ティナ・ターナーの「What’s Love Got to Do with It(愛の魔力)」が全米1位の大ヒットと
なっていた頃(84年の9月に三週連続1位)、ある黒人女性シンガーの楽曲もチャートを急上昇
し始めました。チャカ・カーン「I Feel for You」。チャカにとって最大のシングルヒットとなる
その曲は、11月から12月にかけて最高位3位を記録します。圧倒的な歌唱力を誇り、ソウル・R&Bに
留まらず、ジャズ・フュージョンまで幅広くこなすその歌唱テクニックは、歴代女性シンガーの中でも
トップクラスのものではないでしょうか。
53年シカゴに生まれる。親はボヘミアン(定住しない人々)でビートニク(所謂 ”ヒッピー” )だった
そうです(括弧の定義はあくまで私の思う所なのでツッコミはご勘弁)。つまりかなりフリーキーな
環境で育ったという事。祖母の影響でジャズを聴き始め、やがてR&Bに傾倒していき、10代前半には
音楽活動を始めていました。地元シカゴでいくつかのバンドを経た後、同じく地元のバンド ルーファスに
加入します。言うまでもなくこれが彼女を名を全米に知らしめるキッカケとなります。
2ndアルバム「Rags to Rufus」(74年)からの第一弾シングルである、スティービー・ワンダー作の
上記「Tell Me Something Good」がポップス・R&B共に全米チャートにて3位の大ヒットを記録。
如何にもこの時期のスティービーらしい粘っこいファンクナンバーで、バンドはグラミー賞を受賞し、
アルバムもゴールドディスクを獲得します。
2ndシングルである「You Got The Love」も大ヒット(ポップス11位・R&B1位)。
上は『ソウル・トレイン』に出演した際のもの。本曲はチャカとレイ・パーカー, Jr. による共作。
レイ・パーカーは84年の大ヒット映画『ゴーストバスターズ』のテーマ曲で有名ですが、実は非常に
卓越したテクニックを持ったギタリスト・コンポーザーであります。
同年には早くも3rdアルバム「Rufusized」をリリース(凄いペース…)。1stシングルが上の
「Once You Get Started」(ポップス10位・R&B4位)。ベイエリアの超絶技巧ファンクバンド
タワー・オブ・パワーのブラス陣を従え、素晴らしいジャンプナンバーとなっています。
話は逸れますが、吉田美奈子さんのライヴアルバム「Minako Ⅱ」(75年)で本曲をオープニングナンバーに演っており、そちらも素晴らしいものです。松木恒秀さん(g)、佐藤博さん(key)、村上秀一さん(ds)、そしてコーラスで山下達郎さんと、その後大御所となるミュージシャン達がまだ若かりし頃の、
エネルギーに溢れた歌と演奏が堪能できる名盤です。(他にもビッグネームが参加していますが
書き切れないので割愛。こちらの方のブログに詳しく記載されています。)
ミリオンセラーとなった79年のアルバム「Masterjam」からの1stシングル「Do You Love What
You Feel」。本作のプロデュースはクインシー・ジョーンズ。とにかく70年代半ば以降の
ミュージックシーンは、クインシーかヴァン・マッコイか、というくらいにディスコ・ダンスミュージックの時代だったようです。あのローリング・ストーンズでさえディスコを取り入れたほどでしたから。
https://youtu.be/P4p1k6YIc1U チャカの1stソロアルバム「Chaka」(78年)はポップス12位・R&B2位という大ヒットを記録します。
とにかくワーナーの力の入れ様がありありと伺えます。プロデュースはアリフ・マーディン。参加
ミュージシャンを以下に列挙しますが名前だけ。詳しく知りたい人はコピペして自分で調べて下さい。
如何に物凄いメンツかが判ると思いますから。スティーヴ・フェローン、ウィル・リー、フィル・
アップチャーチ、リチャード・ティー、アンソニー・ジャクソン、マイケル・ブレッカー、ランディ・
ブレッカー、コーネル・デュプリー、ジョージ・ベンソン、デイヴィッド・サンボーン etc.・・・
念のため言っときますけど、復活の呪文とかじゃないですよ … わかっとるがな!!( °∀ °c彡))Д´)・・・
ジャズ・フュージョンに興味のある方なら、この人達がどれほどのビッグネームかがおわかりでしょう。
ワーナーの期待を裏切る事無く、アルバムはゴールドディスクを獲得。上は本作からの第一弾シングル
「I’m Every Woman」(ポップス21位・R&B1位)。一般的にはホイットニー・ヒューストンによる
93年のレコーディングの方が有名かとは思いますが、ホイットニーファンの方々には本当に申し訳
ありませんけども、この曲に関しては、その他のカヴァーを含めても圧倒的にチャカのヴァージョンが
白眉だと思っています(※あくまで個人の感想です)。もっともホイットニーもきちんと敬意を表して、
エンディングの方でチャカの名を上げてますけれども。
チャカのソロワークによる多忙さから、ルーファスが彼女抜きでの活動を余儀なくされたのは
前述した通りですが、83年のアルバム「Seal in Red」(チャカは参加せず)が最後のスタジオアルバムと
なりました。ただし、同年10月にリリースされたライヴ盤「Stompin’ at the Savoy – Live」には
スタジオ録音の新曲も含まれており、シングルカットされた「Ain’t Nobody」は最後のヒット曲と
なり(ポップス22位・R&B1位)、また二度目のグラミー賞の受賞をもたらしました。
この曲の成功をもって、ルーファスとチャカは別々の道を歩み始めます。良好な袂の分かち方だったと
言えるでしょう。そしてチャカは、最初の方でも触れた「I Feel for You」による世界的成功を収める事と
なるのですが、その辺りはまた次回以降にて。
67年にマイナーレーベルからアルバム1枚を出した後、ハイ・レーベルへ移籍。2枚のアルバムを
リリースし、やがて71年に前述した「Let’s Stay Together」の大ヒットへと相成る訳ですが、
上はその一つ前のシングルであり最初にゴールドディスクを獲得したヒット曲「Tired of Being Alone」
(71年、ポップス11位・R&B7位)。アル・グリーンと言えば、一般的には甘く囁くように歌いあげる
ヴォーカルスタイルが特徴と思われているのですが(私も昔はそう思っていました)、本曲が収録されている
「Al Green Gets Next to You」(71年)迄は結構違っていました。先述の通りウィルソン・ピケット、エルヴィス・プレスリー、そしてジェームス・ブラウンを好み、初期の歌唱スタイルは彼らに影響を受けたものだったようです。ハイ・レーベルへ移ってから、アルのソフトな歌声にセールスポイントを見出した
マネージメントサイドが、徐々に変えるようにアルへ促していったと言われています。
シングル「Let’s Stay Together」の世界的ヒット、翌年に発表した同名アルバムも大ヒットを記録
(ポップス8位・R&B1位)。本作においてソフト路線はさらに極まり、アル=ソフトなラブソングシンガーというイメージが定着したようです。これがアルが本当に望んだ事だったのかどうかは測りかねる事ですが、
それまでソウル界において、男性のセックスシンボル的存在であり、愛や性について歌ってきたマーヴィン・ゲイが「ホワッツ・ゴーイン・オン」で社会派なメッセージを発し、スティーヴィー・ワンダーは成人して
モータウンの言いなりにはならずに独自の音世界を構築し始め、そしてダニー・ハサウェイやカーティス・
メイフィールド達によって ”ニュー・ソウル” と呼ばれる、それまでとは異なるソウルミュージックが
創り上げられました。これらは勿論素晴らしいものであり、私も大好きなミュージシャン達ですが、
世間一般には ”難しい” ものとして受け取られるという側面もありました。あのセクシーなマーヴィンが、
可愛い天才シンガー リトル・スティーヴィーが変わってしまったと。
悪い言い方をすれば、アルはその隙間を突いた様な形となったのです(アルの本望であったかどうか
疑わしいのは先述の通り)、特に社会的メッセージを歌うようになったマーヴィン・ゲイに代わる
セックスシンボル的存在として祭り上げられていったようです。上のアルバムにおける右側
「Al Green’s Greatest Hits」(75年)のジャケットを見ればわかる通り、上半身裸のアルの姿が
それを象徴しています。ちなみに本ベスト盤がアルにとって最も売れた作品でした(ダブルプラチナ)。
次作「I’m Still in Love with You」(72年)は前作を上回る大ヒットを記録(ポップス4位・
R&B1位、プラチナアルバムに認定)。上はそのタイトルトラック(ポップス3位・R&B1位)。
アルはハイ・レーベルの看板シンガー、というよりも70年代ソウルを代表する存在へと成って
いきました。
80年代後半、アルはショービズ界へ戻ってきます。前回の中でも触れたユーリズミックス アン・レノックス
とのデュエット「Put a Little Love in Your Heart」(88年)は、アルとしては74年以来の
全米TOP10ヒットとなりました。
03年からはジャズの名門ブルーノート・レーベルへ移籍し、3枚のアルバムをリリースしました。
昨18年にはカヴァー曲ですが、アマゾンミュージックオリジナルとしてレコーディングしています。
アレサ・フランクリン亡き現在、ブラックミュージック界のシンガーで現役最古参として活動している
一人でしょう(72歳)。あとはディオンヌ・ワーウィック(78歳)、ダイアナ・ロス(74歳)、
スティーヴィー・ワンダーは意外にまだ若く68歳です、何しろデビューが12歳でしたから。
ロバータ・フラック(81歳)がいますが、去年の4月にアポロ・シアターの壇上で体調を崩し、
そのままステージを降りてしまい、後に脳卒中であったとマネージメントサイドから発表があったそうです。
あとは … 誰がいましたっけね?・・・
はじめは80年代初期、オーストラリアから突如ブレイクしたバンド メン・アット・ワーク。
上はデビューシングル「Who Can It Be Now?(ノックは夜中に)」。81年6月に本国でリリースされ
最高位2位を記録、やがて各国で発売され次々とヒットし、それが米でのリリースに拍車をかける事となり、
翌82年10月、遂に全米No.1ヒットとなります。2ndシングル「Down Under」も全米1位に輝き、
これらを含むデビューアルバム「Business as Usual(ワーク・ソングス)」(豪81年11月・
米82年6月)は本国は勿論の事、米・英・ニュージーランド・ノルウェーで軒並み1位を記録。全米だけでも
”6 プラチナ” (600万枚)の大セールスを記録します。ちなみに「ダウン・アンダー」とは、世界地図で
オーストラリアは下側に位置する事を自虐的に表現したもの。自分たちが世界の中心だとか国名で表している
所よりは(あっ!これ、私の想像上の国ですよ。実在はしません)、シャレがわかる人たちですね。
お次はティアーズ・フォー・フィアーズ。2ndアルバム「Songs from the Big Chair(シャウト)」
(85年)のモンスターヒットは私の世代の洋楽ファンなら記憶に残っている事でしょう。「Shout」及び
上の「Everybody Wants to Rule the World」が全米No.1ヒットとなり、一躍世界的バンドと
なります。サウンド的には如何にも80年代的な煌びやかな音色のシンセサイザーを多用したものでした。
この辺りに関しては#54でご紹介したスクリッティ・ポリッティと同系譜とも言えます。ところが彼ら、
実は内省的な部分をかなり抱えており、その歌詞や、ソフトマシーン ロバート・ワイアットへ捧げた
楽曲など、バンド名も含めてなかなか ”闇” を抱えたバンドだった様です。
次に取り上げるのはユーリズミックス。英国王立音楽院出身のアン・レノックス(日本版のウィキでは
中退とありますが、英語版にはそんな記述はありません。どっちでしょう?…)と、デイヴ・スチュワート
から成るデュオ。今回調べるまでは、アンという人はイイとこのお嬢様で英才教育を受けてきたのだと
勝手に思っていましたが、実はそうではなく、労働者階級に生まれ、幼少期において神童ぶりを発揮し、
やがて王立音楽院への進学と相成ったそうです。しかし決して裕福ではない出自ゆえに、ウェイトレス、
バーテンダー、販売員、そしてクラブでのシンガーなど、働きながら学費と生活費を捻出していたそうです。
83年、2ndアルバム「Sweet Dreams (Are Made of This)」からタイトル曲が全英2位・全米1位の
大ヒット。ポストニューウェイヴのエレクトリックポップに、アンによるR&B・ソウルといったブラック
ミュージック志向が加わり、当時のイギリス勢の中でも異彩を放っていました。短髪でビシッと決めた
アンはとんでもなく迫力がありました(道で会ったら間違いなく避けます・・・(((;゚Д;゚;))) )
日本ではこちらの方が馴染みがあるかもしれません。85年のヒット「There Must Be An Angel」。
「スウィート・ドリームス」から比べるとすっかり明るく洗練された楽曲と歌。アンのシンガーとしての
引き出しの多さには脱帽です。ちなみに後半のハーモニカソロはスティーヴィー・ワンダー。聴けば
一発でスティーヴィーとわかるそのプレイは今更ながら見事です。
都会的感のあるアン・レノックスですが、彼女実はスコットランドの出身です(スコットランドに謝れ!)。
同じくスコットランド出身である女性シンガーを擁したバンドと言えば、私にとってはフェアーグラウンド・
アトラクションです。エディ・リーダーをフィーチャーした本バンドは88年に上のシングル「Perfect」にて
デビューし、本国イギリス、アイルランド、オーストラリアで1位を記録。独・スイス・スウェーデン・
ベルギー・ニュージーランドでもTOP10ヒットとなりました。
エディはバンド結成以前に、セッションシンガーとしてユーリズミックスやアリソン・モイエットの
バックで歌っていました。アンとはその頃に接点があったようです。
80年代半ばまで流行ったブリティッシュエレクトリックポップの反動とも言える、そのアコースティック
サウンドは、ヨーロッパ圏をはじめとして受け入れられました。デビューアルバムにして、バンドとしては
唯一のオリジナルアルバム「The First of a Million Kisses」(88年)も全英2位の大ヒット。私は
90年代に興ったアコースティック(アンプラグド)ブームの予兆であったのではないかと思っています。
昔、村上 “ポンタ” 秀一さんがホストを務めていたBSの音楽番組で、ル・クプルの藤田恵美さんをゲストに
迎えた回があり、その番組で藤田さんはフェアーグラウンド・アトラクションを取り上げていました。
だいぶ以前の番組なので、ひょっとしたら記憶違いがあるかもしれませんが、藤田さん達は80年代の
エレクトリックかつダンサンブルな音楽は自分たちが演るものではないと考えていましたが、しかし
どの様な音楽を目指せば良いのか、具体的には見つからなかったそうです。そんな折、彼女達の音楽を
耳にし、” 私達が目指していたのはこれだ!先を越された!!” と思ったそうです。やはり世の中には
シンクロニシティ(共時性)と言うのでしょうか、同時期に同じ事を考えている人達がいるようです。
#96のシンプリー・レッド回にて、ラジオでユーミンがミック・ハックネルの事を、その声だけで惚れて
しまった人、と語っていたと書きましたが、エディもユーミンが惚れたシンガーの一人だったはずです。
上の「The Moon Is Mine」はスウィング調の楽曲に乗せて、「Perfect」同様にエディの多彩な歌唱を
堪能する事が可能です。ちなみにバンドメンバーも、本作においては決して超絶技巧を披露している訳では
ありませんが、実は皆かなりのテクニシャンであり、端々にそれらを聴き取る事が出来ます。
豪のメン・アット・ワーク、後は全てイギリス勢と、図らずも自分の好みが出てしまいました。
別にアメリカンロックが嫌いという訳ではないのですが… なので最後くらいは米のミュージシャンを。
https://youtu.be/gb1wYslTBk8 言わずと知れたドン・ヘンリーによる85年のヒット「The Boys of Summer」。イーグルス
活動休止後における2作目のソロアルバムに収録。夏にフェイスブックの方でも書きましたが、
暑い時期に聴いていた記憶があったのですが、調べてみるとシングルカットされたのは10月26日、
チャートを賑わしていたのは12月頃でしょう。人間の記憶が如何に当てにならないかという好例です。
95年9月、5thアルバム「Life」をリリース。上は第一弾シングル「Fairground」。意外にも全英チャートで1位を記録したのは本曲が初めて、かつ唯一です。全米1位の「Holding Back the Years」と
「二人の絆」は本国においては2位止まりでした。本作にて1stから在籍し、キーボードと歌で貢献してきた
フリッツ・マッキンタイヤーがバンドを離れます。
98年5月、アルバム「Blue」を発表し、同郷マンチェスターの大先輩であるホリーズのヒット(74年)で
有名な「The Air That I Breathe(安らぎの世界へ)」を取り上げました。
03年リリースのアルバム「Home」。本作に収録されている上の「Sunrise」は、80年代の洋楽を
くぐり抜けてきた人なら気が付くはず、ダリル・ホール&ジョン・オーツによる81年の全米No.1ヒット
「I Can’t Go for That (No Can Do)」(#58ご参照)をモチーフとしています。
#58でも書いたことですが、いち早くドラムマシンを駆使したそのリズムは、それまでのR&B・ソウルとは
グルーヴ・サウンドを異にするものであり、90年代以降のブラックミュージックにおける一里塚とでも
呼ぶべき楽曲でした。アメリカにおけるブルーアイドソウルの代表格であるホール&オーツの名作を、
20年余を経て英国ブルーアイドソウルの雄であるシンプリー・レッドが、所謂 ”オマージュ” したのは
興味深い事です。
「Home」ではこの曲も取り上げています、「You Make Me Feel Brand New」。トム・ベル作にて、
スタイリスティックスのヒットで説明不要な程の本曲は、フィラデルフィア・ソウルにおいてある意味
最も重要な楽曲。と、確か山下達郎さんが以前どこかで書かれていた記憶があります(多分・・・)。
原曲は低音部と高音部(ファルセット)を二人で歌い分けていますが、ミックは一人で歌っています。
男性としてはかなり声の高いミックは高音部でもファルセットは使いません(というよりもミックの
ファルセットなぞ聴いたことありませんが…)。サビに至ってもコーラスは入れずに独唱で通しています。
抑制の効いた原曲に対して絶唱タイプのミックによる本曲は、人によって好みは分かれる所でしょうが、
ミックはこれで良いのです、異論は認めない ( ・`ω・´) キリッ! … いえ、認めますけどね(気が弱いので…)
ちなみに達郎さんも全編アカペラアルバム「オン・ザ・ストリート・コーナー2」(86年)にて本曲を
取り上げていますが、達郎さんバージョンの方が原曲に忠実です。要はミックも達郎さんも両方イイのです。
09~10年にかけてのツアーを最後に、ミックはバンドを解散するというアナウンスメントをします。
しかしながら、15年には結成30周年として新作を発表し、再結成ツアーも行いました。16年から
17年にかけては、「スターズ」発売25周年として “25 Years of Stars Live” を行っています。
新人がヒットを飛ばした場合、当然レコード会社やマネージメントサイドはその勢いがある内に
次作の制作を急かす、これは致し方ない事だと思います。デビューアルバムが米でミリオンセラーを
記録したシンプリー・レッドもその例外ではありませんでした。 前回も述べた事ですが、シングルでのレコードデビューが85年3月、1stアルバム「Picture Book」が 同年10月。そして「Holding Back the Years」が全米1位となったのは86年7月でした。おそらくは バンドの周囲が慌ただしく動き始めたのもこの頃からでしょう。2ndアルバム「Men and Women」が リリースされたのは87年3月の事でした。
全く次作の準備をしていなかったという事は無いかとは思いますが、「Holding Back the Years」が
全米チャートの頂点を極めた時点から起算すると、新作の発売までわずか9ヵ月という期間です。
本作のオープニングナンバーにして第一弾シングルであるのが上の「The Right Thing」。私が思うに、
本作を象徴している楽曲であり、ベストトラックだと思っています。あせり・気負い・やっつけ感などは
全く感じられない、むしろ余裕と、ともすればすでに円熟味さえ感じさせるミックのヴォーカルです。
ちなみに快活なソウルナンバーという印象の曲ですが、歌詞はとんでもなく性的なもの。「もう真夜中、
さあ、ヤ〇う!僕の×××がどんどん△△△△△くるよ。君の◇◇◇に僕の×××を◆◆◆するよ。
さあ、ヤ〇う!今すぐ@@@しよう!」… 伏せ字ばかりでワカランわ!!!ヽ( ・∀・)ノ┌┛Σ(ノ;`Д´)ノ
本作の一般的な評価としては、前作にあった内省的な印象が薄れ、よりソウル色を増し、明るくなった、 というポジティブな論調が一つ。これは私も全く同感です。一方、否定的な論調として、先ほどの意見が
反転したもの、というか常にこういう論評は相反するものなのですが、売れ線に走った、特にアメリカ市場に おもねった作りになった、というものです。否定的な意見として言われる最たるものは、ジャズスタンダード ナンバーの「Ev’ry Time We Say Goodbye」を取り上げた事。偉大なる大作曲家 コール・ポーターに よるあまりにも有名な本曲は、 ”ベタ過ぎる” という点でネガティブに評価されがちです。 人それぞれ意見は様々で良いかとは思いますが、カヴァーした楽曲が超有名曲だからといって売れ線と 批判するのは、木を見て森を見ず的な、全く本質を理解していないものです。
85年にシンプリー・レッドを結成。セッションミュージシャンを集めて組んだバンドなので、
演奏力はしっかりとしたものでした。それはミックとマネージャーによる人選だったらしいのですが、
賢明な選択だったと言えるでしょう。
同年3月、上のシングル曲「Money’s Too Tight」でレコードデビュー。本曲はオリジナルでは
ありませんが、全英13位・全米28位という、新人バンドとしては十分なチャートアクションを
記録します。しかし、その後翌年にかけて三枚のシングルをリリースし、85年10月には1stアルバム
「Picture Book」を発表するものの、今一つヒットには結び付きませんでした。
流れが変わったのは86年に入ってから。5枚目のシングルとして上の「Holding Back the Years」を
リリースします。実は3rdシングルとして85年中に一度シングルカットしていたのですが、その時は
全英51位とお世辞にもヒットと呼べるものではありませんでした。どの様な経緯で再発に至ったのかは
わからないのですが、これがヒットチャートを駆け上がり全米1位・全英2位の大ヒットとなります。
アルバムリリース時に、NHK-FMの洋楽番組で彼らを取り上げているのを聴き、興味を持った私は
地元の貸レコード店へと足を運びました(買えよ!、と言われても、中学生にとっては2800円の
アルバムを買うというのは年に数枚だけの一大イベントだったのです…)。まだブレークする前だったにも
関わらず、そのレンタル店には「ピクチャー・ブック」がありました。今考えるとセンスの良いお店でした。
カセットテープにダビングし、毎日の様に聴いていましたが、やがてそのお気に入りのバンドが
みるみるうちにスターダムへとのし上がっていったのです。リアルタイムでそういう事を経験出来るのは
なかなか無い事だと思います。本曲が86年になってから、アメリカのTVコマーシャルで使用されたとか、
ヒット映画のサントラに組み入れられたなどという事実は、現在になって調べてみても見当たりません。
純粋に楽曲の良さ、ミックの歌が世間に認められていったという事に間違いないでしょう。
余談ですが本曲はフランティック・エレヴェイターズ時代の曲。試しにご一聴を。メロディ(=歌)は
殆ど同じですが、曲の印象はここまで違うのか、というもの。曲はアレンジ次第、という典型です。
上の「Come To My Aid」をオープニングナンバーとして始まる本アルバムは、R&B、ソウル、ファンク、ゴスペル、ジャズ、そして若干ではありますがニューウェイヴの香りも漂せながら、シンプリー・レッドの
音楽として、この時点で既に完成されています。
2曲目である「Sad Old Red」。思いっきりジャズのスウィングナンバー。デビューアルバムに収録する
のをよくぞマネージメントサイドが許したものです。ですがこれは大英断でしょう、並みのジャズシンガー
など太刀打ち出来ない程の名唱です。
「No Direction」。スピード感が絶品です。
全曲素晴らしい完成度を誇る本作ですが、その中でも「Holding Back the Years」と並んで私が
ベストトラックと思う楽曲が上記の「Heaven」。原曲は#88~90にて取り上げたトーキング・ヘッズの
3rdアルバム「Fear of Music」に収録されている楽曲。参考までに原曲を張りますが、この原曲を
よくぞかくの如くアレンジしたものです(決して原曲が悪いといった意味ではなく)。
「ピクチャー・ブック」は決して、一聴して世間一般の耳目を集めるようなアルバムではありませんでした。
快活なポップナンバーなどはなく、悪く言えば非常に地味で暗い音楽です。ですから先述の通り、
発売後すぐにヒットした訳ではなく、これまた先述した「Holding Back the Years」と共に、
時間をかけてその素晴らしさが世間に認められていってのブレークだったのです。
そして特筆すべきは、ミックの歌がこの時点で既に完成されているという点。無理くりアラを探し出せば、
次作以降よりも若干キンキンした感じはあるかな、とも思いますが、それはデビュー作なのですから、
若さとエネルギッシュさ、に満ち溢れていると捉えるべきでしょう。
ドラムにディレイをかけたのも私が知る限りではコープランドが初めてだと思います。勿論アンディ・
サマーズがいたからこそ、その様な手法を取るに至ったのでしょうが、それにしてもその斬新さが見事です。
80年代以降、ギターでは当たり前に行われる事となりましたが、ディレイタイムをきっちり合わせて、
リズムを作り出したドラムは上の「Walking on the Moon」が最初ではないでしょうか。5、6か所で
聴くことが出来ますが、特に印象的なのが3:20秒辺りのハイハットと、4:20辺りのスネアによる
リムショット。ディレイ音を加えて2拍3連(正確には ”裏の2拍3連” )のビートを作り出しています。
https://youtu.be/cjBAJpTJlZc 現在で言う所の ”スリップビート” を取り入れたのもコープランド(=ポリス)が最初だったと思います。
ポリス回でも述べましたが、いきなり1拍目が抜けて始まるので、ただでさえリズムが取りづらいのですが、
上の「Spirits in the Material World」はその極地と言える曲です。普通に聴くとシンセとハイハットの
刻みが四分音符で、ベースドラムが裏拍と錯覚してしまいますが、実はシンセとハイハットが裏拍で、
ベードラはオンビート(多分2・4拍)。サビに移る時に変拍子かと思い込んでしまう程にトリッキーな
リズム構成です(ひょっとしたら変拍子なのかもしれません、実はいまだによく理解出来ていません…)。