#164 Phil Collins_3

所謂 ” 十八番・おはこ ” というものは歌舞伎に由来する、などと耳にしたことがあります。
その役者が最も得意とする演目を指すとか何とか。ただし音楽の場合はそれとは若干ニュアンスが
違う場合があります。ジャズやクラシックでは歌舞伎のそれとほぼ同じ意味合いで捉えて良いでしょう。
先人の残した交響曲やピアノソナタ、ジャズではスタンダードナンバーの中でそのミュージシャンが
得意とする、という意味ではまさしく ” おはこ ” です。しかしロック・ポップスにおいては異なります。
ローリング・ストーンズのおはこは「サティスファクション」だ、という表現は聞いた事がありません。
この場合のおはことはそのミュージシャンの歌唱・演奏が最も映える曲調や奏法という意味です。

フィル・コリンズはどんなスタイルの曲でも自分の歌に出来る優れたシンガーですが、” おはこ ” 、
言い替えればその歌唱における真骨頂は絶唱型のバラードだと私は思っています。
上は84年の映画『カリブの熱い夜』の主題歌である「Against All Odds(見つめて欲しい)」。
映画オンチの私は当然詳しくないのですが、それでもタイトルくらいは知っている『愛と青春の旅だち』の
監督が満を持して発表した次作だそうです(勿論観た事はありません)。
絶唱型、つまりシャウトが多用されるという事ですが、フィルのそれをあまり好まない人がいる様です。
とどのつまりは好みですので何とも言えませんが、フィルを売れ線シンガーと捉えている人に多いのでは
ないかと思っています。確かにフィルの声質はよく言えば聴き易い、悪く言えば軽く心に響かないとも
言えます。声質は生まれ持ったもので本人の努力如何ではどうにも出来ないものなので、
残る選択肢は二つ、諦めるかそれとも何とかしてそれに抗うかです。
今回検索してみて、フィルの歌が好きではないと書いていた人達の多くが80年頃より前のジェネシスを
聴いた事がないようでした。ピーター・ガブリエル脱退後、ジェネシスのメインヴォーカルを務めたフィルは
バラードに限らずシャウトを多用していました。ピーターの良く言えば迫力がある、悪く言えば
重々しくクセのある歌声と比べるとフィルのそれは前述した通りなので、シャウトの多用はそれを
補うためであったのではないかと私は勝手に推測しています。ですのでその歌唱スタイルは
ソロになってからのものではなく、従前から変わらない歌い方であったのです。
勿論シャウトを用いない前回・前々回にて取り上げた「モア・フール・ミー」や「マッド・マン・ムーン」も
素晴らしい歌であるのは言うまでもありません。
前回フィルとピーターの声質が似ていると言っておきながら上は矛盾した話になってしまいますが、
もっと正確に具体的な事を述べると、ピーター脱退後のフィルは意識的にピーターを模倣した、
もしくは意識せずとも自然とピーターのスタイルに寄っていってしまったのではないかと思っています。
フィルの歌の巧さはピーター在籍時からバンド内でも認められており、であるかしてアルバムの中で
丸々一曲リードヴォーカルを任せられた訳ですけれども、やはり降ってわいたようなフロントマンへの
抜擢はフィルにとっても戸惑いのあるものだった事でしょう。バンドの音楽性もピーター脱退によって
ガラッと変わった訳ではなく、音楽面の実質的なイニシアティブを握っていたのはトニー・バンクスなので、
彼のカラーが良く出ていた「月影の騎士」的な作風へと向かったのは前回の最後で既述の事です。
であるのでフィルがお手本にしたのは「月影の騎士」の頃におけるピーターの歌い方だったとしても
何ら不思議はありません。

フィルのヴォーカルスタイルが確立された、語弊があるのを承知で言えばピーターの呪縛から
解放されたのは本曲及びそれが収録されたアルバムからだと思います。
その曲こそ中期の傑作「Duke」(80年)におけるオープニングナンバー「Behind the Lines」。
躍動感あふれるポップな曲調・リズム、何より水を得た魚の如く活き活きとしてハジけるフィルの
ヴォーカルは従来と明らかに異なります。
厳密に言えばこの前作「…And Then There Were Three…(そして三人が残った)」(78年)から
その前兆はありましたが、ここまでジャンプした作風及びフィルの歌は「デューク」からです。

「デューク」はその音楽性と親しみやすさが非常に高い次元で同居している作品です。さらにサウンド面でも
特筆すべきものがあり、ドラムの音色はゲートリバーヴを使用するようになる直前のもので、
自然な鳴り(多少は電気的なエコーも使っているかもしれませんが)が非常に心地良い、フィルのタイトな
ドラミングが堪能出来ます。また本作でフィルは初めてリズムマシン(ローランド CR-78)を
使用します。今日からすると非常にチープなものに聴こえてしまいますが、これから後にこの無機質な
ビートを使って、ゲートリバーヴによるドラムサウンドと共に80年代の音楽シーンを変えてしまう程の
インパクトをもたらしました。上はそれを聴くことが出来るA-②「Duchess」。
「Behind the Lines」からメドレーになっており、華々しかったオープニングから淡々とした
曲調・サウンドに展開するのですが、このリズムマシンが非常に効果的に使われています。

80年代のフィルはワーカホリックなどという言葉では片づけられない程の仕事振りでした。
それは、泳いでいないと死んでしまう回遊魚か?というくらいに・・・
自身のソロ及びジェネシスの他に、今回最初に取り上げた「見つめて欲しい」の様な映画のサントラ、
他ミュージシャンとのデュエット及びプロデュースなどです。
列挙すると、サントラに収録されマリリン・マーティンとのデュエット「Separate Lives」(85年、
全米1位)、同じくサントラから「A Groovy Kind of Love」「Two Hearts」(88年、どちらも
全米1位。後者はモータウンの伝説的ソングライティングチームである ” ホランド・ドジャー・
ホランド ” のラモント・ドジャーとの共作)、そしてエリック・クラプトンのプロデュース(#11ご参照)
等々。ホントにいつ寝てるんだ?という程の仕事振りです。
以前どこかで書いた記憶がありますけど、85年におけるチャリティー『ライヴエイド』は英米同時公演という
大規模なコンサートでしたが、フィルは英ウェンブリー・スタジアムに出演した後、超音速機コンコルドで
移動し米JFKケネディ・スタジアムへも出演するという離れ業を成し遂げました。先進国の首脳や
アラブの大富豪より多忙で尚且つ稼いでいたのではないでしょうか・・・
正直その全てが素晴らしい、とは個人的に思いませんけれども、それらの中で極めつけは本曲でしょう。
アース・ウィンド&ファイアーのフィリップ・ベイリーとのデュエット曲「Easy Lover」(84年)。
同年におけるベイリーのソロアルバム「Chinese Wall」からのシングルカットである本曲は、
全米2位・全英1位を記録し、英米双方でゴールドディスクを獲得します。
既に述べた事ですが米本国以上にブラックミュージックの影響を受けたイギリスの若者であった
フィルにとって、本場の黒人音楽を体現したベイリーとの共演は喜ばしい事この上なかったでしょう。
では、60年代ソウルミュージックやEW&F全盛であった70年代ディスコをトレースした楽曲で
勝負したかと言うと、全然違いました。上の動画にて一聴瞭然だと思いますが、ソウル・R&B・ディスコ
というものより、むしろロックスピリッツ溢れる曲調そして何よりビートです。勿論80年代前半は
ソウルはおろか、あれほど一世を風靡したディスコも陰りを見せ、黒人音楽と言えばクインシー・ジョーンズ&マイケル・ジャクソンに代表されるダンサンブルなファンク+AORでした。その路線で言っても
当時におけるフィルの勢いならヒットはしたと思いますが、敢えてそれを避けたのは英断です。
フィルお得意のシャウトとベイリーのファルセットが、このハードなロックンロールの中で
見事に融合・昇華されています。どのみち売れ線と批判する手合いは必ずいるのですが、
本曲以上にこの二人のコラボレーションを成功させるものがあったと言うの
ならば、具体的に示してから
売れ線だナンだと言って欲しいものです。実際に本PVではフィルがEW&F風コスチュームを
提案するとベイリーが苦笑いして困惑するというシーンがあり、それが何よりも旧来のEW&Fとの
決別を図る決意であったベイリーの心中を表したものです。
「Chinese Wall」のプロデュースは勿論フィルによるもの。余談ですが、ジェネシス81年のアルバム「Abacab」にEW&Fのホーン隊が参加しています。その辺りがベイリーとの共演との足掛かりに
なったのではないかと思っているのですが、それに関する経緯は出てきませんでした。
最後にそのホーン隊が加わった「No Reply at All」を張ってフィル・コリンズその3を終わります。

#163 Phil Collins_2

フィル・コリンズは51年、旧ミドルセックス州(現在のロンドン地区)に生まれます。
五歳のクリスマスプレゼントにドラムセットが与えられ、そこからドラムとの付き合いが始まります。
やがてドラムにのめり込み、ルーディメントと呼ばれるドラミングの基礎を徹底的に練習します。
しかし当時は譜面を読む事をないがしろにしており、後年これは良くなかったと回顧しています。

フィルのドラムサウンドについてはとにもかくにもゲートリバーヴについて取り沙汰されがちですが、
決してそれだけではありません。上はジェネシスの「A Trick of the Tail」(76年)に収録された「Squonk」。ドラミング自体はさほどテクニカルなものではありませんが、淡々としたパターンが
続く中にゆったりとした、もしくはスピーディーなフィルインが緩急を付けて織り交ぜられており、
この曲の形容しようがない高揚感を後押ししています。さらに特筆すべきはそのサウンドであり、
スタジオの自然なエコーなのか、電気的なものなのか、はたまたその双方をミックスしたものなのか、
この広がりのあるドラムの音色や鳴りは何十年も聴いていますが、今でも感嘆してしまいます。

当然の如くビートルズのインパクトをティーンエージャー時に受けており、前回も述べたリンゴ・スターの
影響はそれに因ります。さらにドラミングに関しては元祖スピードキング バディ・リッチに
傾倒したとの事で、前述した通り基礎を徹底的に練習した事と併せてあの様なテクニカルなプレイが
可能になったのだと思われます。
音楽的にはモータウンやスタックスといったソウルミュージックにも夢中になった様であり、この辺りは
ピーター・ガブリエルと共通します。もっとも折に触れ書いている事ですが、英国人のブラック
ミュージック好きは本国以上であり、米白人が ” 黒人のソウルとかR&Bなんて … ” と言っていた頃に、
海を隔てたイギリスの若者はその虜になっていたのです。
上はこれまた大ヒットしたフィルの2ndアルバム「Hello, I Must Be Going!(心の扉)」(82年)からの
シングルカットである「You Can’t Hurry Love(恋はあせらず)」。言うまでもなく初出は
シュープリームスによるモータウンの大ヒットであり、フィルをはじめとして多くのミュージシャンに
カヴァーされ続けているスタンダードナンバーです。私の世代(昭和45年生まれ)にはフィル版が
本曲の原体験であります。役者でハマり役という表現がありますが、フィルにとっての本曲は
まさに ” ハマり曲 ” であったと思います。ちなみに以前にも書きましたが、この大ヒットを皮切りに
80年代前半から中頃にかけて本曲に代表されるモータウンビートのリバイバルが興ります。
ホール&オーツ「マンイーター」、ビリー・ジョエル「あの娘にアタック」、カトリーナ&ザ・ウェイブス
「ウォーキング・オン・サンシャイン」、そして本家本元であるスティーヴィー・ワンダーによる
「パートタイム・ラヴァー」など。日本においては桑田佳祐さん作で原由子さんによる
「恋は、ご多忙申し上げます」が極めつけでしょう。

前回フィルのキャリアはジェネシスのドラマーとして始まる、と書きましたが実を言うとこれは
正確ではありません。ジェネシスの前にフレイミング・ユースというバンドに在籍し、一枚だけですが
アルバムも残しています。そのバンドの名前は昔から知っていましたが、白状すると聴いたのは
今回が初めてです。もっとも80年代はとても手に入りませんでしたからね。
今はこんなレアな映像も容易に観る事が出来るのでとても良い時代です。上のフレイミング・ユースの
動画は当然口パク・当て振りでしょうが、若きフィルを、髪の毛がふさふさのフィルを見る事が
出来る貴重なものです・・・━(# ゚Д゚)━ 謝れ!フィルに、全国の〇ゲに謝れ!!(オマエもな … )
ドラマー、もしくはある程度音楽に詳しい方は気が付かれたかもしれませんが、フィルのドラムセットは
通常と左右が逆、つまり左利きです。ディープ・パープルのイアン・ペイスと共に左利きドラマーの
代表とも言えるフィルですが、私は左利き用セットがそのプレイに与える影響は全くないと
思っていますのでこれには言及しません。それよりも興味深いのは、本動画においてライドシンバルを
シンバル面に対して垂直に(上下の往復で)叩かず、斜め45度位から左右に振り子の如く叩くショットが
確認できる事です。これはリンゴ・スターがよく演っていたプレイスタイルであり、決してドラムの
教科書的には良い奏法ではないのですが、リンゴ独特のグルーヴを醸し出す一因なのではないかと
私は思っています。フィルのリンゴへ対するリスペクト具合が伺い知れる映像です。

ピーター・ガブリエルがジェネシスを離れた後、当然バンドはピーターに代わるヴォーカリストを
探します。ところがピーターの離脱が世間にアナウンスされたのと実質的な脱退時期にはタイムラグがあり、
バンドはピーターが抜けた事を伏せながら新ヴォーカリストを募集しました。新聞広告も打ったそうであり、
そこでは ” 当方ジェネシスタイプのバンド、ヴォーカル求む ” としたとの事。
何人かオーディションをしましたが、これは!という人材に当たる事はなく、結局は以前からヴォーカルを
取っていたフィルで良いだろう、という消去法的な決まり方だったそうです。人生というのは全く
何が起こるかわかりません。それが彼らを世界的なバンドへ押し上げる要因の一つとなったのですから。
上は最初の動画である「Squonk」と同じくピーター脱退後初となるアルバム「A Trick of the Tail」より
「Mad Man Moon」。「月影の騎士」あたりに収録されてピーターが歌っていてもおかしくはない
楽曲ですが、これはフィルの方が適役であったでしょう。前回取り上げた「モア・フール・ミー」と
同様に、彼のソフトな歌唱によってバンドの新境地を切り開いています。新生ジェネシスの到来を告げ、
新しきメインヴォーカリスト フィル・コリンズの魅力を余すことなく伝える名曲です。
余談ですが、ピーターが抜けた事によって「A Trick of the Tail」からバンドのセンチメンタリズムが
増したと言うのは正確ではなく、「月影の騎士」ではピーター以外のメンバー(特にトニー・バンクス)の
発言力が強くなって「月影の騎士」はあの様に洗練されたものに一旦なったのですが、
「幻惑のブロードウェイ」でピーターが独走してしまった為、かくの如く「幻惑のブロードウェイ」は
シュールな作風に戻り、そしてピーターが去って「月影の騎士」を踏襲、というよりも更にロマンティックな
側面を推し進めた作品が「A Trick of the Tail」である、というのが正確な所です。

次回、フィル・コリンズその3へ。

#162 Phil Collins

前回の最後にてフィル・コリンズについて触れました。ピーター・ガブリエル特集のラストなのに
何故フィルの事を?と思われた方もいるかもしれません。そう、貴方は鋭い。今回からの伏線でした。
一人くらいは気づいた方いますよね? … いるんじゃないかな … いたらイイな …… イテクダサイ ………
あなたバカなの~?誰もこんなブログ見てないわよ~!おーほっほっほーーー!!! J( ゚∀゚)しo彡゚
イヤーーー!!!ヤメテーーー!!! 0(*>д<*)0=・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

https://youtu.be/57HicYcY4Ow
という訳で、これからしばらくはフィル・コリンズ特集です。ただしフィルの場合はシンガー・
コンポーザーとして、
またドラマーとしての側面と大きく分けて二つについて論じる必要があります。
どちらかに的を絞ろうかと思いましたが、せっかくなので両面について書いていきます。
であるからして、本特集もかなり長くなります。
フィル・コリンズなのに何故にいきなりシュールな動画のサムネが?と思われる方もおられるでしょうが
別に間違ってはいません。フィルのミュージシャンとしてのキャリアはジェネシスにドラマーとして
加入したところから始まります。ジェネシス回#22~24にて触れた事ですが、ジェネシスは貴族の子弟が
作ったバンドです。しかしそれはオリジナルメンバーの事。後から入ったフィルとギターのスティーヴ・
ハケットは一般階級の出でした。
80年代における彼のドラミングしか知らない層にとって、この頃のプレイはかなり刺激的でしょう。
当時の英プログレッシブロックの多くがそうであった様に、ジェネシスの音楽もかなり複雑で尚且つ
テクニカルです。当然フィルのプレイもそれに沿ったものであり、彼はそれを表現できる卓越した
技術を持つドラマーでした。#22で書いた事ですが、80年代の人気絶頂期に来日公演にて
女子大生風の(おそらく)にわかファンが ” フィルってドラムも叩けるのね~www ” と
のたわまったのは都市伝説、と思いきや、難波弘之さんが彼女達の隣で聞いていたという事も
#22で述べた話。”ドラムも ” ではなく ” ドラムが ” 本職のミュージシャンなのです。
上は初期ジェネシスの名盤「Foxtrot」(72年)におけるオープニング曲「Watcher of the Skies」。
出だしにおけるメロトロンの音色でノックアウトされてしまいますが、続いてフェイドインしてくる
一転してリズミックな6/4拍子のフレーズがとんでもないことこの上ない。ちなみにこの6/4の
パートはモールス信号をイメージしたとか。そして普通の四拍子に移ってからもフィルのプレイは
圧倒的です。おそらく80年代以降のフィルしか知らない方たちは” フィルってこんなに
ドラム巧かったんだ ” と思う事でしょう。そうです、彼は凄腕のドラマーなのです。速く細かく動く手足、極小のピアニッシモから特大のフォルテシモまで叩き分けるダイナミクスレンジの広さ、
フロントのプレイに対して打てば響くといった様な見事なレスポンス及びそのセンスなど、
当時のイギリスにおいてもトップクラスの技巧・センスを誇るドラマーでした。

フィルがジェネシスのメインヴォーカルを担当するようになったのは当然の如くピーター脱退後、
アルバムで言えば76年の「A Trick of the Tail」からですが、実はピーター在籍時にもリードヴォーカルを
取っています。加入後初の作品「Nursery Cryme(怪奇骨董音楽箱)」(71年)に収録された
「For Absent Friends」にて既にその歌声を披露しており、うっかりするとピーターかと
思ってしまう程に二人の声質は似ています。
上は73年の名作「Selling England by the Pound(月影の騎士)」より「More Fool Me」。
本作からジェネシスの音楽性はより叙情味を増し甘いものへと変化していきましたが、
本曲は収録曲中最も甘くハートウォーミングな楽曲。多分ピーターが歌っていたならその少しくぐもった
鼻にかかる声にてクセのあるものになっていたのでしょうが、これはフィルが歌って大正解。
あまり取り上げられる事がない楽曲ですが、フィルの歌唱において隠れた良曲です。

フィルの名声を世界的なものにしたのは言うまでもなく初ソロアルバム「Face Value(夜の囁き)」及び
本作からの1stシングル「In the Air Tonight」(81年)です。参考までにシングルの各国における
チャートアクションを列挙すると、独・仏・蘭・スウェーデン・スイス・オーストリア・NZでNo.1、
本国英と加で2位、豪で3位という特大ヒットを記録。アルバムも前述の国々及び米においても1位から
7位というこれまたトンデモないもの。
「In the Air Tonight」は一聴するとお世辞にも耳馴染みの良いポップソングではありません。
しかしながらこれほどの大ヒットとなったのは、それまでの徐々に高まりつつあったジェネシス人気の
流れにおける上で満を持してのソロデビューという効果があったのは否めませんが、やはり本曲の
特にサウンド面における先進性がアンテナの鋭い層へ訴えかけたのだと思います。
サウンド、言い替えると音色面という事ではピーター・ガブリエル回でも言及したドラムにおける
ゲートリバーブについて触れる事が必須ですけれども、今回もだいぶ長くなってしまったので
その点については次回以降で折に触れ述べてみたいと思います。

今回の最後は「夜の囁き」におけるエンディング曲である「Tomorrow Never Knows」。
言うまでもなくビートルズナンバーですが、あまりにも多くの要素が詰め込まれています。
実はフィルは幼少期に子役として活動しており、映画『ビートルズがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ!』
にエキストラ出演しています(ほんのちょっと映っている程度らしいですが)。
フィルのドラミングには間違いなくリンゴ・スターのエッセンスが反映されています(それは本曲のみならず
全てにおけるドラミングにて)。「Tomorrow Never Knows」ではイントロにおいて無機質な
リズムマシンでフェイドインしてきたかと思えば、いきなりエコーの効いたハイピッチなドラム
(特にタムタム)が始まります。勿論原曲におけるリンゴのプレイ・音色を尊重しての事でしょう。
テクニックという点では大変失礼ながらフィルの方がリンゴよりも圧倒的に勝っていますが、
そのフレーズのセンスや先進的なアイデアという点において、二人には近いものを感じるのです。

続きはまた次回にて。

#161 Peter Gabriel

https://youtu.be/5N5HSDvaZcI
86年のアルバム「So」にて大成功を収めたピーター・ガブリエルは、92年に「Us」を発表します。
上はオープニング曲である「Come Talk to Me」。パーカッションなどには相変わらずの
アフリカン・ラテンのテイストが感じられますが、本曲ではバグパイプなど欧州独自の楽器も
使われており、もはや多国籍を通り越して無国籍といった感じです。原点回帰であるのかも。

厳密には「So」と「Us」の間にはサントラである「Passion」(89年)と、ベスト盤の
「Shaking the Tree: Sixteen Golden Greats」(90年)がリリースされています。
「Passion」はマーティン・スコセッシ監督という映画オンチの私でもその名を聞いた事が
ある人による『最後の誘惑』という作品の為のもの。映画の内容も物議を醸しだしたそうですが、
「Passion」の方もかなり難解な音楽性です。それでも一度火が付いた人気というのは凄いもので、
その様な内容にも関わらず米でゴールドディスクを獲得しています。
ベスト盤の方は選曲に関して無難な内容であると個人的には思っています。そのせいか否かは
分かりませんがこれまた大ヒットし、米でのダブルプラチナ(200万枚以上)をはじめとして
各国でプラチナ・ゴールドに認定されました。
上の動画は94年のライヴアルバム「Secret World Live」における「Digging in the Dirt」
(アルバム「Us」より)です。ジェネシス時代からその独創的なステージアクトによりコンサートにおいて
カルトな人気を誇っていたピーターでしたが、それはやはり大多数による支持ではありませんでした。
本作においてようやく永い年月をかけてピーターのパフォーマンスが世に認められました。
ジェネシス時代やソロ初期におけるシュールなメイク・コスチュームなどは影を潜めましたが、
その精神は間違いなく本作でも息づいています。百聞は一見に如かずなので上の動画はもとより、
全ての映像がユーチューブで上がっていますので興味のある方は是非。
本作はレコード・CDとしても米でゴールドに認定されていますが、映像パッケージ(VHS・LD・
DVD等)で98年にゴールド、06年にはプラチナを獲得しています。私は音楽の映像モノというのには
あまり詳しくないのですが、プラチナに認定される作品というのは決して多くないようです。
マイケル・ジャクソンやマドンナといった人達なら普通にそれくらい売っているのでしょうが、
ピーターのライヴ映像がここまで世に受け入れられるというのは永年のファンとしては感慨深いものです。
本作からもう一曲。4thアルバムに収録されている「San Jacinto」。アルバムには未収録です。

夢は必ず叶うとか努力はきっと報われるといった無責任な物言いを私は全く信じていません。
そしてピーターもこれだけの才能に恵まれながら世間に認められないまま終わっていたとしても
おかしくなかった一人であるという事は前回も書きました。またジェネシス初期やソロ活動の
当初におけるあまりにも独創的な音楽性やステージアクトが、決して理解されなくても構わないという
自己満足的なものではなく、むしろ自分の創造精神を理解して欲しいが為に行った故の事であるという事も
これまで述べてきました(子供時代における彼独自の ” サービス精神 ” など)。
キワモノ的扱いを受けてきたピーターは、ジェネシスでのデビューから86年の「So」における
世界的成功まで15年以上に渡って栄華とは無縁の存在でした。それが「So」以降は独創的ミュージシャン、
ワンアンドオンリーの創造者という180度変わった評価を受ける事となります、世間は勝手ですね …
ありきたりな言い方になりますがこの成功は決して信念を曲げなかったからでしょう。多少のポップ化、
悪く言えば世間への迎合はありましたが(それでも「スレッジハンマー」の ” あのPV ” ですが …)、
世間を・時代を自分の方へ引き寄せた稀有なミュージシャンです。

ピーター・ガブリエルは勿論の事、ジェネシスも三人で一応存続しています。あと#158でうっかり
書き忘れたのですが、86年におけるピーターとジェネシスによる同時期の大ヒットの陰で
忘れ去られがちですが、ジェネシスの元ギタリスト スティーヴ・ハケットもこれまたプログレ界の
スーパーギタリスト スティーヴ・ハウと共に結成したバンド「GTR」(アルバムタイトルも同)が
これまた同年にアルバム・シングルともにTOP20入りするという、まさしくこの年は
” ジェネシス年 ” だった訳です。ハケットも現役で活動しています。
上でジェネシスが  ”一応 ” 存続と書きましたが、洋楽通ならご存じでしょうけれどもフィル・コリンズが
かなり前から心身ともにあまり良い状態ではなくなっています。脊髄をおかしくし、そのせいで手が
思うように動かずミュージシャンとしては致命的な身体の状態となってしまいます。
また80年代は世界一忙しい男との異名を取った程ワーカホリックな人でしたが、その反動や病気が
影響したのか老年性の鬱病を発症してしまいます。これまで何度も引退とカムバックを繰り返して宣言し、
口の悪い輩からはビリー・ジョエルと共に引退するする詐欺などと失礼な言われ方をされてきました。

以上でピーター・ガブリエル特集は終わりです。9回にも渡ってしまいましたが、思い入れのある
ミュージシャンなのでこれでも書き足りない程です。出来るだけ客観的に綴ったつもりですが、
ピーター・ガブリエルをよく知らない方々にはどう映ったでしょうか?
本ブログにて多少でも興味を持って頂ければ幸いです。

#160 Big Time

その表現方法が独特な人、言い替えれば傍から見ると我が道を行くクリエーターというのは、
ともすれば売れる事を拒否しているのかと捉えられがちです。しかし当人にすれば、いたって真面目に
それが世の中に受け入れられるはずだ!という信念のもとに行っている事が少なくありません。
ベクトルが一般人とはちょこっとズレているだけで・・・・・

大成功(Big Time)が間近に迫っているピーター・ガブリエルはやる気にみなぎっていました。
3rdアルバムこそ全英1位を獲得したものの世界的な成功とはまだまだ言えず、古巣のジェネシスと
大きく差を開けられていたというのは#157で述べた事ですが、83年頃を境にピーターの中では
メンタルにおける変化が起こっていて前向きな方向へ向かっていたそうです(躁鬱ともいえます … )。
上の「Big Time」は「スレッジハンマー」に続く全米TOP10ヒット。” もう少しだ、もう少しで
成功出来る所なんだ! ” という、まるでこの後のピーターを予言している歌の様にも取れますが、
その歌詞の中身は成功を切望している人物を自嘲的に描いたもの。
とは言え、ピーターの中に何らかの変化があった事は周囲の人物からのコメント等で伺い知れます。
その直前には離婚の危機にあった妻ジルは ” 成功したいんだ!突き抜けてやる!何でもやってやる!” と
ピーターが語っていたと述べており(この頃は夫婦関係も良好になっていた)、3rdから参加している
ギタリスト デヴィッド・ローズもピーターには功名心が溢れていたと証言しています。
4thアルバムまでは全てが「Peter Gabriel」というタイトルであったのを、86年の「So」から
タイトルを付けたのもその辺りが理由だそうです。ピーターはアルバムに名前を冠する事を
無意味だとその時点でも思っていた様ですが、レコード会社サイドからせめてタイトルは付けてくれ、
という要請に対し仕方なく応じたそうです。これだけでも彼にとっては大きな妥協です。
さらにはアルバムジャケットにもその変化が伺えます。1stはフロントガラス越しに車内にいる
心霊写真の如き顔。2ndは正面を見据えて指で何かを引っ掻いているもの。3rdは顔が解けており、
そして4thに至ってはアフリカの部族が儀式に使う人形の様にカリカチュアされた顔です。
どれ一つを取っても ” まともな ” ジャケットが無かったピーターでしたが、「So」においては
” フツウ ” になります。元々男前なのですからはじめからそうすれば良かったのでしょうが、
本人の中では何か許せないものがあったのでしょう。本作では80年代風に短く整えられた髪型と
シックな黒服という ” 洒落乙 ” なものとなりました。
ちなみに「So」に全く作品との関連性は無く、ただ単に言葉の響きが良かっただけ、との事。

「Big Time」のドラムはポリスのスチュワート・コープランドで、ベースは言うまでもなく
トニー・レヴィンです。本曲にはちょっとしたウラ話があり、初期から参加している
ジェリー・マロッタが当初ドラムトラックを録音したのですが、結果的にはコープランド版が
採用されました。#156で触れましたが、「So」以前はバンドのギャラも工面できない程に
金銭面で苦労していました。しかしジェリーをはじめとするバンドのメンバーは正式な契約も
交わさずに、ピーターの仕事の為には他のスケジュールも押しのけて参加していました。
「So」の製作段階ではジェリーはポール・マッカートニーのツアーに加わっており、
ピーターからお呼びがかかった事で散々苦労してポールに一週間のお暇を頂きレコーディングに
参加したそうです。そこで「Big Time」のジェリーによるドラムが録られたのですが、
前述の通りそれはボツになります。ジェリーはこのプレイを自身でも指折りのプレイと
思っており、ピーターに対して何とか考えなおしてもらえないか?と頼んだそうです。
ピーターは決して結果の為には血も涙も無く全てを切り捨てられる人ではありません。
生まれが良いのと典型的な英国人気質で、言いたいこともなかなか言えないタイプです。
実際はじめてジェリーを迎えに行った道中で、ピーターは何か話題を見つけてジェリーを
話しでもてなそうとしているのに上手く話せずにいました。ジェリーはサバサバしたこれまた
ティピカルな米国人であるので、” 気を使うなよ!ピーター! ” と慰めたそうです。
そんなイイ奴のジェリーを切ってまでコープランドヴァージョンを使ったのですから、
ピーターの葛藤は相当なものだったでしょう。裏を返せば、例え気弱でも譲れない所は
テコでも譲らない創造主としての精神が表れています。でもジェリー版も聴いてみたい …
付け加えると1stから参加しているキーボードのラリー・ファーストとも袂を分かっています。

「Mercy Street」はピーターが以前から好んでいた米女流詩人にインスパイアされた曲。
その歌詞同様に曲調もメランコリックなものですが、リズムはラテンチックなのが興味深いです。
元のタイトルは「フォロ」であったとの事。昔ブラジルに出稼ぎへ行っていた英・アイルランドの
建設従事者は現地でハチャメチャなパーティーをしていたらしく、そのうちにブラジル人でも
誰でもその宴に迎え入れる様になる ” For All(誰でも大歓迎)” がブラジル流の発音では
” フォロ ” になり、その時に演奏されていた音楽のリズムそのものを指す言葉になったそうです。
勿論本曲におけるリズムはそのフォロを基にしているのは言わずもがな。

発売当初、プレスの評価は従前の作品同様に賛否両論、両論極端なものだったそうです。
ある者は ” 永遠に希望が湧き出る地球的メッセージ ” と絶賛し、またある者は ” 退屈・わざとらしい ” と
酷評しました。リリース前後にプロモーションを行いますが、あるコンサートのために
発売月の86年5月末に一旦そのプロモーションを中断、その後11月から米でソロツアーを開始します。
この頃には「スレッジハンマー」の大ヒットもあり客層は広がっていました。
アメリカ・カナダにおける約一年のツアーは当初あまり話題になっていなかったそうです。
オーディエンスも「So」で初めてピーター・ガブリエルを知った人が多く、昔の曲をよく知らないという
状態でした。しかしその内容の素晴らしさが徐々に広まり、プレスの評価も高いものとなっていきます。
奇抜なメイク・コスチュームといったものはなくなりましたが演劇的要素は健在で観客を惹きつけます。
そうして87年6月、カナダでの日程を終えてアメリカに戻ってきた一発目のニュージャージー州の
スタジアム公演では五万人以上を動員するという記録を打ち立てました。

本アルバムが傑作であることは揺るぎない事実ですが、あえて唯一難点を挙げるとすればエンディング曲で
ある上の「We Do What We’re Told (Milgram’s 37)」です。これは市井のリスナーや評論家筋の
多くが言っている事で、これに関しては私も同感です。一応本曲についての説明をすると、副題である
『ミルグラムの37(%)』というある実験が基になっています。詳しく説明するスペースも無いので
興味がある方はミルグラムで検索を。5秒で説明すれば ” 人は権威の指示によりどれだけ残酷になれるか ”
といったもの。” We Do What We’re Told=言われた通りにやっただけだ ” 、という事です。
歌詞の内容もあまりピンと来ませんし、楽曲にもあまり秀でたものが感じられません。
それでも好意的に捉えるならのなら、商業的成功を狙いに行った本作でもなお、トライアル精神を
失わなかったという点くらいでしょうか・・・・・

ピーター・ガブリエルの代表作にて最大のヒット作となった本アルバムは米だけで500万枚以上、
英ではトリプルプラチナ(英プラチナディスクは30万枚以上なので、約100万枚といった
ところでしょうか)。その他ドイツとオランダでプラチナ、フランスでゴールドディスクに認定されます。

夢は必ず叶うとか、努力は必ず報われるといった無責任な物言いを私は全く信じていません。
実際にあることを願い、当人としては寝食を忘れ精進を続けたのに全く世に認められなかった人は
大勢います。いや、むしろそういう人の方が圧倒的に多いでしょう。
ピーター・ガブリエルもそういう人生を送っていたとしてもおかしくはありませんでした。
その特異な才能は、ある程度音楽に精通した人間であれば認めざるを得ないものです(好む好まないは
別として)。ですが、才能があっても商業的結果を残せなかったクリエーターはたくさんいます。
時代にそぐわなかった、宣伝広告が行き届かなかった、業界の大物に嫌われた等々 … 。
ピーターもそれで終わっていたかもしれないミュージシャンの一人です。私は運命論など毛ほどにも
信じていない人間ですが、それでもやはり運命の様なもので、天が結果をもたらしてあげたのでは?
と思わざるを得ない人がいます。ピーター・ガブリエルもその一人なのです。
余りにも独特な音楽性、歌詞の世界観、そしてステージングアクト。これまでコマーシャルな意味では
デメリットでしかなかった事柄が全て正の方向で結実します。そしてそれはこの後の活動においても。
本作で味を占めて「So」第二弾をまた作っていたならそれはなかったかも・・・・・
おっと、また長くなりすぎました。続きはまた次回にて。

#159 In Your Eyes

今日では有名なワールドミュージックの祭典であるWOMADがピーター・ガブリエルを中心に
始められたという事は前々回述べました。3rdアルバムの「Biko」などに象徴される通り、
80年代に入ってからのピーターはアフリカ等の第三世界、及びそれらの国々で未だ解決されていない
人権問題などに着目しました。後に世界的シンガーとなるユッスー・ンドゥールや、
フランス国籍の黒人ドラマー マヌ・カチェなどは86年のアルバム「So」にて世間の注目を
浴びる事となった訳ですが、ピーターが彼らを起用した背景は前述の活動が下地としてありました。

前回に続き「So」について。上はA面三曲目に収録されている「Don’t Give Up」。
本曲はイギリスにおける失業問題を歌っています。00年代以降イギリスは景気を取り戻して
いきましたが、80年代中頃は ” 英国病 ” とも言われる、過去に行われた過度な福祉政策
(ゆりかごから墓場まで。というやつ)によってまだまだ永く続いた不景気の真っ只中でした。
特に若者の失業は70年代から続く深刻な問題だったそうです。
デュエットの相手は言わずと知れたケイト・ブッシュ。ケイトの唯一無二の歌声が素晴らしいのは
言うまでもないのですが、ピーターの歌唱も筆舌に尽くしがたいものです。
その独特な音楽性や歌詞、時に奇抜とも言えるメイクやステージアクトによって見過ごされがちですが、
シンガーとしての実力は並々ならぬものです。ケイトのパートが終わってピーターの歌に戻る
3:20過ぎからの歌には鳥肌が立ちます。
本曲はそもそものイメージとしてはカントリーバラードがあったそうですが、出来上がったものは
ゴスペルの要素をも含んでいる様に思えます。いずれにしても素晴らしい楽曲に変わりはなし。

A-④の「That Voice Again」はオープニングの「Red Rain」同様に快活なリズムトラックの上で
哀愁感漂うピーターの歌及び世界観が展開されます。本作よりかなり前に、映画の構想と共に
創られたという点においても「Red Rain」と共通しています。マヌ・カチェのドラムが秀逸過ぎます。
ちなみにピーターとマヌは反アパルトヘイトに関するコンサートで知り合ったとの事。

後半で聴く事が出来るユッスー・ンドゥールの歌が印象的である「In Your Eyes」ですが、
実は他にもコーラスでシンプル・マインズのジム・カーや、ピアノにリチャード・ティーの名前も
クレジットされています。
ンドゥールが世界的歌手となるキッカケとなった事は先述の通りですが、これはピーターの方から
ンドゥールへラブコールを送ったのがはじまりだそうです。ンドゥールとコンタクトを取るためには
直接セネガルまで出向かねばならず(何故ならンドゥールの家には電話がなかったから)、
そこでンドゥールのステージを観る事となりました。彼はその時点ではセネガルの国民的歌手と
なっており、そのライヴにピーターは大変感銘を受けたとの事。余談ですがこの時まで
ンドゥールはピーター・ガブリエルというミュージシャンを知らなかったそうです。
「So」への参加の約束を取り付け、いざそのレコーディングの時がやって来ます。
当初ンドゥールは英語で歌おうとしたのですが、セネガルの言葉であるウォロフ語にそれを訳して
即興で歌い始めました。あまりの素晴らしさにピーターがそれに加わり、とてつもなくエキサイティングな
瞬間が生まれたそうです。
86年の後半から翌年まで約一年の間、ンドゥールはピーターのツアーに同行しました。
ピーターはンドゥールを紹介する際に ” 素晴らしいミュージシャンを紹介します。彼はアフリカから
最高の音楽を持ってきてくれました ” という言葉を用いました。ンドゥールはこれに
大変感激しました。観客は最初のうちこそ ” 誰だこのアフリカ人は? ” という反応でしたが、
彼の歌を聴くうちに ” もっと演ってくれ! ” 
となっていったそうです。
本曲はラテンフィール、アフリカン、そしてゴスペル等の要素が良い意味でごった煮になった様な
まさしく ” ワールドワイド ” な名曲です。

本曲を皮切りにンドゥールは西欧で知名度を上げ、ポール・サイモンのヒット曲などにも参加し
スター街道を突き進みます。上はンドゥールのソロアルバムにおけるピーターとのデュエット曲である
「Shaking The Tree」(89年)。翌90年におけるピーターの初となるベストアルバム
「Shaking the Tree: Sixteen Golden Greats」のタイトルともなり再録されています。

ピーター・ガブリエルの「So」についてはまたまた次回まで続きます。

#158 Sledgehammer

音楽性と商業性、商業性はエンターテインメント性と言い替えても良いですが、
この二つが両立し辛いというのは今までにも何度か書いてきました。
音楽性を重視すればわかりづらい、独りよがりの音楽だなどと言われ、コマーシャルな
方向に走ればやれ売れ線だ、金に目がくらんだ、などと好き勝手な批判をされます。

ピーター・ガブリエルが86年5月に発表したアルバム「So」は質の高さとエンターテインメント性が
両立している、ポップミュージック界において数少ない作品の一つです。
それまでジェネシスの元ヴォーカリスト、そしてイギリス本国 ” では ” 玄人受けしているミュージシャンと
いった程度の認知度でしかなかったピーターを一躍スターダムへと伸し上げた大ヒット作です。
上はオープニングナンバーである「Red Rain」。先ほどエンターテインメント性と言いましたが、
本ナンバーにおいてはその曲調及び歌詞は決して明るくありません。「Red Rain」とは血を意味しており、
アフリカで繰り返される争いの事などを歌っている様です。ピーター曰く ” 情念的なバラード ” であり、
確かに胸が切なくなるような歌唱です。
スチュワート・コープランド特集にて(
#95)、本曲のハイハットプレイがコープランド、
生ドラムがマヌ・カチェ、その他に打ち込みのドラムと書きましたが、よく調べたら生ドラムは
1stから参加しているジェリー・マロッタでした。ここにお詫びして訂正させて頂きます・・・・・
誰も見てねえから大丈夫だ (´∀` ) ……………………… ・゚・。・゚・。・゚・・゚・。・(ノД`)・゚・。・゚・。・゚・。・゚・。・゚・。
そのハイハットやリンドラムは振りしきる雨を表現したものです。三種のドラムの連なり合いも素晴らしいのは言わずもがなですが他のパートも見事過ぎ。ベース トニー・レヴィン、ギター デヴィッド・ローズと
いったリズム隊はお馴染みの面子でありケチの付け様がないプレイ。キーボードはピーターによるもので、
フェアライトCMIやプロフェット5といった80年前頃に発売されたデジタルシンセの黎明期における名器。
ピーターはこれらの楽器にかなりインスパイアされたそうです。自伝にもCMIを弾いているスナップが
掲載されています。リズムトラックだけ取れば快活でさえあるのに、曲調及びピーターの歌は厳粛さを
備えています。前作を踏襲しながら見事にポップミュージックせしめた楽曲であり、ともすれば本作の
ベストトラックではないかと個人的には思っています。

以前から折に触れ書いてきましたが、イギリス人のブラックミュージック好きはヘタすりゃ本国を
上回るかも?といった程です。ピーターもご多分に漏れず、アカデミックなクラシックの教育には
興味を示せず、10代の頃にはオーティス・レディング(#141~144ご参照)などの
ソウルミュージックへと傾倒します。
「Sledgehammer」はピーターなりのソウルミュージックと言えるでしょう。ファンキーな
ホーンセクションが印象的ですが、その中にはスタックスレーベルのメンフィスホーンズに
在籍していたプレイヤーもいます。つまりオーティスのサウンドを担っていたミュージシャンが
20年近くを経て、それを聴きまくり憧れていたピーターのソウルサウンドにまた色どりを添えたのです。

本曲について語られる時、必ずその独特なプロモーションビデオが話題に上がります。80年代から
MTVの普及により、ミュージシャンにとってPVは欠かせないものとなりました。
私は映像表現というものにあまり詳しくなく、あくまで主体は音楽であると思っているので、
時に音楽そっちのけでPVばかりについて語られる事に違和感を抱き続けていました。
しかしそんな私でも本曲のPVは秀逸であると認めざるを得ないのでそれについて書きます。
本PVにおける一番の特徴はコマ撮りというもの。アニメーションの様に一コマずつ撮影したものを
連続再生し映像とするのですが、アニメは出来るだけ細かくコマを撮って滑らかな動きを
追求するのに対して、あえて粗く撮りカクカクした動きにしています。
それでも実際の人間でそれを撮るのは大変だったらしく、かなりの時間が撮影に費やされたとの事。
機関車のシーンはたった十秒間なのに、機関車とそれから発せられる煙の動きを合わせる為に
ピーターは六時間じっとしていなければならなかったそうです。そして生魚も出てきますが、
これもそのままにしておかなければならず、スタジオの照明に当てられ酷い悪臭を放ったとの事。
もう一つの特徴は粘土細工をコマ撮りにしたクレイアニメというもの。70年代からこの手法は
あったらしいのですが、一般にこれを知らしめたのは本PVによってではないかと思われます。
これ以降テレビコマーシャルなどでもこの手法を用いたものを見るようになったと記憶しています。

スレッジハンマーとは大槌の意ですが、PVでもかなり露骨な描写があるのでお分かりかと
思いますが男性のチ ………… 男性の生殖器のメタファー(隠喩)となっています。
ピーターは本曲における歌詞の源流はブルースにあると述べています。ブルースなどは
労働の苦しみ、つまり ” やってらんねえぜ!こんな生活! ” みたいなものか、あとはセックスに
関するものが殆どです。勿論ロックもその流れを継いでいるのは言わずもがなです。

本PVの監督はスティーブン・ジョンソンという人物。まだ駆け出しのビデオ監督だったのですが、
ヴァージンレコードのスタッフからこの監督を紹介されます。ちなみにカリスマレーベルは
この時点でヴァージンレコードの傘下に入っていたので、本作のイギリス本国における発売元は
カリスマ/ヴァージンとなっています。
余談ですがジョンソン監督をミュージックビデオにおいて初めて起用したのはトーキング・ヘッズです。
85年の「Road to Nowhere」のPVにてその独特な映像が発揮されています。

「スレッジハンマー」は瞬く間にチャートを駆け上がり、英にて最高位4位を記録し、そして米においては
No.1を獲得します。ちなみにその前週までの米No.1はジェネシスの「インヴィジブル・タッチ」。
つまりジェネシスツリーがこの時期において世界のミュージックシーンを席巻したのです。
70年代におけるピーター在籍時にはその特異な音楽性やステージング(専らピーターによる)から
キワモノ的扱いをされてきた彼らがついに時代の頂点を極めたのです。嘘か誠か知りませんが、
往年のジェネシスファンは涙を流し、赤飯を炊いて祝ったとか祝わなかったとか・・・・・

本曲のPVについては流石にマイケル・ジャクソンほどではなかったにせよ、かなりの予算が
費やされたそうです。その額は12万ポンド。80年代半ばのポンド円レートが250円位だったので
日本円にしてざっと三千万円。3rdアルバムこそ本国を含む欧州でヒットしたとは言え、北米つまり
世界的にはヒットの無かったピーターにとっては破格の経費でした。しかし結果的にはこれが功を奏します。
87年のMTVアワードを受賞し、楽曲・PV共に世界中で聴かない・観ない日は無いのではないかと
思われる程でした。リアルタイムで経験した私が言うので間違いありません。

冒頭の二曲だけでこれだけのスペースを費やしてしまいました。本作については複数回に分けます。

#157 The Rhythm of the Heat

WOMADというワールドミュージックの祭典があります。現在ではギネスブックに載るほどの
メジャーなフェスティバルですが、これはピーター・ガブリエルが発起人となり始まったものです。
しかし最初から上手くいった訳ではなく、82年における第一回目は多額の赤字を被ったとの事。
その窮状を見かねてフィル・コリンズ達はカンパを提案しましたが、そういう事には意地っ張りな
ピーターはそれを受け取らないだろうという事で、赤字を補填すべくフェスの五週間後に
ジェネシス再結成コンサートが行われたのです。

再結成ライヴは決して出来の良いものではなかったそうですが、それでも再び彼らが一堂に会したのは
非常に意味がありました。一つのエピソードとして、カリスマレーベルの創業者であり兄貴的存在であった
トニー・ストラットン・スミスが亡くなった後、遺品であるノートにおいて ” あの再結成ライヴは
良かった ” という記述があり、ピーター達は胸を熱くしたそうです。
上は4thアルバム「Peter Gabriel」(82年)のオープニング曲である「The Rhythm of the Heat」。
” リズミック ” ”アフリカン ” というコンセプトはここに極まれり、という楽曲です。
静と動が同居、もっと具体的に言えば厳粛なパートがあったかと思えば、脳内麻薬が出ているかのような
打楽器の乱れ打ちも。前作の音楽性を更に押し進めた本曲は当アルバムを象徴しています。

「San Jacinto」もアフリカ音楽的な楽曲。古の大地を想起させる様なサウンドです。最もピーターと
してはアメリカのインディアンをイメージして作った曲だったとの事。

アフリカンファンクとでも呼ぶべき「I Have the Touch」は、身体的接触に馴れていない英国人が、
返って肌に触れる事で異常に性的興奮を覚えるといった内容。

実はジェネシスを脱退した頃のピーターに対して映画の話があったそうです。本作や86年の「So」に
おける楽曲のいくつかはそれ用に書かれたものだったとの事。
彼は早い時期からプロモーションビデオに力を入れていましたが、その独特なステージアクトと同様に
視覚へ訴えかける手段を重んじていました。勿論それが86年のNo.1ヒット「スレッジハンマー」の
PVにて華開いた事は言うまでもありません。

本作からのシングル「Shock the Monkey」。最も親しみやすい楽曲であり、実際米では彼にとって
初のTOP40入りを果たします。評論家筋にはえらく不評だったらしいですが、いつの時代にも
けなすだけの簡単なお仕事はあるものです。ただし本曲は重要な意味を持っており、彼はモータウンの様な
ソウルミュージックを意識してこの曲を書いたらしく、最終的にはソウルっぽい雰囲気は失われて
しまいましたが、これは「スレッジハンマー」や「ビッグタイム」へと繋がる流れです。

「Lay Your Hands on Me」は触る事をタブーとされてきながら、身体的接触を求めるという歌詞。
「I Have the Touch」と対を成すような内容ですが、どちらもピーターの中にある感情の表れです。

エンディングナンバーである「Kiss of Life」は躍動感溢れるリズミックな楽曲。(多分)フランジャーを
かけたパーカッションが素晴らしい効果を上げています。

本作は結果的に前作程の成功を収める事が出来ませんでした。米ではゴールドディスクに認定されて
いますが、それは5thアルバム「So」の大ヒットを受けてから改めて売れた為(これは3rdも同様)。
当時は酷評する者が多数を占めたそうでしたが、一部ではその先進性を認めた評論家筋もいた様です。
この路線が決して間違っていなかった事は次作「So」で証明される訳ですが、その時本作を酷評した
連中はどう釈明したのでしょう。テレビの自称コメンテーターとかいうのと同じで、どうせ都合の悪い事には
ダンマリを決め込んだのでしょうけど … 世の中カンタンなお仕事が多すぎですね・・・・・

https://youtu.be/xz524Cm4YRw
4thアルバムのプロモーションツアーを収録したライヴ盤「Plays Live」が83年にリリースされます。
ソロとしては初のライヴアルバムである本作はセールス的にこそ決して奮いませんでしたが、
ピーターのライヴアクトの模様を切り取った秀作です。出来れば映像で観たい所ですが、この時のものは
出回っていません。ライヴバンドとして鳴らしたジェネシスは全員の演奏力も勿論でしたが、
ピーターのステージングに因る所が大きかったのは言うまでもありません。「So」「Us」の大成功を受け、94年にリリースされてこれまたヒットを収めた「Secret World Live」(こちらは映像有り)の
原点は間違いなく「Plays Live」にあります(厳密にいえばジェネシス時代からですが)。
上は3rdに収録される予定が未収録となり、コンサートのみで披露されていた「I Go Swimming」。
上のサムネはアルバムジャケットですが、ジェネシス時代同様の特異なメイク・コスチュームです。

https://youtu.be/z2jknuwzJE8
ピーターが映画に並々ならぬ興味を持っていた事は既述ですが、この時期にはサウンドトラックへ
楽曲の提供もしています。上は『カリブの熱い夜』に収録された「Walk through the fire」(84年)。
私と同世代(昭和45年生まれ)の洋楽ファンの方ならご存知でしょうが、本映画からは
フィル・コリンズによるタイトルソング「Against All Odds (Take a Look at Me Now)
(見つめて欲しい)」が全米No.1の特大ヒットを記録し(ちなみに年間シングルチャートでも
5位)、ピーターの方は完全に霞んでしまいました。もっともサントラの仕事はやれば小銭が
稼げるから、といった程度でこなしていたそうです。

この時期、妻であるジルと危機的な状況にあったそうです。殆ど家に帰らないピーター、
引っ越しをしたのですがその環境にジルが馴染めなかったという事、そしてピーターには
浮気相手がおり、精神的に不安定になったジルもこれまた不倫をしてしまいました。
ちなみにジルも貴族の家柄でイイとこのお嬢様。そしてメンタルの脆さはピーターと同様でした。
3rdにて躍進の兆しが見えかけたかと思われたピーターでしたがそれもつかの間、またまた
暗いトンネルへと突き進んでいくかの様でした。その後に関しては次回にて。

#156 Games Without Frontiers

ピーター・ガブリエルによるアルバム「Peter Gabriel」(80年)についてのブログその2ですが、
少し時系列を遡ってジェネシス時代の話を。
ジェネシス回 #22~24でも書きましたが、ピーターとその他のメンバーの間に確執が生まれ、
やがて脱退に繋がります。特にキーボード トニー・バンクスとの仲は険悪でピーターのやる事に
トニーはいつもピリピリしていたとの事(しかし仕事を離れれば学生時代からの通り親友でいられたらしく、この辺りは不思議なものです)。ベースのマイク・ラザフォードはトニー側に着き、フィル・コリンズと
ギターのスティーヴ・ハケットは傍観するといった感じだったそうです。フィルは特にバンドの
潤滑剤的存在らしかったので(リンゴ・スターの様な立ち位置か?)、脱退後もピーターとは
親しくしていたとの事。丁度その頃フィルは最初の結婚が破綻し、元来のワーカホリックに益々拍車が
掛かりました。ピーターは財政的に苦しい時期でありセッションミュージシャンへのコンスタントな
ギャラの工面も難しい状況にあったそうで、そんな折フィルにその話が伝わり自分を使えば良い、
と言った所ピーターは ” ありがたい ” となり3rdアルバムへの参加と相成った訳です。

「Games Without Frontiers」は戦争を子供の遊びに例えた曲。#152で取り上げたケイト・ブッシュが
バッキングヴォーカルで参加しています。「No Self Control」においてもそうですが、彼女の声が
入ると得も言われぬ幻想の世界に引き込まれてしまいます。本曲はピーターにって初の
全英TOP10ヒットとなりました。もっともピーターとプロデューサー スティーヴ・リリーホワイトは
シングル化に反対していたそうですけれども・・・

「Not One of Us」はここではよそ者や異邦人の様な意。一聴すると本作の中では最もポップな創りに
聴こえますが、イントロからして既にフツウではありません。後半のドラミングが圧巻ですが、本曲は
以前から参加しているジェリー・マロッタです。やはりジェリーに対してもピーターはシンバル類を
セッティングしない事を要求し、そうしてこのプレイが生まれました。普通であればシンバルの
クラッシュ音( ” シャーン ” という音)が鳴る展開の変わり目などでそれが聴こえないと違和感があるかと
思いますが、それが全くありません。フィルのプレイにおいても同様ですが、この力強い ” タイコ ” の音で
十分に成立しています。勿論全てでシンバルが必要無いなどと言うつもりはありませんよ。
良いシンバルはその音色を聴いているだけでウットリします。

ジェネシス及びピーター・ガブリエルの作品を英本国でリリースしていたのはカリスマレーベルです。
創業者であるトニー・ストラットン・スミスは先見の明を持った人物で、69年の創設時から先進的な
ミュージシャンを見出してきました(今回調べていて初めて知ったのですが、84年に衝撃のデビューを
飾ったジュリアン・レノン〔ジョン・レノンの長男〕も同レーベルでした)。80年代前半に
ヴァージンレコード傘下に入りますが、後に世界的なレコード会社となるヴァージンも、創世記は
独創的な音楽を目指すミュージシャンを発掘しており、第一号作品はマイク・オールドフィールドによる
「Tubular Bells(チューブラー・ベルズ)」という、アルバムを通して交響曲の様にただ一曲のみ、
しかも全編インストゥルメンタルという無謀 … もとい、画期的なアルバムをリリースしました。
映画『エクソシスト』で無断使用され、結果的にはそれが災い転じて福と成すとなって大ヒットしました。
カリスマもヴァージンも共にアンテナの鋭い企業風土だったからこその合併だったのでしょう。

「Lead a Normal Life」は親が我が子大して普通の生活を送って欲しいと願う思いを、
体制に従う陳腐なものと皮肉る様な内容(だったと思う・・・)。

本作は当然の如く賛否両論を巻き起こしました。賛の方はローリングストーンズ誌において、” 得体の
知れない恐怖感からくる刺激的なLP ” と評価。またニューミュージカルエクスプレス誌(NME誌)では
” これで80年代の音楽の種はまかれた・・・ロックに少しでも関心のある人は是非心にとどめておくべき
作品である ” とその革新的な作風を賞賛しています。一方で同じNME誌でも別の記者によっては
” アートとしては底が浅い ” などと否定されており、感じ方は人それぞれであった様です。
ピーターはこれに対して傷つきそして憤慨し、NME誌へはチケット、プレス情報、そしてレコードも
一切送らないという仕返しをしたそうです。87年に経営陣が入れ替わる迄それは続いたとか・・・

エンディングナンバー「Biko」は反アパルトヘイト活動家であったスティーヴ・ビコの死を悼んだ曲。
私は詳しくないのでアパルトヘイトやビコについて知りたい人は各自でググってください。

本作から方向性が変わり、その後におけるピーターの音楽の一里塚となったのは衆目の一致する所。
しかし私は根っこの部分では少しも変わっていないのだと信じています。ジェネシス時代から
幻想・怪奇・狂気といったものをエンターテインメント音楽としてどう表現するかが彼の目指す所だったと
思います。本作では表面上の表現手段こそ変化したものの、その根幹は揺らいでいません。
およそポップミュージックとして扱うテーマとしては商業的に成り立たないと思われるものを、
本作やトーキング・ヘッズの「リメイン・イン・ライト」(#88ご参照)などは見事に昇華せしめました。
70年代の複雑化したロックやスタジアムロックなどと言われる商業主義に走ったとされる音楽(これに関しては何度も書いてますが決して悪い事ではないと思っています。なにせ商業音楽なんですからね)、
それらに対する反動がアフリカン、リズム革命、そして当時最先端であった機材及び録音技術等を用い
ここに華開いたのです。
前回も書きましたが、あと三年早かったならピーターにしろヘッズにしろ成功していなかったでしょう。
勿論この下地にはパンク~ニューウェイヴといったアンテナの鋭い人達による音楽が先ずあって、
70年代のロック・ポップスに飽き足らないと感じたリスナー達へ見事に響いた事は言うまでもありません。

#155 I Don’t Remember

私は筋金入りのピーター・ガブリエルフリークであるからして言う資格があると思いますが
(何の資格だ?)、この人は精神を病んでいます。しかも幼少の頃から・・・・・

彼は子供の頃、夜トイレに起きると廊下で奇妙な人物が頭のぱっくり割れた赤ん坊を差し出してきたと
語っています。不思議と怖くはなかったそうですが、これが大人の気を引くための嘘であるなら
前回述べたサービス精神(?)であり、本当に見えていたのなら何らかの精神疾患でしょう。
80年発表の3rdアルバム「Peter Gabriel」のジャケットをご覧になればおわかりの通り、
やはりこの人はどうかしています。ちなみに娘はこのジャケットを怖がったのであまり
見せないようにしたとか(当たり前だ … )。
上は本作のオープニング曲「Intruder(侵入者)」。売ることを目的に創ったとは思えません。
不安を煽るようなフレーズ、ワイアーか何かを引っ掻いているような人を不快にさせる音、
そしてとどめのピーターによるヴォーカル。一曲目からいきなりこれです・・・・・

79年の初頭からピーターは本作の準備に取り掛かりました。トーキング・ヘッズ回 #89
本曲を取り上げましたが、80年代に入ってから ” リズム ” が大いに見直されました。
おそらくは70年代に複雑化し過ぎた事への反動なのだと思いますが、流行り廃りというものは
極端から極端へとブレる様です。ピーターはそれまでのキーボードでコードパターンを基に
曲を作るという手法から、当時最新鋭であったリズムマシンを用いるようになりました。
先ずリズムありき、という制作手法に変わっていったのです。
ドラムはフィル・コリンズ。#89でも少し触れた事ですが、ピーターはシンバル類を
取っ払うことを要求し、面食らったフィルでしたがその指示通りにプレイします。
スタジオではプロデューサーとエンジニアが従来にはない試みを行っていました。
ゲートコンプレッサーという最先端の装置をドラムの音にかけて色々いじくっていたのですが、
そうしているうちにキック(ベースドラム)の音がシューと伸びて、次のキックの直前まで
残るというそれ迄に聴いた事がない様な効果を挙げました。これを聴いたピーターは興奮し、
フィルにそのまま五分間プレイしてくれと言いました。それが「侵入者」のドラムパターンです。
後にこの手法はゲートリバーブとして80年代のドラムサウンドを変えるテクニックとなります。
そのエンジニアはヒュー・パジャム。ゲートリバーブをフィルと共に創った功労者として
世間にその名を知られます。実はこのサウンドの開発について、ピーターとフィルの間では
少しもやもやした感情があるようです。どちらもこれを生み出したのは自分だとの自負があるのです。
先に本作で世に出したのはピーターでしたが、爆発的ヒットによって世界的に認知されたのは
勿論フィルの初ソロアルバム「夜の囁き」(81年)です。ピーターは3rdでのドラムサウンドについて、
人からフィルの(ソロアルバムの)音に似ているね、などと言われる事に気を悪くしたそうであり、
またフィルの方もピーターのサウンドをパクったなどといわれのない中傷を受けたとの事。
双方ともあのサウンドを生み出したのは自分だと(フィルはパジャムと共に)プライドがある様です。
それにしてもフィルのタムタムの音は素晴らし過ぎます。同時期におけるジェネシスの「Duke」も
同様ですが(#24ご参照)、裏面のドラムヘッドを外した所謂シングルヘッドタムによる力強い音色には
圧倒されます。この音は前述した「夜の囁き」の大ヒットにより、フィル・コリンズの音として
世の中に認知されます。

そしてプロデューサーはスティーヴ・リリーホワイト。この後U2のプロデュースにて
一躍その名を世界に轟かす事となる人物ですが、当時はまだ新進気鋭の駆け出しプロデューサーでした。
スージー・アンド・ザ・バンシーズを聴き、ピーターはスティーヴに興味を持ったそうです。
スティーヴからすれば ” あのジェネシスのピーター・ガブリエルが何故自分に? ” と思ったそうですが。
トーキング・ヘッズ回の辺りでニューウェイヴについては何回かに渡り触れましたけれども、
この時期ロンドンやN.Y. のミュージックシーン、とりわけアンテナの鋭い層では新しい試みが
行われていた様です。ピーターはそれらの動きに敏感でした。この若きプロデューサーに光るものを
見出したのです。
上は次曲の序章に当たる「Start」。英サックス奏者ディック・モリシーのプレイが素晴らしい。

今回のテーマである「I Don’t Remember(記憶喪失)」。本作ではこの一曲のみの参加である
トニー・レヴィンのスティック(ベース)が耳を引きます。「Start」のエンディングで聴こえる
音色は当時最新鋭であったデジタルシンセサイザー フェアライトCMIですが、これをピーターは
積極的に使用しました。余談ですけれども、80年頃このシンセは日本では三台しかなかったとの事。
一台は坂本龍一さん、もう一台は?、そして三台目は東京のとあるスタジオにあったのですが、
たまたまそこでアニメ『うる星やつら』の音楽をレコーディングする為に使用した星勝さんが
本機を見て、これを使おうと判断したとか。うる星やつらはSFなので、近未来的な音色が
マッチしたのでしょう。オッサン世代にはドンピシャリですが今の人にははたして …

「Family Snapshot」はアラバマ州知事を暗殺しようとした男の自伝を読みインスパイアされて
作った曲。暗殺者の視点から書いた歌詞でありますが、楽曲自体は起伏に富んだもので
本作では聴きやすい方です。銃を放った後、
最後に子供時代に戻るパートが何とも言えず侘しい。
https://youtu.be/qDHpbZ_0n6E
A面ラストの「And Through the Wire」は電話線を通じて世界と繋がる、の様な事を
歌っていたと思います。これも本作としてはポップな曲調。ちなみにポール・ウェラーが
ギターで参加していますが、たまたま同じスタジオでレコーディングしていた所を、
ピーターが弾いてくれないかと頼み、そうしてみたらピーターのイメージにピッタリだったので
一発採用だったとか。パンクやニューウェイヴといった若いミュージシャンによる音楽に
理解があったピーターならではの事です。

本作はピーターにとって、と言うよりもポップミュージック全体において重要な作品であるからして、
二回に分けます。ただ先に事実だけを述べておきますと、米アトランティックは本作のデモを聴いて
こう言いました、” ピーターがまともになったら次のアルバムを出そう … ” 、と。
アトランティックの言い分も無下に否定は出来ません。ポップス界において売るという事は
至上命題であります。ミュージシャンだけではなく、それに関わる現場のスタッフや間接部門の
人間たちを食べさせていかなければならないのですから。ミュージシャンの良く言えば実験的精神、
悪く言えばオ〇ニーに付き合ってはいられないという考えも道理です。
結果的にアトランティックとは決別し、米ではマーキュリーからリリースすることとなります。
そしてそれは周囲の(悪い意味での)期待を裏切り米で25万枚(最終的にはゴールドディスクを獲得)を
売り上げ、英及び仏では初のNo.1を記録します。
あと三年リリースが早かったら本作は埋もれていたでしょう。ポップミュージックの時代が
変革期を迎えており、このお世辞にもコマーシャルとはとても言えない作品が世に認められたのです。