#74 Dancing in the Street

ポピュラーミュージックにおける「バンド」の定義というのは、厳密に定められている訳では
ありませんが、概ね次の様に定義付け出来るのではないでしょうか。
・トリオ(3人)編成以上であり。
・ベースとドラムから成るリズムセクションを従え。
・残る一パートはコード楽器、つまりギターないしピアノ・キーボードのいずれかから成る事。
クリームやグランド・ファンク・レイルロード、そしてエマーソン・レイク・アンド・パーマーは
ロックにおいて言うまでもなくバンドと認識されており、ジャズではピアノトリオは数え切れない程、
またギタートリオも数は少ないですがこれもあります。しかしホール&オーツやカーペンターズを
バンドと呼ぶのは聞いたことがありません。例外として後期のジョン・コルトレーンがピアノレス
トリオという編成を好みました、つまりベース、ドラム、そしてテナーサックスという編成。
”コード楽器が無い事により空間が広がる”、評論家によればその様なサウンドであるそうです。私も
幾つかトライして聴いてみましたが、20分余りに渡ってベース・ドラムだけの上で延々とアドリブを
紡いでいくそのコルトレーン独自の音世界を、”これがジャズなんじゃ~!モードでござる~!(@∀@l|)°。” と、アタマからバネが飛び出そうになるのを必死で押さえながら理解しようとした事もありましたが、
私には向いてなかったようです・・・
前回スーパーグループについて語りましたが、グループと言うくらいなので当然バンド編成です。そして
80年代を境にそれは流行らなくなっていったという事も述べました。では、大物シンガー二人による
デュエットは?、と言えばこれは枚挙にいとまがありません。
今回は80年代における大物デュエットについて取り上げたいと思います。

”とっぱじめからこんなベタベタな曲からかあ~~~い!!(#゚Д゚)!!!! ” と、批判は覚悟の上・・・
説明不要な程の超有名曲ですね(じゃあ、するな!( `・ω・´) ……… 説明させてください。゚(´;ω;`)゚。 )。
ポール・マッカートニーとスティーヴィー・ワンダーによるあまりにも有名なデュエット曲
「Ebony and Ivory(エボニー・アンド・
アイボリー)」(82年)。
全米で7週連続No.1、その年の年間シングルチャート第4位という大ヒットを記録。楽曲はポールに
よるもので、アルバム「Tug of War」(82年)に収録。ピアノの黒鍵と白鍵のように左右に並んで
皆一緒に生きよう、つまり肌の色の違いで差別などしないで、という人種差別反対の曲。
PVでピアノに並んで歌う二人が印象的ですが、実はこれは合成の映像。スケジュールがどうしても合わず
その様な方法を取ったとの事。ただし原曲の歌入れはちゃんと二人でスタジオライヴの形で、つまりマルチ
トラックで別々に録るのではなく一緒に歌っているそうです。ハーモニーや、特にエンディングにおける
コール&レスポンス(掛け合い)などはその賜物でしょう。ビートルズ後のポールにとっては最も長く
チャートの首位を保持した楽曲となりました(ビートルズ時代は「ヘイ・ジュード」が9週連続第1位)。

お次もこれまたポールに関する曲であり超ベタなやつですが、マイケル・ジャクソンとのデュエット曲
「Say Say Say」(83年)。ポールのアルバム「Pipes of Peace」からの先行シングルとしてリリース。
大物二人による夢の競演、また当時のマイケルのスリラー人気も相まって当然の様に全米No.1ヒット。
本曲のレコーディングが始まったのは実は81年5月まで遡り、先述したポールの「Tug of War」の制作と
同時期という事になります。最終的に完成し終えたのは83年2月。プロデュースがジョージ・マーティン、
エンジニアがジェフ・エメリックと、要はビートルズの制作陣によるもの。
本曲制作中のいつ頃の事かはわかりませんが、マイケルは英国滞在中(ロンドンのスタジオだった為)は
ポールの家に泊まっていて(勿論リンダも一緒=当時のポールの奥さん、ウィングスのメンバーでもある)、
これを機に大変親密になったそうです。その滞在中におけるある晩の夕食にて、ポールはマイケルに対し
楽曲の版権類を見せながら、『こいつらが金を生むんだ。誰かが演奏したり、ラジオで流したりする毎に
金を稼ぐことが出来るから』と話したそうです。何か大変生々しい話でポールの印象が悪くなりそうな
逸話ですが、ミュージシャンの生業として割り切って考えれば当たり前のことでしょう。この晩の話が、
後にマイケルがビートルズの楽曲の版権を買い取ることにつながったのは間違いありません。

https://youtu.be/9G4jnaznUoQ
最後はミック・ジャガーとデヴィッド・ボウイによる「Dancing in the Street」(85年)。
最初に吹き込んだのはモータウンのガールグループ マーサ&ザ・ヴァンデラス(64年)。彼女たちの
代表曲であり、モータウンを象徴する楽曲の一つ。これまで色々な人達にカヴァーされてきました。

ミックとボウイという一人でさえ”濃ゆい”シンガーが組んだら一体どうなるの?と、思ってしまいますが
意外にもそれが”中和(?)”されてなのか、クドさはそれ程感じずに絶妙なロック&ソウルナンバーへと
仕上がっています(全英1位・全米7位)。本曲は同年の英国ミュージシャン達によるチャリティー
『ライヴ・エイド』の為の企画ものでした。当初の計画ではボウイはロンドン(ウェンブリー・
スタジアム)、ミックがフィラデルフィア(ジョン・F・ケネディ・スタジアム)の異なる二会場で
衛星同時中継で共演する予定だったらしいのですが、0.5秒のディレイ(遅れ)が生じてしまう為
その計画は断念することになってしまいました(代わりにPVを流した)。

スーパーグループにしろ大物同士のデュエットにしろ、話題性が先行してしまい、時としてその中身が
正しく語られる事が少ない場合もありますが、チャリティーなどに関してはその話題性・注目を集める
方法としてはうってつけの面はあるでしょう。ちなみに欧米でのこうしたチャリティーは如何に
拘束時間が長くとも出演者に報酬が支払われる事はまず無いそうです。噂に聞いた程度なのですが、
チャリティーなのに出演者へ報酬が支払われるイベントが毎年あり、それは主催会社もしっかりと利益を
得ているチャリティー番組であるとの事(走る人がいるとか何とか…どこの国の話かは知りませんよ…)。
しかしそれではチャリティーの意味が無いのでは…(コンコン)おや?誰か来たようだ・・・

#73 Sea of Love

エイジアやフォリナー回にて何気にスーパーグループという言葉を使いましたが、
調べてみると現在では死語になっているそうです。…知らなかった… (゚Å゚;)━?!
既に実績・知名度のあるミュージシャンやバンドに在籍していた人たちが結成したバンド、
というような意味合いで、私のようなオッサン世代では普通に使っていた言葉ですが、
80年代辺りを境にこの呼称はあまり好ましい言い方としては使われなくなっていったとの事です。
古くはクリーム(エリック・クラプトン回#8ご参照)、クロスビー、スティルス、ナッシュ&ヤング、
そしてエイジアあたりが最も有名なところだったかと思います。

私のリアルタイムだった80年代、エイジア以外でもスーパーグループと呼ばれたバンドはありました。
まずはパワー・ステーション。飛ぶ鳥を落とす勢いだったデュラン・デュランのジョン・テイラー(b)と、
アンディ・テイラー(g)が長年尊敬していたシンガー ロバート・パーマーと結成したバンド。
当時アイドルバンド的な扱いをされる感が否めなかったデュラン・デュランですが、ジョンとアンディは
それを嫌っていたのか、もっと硬派なロック・ファンクを演りたいと願ったのがきっかけとか。
プロデュースは「Le Freak(おしゃれフリーク)」(←しかしこの邦題は何とかならなかったのか…)等の
ヒットで知られるシックのバーナード・エドワーズ。そのつながりでドラムはトニー・トンプソンに。

それ以前は所謂”Musician’s Musician”、玄人受けの存在であったロバート・パーマーを表舞台へ
引っ張り出したジョンとアンディの目論見は見事に当たりました。上記の1stシングル
「Some Like It Hot」を含むアルバム「The Power Station」(85年)は米で6位の大ヒット。
2曲のTOP10シングルを輩出し大成功を収めます。またアイズレー・ブラザーズの
「Harvest ForThe World」やT・レックス「Get It On」のカヴァーも話題となりました。
”大人の男のフェロモン”がプンプンするような苦み走ったパーマーのヴォーカルは今聴いても
惹きつけられます。その後にリリースしたソロアルバム「Riptide」(85年)からは全米No.1
シングル「Addicted To Love(恋におぼれて)」を生み出し、その印象的なPVも含めて大ヒットし、
グラミー賞を受賞する事となります。
トニー・トンプソンのドラムも一度聴いたら忘れられないグルーヴと音色です。黒人のうねるリズムと
言うのはこういうビートを指すのでしょう。念の為言っときますが生音でこんなドラムの音はしません。
サウンドエフェクトがあってはじめてあの様な音になります。具体的にはゲートリバーヴと
フランジャー、あとは気合(?)でしょうか… 本作からもう一曲「Communication」。

エイジア以降で最も話題になった大物同士の組み合わせと言えばこれに尽きるのではないでしょうか。
ハニードリッパーズ「Volume One」(84年)。レッド・ツェッペリンのジミー・ペイジとロバート・
プラント、ジェフ・ベック、シックのナイル・ロジャースという顔ぶれで、よくぞこれだけの面子を
揃えたものだと思いますが、それもそのはず、このバンドは当時のアトランティックレコードの社長が
自身の好きな50’sの曲でレコードを作りたいと企んだのが始まり。ハニードリッパーズというのは
元々はプラントがツェッペリン解散以降に率いていたバンド名だったのですが、このバンドが50’sの
スタンダードを演っているのを知っていた社長が、これだけのビッグネームを集めて企画モノとして
プラントのバンド名義にてミニアルバムを作らせた、という事情だったようです。
ツェッペリンやジェフ・ベックらしい音楽を期待して聴いたら肩透かしを喰います。コンセプトが
オールディーズを楽しんで演ろう、という様なものなので当然でしょう。
奇しくも最初のパワー・ステーションと同様にシックのメンバーが関わっていますが、70年代における
ファンク・ディスコミュージックの立役者であった彼らが、80年代に入って一世を風靡したヒップホップ、
ダンサンブルな音楽の形成に最前線で寄与した事が、特に80年代前半~半ばにかけて皆がこぞって
彼らの力を借りようとした為のようです。もっともハニードリッパーズは決してファンクやヒップホップの
要素があるとは思えませんが、それが時代の流れだったのでしょう。

フィル・フィリップスによる59年の大ヒットナンバー「Sea of Love」。ハニードリッパーズ版も
85年に全米3位の大ヒットを記録します。プラントのツェッペリン解散後における最大のヒットと
なったのですが、実はこれが彼にとってジレンマだったようです。本曲の様な甘い曲を得意とする
シンガー、とイメージが定着することを恐れたとのことです。
意外と目立たない事ですが、実は本作に参加しているドラマーは現在ではジャズ・フュージョンドラマーの
大御所デイヴ・ウェックルです。当時は新進気鋭のN.Y.若手セッションドラマーとして、オマー・ハキム、
デニス・チェンバース達と共に、スティーヴ・ガッドなどの次世代を担うドラマーの一人でした。
先述の通りオールディーズのカヴァーなので、超絶テクニックなどを聴くことは出来ませんが、
シンプルながらツボを押さえた演奏は見事。一流の人はシンプルなのをプレイしてもやはり一流です。

エイジア回でも述べた事ですが、スーパーグループというのは企画モノの側面があり、またビッグネーム
同士でエゴのぶつかり合いになる事が少なくない為、短命で終わることが常です。
ハニードリッパーズは始めから単発の企画だった様なので当然ですが、パワー・ステーションも上記の
アルバム1枚でいったん解散してしまいます(96年に再結成し、アルバムをリリース)。
演奏者の力量に因る部分が大きい即興演奏主体のジャズ・フュージョンは別として、それ以外の
ポピュラーミュージックについては演奏技術に秀でたメンバー同士が集まったから優れた音楽が
出来るとは限りませんし、また卓越した作曲・編曲能力を持つものが組んで曲を作れば必ず名曲が
作られるかという訳でもありません。スティーヴィー・ワンダーとエルトン・ジョンが共に作曲すれば
この世のものとは思えない素晴らしい楽曲が生まれるものでもないでしょう。むしろ”船頭多くして
船山に登る”になってしまう事の方が多いのかも。スーパーグループがやがてロック・ポップス界から
姿を消していったのも、そのような理由からだったのかもしれません。

#72 John Wetton_2

ジョン・ウェットン回その2。ウェットンの性格はポジティブで人当たりの良いものだったと
言われています。前々回でも書きましたが、仕事を断るという事を知らない、というか頼まれると
イヤと言えない性格であったそうです。勿論仕事好きというのが一番の理由でしょうが、前回述べた
バンド遍歴(70年代だけであの量…)はそれらに起因するものかと思われます。
しかしウラを返すとその性格はルーズで大雑把、ともいえるものです。アルコール依存症のため
厳格な性格のスティーヴ・ハウとソリが合わずエイジアを一時離脱した事は書きましたが、
U.K.においてもビル・ブラッフォードとアラン・ホールズワースの”神経質組”とはアルバム1枚で
袂を分かっています。もっともU.K.の場合は目指す音楽性の違いが大きな原因でしたが。
また後年はだいぶ太っていましたが、これも自己管理の甘さからくるものだったのかもしれません。

シンガーとしてのウェットンにスポットが当てられる機会は意外になかったと思います。
先ずは親しみやすい方から。エイジアのアルバム「Alpha」(83年)から、全米34位を記録した
同アルバムからの2ndシングル「The Smile Has Left Your Eyes(偽りの微笑み)」。
ドラマティックでハートウォーミングなバラードである本曲は、1~2枚目のアルバムを通じて
唯一彼が作詞作曲全てを手掛けたもの、つまりウェットン成分100%の曲なのです。
彼は美声という訳ではなく、割と野太い声で朗々かつ朴訥と歌う男性的な歌唱スタイルです。
私見ですが本曲の様なバラードは彼の様な歌い方で丁度バランスが取れているのではないかと思います。
つまり、あまり過度な感情表現と所謂”美声”で歌われると『クドさ』が前面に立ってしまうのです。
オフィシャルPVは妻子と別れた男性のストーリー仕立てのもの。母親に引き取られた娘が途中で
車を降り、パリの街中で誤って川(セーヌ川?)に転落してしまい両親は娘にこの様な行動を取らせて
しまった自分達を責め嘆いて終幕、と思いきや娘は最後にエイジアのメンバー達の前に現れる、というオチ。
オフィシャルプロモなので歌詞もその様な内容なのだろうと信じて疑わなかったのですが、今回本曲の
和訳を色々な方がされているのを調べて改めて気付いたのですが、ビデオの内容と歌詞があまり合ってない
ようです。”父さん母さんのせいで君(娘)に辛い思いをさせた、その瞳から笑顔が消えてしまった”の様な
歌詞かと思い込んでましたが、多分PVを観ていなくて純粋に訳だけをした方なのでしょうけれど、
”一度は僕の元を去ったのに、また戻ってくるなんて…” 勿論娘に対してという訳ではなく恋愛の対象
(元妻or元カノ)
に向けた言葉です。拙い英語力で挑んでみましたが挫折しました………(´Д`)
ホール&オーツ回の#61で書きましたが、MTVの申し子のように思われていたホール&オーツが
実は当時それを快く思っていなかった。あまりに忙しすぎたというのもあったのでしょうが、
指定された日に撮影の為スタジオに行くと、本人たちの意図していなかった愕然とするような
ひどい内容のPVを撮られ作られてしまった、という事があったそうです。
本曲はそこまで酷くはないと思いますが、作詞者ウェットンの意図する所と異なるものに仕上がって
しまったという可能性も考えられます。

お次は”親しみにくい方”を。やはり何と言ってもこれでしょう、キング・クリムゾン「Red」の
エンディングナンバー「Starless」。クリムゾン回の#17で取り上げましたが、クリムゾン時代に
おける彼のヴォーカルでいずれか一つと言われたらこれに尽きます。本曲については#17を
ご参照の程(お願いです、ちょっとでイイですから読んでください…。゜:(つд⊂):゜。)。
まるで葬送曲を思わせるこの歌は、ウェットンのヴォーカルがあったればこそ。感情を抑えた
淡々とした歌唱が本曲をより引き立てます。12分30秒の内、ヴォーカルパートは冒頭の4分半ほど
ですが、是非とも最後まで聴いてみて下さい。インストゥルメンタルパートまでを全て含めて「スターレス」なのです。感動的なまでの絶望感という言葉があるならば、それは本曲の為にある言葉だと思います。

イエスのクリス・スクワイア、グレッグ・レイク、そしてキース・エマーソンと、ブリティッシュロックの
巨人達が相次いで亡くなる中、昨年1月にジョン・ウェットンもこの世を去りました、享年67歳。
勿論これらの事に因果関係などがある訳ではなく、皆そのような年齢だったので致し方ない事なのですが、
やはり自分が長年聴いてきた人達がいなくなってしまうのは寂しいものです。

上の写真はウェットンが亡くなる直前(16年12月らしいです)、リサ夫人と一緒にロバート・フリップを
訪ねた時のもの。ウェブ上の日記にウェットンへの追悼の言葉と共に上記を含む写真があげられています。
その激やせぶりから分かる通り、病状も思わしくなかったでしょう。おそらく会えるのはこれが最期と
フリップを訪ねたのでしょう。クリムゾン回でも書いたことですが、失礼を承知で言うと、フリップは決して
人間味溢れる温かい人柄という訳ではないと言われています。クリムゾン解散時は非常に険悪な人間関係
だったというのも既に述べた通りです。しかしどうでしょう、特に右側の二人で写っている写真での笑顔は。
一緒に組んでいた時期ははるか昔であり、また二人とも歳を取った事なども勿論あるのでしょうが、
性格的相性などはともかくとして、やはり根底にあるのは音楽家として互いに認め合っていた仲だからこそ、
最期はこのように笑って一緒にいることが出来たのではないでしょうか。

最後にご紹介するのはベーシスト、シンガー、そしてコンポーザーとして、全てを含めた音楽家としての
ジョン・ウェットンを最も知る事が出来ると私が思う曲。彼はプログレ然とした変拍子などのテクニカルな
プレイから、エイジアやソロアルバムでのポップな面まで、様々な顔を持ち合わせている、一筋縄では
その音楽性を括る事が出来ないミュージシャンです。その間を取ったなどと言うと中途半端な感じに
聞こえてしまうかもしれませんが、難解と言われるプログレッシヴロックからポピュラリティを
得たポップミュージックへの移行期とも言えるU.K.の2ndアルバム「Danger Money」(79年)から
「The Only Thing She Needs」。今聴くと難しい、と思われるかもしれませんが、これでもまだ
当時はポップなプログレを目指して作った方なのです。展開が劇的に変わるアレンジの素晴らしさと、
超絶技巧を尽くした演奏でありながら、エンターテインメントとしての音楽性も失わない本曲は、
エディ・ジョブソンとテリー・ボジオという圧倒的な技術・音楽的素養を持ったプレイヤー達と共に、
この時点でウェットンが思い描いていた音楽が見事に具現化されたものだと思います。
商業的には決して振るわなかった本作ですが、これらは後のエイジアにおける成功の布石となったのです。
本曲だけのいい動画がないので、どうせならアルバム丸ごと上げます。「The Only Thing She Needs」は
13:14~21:07ですが、どうせなら全部聴いてみて下さい。その価値がある作品です。

https://youtu.be/nX7XrfR3e3Q

#71 John Wetton

前回取り上げたエイジアの中心メンバーであったジョン・ウェットン。私も中学生の頃から
長年に渡ってキング・クリムゾンやエイジアなどでその歌とベースを聴いてきたのですが、
ミュージシャンとして、また人間として能動的に詳しく知ろうとした事はありませんでした。
ベースとドラムはリズムセクションとしてどうしても裏方に回る役割ですが、自分がドラマーなので
ドラムについてはそれなりの知識は持ち合わせていますけれども、同じ裏方のベーシストには
なかなか意識が向かなかったというのが事実です。昨年1月に惜しくも亡くなってしまいましたが、
今回からジョン・ウェットンの音楽、及びその人間性などについても書いてみたいと思います。

49年、英国ウィリングトン生まれ(ウィリングトンというのはイングランドの丁度ど真ん中辺りに
位置する町のようです)。ブリティッシュロック、特にプログレッシヴロックと呼ばれるカテゴリーに
おいて様々なバンドに在籍、またはサポートメンバーとして参加した英国ロックの生き字引的な人でした。
彼のキャリアをデビューした70年頃から前回のエイジア、つまり80年代前半位までだけでもちゃっちゃと
述べてみますが、それでもかなりのボリュームになります。どれだけ節操ない…もとい仕事好きだった
人なのかが垣間見えるのではないでしょうか。忙しい人はザックリとだけ読んで頂ければ・・・

初めてその名が世間に認知されるようになったのはファミリーに参加した事によって(71~72年)。
米では全く売れなかったようですが、本国イギリスではアルバムがTOP10内に入るほどの人気バンド
でした。ウェットンはアルバム2枚にてプレイしています。72年にキング・クリムゾンへ加入。ロバート・
フリップらしく(?)3年間で解散、その後ロキシー・ミュージックへ参加しますがツアーのみで
スタジオ盤は残していません。直後にユーライア・ヒープへ加わり2枚のアルバムを。そして超絶
ハイテクバンド U.K.を結成しますがこちらもスタジオアルバムは2枚のみと短命で終わります。その後も
ジェスロ・タルのサポートをしたり、自身の初ソロアルバムもリリース。80年、一時だけウィッシュボーン・アッシュに在籍しアルバム1枚を、そして前回取り上げたエイジアで世界的な成功を収める事となります。
約10年間だけでこのバンドの変遷と仕事量です。実際彼を”ベースを持った渡り鳥”と呼ぶ人もいます。

彼の名を一躍有名にしたのはキング・クリムゾンに参加した事だと一般には言われています(72~74年)。
実際そうだとも思うのですが、しかしチャートアクションだけを見ると、この時期のクリムゾンにおいては
3枚のスタジオ盤とライヴ盤1枚を残していますけども、「太陽と戦慄」(73年)が英でぎりぎり20位、
米ではどれもTOP40に入る事は無かったのです。無論レコードセールスが全てだ、などと言う気は
毛頭ありませんですし、むしろその逆で、売上的には決して振るわなかったクリムゾンが50年経った
今日でも語り継がれているのは商業的成功だけが全てではないという事を物語っているという証拠です。
しかしリアルタイムの70年代前半において、米や日本において彼の知名度は如何ほどだったのかと?…

#15~17でキング・クリムゾンは取り上げましたが、彼のベースプレイでまず真っ先に浮かんでくるのは
何と言ってもこの曲「Red」。当時におけるウェットンの使用機材はフェンダー・プレシジョンベースと
ハイワット製アンプ、そしてエフェクターを使って歪ませることもあったとの事。本曲における波のように
押し寄せる重低音は35年以上聴き続けていますがいまだに圧倒されます。

その奏法はツーフィンガー・スリーフィンガー・ピック弾きと多彩で、時に所謂”チョッパー”(これは
和製英語で、欧米ではスラッピング(slapping)と言うそうです)とは異なる、人差し指から薬指までの
3本ないし2本を弦に叩きつけるような奏法を用いる事もあったそうです。
ロキシー・ミュージックへ参加時の下記の演奏「Out of the Blue」にて、ベースとドラムによる
ブレイクが2回ありますが、この時に低音弦がビビり・割れている音がそうではないかと思っています。

60年代風ソウルミュージックをさらにテクニカルにしたようなプレイは圧巻。先述のブレイク時に
おけるエフェクターのかけ方も非常に効果的でインパクトがあります。

最後にもう一曲、U.K.から。本バンドはどれを取っても凄まじいプレイですが、来日時のライヴアルバム
「Night After Night 」(79年)より「Presto Vivace and Reprise~In The Dead of Night」。
1stアルバムの
曲ですが、結成メンバーである超絶技巧ギタリスト アラン・ホールズワースの脱退により
トリオ編成となり、
ドラムもブル・ブラッフォード(#20~21ご参照)からテリー・ボジオに代わりました。
ウェットンのプレイのみならず全員(といっても3人、それでこの演奏…)が圧巻ですが、特筆すべきは
この変拍子の難曲を歌いながら演奏しているという事。スタジオ盤では別々に録っているのでしょうが
(ひょっとしたら弾きながら歌っていたりして…)、この辺りがウェットンの地味に凄い所です。

次回はウェットンのシンガーとしての側面、またその人生についても書いてみたいと思います。

#70 Heat Of The Moment

前回までのフォリナー回における枕の話は82年の年間シングルチャートがきっかけでしたが、
同年の年間アルバムチャートに目をやると、3位がフォリナーの「4」、2位がゴーゴーズの
「Beauty and the Beat」(ガールズバンドのはしりの様な存在。ベリンダ・カーライルを
中心とした5人組で、ベリンダは解散後ソロでも活躍)、そして1位が今回のテーマであり、
この年のロックシーンを席巻したスーパーグループ エイジアです。

 

 

 


#15~17で取り上げたキング・クリムゾン、#18~19でのイエス、そしてエマーソン・レイク・
アンド・パーマー(EL&P)といった英国プログレッシヴロックを代表するバンドの
メンバー達が集結したバンド。プログレというものは難解で冗長な音楽、と感じる人達が
少なくなかったのですが、エイジアはそれを解消して、語弊はありますがあえて言うと
”わかりやすく聴きやすいプログレ”を目指したと言えば良いでしょうか。

82年3月、1stアルバム「Asia(詠時感〜時へのロマン)」をリリース。上記の1stシングル
「Heat Of The Moment」と共に大ヒットを記録。前述の通り同年最大のヒット作となります。
世間一般に受け入れられたという事は、昔ながらのコアなファンが好む重厚なプログレでは
なくなったという事。実際かなり批判的な評価もあったようですが、80年代という時代が
そうさせたのでしょうか、#22~24で取り上げたジェネシス、83年にイエスが発表した「90125
(ロンリー・ハート)」などと共に、80年代になってよりコンパクトかつポップになった音楽は、
それぞれ彼らがそれまでに発表したどの作品よりも好セールスを上げる事となりました。
私も鼻血が出るほどプログレが好きな人間であり、好んで聴くのは70年代の彼らの音楽ではありますが、
80年代のそれらもそれなりにちゃんと好きです(なんか変な言い方ではありますが…)。

本作にて、というよりエイジアで私が1,2を争うベストトラックと思っているのが、上記の
「Wildest Dreams」。後半にかけてのスティーヴ・ハウのギターとカール・パーマーのドラムによる
テンション感が見事です。特にエンディング近くにおけるカールのドラムは完全にハシっていますが
これは意図的なものでしょう(カールはもともとハシるタイプのドラマーですが・・・)。

83年7月、2ndアルバム「Alpha」を発表。本作もプラチナディスクを獲得し、普通であれば十分な
ヒットなのですが、前作があまりにも売れ、また話題になり過ぎてしまった為、過小評価されている
きらいがあるように思われます。先に述べた1,2を争うベストトラックと思うもう一つが本作に
収録の「The Heat Goes On」。中間部のキーボードソロはバグルス~イエスと在籍していた
ジェフ・ダウンズによるものですが、まるでナイスやEL&Pにおけるキース・エマーソンのプレイを
彷彿させる様な熱く素晴らしいソロです。エマーソンを意識したのかな?と思わせるほどの…

https://youtu.be/Hbw3HA3lMMU
ユーチューブにて本曲を検索すると83年の武道館公演が出てきます(当時はビデオ・レーザーで発売)。
オープニングナンバーだったらしく、MCの後に本曲の演奏が始まります。ちなみにこの時は
ジョン・ウェットン(vo、b)が一時的にバンドを離れていたため、グレッグ・レイクが参加しています。

ウェットンが離脱していたのはハウと確執が深まったためと言われています。実はウェットンが重度の
アルコール依存症であって、神経質な性格であったハウとは衝突が避けられなかったのでしょう。
しかし今度はウェットンとダウンズがイニシアティブを取り出し、ハウが蚊帳の外に置かれ始める様になり、
やがて脱退に至ります。85年発表の3rdアルバム「Astra」は新ギタリストを迎えて制作されましたが、
以前ほどのセールス・評価は得られずに、やがてバンドは活動を休止する事となります。

エイジアというバンドはイエス、EL&Pが共に解散状態であった隙間の時期に、これまたフリーの
状態であったウェットンを(ウェットンはもともと仕事を断ることを知らないのか、というくらい
色々なバンド、セッションへ参加する人でしたが…)、マネージメントサイドが上手く引き合わせ、
まとめ上げた。言い方に少し語弊はあるかもしれませんが、企画ものバンドの側面があったように思います。短命に終わったのもある意味必然だったのかもしれません。その後ダウンズ主導にて再結成がなされ、
流動的ではありますが結成メンバーが集まる機会もあったようです。しかし17年1月、ウェットンが
亡くなりオリジナルメンバーでの演奏を聴くことは二度と叶わなくなりました。

重厚なプログレッシヴロックを軽い音楽へと貶めた、いや、この難解な音楽をポピュラリティを
得るまでに昇華せしめた。評価は分かれるところですが、世にプログレという音楽への門戸を
広く開いた立役者である、という事は間違いないと思います。

#69 Tooth and Nail

前回も触れましたが、イアン・マクドナルド アル・グリーンウッドが脱退した事により
(実際ははじめのうちはレコーディングに参加していた)、4thアルバム「4」からその音楽性も
変化したと一般には言われます。前作がロック色の強いアルバムであったことと、シングルヒットした
「Waiting for a Girl Like You(ガール・ライク・ユー)」の印象が強いせいもあってか、ポップに
なった、バラードで売れ線を意識するようになったなど、毎度の如く(特に日本の一部の評論家による)
批判的な評価がなされたそうです。二人の脱退が影響を及ぼした事は間違いありませんが、
その音楽が軟弱になったなどとは私は全く思いません。

前回の枕の部分で話に出した「ガール・ライク・ユー」のチャートアクションについてですが、ある意味
No.1ヒットとなるよりもかえって後世に語り継がれる結果となったのかもしれません。ちなみに
2位どまりだったのはビルボードとキャッシュボックスであり、ラジオ&レコードでは1位を記録していて、
逆にオリビア・ニュートン・ジョンの「フィジカル」が2位どまりだったそうです。

 

 

 


フォリナーにとって最大のヒットにて代表作「4」。本作について昔は1000万枚以上のセールスを
記録したと言われていて、現在本作について検索してみるとその売り上げは1500万枚に及んでいる
との記述が幾つかのサイトで見られました。80年代で既に1000万以上だったのだから、今日ではその位のセールスに達していてもおかしくはないかと私も思っていたのですが、調べてみるとこの数字には疑義がある
事が判りました。1500万枚という数字の元になったのは、日本版ウィキのフォリナーに関するページに
記述されているダリル・ホールのコメントの様です。#58でも取り上げた「プライベート・アイズ」を
レコーディングしている時期に、隣のスタジオでフォリナーも「4」の制作に取り掛かり始めたらしく、
ホール&オーツが録音を終えツアーに出て、また同じスタジオに戻り次作の制作を始めた時点でも、
彼らは隣でまだ「4」のレコーディングを行っていた。しかしそれは自身達の「プライベート・アイズ」の
15倍も売れたのだけれど… つまりそれだけ時間がかかった作品の様だったけど、自分達よりも爆発的に
売れたんだけどね、というちょっとした笑い話。このインタビューがいつ頃、何処でのものなのかは調べても
判りません。「プライベート・アイズ」もプラチナディスク(米では100万枚)を獲得していますので、
その15倍という事で1500万枚という売り上げの根拠になったのだと思います。このコメントが本当に
あったものだとすれば、ダリルが単に間違っていただけで、その位「4」はバカ売れしたという例え話です。
しかし英語版のウィキを見ると、1500万枚はおろか1000万以上という記述もなく、あるのは
RIAA(全米レコード協会)が認定した”6 Platinum”(つまり600万枚)の記述です。
ウィキも絶対ではないので、念の為RIAAのサイトに行って確認しましたが(物好きだね…(´・ω・`))
91年8月に『6x Multi-Platinum』と認定されていますので、これは信頼できる数字でしょう。
欧州各国では英での30万枚を筆頭に数十万から数万枚(ヨーロッパではこれでも大ヒットです)のセールス
ですので、1500万は勿論のこと1000万枚というのも怪しくなってきます。実際は世界中で
700~800万枚といったところだと思われます。それでもビッグヒットには変わりませんが・・・

84年12月、「Agent Provocateur」を発表。1stシングル「I Want To Know What Love Is」が
初の全米No.1シングルとなります。「ガール・ライク・ユー」の無念を晴らしたと言った所でしょうか。
本作は基本的に前作の流れを汲むもの。しかし81年と84年、たった3年の差ですがこの時期ポップス界は
楽器の音色・レコーディング技術に関して目覚ましい変化が起こっていたことはこれまでの記事でも
触れてきましたが、本作も例外ではなく特にシンセやドラムの音色がこの時代らしいものになっています。
1stシングルがバラードだったこともあってか、先述の様な評論家達による批判がこの時もあったように
記憶しています。人の創ったものにケチをつけるだけのカンタンなオシゴトです(´・ω・`)………

https://youtu.be/Vu8jxYhAb2w
オープニング曲「Tooth And Nail」。骨のある硬派なロックナンバーです、売れ線とかほざいていた
人達の気が知れません。もう一つガッツリとしたロックチューンを、A面ラスト「Reaction to Action」。

https://youtu.be/ihEOu9a3T4I
ミック・ジョーンズは決して速弾きを得意とするテクニカルなギタリストではありませんが、硬質で
ありながら粘り気の様なものも併せ持つ非常に個性的なプレイヤーだと思います。この点では
AC/DCのアンガス・ヤングに通じるところがあるように感じています。どちらもギブソン使い
(ミックはレスポール、アンガスはSG)という共通点もあり、パワフルなトーンはそれに起因する
所も大きいでしょう。そういえばギブソンは破産してしまいましたね、無理な事業多角化が裏目に
出たらしいですが、ギター事業は継続するようです。高くて手は届きませんが………(´Д`)

これだけのビッグセールスを誇ったフォリナーですが、よく同じジャンルにカテゴライズされる
ジャーニー、スティックスなどと比べると日本での知名度はいまいち低いものでした。
80年代までは情報源が
雑誌・ラジオ・テレビと限られていたため、それらで取り上げられないと
売れないという側面が
あったためでしょう。
オリジナルメンバーはミックのみとなりましたが、現在でもフォリナーは現役です。40年以上に
渡り一度も解散せず活動を続けており、ビーチ・ボーイズ、ローリング・ストーンズが
ロック・ポップス界における現役最古参ではありますが、フォリナーは彼らに次いで継続した活動を
歩んできた数少ないバンドでしょう。懐メロを期待するリスナー向けのバンド、の様な酷評をする
人達もいますが、続けても続けなくてもケチをつける人はいつの世にもいるものです………
懐メロ、大いに結構! 時が経てばどんな最先端でもいつかは懐メロになる日が来るのですから。

#68 Feels Like the First Time

前回の80年代に活躍した女性シンガー回にて、奇しくも80年と81年の年間シングルチャートNo.1に
ついて触れました(ブロンディとキム・カーンズ)。そして82年の年間シングル1位も女性シンガーに
よるものでした。言わずと知れたオリビア・ニュートン・ジョン最大のヒット、ビルボードで9週に渡って
(10週という説もあり)首位を独走した「Physical(フィジカル)」。あまりにも有名な曲なので
今更説明の必要もないでしょうし、また今回取り上げるのは本曲やオリビアについてではありません。
この頃の洋楽にある程度詳しい人なら既知の事でしょうが、「フィジカル」に阻まれて1位になれず、
史上最も長くチャートの2位に甘んじた(悲劇の?)曲というのがあります。フォリナーによる
81年発表の「Waiting for a Girl like You(ガール・ライク・ユー)」がそれです。

 

 

 


フォリナーは76年、N.Y.にて結成されたバンド。イギリス人とアメリカ人それぞれ3人ずつ、
6名から成るグループで、バンド名の「Foreigner」(=外人・よそ者)はそれに由来するもの。
#15~17で取り上げたキング・クリムゾンの結成メンバーであったイアン・マクドナルドや
ミック・ジョーンズ(g)らの英国側と、ルー・グラム(vo)をはじめとする米国側の混成バンド
でしたが、イアンをはじめとして各々が既に活躍の実績があったので、所謂”スーパーグループ”と
結成当時は持て囃されたそうです。

https://youtu.be/qHDy_b33cCQ
77年、1stアルバム「Foreigner(栄光の旅立ち)」にてレコードデビュー。上記のシングル曲
「Feels Like the First Time(衝撃のファースト・タイム)」と共に大ヒットし、バンドは
順風満帆の出発となりました。やはりイアン・マクドナルドの影響からか、初期のフォリナーには
プログレッシヴロックの香りが漂っています。これは2nd以降は薄れていき、ミックとルーが
イニシアティブを取るようになるにつれてイアン色は影を潜めていき、やがて脱退に至ります。
2ndアルバム「Double Vision」(78年)は1stを上回るセールスを記録し、バンドは更に
上り調子に。本作からシングルカットされた「Hot Blooded」(全米3位)、「Double Vision」
(全米2位)も共に大ヒット。その人気を決定的なものとしました。

https://youtu.be/oxKCPjcvbys
3rdアルバム「Head Games」はタイトなロック色を強めたアルバムとなり、これまた大ヒット。
本作を最後にイアンとアル・グリーンウッド(key)が脱退したと一般には言われていますが、
実は二人は、次作でバンド最大のヒットとなった代表作「4」のレコーディングに途中までは
参加していたそうです。本作から「Dirty White Boy」、多分口パクですが・・・

https://youtu.be/81-ph0YYLOE
この様に、70年代の彼らは当初においてはプログレ色も併せ持ったロックンロールバンドであり、
次第にその音楽性はタイトかつハードなロックへと移り変わっていきました。やがてフォリナーは
「ガール・ライク・ユー」に代表作されるバラードがシングルとしてヒットしたこともあり、特に日本の
一部の評論家・ライターと称する人物達から、バラード重視の売れ線バンドの様なレッテルを張られる
事が多々ありました。この点においてはジャーニーなどと同じく不当かつ無礼な評価がなされていました。
ロックバンドがバラードを作る事が悪いなどと微塵も思いませんし、そもそも商業音楽において売れるのを
意識する事を否定していたら、その音楽自体が成立しません。80年代までは情報が限られていた事もあり、
先の評論家と言われる人物たちの影響を受けてしまう事がなかなか避けられなかったのですが、
インターネット時代になり彼らの評価が非常に偏った、言ってしまえばただ彼らの好みに基づくものだった
のだということに気づく人が大勢を占めるようになって、現在ではさすがに先述の様な不当な評価を
鵜呑みにする人は減ったようです。結局は聴き手がそれぞれ自分で判断すれば良いのです。

70年代のフォリナーの音楽が最も端的に表れていると私が思うのが、2ndに収録された「Hot Blooded」。
私の世代だと82年にリリースされたベスト盤「Records」
のエンディングに収録されたライヴヴァージョンが印象に残っています。本盤に収録された演奏がいつのものなのか、調べても結局わかりませんでしたが、
記憶の限り下の動画が一番近い様な気がしますので今回はこちらを。81年ドイツでのライヴという事なので、時期的にもこの頃だったのではないかと勝手に思っています。ライヴならではのテンション感が素晴らしい。

https://youtu.be/PrN0IzU5PSs
思ったより長くなってしまい、今回は70年代についてまでしか書くことが出来ませんでした。
なので2回に分けます。次回は80年代に入ってからのフォリナーについてです。

#67 Girls Just Want to Have Fun

前回までのジェフ・ポーカロ及びTOTO回にて、ジェフとスティーヴのポーカロ兄弟が
ジャズ界の”帝王” マイルス・デイヴィスと交流があり、TOTOのアルバムにおいてマイルスが
プレイした、という事は書きました。80年代のマイルスはロック・ポップスの曲を積極的に
取り上げていました。スティーヴ・ポーカロがマイケル・ジャクソンへ提供したビッグヒット
「ヒューマン・ネイチャー」、#54で触れたスクリッティ・ポリッティの「Perfect Way」等。
特にヒューマン・ネイチャーと共にステージでも好んで演奏していたナンバーがあります。
今回取り上げる、シンディ・ローパーが83年にリリースした「She’s So Unusual(当時の
邦題は『N.Y.ダンステリア』)」からのNo.1ヒット「Time After Time」がそれです。
今回はシンディをはじめ、80年代に活躍した女性シンガー達を取り上げてみたいと思います。
80年代にデビュー及び活躍した女性シンガーと言えば、マドンナ、ホイットニー・ヒューストン、
ぎりぎり80年代後半にデビューしブレイクしたカイリー・ミノーグなどが挙げられると思いますが、
先に言っときます、彼女たちは取り上げません… ━(# ゚Д゚)━なんでやねん!! と言われても
しようがありません。私が彼女たちについて詳しくないからです・・・

シンディは1953年、ニューヨーク生まれ。決して恵まれた少女時代を過ごした人ではありません、
この生い立ちが彼女の歌にある、明るいのにそこはかとなく哀愁を感じさせる要素なのかと私は
勝手に思っています。音楽の道を志してからも決して順風満帆な道のりではありませんでした
(詳しくはウィキ等をご参照)。当アルバムから翌84年にシングルカットした上記の
「Girls Just Want to Have Fun(当時の邦題は『ハイ・スクールはダンステリア』)」が
大ヒット、この時シンディは既に30歳を過ぎています、遅咲きのブレイクでした。前述の
「タイム・アフター・タイム」や映画『グーニーズ』のメインテーマ、2ndアルバム「True Colors」
からのやはりNo.1シングルであるタイトルナンバーなど、ヒット曲は数多くありますが、シンディの
オリジナリティを最も端的に表しているのは上の「ハイ・スクールはダンステリア」だと思います。
ちなみにビデオクリップの冒頭に登場している女性はシンディの実のおかあさんです。
当時のベストヒットUSAにて彼女が出演した際、小林克也さんに『・・・ハリウッドスマイルはこうよ」
と言って歯をむき出しにしてニカっと笑う彼女のサービス精神は微笑ましいものでした。ちなみに
マドンナについて同番組では、『こんなにもオンエア時とそうでない時の差が激しい人はいませんでした』
と、非オンエア時の愛想無くつまらなさそうな顔をしている彼女と、オンエア時のニコニコしている顔を
対照的に続けて放送していました(多分総集編の回にて)。結構辛辣ですよね、克也さんも・・・
大変な親日家であり、売れない頃に日本人が経営するレストランで世話になった経緯があるそうです。

お次はN.Y.で結成されたバンド ブロンディ。紅一点のヴォーカリスト デボラ・ハリーを中心とし、
70年代後半から80年代前半に活躍。80年の年間シングルチャート1位を記録した「Call Me」が
最も有名でしょう。こういう事を言うのは何ですが、デボラの容姿がとにかく端麗で、それが人気の
一因になったことは否めないでしょう。マドンナの登場によりそのお株を奪われた感がありますが、
それ以前の米ポップス界におけるセックスシンボルはデボラとされていたそうです。
「コール・ミー」がビートの効いたロックナンバーなので、バンド自体がそういう音楽性なのかと
私も昔は思っていましたが、どちらかと言えばニューウェイヴやディスコを基調としていたとの事。
今回調べて初めて知ったのですが、「コール・ミー」は確かに作詞作曲はバンドによるものですが、
映画『アメリカン・ジゴロ』のサントラとしてリリースされた本曲は、演奏はバンドによるものではなく、
デボラも歌入れに3時間ほどスタジオに入っただけで、それ以外は彼女達とは無縁の所で作られたらしく、
それが最大のヒットになってしまったのは皮肉めいた気がします。なので今回取り上げるのは
「コール・ミー」に次ぐヒット曲、79年の「Heart of Glass」です。ギリギリ80年代ではありませんが、
1年くらい大目に見てください。こちらの方がブロンディらしいですし、PVのデボラがとにかく美しい…

最後に取り上げるのは「コール・ミー」の翌年、81年における年間シングルチャートNo.1である
超ビッグヒット キム・カーンズ「Bette Davis Eyes(ベティ・デイビスの瞳)」。

そのキャリアは長く、66年にフォークグループでのデビュー以降、80年まで決して目立ったヒットは
ありませんでした。しかし潮目が変わったのが80年、「More Love」のヒットにより一躍スターダムへ。
彼女の魅力はとにかくそのハスキーヴォイスにあるでしょう、唯一無二の声とは彼女の様な声です。
ジャニス・ジョプリンを彷彿させ、また男性で言えば#36で取り上げたジョー・コッカーや
ロッド・スチュワート的な声質と呼べるものでしょうか。
「ベティ・デイビスの瞳」の原曲はジャッキー・デシャノンが75年に発表したもの。私も名前くらいしか
知らなかったのですが、オリジナルを聴いてよくぞこの様にアレンジしたものだと改めて関心しました。

シンディは勿論の事、デボラとカーンズも1945年生まれの同い年ですが、共にシンガー・女優業を含めて
現役活動中です(なんと御年72歳!女性に失礼・・・)。彼女たちの様なたくましい女性を見ると、
50歳も近いから最近は心身共に調子が・・・などと言っている己が恥ずかしく思えてきます・・・(´Д`)

年初からの80年代特集はまだまだ続きますよ・・・誰も覚えてませんかね・・・( つω;`)ウッ …

#66 Jeff Porcaro_4

ジェフ・ポーカロ回その4、今回が最後となります。
ジェフはドラムソロを演りませんでした、頑ななまでにそれを拒み、否定しました。
インタビューの中でジェフが唯一認めたものは、エルビン・ジョーンズなどごく一部の
ジャズドラマー達によるソロプレイでした。おそらくジェフが嫌っていたドラムソロというのは
70年代辺りから始まった、ヘヴィメタル・ハードロックなどにおける長尺のドラムソロを指していた
のではないかと思われます。音楽の流れとは無縁の、ジェフが言う所の”これ見よがし”のソロプレイを
否定していたようです。ドラムに限らず単一の楽器で長いソロ演奏を行うのは大変難しいものです。
ただの技術のひけらかしにならず、ストーリー・起承転結がしっかりとしていて”音楽”として
成り立っているものは、ジャズにおいても難しく、ましてやロック界ではあるのかどうかも疑問です。
ジェフは”音楽本位”の考え方で、どんな超絶技巧も音楽を阻害してしまっては意味が無い、という
スタンスだったのでしょう。この考えは全く正しいと思います。
上の様な事を書いておいてなんですが、でもやはりジェフが”はじけて”プレイしているところも
聴いてみたい、という気持ちもあります。それであれば何と言ってもこれ、#64でも触れた
「The Baked Potato Super Live!」です。スティーヴ・ルカサーもそうですが、全編に渡って
実に”はじけた”演奏を繰り広げている、80年代フュージョンシーンにおける名盤の一つです。
当アルバムから私がベストトラックと思うものを。

ジェフとルカサーの羽目を外した様なプレイも圧巻ですが、グレッグ・マティソンは勿論の事、
クルセイダーズにも在籍していたベーシスト ロバート・ポップウェルのプレイも大変素晴らしく、
ジェフとポップウェルの絡みをもっと聴いてみたかったものです。

ちなみに動画ではタイトルは「I Dont Know」となっていますが、正しくは「Go」のようです。

ジェフはジャズドラミングには自信をもっていなかったそうです。父親がジャズドラマーで、幼少から
その手ほどきを受けてきたのですから、テクニックのルーツがジャズにあるのは間違いない事なのですが、
本人が自身のプレイに納得いっていなかったようです。しかし数少ないながらジャズドラミングのプレイも
残しています。#63でも触れたスティーリー・ダン「Katy Lied(うそつきケイティ)」に収録されている
「Your Gold Teeth II」。一筋縄ではないかなりの難曲ですが、本人が苦手だ、などと言っているのは
信じられないほど、ジャズビートのパートは見事にスウィングしています。

上記のジャズドラミングの話ともつながる事ですが、ジェフはかなり自分に厳しい人だったようで、
これだけのテクニックとグルーヴ感を持っていながら、自身のプレイには簡単に納得しませんでした。
あるインタビューで自身のプレイについて尋ねられた彼は以下のように答えています。
『だいたいタイムがひどい。そりゃ上を見ればジム・ゴードンとかバーナード・パーディ、ジム・ケルトナー
とかきりがないが、それにしても僕のタイムはカスだよ。~(中略)~自分で納得のいく出来だと思えるのは
今までにふたつくらいだな。ひとつはスティーリー・ダンとのやつ。あれが自分としては最高の
パフォーマンスだと思う。それからボズ・スキャッグスの「シルク・ディグリーズ」だ。』
貴方にそんなことを言われたら我々はどうすれば良いのか・・・(´Д`)と思ってしまう様なコメントです。
しかし全くの私見ですが、この発言は同時に”だけどオレのようにプレイできるやつは何人いるかな?・・・”
のような、ある意味逆説的な自信も表すコメントであったのではないかと私は勝手に思っています。

またジェフはドラム、ひいては音楽に対して一歩距離を取った姿勢を貫いていました。インタビューで、
『音楽が全てなんて姿勢でいたら消耗してしまう。僕の場合は美術とか庭造りとか、他にもいろいろ
関心があるし、そうやってバランスをとっている。僕は庭師かインテリアコーディネーターに
なりたかったんだ。』と答えています。この考え方はとても興味深いものです。勿論音楽が嫌いだった
などという訳ではないでしょう。しかし創造的な仕事をするためには、視野が狭くならないように、
木を見て森を見ずにならないように、その他の事柄からもインスパイアを受けられる状態・環境に
身を置いていた方が良い、という様な意味合いだったのではないしょうか。

ドラムという楽器はリズムを打ち出すものであり、伴奏・バッキングをその役割としているので、
当然の事ながらフロントに出てくるパートではありません。ジェフは更にソロプレイをも否定した
プレイヤーでしたので、なおさら矢面に立つはずではない人だったのですが、死後25年以上経った
現在でも彼の功績は讃えられ続けています。それはひとえに音楽本位のプレイを貫き、下手なギミック
などを決して演らず、自らの職分を果たすことに一途な姿勢が、数々の名曲・名演を産み出した事への、
本質をわかっている聴衆達からの評価が絶えないからに他なりません。
最後にお届けするのは上記の事が最も表れていると私が思うもの。スティーリー・ダンの活動を休止した
ドナルド・フェイゲンが82年に発表したポップミュージック史に残る傑作「The Nightfly」。
本作に収録の「Ruby Baby」。リーバー&ストーラーによるこのオールディーズの名曲を、フェイゲンが
見事に”料理”したもの。ジェフは徹底してタイトかつシンプルなプレイを貫き、この”クール”な名曲を
形創る事に成功しています。決して超絶技巧といったプレイではありません。しかし本曲における
フレーズ・音色・グルーヴ感は、これをなくして本曲は成立しなかったと言えるものです。

https://youtu.be/G187v1HEjqs
以上でジェフ・ポーカロ回はおしまいです。多分忘れ去られていると思いますが、年初からの80年代に
ついて取り上げていくというテーマは続いております。次はなんでしょう・・・

#65 Jeff Porcaro_3

ジェフ・ポーカロ回その3。
10インチのタムタム(中太鼓)をドラムセットに組み込み、一般化させたのもジェフの影響が大です。
一般的なドラムセットはハイタムが12インチ、ロータムが13インチ、演奏者から見て右側に
直接床に置く(勿論脚を立てて)フロアタムが16インチでした、今でも基本はそうだと思います。
ジェフはハイタムの左側に10インチのタムをセッティングしました。通常のハイタムよりさらに
ピッチの高いタムが加わることにより、フレーズ(特にフィルイン)に幅で出て、また個性も増しました。
80年代はジェフの様な3タムのセッティングがロックドラムのスタンダードとされた程でした。
同じく10インチのタムを一般化させた人にスティーヴ・ガッドがいます。ただガッドはハイタムの位置に
10インチを持ってきているのが異なります。タムタムの中では普通ハイタムが最も使用頻度が高いので、
ここに二人のドラマーの個性が表れています。ガッドも勿論ポップス寄りのセッションも数え切れない程
こなしましたが、小口径のドラムに柔らかくドラムヘッドを張り、全体的なピッチはロックドラマーの
それよりは高いものでした。そしてそれはその後におけるフュージョンドラマーの音色のスタンダードと
なりました。それに対してジェフは、フュージョン系の仕事もたくさんやりながらも、基本的にはロック
ドラムの音色でした。10インチの音色は必要としましたが、やはり迫力あるロックドラムのサウンドを
欲したのでハイタム(12インチ)の脇にセッティングしたのでしょう。もっともインタビューにて
タムの配置を入れ替える時もあると言っていたので、この限りではない場合もあったようです。
ガッドの10インチは「トゥーン」といった感じの日本の鼓を思わせる柔らかい音。一方ジェフのそれは
もっとパーカッシヴで、大げさに表現すると「パカッ」といったインパクトのあるサウンドでした。

70年代中期から80年代にかけて、第一線のセッションドラマーとしてよく比較されたこの二人。
東(N.Y.)のガッド、西(L.A.)のポーカロといった具合に米国を代表するドラマーとされました。年齢は10歳近く違いますが(ジェフの方が下)、とにかく様々な作品で彼らの名がクレジットされています。
同じアルバムで二人がそれぞれプレイしているというものもかなりあり、比較して聴くのも面白いです。
マイケル・マクドナルドの1stソロアルバム「If That’s What It Takes(思慕:ワン・ウェイ・ハート)」などがその好例で、ガッドが6曲・ジェフが3曲をプレイしています。ここでそれぞれのプレイを聴いて
みましょう。ジェフによる「That’s Why」並びにガッドの「Love Lies」です。

ジェフはハードウェア面でも独自のアイデアを産み出しました。パール社と共同開発したラックシステムが
それです。普通ドラムセットでは、タムタムはベースドラムにマウントしたホルダーにセッティングし、
シンバルはシンバルスタンドにセットします。ラックシステムではアルミ製のラックにこれらをセッティングするのです。タムタムをホルダーを介してでもベースドラムと繋がっているということは、多少なりとも
互いの鳴りに干渉しているという事なので、これを防ぎより自然な鳴りを引き出すことが可能です。
またシンバルの枚数が多くなると、シンバルスタンドが林立することになり、これの解消にもつながります。スタジオやコンサート会場でのセッティング作業の効率化を図るための、セッションミュージシャンとしてのジェフならではのアイデアです。

ボズ・スキャッグスの一連の作品などで、ジェフは多少エレクトリック・ドラムを使用していますが、
基本的にエレドラ等については否定的考えを持っていました。今回押し入れの奥のダンボール箱から引っ張り
出して読み返してみたドラムマガジン87年冬号に、以下の様なジェフのインタビューが載っています。
余談ですけどドラムマガジンって(確かベースマガジンも)、昔は年4回の季刊誌だったんですよ。
『・・・でも僕にとってドラムマシンは音楽じゃない。魂も心もない機械に過ぎない。ドラムマシンは
大嫌いだよ。悲しくなってくる。~(中略)~アーティストたちはそろそろ機械の音に飽きてきた。
どのアルバムも同じ音に聴こえる。みんな、フェアライト等の同じアーティストのスネアドラムの
サンプル、融通のきかないビート、こういったものにね。本物のドラマーやリズムセクションで
やりたいというミュージシャンは増えてきている。』
80年代後半におけるこのコメントは意味深いものです。シンセサイザー・サンプリングマシン・エレドラ・
リズムマシン等のデジタルテクノロジーは確かにポップミュージックの在り方を劇的に変化させましたが、
やはりそれだけでは満足しない、創り手も聴き手も、本物志向・生楽器への回帰といった方向性が既に
この時期から表れていた。これはジェフだけの特別な考え方ではなかったと思われます。
ただしジェフと言えども、世の流れに全く反していられた訳ではありません。80年代中頃から、TOTOの
アルバムで言えば「Isolation」(84年)からゲートリバーブ、コンプレッサーを効かせた”当時の音”と
なっていきました。派手で、煌びやかで、迫力のある音色が当時のトレンドでしたので、ジェフに限らず
多くのドラマーがこの様な音色を採用し、またドラム以外の楽器に関しても同様の事が言えました。
音楽がそういうサウンドを欲していたのですから、この流れは致し方なかったと言えます。ただこれは
個人的な意見ですが、この様な音色は全てが似たようなものになる傾向があり、プレイヤーのオリジナリティが薄れてしまうという点もありました。十把一絡げでみんな一緒に聴こえてしまうのです。

次回へ続きます。