・
ハンコック「Head Hunters」及びジョージ・ベンソン「Breezin’」の他にも、必ず挙がる
スタジオワークがまだまだあります。

前々回のテーマ「Feel Like Makin’ Love」でも取り上げたリー・リトナー「Gentle Thoughts」。
本作からタイトルナンバーである「Gentle Thoughts」はバウンスする16ビート、
所謂 ”ハネる” リズムが絶品。出だしにおける気持ちの良いビートから、アドリブが白熱するにつれ
ハーヴィーのドラミングも変幻自在となっていきます。かと思えば、また ”ピタッ” とシンプルな
ビートに戻る、リーのギターを中心としたフロントのプレイとのコール&レスポンスが見事です。

デイヴ・グルーシンの「Mountain Dance」(79年)もハーヴィーのキャリアを語る上での鉄板作。
上はタイトルトラックですが、ドラミング自体が非常にテクニカルであるとか、前代未聞の画期的な
フレーズを行っているという訳ではありません。基本的にはシンプルなバッキングに徹しながら、
しかし要所要所で聴かせるフィルイン、印象的な乾いたタムの音色などが ”ハーヴィー節” です。

同作からもう一曲「Rag Bag」。こちらの方がテクニカルであり圧倒されますが、知らずに聴くと
スティーヴ・ガッドかな?と思う程にガッドに似てます。勿論文句の付けようが無いドラミングであり、
しかも本曲はかなり ”ソリ” が仕掛けられている楽曲なので仕方ありませんけれども、
どちらかと言えばハーヴィーの魅力はもう少し自由なプレイにてグルーヴや即興が ”ハジケる”
所だと私は思っています。しかしながらこの様なガチガチにキメキメの曲もやはり見事。
でも少しはガッドを意識したのかな~?とも私は思うのであります・・・

目線を変えてハーヴィーの使用機材について。現在は日本のカノウプスを使用しているようですが、
「Head Hunters」以降の70年代におけるドラムセットはグレッチの様です。米モダン・ドラマー誌の
81年7月号がネットで出てきますが、そのインタビューでイギリスの
プレミアに変えたと語っています。
おそらく80年前後がグレッチとプレミアの境目だと思われますが、「Head Hunters」、「Breezin’」から
「Gentle Thoughts」まではグレッチで、「Mountain Dance」はどちらか微妙なところ、
といった感じでしょうか。80年代半ばからまたグレッチに戻っていますが、セッションによって流動的です。
グレッチの頃は乾いた音色が特徴(特にハイタム)であり、小口径のタム(6~8インチ)は裏ヘッドを
取り外しているモノクロの画像も出てきます。前回あげたカシオペアとのTV共演にてプレミアを使用していますが、そこで聴ける音色は非常に重いもの。ドラムヘッドがCSヘッド(中心部に黒い丸があるもの。
重くてインパクトがあるサウンドが特徴)なので余計にその様な音色になっているのかもしれません。
70年代から80年頃の使用スネアに関してググってみましたが出てきません。この頃だと当然セットと同様にグレッチか、あるいはスリンガーランドのラジオキングやラディックLM400・402あたりでは
ないかと推測されます(でも確かな事はわかりません・・・)。
シンバルは70年代がジルジャン、80年代に入ってからはセイビアンも使い始めた様です。先の81年に
おけるモダン・ドラマー誌においてはジルジャンとセイビアンの混合だと語っています。しかしながら、
これは一流のプレイヤー全てに言える事ですが、どんな機材を使っても自分の音にしてしまうのです。

スタジオワークが素晴らしい事は言うまでもないのですが、ライヴもこれまた凄いのは当たり前。
ジョージ・ベンソンによる77年のライヴ盤にてミリオンセラーとなった「Weekend in L.A.
(メローなロスの週末)」より「Windsong(風の詩)」。最も印象的なのが2:10辺りからの
フィルインです。1拍6連符を用いた(部分的にはその倍の細かい音符も)このフレーズは、
テクニカルである事は勿論ですが、ニュアンスの付け方が超一流。前半はハイハットオープンと
スネアショットにて、口で言えば ” チータタタチ・チータタタチ・チータタタチ・チータタタチ ” と
いった感じ。6連符の一番最後がハイハットなのがニクいです。後半を口で言うと … 言えない・・・
6連を基調にしているのは変わりませんが、出だしのハイハット~スネアからその後のタムへの連打は、
何タムをどの様に叩いているのか???です。ただ一つ言える事は、前半における規則的な
フレーズによる緊張感を、後半の全てを巻き込んでなだれ込む様な連打で解消しているという事。
緊張と緩和、もっと平たく言えばメリハリを付けたフレーズが人の心を打つのです。更に補足すると、
本曲はドラムに関しては超絶フレーズのオンパレードという訳ではなく、比較的地味なバッキングに
徹している為に、先のフィンルインが山場として、余計にドラマティックさを演出されているのです。

ハーヴィー・メイソン回はまだ続きます。

#138 Harvey Mason

ドラム教室のブログらしく、いい加減ドラマーの事を書かなければならぬと思っていた今日この頃。
丁度折よく前回・前々回と、いつかは絶対に取り上げなければ、という人の名前が挙がりました。
ハーヴィー・メイソン、70年代フュージョンシーンを代表するドラマー、その人です。

        今までも何度かスティーヴ・ガッドと共にその名が出てきましたが、私の世代(昭和45年生まれ)以上で
ドラムを演っている、もしくはある程度音楽に精通している人ならばその名を聞いた事があるでしょう。
技術が優れているのは言うまでもない事ですが、ハーヴィーの魅力で皆が一様に口を揃えて挙げるのが
その唯一無二のリズム、所謂グルーヴです。ウネる・ハネる・ジャンプしている、いずれの表現も
その躍動感あふれるビートを言い表したものに他なりません。

47年ニュージャージー州生まれ。7歳(4歳説も有)でドラムを始め16歳にて自身のドラムセットを購入。
バークリー音楽大学とニューイングランド音楽院という二つの名門音楽大学(ニューイングランドは
全額支給の奨学金を得て)でドラム・パーカッションのみならず作曲・編曲も学びます。
実はハーヴィーはコンポーザーとしての一面も持っており、その能力はこの時期に培われたようです。
在学中からセッションミュージシャンとしての活動もしており、日に三つのスタジオセッションを
掛け持ちする事がある程で、この時から既に引っ張りだこであった様です。

ハーヴィーのキャリアを語る上で必ず挙がる作品がハービー・ハンコック「Head Hunters」(73年)。
エレクトリック・ジャズの金字塔的作品であり余りにも有名なアルバムなので、ジャズフュージョンに
興味がある方ならその収録曲である「Chameleon」「Watermelon Man」などは耳にした事が
あるのではないでしょうか。「Chameleon」の実に粘り気のある16ビートはハーヴィーの
名演としてよく取り沙汰されます。ユーチューブで聴けますので是非ご一聴を。
なのでこちらではあえて「Head Hunters」を避け、同年におけるやはりジャズフュージョンの
名盤とされ、ハーヴィーのプレイが堪能できる別の作品を。トランぺッター ドナルド・バードによる
アルバム「Black Byrd」より「Love’s So Far Away」。粘っこいファンクビートがハーヴィーの
真骨頂とされますが、スピーディーかつスリリングな16ビートも当然の如く絶品です。
フルートが如何にもこの時代のフュージョン(当時はクロスオーヴァーと呼ばれた)らしいです。

これまたドナルド・バードによる同年のアルバム「Street Lady」より「Sister Love」。
ヘヴィーなファンク、スピーディーな16ビートはもとより、本曲の出だしにおける軽快な8ビートも
見事です。ところが更に、曲が進むにつれ段々と一筋縄では無い演奏に。ドラムを演っている
人ならわかると思いますが、16に比べて8ビートの方が技術的には容易ですけれども、
じゃあ8ビートでどんどんフレーズをフェイク、膨らませていけ!と言われると、これがどうして
良いか戸惑ってしまいます。フィルインには当然16分音符は使いますが、8ビートの中で
エキサイトさせていくのはなかなかに至難の業なのです。中盤以降のハーヴィーのプレイは
素晴らし過ぎます。ハイハットの強弱・オープンクローズ、2・4拍以外の細かいスネアによる
表情付け、曲中しばしば行われる3拍目裏のシンコペーションにおけるグルーヴなど全てがパーフェクト。
特筆すべきは、一貫して元の気持ちの良い8ビートのグルーヴが全く失われていないという点です。
プロであっても盛り上げるとなるとラウドな音色(ドラムならクラッシュシンバルやオープンハイハット、
ギターで言えばディストーションをかけて音量を上げるなど)を用いたり、とにかく速く叩く・弾く
という事に終始するプレイヤーが少なくありませんが、ハーヴィーのプレイを聴くとそれがいかに
陳腐であるかという事に気付かされます。

鉄板である「Head Hunters」を外して置きながら、” 王道こそこれ真の道である ” という言もあります。
え?そんな格言は無い?!そんなはずはありません!こないだ近所の小学生が言ってましたよ (`・ω・´)!!!
てな訳でベタなヤツも。言わずと知れたジョージ・ベンソンの大ヒット作「Breezin’」(76年)より、
彼のオリジナル「So This is Love?」。フュージョンブームの火付け役となった作品であり、
ジャズフュージョンのカテゴリーでは初めて全米で100万枚以上(トリプルプラチナ=300万枚以上)を
売り上げたジャズ界におけるモンスターアルバム。確かいまだにこれを超える売り上げは無いのでは?
(もしかしたらその後もっと売れたのがあるかも、うろ覚えなのでご勘弁)
タイトル曲やレオン・ラッセルの「This Masquerade」が有名ですが、ハーヴィーのドラミングを
堪能したいのならこの曲です。軽快な感じで始まる16ビートですが、曲が進むにつれ白熱していきます。
時にギターフレーズに呼応し、時にベンソンを挑発するようなプレイで全体を盛り上げる、
これは完全にジャズのインプロヴィゼーション(即興演奏)の感覚です。当然のことながら、
ハーヴィーは卓越したジャズドラマーでもあります。

ハーヴィーは日本人ミュージシャンの作品にも多く関わっています。言うまでもなく渡辺貞夫さんの
「カリフォルニア・シャワー」をはじめとする一連の作品は有名ですが、意外にも井上陽水さんの
L.A. 録音「二色の独楽」(74年、「氷の世界」の次のアルバム)でもプレイしており、
実は結構身近な所でハーヴィーのドラムを耳にしているのです。カシオペアとの共演は
フュージョンファンには周知の事ですが、今回ユーチューブを漁っていたら面白いものを
見つけてしまいました。81年にテレビ番組で一緒に出演しており、演奏も披露しています。
曲はカシオペアの代表曲「ASAYAKE」。動画のコメントにもありますが、神保彰さんが力み過ぎでは
ないか?と観て取れますけれども、そうであったとしてもしょうがないでしょう。神保さんは
ハーヴィーとスティーヴ・ガッドをフェイバリットドラマーと公言していた人ですから、
この時まだ20代前半であった神保さんは嬉し過ぎ、そして少しでもハーヴィーにイイところを
観せて認めてもらおうという思いがあっても何ら不思議はありません。それにしても
向谷さん・野呂さん・櫻井さん、そして勿論神保さんも皆若い。翌82年、カシオペアと
ハーヴィーを含めたL.A. のトップミュージシャン達、リー・リトナー、ドン・グルーシン、
ネイザン・イーストによる夢の競演アルバム「4×4 FOUR BY FOUR(フォー・バイ・フォー)」の
制作へと繋がった訳です。

当然一回では書き切れないので次回以降へ続きます。

#137 Feel Like Makin’ Love

今回のテーマ「Feel Like Makin’ Love」。本曲つながりでロバータ・フラックから
マリーナ・ショーへ話が展開した訳ですが、ふと思いつきで、この曲だけに絞って
丸々一回ブログ書いたら面白くね (*゚▽゚)?! … などと安直な考えに至った次第です・・・

本曲に関してはマリーナ版が白眉と前回述べましたが、ロバータ版が素晴らしい事も
言わずもがなです。ビルボードとキャッシュボックスのポップスチャートにて1位を記録し、
その他ビルボードのソウル及びイージーリスニングチャート、またカナダでもNo.1ヒットに。

数えるのがイヤになるほど数多くのミュージシャンに取り上げられて続けている本曲の作者は
ユージン(ジーン)・マクダニエルス。ジャズバンドのシンガーとして出発し、60年代には
ソウルシーンでヒットを飛ばし注目を浴びます。ロバータはデビュー作からマクダニエルスの楽曲を
取り上げていましたが、本曲をタイトルとする75年の6thアルバムでは9曲中4曲が彼のペンに
よるものでした(共作含む)。ロバータ版が初出であり、No.1ヒットとなった事から、
”「Feel Like Makin’ Love」と言えばロバータ・フラック ” 、と言われる所以です。
マクダニエルス自身も75年にレコーディングしています。

ロバータ版・マリーナ版と並んで有名なのはこれでしょう。ジョージ・ベンソンが83年に
リリースした「In Your Eyes」に収録されたヴァージョン。ミディアムテンポの16ビートにて
演奏される事が多い本曲ですが、これは思いっきりアップテンポのダンサンブルファンクナンバー。
人によって好き嫌いは分かれる所ですが、こういう解釈もあって良いのでは?
ちょっとだけ音楽的な事をタレますが、いきなり歌から始まるロバータ版にしろ、前奏がある
マリーナ版にせよ、所謂 “ ツー・ファイブ ” というコード進行で始まります。
キーとなるコード(この言い方は正しくなくて音楽的にはトニックと言うらしいですが
あくまで分かり易く)をIとすると、Iへ戻る直前にⅡ(大抵マイナーコード)→Vという
展開をするこのコード進行はポップスでもお馴染みですが、ジャズフュージョンでは
本曲の様にいきなりツー・ファイブで始まる事も多い様です。であるからして本曲の場合は
Fm7(Ⅱm)→Bb(V)→E♭(I)となり、キーはFmではなくE♭になります。
興味が無い方はこの辺読み飛ばしてください、私も本職はドラムなのであまりその辺は・・・

ロバータ版にて参加していた二人のギタリスト ラリー・カールトンとデヴィッド・T・ウォーカーが
15年に来日し、ビルボードライブ東京で行ったライヴで本曲を取り上げています。
このライヴ盤は物足りないという声が多い様ですが、弾きまくるだけが能じゃありません。
これ以外は聴いていないのでわかりませんが、あくまでマリーナ版の本曲をイメージした
演奏らしいので、抑制の効いたものになったのではないでしょうか。

ラリー・カールトンのライバル(=盟友)と言えばリー・リトナー。彼の代表作にて70年代
フュージョンシーンを象徴するアルバム「Gentle Thoughts」で本曲を録音しています。
ドラムはマリーナ版と同じくハーヴィー・メイソン。西海岸におけるトップドラマーでした。

https://youtu.be/3ZpyLwjpBgk
インストが続いたので再び歌モノ。スティーヴィー・ワンダー回(#124)でも取り上げた85年の
大ヒット「That’s What Friends Are For(愛のハーモニー)」に参加していたグラディス・ナイト。
スティーヴィー、ディオンヌ・ワーウィック、エルトン・ジョンと比較すると一般的知名度は
劣るとその時は書きましたが、米ソウル界ではカリスマ的支持を集めた彼女。
グラディス・ナイト&ピップスにて発表したヒット作「2nd Anniversary」(75年)に収録されています。
ジャズフュージョン、イージーリスニング的編曲がなされる事が多い本曲ですが、グラディス版は
それらに比べると異色でありがっつりとソウルしています。彼女の歌唱力があってこそのアレンジです。
本アルバムにはプロデューサーの一人としてマクダニエルスが参加し、全9曲中の内4曲が彼の作品。
一般的には枕詞の様に「Feel Like Makin’ Love」の作者という点だけが取り上げられるマクダニエルス
ですが、ロバータをはじめ、米ブラックミュージック界において絶大な信頼を得ていた事が伺えます。

変わり種ですが今井美樹さんも本曲を取り上げています。殆どが洋楽のカヴァーで占められた
「fiesta」(88年)に収録。これから本当に大変失礼極まりないことを言います。
今井さんは決して歌が上手いシンガーではないと思いますが・・・・・
ε=ε=ε=ε= (#゚Д゚)( °∀ °c彡)ヽ( ・∀・)ノ┌┛・・・ ・・ちょっ!!タ、タンマ!!!(((((゚Å゚;)))))
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
( #)ω・) ぎょふょんにんのふぇんにみょあみばひたぎゃ(訳:ご本人の弁にもありましたが。
失礼、ちょっと歯が折れたもので … )、ご実家は確かジャズ喫茶を営まれていて、幼い頃から
エラ・フィッツジェラルドやカーメン・マクレエを聴いて育ち、彼女達と比べて何て自分の声は
弱弱しく頼りないんだろうと常日頃思っていたそうです(比べる相手が悪すぎますが・・・)。
しかしながら、私は初期における彼女の作品しか知らないのですけれども、その儚げな声は
当時の作風とマッチしており、独特な雰囲気を醸し出していました。

最後に再度ロバータ・フラック。80年にリリースした彼女初のライヴアルバム「Live & More」。
その後ディズニーアニメの主題歌などでブレイクするピーボ・ブライソンをパートナーに
迎えたロバータのライヴ盤に本曲を収録しています。印象的なベースプレイはマーカス・ミラー。
洗練された音色とフィーリングがこの時代らしい。ロバータはピーボという相方を得て
ダニーの死を乗り越えたと一般的には言われていますが果たして? ……… と言うのも野暮ですね。

ヴォーカル・インストゥルメンタル共に数えきれない程の録音があり、またジャズフュージョン系の
ミュージシャン達にとってはセッションの定番曲なので、世界中でどれだけ演奏されているのか
見当も付かない程です。万人に受ける親しみやすい循環進行のポップスという訳ではありませんが、
そのアダルトでアンニュイな雰囲気は、少し背伸びしかけた若者からオールド世代までを
魅了してやまないのでしょう。本曲がこれだけ支持されている理由はそこにあります。
ちなみに「Feel Like Makin’ Love」ってどんな意味なの?、などと考えているそこのアナタ …
私の口からはとても言えません … ♡♡♡(*´▽`*)♡♡♡ … 言えませんよ、”@※▽◎したい” なんて。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ヽ( ・∀・)ノ┌┛Σ(ノ;`Д´)ノ

#136 Who Is This Bitch, Anyway?

ロバータ・フラック回の中で、とある代表曲のひとつについて触れませんでした。
その曲とは「Feel Like Makin’ Love」。74年にNo.1ヒットとなった本曲はロバータ版が
初出であり最もよく知られる所でしょう。数多くのカヴァーが存在する本曲ですけれども、
これについては、少なくとも私にとってはですがロバータを凌ぐヴァージョンがあります。

マリーナ・ショウが75年に発表した名盤「Who Is This Bitch, Anyway?」に収録された
ヴァージョン。これを超える「Feel Like Makin’ Love」を私は他に知りません。
ロバータ版よりもさらにジャズフィーリングに溢れた本曲は、ドラマティックな山場などが
ある訳ではありませんが(この曲自体が元々そうですけど)、静かにテンションが
高まっていく展開は何度聴いても鳥肌が立ちます。

マリーナ・ショウは42年、N.Y.生まれの御年76歳(もうすぐ77歳)。
ポップス・ソウルというよりもジャズのカテゴリーに組み入れられる事が多いため、
余計にポップミュージック界では知名度がイマひとつな原因かもしれません。
かくいう私も本作しか知らないのですけれども・・・
上はオープニング曲「Street Walking Woman」。16ビートとスウィングが交錯する
曲調は英語で言う所の ” Cool ” という表現がピッタリです。

https://youtu.be/78rse-G4jW8
トランぺッターを叔父に持ち、自身もディジー・ガレスピーやマイルス・デイヴィスなどを
好んで聴いていたようであり、音楽を学ぶ為大学へ進学しますが中退し、やがて結婚・妊娠。
しかし彼女は音楽の道を諦めなかった様です。上は「You Taught Me How to Speak in Love」。
エレピ(ローズピアノ)が印象的であるメローなナンバー。本作ではラリー・カールトンと
デイヴィッド・T・ウォーカー、ギターの名手二人が参加しています、左チャンネルがラリー、
右がウォーカーと言われており私も多分そうだと思いますが? …… 聴き比べもこれまたご一興。
ちなみに一部では「いとしのエリー」の元ネタとまことしやかに言われていますがその真相は・・・

短い曲ですが「The Lord Giveth and the Lord Taketh Away」は彼女のオリジナル。素晴らしい
ブルース&ゴスペルフィーリングです。63年にはジャズバンドでニューポートジャズフェスなどにも
出演したマリーナでしたが、バンドを辞めその後は小さなクラブで細々と活動。転機は66年に、
ブルース・R&B界ではよく知られるチェス・レコード(の子レーベル)と契約。上は彼女のルーツと
言えるテイクなのでしょう。彼女の名は徐々に米音楽シーンへ浸透していきます。

しかしブルースを主とするチェスでは彼女の本領を発揮させる事が出来なかったのでしょうか、
72年にジャズの名門として知られるブルーノートへ移籍、本作を含む5枚のアルバムを発表します。
彼女の絶頂期は間違いなくこの頃であったでしょう。上は「You Been Away Too Long」。
75年と言えばフュージョン(当時はクロスオーヴァー)が開花した時期、フルート他の管楽器群も
この時代ならでは。リズム隊はチャック・レイニー(b、他一名)とハーヴィー・メイスン(ds)。
レイニーはロバータ・フラックの傑作群でも活躍した事は既述。70年代フュージョンシーンを
担ったハーヴィーですが、東のスティーヴ・ガッド、西のハーヴィー・メイスンと言われる程に
当時の西海岸シーンにおけるファーストコールドラマーでした。ガッドとの相違点を挙げれば、
ややシンプル、乾いた音色(タムが特に顕著)、そして黒人特有のジャンプするグルーヴでしょうか。
しかし、どちらも素晴らしいというのは言わずもがなです。

バラードの「You」も彼女のペンによる曲で、作曲能力の高さを示しています。

マリーナは感情表現が激しい歌唱スタイルではなく、むしろ抑制を効かして歌うタイプです。
その意味では、ジャズがバックボーンにある点も含めてロバータ・フラックと似ています。
「Loving You Was Like a Party」はジャズ、ニューソウル、そしてプログレッシブの
要素までを含めた、如何にも70年代中期のクロスオーヴァー風楽曲であり、シンセも印象的。

https://youtu.be/6Qwi6vTSTNc
エンディングナンバーである「A Prelude for Rose Marie~Rose Marie」。
荘厳な序章から始まる本曲ですが、本編は意外にも軽快なスウィング。しかし重厚なストリングスが
入る所など一筋縄のナンバーではありません。
男女の会話から始まり、波の音で締める。一本の映画を観ているような物語性のある作品です。
冒頭の会話はクラブの専属歌手であるマリーナが男から ” 一杯おごるよ! ” などと言われる
内容で、その流れからオープニングの「Street Walking Woman」へなだれ込みアルバムが
始まります。マリーナを劇の主人公に見立てた一種のコンセプトアルバムと呼べるかもしれません。

本作は決して好セールスを記録したアルバムではありません。しかも米本国を含め海外では他の作品
(ブルーノート移籍後初の「Marlena」など)の方が評価が高かったりするらしいです。
しかし本作は特に日本で人気が高く、09年から16年までビルボードライヴで、しかも本作の演奏陣にて
来日公演を行ったそうです。
なぜ本作が日本で人気があるのか?マリーナは抑制の効いた歌い方であり、所謂分かり易い ” 上手い歌 ”
のシンガーではありません。素晴らしい楽曲揃いではありますが、特に日本人にウケやすい、
単音のメロディが印象的な楽曲というよりも、ハーモニー・和音やリズムの重なり合いによるグルーヴが
聴きどころである作品です。
本作で検索すると、松任谷正隆さんがこのアルバムについて語っているページが出てきます。
70年代中期、本作はかなりのインパクトを与えたらしく、当時は新進気鋭の若手ミュージシャンで
あった松任谷さん達を夢中にさせたようです。つまり、決して商業的に大成功を収めた訳ではない
アルバムでありながら、松任谷さんの様な同業者や当時においてアンテナの鋭い洋楽ファン達が、
一般的には評価されづらい本作の魅力・本質を嗅ぎ取り、やがて日本のミュージックシーンを
担った松任谷さん及び年季の入ったコアなリスナー達によって名盤と語り継がれることに因り、
このアルバムが我が国において語り草になっていったのではないかと思うのです。

#135 The Closer I Get to You

79年1月13日、ダニー・ハサウェイは滞在していたN.Y.のホテルから転落して亡くなります。
享年33歳、自殺であったと言われています。生前にリリースした最後のレコードであり、
最大のヒットとなったのが、ロバータ・フラックとのデュエット「The Closer I Get to You」です。

前回取り上げたアルバム「Extension of a Man」(73年)の前に、実は映画のサウンドトラックを
手掛けています、それが『Come Back, Charleston Blue(ハーレム愚連隊)』。

上はそのタイトル曲。素晴らしいジャズテイストであり、ダニーのヴォーカルも見事。デュエットの
女性はマージー・ジョセフ。アレサ・フランクリンと並ぶほどの実力を持つとされていましたが、
アトランティック時代は芽が出ず、70年代にポップスのカヴァーなどで知られるようになりました。
本サントラでダニーはクインシー・ジョーンズと組んでいます。実はこの二人親しかったとの事。
クインシーの自叙伝の中でダニーについて触れている部分があり、そこでは思った通りの評価が
得られず苦悩していたとの記述があるそうです。本人としては入魂の力作であった
「Extension of a Man」がそれまでの様なセールスを上げられなかったのがやはりショックで
あったらしく、「Live」のヒットは本人的にはそれほど響かず、また最大のヒットがロバータとの
共作であったというのも(勿論ロバータが嫌いとかいう訳ではないのでしょうが)、ミュージシャンとしての
プライドには引っかかるものがあった様です。更に年下ではあるものの同じくニューソウルの騎手と
されたスティーヴィー・ワンダーが快進撃を続けていくのを傍目で見ていて、なぜ自分の作品は
スティーヴィーの様な評価が得られないんだ?という焦りもあったようです。
前回、「Extension of a Man」の後に表舞台から姿を消す様になったのは既述ですが、
ダニーの中ではこの様な思い・葛藤が渦巻いており、それが精神の病を悪化させていたようです。

その様な状態であったダニーを引っ張り出したのは、やはり盟友であったロバータでした。
彼女のアルバム「Blue Lights in the Basement」(77年)に収録し、翌年2月に
シングルカットされ大ヒットしたのが最初にあげた「The Closer I Get to You」です。
ポップスチャート2位・R&B1位という大ヒットを記録し、ダニーここに復活、と思われました。
ロバータは再びアルバムを一緒に作る事をダニーに持ち掛け彼も了承します。レコーディングを
始めた二人ですが、実はダニーの病はこの時点でもかなり深刻だったようです。スタッフの
話では制作中のダニーによる奇言奇行はひどいもので、たびたび録音の中断を与儀なくされたとの事。
しかし死の直前、ダニーはマネージャーと共にロバータの家で食事を取りながら、今後の作業に
ついて話をしており、その時は普通であったと言われています。
ロバータの家からホテルへ戻り、その後衝動的に15階の部屋から身を投げたというのが公式の見解です。

制作途中におけるダニーの死という困難に直面しましたが、ロバータ達はアルバムを完成させます。
それが「Roberta Flack Featuring Donny Hathaway」(80年)。ダニーが録音を終えていたのは
2曲だけだった為、ルーサー・ヴァンドロスなどに協力を仰ぎ一枚のアルバムとして仕上げました。
ダニーが残した2曲というのが上の「Back Together Again」と「You Are My Heaven」、
ちなみにダニー最後の録音は後者の方だったそうです。アルバムはポップス25位・R&B4位と
ヒットを記録し、ゴールドディスクを獲得します。
ロバータは死の直前におけるダニーとのやり取りなどを永らく語る事は無く、その件に触れられるように
なったのは比較的最近だと言われています。あまりにもショックが大きいと、おいそれとは語る事など
出来ないものなのかもしれません。

表舞台での活動期間が短かったダニーですので、ジミヘンほどではありませんが(ジミヘンはどうして
あれだけ未発表ライヴ・テイクなどがコンスタントに出てくるのでしょう?)、
その死後において作品がリリースされています。まずは80年発売のライヴ盤「In Performance」から
自作である「We Need You Right Now Lord」。「Live」に比べ地味だとか言われているようですが、
リズミックでアップテンポ、快活な楽曲である事だけがライヴの醍醐味ではありません。
オーディエンスの声がよく聴こえるのも臨場感を引き立てていると思えば気になりません。
ダニーの歌と演奏が残されている、ただこれだけで貴重なのです。

13年に4枚組の「Never My Love: The Anthology 」が発売され、当時はちょっとした話題に
なりました。既出曲から未発表曲・ライヴ音源までをダニーの足跡を辿るようにまとめられた作品。
上は未発表音源を集めたディスク2における一曲「Memory Of Our love」。ダニーの歌及び
全体の演奏はまだ手探り状態ですが、それでも、いやだからこそこの上ない程のテンション感です。
この曲が仕上がっていたら・・・

歴史にタラればはナンセンスであるのは重々承知していますが、ダニーが精神を病まずに
若くして命を絶っていなければ、その後のポップミュージックが若干でも違っていた気がします。
ジミヘンとジャニスが麻薬に溺れてなければ、ジョン・レノンが撃たれていなければ、
というのと同じ様な愚問ですけれども・・・・・
ダニーはスティーヴィー・ワンダーの様にシンセや当時において革新的な録音技術などを
用いたエポックメーキングな作風ではなく、あくまで音楽本位、悪く言えば地味な作品創りでした。
結果的には本人単独の名義ではゴールドディスクが一枚のみと、大成功を収めたとは言い難いです。
しかし、死後40年を経た現在においても、ソウル、いやポップミュージック界全体における
伝説的存在として語り草になっているのは、その本質を理解している人々が大勢いるからに他なりません。

最後にロバータとダニーが一緒に歌っている動画を、といっても現在の所二つしかなく、
どちらも出所は同じ(TVショー?)。「Roberta Flack & Donny Hathaway」に収録された
「Baby I Love You」。これを含んだもっと長い動画は画質・音質共に更に悪いのでここでは
本曲の動画だけを。二人が共に映っているだけで国宝ものですから …
今回をもってロバータ・フラック及びダニー・ハサウェイ回は終わりです。